「ワッツママ」と
「ワッツパパ」という
指輪物語のようなケルト神話を題材とした
一大スペクタクル2部作映画がこの春、封切られるそうだ。
テーマは第一部は「母とはなにか?」
そして二部は「父とはなにか?」
なんじゃそりゃ。
後光を放つ女神のように美しい女性が険しい自然の中に立つポスター
鋼のような肉体を持つウォーリアーのような男性が魔物たちと対峙するポスター
リアリズムで細部がコントラストでギラギラと輝くようなその絵の中に
違和感のある丸ゴシック系のタイトル。
センス悪っ!。
でも、これは気になるぞ。
いや、これは観に行かなければ!
というところで初夢から目覚めた。
目を開けると曽祖父、曾祖母の写真が僕を見つめていた。
実家の仏壇の部屋は冷暖房が不十分で、
隙間風で凍えそうになり、何度も目が覚めるため、夢は細切れになる。
子供たちの毛布をかけなおすと、そのまま目が冴える。
隣の部屋からは老いた父、母の寝息が聞こえてくる。
ふと哲学が鎌首を持ち上げる。
家族とは何だろうか?
親戚の多い家系ゆえに、正月ともなると
毎年、多くの親戚がやってきて実ににぎやかだった。
祖母を中心として毎年100人近くもの人々がやってきた。
毎年毎年、いとこの誰それ、はとこの何ちゃんが
どうしたの、こうしたの、離婚しただの、再婚しただの
武勇伝やバカ話などが飽くことなく語られる。
しかし、僕はそれがわりと好きで
ちょこちょこと書き留めては採集していた。
そういう無駄話でも書き残すと色々と気が付くことがある。
話しにはいくつかの分類と型があり
縦糸と横糸に分けられる。
全く同じ話しでも、語り部や家系が変ると変奏され
親等が離れると主人公そのものがすり返られたり
代が変ると、話は大げさになり、伝説に近くなる。
3代もさかのぼると、それは神秘性を帯び
現実から遊離し、お伽話に繋がってゆく。
知り合いの曽祖父の祖父は鬼から逃げて別の村に住むようになったそうだ。
まさに昔話がつむがれる現場がそこにある。
そして昔話はやがて神話へと時間をかけて蒸留されるのかもしれない。
母を中心としたひとつの家族というユニット
それを大きくまとめる祖母という一族としての大きなユニット
それぞれのユニットの中にトリックスター(道化師)を演じる者がいて
王(権力者)がいて、僧侶(法律家)がいて、戦士(労働者)がいて
農民(被支配者)がいる。それぞれ、自分の役割を演じている。
僕の叔父は定まった仕事には就かず、飲んだくれ、小鳥のメジロを愛し
誰よりも素潜りが上手く、意地汚く、ユーモアがあり
いつもネズミ男のように問題を起し、とにかく嫌われ者だ。
しかし、子供たちからは誰よりも愛されている。
滑稽なのだが、トリックスターはトリックスターらしく
まるで、演じているようにしか思えないのだ。
ふと、思う。
彼がいなければ、この大きなユニットは支えを失い
自壊するのではないだろうか。
しかし、実際にはユニットは新たなトリックスターを生み出すだろう。
そして、逸話は場所を変え、家族を変え語り継がれる。
実際に僕は曽祖父の人格に置き換えられ類似点が挙げられる。
僕の幼少の頃のできごとは一人歩きをし、繰り返し語られ変奏され
いつもの間にか親戚中の誰もが知るところである。
しかし、その家族の物語を通じて、
僕は自分が大きな樹の一部であることの実感を持つことができる。
その枝を手繰っていくと、いつか、枝は大きな幹にたどり着き
そこでは、お伽の物語が息づき、この現実と地続きになっている。
神話に自らをプラグインすることができるのだ。
まさに戦士の姿をした自分が
物語の魔物たちと戦っている姿が見えてくるのだ。
それは大げさにしても、
物語は家族の中にありどう生きるべきかを示唆してくれる。
果たしてそれが現代にとって有効かいなか、それはさておき。
実は神話やお伽話とはそういう類のものであったはずだと思う。
誰かが創作により、ぽこっと取り出して語るものではなく
家族、一族に語り継がれ
もっと大きなユニットの中の生活と神話は深く関わっていた。
生活の必需品としての物語があった。
その中に暮らす者にとっては物語が示す知恵は
絶対であったに違いない。
絶対というよりもむしろ、物語はファミリーツリーを
脈々と流れる水のようなもの。つまり血そのものなのだ。
物語の中には家族の系譜がある。
そして、その血は血族として
自分達の子供に受け継がれる。
人はひとりひとり自由であるが
実は、この家族のストーリーは
多かれ少なかれ、聖火のように
リレーされ、意思として受け継がれるものではないかと思っている。
最近、そんな風に思うのだ。
反抗することに心血を注いだ父との関係であったが
歳を経て確実に父の意思を継いでいると感じられることがある。
僕は特定の宗教を信じないが
ゆるやかにどの宗教も受け入れている。
なににでも見境なく祈る。
ファミリーツリーの前では宗教のビビットさは色あせる。
世界の多くの宗教は
実はこのファミリーツリーの派生ではないかと思うことがある。
人は「人には規範は必要だ」と考えている。
だから寄る辺としての宗教のようなものが必要になる。
そして、僕にももちろん規範が必要だ。
宗教が生きるための多くの滋養を含んでいることは確かだ。
まるまま否定するにはもったいない。
しかし、特定の宗教にはその宗教を生んだ文化の
因習が深く染み付いている。
それをまるのまま飲み込み受け入れるのはとても難しい。
牛肉を食べないで生きるなんてのはできない相談だ。
ファミリーツリーをさかのぼり、神話のさらに先
そこを進むと枝分かれし、研ぎ澄まされもうひとつの極に行き当たる。
それこそが宗教ではないだろうか。
それは枝分かれし根のように入り組んでいる。
さながら、逆さまの樹のような姿となる。
僕はこのファミリーツリーの幹を通じて
根の養分を吸うことができると信じている。
そこには文化の因習に縛られない、
自然な祈りがあるように思えてならない。
ただ、現代はこの家族の樹が危機にある。
見渡すと多くの葉が落ちていくのが見える。
都会では誰もが大きな家族樹と分断され孤立し枯れてゆく。
物語によって与えられていた使命や乗り越えるべき試練はなくなり
目的を失って無闇に色づいていく。誰もが老成してゆく。
都会の生活は確かにクリアで気楽のように思える。
しかし、一方で各家族化は進み、隣人はなくなり
共同体は失われている。
その中で他人を思いやるということも希薄になっているのも確かだ。
そのことが派遣切りやワーキングプアへとも繋がっているようにも思う。
切り離された社会の中で
死や老いや貧困はさらに陰惨にギラついて見える。
一方で昔話にでてくる老いや死は陰惨ではない。
老い死にゆくまでのサイクルを物語はおだやかにみせてくれる
死の間際、荘厳な死の物語
畳の上で皆に見守られて往生することの美しさ。
しかし、そんなものはとっくに失われた。
昔々、子供と老人は共に暮らし
死に行くものから若きものへと受け継がれるものがあり
老人は緩やかにそして確かに死ぬことができた。
子供はジジババと接することでどんどん大人になる。
田舎帰りをした後の子供の成長はいつも見違える程で、
不思議に思っていた。
きっと親が与えられないものを与えているのだろう。
犬も孫犬を見て、突然老い、死の準備を始めると聞いたことがある。
例えばユズリハのようなものかもしれない。
確かに都会の中に住んで家族の実現は難しい。
同じ家の中にいてさえ、現代の家族は孤立する傾向にある。
エコエコ騒いでいるが、我々が失うものは環境ではなく
先に「物語」なのだ。そのことはあまり騒がれない。
環境の破壊は物語の破壊の結果ではないかと思う。
孤立する我々が地球のことを思おうにも
プラグインできるわけがない。
「地球にやさしい」という言葉は単なるコピーとなる。
地球を破壊している我々、地球という家族ユニットを
我々は感じることができないのだ。
まず、家族とつながり、
この地球と言う家族樹の幹にたどり着かなければならない。
そこで、初めて地球にプラグインすることができるのではないか。
都会が我々に求めているのは自然からの孤立、家族からの孤立である。
それは結果として蜂の巣のようなゲージに囲われた生活になる。
そこから全体を見ることはできない。
ネットカフェ難民やニート、異性関係を放棄する人々
都会はあのようなスタイルを人に求めているのだ。
オフィスもそうなっていくだろう。
果たしてどちらが人間にとって優しいのか。
我々は模索しなければならないだろう。
現代に耐えうるファミリーツリーの物語を。
そして、それを探し、子供たちに語り継いで行けたらと
ただただ願う。
自分に残された時間をそのことに費やせたらと
今、考えている。