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「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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失われた味
職場の近く、気に入っているカレー屋さんがあった。
どこででも食べられる味ではなかった。
おそらく、世界中さがしてもそこだけでしか食べられないだろうな
ということが一口食べれば
世界中のカレーを食べなくたって誰にでもわかる味だった。
とにかくそんな味のカレー
もし、そのご主人がどこかにいなくなれば
もう誰も二度と、そのレシピを復活させることはできないだろう。
永遠に失われた古代の謎のように。
・・・

そのカレー屋のご主人が亡くなられた。
とても唐突に。
カレーの下ごしらえをしている最中に。

いつものようにお店を訪ねると
花束がたくさん添えられていた。

その味は永遠に失われた。

シャッターの前に立ち、目をつぶりしばらく
口の中にそのカレーの味の幻影の糸を手繰りよせようとした。
無理だった。
結局、そのレシピは分からずじまいだった。

高村光太郎の「梅酒」という詩のことを思い出した。

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆(つつ)み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。

(『智恵子抄』より)

カレーのルーは残っていないのだろうか。
シャッターの中、お店の中、おなべの中
その縁にルーはこびりついてないのだろうか。
できれば、そのルーを舐め取りたいと思った。
しかし、もう誰もそのカレーを食べることはできない。
誰も。

味覚は切ない。
味覚の記憶は
味、嗅覚、触覚、視覚、聴覚と結びつき
とても強烈なものとなる。
僕の記憶力はすこぶる悪いが
味覚に紐付く記憶力だけは誰にも負けない自信がある。
いつ、誰と何を食べていたのか、
その時の、誰かの顔、誰かの声、自分の気持ち
揚げ物のコロモの詳細の状態まで鮮明に思い出すことができる。
それだけに、同じ味のものを食べると涙が出てしまうことがある。
その瞬間、僕はタイムスリップして、過去のその時に存在している。

とても寡黙な人だった。
一切の無駄口をきかなった。
「ありがとうございます」という言葉を
舌を使わずに、喉の奥で言っていたぐらいだ。
深い目をした人だった。
愛想というものはなく
その目で睨まれると
誰もうつむいてしまうほどだった。
でも、いつもお客でいっぱいだった。
みんな静かに、カレーを味わっていた。
みんな喉の奥で「おいしいです」と言っていたんだろう。

料理人はうらやましい。
こんなときに不謹慎だけれど、そう思った。
誰もその味を忘れることはない。
もう誰も二度と味あわせてくれないその味は
唯一無二でその人の記憶に残る。

まったくなにをしてくれるんだ。
僕はそういうのはいやんだな。
だから、レシピが知りたかったんだ。

そんなに悲しいことはない。
僕は母の手料理のレシピをちゃんと自分のものにした。
カス汁も、肉じゃがも、うどん焼きも、梅干も、たまり醤油も
食べれば、そこに全てがよみがえるように。

自分ではそんなことを言っておきながら
僕は自分の子供たちに、毎日おいしい
きちんと調理した当たり前のものを食べさせて
子供たちの記憶の中に強烈に残りたい。
レシピもなにも教えてやるもんか。
死んでもらったら困ると思われていたい。

料理はいつか人の記憶を覚醒させる。
10年後、20年後
ふと、いつかの味によく似た味と出会う。
もしくは、同じ食べ物を食べ、思い出す。
ガツンと頭を殴打されたように
記憶がフラッシュバックする。
そんな風にして、何年後か
僕はこの土地のことを忘れても
そのカレーの味のこと、
その時のご主人の表情まで
思い出すのだろう。

たった数回しか行くことができなかったのだけれど。。。

いつか僕の子供たちが僕のもとを離れていき
親の顔も思い出さないような日々が続いても
日々のしめやかな食卓の記憶の蓄積さえあれば
僕は子供の中に息づくことができる。
そう思う。

そして、その記憶の中で、声はなくとも
それをほどこしてくれた人の
気持ちを味わい知ることができるのだもの。
# by radiodays_coma13 | 2010-04-09 01:12 | 食べる事と飲む事
オーシャンズのこと
お魚さんが好きな子供のために、「オーシャンズ」を観に行った。

僕としては昔から好きだったセンダック原作の絵本「かいじゅうたちのいるところ」か
ルイス・キャロルのファンとして「アリス」を観たかったのだが、
怖いという理由で子供から却下された。

練馬サティは子供が多くて助かった。
館内は上映中ずっと子供たちの解説が響いていた。
うちの子供も負けじと
「シロナガスクジラはなんでオキアミを食べるの?」とか
「なんでジュゴンは白いの?」とか
答えられない質問を始終発信していた。
1時間経過、ポッポコーン(子供がこういう)のおかげか、珍しく機嫌よく鑑賞している。
と思ったのだけど、突然、暴力的に人間にヒレを切り刻まれたサメが
海に沈んでいくシーンに子供が立腹
外にでると言い出した。
説得を続けたが、じいさんの「なぜ、動物達は絶滅したんだろう」という
押し付けがましいお説教がはじまり
あえなく退場。

しかし、僕だって立腹している。
なぜ、サメを切り刻んでいたのはアジア人なんだ。
真実かもしれないが
「なぜ、動物達は絶滅したんだろう」という
流れで「絶滅させたのはこの人たち」みたいにみえるでしょう。
より多くの種を絶滅させてきたのは西洋文化に他ならないのに。

というか、何故、美しい自然描写にとどめなかったんだよぉ。
なんで、なにかいいたがるんだよぉ。

このところの捕鯨問題で僕は過敏になっているのかもしれないが
エコも宗教的な動物愛護も糞くらえだ。
なんというかアース的な何がしにはもう辟易している。
そういうものの全てが欺瞞に満ちている。
エコとかいい加減にしてくれまへんかねぇ
やってることが全然、エコじゃねえじゃん
なにがエコポイントだ、冷蔵庫もテレビも
でっかいのに買い換えさせてどこがエコなんだ?
その方がおいおいエコだっていっても
企業は新製品は出し続けるんでしょうがに。
政府が後押しすることじゃないでしょうよ。

なに政治もエコ効果に乗っかってるの?
確かに自然は大切だし、守っていかないといけないのは
子供を持つとしみじみ感じられるようになったけれども。
「温暖化」だってそれにまつわるの報道の
半分は欺瞞だってことは
冷静にネットで事実を集めれば誰だってわかる。
さすがにテレビではやらないけどねぇ。
温暖化を否定されて一番困るのは企業ですからねぇ。
「ゴミ分別」や「省エネ」も胡散臭い。
不安感を煽ることで得する人たちがいるということね。
宗教みたい。
やるべきこともあるのだろうが妄信するのが怖い。
事実を拾い集めて見えてくるものがある。
それは今更、ここで僕が言うようなことではないので
その件に関しては沈黙。

しかし、日本人は従順ですね。
エコエコ騒ぐ日本人をみて
海外との温度差に驚きました。
今はどうなんだろう?今はエコ流行してるかな?
メディアがあっち向けっていえばあっち向くし
こっち向けっていえばこっち。
僕が怖いのは「オーシャンズ」を観て
日本人が総意で「鯨殺しちゃダメ」ってなること。
でもね、殺してないの、食べてるの。
殺すのと食べるのは違うよ。
残さないで食べるなら命は頂いてもよいという理屈。
戦争もそうすればいいのに。(ジョーク)
サメのヒレだけを切り刻んで生きたまま捨てる映像は
とてもショッキングだったけど
日本人は鯨を残したりはしない。
サメだって、ちゃんとカマボコにしてる。

問題は、オーシャンズのスタッフが
あの問題のシーンを撮るのに
あそこに立ち会ったということ。
でも、あの漁のシーンは真実だろうか?
あのようなことが行われているのは確かだろう。
しかし、映画では、イルカも鯨も、網にかかった
生物は全部虐殺していた。
あれは演出として作れれらたシーンではないだろうか。
そこが問題。
あの映画のスタッフはあれらのいきものたちを殺したのと同義でしょ?
とにかく、あのシーンは悪意をもって創られたといいたい。
心地よい映像のあとに、胸糞悪い暴力をみせたかったのだ。
あの映画はそういう映画だったのだ。
観た人になにかひとつの答えを植え付けたかった。
ただ、それだけのこと。


僕にとっての最大悪は殺すことではなくて
残すこと。
そう、偏っている。
食べ物で遊ぶことが一番嫌い。
子供を滅多に叱らないけど
食事中にふざけているとひっぱたく。
遊び食べは許さない。
真剣に命がけで食べない奴は許さない。
「食べないと食べられる」これが真実。
それが弱肉強食の意味でしょ?違う?

その中で滅びるものは滅びたらいい。
滅びるものを必要以上に守ることなんかない。
人が種を絶滅させるだけではなく種は滅びる。
それは仕方ない。

自分が食べる以上に囲い込むから歪みや破壊が起きているだけなのにね。
良し悪しは別として、それはとてもシンプルなこと。
それを推し進める企業だの政治がエコを本当の意味を歪めて悪用するのが許せない。
エコの本当の意味は、日本の「もったいない」が一番近い。

まだ、使える電化製品、買い換えるのはモッタイナイですよ。

食べられるサメをヒレ以外すてるのは
もったいない!
あのスタッフ、殺した生物全部食べたんだろうなぁ~(怒)

以上、オーシャンズの感想でした!
# by radiodays_coma13 | 2010-01-25 05:59 | 食べる事と飲む事
ファミリーツリーの物語
「ワッツママ」「ワッツパパ」という
指輪物語のようなケルト神話を題材とした
一大スペクタクル2部作映画がこの春、封切られるそうだ。

テーマは第一部は「母とはなにか?」
そして二部は「父とはなにか?」
なんじゃそりゃ。

後光を放つ女神のように美しい女性が険しい自然の中に立つポスター
鋼のような肉体を持つウォーリアーのような男性が魔物たちと対峙するポスター
リアリズムで細部がコントラストでギラギラと輝くようなその絵の中に
違和感のある丸ゴシック系のタイトル。
センス悪っ!。
でも、これは気になるぞ。
いや、これは観に行かなければ!


というところで初夢から目覚めた。


目を開けると曽祖父、曾祖母の写真が僕を見つめていた。
実家の仏壇の部屋は冷暖房が不十分で、
隙間風で凍えそうになり、何度も目が覚めるため、夢は細切れになる。
子供たちの毛布をかけなおすと、そのまま目が冴える。
隣の部屋からは老いた父、母の寝息が聞こえてくる。
ふと哲学が鎌首を持ち上げる。
家族とは何だろうか?


親戚の多い家系ゆえに、正月ともなると
毎年、多くの親戚がやってきて実ににぎやかだった。
祖母を中心として毎年100人近くもの人々がやってきた。
毎年毎年、いとこの誰それ、はとこの何ちゃんが
どうしたの、こうしたの、離婚しただの、再婚しただの
武勇伝やバカ話などが飽くことなく語られる。
しかし、僕はそれがわりと好きで
ちょこちょこと書き留めては採集していた。
そういう無駄話でも書き残すと色々と気が付くことがある。

話しにはいくつかの分類と型があり
縦糸と横糸に分けられる。
全く同じ話しでも、語り部や家系が変ると変奏され
親等が離れると主人公そのものがすり返られたり
代が変ると、話は大げさになり、伝説に近くなる。
3代もさかのぼると、それは神秘性を帯び
現実から遊離し、お伽話に繋がってゆく。
知り合いの曽祖父の祖父は鬼から逃げて別の村に住むようになったそうだ。
まさに昔話がつむがれる現場がそこにある。
そして昔話はやがて神話へと時間をかけて蒸留されるのかもしれない。

母を中心としたひとつの家族というユニット
それを大きくまとめる祖母という一族としての大きなユニット
それぞれのユニットの中にトリックスター(道化師)を演じる者がいて
王(権力者)がいて、僧侶(法律家)がいて、戦士(労働者)がいて
農民(被支配者)がいる。それぞれ、自分の役割を演じている。

僕の叔父は定まった仕事には就かず、飲んだくれ、小鳥のメジロを愛し
誰よりも素潜りが上手く、意地汚く、ユーモアがあり
いつもネズミ男のように問題を起し、とにかく嫌われ者だ。
しかし、子供たちからは誰よりも愛されている。
滑稽なのだが、トリックスターはトリックスターらしく
まるで、演じているようにしか思えないのだ。

ふと、思う。
彼がいなければ、この大きなユニットは支えを失い
自壊するのではないだろうか。
しかし、実際にはユニットは新たなトリックスターを生み出すだろう。
そして、逸話は場所を変え、家族を変え語り継がれる。
実際に僕は曽祖父の人格に置き換えられ類似点が挙げられる。
僕の幼少の頃のできごとは一人歩きをし、繰り返し語られ変奏され
いつもの間にか親戚中の誰もが知るところである。

しかし、その家族の物語を通じて、
僕は自分が大きな樹の一部であることの実感を持つことができる。
その枝を手繰っていくと、いつか、枝は大きな幹にたどり着き
そこでは、お伽の物語が息づき、この現実と地続きになっている。
神話に自らをプラグインすることができるのだ。

まさに戦士の姿をした自分が
物語の魔物たちと戦っている姿が見えてくるのだ。
それは大げさにしても、
物語は家族の中にありどう生きるべきかを示唆してくれる。
果たしてそれが現代にとって有効かいなか、それはさておき。
実は神話やお伽話とはそういう類のものであったはずだと思う。
誰かが創作により、ぽこっと取り出して語るものではなく
家族、一族に語り継がれ
もっと大きなユニットの中の生活と神話は深く関わっていた。
生活の必需品としての物語があった。
その中に暮らす者にとっては物語が示す知恵は
絶対であったに違いない。
絶対というよりもむしろ、物語はファミリーツリーを
脈々と流れる水のようなもの。つまり血そのものなのだ。

物語の中には家族の系譜がある。
そして、その血は血族として
自分達の子供に受け継がれる。
人はひとりひとり自由であるが
実は、この家族のストーリーは
多かれ少なかれ、聖火のように
リレーされ、意思として受け継がれるものではないかと思っている。
最近、そんな風に思うのだ。
反抗することに心血を注いだ父との関係であったが
歳を経て確実に父の意思を継いでいると感じられることがある。

僕は特定の宗教を信じないが
ゆるやかにどの宗教も受け入れている。
なににでも見境なく祈る。
ファミリーツリーの前では宗教のビビットさは色あせる。
世界の多くの宗教は
実はこのファミリーツリーの派生ではないかと思うことがある。

人は「人には規範は必要だ」と考えている。
だから寄る辺としての宗教のようなものが必要になる。
そして、僕にももちろん規範が必要だ。
宗教が生きるための多くの滋養を含んでいることは確かだ。
まるまま否定するにはもったいない。
しかし、特定の宗教にはその宗教を生んだ文化の
因習が深く染み付いている。
それをまるのまま飲み込み受け入れるのはとても難しい。
牛肉を食べないで生きるなんてのはできない相談だ。

ファミリーツリーをさかのぼり、神話のさらに先
そこを進むと枝分かれし、研ぎ澄まされもうひとつの極に行き当たる。
それこそが宗教ではないだろうか。
それは枝分かれし根のように入り組んでいる。
さながら、逆さまの樹のような姿となる。

僕はこのファミリーツリーの幹を通じて
根の養分を吸うことができると信じている。
そこには文化の因習に縛られない、
自然な祈りがあるように思えてならない。

ただ、現代はこの家族の樹が危機にある。
見渡すと多くの葉が落ちていくのが見える。
都会では誰もが大きな家族樹と分断され孤立し枯れてゆく。
物語によって与えられていた使命や乗り越えるべき試練はなくなり
目的を失って無闇に色づいていく。誰もが老成してゆく。

都会の生活は確かにクリアで気楽のように思える。
しかし、一方で各家族化は進み、隣人はなくなり
共同体は失われている。
その中で他人を思いやるということも希薄になっているのも確かだ。
そのことが派遣切りやワーキングプアへとも繋がっているようにも思う。

切り離された社会の中で
死や老いや貧困はさらに陰惨にギラついて見える。
一方で昔話にでてくる老いや死は陰惨ではない。
老い死にゆくまでのサイクルを物語はおだやかにみせてくれる
死の間際、荘厳な死の物語
畳の上で皆に見守られて往生することの美しさ。
しかし、そんなものはとっくに失われた。

昔々、子供と老人は共に暮らし
死に行くものから若きものへと受け継がれるものがあり
老人は緩やかにそして確かに死ぬことができた。
子供はジジババと接することでどんどん大人になる。
田舎帰りをした後の子供の成長はいつも見違える程で、
不思議に思っていた。
きっと親が与えられないものを与えているのだろう。
犬も孫犬を見て、突然老い、死の準備を始めると聞いたことがある。
例えばユズリハのようなものかもしれない。

確かに都会の中に住んで家族の実現は難しい。
同じ家の中にいてさえ、現代の家族は孤立する傾向にある。
エコエコ騒いでいるが、我々が失うものは環境ではなく
先に「物語」なのだ。そのことはあまり騒がれない。
環境の破壊は物語の破壊の結果ではないかと思う。
孤立する我々が地球のことを思おうにも
プラグインできるわけがない。
「地球にやさしい」という言葉は単なるコピーとなる。
地球を破壊している我々、地球という家族ユニットを
我々は感じることができないのだ。
まず、家族とつながり、
この地球と言う家族樹の幹にたどり着かなければならない。
そこで、初めて地球にプラグインすることができるのではないか。

都会が我々に求めているのは自然からの孤立、家族からの孤立である。
それは結果として蜂の巣のようなゲージに囲われた生活になる。
そこから全体を見ることはできない。
ネットカフェ難民やニート、異性関係を放棄する人々
都会はあのようなスタイルを人に求めているのだ。
オフィスもそうなっていくだろう。
果たしてどちらが人間にとって優しいのか。



我々は模索しなければならないだろう。
現代に耐えうるファミリーツリーの物語を。
そして、それを探し、子供たちに語り継いで行けたらと
ただただ願う。

自分に残された時間をそのことに費やせたらと
今、考えている。
# by radiodays_coma13 | 2010-01-08 07:03 | 考える
クリスマスの三角帽子
子供が二人とも風邪をひいてしまった。
下の子は初めての病ということもあり
それはそれは大変だった。
子供が二人いて、一人が風邪をひくというのは
そういうことなんだろうな。
誰か一人で食い止めることは至難の業。
というわけで、僕も伝染し、一週間がつぶれた。

子供が苦しそうに寝ているのをみていると
痛みを肩代わりしてあげることはできないと分かっていても
心は痛むわけで、不規則な呼吸に合わせていると
こちらまで眠れなくなり、寝不足からダウンしてしまった。

ようやく家族装置も復旧し
先の日曜日には家族らしくクリスマスツリーがお目見えした。
こんなにもクリスマスツリーが心温まるものだとは思いませんでした。
あれは自分が喜ぶものではなく、喜ぶ誰かの顔があって初めて
心躍るものなのですね。

クリスマスを経験したことのなかった私にとって
ツリーは陰惨な冬の夜の事件を連想させるだけのものでした。
おそらく、できないのなら、それを嫌おうという心理が働いていたのかもしれません。
「商売人にはサンタはこない!」と叱りつけられて師走の商売の手伝いをしている
子供にとって、クリスマスで賑わう商店街が忌まわしい景色でしかありませんでした。

ツリーにぶらさがる、サンタの虚構の笑い顔が憎たらしくて
友達の家のツリーのサンタの口に赤いマジックで血を描いたことがある。

母曰く、商売人のサンタは2ヶ月遅れでやってくる。
商売が忙しいので気を利かしているのだそうだ。
サンタの正体は「えべっさん」であるという衝撃の事実。
・・・確かに、少し似ている。
子供心に納得した。
ツリーは笹に化けた。

しかし、その僕が今、サンタを待ちわびている。
子供に何をプレゼントしようかと考えるだけで心が浮き立つ。
サンタなんかいるわけないと豪語していた僕の心に
純粋に子供を喜ばせたいというサンタが住んでいる。

上の子はサンタクロースを「三角さん」と言う。
三角の帽子を被っているからだろう。
確かに「さんたくろーす」と「さんかくぼーし」は似ている。

クリスマスツリーに「いらっしゃい」と書いた
三角帽子を被ったえべっさんの絵を貼ってあげたら大喜びした。

小躍りしながらハッピーバースデーのメロディにのせて
「いってまーせー、じーじー」と勝手な歌詞で歌を歌ってくれた。

それから何枚も欲しい物の絵を描いて吊るしていたが
それは七夕だろう。

なんだか色々まざって良い感じになっている。

プレゼントは何にしようか。
あれもこれもと考えて
あまり甘やかすのもよくないのかと思い直したりしたが
やっぱり子供の喜ぶ顔がみたい。
甘やかすのと喜ばせるのとは似ているようで違う。
「甘やかす」のは、いろいろ考えるのが面倒くさいので
とりあえず、子供の要求を呑むこと。
「喜ばす」というのは能動的で、
自らも子供の感情に参加して喜びを教え
ひいては一緒に喜ぶことではないかと思う。
そして喜ばせることはどれだけしても
いいのではないかというのが
子供と関わりたくてしょうがない僕の出した答え。
というわけで、子供と一緒に楽しめるものばかりにした。
ばかりということは、まさにプレゼントがひとつではないということ。
自転車と、組み立てて飛ばせる飛行機と、手作りの絵本
ぶつぶつと自分で言い訳をしながら、思うさまプレゼントを用意した。

ちょっとした風邪で、気をつけさえすれば
子供を失うことなんてないのは分かっているが
子供が健康で笑っている姿をみると
もう、それだけで、うれしくてしかたなくなる。
それ以上はなにも望まないという気持ちになる。
そして失うわけではないのに、
今のうちにやってあげられることは
全部してあげたいと思うこの頃である。

今年の三角さんは12月にやってくる。
# by radiodays_coma13 | 2009-12-23 03:20 | ニュース
コピーとオリジナル
TVで歌番組を久しぶりに見てみた。
半分以上が過去の楽曲で驚いた。
最近、TVがひどいことになっているときいてたけど、なるほどね。
とてもこのままの状況で来年のTV業界があるとは思えない。

一方
わざわざ携帯のキャリアを
ドコモに変えてまで「BeeTV」をみているのだけれど
確かに面白い番組が多い。
ちゃんと作っているなと感じた。
でも、なんだかみているとしんどくなる。
なぜだか重たい感じがする。

あのTVの「なんとなくみている感じ」
というのができない。

同じお金を払ってみているのでもNHKとは大きく違う。

会員数が増えてやっと成り立つ
BEETVのビジネスモデルは果たして
続けていけるのだろうか。
これもこれで来年が心配。

ネットができてから、人のTVの見方
娯楽の楽しみ方が変ったのかもしれないけれど
一方で膨大に蓄積された過去のコンテンツという問題がある。
クリエイティブな世界は
今後ますます過去のコンテンツとの
戦いにさらされる。

例えば、ゲーム業界も
いろいろなゲームがやりつくされた感がある。

僕は職業ゲームクリエイターのくせに
ゲーム嫌いなので、ゲームのことをろくに知らない。
そのせいでゲーム企画をするたびに
「ああ、もう、それあります」と
冷たく言われてしまう。

しかし、ゲームなんて、大きく分類してしまえば
そんなに種類はない。
確かにやりつくされたかもしれないが
それはカテゴライズして考える、
またはカテゴライズされた頭がそう思わせるだけで
本当はまだまだやるべきことがあるはずだと思われる。

初めて聴いた音楽に「ああ、それロックですね」と言ってしまうようなものだ。
「それ、あのバンドに似ていますよ」
それって悲しい考え方だけど
むしろ、社会が、我々をそんなふうにさせていると思う。
そのことで我々は多くのことを見落としてしまう。
しかし、作り手も自分自身をカテゴライズするために
型どおりのものしか作れない。

「シューティングゲームを作ろう」とか
「スーパマリオ」みたいなゲームを作ろうだとか
枠の中でしか創造することができなくなっている。

そんなことを昨日の歌番組に流れる、今年のヒット曲を聴いて思った。
これはないだろう!
それではまったくの焼き直しではないか。
過去コンテンツとの対決をあきらめ、
再提示にしかなっていない。

歌詞も悲惨なものだった。
ある形式化されたターゲットに
形式化された言葉を選んでいた。
そこで零れ落ちるものの大きさを考えるとせつない。
せめて、せめてリアルをみせてほしい。

しかし、ユーザーはそれらの楽曲に
「オリジナリティがないこと」を批判してしまう。
それはお門違いではないかしらん。
一体、オリジナリティーにどれほどの価値があるのだろう。
新しい絶望や新種の愛があるというのだろうか。

なにかが流行ったらみんなそこに乗っかる。
乗っかっているだけ。
自ら反省するところが多いが
それは理解する前に、消費してしまうような所業。
実る前に刈り取るようなことをしている。
みんなで芽を枯らしてしまうのだ。
本当は大切なつぼみが踏みにじられてしまう。

やりつくした感。
どこかでみた感じ。
みんなたいくつしている。
でも、欠落しているのはオリジナリティーではなく
リアリティーではないのかしら?

新しいものを作ろうとして
本当に革新的な新しいものができるようには思わない。
それはリアリティーの中からひょっこり産まれるように思う。
オリジナリティーを強要する現代は一方で創造力を締め付ける。
ほとんどのイメージは過去の蓄積というデータベースの中に存在する。
写真家は本当に全てのものを撮りつくしたのか?
歌手は全ての歌を歌いつくしたのか?

凡庸でいいじゃないか。
刺激を求めすぎる感性は
いつか刺激の中で麻痺してゆく
凡庸の中から面白さを引き出す
個人の力にこそ創造力が潜んでいるように
思えてならない。

加熱水蒸気式の電子レンジでは
作られる料理が限られてしまうが
火があればなんでもできる。
余計なことはしなくていいのだ。
包丁は変な形をしている必要はないし
ゲームは親切過ぎないでいい。
道具はシンプルな方が自由度が高い。
本当におせっかいなものが多い。
コンテンツも同様だと感じる。

新しいことをしなければ!
今までになかったものを産み出さなければ!
そんな焦りのせいで
電子レンジがしゃべり始め、おばあさんの
肩をもみはじめるかもしれない。
とにかく電子レンジは暖めればいいのだ。
どうか食べ物以外のものを暖めないでほしい。
ネコも荒んだ心も。
# by radiodays_coma13 | 2009-12-08 23:43 | 考える