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言葉と文化
by radiodays_coma13
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ハードをタフでマッチョに生きる
唐突に。

また、ブログをはじめることにした。
1年以上ぶりかと思う。

仕事と子育てに明け暮れた過酷な日々であった。
でも、どちらも狂おしいほど充実していた。

「書く」ということをやめていたわけではない。
書いてはいた。
書くには書くがそれをwebにアップするというのは精神的な労力を使うことになる。
書いたことにそれなりの責任もあるし
書いたことに対して、自分なりに考え直す時間も必要になる。

そんな時間があるのなら、
仕事と子育て以外に使える時間が1秒でもあるのなら
子供の顔を見ていたかった。
それだけのことでした。

それでもまた書くことにしたのは
「人生はハードだ」ということでしょう。
ハードな人生をやりくりするには
タフでマッチョでなければ生きてはいけません。

最近、好きな言葉なんです。
「ハードをタフでマッチョに生きる」

最近の価値観の基準です。
タフかマッチョか。
豆大福はマッチョで○
ずんだもちは響きがマッチョ
イチゴ大福はペケ
存在が軟派。

大きな台風が近づいてきていますね。
伊勢湾台風級だとか。
台風から逃げる足があれば台風なんて
まったく怖くありません。
多分。
でも、そこにとどまってやり過ごす必要がある。
守るべきものがあるというのは
なかなかハードです。

猛烈な風の中を飛ばされないように立つということ。

足が4本でも5本でも欲しいところ。

でも、今の僕には足が二本しかありません。
子供と仕事。
ハードな風の中をタフに立っているには
マッチョな足があと何本か欲しいところ。

というわけでまた書くことにしました。

追伸
7月に二人目の子供ができました。
今度は娘でした。
「ツムギ」と名付けました。
皆、健やかに暮らしています。
アマ君はもう3歳になりました。
ムシとオンガクが大好きな3歳になりました。
「パパ、今日は早いの?」と電話口で言われると
今でも涙が出ます。
パパは今日も遅いです。
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# by radiodays_coma13 | 2009-10-08 00:35 | ニュース
ポジティブシンキングは素晴らしい?
「ポジティブシンキング」が素晴らしい
「ポジティブシンキング」で収入10倍
「ポジティブシンキング」で彼女にモテた
「ポジティブシンキング」で毛が生えた

というもっぱらな世の中ですが

わたしはあえて
「ネガティブシンキング」をおすすめします。
それをしたところで特に失敗したことはないし、
むしろ、いいことのほうが多いのでそう言っているのであります。
でも、これで収入が増えたり、彼女にモテたりすることはない。
だから安心してください。

「ネガティブ」といって暗いわけではない。
「ポジティブ」をただ明るいと思うのもまちがいな気がするが
「ポジティブシンキング」ってなんだか、明るいことだけと言っているように思う。
つまり、雨がまったく降らないというのと同義。それじゃいつかは干上がってしまう。

  「ネガティブシンキング」=暗いではなく、雨が時々降るということ。

なんだかね、世の中の一面がすごく暗くて、
「ネガティブ」という言葉がすごく嫌なイメージを背負わされていますね。

自殺とか殺人とか。。。


それはネガティブじゃない。
そういうの嫌い。
おそらくね、彼らにしたってポジティブに生きる努力をしたかもしれない。
でも、ガマンしてガマンして、ポキンといってしまう。
もしかしたら、彼らは物事の一面しかみれていないんじゃないかと思えて仕方ならない。
ポキンといってしまわないために時々、いい具合にネガティブな気分に浸るのは健康にいいと思う。

「雨に濡れながらブランコに乗る」とかね。
十分、絶望的な感じですけど。。。
でも、やってみるんです。
すると、すーっと自分の中にやさしい暗黒が入り込んでくる。
目や耳を塞いで拒否していた世の中の事象に対し、暗闇に目が慣れるように見えてくる。
「恐怖」が消えてゆくんですね。
するといろんなことがまんざらでもないように思えてくる。

黒澤明のね「生きる」にでてくるワンシーン。
雪が降る公園でブランコにのって
癌宣告され余命わずかの初老の男が
「♪命短し~恋せよ乙女~」って歌うシーンがあるんですが。

あれ、いいですよね。
あれです。
・・・違うかな

これはポジティブシンキングの人には味わえない感覚です。

***

昔ね、遠足なんかに行ってクタクタになるまで歩いてまだ歩かなきゃならないって時に
後ろ向きに歩いたりしませんでした?
そしたらなんか疲れないんですね。不思議に。
「うしろむきにまえにあるく」
というのが時々人には必要なんじゃないかと思ったりします。

日本にはネガティブな感情を美学までに高めたものがある。
「わび」「さび」「かれ」である。
鬱な感情に対してそこはかとない情感を感じるというセンス
素晴らしいですね。
そうするとことで感情のパレットに色数が増えてくるんですね。

本来、ポジティブ、ネガティブと分ける感覚も
西洋的な二極の考え方ですね。
キリスト教的というか、始まりがあって終わりがある。
正解があってまちがいがある。
光と影みたいなね、考えだと
強烈な躁は強烈な鬱を生み出す。

ポジティブシンキングな世の中が一方でうつ病の人々を大量生産している気がしてならない。
(一応警鐘のつもりです。)

でも、日本はね、「曇りの文化」なんです。
中間色というか、パステルトーン、そういう色味が非常に多い
ここまで微細な灰色の色名をたくさんもつ国は珍しいです。
利休鼠、納戸鼠、藍鼠、鳩羽鼠、根岸、滅紫、エトセトラ
ほんとうに美しい、色の表現があるんです。

日本の文化では善も悪もハッキリ分けないんですね。
その中間を尊ぶというか。

今は亡き偉大な心理学者河合隼雄さんが「中空構造日本の深層」という本を書いています。
日本は中間に大きな空洞を作り出す。その周りを善とか悪とかがあると、そんな構造です。そうだから、善と悪が時に入れ替わる。入れ替わりうる。こんなことは西洋ではありえない。
でも、日本は空洞があるためにそれが可能なのだと。


その例は枚挙に暇がないくらいある。
卑近な例から
・ゴジラ
・ドラゴンボールのピッコロ
・筋肉マンのバッファローマン
昔話なら
・鼠小僧
・石川五右衛門

この大元は
アマテラスオオミカミとスサノオの関係かもしれない。
でも、実はほとんど無名なのだけどこの二人の兄弟にはもう一人の兄弟が存在する。
「ツクヨミ」
三人兄弟のうちの一人、その他の二人については、もう様々な伝説があるのに
ツクヨミについてはほとんど語られない。
それは意図的に語られていないのだと、河合さんは言っている。
つまり、このツクヨミこそが中空の存在なのだと。
この中空を心の中に持つことで、柔軟な心をもつことができる。


そういうわけだ。

日本人ほど鬱気質な民族もない。

でも、日本人はそれを中空の精神を持つことで、心にゆとりを持ち、文化にまで仕上げた。

「最近の自殺増加傾向は無理な精神的西洋化の弊害ではないだろうか」と推理してみる。

「善は善だ!悪は悪だ!」という中で、割り切れない自分の心がある。無理に切り捨てた悪はやがて巨大になり、突然、心を突き破って飛び出してくる。そんなことだってある。

自分の心の中にある悪もやさしく包み込むことができれば、それは結果的に良く働くこともある。

悪い神のシンボル「スサノオ」が「アマテラス」の嫌がらせに、天空を舞いとび、「うんこ」を世界中にまきちらしたことがあるが、それが実りとなり、世界に五穀豊穣がもたらされたというエピソードがある。


ビビットな悪いニュースの多いこの頃であるが、
ビビットになるまえに多少の悪事を許す社会もまた必要な気がしてならない。

すねるとか、いじけるとか、かんしゃくをおこすとか、いじわるをするとか
おとなげないとか言っちゃダメです。
それに付き合ってくれる人が必要なんです。

例えば、僕は昨日、和菓子を食べにいったついでに護国寺におまいりしてきたのですが
他人の脱いだ靴を左右いれかえてきました。

そういう悪はゆるされるべきなのです!多分。

その人は、無理に間違えたまま靴を履こうとして、何度も首を傾げていました。
なかなか気付かないもんなんですねぇ。やっと左右逆と気付いたときにひらめいた!みたいな顔で嬉しそうに微笑んでいました。

なんだかいいことをしてしまいました・・・。

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# by radiodays_coma13 | 2008-07-16 08:41 | 考える
アートは可能か?
「アートは可能か?」

同じような問いかけが、戦後、現代詩といわれるものが難解化し退廃してゆく過程で吉本隆明氏らを中心としてなされたことがある。
なんて意味のない問いかけなんだろうと思ったことがあるが、この状況で今思うと「結果として不可能だったんだな」というオチを感じる。
ハハハ。。。笑えない。

しかし、それはYES/NO如何ではなく、解体するところからはじめて現状の危機という部分に触れるには意味があると言わざるをえない。だいたい、こんな問いが出たこと自体、詩の、もとい「現代詩」の危機だったんだなと思う。

つまり「我が社の存在は可能か?」という問いが出たのと同義なのよね。

で、今「アートは可能か?」と問わざるを得ない状況が目の前にある。
これに関して、きちんと自分で考える時間を作らねばと思ってきた。

ミュージシャンをアーティスト、イラストレーターもアーティスト、パティシエもアーティスト。なんでもかんでもアートと表現することが多いというのは誰も認識していることだと思うが
最近こんな問いかけを耳にする
「ゲームはアートだ」

これは末期症状だな



***


では、
「アート」とは何か?

アートとはもともとラテン語の「アルス(ars)」という「技術」という意味を持った言葉である。しかし、ここで言われているアートはその意味とは違うものを背負わされていることがハッキリと見てとれる。

例えば、なにか人知を超えた可能性というか、神秘主義的な響きが多分に感じられる。
人はわからないものをして「アートっぽい」ということがある。
わからなくても「アート」であることでなんでも許されちゃう一面まで持っている。

つまりアートという言葉は「免罪符」なのだ。

アートであることである批判を免れることができる。アウトサイダーもイリーガルな存在もアートと名乗れば誰もそれを簡単に断罪したりできない。

社会から批判や疑問符を投げかけられると、決まってアーティストと呼ばれる人たちは声を揃えてこう言う。
「アートですから」

しかし、個人の考えですと断っておきますが
すべての音楽がアートだとは思わない。
すべての絵画がアートだとは思えない。
そして、すべての詩や映画がアートである必要性がどこにあるのか?
ましてやゲームがアートだなんてなんのメリットが?





ひとつある。




ゲームはアートであることで、批判を免れるのだ。
ゲームは今までも批判の的だった。「ゲーム脳」しかり「暴力の温床」しかり。
しかし、あえて、「ゲームはアートですから」ということで音楽同様、社会からの批判を免れえる。

本来、おそらくアートの難解さは「現状の認識に問いかけを投げる」という至上命題から始まっている。現状の認識から異なるゆえに、「今、知っていること」や、「今もっているものの見方」では捉えることができない。しかし、決して、わからないことがアートではない。わからないで済ましてしまってはアートの存在意義はない。

アートとはそのわからないものに接して変化する人の精神状態のことを言うわけで、モノではなく現象と言い換えた方がいいだろう。それを喚起しない作品は「アート」と呼ぶにはふさわしくない。

そもそも「アート」たらんとする鼻持ちならないアートがなんと多いことか。その時点で、すでにその作品はアートであることをやめていると言えないだろうか。「わからないもの」というラベルが貼られた時点で、それは人に問いかけたりしない。

それはアートっぽいという雰囲気であって、香水みたいなものだ。いつも度を越して臭い。
アート臭い。

アート体験って、ちょうど映画「SAW」の極限の状態で密室に閉じ込められた二人に近い。目が覚めると、相手と自分。食うか食われるか。生死に関わる出来事。極限といっても予定調和のジェットコースターとはワケが違う。その衝撃こそアートに最も近い。


***


ゲームに話を戻す。
ゲームはそれが取り巻く環境を含め「カルチャー」ということはできるだろう。
しかし、アートといった時点で、ゲームが失う大きなモノがある。

それは「娯楽」という使命である。

「わからなくていい」は「わかってもらえない」という気持ちの裏返しでしかない。アートということで一般の評価から逃れることができるのだ。しかし、我々、プロの製作者はわかってもらえなくては通用しないのだ。

絶対に楽しませなきゃいけない。

「ピアニストを撃て」という映画があったが、ピアニストも戦いの弾の当たる場所にいなければ存在意義がないようにゲーム製作者も娯楽という立ち位置から離れたらその存在意義を失う。そのお立ち台に立てたものだけがパブリックな発言を許される。まずプロであること、人々からお金をもらってはばからないものをつくり、批判もうけいれること。その上なされた発言が意味をもつのではなのだろうか


じゃあ、人が個人で作る作品はどうなんですか?と批判されるかもしれない。
「それは娯楽でいいじゃないか」

なぜアートである必要性があるのか。
癒されるのもOK、そのことでいろいろ考えられるのもOK。だとしたら立派な娯楽じゃないかと思う。結果として、そこに人々を感動させうる作品が生まれることもあるだろう。それは結果アートだっただけだと思う。

「アートをしよう」「アートであろう」という発想から実は真に意味のあるものは何も生まれない。アートである前にまず「娯楽」であること。娯楽でないということはその力量がないということ。それしか作れないものに、どんなパンチが繰り出せるというのか。全てのつまらないアーティストを差別し糾弾すればいい。そして、それに対して彼らは戦う必要がある。それに対抗するだけの力が彼らには必要なはずだ。

彼らにアートという免罪符を渡してはならない。それがいやなら、思い存分、自分ひとりの世界にひとりで浸ればいい。

「アートが可能か?」という問いに対して、「アートは可能だ」というテーブルに立ってはならない。アートは人に突きつけられた疑問符と言い換えることができる。それは最も暴力に近い。だとしたら許された暴力は国家の暴力と等しい。国家の暴力は歴史の中で常に悲しい結果を招いてきた。そんな暴力を許してはならない。
つまり
アートは可能であってはならない。
そして、可能であってはならないところで可能になるべく起こる運動である。


そして、卑近な例でまとめれば、ゲームはつねに時代の矢面に立たされなければならない。どんな批判にも甘んじて耐えなければならない。「ゲーム脳」しかり「暴力の温床」という批判にも。そして、それに対して、「ではどうすればゲーム脳にならないか」その答えをゲームで表現すればいいだけのこと。

アートと言った時点で、やるべきことはなにもかも失われてしまう。
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# by radiodays_coma13 | 2008-03-10 01:21 | 考える
パクチー万歳!
このほど東京にパクチー専門店が登場したそうです。
これはうれしい。
(ニュース元「パクチーの愛好者が近年増加、東京には専門料理店」

パクチーをこよなく愛して30年。
当時はまだベトナム料理やタイ料理もめずらしく。専門店はなかなかなかった。地元、神戸の北野には様々な異国料理専門店や海外の食材を扱う店が多くあるが、僕はその外国の食材を扱う店ではじめてパクチーを買ってきた。ただ、食材としてパクチーを買ってきたのだ。調理の仕方も分からないのに。


カメムシの味がした。。。


世界は広いと思った。


ちょっぴり吐き気がした。



この感動こそが知らない食材を食べる醍醐味である。

その後、「フォー」というベトナム風うどんにこのパクチーを入れたものを食べた時はなんて活かした野菜なんだろうと思った。これに代わる野菜はありえない。まさにかけがえのない食材なのである。それだけで素晴らしい。オンリーワン

これをはじめて食べようと思った人は偉い。
いや、むしろパクチーでなくてもよかったのではないか。つまりまだ世の中には誰も食べようとも思わない草が存在していて、かけがえのない個性を秘めたまま眠っているかも知れない。パクチーはたまたま、強引な誰かによりその才能を発揮されただけなのだ。

「ニンニク」
だって日本の在来種が存在するがその可能性は薬草としての役割しかなく、とんでもなく臭い草という認識が一般的だった、それを発掘し、文化にした国があり、ニンニクは一躍スターになった。一旦、認知されるとその個性は魅力へと変貌する。


よくある話しですね。


僕も、まだ知られざる個性をもった草を探して幸せな文化との出会いをプロデュースしてみようかと目論んでみたり。。。
身近なところで「屁糞蔓(ヘクソカズラ)」なんてどうだろうか。食べれないんだろか。
可憐な花びらに似合わないあの香り。そのギャップが恥じらい文化日本にうってつけだったりしないかな。しないか。
屁糞うどん
屁糞あんかけ
屁糞トッピング


ごちそうさまです。。。


国ごとに野菜や魚でも本当にチャンネルを変えたように異なるが、食材の必然性は文化が支えているということなんでしょうね。こんなに近い韓国と日本でも並んでいる野菜や魚はまったく異なりますからね。日本にあるべき魚、あるべき野菜。そしてパクチーは日本で発掘されることはなかったでしょうね。

つまり「蓼食う虫も好き好き」ってやつですな。


パクチーを前にして自分の才能も本当にここが活かしどころかというのを考えさせられます。
自分のあるべきところにいけば、もっと評価されるってこともあるんですよね。
(なんで、僕のところに歌手のスカウトが来ないんだろか)

***

余談:
昔、彼女と中華街をデートして、パクチー嫌いな彼女の前でまちがってパクチーを食べてしまった。まあ、その後何事もなくいい雰囲気になり、おしゃれにキッス。までは良かったのですが、いきなり彼女に嗚咽されました。


余談でした。

おしまい。
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# by radiodays_coma13 | 2008-03-03 23:08 | 食べる事と飲む事
最高のおむすび
僕も子を持つ親として、定説通り涙腺がゆるくなった


昔から涙腺がゆるかった方なので、ゆるゆるである。

でも、自負がある。
TVでやっている感動秘話感動巨編感動スペクタクルとか、感動なんとかと名のついたものでは泣かないというポリシーである。

世界が泣いても俺は泣かない。

それがリアルであれば泣きそうになることはあるが、ありがたいことに、ちょうど良いタイミングで感動的なBGMが流れてくれるので、心はカラカラに乾いてくれる。

   そういうわけでなんとか今まで泣かずに済んでいる。

チープな頭のTVマンの三文演出なんかで泣けるわけがない。なんてね。
おそらく、これは僕もものつくりの一員として作り手の視線で接しているからなのだと考えられる。どうしても製作現場の考えや裏側が見えてしまい
「ここは演出だな」とか
「ちょっとやりすぎだな」とか
心から楽しめないのだと思う。
悲しい職業病である。



これじゃあ、ゆるゆるどころか、氷のハートだと思われそうだが
僕にはスイッチオンで泣き出してしまう種類の映像がある。
それは「食べ物を食べている人の映像」です。
しかも、感動的でなくても、ただ、一生懸命食べている映像を見るだけでなぜか涙がこぼれてしまう。TV側もそんなことで泣かれるとは思っていないから、ヘタなBGMを入れないので思い存分泣くことができる。

よく隣にいる奥さんに、なんでここで泣くのかと不思議な顔をされる。

***

「食べ物」をテーマにした映像で僕がお勧めする映画は

■「カモメ食堂」この映画は全編ズルい。
特に主人公サチエがキッチンに立って調理する音。気持ちはぴしゃんとします。


■「千と千尋の物語」ハクが千尋におむすびを持ってきて食べさせるシーン。「ひとつぶひとつぶ願をかけて結んだ」というようなセリフがあったが、僕も千尋を同じ大粒の涙をこぼしました。


テレビでは
■「食彩の王国」これだけはみているという番組。食材に秘められた歴史やストーリーを聞くだけでジーンとします。晩御飯は確実にその食材になるという番組です。


あと今までにこんなにもTVで泣いたことがないというある番組のある一話があった。

■「田舎に泊まろう」という番組の
勝野洋さんだっけかな、その俳優さんが九州の田舎のおじいちゃんとおばあちゃんの二人暮しの家に泊めてもらうというもので、勝野さんはお礼に手打ちのお蕎麦を二人にごちそうするんですね。その時、おじいちゃんはもううれしくてうれしくて、「こんなにしてもらって、もうほんとうにありがたい」と言いながら、お蕎麦をすするんですね。もう、手をあわせて拝むように、大事そうにズルズルとね。おじいちゃんはあまりのうれしさに泣いているんですね。それでもズルズルとお蕎麦をすすって。


書いてて思い出し涙しました。
まあ、それだけなんですけどね・・・。
心が込められた食べ物ってなんでこんなに感動的なんでしょうね。

時に、作る側の気持ちと食べる側の気持ちがシンクロした時の感動と言ったら、どんな言葉にも代えがたいです。

ささやかだけど、強く確かな心の通い合いがそこには感じられる。


だから、外食をあまりしないのです。
外食でその心を感じられることはめずらしいです。でも、ちゃんとあります。そういうお店は美味しくて僕が泣いていると(よく泣きます)ちゃんと店のご主人も泣いています。
言葉は時に不毛ですが、こういった種類のコミュニケーションは時に言葉よりも心を溶かします。


うちの家庭の場合、ケンカすると、次の朝、こっそり早起きして僕が平凡で最高の朝ごはんをつくります。するとケンカはだいたいきれいさっぱり終わっています。

***

でね、ここまでは前置き。(ナガっ!)


最近、ついに極意を掴みました。
それはおむすびの極意です。
ある朝、ご飯を結んでいたら、頭に光が差しました。
なんといったらいいのかわからないんですが
今、結んでいるおむすびはおそらく最高のおむすびだろうという確信です。
直感なんですが、手の感じとかとか、匂いツヤそれらのバランスが僕が今までで食べた最高のおむすびに近いという確信。
それはもちろん、自分の母親が握ったおむすびです。
よく母がおむすびを握る手を眺めていましたが、ぴったりその音と自分の音が重なったのです。

で、海苔をあぶって巻いて、奥さんにできたてを手渡しました。
食べるまでドキドキして見つめていましたが、奥さんはパリリと一口ほおばり、じっとおむすびをみつめて、そのあとむしゃむしゃと無言で食べきり、最後にボソリと
「このおむすび美味しい」と言いました。
涙がでるほど嬉しかったです。


今は息子がそのおむすびを食べてくれます。
食欲がなくてもおむすびを結んであげると食べてくれます。


幸せです。
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# by radiodays_coma13 | 2008-03-02 01:42 | 食べる事と飲む事
著作権という武器
ものをつくるというのは
自由なようでいて自由ではない。
むしろ一番、自由じゃない職業じゃないかと思う。

好き勝手につくるということはおそらく誰にでもできるだろう。
でも、それで食べてゆくというのは尋常じゃない。

社会のルール文化人の嗜好
誰にみてもらいたいのか何を伝えたいのか
そしてセオリースキル会社の都合

こういうものに縛られて、本当に考えて良いものをつくろうとすると
その中にあって自由であるということがいかに難しいか。

「作りたいものをつくって、それで売れればいい」


「アーティスト」や「クリエイター」と言われる人によく会う機会があるが
よくそういう話をきく。
しかし、それができる人は本当に一握りのラッキーな人だ。
それに成功している人に会うと、その意思の強さは普通じゃない。
ああ、この人ならそれができるんだなと納得させられる。

僕のようなのは、日々、会社の都合や、社会のルールにおびえてものつくりをしている。

いざ、それで飯を食おうとすると、社会のルールや会社の都合は、憑依霊のようにかぶさってきて、自分が何を作りたいのかさえ忘れさせてしまう。


***


今日の話題はその中でもやっかいな社会のルールである
「著作件」の話。
ものつくるというこはこの著作権との戦いと言っても過言ではない。
まともに向き合うとなかなかやっかいな敵だ。
僕は今までたくさんの著作物を世に送り出してきた
しかし、自分が作り出したものがなぜか自分の自由にはならない。


僕は前に自分のいた会社に
訴えられました。

こんなに悲しいことってあんまりないですね。

1.僕のデザインのテイストが、
2.僕のイラストのテイストが、
3.僕のゲームのロジックが
4.僕の企画が、
5.僕のアイデアが
僕のものではなくなるのです。

明日から、他人なのです。それを使ったら訴えられるんです。
まあ、そういう契約なので言われても仕方ないのですが、
極端な言い方をすると、明日から僕は仕事できなくなるのです。
自分の真似をしただけでも、違法なのです。


まあ、結論を言うと、強力なバリアーと地雷を仕掛け
先方が手出しをできなくしましたが。
こんなこともあろうかと、事前に弁護士弁理士に相談していたのです。

(しかし、むしろ前の会社に著作意識を植え付けたのは僕自身なんです。
つまり、猿に持たせた武器にやられた愚かな人類のようになっています。)

もし、これからものつくりになろうという人がいたら是非、
しんどいですけど、著作権周りだけでよいので、勉強してみてください。
わたし達は自衛をするべきなんです。
じゃないと、法人にむりしとられます。
本来、著作権は個人を守るための法律で、それがビジネスの名の下
歪められるのは非常に理不尽なことです。


著作権のせいで今まで作ったものが配信できなくなったり
著作権のせいで、自由にものつくりができなくなったり
先につくったのに登録がおくれて、誰かに権利を盗られてしまったり
こんな著作権は本当に必要なのでしょうか?

著作権に関しては以前にも書いたことがあるのですが
それでも僕は著作権否定派ではありません。
著作権がわたし達を決して不自由にすることがあってはならないと考えています。

盲点は一創作者が著作権まで勉強しないということです。
その裏をかかれて会社単位にむしられるのです。
自衛することで我々は予想以上に大きな見返りを受けることが出来ます。
法人を逆に利用することもできます。

本当に価値のあるものは作られたものそのものだからです。
それこそが価値なのです。
ビジネスはそれを利用するだけです。
なにもないところから作れるということは本当に素晴らしいことです。
これさえあれば、わたし達はつくらない人に比べると
強烈な武器を手にしていることになります。
その価値に気付いて、それを利用すれば
ものつくりはもっと豊かになるはずです。

著作権こそは我々をそこから守る手段なのだと思います。
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# by radiodays_coma13 | 2008-02-23 23:59 | 考える
ピンチはチャンス
なんの思し召しか会社を立ち上げて
前の会社にいるときよりも20倍ほど忙しくなった。
ただ、時間的に忙しいというのではない。
仕事量的に20倍なのだ。

前の会社にいた時は4人のチームで一週間に2本の新作ゲームを製作していた。
これだけでも、他の会社に比べたら平均以上の業務内容なんだけど
現在、4人のチームで一ヶ月に200本のゲームの依頼が入っている。

ん?20倍じゃなかった・・・。
40倍だわ。

胸を張ってもいい。おそらく日本一の生産効率だと思う。
これは嘘ではない。
もちろん、どうやって作っているかは、企業秘密
知りたい人はうちの会社に入ってください。※求人募集中!

質を落としているわけではありません
大手のゲーム会社からもアイデアクオリティを評価してもらったもーん。

最初はまず無理だと思った。
価格を下げれば売れますなんて誰でも思いつくことだ。
そんなこと簡単に言われてもと思ったのだけど
自分を追い込んでみようと思った。
そしたら何か産まれるかも。
ギリギリのところに自分を追いやれば、
スーパーサイヤ人みたいに変身できるかも

前の会社にいた時も半年かけて一人でゲームサイトを立ち上げた。
その時もきっかけはピンチだった。

つまり
ピンチはチャンスなのだ。

カッコイイ!

それをしなきゃ、なにもかもダメになってしまうというところに自分を追い込む。
逃げない。
すると普段使っていない部分の頭が動き出す。
これはもう僕の力ではないと思う。
僕はそのアイデアと技術がでてくるのを見守るだけ。
たまに「ほほぉ」なんて自分で感心しながら。


ピンチは楽しい。



僕はスポーツを見るのはそんなに好きじゃないが、
ピンチに立たされている人の顔をみるのが大好き。
九階裏二死満塁とかそんな時のピッチャーの顔。
「彼は今、どんな気持ちなんだろう。」

そんなことを思うと自分の心臓も高鳴ってくる。

***

僕の中でのピンチを連想する時の定番のイメージがある。
僕はよくそれを人になぞなぞで出してみる。
その答えが面白い人はたいてい仕事ができる人だ。

広い砂漠の中でオオカミにばったり出会う、あなたはヒツジ。
出会い頭、あなたはオオカミとじゃんけんをする
「じゃんけんぽん!」
あなたはパー、オオカミはチョキ
・・・沈黙


さて、あなたはどうする?

僕はこれを最初は夢でみて、うなされて
毎度毎度みるようになった。
最初はあたまからガツガツ食べられた。

僕もこんな夢を何度もみてはたまらないので、
よく考えて次はこうしようと思い夢に挑んだ

①走って逃げた、すぐに追いつかれた

②次の時には
「すいません命だけは・・・」
容赦なく食べられた

③その次
戦ってみた
・・・戦うまでもなかった

④その次
「ちょっとまって話し合おう」
驚いたことにオオカミははなし合いに応じる構えだった
「友達になろう」
「無理」と言って食べられた

⑤その次
「やったー俺の勝ち!」と言ってだました
オオカミはたじろいだ。
「なんで?」
「なんでも」
黙って食べられた。

⑥その次、そしてこれがこの夢をみた最後
「次は何して遊ぶ?」
オオカミは僕を食べなかった。

そう、別にこれは戦いではなかったのだ。
そもそもジャンケン。相手も同じルールの上に立っている。
これはゲームなんだから。ルールは変えたり作ることができる。


僕の尊敬する仕事の先輩にそのなぞなぞをだしたら

「ああ、残念、じゃあ、僕がオニ、君が逃げて、捕まえたら食べるよ」

と答えた。

さすが!
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# by radiodays_coma13 | 2008-02-20 22:45 | 考える
何が大人なんだろうね
成人の年齢を20歳から18歳に
引き下げることを国が検討しているらしい。
(ニュース元[成人:18歳から? 法務省が法制審に諮問へ])

そのことで お酒タバコに始まり婚姻免許、果ては犯罪で裁かれる年齢の是非に影響してくることになるといわれている。


   「さて、大人ってなんでしょうね。」


この質問に子供たちが答えていた

「ガマンする人」
「わがままを言わない人」
「責任をとれる人」



ガマンをする人か・・・。なんか、つらい。
んん、ここは、ガマン、ガマン


僕は今、大人になるために多分、がんばっている。
「ガマンをする人」という発言はもっとガマンしなさいという言葉にもきこえた。
自分はまだまだ大人じゃない。
少しは大人になったかなと最近ちょっと思っていたけど、やっぱりムズカシイ。

人との関係において「もっと大人になろうよ」と自分で自分を叱ることがある。
時々、周りのせいにする自分に絶望する。

世間や最近の子供に対して愚痴るようにだけはなりたくない。
そうなったら、最後だ。
それは理解をあきらめたことになる。
「わからない」を切り捨てるようになったら
もう進歩することはありえない。



今日、妻が2ちゃんねるによる犯罪のニュースをみて
「2ちゃんつぶれろ!」
と激怒していた。
それが子供にたいする無差別の犯罪予告であったから
彼女の怒りはいきなり沸点に達していた。

僕が大人げないのが
「それは2ちゃんのせいではないだろ」
と即答した所だ。
本当はまずその犯罪に同じように怒りを表明しなければならなかったはずだ。
これを「空気を読む」と言ってもいいだろう。
それができなかったので妻の怒りの矛先は僕に向けられてしまった。


しかも
「車で事故があるからと言って車を責めるべきではないし、
本当に犯罪をなくしたいなら2ちゃんねるをなくしたところで何も始まらない」

とコレが火に油を注いだ。

人の感情は正論ではなにも解決しない のですね。
大人になるということは正しいことだけではうまくいかなくなるという
難しさもまたあるのね。はぁ

でもね。
それでも、僕は諦めない。
分からないと言って、その悪しきモノが潜む場所を
根こそぎに切ったところで
なにも解決しないよねぇ。

「最近の子供は」「最近の社会は」
30も後半になるとその子供に影響を与える社会を作っている自分、その社会を形成している自分がいるわけです。そいつのせいにするということは、つまり自分のせいなんです。もうなーんにも切り捨てることなんかできない。

この社会と無理心中するつもりででも、
その社会の病を共に闘病しなくちゃいけない。


今までなら
「そうだね2ちゃんつぶれちゃえ」
くらいに言っていたかもしれない。
でも、切り捨てられないからシツコく食い下がるんですよ。

****

「もし世界が100人の村」だったらというのがあった。データとしては面白い話しだった。でも、僕はあれが嫌い。その話しの流れのに、「でも豊かな国に生まれたあたなは幸せだね」という言葉が隠されているように思うから。

僕ならあの話をこう書き換える

「もし世界が一人の村だったら」

黒い自分、白い自分
貧しい自分、めっちゃ裕福な自分
幸せな自分、めっちゃ不幸な自分
頭のいい自分、頭の悪い自分
搾取する自分、搾取される自分
殺される自分、殺す自分


前にそんな詩(「許してあげる」)を書いた
世界で起こる全てのできことに自分は責任を持たなければいけない。
そうしないとみえてこないものがあるはず。
で、で、僕は搾取される自分を救うか?
ノー、救わない。そんなことするべきではない。
それが今の僕の答え。前とちょっと違ってる。


できることは許すことだけ・・・



んで、許してください奥さん
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# by radiodays_coma13 | 2008-02-15 00:05 | ニュース
欲しいデータが欲しい
yahoo!のサイエンスニュース
を見ていると
よく「ほんとかなぁ」というニュースを見かける
「コーヒーが癌に効く」
「太っていると癌になりにくい」
どこどこ大学だれだれチームがアンケート結果とかね。

またそういうのをアホなTVが真に受けて番組で取り上げたりしよるんですわ。
一時期ありましたねTBSの「あるある大辞典」
「納豆がダイエットに効果的!」
きっとね、どんな食べ物でもそればっかり食べ続けたら痩せられますよ。
りんごしかり、メロンパンしかり、こんにゃくしかり
偏食してやせるくらいなら、水だけ飲んで痩せた方がまだ健康的でしょ。

で、僕は怒っているわけなんです。
なにってそういうデータに対しての怒りというわけではありません。
まあ、yahoo!にのるくらいの科学データなんか
信じるに値しないことくらい常識で考えれば分かりますがな。

どうせ、楽しませようとするくらいなら
「阿波踊りで癌が治った。同じ癌なら踊らなソンソン」とか
「鼻くそダイエット、1時間ほじって3時間分の運動量」とか
もっと気を利かせて欲しい。


「ゲームによる快感 男性強め」
スタンフォード大学薬学部の研究チームが報告
コレだけは許さないもんね。
だって、僕はゲーム作りをする人。
んなこと言われたら営業妨害もはなはだしい。


まず、データなんてもの、欲しいデータありきなのだ。
つまり「こんな結果が欲しい」 「こうであったらいいな」
を考えてデータを探す。

そうすれば大概のデータは集まるんだな。
数字だから信憑性があるということこそが錯覚だ。
人は「数字は動かない」と言う
でも、これこそがレトリックなのだ。
良いか悪いかというより、それは仕事においては常套手段なのだ。
僕だっていつも企画書の中のデータを欲しいデータで塗り固めて
怪しい結末に持っていってる。
「だからこの企画をやすべきなんです!」ってね。

企画なんてバカ正直にデータによって
「風が吹けば桶屋が儲かる」と訴えるものでしかない。

例えば「パチンコすると癌が治る」
100人のがん患者に毎日3時間、パチンコをしてもらい30日後
再び調べると癌の進行が止まった人が10人もいた。
こんなデータに「ほほぉもしかしたら一理あるかもね」と言いそうになる。
まず裏のデータもなければ比較データもない
その裏で15人は悪化したかもしれない。パチンコよりカバディの方が
癌に効くかもしれない。


でも、そもそも
どこに癌とパチンコの因果関係があるのか。

それでまかりとおるなら
ウルグアイのことについて考えた人は次の日、歯を磨かずに寝る傾向がある

という推測だって成り立つことになる。

「欲しいデータを作り出す」行為の悪質なのはこれを企業が利用するからだ。
悪名高い「コーヒーが健康にいい」という一連の研究は
コーヒーメーカーが資金を出している。
ラーメン屋はラーメンに癒し効果があれば嬉しいし、
アイスクリーム屋はアイスクリームが恋に効く
とあれば、お金を出してもそんなデータが欲しいわけだ。

そこでだ、「ゲームによる快感は男性が強め」というデータは誰のためか?
誰が得をするんだ?
PTAか?
それとも「男性を殺さないで!ゲームにはハマリやすいけど男性は頭のいい生物なんです」という過激派男性保護団体か?

まあ、それはいいとして困るんだよねぇ、こんな嘘言われたら。
他のどんなニュースも笑ってるけど、これは営業妨害だからね。
だから反論させてもらいます。

***

①テレビゲームのほとんどは男性向けに作られているのだ。
②ゲームセンターに一人で通うのは男性と決まっている。
③ゲーム会社だってそれを知っていて男性をターゲットにしてゲームを制作している
④ゲームクリエイターにしろそのほとんどがむさくるしい男どもだ。
⑤第一にシューティングとか、格闘とか、完膚なきまでに敵を打ちのめすという
オスの狩猟本能が剥きだしになっている。

まず、そういうゲームをもってして、ゲームによる快感は男性が強めであるということを忘れてはならないわけですよ!


ゲームというのを広げて「遊び」というところまで広げると、女性はママゴトを男性よりも楽しむし、無駄話というシュミレーションを男性よりも楽しむ、そして衝動買い という買い物も女性の方が中毒になる。

現に、クロスワードパズルお絵かきパズルは男性よりも女性の方がハマりやすいようです。

本当はこんなデータを同業者には知られたくないが、最近はゲームのサイトの女性ユーザーが増えてきており、現在ではケイタイに限り、半数以上を女性が締めるサイトも珍しくない。

せっかく増加傾向にあり、市場的価値の上がってきている女性のゲームユーザー層の動向に変なニュースで冷や水をあびせるな!ということですわ。

最後に私の屁理論を言わせてもらえれば
無駄話や無駄な買い物、無駄なテレビ観賞
女性ほど無駄を楽しむことは男性にはできない

と思っている。もちろんいい意味でね。

だから
本来、女性の方がゲームにはまりやすい
はずなのだ。
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# by radiodays_coma13 | 2008-02-12 23:46 | ニュース
失われてゆくこと
ボクの大切な友人が亡くなった。
もう前の話なんだけどね。
何度もこう書き出して、途中で書けなくなってしまって。
少し時間が経ってしまった。
ネットでも彼の死についていろいろ触れられていたけれども
僕は誰とも彼の死を共有することができなかった。
すこし残念な話であるけれども・・・

なぜだか、僕には亡くなったその人が僕の知っているその人じゃなくて
みんなの知っているその人と僕の知っているその人が違う人なんじゃないかって
気がして。

彼のおかげで僕はたくさんの詩人に出会った
彼のおかげで僕は詩がもっと大好きになった
彼のおかげで僕は東京にやってきた
彼のおかげで僕は仕事をもらい
彼のおかげで何度かとても辛い時期を救われた

人前で泣くのは嫌だったけど、彼の前で僕はよく泣いた。
泣くほど笑ったり、感動して泣いたり
落ち込んでいるとそれを察して、誰かの詩を見せてくれたりして
その詩が驚くほど、その時の自分につきささってたくさん泣いた。

その人はお布団の上でひとりぽっちで亡くなった。
知らせを聞いた次の日、玄関の前に行ってピンポンを押して
もしかしたらでてくるかもしれないと思いドキドキして
ずっと立ってみた。
誰も出てこなかった。

涙はなかなかでてこなった。
こんな時ってあんまり泣けないもんなんだな。
僕はいつもどおり忙しく仕事をした。

その夜から毎日、彼の好きだったピックアップというスナック菓子と
大五郎という焼酎の水割りを飲んだ。
ウイスキーの好きな人だったけど、最後はお金がなくてね、
いつも大五郎。


東京に来た頃、仕事がなかった僕にデザインの仕事をくれた。
その僕は今、ちゃんとものつくりの仕事について
家も買った。
「玄関のマット分くらいは僕の場所ですよね」と彼は冗談を言った。

最後はその人はお金がなくて
僕はせめて、僕のできることと思ってタダでデザインをして
お金もいくらか貸した。けど、僕は彼から離れてしまった。
それじゃまるで意味がないのに。

飲もうって誘われても忙しいって何度も断った。
でも、何度も何度も誘ってくれた。
どうしても飲みたい時は「大切な話があるんです」って
それがちょっと可愛かった。

「本当に大切な話があるんです」
亡くなる1ヶ月ほど前、二人で飲んだ
お腹がよじれて涙が出るくらい二人で笑った。
出会った頃の話。いろんな所に行って
いろんなことをして、たくさんお酒を飲んだ話。

僕はその人の「親衛隊」を名乗っていた。
彼の邪魔をする詩人をエイヤーと蹴散らす役目。
彼が東京にいったので僕もついて行った
会社の社長になったので、僕を入れろといった。
「日本を変えちゃいましょうよ」と言ってお願いしたけど、
断られた。

すごく尊敬していた。
うううん、違うな、なんか大好きだった。

彼は奥さんと別れて、重い病気になって、
お金がないのに、借金をしてずっと詩人のために本を出し続けた。
彼の会社は倒産して、借金がいっぱいあって、
一人ぽっちで死んじゃった。

でもとても最後までとても元気でした。
希望でいっぱいでしたよ。
最後に会った晩
額縁に入った商標登録証を見せてもらった。
雑誌の名前の商標をとって
お金なんかないのに、商標だけとったって

「僕はまだ死んでませんよ」
「またやりますよ」
「その時は、お願いしますよ」
「今は田舎に帰って一からやりなおします」

その商標を抱いて、ぎゅっと抱いてそう言っていた。
なんだか、それが彼の命の火そのもののように大事そうにずっと抱いていた。

あれから毎日、思い出している。
とても自然に。
その人の田舎がテレビにでてくると
奥さんに「ここだよ」と話しかけたり
彼の好きな食べ物ができると「さつま揚げが好きでね」とかね。
死顔だってみてないのに、亡くなったなんて信じられないもの。


彼の詩に「さみしかったんだ」という詩がある
何かがベランダにやってきて手すりにもたれている。
挨拶をかわして、「入りますか?」なんて言って会話する
あくる日、拝み屋の人に相談したら「あまりかまっちゃだめだよ」
と言われる。というような詩。

そして、最後の数連を僕は記憶している

***
それで
えさとかは
やれないけど
また
くるかな
***

僕は今、じっとベランダをみている。
もうそろそろおくり出してあげなきゃね。
さみしいけど
いつまでもよびだされたんじゃ
迷惑だしね。

本当にね、お酒の好きな人でした。
笑うと、歯が抜けてて面白い顔なんです。
どこかこの世の人じゃないような、
悟りをひらいた仙人みたいなね。
それはそれは幸せそうな顔をして笑うんです。


彼のご冥福を祈り
献杯。
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# by radiodays_coma13 | 2008-02-10 00:38