芸術家として食べていくにはどうしたらいいか?
そんなことに果敢に挑戦した事があった。
結果、食べていけるにはいけたが、それは憧れていた「芸術家」ではなかった。
パトロンと言える人からカンパしてもらう、或いは、人に教えて先生と言われる。
そしてもうひとつの道が、公や企業という団体からお金をもらうという方法。
そのために色々考え、色々顔を出し、色々活動しようとしたが、自分が自分が思った以上に、社交的ではないということに気がついてしまい、色々絶望し、さらに、ふと「何か」気がついて、パタと活動自体を休止した。
それは活動継続不可能な、根本的な理由だった。
その「何か」は「芸術家」であろうとしたことが嫌になったから。
なんだか、そもそも不純だったんですね…。
純粋なイメージの中の「芸術家」として生きていくのは難しかったということで…。
制度的にも。
東京に出てくる前に住んでいた大阪市で、橋下知事が当選し市長になった。
彼が文化に使われる財源を減らすという。
なんでも「アーツカウンシル」という制度を導入することを検討しているらしい。
とてもすばらしいと思った。
「そもそも芸術は、現代において、国や団体が庇護すべきなのか?」
国の助成を受けたロッカーの歌を人は聴きたいと思うか?
それはロックと言えるのか?
それと同じことを文化の助成に関して感じてしまう。
自分自身が無謀にも芸術で食べていくことを志し、そして、無謀にも散っていった仲間をたくさんみてきた。
もし、助成をもらえるというのなら、喜んで飛びついただろう。
そして、そのチャンスにあやかろうという沢山の仲間の奮闘も目にしてきた。
一度、手にしたその魔法を二度と手放すまいとジタバタする仲間も目撃した。
そして、その蜜にあやかれず嫉妬しスネる自分も目の当たりにした。
必ずしも「助成」が優れた文化を生み出すのではない。
むしろ、それはまったく関係ないと言っていい。
文化的なものは生まれるかもしれない。
しかし、それはその時代に根ざした本物のアートではない。
そこに出来上がるのはレクリエーションに過ぎない。
これはまったくの個人的見解であります。
アーツカウンシルとい評価の数値化により、どんどん文化に使う財源を減らせばよいのだと個人的には思っています。
もし、芸術が本物なら、このような危機に当選した橋下市長のように危機にこそ本当の文化が生まれてくるはずだから。
そう信じたい。
芸術や文化が単なる余暇をもてあました人間の作り出した退屈の産物にはして欲しくないなあと心から思います。
人間は先史時代、遊牧生活をしていた。
そこで、どういうわけか、唐突に温帯地域で定住生活が始まった。
唐突にというのは、農耕が先ではなく定住が先だからだ。
農耕の結果定住したのではない。定住生活により、人は暇を得ることができた。
人は危険に満ちた遊牧で研ぎ澄ました感覚をもてあますようになった。
定住が人にもたらした変化は大きい。ゴミ処理の問題や、排便。
これらは定住によりもたらされた大きな変化である。
その証拠に、幼児にはゴミや排便は通過儀礼のように、経験しなければならない大きな試練としてある。
つまり、ゴミ捨てや排便は後天的にもたらされた文明である証拠に他ならない。
そして、所有するという概念も貯蔵という形で定住によりもたらされた。
所有は経済を生んだ。
そして同時に、奪うという行為として、新しい諍いをもたらしただろう。
それは権力を生み、貧困を作り出した。
そして、ここで話題にする「暇」も定住生活によりもたらされたものだ。
人は「退屈」するようになった。
余暇による「退屈」は遊びを作り出し、文化を発展させる原動力となった。
かつて「余暇」は権力の象徴であった。
選ばれた者だけが余暇を得、それを誇示した。
そして、芸術は余暇の産物という意味でその象徴であった。
選ばれた者だけが芸術を所有することができ、それを見せびらかすことができたのだ。
そして、余暇を持つ選ばれた者に庇護され芸術家は生きてきた。
それがパトロン制度である。
現在は「暇」と言えば、あまり良い言葉ではない。
先進国の中流化が進み、芸術は一般大衆にまで降りてきた。
しかしだ、本当に芸術は一般大衆化したのだろうか。
落語に「茶の湯」という有名な噺がある。
大きな店のお隠居が暇をもてあまし、引越し先にたまたまあった茶道具で茶の湯を始める。
しかし、もともと茶の湯を知らないご隠居は知らないというのが恥ずかしいために、お茶さえ知らない状態で
めちゃくちゃな茶道をはじめる。
それに招かれた客も知らないというのが恥ずかしいために適当にあわせる。
そういう日々が続く。
しかし、その茶も茶菓子もデタラメでいただけるシロモノではない。
客人たちはたまらず、主人の見ていない隙に隣の畑に茶菓子を投げる。
すると農作業をしていた百姓が「また茶の湯か」とせせせら笑うというオチ。
多くの芸術と呼ばれ庇護されようとしているものには「茶の湯」を出ていないモノが多い。
そして、それをありがたがっているのは、知らないというのを恥ずかしがる客人と似ている。
しかし、大衆はその姿を揶揄して「また茶の湯か」と感じている。
本当に経済の危機に瀕した時に芸術にお金を使えるのか。
それは個人単位の話ではなく、企業や団体単位でも同じことで、かつでバブルの時期に企業メセナが流行ったが、崩壊後、それはごく小規模のものになった。
本系イギリスの「アーツカウンシル」も経済の悪化とともに、見直しを迫られている。
本当に、この日本でアーツカウンシルが有効に働くだろうか。
数値化をする専門家も固定化すればそこに既得権益がうまれ、今までとなんら変わらなくなるだろう。
いかに既得権益を生まないようにするか。
ヴェネチアがかつて行ったような、既得権益を産まない投票方式を採用するもよし。
そこにはまだまだ論議の余地がある。
国が文化を庇護することは決して悪くはないが、それを本当に評価するのは個人であり、それを芸術というのも、作り手ではなく鑑賞者の手にゆだねられているはずだから。
そして、暇を越えるものでない限り、それは茶の湯の域を超えないだろう。
パトロン制度から消費社会を経て、次なるモノツクリのあり方が問われている。
企業や公のくびきから芸術を解き放つものをいかに支援するか。
支援されたがるモノツクリと、現状の発露として出てきたモノツクリとは、結果も異なる。
人口=クリエイター的な現代で、見るに耐えるものがあるとすれば、本当に危機的な状況で大衆に支持されるものであるだろう。
なんにしろ、それは作り手の知ったこっちゃないはずなんです。
少なくとも作り手の側からクレクレすることじゃないだろうなと。
アーツカウンシルによって、公による文化支援が厳しく見直されることを期待してやまない。