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「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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シュールストロミング解禁
シュールストロミングが解禁になったというので
友人にお願いして、取り寄せてもらいました。
シュールストロミング解禁_c0045997_1221832.jpg


シュールストロミングはスウェーデンの発酵食品です。
バラエティ番組などで一度は目にしたことがあるのではないかと思うのですが
北欧が生んだ世界一臭いと誉れ高き発酵食品。

一口に言えば「発酵ニシン缶詰」なのですが
発酵か腐敗かは人間の判断によるもので
何が発酵か腐敗かと言われれば
人間に害をなすものが腐敗
益なものが発酵というわけですが
その価値判断も曖昧なもので
簡単に言えば、シュールストロミングの場合は
多くの人が腐敗と断言してはばからないシロモノ。

中には「絶対嫌気性好塩性微生物」が住んでいて
こいつが密閉された缶の中で塩辛いニシンをエサにして
ガスを吐き出し缶詰をパンパンに膨らまします。

そういうわけで缶きりで穴を開けますとお汁がブシュと噴出して
あたり一面に純粋に魚の腐った匂いが充満します。
苦手な人はこの時点で鼻を押さえ
ある人は吐き気を催して退散します。
中は、まだ発酵が進んでいるようで泡がぶくぶくと発しています。

そしてこのせいで日本での流通はおろか輸入が難しのです。
発酵が進むと缶が爆発する危険性があるというのです・・・。
輸入も船便に限るために、お値段は高めです。(5000円)

注意書きには

「におい」が強烈です。
河川敷、広い場所なので開封して下さい。
大勢の人のいるところでは絶対に開封しないで下さい。
化学兵器と誤解されて騒動になる恐れがあります。
必ず戸外の人のいないところで開缶してください。


と物騒なことが書いてあります。
僕は船底で爆発したシュールストロミングを想像してニヤニヤしてしまいますが、
そんな愉快な事件は起こったことないのでしょうか?

このシュールストロミング。
自分ひとりで食べるのはもったいないので会社で開封しました。
(思いっきり約束違反しました)
そんなことをしたら、数週間は匂いが取れないことは予想されるのですが
ちょうど会社のお引越し(ビルの取り壊し)があったので
この日を待ち続けていました。
「さよなら愛するオフィス」ということで、ぶちまけてきました。
引越し業者の人はびっくりするだろうな。
隣が消防署なので、変な騒ぎにならなければいいけれど。

前の会社ではドリアンを皆に試食させ、隣のオフィスの人が
ガス漏れが何かと勘違いして異臭騒ぎになったことがありました。
なにをしているのかというお叱りもあるかと思うのですが
食の冒険家としては、仲間がほしいのです。
つまりさびしいんです。
家では疎ましがられ、外で食べろと言われ
友達を誘っても断られ
残るは上司と部下という立場を悪用し
強制的に食べさせるしかないのです。
「こんな経験できないよ。まあ話の種に食べてみなさい」と。

まあ、今回も同じ手口です。
(タイミングよく社長がいなかったので
社長の机の上にあるプリントにお汁を塗っておきました。)

10名ほど試食したのですが
案のじょうというか、あまり評判はよくありませんでした。
せまいオフィスで缶詰を中心に大きな輪ができました。
しかし、それを美味しいと思う僕にとっては
香りもかぐわしいく食欲をそそるものに思われます。
匂いを受け付けない人にとっては単なる塩辛い食べ物なのかもしれませんが
人間の味覚には5つの要素しかないわけで
数万通りの香りを分別することができ嗅覚は味わいの大部分をしめるわけです。
つまり、シュールストロミングの複雑な美味しさを理解することができるのは
この匂いを愛した者にだけ許された特権なのです。

少し言い訳しますが
焼きソバが好きな人にとってはあの匂いがなんとも言えず食欲をそそるのですが
嫌いな人にとっては相当、強烈でNGな匂いなのだそうです。
シュールストレミングも同じだと言いたいのです。
業務も終了し、引越し準備完了後なので、そんなに罪はないでしょ?
言い訳ですけどね。


その味は言葉だけで説明してもネガティブなイメージが主流です。
匂いを例えるなら、ドブとか生ゴミという言葉が多用されますが
触感はナメクジで、味は塩のカタマリ。その後に口の中に
生ゴミを放りこまれたようだ、と言っている人がいました。
魚が嫌いな人にとってどの魚も同じように感じられるのと同様
嫌いな人に発酵と腐敗の線引きをするのは困難です。
発酵を愛する者にとっては発酵と腐敗の間には実にカラフルな
グラデーションが存在するのです。

時に腐敗すらも魅力的に感じられるようになれば一流です。
僕は腐ったホワイトソースを冷蔵庫に発見し
その匂いがあまりにも魅力的だったので
一口舐めてお腹を下したことがあります。

発酵食を愛する者にとって
腐敗や発酵をもたらす菌の仕業、
それらが作り出す無限の香りはマジックであり
世界に新しい色を発見するほど刺激的なのです。
それは単に腐敗、発酵と切り分けることができない
可能性を持っています。
そして、これまで我々の祖先は腐敗であろうが
発酵であろうが、冒険したはずなのです。
惨敗した人たちもいるだろう。
小さな成功を大きな成果に発展させた人たちもいる。
そして、我々の素晴らしい食文化は彼ら偉人たちの
上に築かれています。

熱くなっておりますが。
とにかく美味いのです。
神秘です。
それがもし美味いと感じたら、
それは代替のきかないなにかです。
ずっと匂いを嗅いでいたいです。

ただし、食べている間は。。。ね。
納豆でも、くさやでも
食欲を満たした後、翌日は
その匂いに鬱々をしますよね。。。
今、僕は爪の間に残る匂いに
オナニーをしすぎた後の後悔にも似た
憂鬱を感じています。


半分残ったので
タッパーに入れて自宅に持ち帰りました。
子供に食べさせるつもりです。
喜んでくれるでしょうか。
(くさやは好物です。)

それから、お汁を寒天のシャーレーに入れて
菌を培養して自前のデジタル顕微鏡で調べたいと思います。
(もし、いい状態で見れたら、子供も喜んでくれると思います)

「人間は、ほら、顕微鏡なんかない時代から
目ではみえないこんな小さな菌類も手懐けて、
美味しい食べ物をつくっているんだよ、かわいいだろ」

こんなふうに言ってあげられたらいいな。
# by radiodays_coma13 | 2009-11-28 01:22 | 食べる事と飲む事
「ガマの油」の謎
子供には本当にいろいろの可能性があり
その可能性を活かすも殺すも親次第でありますね。
その子の可能性をのばしてあげるいうのもお仕事ですが
まずは、その子の可能性に気付いてあげられるかが
一番難しいように思います。

もし、子供にお笑い芸人のセンスがあるとしても、
親としては是非ともスルーしたいわけでして
「ちんこビ~ム!只今、便器が困っております」
と子供がおしっこ垂らしながら渾身のギャクを繰り出しても
行く末を案じ、なかったことにしたくもなるわけです。

どんな才能もえり好みせずのばしてあげたいなと
おおらかな気持ちで子供が好むものを見つめているのですが
最近、うちの子供が「落語」にハマっている。
キッカケは絵本でみせた「寿限無」
痛く気に入ったようで、何度も読めとせがむので
他にもいろんな落語の絵本を見せたところ
意味がわかっているのかいないのか大笑いして
何度でも繰り返し読め読めとうるさいのです。

気が付いたら一人遊びの折になにやらぶつぶつ一人ごとを
言っているようなので耳をすますと
「まんじゅうこわいこわい、唐まんじゅうが一番こわ~い」とか
「そこにべちょたれ雑炊が炊いてありますんで、おあがりください」とか
どうやら落語の一節を暗唱している。
しかも、よく聞くと頭からしまいまで演じている。

普段から人を笑わせるのが好きな息子ゆえに
落語で関西人の血が目覚めたのだろうか。
先日、図書館でどっさり落語の絵本やらCDを借りこんでまいりました。

落語では笑えないという人が多いのですが
落語は笑えます。
「七度狐」や「金明竹」などヘタなコントより面白いです。
落語で笑った経験がないと友人に言われることが多いのですが
そういう人はよい落語と出会っていないか
面白くないという先入観
それから笑いの種類を限定しているからではないかと思います。

今、TVでの笑いはシュールだったり不条理だったり
発作的で病的な笑いが多いように思います。
それも現代の精神の反映かと思いますが
笑いにもいろいろあります。
TVの笑いがみぞおちにくる笑いなら、
ヘソや胃袋、上腕二等筋にくる笑いや
じわじわ来る笑いもあるのです。
落語には実に様々な笑いの要素があります。
それは例えばマッサージのようなものだと思います。

笑えないという状態はなにかが滞っていると言っても差し支えないと思っています。

そのことはさておいて
ウチの子は上方落語、こと米朝や枝雀が好みのようです。
(僕は圓生の完全な落語が好きだったのですが、
最近は志ん生や上方では松鶴などの
破天荒なゆるさが好きになってきました。歳でしょうか)
子供と松鶴か米朝かと言い合いになるのですが
結局は「べいちょうにしよ、ね?」と言い負かされてしまう。

で、本当に三歳の子供に意味が分かっているかというと疑問ですが
やはり面白さの大きな部分としてはリズムが重要だということです。
落語でも奥さんが読むと子供は嫌がるようです。(ざまあみろ)
上方になると、関西弁の素養がないと到底無理ですわな。
子供はどうやら、その関西弁も気に入っているようで
最近「なにさらしてけつかんじゃ」とか「なんだんねん?」とか
えげつない関西弁を使うことがある。(それも考え物である)
それでも、意外に理解しているということは言える。
その証拠に笑いのツボできちんと笑えるし
分からない言葉はちゃんと訊いてくるのである。

で、最近困っているのが「ガマの油」
「ガマの油」という落語がこれまた、サイコーに面白い。
「さあさあ、お立会い!」という口上は誰でも知るところですが
それを酔っ払いのおっさんが始めてしっちゃかめっちゃかになるというお話し。
その中の言葉で子供に質問されて非常に困っている一文がある
「てれめんてえかにまんていか」という意味不明の言葉。
ガマの油の作り方を言及するシーンで登場する

「たらーり、たらりんと油汗をながす。これを下の金網にてすきとり
柳の小枝をもって、三七二十一日のあいだ、
とろーり、とろりと煮つめたるがこのがまの油だ。
赤いは辰砂椰子の油、てれめんてえかにまんてえか」


とうたわれるのですが
「てれめんてえかにまんていか」
これってなんでしょう?
情報求ム。
# by radiodays_coma13 | 2009-11-26 01:52 | 言葉について
批判について 傾向と対策
最近、youtubeやニコニコ動画などで
自称クリエイターの人々の作品が並んでいる。
その完成度やオリジナリティーには感服する。

そこには色々なユーザーの書き込みがされていて
賞賛や批判が渦巻いている。
その中で気になる種類の書き込みが
最近、増えてきたような気がする。

それは
「批評する人が上から目線でウザイ」とか
「自分で作れないのにクダナライとか言うな」とか
「技術的に未完成とはお前は何様だ」とか

何様ってお客様じゃないだろうか。
その種の書き込みを作り手側の人が
発していないことをただ願います。

なぜ、批判してはいけないのだろうか。
少なくとも大切な時間をそこに割いてくれたのだから
立派なお客様だ。
「絶対観るな!」と書いてあれば話しは別かもしれないけどね。

批判したことで作り手が育たないなんてことはありえない。
作り手を保護してはならない。
むしろ、作り手は時代の矢面に立っていただきたい。
いくら命を狙われようと、作り手は作る。
その時代に本当に必要なものは誰かが作る。

ワイキキのビーチで美女に囲まれて遊び呆ける
成金の息子の交響曲を多くの人が望むだろうか?

もし作曲家ショスタコービッチが国家から認められたら
戦争で命の危険にさらされなかったら
あの素晴らしい交響曲はかけただろうか。

「もし」はない。
けれど、結果的に戦争を超え
閉鎖された冷戦下のソビエトで
国家の批判にさらされたショスタコービッチは
現代人に共感しえる同時代的な作品を書いた。

「自分が作れないくせに」批判するなという意見がある。
「なにも知らないくせに」とでも言いたいのだろうか。
じゃあ、誰がその作品を買ってくれるのか。
企業がそれに対価を支払ったとしても
最終的にそれを選ぶのは
「なにも知らない」はずのエンドユーザーなのだ。

全員がいっぱしの批評家気取りでもいいじゃないか、と思う。
それはとても幸せな環境だ。
昔はものつくりになるためにはパトロンの存在が不可欠だった。
僕だって口八丁で企業を説得し、ものつくりになった。
しかし、今は全てのユーザーに門は開かれ。
ユーザーの直接的な力で「ものつくり」が生まれるような仕組みもできている。
なんて、幸せなんだろう。

「なんて幸せなんだろう。」
しかし、その幸せはこれからモノツクリをはじめる人々にとっての幸せ。
現在、ものつくりの権威にある人々は戦々恐々としているはずです。
そこでは本当の実力が問われるからです。

売れるものつくりと売れないものつくりの違いには
流れという運が大きく左右することはハッキリしている。
ある程度の実力があれば、あとは流れに乗れるか乗れないか。
同じ程度の実力をもった人間はたくさんいる。
芸能人も同じことだと思う。
すさまじい実力を持ち
自らプロと名乗ることもなくニコニコ動画などで
発表している猛者の人々。
「かなわないなぁ」と正直思う。

たいして実力のない自分が、なりたかった、ものつくりの職業についている
これは幸運でしかない。
もし、立場が逆転していたら、多くの人がもっと良いものをつくるだろう
そう思う。

経験値なんて誰にでも身に付くものくらいしか盾にはなってくれない。

「表現者」という職業。
それを引き受けたのだから。
それでお金をもらっているのだから
クソだといわれたら
それを真摯に受け止めなければならない。
その人にとってはクソだったという事実がある。

それでも我々は食べていかなければならない。
その批評を超えていかなければならない。
そういう職業なのだから。
むしろまともな批判さえされないもののほうが悲しい。
批判されないよりかはクソの方がマシだ。

もし、飲食店を営んでいるのであれば
もっと話しはシンプルだ。
マズイなんていわれなくても
次から来てもらえない。
それだけのことだ。
そこには批評もなにもない。
そして、店は潰れる。
何かしらの価値がなければ見放されるだけだ。
父がサービス業だったのでよくわかる。

それに比べたら芸術家は幸せだ。
「これは芸術です!」といえば半分くらいの人は
「そういうものかぁ」と納得してくれる。
サービス業だとそうは行かない。

例えばボランティアなら
対価として「感謝の言葉」でも欲しいところかもしれない。
しかし、少なくともそれで対価を得ているのであれば
もしくは、プロを目指しているのであれば
感謝の言葉など必要ない。
「同情するなら金をくれ」なのだ。
ものつくりはボランティアではない。


表現者という意味では芸能人も同じことだろう。
芸能人が自分のネットの悪口を批判したりする。
最低だと言いたい。
お前は芸能人だろう?と言いたい。
それが引き受けられないならやめちまえ。
誰とは言わないがそんなプライドもないのだろうか。
噂が彼らをつぶすこともあるだろうが
一方で、今、彼らが生活できているのは
良い噂のおかげでもある。
悪い噂を否定して、良い噂だけを受け入れるなんてムシが良すぎる。


「やっぱり良いものは世に出る」なんて夢物語は信用できない。
すべてはタイミング。
良いものが必ず世にでるなら、孔子は世界の王になっていたに違いない。
ゴッホの時代にはゴッホになれなかったたくさんの不遇のゴッホたちがいる。
不遇の表現者たちを救うのは
多くの人の温かい、そして辛辣な批判でしかない。

そして、僕は自分の関わったコンテンツの
たったひとつの賞賛を探しにネットを放浪します。
そして、どぎつい批判の嵐の中にある
「おもしろい」という言葉少ない感想に涙することもあります。
その人に会って、もしできることなら抱きしめたい。
そして批判をしてくれたユーザーには
大切な時間を割いてくれたことへの感謝と謝罪の気持ちでいっぱいになります。

「こんどはきっとたのしませるからね」
# by radiodays_coma13 | 2009-11-19 01:55 | 考える
最後の交響曲 アラン・ペッテション
音楽熱が再発し
昔のCDを引きづり出す毎日。

今からする知ったような話しは
ちょっとした一音楽ファンが
ちょっとここらで通ぶったって
バチは当たらないでしょうという具合の
ちょっと知ったような話しです。

21世紀になってもうねぇ
クラシック音楽は終わっちゃたわねぇ。
ジョン・ケージが「4分33秒」という曲で
沈黙を奏でてからクラシックは終焉しただなんて
言われているらしいけど
もっと以前
あたしにとっては「ショスタコービッチ」を持って
クラシックは終焉したわけ。
というのもあたくしにとって
クラシック=シンフォニー(交響曲)であって
ショスタコービッチは最後の交響曲作曲家なのね。

もちろんそれ以後にも交響曲はありましたよ。
でも、正確な意味でのオーケストレーションではなく
すでに脱構築が始まっており、本来の意味を失っていた。
そういえると思いますのよ。

でもねぇ、いたんですよ。
もっと後、最後の交響曲をかいた人が。
それがね、今日の主役のスウェーデンの作曲家
アラン・ペッテション(1911~1980)
なんですの。
最後の交響曲 アラン・ペッテション_c0045997_22362963.jpg


あまり聴きなれない作曲家の類ではないかと思います。
日本ではまだ、そんなに多くのCDを手に入れられるわけではないようです。

20年ほど前にも熱心にクラシックを聴いていた時期がある。
それは加熱し、古楽に始まり、時系列で超現代な音楽まで食指は及んだ。
手に入らないものは輸入CDで手にいれました。
今では名前も残っていないような作曲家のCDもあった。
その輸入盤の中にペッテションがいた。
あまり印象に残っていなかったのだけど
当時は気に入っていたのか数枚のCDを手に入れていた。

しかし、最近になって何気なく聴いたペッテションに衝撃を受けました。
久しぶりに音楽で雷に打たれたような気持ちがした。
あわてて全集を輸入版で購入。
最後の交響曲 アラン・ペッテション_c0045997_2236497.jpg


こんなにも独自の美しさをもった音楽はないと思う。
1980年代まで生きたので、ほぼ現代にこのような音楽を
描き得たのは奇跡にも値する。

その音楽はひとくちに言うと
「絶望の音楽」である。
絶望と言っても生半可なものではない。
怨念や殺意や絶望が渦巻き
すすり泣きや怒声、叫び、嘆きが音になって
延々と間断なく1時間続くようなシロモノです。

クラシックに慣れていない人には暗い暗い辛い音楽
聴きなれた人、聴こうという意欲を見せる人にとっては
体力を奪われる苦行でしかないような音楽。
そんな風に言われることのある音楽です。

その音楽は灼熱の苦痛と凍りつくような人間の孤独に満たされています。
しかし、その合間にほんのかすかに吹く、すずやかな希望の匂いというか
祈りのような美しい旋律には涙せずにはおれません。
そして、その祈りを頼りに音楽と一緒にその灼熱と絶対零度の中に
ダイブし苦痛を突き抜ける時、全ての音が美へと昇華してゆく
そんな感覚に陥るのです。

では、なぜ、ペッテションはそのような怨念に満ち溢れた苦痛の音楽
特に交響曲を破棄や未完を合わせて17曲も描いたのでしょう。
交響曲を17曲は作曲家として異例の多さです。
交響曲9曲は人間の壁と言われています。
それほど精神や体力を必要としたものなのです。
それを17曲!

彼は北欧の地に生まれ、極度の貧困の中、飲んだくれの父に虐待を受けつづけ
母は暴力に無抵抗を貫き宗教に逃避
しかし、そんな母が時折歌う賛美歌の美しさが
ペッテションの音楽の基盤を作ったといわれています。
彼はなぜか唐突に音楽を志し、父の反対を押し切り
苦学のすえ、ヴィオラ奏者になるのですが
やっと掴んだ、オーケストラ奏者の座も突然の病に襲われ
継続不可能となります。そこからは本格的に作曲家を目指すのですが
絶望的な痛みと精神的苦痛に苛まれ、自らペンを持つことすらできなくなります。
しかし、執念で曲を書き続け、やっと世間から認められ始めた頃には
癌や様々な病が彼を襲い更なる苦痛を強いられる。
とにかく苦痛にまみれた一生だったわけです。

しかし、そんな人でも幸せを志向することができるはずなのですが
彼の凄みは一切の幸せを自ら否定したということです。
彼のメッセージは
「人間は救われてはいけない、人間は常に戦わなくてはならない」であり
彼の人生や、メッセージは音を通じてひしひし、びしびし、ばりばり伝わってきます。

ともかくどんなにすごいかというのを
そのなかのひとつを例にとって形容してみます。

呪詛の言葉で幕開け、七転八倒痛みでのたうちまわり、怒り狂い
息切れし、それでも、永遠に続くのではないかと不安になるような
呪詛の言葉を延々と主題として履き続ける。
声をからし、涙も枯れ果てると、それはすすり泣きに変り
ため息と嘆き、やがて疲れてうとうと眠ろうとする。
が、突然、激しい痛みが再燃する。痛みをおさえつけようと
何者かへの殺意でもって激しくなにかに当たる。
あたり散らかす。とにかくあたり散らかす。
そこに、痛みに屈服する不安、孤独への不安が暗雲のように垂れ込める。
しかし、唐突に、厚い雲間から一条の光りが差す。
照らし出された場に今にも消え入りそうなほのかな希望が宿る。
ああ、このまま終わってくれればいいのに!と
思うのも束の間、全てをオジャンにするような発作的な怒りで
手に入れた希望をビリビリに破りすててしまう。
そして、その暗雲の中、深遠な孤独に震える。とにかく寒い。
風に鞭打ちうたれ皮膚が破れる。
傷む傷口のまま、よせばいいのに今度は凍りつく海にダイブ。
更なる闇の深みへ降りてゆく、闇の正体へ果敢に戦いを挑む。
しかし、あえなくひねりつぶされ、絞りだすような呪詛の主旋律を叫ぶ。
力尽きたような嘆き節が続き、もう何も残っていないと思っていたのに
なぜか、いきなり希望の音楽!やったついに救いがやってきたのか!
と思いきや、彼は不適な笑いを浮かべながら地獄の業火の中に再び飛び込んでいく
「俺はしなんぞー!死んでも死んでやるものかっ!
奏でてやる!戦い続けてやる!みていろよ!」
絶叫し、そして終焉。

とこんな感じです。
どのシンフォニーも同じような構成です。

彼はいつも音楽の中で言っています。
「痛みから目をそらすな!」それも聴衆の両方の頬を掴み
顔を3cmのところに近づけて言うのです。
とにかくマッチョです。

しかし、決してその音楽は不快ではありません。
いわゆる現代音楽と一線を画します。
不協和音ですら、美しいです。

苦痛を突き抜けた先に彼は何があるのかを知っていたのかもしれません。
それは彼の音楽から察するに救いでないことは確かなようですが
生きることの意味なのかもしれません。
その先にあるものは確かに美しく、輝いていることは確かです。
そこで彼は、人間賛歌を歌っていたのかもしれません。
彼の怒りや恨みの先には、なぜか愛を感じてしまうのです。
それは日本の宗教観において、たたりが転じて神になりえるような
境地なのかもしれません。

絶望に耐え抜く強さを求め
それに耐えたものには、何ものにも代えがたい体験を与えてくれるでしょう。
そして、それは確実に生きる力を与えてくれる体験に違いありません。
ただ、時々、その深みに到達する寸前で、焼き尽くされる時があります。
体力と精神力を奪われ、疲弊し、落ち込みます。
ブルーになります。
そんな時は「ああ、やっちゃったぁ」とCDを途中で止めるしかないのです。

でも、比較的、最初から落ち込んでいるときは深みに到達しやすいようです。

とにかく興味の出た人は聴いてみてください。
でも、多くの人が、聴かなきゃよかった音楽と言っているくらいですから
要注意です。
でも、一度、その音楽を聴いてしまえば、聴かなかった自分には
もう戻れなくなります。
僕は20年前に聴いて、そしてまたペッテションに戻ってきました。
まさに20年殺し。
ペッテションの音楽はそんな音楽です。

(ニコニコ動画で「ペッテション」で検索すると比較的多くアップされているようです)
# by radiodays_coma13 | 2009-11-14 22:37 | 音楽について
絵本をよむこと
人前で「表現」をしなくなった。

回想
昔は表現したかったなぁ
もうなにかあったら、表現表現って
だめ、こんなところで・・・
いいじゃん、ここで表現しよ
ってもう付き合いたてのカップルみたいにね。

そして恋が終わったように
人前で表現をするのが恥ずかしくなった。

「表現しているようでは表現者とはいえないね」

弓矢を使うようでは本当の弓矢の名人ではないという
故事「名人伝」にあるような気持ち・・・
・・・ちょっと良く言い過ぎた。

多分、表現しようとしていたときは表現することを探していたんだと思う。
でも、よく考えてみると表現するようなことは何もなかった・・・。

表現することを生業にして
それは衝動から日々の睡眠のように
安らかで当然なものになった。
それはあえてするものではないのですね。

で、絵本の話し。
唐突。
なぜ、「表現」をしなくなったかという経緯についての二~三の事柄。

「沐浴」に続いて、「絵本を読むこと」は父親の仕事ではないかと思うこの頃。
言葉は多分に社会的なもの。
母親が子供にとって個人的な存在であるなら
父親は子供にとって社会への入り口を担う存在であると思える。
つまり、初めての外部なのである。
母は子供の内部にある。他者ではない。
でも父は他人。
そう、「父は永遠に悲愴」(by 朔太郎)である。

言葉は他者と交信するための窓になる。
その窓を個の世界にぶち抜いて、風通しをよくしてあげるのは
父親の役目ではないかという理屈。

母親の乳が母親にしか与えられない子供にとってのマナならば
父親の言葉は父親が子供に与えられる唯一の乳のようなもの。
それをたっぷり授乳したかどうかで子供の発育は大きく左右される。
母の乳は肉体、父の乳は精神。

その言葉の乳を絶対にTVに代用させてはいけない。
それだけはいけない。
危険、そう、危険です。これだけは言える。
僕は教育の専門家ではないけれど
「言葉と文化」については一応、講義もしていたのでなんとなく詳しい(ハズ)。
言葉を覚えさせる為に、TVを利用する人がいるようなのですが
TVの言葉は一方通行でしかなく、子供にとっての言葉とは言えない。
幼児期にTVを長時間観せた子供が暴力的になるという研究結果もあります。
つまり、それほど、子供にとっての言葉は重要なんです。

たくさん、大人の言葉で話しかけるというのもよいと思うのですが
絵本は子供と言葉でコミュニケーションするための格好のメニューですね。
僕の夢は(夢じゃないけど)子供のためのデジタル絵本をつくることです。
ここは重要なのでもう一度いいます。
「子供のためのデジタル絵本をつくる」
TV批判をしておきながら、何故デジタルかというと
まさにデジタルが怖い存在だからです。
事故もたくさん起こる。
でもいずれ子供はデジタルと遭遇することになる。
ならば、それを豊かなものとしてワクチン接種してあげたい。
社会の窓、父親として考えるわけです。

これはとても個人的な思いでもあるのですが
絵本は文字を読んじゃダメだと思っているんです。
読み手が読み手の言葉で話さなければダメ。
あえて、ダメという言葉を使わせていただきますが
絵本の醍醐味はいかに絵本から逸脱するかにあるんです。

どうするかという言うと
まず子供に読む前に一度、自分で読んで
それから、文字を見ずに自分の言葉で語ってゆく。
一度、やってみてもらえたら本望なんですが
子供の反応が俄然、変ってきます。
そして、自分の言葉なので、子供が質問してくる余地が生まれます。
そこが重要なんですね。
そしたら、子供を巻き込んで物語を発展させます。
子供に質問し返したり、物語の選択肢をあげるんです。
子供の想像力は原作を凌駕します。
これは驚きです。

桃太郎に恐竜が同行したり、
ライバルのリンゴ次郎がヘリコプターに乗って登場したりします。
最後には鬼と仲良く踊ります。

こうなったらもう絵本は閉じます。

そして、この絵本の読み方の醍醐味のもうひとつは
毎回、両者のコンディションで内容が変ることです。
何度読んでも飽きないし
毎回違う発見があります。
「桃太郎」はもう、何百回も読んだ気がします。
一大巨編になっています。

(でね、いつか、その、絵本から逸脱するための逸脱しやすい道具としての
デジタル絵本をつくります)

ここで話しを大きく引き戻します。
だから表現をしなくなったんです。

唐突

つまり表現をわざわざする必要がなくなった。
子供と一緒に本を読んでいるとそう感じる。

そして、表現することを職業にしてできた悪い癖。
・まずクライアントありき。
・売れるエッセンス(味の素)をふり掛ける。

あと、どうしても拭い去れない自己表現への欲求という問題。
どこかで自我や欲が出てしまう。

こんなものを子供に食べさせるわけにはいかない。
絵本を読んでいるとついつい表現しようとする自分がいる。
これは舞台に立っていた自分の本当に悪い癖だ。
これが一番の表現をしなくなった理由。

ただただ、物語にプラグインすればいい。
あとは、誰かが語ってくれる。
誰かとは伝説の神々ではなく、社会。
物語は昔から、とても社会的なものでした。
集団が車座になり、台本を持たずに語る。
物語はその場で立ち上がり、過去に生きた人々と交信される。
そして物語は人々がなにを感じどう生きるかを教えてくれる。
それは日々、変奏され、繰り返される。

物語を語るということは文字を持たない人々にとって
とても重要な生活の糧であり習慣でした。
でも、現代人にはこれと同義の習慣が欠落しているように思います。
私にはどうしても「自己表現」という行為がこれの貶められた形式のように思われます。
しかし、これ以上のものを私たち現代人が持たないのも確かです。
物語の世界は個人で冒険するにはあまりにも危険すぎるもののように思います。
本来、物語に著名はなく、共有され意味を見出すはずのものが
個人のエゴで満たされ、精神を傷つけるものになりかねない現状。

物語には日々の繰り返しを豊かにしてくれる力があるように思います。
この豊かな社会への窓を子供に与えるのは大人の義務のように思えてなりません。



でね、うちの子、言葉の発達が早いと幼稚園で驚かれました。
周囲でも評判です。
これもひとえに、絵本のおかげかもしれません。
なんだ、まわりまわって結局は自慢かよ!
というお話しでした。
おしまい。
# by radiodays_coma13 | 2009-11-11 11:25 | 言葉について