「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
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ゴールイン
3年がかりで手がけてきた企画がついに明日、ゴールインする。


ケータイのFLASHゲームサイトである。ゴールインとはすなわち、全てのキャリアでの公式サービスを開始するということ。難攻不落のDocomo公式サービスインをついに明日と控えた。



  思えば、何で僕がゲームを作っているのか?



それはソフトバンクの通話料が0円になるより
はるかに予想外だ。


小学生の頃
一日、50円のお小遣いで、1プレイ50円のインベーダーゲームをするか、よっちゃんイカを買うかで、ソクラテスのように頭を抱えて真実を追い求めていた。



えいやっ!とゲームに取り組んでも、下手くそな僕は一瞬で撃沈されるのであった。もっぱら、ゲームは見る方だった。それでも、毎日、新しいゲームが出ているかもしれないと思うと小学校の6時限目、胸が高鳴った。


日本の日常にTVや冷蔵庫が登場したころ、人が虹色の未来を夢見たように、TVゲームは僕を虹色の未来を見せてくれた。まだ、登場していないゲームのことを想像するだけで、眠られないくらいに興奮した。


「本当に新しいテクノロジーは人に夢を与えてくれる。」


おおっ、僕っていいこと言うねぇ。


僕はファミコンもどんなゲームソフトも買わなかった。正確には買ってもらえなかったんだけど。


  そのかわり僕はプレイヤーではなく
  クリエイターになった。


街に始めてマイコンショップがやって来た。

その頃PCは出始めだった。PC98富士通FM7、夢の機械。僕は毎日、黒人の少年がトランペットを欲しがるみたいに、マイコンショップのウインドウの前でへばりついていた。

 「その機械があれば、自分の作りたいゲームができる!」

胸がパンクしそうだった。



これを初恋というのかもしれない。
…いや間違ってるかもしれん。


結果的に親は根負けして、PCだけは僕に買い与えてくれた。僕は作りたいという強い願いだけを頼りにプログラムをいじくり、自作ゲームを作るようになった。今思うと、よく書けたなと感心する。


  …しかし、ある日を境にぱたりとゲーム制作を辞めた。


ゲームセンターに行って愕然としたのだ。ゲームが面白く感じられない。ワクワクしない。複雑で単調でどれも同じ。ある日、恋から醒めるようにパチンと何かがはじけた。



僕は情報処理の高校を受けようとしていたが、急遽、美術系の高校に進路を変えた。


その後、ゲームに全く興味を持つことなく、
20年。。。



なぜだか、今、ゲームを作っている。しかも、美術系の大学を出て、デザインの仕事をしていたのに。純粋にアートを目指していたのに。



何年もためてきたアイデアノートを見返してみると、その中に、少なくないゲームのアイデアが書いてある。僕にとって人を楽しませようとする原点にはいつもゲームがあった。



  今思う、あれは恋から醒めたんじゃなくて
  ゲームの方が本当につまらなくなっていたんだと。
  僕は間違っていなかった。



ひとつの場所から金脈が出ると、人はそこばかり掘り続ける。ゲームというのがひとつの世界だとすると、まだまだ世界は広い。なにもリアルでリッチなゲームだけがゲームではない。複雑になってゆくゲーム界の中に突如として「テトリス」が現れたように。世の中にはまだまだ楽しい遊びがあるんだと、そんなワクワクできるゲームがしたい。



複雑で、コアなユーザーしかできないゲームじゃなく、誰もが簡単にできて、ゲームの世界だけで完結しているのではなく、創造力が膨らみ、現実とリンクしているような作品。攻略するだけがゲームじゃない。10分だけ楽しめる「一粒のフリスク」みないなコンセプトだってあっていいはず。


ゲームプロデューサーとしての僕の評価は最低だった。ちょうどその頃、任天堂DSが満を持して登場。僕には女神が現れたような出来事だった。やろうとしていたことが時代とリンクしたのだ。手のひらを返したようにボツになっていたゲームが全て採用。自由にゲームを作ってよい権限が与えられた。


わがままほうだい(ウソ)。でも、ほぼ放し飼い。
僕は詩を愛しているので、自分の詩をゲームにもした。僕の作るゲームのほぼ5割以上が言葉に関するゲームである。

それくらい偏っている。
偏りまくっている。
こんなに偏っていいのかというくらいに偏っている。
でも、ゲームとはそんなものだ。価値観の交換対話なのだ。人の血が通ったプログラムなのである。ただ、閲覧するものではなく、ユーザーが参加してはじめて、成立する。僕にとってのゲームの魅力は
そこに始まりそこに尽きる。



ゲーム脳の恐怖とか、デジタル時代の病理とか、そんなことが言われ問題視されるが、僕はそのゲームこそが、デジタル時代の言葉のあり方とコミュニケーションという問題を打開する糸口になりえると信じている。


人は道具に魂を宿すといわれるように、デジタルにも人の温かみを持たせることができるはず。



  機械が人の心を荒ませるのではない。
  機械に人を感じようとしない心が荒んでいるのだ。



もしそこに人の心が足りなくなってきているのなら、それは恐ろしい。僕はゲームでコミュニケーションを求め、少しでも、そこに血を通わせることができればと思う。



さて、問題のサイトは「サクサクFLASH」です。
携帯でFLASHができる人で興味が出た人は探してみてください。
詳細はまた書きます。

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# by radiodays_coma13 | 2006-11-19 23:54 | 言葉について
著作権の所在
yahoo!ニュース「しんちゃん中国で販売できず」というのを見た。


中国でも大人気の日本アニメ「クレヨンしんちゃん」 。なんでも、先に中国の業者が「クレヨンしんちゃん」のグッズ販売の商標を登録しており、本家、双葉社が中国でクレヨンしんちゃんのグッズを販売できない事態に陥っているらしい。


同じようなことが、韓国でもあった。機動戦士ガンダムを名乗る玩具が不法に販売されていたのを差し押さえるためにバンダイが韓国で裁判を起こしたところまさかの敗訴。


「ガンダムとはロボットの総称である」 (笑)


それから、すごい海賊DVDを見たことがある。非常に悪い画質。色がぬけている。風呂の中のような音質。よくみると、画面下に人の頭、頭、頭!なんとそれは映画館のスクリーンをそのままホームビデオで撮影しているのだ。

すげぇワイルド!


これ以外にもアジアでの、偽ブランド、海賊版DVD植物の遺伝子コピーなど著作や商標侵害をいちいち列挙していると21世紀が終わってしまう。


◆   ◆   ◆


それらの国を批判するつもりはない。もともとそういう文化なのだ。そういう行為に対して悪びれる様子は特にない。野球とボクシングの違いくらいに文化のルールが違う。自分達のルールでは公平なジャッジなど到底できない。


しかーし!自分もデザイナーの構成要素として、著作を生み出すものつくりの端くれとして、著作権にはいろいろと思うところがある。


古臭いじじぃみたいなことを言えば
  「最近の若いものつくりは
   著作権を知らなさ過ぎるんでぇ!」
と遠慮がちに思っている次第。


ものつくりとして社会的に公平で適正なものを提出するのは義務であると思っている。しかし、これって実はなかなか難しい。


ふとしたことで、著作権や商標を侵害していることがあり、不適正な表現であったりする。いくら気をつけても、気が付いたら白線を越えていることがあるのだ。


長い間ものつくりをしていると、その白線をたくさん越えてしまうことになる。時には、痛い目にあったりして…。というわけで気が付くと、僕は会社一著作権にうるさい男になってしまった。


中には僕を著作権協会の回し者のようにおそれる者もいる。
「あの人にこの商品の広告の話をしたら、潰されてしまう」
とまで…。


◆   ◆   ◆


ある雑誌で一年間、表紙を飾らせてもらった時のこと。

全国の書店に置いてあるもののかなりアングラな雑誌で、なにか、話題になることをしたかったというのもあった。僕は「著作権」をテーマにぎりぎりの綱渡りをすることにした。しかし、そこで、僕は著作権侵害を犯してしまった。


下がその時の、一連の表紙の一部。

さて、問題です。

Q:この中で著作権を侵害しているものがあります。
どれでしょう?
c0045997_235573.jpg


まっこうから著作権と向き合ったつもりでしたが、盲点がありました。写真に対して発生する二次著作権の問題でした。被写体に関しては完全無欠のつもりでいたのですが、その写真をとった人に二次著作があるとは知りませんでした。


危ないので答えは言いませんが、この中で、一枚だけ、僕が撮っていない写真があります。幸いにも、全ての写真が一部分であることで、誰が撮った写真であるかを判別することは困難です。


(ただ、もし、この写真は私が撮りました。という人がありましたら、僕まで連絡ください。それ相応の適正な謝礼はさせていただきます。)

・著作物はそれを使用してもただちに著作権侵害で罰せられるわけではありません。その侵害された当事者が訴えを起こす必要があります。

・その上で交渉し、侵害した側がそれに応じなければ、そこで始めて、法的な行使が出来るわけです。



◆   ◆   ◆


ものつくりは日々、著作物を世に送り出すのが仕事なので、その人が著作権に対してどう思うかは別として、きちんと知っておくべきだと僕は思うのです。


それを踏まえた上で発言させていただきます。
中国や韓国の例のように悪意ある著作権侵害に対しては、断固として意義を唱えますが、僕自身は実は、著作に対して
「非常に懐疑的」
であるということです。


最初の例を考えても分かるように、著作権は非常に曖昧で、各国で異なる法律をもち、法律があったとしても、日々変化し、それはデジタル時代の今日、輪郭がハッキリしません。著作をきちんとしたければ、膨大な資料から似た判例がないか、探すハメになります。それはまさにイタチごっこ。


それゆえに、企業は著作権に対して過剰になります。具体的な事例を出せば企業を敵に回すことになりそうなので避けますが、それらの著作のせいで、ものつくりにとって破滅的に不自由な環境が生まれるのも確かな話しです。


そこでは法律で謳われている「創作した人の知的財産を守る」ことではなく「企業の利益追求」が優先されている現実があります。

どこにでもある意匠やゲームのルールに著作権を与えるくせに、新しいパズルゲームのルールやある種のフォント、プログラムにはきちんとした著作権が付与できない。


  それはとうに個人の力の
  及ぶところではないのねん。


デジタル時代。
きっと近い未来、著作ということをもう一度、根底から考え直さなければならない時がやってくるはずです。そうしないと、全てのストーリーや全ての形、全てのメロディ、なにもかも著作権でがんじがらめになり、ものつくりはなにもできなくなるでしょう。


しかも、デジタルは完全なコピーを可能にしてしまった。


僕個人の意見。
「もし、真似たいのならマネればいい。」
それよりももっといいものを作ってくれるのなら、どうぞどうぞと言いたい。ゲームのプログラム等を作っていると、それが誰かに盗まれると気が気ではないが、よく考えれば、そんなものスキルのある人からしてみれば簡単にそれを凌駕できる作品ができるのだから。


ユーザーが欲しいのはより価値あるサービスなのだ
「著作権云々、そんなの知ったこちゃあない、そんなことより、さらにいいものを作れ!」
というのが本音だよね。


そして、これが僕の希望的観測。
モノそのものに価値があった時代には著作も有効だったが、そんな時代は終わった。これからはコミュニケーションにこそ価値がでる時代。その商品を取り巻く全ての条件が本当の価値なのだと誰もが理解できるようになると信じている。その時、コピーにはなんの意味もなくなる。


そして、一歩進んで、企業が作り出す価値というものもうそ臭くなるだろう。最終的には人と人との愛あるコミュニケーションだけが残る。


昔話に作家も著作権も存在しない、それは人と人との関係の中で再構築されるものだ。僕は僕の子供に僕と彼だけの「浦島太郎」を語ると思う。



一体、誰なんだ、みんなものもに自分の名前をつけるバカ者は。そして、それを奪い合うそれ以上のバカ者
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# by radiodays_coma13 | 2006-10-02 02:37 | 考える
走る大臨月
妊婦というのは本当に大変です。


さあ、もういつ産んでも大丈夫ですよ、となったら、今までは大事大事に過ごしていたのが、今度は一日3時間の歩行と100回のヒンドゥースクワットが奨励されます。そりゃもう体育会系ですよ。10キログラムの重りを背負って、それをやることを想像しただけで、足がガクガクします。


これがまた、なかなか産まれなかったりすると、なんだか、もう過酷な部活の夏合宿みたいな様相を呈してきます。


というわけで、胎児が出産の準備のために下の方へ降りてくると、今まで圧迫されていた胃も開放され、日々の過酷なトレーニングにより、食欲が増幅します。


しかも、妊婦は妊娠初期から出産準備のために、かなり厳しい食事制限があり、それまでは、ご飯を大さじスプーン一杯なんて状態が続いていたものですから、貪欲さはピークに達しています。




前回も書いたように、大人遊びの仕納めと言うわけで、食べ道楽をしばらく続けました。トドメの昨夜は、寿司からナンジャタウン、餃子スタジアムで餃子食べ比べというフードファイター並みの無謀な食べ歩き


残業が長引いたため、二件回るには厳しい時間。「仕方ないわね」と諦めてくれるかと思いきや、寿司屋に入るやいなや、次々に注文なされまして、さあ食え、ほら食えとまくしたて、次なる餃子スタジアムに走る走る。臨月の猛ダッシュです。


池袋の雑踏の中をお腹を突き出して
「ほらどけどけどけ!」
走る妊婦の暴走に雑踏がざわざわとかき分けられてゆく。

いやあ、母は強し。ちょっと違うか…。




ううむ、今朝は胃がクタクタに疲れて、さすがに食欲がありませんでした。


一日も早く生まれてくることを祈ります。このままだと、赤ちゃんが生まれてくる頃には僕はぷりぷりに太って奥さんに食われてしまうかもしれません。


でもねえ、僕の息子はねえ、なかなか、お利巧というか、商売人なんですよお。出産が予定日より遅くなると、奥さんの産休手当てがそれだけ多くもらえるという仕掛け。それが一日10000円成り。


しかも、出産給付金という制度があるのですが、それが2006年10月から改正され、もらえる額が5万円アップするそうです。そうこの度の10月です。


この時を待っていたんだな。さすがナニワの商人の息子!将来が楽しみですなぁ。




今日、昼寝をしていると、子供が話しかけてくる夢を見ました。
「もう、産まれるよ、十分に楽しんだ?」だって。
ニコっと笑って頷くと、彼は僕の手をとって、さあ今度は僕と遊ぼうという足取りで、僕をどこかへ引っ張ってゆく。


目覚めると妻が
「さあ、夕食の買い物をしにいきましょう」
と手を引っ張っていました…。



今夜はなにかさっぱりとしたものにしようと思っていたのに、奥さんは一方的に「必殺!地獄のさんま飯」がいいと決めていた。いやはやまだ食欲満開のご様子。まいりました。


c0045997_0351491.jpgというわけで、今夜の夕食は
  ・必殺!地獄のさんま飯
  ・わかしの刺身
  ・なめこの味噌汁(赤)
  ・ダイコンと水菜のジャコサラダ
  ・ひねたくあん

です。


必殺!地獄のさんま飯はこの時期、オススメなので、是非!といいたいところですが、作る人は覚悟してください。まさに必殺であります。あまりの美味しさに満腹中枢を破壊され、苦しくなるまで食べ続けてしまうのは必至です。だから、地獄のさんま飯。


1.まず、刺身にできるほどの新鮮で脂ののった秋刀魚を三枚に卸し
2.小骨を取り除き、塩しておいておきます。
3.米は酒、醤油、昆布を入れてしばらく置いた後、炊き上げます。
4.炊き上がる直前に秋刀魚を放り込み、そのまましばらく蒸らします。
5.あとはそれを混ぜ合わせ身をほぐしたら茶碗によそいで、刻み海苔をかけて出来上がり。


秋刀魚の香り、醤油の香りが口いっぱいに広がり、あとから、米に染み込んだ秋刀魚特有の脂の旨みと、米と秋刀魚のほんのりとした甘みのタッグが襲ってきて、満腹感をリングから締め出します。その美味しさに目がグルグル回ります。ゆうに茶碗3杯分は平らげてしまいます。



「わかし」というのはハマチの若いのです。東京では、「わかし」というそうです。大阪では「いなだ」と言っていたような。「ワカシ」は「若し」かもしれんなぁ。


「わかし」あまり刺身では見かけませんが、まるまる一匹で買うと200円程度の、とても手ごろな値段で購入することができ、食べ応えも脂ののり具合も十分。



ああ、やっぱり、家飯がいいわぁ。


お父さんは準備万端。ぷくぷくに太って、土俵に上がって君を待っているのだよ。さあさ、ハッケヨイ!ノコッタ?

ノコラナカッタ。おひつは空っぽ。
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# by radiodays_coma13 | 2006-10-01 00:42 | 食べる事と飲む事
相対論的B級グルメ
すごいことを思いついた。


いろんな美味しいものは世の中にあるが、高級だからと言ってその分だけ美味しいと言うわけではない。


やわらかくて恐ろしいくらい脂ののっている牛肉。よく高級焼肉店で食べさせてくれるが、何度食べてもあれはそんなに美味しいものじゃない。


好みというのもあるだろうけれど、肉の味という点では、同じ恐ろしさでも、オージービーフの恐ろしいくらい堅い肉の方が肉の味が濃くて、美味い。


B級グルメという言葉があるが、時にその美味しさはA級グルメを凌駕する。いや個人的には、いつだってB級グルメはA級グルメを凌駕している、と強く思う。


とにかくA級グルメは疲れる。奥さんがもうすぐ出産なので、今のうちに子供づれでは入れないようなお店に行っておこう、大人の遊びともしばしのお別れと、ここんとこトコトン、贅沢三昧をしてみた。



結果、ひどく疲れた。



残されたのは、無駄遣いに対する自責の念と、3キログラム増の贅肉のみ。。。


外食も続くと、一体、何が美味しいのか分からなくなってくる。ホアグラも150円の鮭の白子も同じだぜ。ホアグラの方が珍しいだけ。これほんと。


今日、同僚の食べているマックポテトの美味しさに衝撃を感じました。ちょっと舌が壊れたみたいです。



といういうわけでビバ!B級グルメ



よほど、自分の家で食べているご飯の方がおいしかった。ということに気付きました。



とくにね、ほら、もう、だいたい食べ終わったかな、もうちょっとだけお茶碗にご飯があるなという時、そこにお味噌汁をぶっ掛けてする
猫まんまの味。
これは最高。


そこに、器の底にさびしげに残された納豆なんてあれば、もう落涙モノ。そのしみじみとした味わいには日本人であることの喜びを全身全霊で感じてしまう次第です。


昔は
「コラ!行儀が悪い」
と、よく親から叱られました。でも、叱られながら、ちょっとした罪悪感をオカズにすする猫まんまもまた格別なものですね。



でね、
思いついたすごいことってのは、この猫まんまを商売にしたらどうかと。



其の名も
「猫飯屋」
日本初の猫まんま専門店。これぞ、日本発ファーストフード。でも、日本人の体に優しい食事体系。


「ファーストなのにスローフード」が売り。


時間のない日本人、あんまり小遣いを貰っていないデフレサラリーマン、どんぶり文化、早食い文化の日本人にはぴったりなはずです。


マスコットはもちろん、招き猫。
しゃもじも持った招き猫です。



TVコマーシャルのタレントはオダギリジョーでどうでしょうか。ボサボサ頭、ゆがんだネクタイ、ちょっとやさぐれたオダギリ君が飯粒を顎につけて


「親不孝してみませんか?」ってウインクするの。


ウインクはいらないか…。



どう?ダメ?



からっぽの丼の横にちゃんと出汁をとったお味噌汁と、真っ白なご飯。それに気の利いた一品。あと、ひねたタクアンなどのお漬物。重要なのはこのお漬物。


お漬物はご馳走です。それらをざっと空っぽの丼に流し込み、其の上に、ちょこんとタクアンをのせて、さあ、召し上がれ。



どう?ダメ?



しゃばしゃばっとものの3分で完食。お店の回転率も最高。うん、イケる。きっと儲かる。


それはさて置いて、ここ最近の一番オススメの猫まんまは
「豚カツ茶漬け」です。

①食べ残した豚カツ二切れ程をご飯の上にのせ、
②あらかじめ湯通ししたキャベツを醤油でさっと炒めたものも一緒にご飯に。
③その上から渋めに出した番茶を、ソソと注ぎ、
そこにごま油で炒った高菜漬けをのせて出来上がり。


ミスマッチなようでいてなにをなにを。
油でもたれかけたお口をお茶がスーっと洗ってくれ、なんとも気持ちの良い味わい。満たされかけた食欲が再燃するという仕掛け。


この料理、もとは新宿の「すずや」という食堂のまかない料理だったそうです。今ではその店一番の人気メニューになったということ。ここにも猫まんまの魔力が。


そんな話をしているうちにさっき晩御飯を食べ終わったはずなのに、お腹がなんとなくせつないです。



おそるべし猫まんま。
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# by radiodays_coma13 | 2006-09-28 01:03 | 食べる事と飲む事
朗読の効用
音楽と朗読どちらが好きか?と言われたら、朗読を選ぶというのはやっぱり珍しいのだろうか。



決して音楽は嫌いではない。表現的な青年の王道、バンド活動だってしていたし、僕はデタラメ鼻歌の名人だ。




でも、心が疲れたとき、音楽よりも朗読を選ぶ。




朗読というのも語弊がある。人の声。自分に向けて語られている言葉ではなくて、なんとはなしになにかの文章を読んでいる声。それくらいがちょうどいい。


その人がその人自身の気持ちを書いた文章ではダメ。
へんに表現されているのは聴いていてしんどい。
音楽も邪魔。


ちょうどそういうのが欲しくなる精神状態があるというのが正しいかもしれない。




例えば、色々な仕事で頭が煩雑になって、もう収拾が付かなくなっている時とか。些細な辛いことでなんとなく全てのことがわずらわしくなっている時がちょうどいい。


そんな時、音楽でジャジャーン「元気出せや!」と肩を思いっきり叩かれたら、なんかすごく厭。




なにげない朗読の意味を追うのではなくて、遠くで声が響いている感じがいい。ただ、言葉の抑揚が、心をやさしくマッサージしてくれるということがある。




しかし、そんな都合のいい朗読というのは滅多にない。どれもこれも表現衝動に溢れている。それではこちらが疲れる。




昔、言葉の収集をしていた。こっそり、ボイスレコーダーを忍ばせ、人の会話を録音する。その音質をお風呂の中のようにモコモコにして、寝るときなどに聴いていた。



スヤスヤとてもよく眠れる。



最近はとても素敵なCDを見つけた。「にほんごであそぼ」の全4巻セットのCD。これが僕の宝物。自転車通勤の行きと帰りの往復2時間弱、ずっとそれを聴いている。



子供たちの朗読は本当に素晴らしい。そこに意味は込められていない。言葉の音やリズム、抑揚への喜びだけがある。そして、熟練の者の声とのコラボ。そのメリハリ。とてもバランスがいい。


30分も聴いていると、すっかり頭は空っぽになる。僕もいつかこんな朗読ができたらなとそればかり思う。




本日、ふと、その中にある「雨ニモマケズ」の鹿児島弁バージョンを聴いているとき、本当に自然にポロポロと涙がこぼれた。自分は悲しくないのに、まるで、いっぱいに水が注がれたコップを傾けるように自然に。


雨いも負けぢ
風いも負けぢ
雪せーも、なっの暑っさにも負けん
じょっな体をもっ
よっなこちゃせじ
いけなこがってんはらかかぢ
いってんしずかにわるちゃい
ひしてん玄米四合と
味噌とちっとばっかいのやせをたも
ないごっもわがおばさんにょんいれぢ
ゆーみききをしわか、ほしてけわすれぢ
のっぱらん、松林んかげん
こまんかかやぶのこやよっせ
・・・



僕は意味に涙しているようではなかった。だって、さっぱり意味が分からない。どうやら、その響きに直接コミットしているらしい。それはとても素敵な体験だった。


朗読は心がちぢこまって暗いところでうずくまっている時、どんな音楽よりもやさしく、深いところに、月の光のようにやわらかく光を届けてくれる。


少し、朗読というものの良さが分かったような気がした。


でもしかし「ちんたかなちゃおろいおろいさる」って雨ニモマケズのどのあたりなんだろう…。チンタカした、茶色いおもろい猿がどうかしたのか?


んで、コテコテの神戸(長田)弁にしたらこんなかんじ。


雨にもまけへん
風にもまけへん
雪にも夏暑いのんにもまけへん
めっさつっよい体をもっとー
よくばれへんしー
ほんで、ぜんっぜん、おこれへんねん
いーっつもしずかにわらっとー
一日玄米四合となあ
味噌となー、ちょっとのなあ、野菜食ってなー
どんなんでもわいのんをかずにいれへんで
よーみたりきいたりしてわかってる
ほんで、わすれへんねん
野っぱらのやー松のやー林のやー蔭のなあ
ちーちゃいかやぶき屋根におってな
・・・



で、最後が

「そんなんにわいはなりたいねんや!」

コレイイネ!

「そんなんにわいはなりたいねんや!」

なりたいんか!そーかそーか
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# by radiodays_coma13 | 2006-09-26 01:14 | 声について
ダイアログインザダーク
もし、明日、視覚を失ったら、それでも生きる気力を維持し、元気にやっていけるだろうか。少し自信がない。僕はデザインの仕事を失い、創作活動を中止せざるを得なくなり、日常生活にも究極に支障をきたす。


それほど、視覚に頼った日常を送ってきた。驚くほど意外に。それは失ってみて始めて感じるものである。


あるイベントに招待してもらった。DID(ダイアログインザダーク)。それは数人一組になり、完全な暗闇の中をツアーするイベントである。我々はその暗闇の中で様々な体験をすることになる。


まず、完全な暗闇に入る前に、我々はうす暗がりの準備部屋に入り、視覚障害者用の杖を手渡され、ほんの3分ほどの簡単なレクチャーを受ける。それだけ、それで、さあ、いってらっしゃい。


え、まさかね。





路頭に迷う一同。


そこで、我々をナビゲートしくれるのが視覚障害者の方という仕掛け。



僕はなにか大きな勘違いをしていた。今までまともに彼らと会話したことがなかった。道で困っている彼らに出会っても、怖くて、近づくことさえできなかった。しかし、それは無知からくる恐怖だったのだ。


僕には彼らの住んでいる世界がわからなかった。視覚を持たないと言うこと。それは僕には想像の域を超えていた。ともすると、視覚を持たない彼らは社会的弱者、言い方は悪いが「気の毒な人」という意識がどこかにあったことは否めない。


しかし、暗闇の中では違った。


我々は彼らを頼るしかないのだ。暗闇の中の障害物、様々な足場を縦横無尽に移動する彼の名前を僕らは呼び続け、互いにぶつかりながらよちよちと暗闇を進んでゆく。


暗闇の中の彼は、ひじょうに機敏で、饒舌で、大きな存在だった。それは実は現実でも同じことだと思う。ただ、我々が立ち止まらないだけだ。できれば彼らから目をそらし、みないことにして、生活したいだけなのだ。


彼らには彼らだけが持ちうる感覚がある。それはある部分で健常者よりも優れている。


目が見えないというのはひとつの能力なのかもしれない。


そして、健常者である我々がいかに、健康な自分の上にあぐらをかいているのか。しかし、それは実は湖上の薄氷一枚なのかもしれない。



眼はあいているが、何もみていない
耳はひらいているが、何もきこえていない
何事かしゃべってはいるが、何も語っていない
ただ、木偶のようなわたし



闇の中に一時間もいると、不思議なことが起こりはじめる。何かが目覚めるのだ。近くの人のシルエットを感じるようになったり、においと音のみで、光を感じたり。闇の中で味覚が敏感になったり。極めつけは、闇の中で演奏されたジャンベの音。それはひとつの楽器が出すとは思えないほど、バリエーションと色彩を持っていた。


いや、そんなことではない。もっと不思議なこと。


闇の中で我々は知らない人同士で声を掛け合い、手をとり合い、誘導し、譲り合い、助け合った。


そう、街の中で、視覚障害者の求めている行動とはこれだったのではないか。大げさな良心ではなく、さりげない気遣い。できるような気がした。今度、彼らに会ったらさりげなくその手をとることが出来るはず。


人は本当に弱い立場に立ったとき、やっとやさしさを思い出すのかもしれないな。そして、意外に、人はやさしく出来ているとも思った。


で、オマケ。「もう、ここで、暗闇はおしまいです」うっすらと暗闇の中に漏れる薄明かり。わたし達は一目散にそこに歩み寄った。後ろで、ナビゲーターの声がする。


「すいません、わたしを置いていかないでください。」


それを言われたとき、みんな、下を向いて、気まずそうな顔をしていたのが印象に残っている。少しずつ変わっていこう、そう心に誓った。


(PS:もし、あなたの街で、DIDが開催されることがあれば是非、足を運んでみてください。どんなアトラクションよりも、刺激的で、気持ちよい体験ができるはずです)
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# by radiodays_coma13 | 2006-09-16 01:04 | 感覚について
詩人類の行方
「詩人類T-shouts!」のことがエキサイトのニュースで取り上げられていました。取り上げていただいた。さすが、反響があるものですね。Exsite blogにしてよかった。うふふ。

マイミクの人からも「みましたよ」と何通かメールいただき、なんだか、とても嬉しかったです。

ともかく、当日、イベントに起こし頂いた方々、いろいろと暖かいお言葉をかけてくださった方々、あつくお礼をもうしあげます。

詩人類がいよいよ動き出しました。さあて、どこに向かっているのでしょうか。僕にとってようやく、本気で、詩人をバックアップするお仕事が現実のものになってきたという感じでしょうか。

コツコツと続けると、いつの間にか座席が用意され、穴にはまり込むように、ポコンと形になることがある。それはもう、そうなんです。きっとそうなっているんです。地道にコツコツ、気の遠くなるような作業が突然、ポコンと形になる。


僕にとっては言葉のTシャツを作ること、文字や言葉をデザインをすること、詩人を演出すること、つまり、詩人の新しい仕事を創り出すことがそうだった。


僕自身、驚いている。
驚いているのは、僕だけではないだろう。主宰の桑原滝弥も、そして、イベントを支援していただいている久米繊維工業久米社長もそうなのではないか。このイベントに関わる多くの人が今、ジェットコースターの席についた。


それぞれの持つビジョンが、このイベントでがっちりと結びついた。幸せなイベントです。ビジョンがしっかりとあり、それをそれぞれの分野で実績があり形にできる人材が集まったのですから。


「ないものをつくる」
これこそがモノツクリの仕事だとそう思います。
それは奇をてらうことではなくて、多分、自分の仕事を「特別」だと思うことなんだと、そう感じることができるようになりました。


自分の仕事を「特別」と感じられる多くの人たちに囲まれていると、本当に仕事が楽しくて楽しくて仕方がなくなります。それはとてもラッキーなことです。


さて、詩人類がどこへ向かうのか、近いうちに公表してゆこうと思います。今はまだ、内緒。ここで、さらっと言っても、おそらく誰も信じてくれません。


それを信じてもらうための仕組みを形にしてから徐々に、全体を発掘していこうと思います。僕はなにせ地味な仕事が大好きですから。うふふふ。


ありがとうありがとう。繰り返し、おじぎをします。

(詩人類T-shouts!の9月9日イベントに関して久米社長のblogでも取り上げていただきました! http://kume.keikai.topblog.jp/



ps:ところで、いつになったら、僕のベイビーは僕に会いに来てくれるのかしら?
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# by radiodays_coma13 | 2006-09-15 00:28 | パフォーマンスの現在
不味くなる星
「地球が一個の果物だったら、千年前と今とではきっと不味くなっている。地球もだいぶ時間がたって傷んでいる。その腐敗を推し進めているバイ菌が繁殖しているからね」


そんなふうに、おとつい、ヒッポリッタ星人が言ってました。


「日本も随分、不味くなった」とうちの母親が言う。


「昔のねぇ、トマトはねぇ、こんな味じゃなかった」

ああ、うちの母も相当、ボケがきてんなあ。


だいたいにして思い出の味というのは記憶の中で美化されてゆく傾向がある。歳をとったら誰も「あの時の〇〇は美味かったわいの~」と鼻水をすすりながら言うようになるのだ。そんなことを小さい頃から、散々うちの母から聞かされてきた。トマトもナスも、スイカもかぼちゃも、魚も肉も、なにもかも。


「ああ、ハイハイ、わかりましたよ」
ああ、ヤダヤダ。こんなふうになりたくない。美味しく食べりゃあいいじゃないか。何を食べても「あの時の味」を持ち出す母の鼻をいつか明かしてやろうと思ってました。


うちの母の父、つまり僕の祖父はかなりの美食家だったらしく、戦争当時、珍しかったチーズを、おにぎりを入れるバレンに入れて持って帰ってきたことがあったそうです。


…皆が寝静まった深夜、厠に行こうと、幼い母が居間を通りかかると、祖父がなにやら箸の先に白いものをつけて舐っていたのだそうです。祖父は母を見つけると、少し、不機嫌な顔をしつつ、母を招き寄せると、「いいか、みんなには内緒だぞ」と箸の先についたその食べ物を味見させてくれたそうです。それはそれは得も言われぬ美味だったそうです。


母は幾度となくそのチーズの話をしてくれた。
おかげで、僕はチーズへの憧れを抱くようになり、いつのまにか部類のチーズ好きとなった。いつか、母の食べたそのチーズを母にもう一度食べさせてやりたいと思った。しかし、本当に世界中のいろんなチーズを母に持参したが、どれひとつ首を縦にはふらなかった。

僕はこう思うようになった。
「そんなチーズは存在しない」
それは母の頭の中だけにしかないのだと。ただでさえ食物のない戦時中、そんな子供が真っ白でクリーミーで滋養にとんだ食べ物を食べたらさぞ美味かろう。そして、普段は厳しかった祖父がその時、自分だけに、内緒のチーズを舐めさせてくれたこと。これらが思い出の味を難攻不落のものにしているのだ。


そして、ある日のこと。
岡山で小さな個人牧場を経営している知人に、なんの気なく「母のチーズ」の話をしてみた。母はちょうど岡山倉敷出身だったからかもしれない。

そしたら、

「ああ、もしかしたら、それはあれのことかもしれないな、来月くらいにもう一度、ここに来てくれたら、分けてあげるから…」


もちろん、いきましたよ。それは牛が子供を産んだ直後に出る初乳を攪拌して作られた、チーズではなく、バターでした。指に付けて舐めた、それは甘く濃厚でいて、清涼感がある不思議な風味で、ホワイトチョコのような確かな歯ごたえがあるのに、まるでアイスクリームのように口の中でとろけました。僕は何かを直感しました。


僕は昔と同じように、バレンにそのチーズを入れ、母に渡しました。母は箸の先にそのバターをつけ口に入れました。それから、頷く代わりに、静かに涙を流しました。



昔の味は確かに存在したのです。



本当に、なにもかも不味くなってきている。全てが押しなべて不味くなってきているのに、僕ら現代人は気が付きようがない。だって、そもそも美味しいものの基準がなくなってきているんだもの。


要因はたくさんあるんだろう。
作り手の都合による大量生産、乱獲や汚染による環境問題、近代農業の技術的な問題。それらが複雑に絡み合ってとてもややこしい。今更、人の糞尿を使って堆肥農業に戻そうって言ったって、そりゃ難しい。だいたい、豊かな堆肥を作るのに、半年以上はかかるそうだ。化学肥料に頼る気持ちも分かる。


でも、10年後、自分の子供たちに、「昔のトマトは美味しかったよ」なんてことを言っていたくはない。でも、なんだか、未来は絶望的だ…。


先日、青山で、ある会社の社長さんとデ~トをした。その社長さんはプレゼントですといって僕に紙袋を渡した。さぞや高価なものだろうと思ったら、ただのピーナツバターだった。「けっ、しけてやがんの」と思って、家に帰ってテーブルの上に放置していたら…


「きゃ~、なに!?このピーナツバター!」と妻が言ういうので
「どうしたの、傷んでるの?」
「うううん、信じられないくらい美味しい!」


そのピーナツバターは本当にどうしたんだろうというくらいに美味しいピーナツバターでした。本当に純粋にまざりっけなしの新鮮でまともなピーナッツをきちんと、丁寧にすりつぶしただけのピーナッツバター。ただ、それだけ。


まだまだ、捨てたもんじゃない。
地球には美味しいもの、いや、違うね、まともな食べ物がまだまだある。まともは決して難しくない。ただ、面倒くさいだけなのだ。ゴージャスであるということではなくて、「まとも」ということがどんなに貴重なことか。信じられないくらいたくさんの偽モノのなかにある、まともな食べ物に出会ったときの、嬉しさはもう、なにものにも変えがたいものです。



10年後の地球にはまともな牛がいるだろうか?


ピッポリッタ星人がさっき
「もうだめ、コレ腐ってる」とナプキンを外しました。
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# by radiodays_coma13 | 2006-09-13 00:10 | 食べる事と飲む事
「炎上」にみるネット的発言
ネットには「炎上」という言葉がある。僕は2ちゃんねらーでもないし、ネッター?でもないので、詳しくはないのだが、ある発言に対して、批判や反感が殺到する状態をいうのだと認識している。


「炎上」ときくと駆けつけないではおれない。昔から火事ときくと自転車漕いで駆けつける祭りと火事が好きな江戸っ子的野次馬である。(江戸っ子じゃないけどね)


アフリカのサバンナでライオンにやられているシマウマを他のシマウマが輪になって見物するそうだ。それはいつ自分も食べられる側になるかもしれない環境での、精神的な予行演習ともいえる。



「メメント・モリ」死を思え。




炎上するのは有名人とは限らない。
先日も(mixiだったとおもう。)ある疾患をもった人への誹謗を書いた一大学生の日記が炎上し、その関係機関を巻き込んだ大惨事に発展した。


僕は気弱だし、とくに政治的な主張も持ち得ないので、そういった炎上発言に対してどうこういうつもりはまったくない。ただ、その現象を生み出す、世間の目や常識というものに対してものすごく恐怖を感じている。


いつ、自分が餌食になるのだろう。。。


もしかしたら、一般常識を持ちえている人にとっては、そのルールはたやすいハードルなのかもしれぬ。しかし、僕にはよくわからない。まったくもって…。


阪神大震災の時のこと、僕は駅でパニックになる人々を目撃したことがある。動かない電車に向かって暴走する人と、駅の外に出ようとする人、そのエネルギーが狭い構内で激突して、パニックは起こった。僕は死を予感した。


ネットだけは異文化、多言語の多種多様な発言が許される場であると思っていた。また、それが、インターネットの有意義な面であると。しかし、実はインターネットは、人知を超えた、ひとつの大きな意思を作り出す環境でもあるのだ。


何百、何千の鳥や魚、蟻の群れがひとつの生命体のように見え、そのように振舞うことがある。しかし、人間は、各自に意識や思想を持ち、そんなことは起こりえないというイメージがある。しかし、それは単なるイメージだ。


様々な思想や文化があるようでも、人間が3名以上あつまると、そこには共鳴現象がおこる。簡単な例でいうと、1000人を超すようなイベントでも、ひとつの拍手は簡単に共鳴する。
問題なのは、共鳴しないでいることが難しいという点だ。


インターネットでも一見、自由な発言をしていると思っていても、自ら、多数の意見に共鳴してしまうということが起こる。そして、その巨大なエネルギーが誰かに向けられたとき、そこに暴力の起こりうる可能性がある。


僕はそれが自分に向けられることを恐怖する。おそらくおとなしく生きていれば、向けられることはないかもしれない。しかし、それは恐怖症なのだ。高所恐怖症や、先端恐怖症のような群集恐怖症。


悲しいことに、僕は人前に立つことがある。一対一では、元気に明るく、ハイテンションで接していても、5人を越えたあたりで、僕には彼らが個人ではなく、ひとつの生命体のように見えることがある。


もし、万が一、自分が誤った発言をするのではないかと思うと、もう、怖くて頭が真っ白になる。個々は親しい人々であっても、群れると、猛獣のように見えてくる。


皆は本当に怖くないのだろうか?
自分が間違った発言をしない自信があるのだろうか。僕にはちっともない。良識をもった人のように振舞う努力を日夜している。でも、きっと間違えている。間違えて舞台の上でギロチンにかけられる夢をみる。


だから、僕は道徳の勉強をおこたらない。それが僕がとても勤勉なことの理由。ギロチンにかけられちゃかなわない。


でも、ひとつだけ、わからないことがある。なぜ、どうして、僕はわざわざ舞台に立つのだろう…。僕は舞台に立った次の日、確実に熱を出す。二~三日は夢でうなされる。舞台に立った瞬間、恐怖にすくむ。僕はきっと、絶対に確実にマゾだ。



バカだろ、お前。



でも、そんな自分が愛おしい。高所恐怖症で、閉所恐怖症で、暗所恐怖症で、広場恐怖症で、先端恐怖症で、群集恐怖症な自分が。「よくぞ、自分!」といいたくなる。高いとこも狭いとこも、暗いとこも広いとこも尖ったものも、みんなのも前もものすごく怖いのにものすごく大好き。大好きなのに、怖い。



バカだろ、お前。


「間違えてみる」


僕の最も好きな行動です。間違えて落ちる。間違えて閉じ込められる。間違えて刺さる。間違えて炎上する。正しいことは確かにあるのかもしれない。でも、間違えてみる勇気と、心の余裕は失いたくないね。


僕が最も恐怖し、嫌うのは「正しさ」という暴力です。その力の前で人は全くの無力です。ただ、ひとつの正しさというのはひとつの群れに過ぎないのでしょう。それが一国単位にもなると簡単に戦争に発展したりする。


それが怖いのです。群れには間違えるバカも必要なんです。きっときっと。それが生命の多様性の意味だと一人納得しております。


「平気でうそをつく人たち」を著したM.Scott Peckは、群集の中に潜む本当の悪を解剖し、悪を科学しようとする勇気ある精神科医です。そして、最後に彼のメッセージです。


「自らの中にある正義の目は監獄に似ている。その暗闇の中でもっと邪悪なものが芽生える」

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# by radiodays_coma13 | 2006-09-11 02:34 | 考える
Tシャツ文化の可能性
染色を生業にしていた頃がある。自然の植物から繊維を取り出し、糸を紡ぎ、ハタを織る。そうやって気が遠くなる手間をかけてできた生地を自然の植物から取り出した染料で染める。


繊維から、染料、触媒まで、全ての素材を野山に行って自分達で調達する。そうやって時間をかけてこしらえた布はある意味で、現代という時代からは逆行しているように思える。


こんなスピードの時代、値段は高いし、どこにでも売っていないし、洗濯機で洗えないような草木染。でも、なぜか商品は結構飛ぶように売れた。


一方で、安価で一人一人にカスタマイズされたデザイン、丈夫で長持ちのTシャツはどこにいっても簡単に手に入る。Tシャツだけを売るインディーズショップを最近街中でよくみかける。


この二つはまるで違っているように見える。しかし、これらのものを人が欲する理由にはかなり共通したところがある。それはなにか。


モノがなかった時代、人々は衣食住の必需品を手に入れることで精一杯だった。でも、それらが満たされた我々は「どんなものを手に入れるか」ということに頭を痛めるようになった。


流通も不確かな時代、農民は農民の身なりをしていた。坊さんは坊さんの格好をし、与太は与太、商人は商人のユニフォームを着ていた。それしか手段はなかった。スタイルはそのまま、その人の人とナリを伝えていた。


しかし、今、そんなに無理をしなくてもどんなものでも手に入る時代。モノはあらかじめ行き渡り、価値観もなにもかもお金で買える時代になった。昔のように一見しただけで、その人の経済状況や職業を判断するのは難しくなった。


価値観があらかじめ壊れて、平たくなったこの現代を、ある美術評論家は「スーパーフラット」と表現する。しかし、だからこそ、今、自分の価値観を表現することが意味を持つ時代である。


人はブランドに身を固め、好みの音楽に合わせてスタイルを変え、しゃべり方や性格までカスタマイズする。自分自身を着替える時代がやって来たのだ。


モノはただ良いだけでは売れなくなった。「それがなにと繋がっているか」をハッキリしないと誰も買わなくなってしまったのだ。誰のために?このメッセージを忘れると、買ってもらえない。


「人はもう商品を買わなくなった」と言われる。では、何を買っているのか?わたし達は「関係」を買っているのだ。


現代における染色とTシャツが同じ意味を持つのはココです。つまり、何に繋がろうとしたのか、ということ。


草木染はナチュラルやエコロジー、地球に優しい自分に繋がりたくて、購入する。Tシャツはいわば自由ノート。セックスピストルズが好きだったら、破れた服を着なくても、ピストルズと書いてあれば、それでいい。Tシャツに森の絵を書けば、メッセージとしては草木染と同じになるわけです。


もちろん、草木染めはまったく別物です。風合や肌触り、機能性もTシャツとは全く異なります。これは喩えです。でも誰もが草木染を買えるわけではありません。


今の日本人にとっては、自分が何と繋がっているのかというメッセージの方がより大きな意味を持つということです。そういう意味でTシャツはものすごく現代的です。もうメッセージボードそのものです。衣服以上の意味を持っている。いや、衣服の意味の部分だけを抽出したような存在とも言えます。


きっと、今後、Tシャツはもっと大きな文化をつくっていくと思う。もっとメッセージを自由にカスタマイズできるようになり、個人のメッセージだけでなく、団体のメッセージやピクトグラムのような意味を持つサインとして。自分のメッセージを発信するだけではなく、メッセージを交換したり、自分自身へのメッセージとしても発信する。衣服という存在を超えて新たな意味を持つかもしれません。


それは新しいメディアとなって、情報を発信していく場になっていくでしょう。例えば、自分の絵や詩をTシャツにして、街で出会ったらサッカーの試合終了後みたいに、お互いにTシャツを交換したりできたら、本当に素敵だなぁ。



素敵と思った人は
「詩人類T-shouts!」
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# by radiodays_coma13 | 2006-09-05 23:57 | 考える