「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
子供向けコンテンツの進捗とお詫び
現在、「子供向けコンテンツを作ります」と宣言して
いろんな人の助言や協力をもらいながら
その可能性やコンセプトに関して、詰めていっております。
ちょうど、その考察等を日記形式でアップしているということもあり
いろいろな方からどうなったの?というような言葉をいただいています。
そこで、この場で進捗の報告をさせていただくことにしました。
当初は夏過ぎくらいに、なにかしらの形
つまりα版となるものを作り上げる予定でおりました。
しかし、実はほとーんど進んでおりませんのでございます。
もちろん、寝ても覚めても子供向けコンテンツのことを考えております。
ええ、それは嘘ではありません。

しかしながら、わたしの悪い癖であんまり風呂敷を広げすぎて、
いろんな人に協力してもらったもんですから
逆に、それは面白いねとか
それなら、こうした方が良いというアドバイスを沢山もらい
企画は膨らんで膨らんで、
もう、一人の力ではなんともならなくなってしまいました。
今のままの企画を実行するとなると、会社も辞めて、
それなりの投資をしなきゃならないレベルまできてしまいました。

その中には助力するよとか、投資するよとか、
惜しげもなく貴重なアイデアを提案していただいた方もいます。
本当にありがとうございます。この場を借りて感謝いたします。
しかし、それはそれで、契約とかなんとか色々と手続きが必要で
それで動き出すとなると、もう、それは自分のプロジェクトではなく
或る程度の責任の伴う案件となってしまうのは目に見えております。

もちろん、人を巻き込んで動くとなると、それなりの責任が発生するのは
百も承知です。そして覚悟もしています。
しかし、まだ、この自分自身の軸がブレている段階で
動き出しても、おそらく納得のいくものはできないと考えました。
今までそれを生業にしてきているので
なんらかの形にはすることはできると思います。
ただ、このプロジェクトにおいて、それだけはしたくなかったのです。

現在世の中にあるようなコンテンツを自分のライフワークとして
貴重な自分の時間を使ってわざわざ作る必要はないかなと思っています。
しかし、残念ながら、今の段階では
それくらいのものしかできそうにありません。
単なる奇抜さではなく、必然性をもって、そのコンテンツを生み出すには
それ相当の問題意識と、情報量が必要になると考えています。
というわけで、今、協力していただいている方
これから協力していただく方には
引き続き、わがままなご相談をさせていただく事になると思います。
本当に、身勝手なお願いになってしまい申し訳ありません。

とはいえ、そんなアイデアが形を成すまで
ただ待っているかというとそうではなくて
まず、草むらの中にあぜ道くらいは作りたいと思います。
多数で動くとそれなりの労力がかかるため、私個人で動ける範囲で
まずiphoneやAndroidマーケットに簡単なアプリを出す予定です。
それから、ふくらんでしまったアイデアに関しても、
もし動けばどうなるかのシュミレーションは引き続きデータ収集していきます。
秋までに形を作るというのを断念したのもシュミレーションの結果で
それが不可能とわかったからです。
そして、それを急ぐのが得策ではないと考えたからです。

今は、落ち着いて、子供向けコンテンツに関して
その可能性、問題意識を明確にして
できるだけ多くの方に情報を発信し、情報交換をしたいと考えています。
もし、このプロジェクトのために、何かを待っていただいていたり
他でも使えるアイデアを差し止めていただいているのであれば、
わざわざ、わたしが言うまでもありませんが、自由に使ってください。
ディスカッションの中で出たアイデアの場合も同様、
そのアイデアの権利を主張したりしません。

アイデアは出せば出すほど、人目にさらせばさらすほど、
次に良いものが出るものだと思っています。
なによりも、アイデアは天啓のようなもので
個人のものではないという信念があります。
それを形にした者がはじめて
その創作物に対して著作を名乗れるのだと思います。
とはいえ、わたしの方から無断で、
多くの方からいただいたアイデアを形にすることはありませんので
ご安心ください。

いつか協力していただいた方が
「協力してよかった」と思えるように
尽力して参りますので、
今後とも何卒ご協力、宜しくお願いします。

それから、こうやって、内情を明らかにするのも
なにかしらの反応が欲しいからに他なりません。
なにか、ちょっと教えてやろう、とか
こう思うという意見、貴重な情報があれば
教えてください。そっと耳打ちでもいいです。
面倒くさがらずに、おせっかいしてください。
反論でも、文句でもいいです。
受けて立つほどの体力も知力もありませんが
打たれ弱くはありません。
どうか、宜しくお願いします。

里宗
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2011-07-29 01:58 | 子供向けコンテンツを作ろう
落語の笑いと遊びの可能性
落語にハマっている。

会社の近所に新宿「末広亭」がある縁で
前から気になっていた、柳家小三冶を観に行ったのをキッカケに
堰を切ったように、どっぷりと落語にハマっている。
古典から現代まで
音楽の変わりに一通り聴いてみた。

前からそんなに落語を好きだったわけではないのに
自分の人生にとって欠落していた部分を埋めるように
落語を欲している自分がいるのに驚いている。

落語には現代のお笑いにはない種類の笑いがある。
本来、笑いにはいろいろ種類があるはずなんだけど
現代のお笑いは特に発作的な笑い
神経症的でシュールな笑いばかりが目立ち
ゆっくりと心をほぐしてくれるような笑い
ハートウォーミングな笑いというはあまりない。

笑いはきっとマッサージのようなもので
笑うことで凝り固まった精神や緊張をほぐしてくれるのだと思う。
そして、そこには、マッサージの結果、得られる快感もある。

時代によって、緊張も異なる。
そこで、求められる笑いも異なるということになる。
現代は不条理で病的な社会に起因する笑いには事欠かないが
落語の長屋噺に感じられる隣人を愛したくなるような笑いはない。
現代にとって隣人は昔の長屋の隣人とは性質が異なり
不条理で脅威な存在である。
或いは、昔の笑いでは間に合わなくなってきているのかもしれない
しかし、笑わずに置いた心のどこかは
コチコチに凝り固まってしまっているように思う。
そういうポイントは増えていき、
心のどこかしこに、わだかまりを抱えているような気がする。
そこを有効にほぐす笑いはないものだろうか。

お亡くなりになった2代目桂枝雀さんは、
笑いを「緊張からの緩和」と定義し分類を行なっていた。
それに加えて、笑いには深さがあり、突発的な笑い、幸せを感じた時の笑い。
それらは、緊張のタイプとその開放のされ方によって変化する。
最終的にもっとも深い笑いは人生の緊張から解き放たれた時に訪れるだと言う。
それは悟りに近い感覚に違いない。

落語の笑いは発作的に激しい笑いよりもむしろ、
ステージの深いところを目指していると思われる。
アリストテレスが笑いについて触れたものに、
「笑いは人間の上下関係によって生じる」というのがあり
一種の優越感が笑いを生むとされる。例えばそれは蔑みによって生まれたりする。
漫才などのひとりがボケて、ひとりがツッコむというスタイルは、この種の笑いを
生じやすくしているのではないかと思う。
しかし、これは緊張の緩和理論でいうところの上下関係の緊張を緩和した笑いに過ぎない。
落語の場合にもこの種の笑いはいくつかあるが、
そこには、ある種の愛情が根ざしているように思う。
それは似ているようで非なる笑いをもたらし、
観客をより深い笑いへと誘う。

美味しいものを食べても人は笑うし
いい意味で期待を裏切られても人は笑う
微笑みという対人の緊張からくる笑いもあり
表面に出ない笑いもある
人はおそらく、動物的な感覚として、
課せられた緊張を緩和させる方向に向かうものだと思う。
そこには笑い的ななにかが存在しているはずだと思う。
そして、動物含め、或る時には擬似的な緊張を自らに課すこともある。
それが「遊び」というものの発端であると考えられる。

「笑い」、「緊張の緩和」という面から考えると
もう少しコンテンツとしての「遊び」の可能性を広げられるのではないだろうか。
多くの「デジタルゲーム」が、「与えられた課題」というタイプか
「恐怖」、或いは「物語」による緊張を主に扱っている。
しかし、そこには潜在的に遊びに含まれているが、
まだゲームというまな板の上には乗っていない、
もしくは、あまり取り上げられない、緊張がある。
そこにまったく新しい遊びというのではないが
新しい、遊びの局面、異なる見方、扱い方があるはずだと思う。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2011-07-25 07:22 | 考える
歌舞伎を観て考えた子供向けコンテンツの現在
新橋演舞場で上演されている6月歌舞伎に
会社の社長と二人で観に行った。

帰りの電車で、いろいろと舞台について話した。
「果たしてこれが現代人にとって本当に面白いのか?」
例えば、歌舞伎と映画を比べて、どちらを面白いと感じるか?
社長がそう言った。

そう言われると確かに、答えは明確だ。
歌舞伎の客層は若くは無かった。
それが答えなのかもしれない。
60歳の誕生日の朝に目が覚めると突然、歌舞伎がむしょうに面白くなるなんてことは
ちょっと考えられない。
つまり、だんだんと理解できなくなってきているのじゃないか。

舞台の仕事をしていたので
やはり舞台を色眼鏡でみているのかもしれない。
歌舞伎をそれなりに面白いと感じている。
しかし、それはあくまでも当時の文化に思いを馳せて
感覚に下駄を履かせていることは否めない。

いや!ただ、面白いだけではない、なにかがある!
それを芸術というのだ!
そしてその400年もの歴史の深みを理解できるなかなかにカッコイイ自分!
なんて、自分に酔いしれているところもあるんだろうね。

今まで多くのつまんない舞台を我慢してきた。
なにか得られるものがあるんではないか、
面白いだけではダメだとか、
これは心のお薬なのだとかね。

でも、今は作り手としてこれは思っちゃイケナイんだなぁと
考えるようになった。
命題「ひたすら面白いものをつくること」

本当に歌舞伎が観られていた時代において
舞台の物語はもっと親近感のあるものだっただろうし
言葉も、当時の人からは難解ではなかっただろう。
もっと俗っぽい存在だったに違いない。

今回観た舞台も5時間近くの長さがあったが
当時はもっと長かったらしい
しかし、それは当時の時間性の中での1日だったのだ。
現代人の一日とは時間の流れ方が異なる。

そういう物語の話題や当時の文化の違いを説明なしで
理解し味わうのは不可能だ。

舞台が回転したり、雪が降ったりというのは
当時の観客にとってはスペクタクルであったに違いない。
舞台で斬った張ったが行われ、血まみれの人がのたうつ。
観客はきっとド肝を抜かれたに違いない。

これは映画も変わりない。技術が進歩して、それが
CGや3Dに置き換わったに過ぎない。

大きな疑問。果たして歌舞伎を当時とできるだけそのままの
姿で現代に持ってくるのに意味があるのだろうか?

それはきっとあるだろう。
しかし、もっとできることはないだろうか。
社長が呈した疑問はすごくわかりやすかった。
「それでは映画となにが違うのか?」
劇場の様子は普通の映画館とそう大きく変わりなかった。
そして、舞台は花道こそあるものの
スクリーンのあるはずの場所で行われる。
お芝居はすっぽりと舞台の中に鎮座している。
生身の人間がそこで演じるという絶対的な価値を
より引き出すための仕掛けは花道だけではないはずだ。

「大江戸温泉物語」に行った事がある。
あとで考えるとなんてことないのだが、
その時は、夢見心地で楽しんだ記憶がある。
他の大規模温泉となにが違うのかと言われると
ひとつひとつ取ると大差はないのだが全体として
ひとつの世界を作り上げている。
客は全員、まず浴衣に着替えて、その仮想の街を満喫する。
そこで興じる金魚すくいは
普通の金魚すくいとはまったく異質なものだった。
舞台でけん玉ショーをしていたが、それに異様にワクワクした。
ここで歌舞伎をやればさぞ面白かろうと思った。

現代で成功しているエンターテイメントの傾向として
テーマパーク化がある。
ディズニーしかり、多くの施設、そして社会そのものが
テーマパーク化してきているようにも感じられる。

ならば、歌舞伎も、本来の通俗芝居として
それらを取り入れるもの間違ってはいないはずだ。
演舞場に入る前に当時の町民の服に着替え
ゴザが敷かれてある舞台に座る。
ディズニーやUSJのように炎や水の演出を取り入れ、
画面から飛び出すスペクタクルを演出する。
舞台の外では団子や蕎麦の屋台がある。

猿之助のスーパー歌舞伎や、
勘三郎のコクーン歌舞伎はそういう試みのひとつだと思う。
そしてそれなりに楽しめるものだったし、その試みは
本当の泥を使う等、演舞場での歌舞伎にも取り入れられてはいる。
しかし、やはり歌舞伎は歌舞伎であることはやめられない。
それを失った時点で自らのレーゾンディティールを失うのかもしれない。
歌舞伎と旅芝居はなにが違うのか、歌舞伎と吉本新喜劇とはなにが違うのか。
それを他と区別するものは一点、それが「歌舞伎」であることに他ならない。

純粋な観客なら、そんなことは考えないで済むのかもしれない。
しかし、作り手として、それを職業としてやっていくには
やはり、今、自分の周りのいる同時代の人々に金をもらわなければならない。
それが本当に、純粋に楽しく、課金に耐えうるのか考えないでいることはできない。
「文化」だ「心の薬」だというのは批評家や後の時代の人が考えることだ。

「子供向けのコンテンツが作りたい」
という目標もやはり同じことが言えるのだろう。
配信するからには、子供が他のコンテンツよりも
面白いと思ってもらえるものでない限りはありえない。
ただ、ためになるから親が子にやらせようというコンテンツで成功したものはない。
子供が自発的にやりたがならない限り、成立しない。
それは現代のテクノロジー、現代のリアルからでないと立ち上がってこない。
テレビとスマートフォンではできるコンテンツは違う。
そこで使われる言葉のベクトルも時間性も異なる。

「おそらくスマホを使ったコンテンツを試験的に作ると思う」
子供向けコンテンツの製作について助言を求めたある児童教育の専門家に
「なぜ、よりによって電子機器を使わねばならないのか?」批判をもらった。
せめて子供の時くらいは、シンプルな自然の玩具で遊ばせたい。
ごもっともだ!わたしもそう思う。それが幸せかもしれない。
そういう社会の中だけで生きれたらという注釈付きだけれど。
どちらにせよいつかは情報の海に放り込まれるのだ。
その後のギャップに苦しむよりも
情報の海の波打ち際で、安全なトレーニングをしなければいけないと考える。
玩具が大人への模倣やトレーニングという面があるように
情報を玩具化したものが現代の子供には、必要ではないかと考えている。
子供は敏感である。大人よりもそれを楽しむ才がある。
今の子供に情報の海を見ないようにしろというのは不可能だ。
ギリギリまで目を塞いでおぼれてしまうよりも
ならば誰かが、責任をもって、安全な玩具にしてあげなければならないだろう。
木の玩具は他の誰かが作ってくれる。
僕にはただ、それができないだけの話だ。

課題だらけである。
今の子供たちは何をもっとも楽しむのか。
本当は何をして遊びたいのか。
もっと子供たちと一緒に遊んで考えようと思う。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2011-06-27 02:28 | 子供向けコンテンツを作ろう
震災後の世界で…
子供向けのコンテンツを制作するべく準備をしているけれど
毎日のお勤めもあり、なかなか進めないので
動きを止めないためにも
少しづつ、作ろうとしているものの方向性を日記として確認していくことにする。

****

まさか自分の時代に放射能におびえて暮らす日々が
やってくるとは思っていなかった。
それはどうも世紀末SF的などこかの世界の話だと思っていた。
そのまさかが現実になった。

地震以後、どうもそれらの現実を目の当たりにして
それが自分の世界で起こっていることが
どこか現実離れしているような気がしてくる。
壊滅的な地震の被害や放射能だけではなく、
今、日本が直面している様々の社会的問題にしても
素っ頓狂なもののように思えてくる。

ちょうど、阪神大震災の時に実家が全壊した時にも同じようなことを感じた。
それは、もしかしたら、もう一方では地震の起こらなかった世界があって
自分は地震の起こったほうの世界に迷い込んだんではないかという違和感。
現実逃避なのかもしれないが
「どうも、この世界は正しくないのではないか」という感覚がある。

そして、今回の震災。僕はなにかを間違え続けて
震災を二回も迎えることになった。
どこかに、震災を迎えずに平和に暮らしている日本があるのではないか。
そして、僕は震災が起こったほうの世界に迷い込んでしまった。

果たして僕が住んでいた世界は
なにかがいろいろなところでちぐはぐになってしまった。
しかしだ、そこには僕だけではなく、僕の子供たちや
周りの大切な人たちも入り込んでいる。

もしかしたら、ちぐはぐの無い世界で平和に暮らす
僕の子供たちもいるかもしれないが
ちぐはぐな世界に取り残された人々もいる。
僕はこの世界を子供たちのためにどうにかしなければならない。

とても不思議な感覚なのだけども
この「ちぐはぐ」が全て自分の責任のように思えてならないのだ。
まともな自分はまともな世界に行き
ちぐはぐな自分はちぐはぐな世界へ。
その数多の選択の結果、いまここにいる。

こういうのを平行宇宙論とか多次元宇宙論というようなのですが
つまり、ここは僕の選択の結果の宇宙ということになる。

しかし、そんな理論に絡め取られるまでもなく
なぜか、もっと本能的に、この世界で起こっていることは
この世界で住んできた自分にも責任があると感じてしまっている。

子供たちに、「こんな世界にしてごめんなさい」と
謝らなければならないと感じている。
しかし、だからこそ、謝る前に行動しなければと胸に秘めているのです。
秘めていてもなんなので、こんな風に誰かに話して、
行動しなければならないようにしようと
ムシのいいことを考えている。

きっと誰かが、どこかの大人が解決してくれるに違いない。
そんなふうに思っていた。今でもそんなふうに思いたい。
でも、そんな誰かの無責任で世界のちぐはぐは大きくなってきた。

そして、自分が大人になった。もう十分、歳もくった。
次は自分の番なのだ。
子供たちに、あなたたち大人たちが作った世界と言われてしまう
そんな世代になってしまった。

どんな形であれ、僕はその世界を形成しているものの一部だ。
そして、これは僕が選択した結果の世界だ。
やはり、次の大人たちにツケを回して責任回避するのか。
いや、もう逃げられない。

いつまでも責任を回避してたどり着いたら、目の前に
避けては通れない抜き差しならない問題が壁になっている。

誰かがやってくれるかもしれない。
でも、その誰かがやってくれた世界はまた自分とは別の分岐へと行き
ここにいる自分は常に問題の前に放りだされるようになっている気がする。
誰も逃げることはできないのだ。

だから何ができるのだ?
確かに…。

アンドレイ・タルコフスキー監督の映画で
「サクリファイス」というのがある。
核戦争が始まったニュースをラジオで聴き
主人公は自分は全てを失っていいので、この事態を回避させてくださいと祈る。
すると、そのニュースは嘘になり、
なにごともなかったかのような日常が訪れる。
自分が犠牲になったことで救われた世界。その代償を払うべく主人公は
自分の家を焼き、全てを失うことを受け入れる。
そして、そのことを誰もしならい。ただ、家族は彼の気が触れたのだと思う。
だいたい、そんな映画。とってもいい加減。

祈る?
祈る前に行動しようと思う。

どんな?
それを子供たちと一緒に考えよう。

大人はいろいろと事情という言い訳があるので、
子供たちのためと言いつつ、
自分たちの都合のよいものを作ろうとしてしまうんだろうね。

まずは…
まずは、どんな世界を望んでいるのか、子供たちに聞くのが一番だろう。

君たちはなにが見たい?

君たちはなにを望んでる?

その為にできることをやろう。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2011-06-11 07:17 | 考える
震災がくれたチャンス
天邪鬼なので今回の震災での
応援メッセージを見るのがなんだかイヤだ。
応援したい気持ちがないわけではない
けれど、なんだか、言葉にされると、とてもそらぞらしくてなんだか…。
それを否定も批判もしないけれど、自分ではしたくない程度の話なんだけど。

でも、それでも、歌手が僕たちのできることはこれだけですと言って
歌っている姿はとてもシラケてしまった。

自分自身が阪神震災で被災して
一番言われたくなかった言葉は「がんばれ」だった。
がんばれと言われると「がんばりません!」と即答したい気持ちだった。
その言葉は意味以上に恐ろしいと感じた。

阪神震災の時にふと耳にした歌に涙が出たことがあった。
それはアンパンマンのマーチだった。
それは「助けてもらう」ではなくて「助ける」歌だ。
たとえ胸の傷がいたんでも、誰かを助けることで
生きる喜びを感じるという内容なんだけど
なぜか、助けられる側の自分が聞いて一番響いた。

助けることで助けられることがある。
父は理髪店を営んでいるが、震災で店舗ごと全壊してしまった。
むき出しの水道から水だけがでていたので、ポリタンクに貯め
簡易式の湯沸しでお湯を沸かし、青空の下で、洗髪だけの
無料床屋を震災から数日後にオープンした。
それにおどろくほどの行列ができた。
再スタートをあきらめかけていた父は、それでもう一度
お店を復活させる決心をしたと話していた。

僕は阪神の震災で完全に呆けてしまっていた。
避難先の小学校で、自失してぼんやりしていた。
同じ部屋に近所の子供が5人ほど
小学校ゆえにたくさんの小学生が行き交う。
時間をもてあましていたので、毎日、子供たちの相手をしていた。
相手というのは少し語弊がある。「遊んでもらっていた。」
パズルや、迷路、ボードゲーム、でたらめな遊具を作って
子供たちと遊んだ。
遊ぶのだけは得意だったので、いつの間にか
たくさんの子供たちに囲まれるようになった。
多分、避難所には決定的に娯楽が欠如していたのだと思う。

その時、初めて、遊びを作り出すことができる自分の能力に気がついた。
そして、これを自分の仕事にしようと思いついた。
そして奇跡的にこれを生業とすることができた。
でも、ひとつ忘れていたことがあった。
僕は子供のために、遊びを作ろうと思い立ったのだ。
でも、まだ、これは成し遂げていない。
今回の震災で、避難所にいる子供たちを見て
強くそれを思い出した。

救援物資には娯楽用品は含まれていない。それは一番後回しなのだ。
もちろん仕方ない。しかし、子供にとって遊びは
水や食べ物と同じくらいの価値を持つ。
子供にとっての遊びは不安をも吹き飛ばす心のよりどころでもある。

初心に帰ろうと思った。
僕は子供のための遊びを作ろう。
忘れてはいなかったけれど
立ち上がることができなかった。
多分、今、立ち上がらないと、二度とはじめられないような気がする。

また、震災にチャンスをもらった気がする。
助けるという気持ちじゃない。
自分が助けられよう。

「助ける」というのはなんだかひどくよそよそしい。
多分、応援メッセージへの違和感はそれだったんだろう。
「わたしたちにできるのはこれだけ」
それを言ってしまっていいんだろうか?
カッコいいようで、とてもカッコ悪い気がする。
やっぱりどこかよそよそしい。

今日、アンパンマンの歌の歌詞について同じような感想を持つ人のコラムを読んだ。
今、感じていることがアンパンマンのマーチの歌詞で一本につながった気がした。
アンパンマンは誰かを助けるために自分の頭を食べさせる。(なんだかスゴイ。)
でも、それがアンパンマンの「よろこび」なのだ。
楽しいから助けるって言ってところが潔い。
助けるってそういうことじゃないかしら。


寄付とか、救援とか、ボランティアとか、なにかと自己犠牲めいている。
暗いのはキライだ
でも、それが嬉しいからそうするはずなのだ。
単なる自己犠牲なはずがない。
ココマデ自己犠牲シマシタ自慢的なキャンペーンは見るに耐えない。
もらった方も、「なんだか悪いね」となってしまう。
自己満足なら、そういってくれればいいのにね。
その方がもらう方も遠慮要らないもの。
本当に広告的な意味がないのなら
主張しちゃダメなんじゃないかしらん?


話がそれちゃったけど
やりかけていた子供のためのコンテンツ作りを再開します。
自分のために。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2011-05-04 01:14 | 考える
失われた味
職場の近く、気に入っているカレー屋さんがあった。
どこででも食べられる味ではなかった。
おそらく、世界中さがしてもそこだけでしか食べられないだろうな
ということが一口食べれば
世界中のカレーを食べなくたって誰にでもわかる味だった。
とにかくそんな味のカレー
もし、そのご主人がどこかにいなくなれば
もう誰も二度と、そのレシピを復活させることはできないだろう。
永遠に失われた古代の謎のように。
・・・

そのカレー屋のご主人が亡くなられた。
とても唐突に。
カレーの下ごしらえをしている最中に。

いつものようにお店を訪ねると
花束がたくさん添えられていた。

その味は永遠に失われた。

シャッターの前に立ち、目をつぶりしばらく
口の中にそのカレーの味の幻影の糸を手繰りよせようとした。
無理だった。
結局、そのレシピは分からずじまいだった。

高村光太郎の「梅酒」という詩のことを思い出した。

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆(つつ)み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。

(『智恵子抄』より)

カレーのルーは残っていないのだろうか。
シャッターの中、お店の中、おなべの中
その縁にルーはこびりついてないのだろうか。
できれば、そのルーを舐め取りたいと思った。
しかし、もう誰もそのカレーを食べることはできない。
誰も。

味覚は切ない。
味覚の記憶は
味、嗅覚、触覚、視覚、聴覚と結びつき
とても強烈なものとなる。
僕の記憶力はすこぶる悪いが
味覚に紐付く記憶力だけは誰にも負けない自信がある。
いつ、誰と何を食べていたのか、
その時の、誰かの顔、誰かの声、自分の気持ち
揚げ物のコロモの詳細の状態まで鮮明に思い出すことができる。
それだけに、同じ味のものを食べると涙が出てしまうことがある。
その瞬間、僕はタイムスリップして、過去のその時に存在している。

とても寡黙な人だった。
一切の無駄口をきかなった。
「ありがとうございます」という言葉を
舌を使わずに、喉の奥で言っていたぐらいだ。
深い目をした人だった。
愛想というものはなく
その目で睨まれると
誰もうつむいてしまうほどだった。
でも、いつもお客でいっぱいだった。
みんな静かに、カレーを味わっていた。
みんな喉の奥で「おいしいです」と言っていたんだろう。

料理人はうらやましい。
こんなときに不謹慎だけれど、そう思った。
誰もその味を忘れることはない。
もう誰も二度と味あわせてくれないその味は
唯一無二でその人の記憶に残る。

まったくなにをしてくれるんだ。
僕はそういうのはいやんだな。
だから、レシピが知りたかったんだ。

そんなに悲しいことはない。
僕は母の手料理のレシピをちゃんと自分のものにした。
カス汁も、肉じゃがも、うどん焼きも、梅干も、たまり醤油も
食べれば、そこに全てがよみがえるように。

自分ではそんなことを言っておきながら
僕は自分の子供たちに、毎日おいしい
きちんと調理した当たり前のものを食べさせて
子供たちの記憶の中に強烈に残りたい。
レシピもなにも教えてやるもんか。
死んでもらったら困ると思われていたい。

料理はいつか人の記憶を覚醒させる。
10年後、20年後
ふと、いつかの味によく似た味と出会う。
もしくは、同じ食べ物を食べ、思い出す。
ガツンと頭を殴打されたように
記憶がフラッシュバックする。
そんな風にして、何年後か
僕はこの土地のことを忘れても
そのカレーの味のこと、
その時のご主人の表情まで
思い出すのだろう。

たった数回しか行くことができなかったのだけれど。。。

いつか僕の子供たちが僕のもとを離れていき
親の顔も思い出さないような日々が続いても
日々のしめやかな食卓の記憶の蓄積さえあれば
僕は子供の中に息づくことができる。
そう思う。

そして、その記憶の中で、声はなくとも
それをほどこしてくれた人の
気持ちを味わい知ることができるのだもの。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2010-04-09 01:12 | 食べる事と飲む事
オーシャンズのこと
お魚さんが好きな子供のために、「オーシャンズ」を観に行った。

僕としては昔から好きだったセンダック原作の絵本「かいじゅうたちのいるところ」か
ルイス・キャロルのファンとして「アリス」を観たかったのだが、
怖いという理由で子供から却下された。

練馬サティは子供が多くて助かった。
館内は上映中ずっと子供たちの解説が響いていた。
うちの子供も負けじと
「シロナガスクジラはなんでオキアミを食べるの?」とか
「なんでジュゴンは白いの?」とか
答えられない質問を始終発信していた。
1時間経過、ポッポコーン(子供がこういう)のおかげか、珍しく機嫌よく鑑賞している。
と思ったのだけど、突然、暴力的に人間にヒレを切り刻まれたサメが
海に沈んでいくシーンに子供が立腹
外にでると言い出した。
説得を続けたが、じいさんの「なぜ、動物達は絶滅したんだろう」という
押し付けがましいお説教がはじまり
あえなく退場。

しかし、僕だって立腹している。
なぜ、サメを切り刻んでいたのはアジア人なんだ。
真実かもしれないが
「なぜ、動物達は絶滅したんだろう」という
流れで「絶滅させたのはこの人たち」みたいにみえるでしょう。
より多くの種を絶滅させてきたのは西洋文化に他ならないのに。

というか、何故、美しい自然描写にとどめなかったんだよぉ。
なんで、なにかいいたがるんだよぉ。

このところの捕鯨問題で僕は過敏になっているのかもしれないが
エコも宗教的な動物愛護も糞くらえだ。
なんというかアース的な何がしにはもう辟易している。
そういうものの全てが欺瞞に満ちている。
エコとかいい加減にしてくれまへんかねぇ
やってることが全然、エコじゃねえじゃん
なにがエコポイントだ、冷蔵庫もテレビも
でっかいのに買い換えさせてどこがエコなんだ?
その方がおいおいエコだっていっても
企業は新製品は出し続けるんでしょうがに。
政府が後押しすることじゃないでしょうよ。

なに政治もエコ効果に乗っかってるの?
確かに自然は大切だし、守っていかないといけないのは
子供を持つとしみじみ感じられるようになったけれども。
「温暖化」だってそれにまつわるの報道の
半分は欺瞞だってことは
冷静にネットで事実を集めれば誰だってわかる。
さすがにテレビではやらないけどねぇ。
温暖化を否定されて一番困るのは企業ですからねぇ。
「ゴミ分別」や「省エネ」も胡散臭い。
不安感を煽ることで得する人たちがいるということね。
宗教みたい。
やるべきこともあるのだろうが妄信するのが怖い。
事実を拾い集めて見えてくるものがある。
それは今更、ここで僕が言うようなことではないので
その件に関しては沈黙。

しかし、日本人は従順ですね。
エコエコ騒ぐ日本人をみて
海外との温度差に驚きました。
今はどうなんだろう?今はエコ流行してるかな?
メディアがあっち向けっていえばあっち向くし
こっち向けっていえばこっち。
僕が怖いのは「オーシャンズ」を観て
日本人が総意で「鯨殺しちゃダメ」ってなること。
でもね、殺してないの、食べてるの。
殺すのと食べるのは違うよ。
残さないで食べるなら命は頂いてもよいという理屈。
戦争もそうすればいいのに。(ジョーク)
サメのヒレだけを切り刻んで生きたまま捨てる映像は
とてもショッキングだったけど
日本人は鯨を残したりはしない。
サメだって、ちゃんとカマボコにしてる。

問題は、オーシャンズのスタッフが
あの問題のシーンを撮るのに
あそこに立ち会ったということ。
でも、あの漁のシーンは真実だろうか?
あのようなことが行われているのは確かだろう。
しかし、映画では、イルカも鯨も、網にかかった
生物は全部虐殺していた。
あれは演出として作れれらたシーンではないだろうか。
そこが問題。
あの映画のスタッフはあれらのいきものたちを殺したのと同義でしょ?
とにかく、あのシーンは悪意をもって創られたといいたい。
心地よい映像のあとに、胸糞悪い暴力をみせたかったのだ。
あの映画はそういう映画だったのだ。
観た人になにかひとつの答えを植え付けたかった。
ただ、それだけのこと。


僕にとっての最大悪は殺すことではなくて
残すこと。
そう、偏っている。
食べ物で遊ぶことが一番嫌い。
子供を滅多に叱らないけど
食事中にふざけているとひっぱたく。
遊び食べは許さない。
真剣に命がけで食べない奴は許さない。
「食べないと食べられる」これが真実。
それが弱肉強食の意味でしょ?違う?

その中で滅びるものは滅びたらいい。
滅びるものを必要以上に守ることなんかない。
人が種を絶滅させるだけではなく種は滅びる。
それは仕方ない。

自分が食べる以上に囲い込むから歪みや破壊が起きているだけなのにね。
良し悪しは別として、それはとてもシンプルなこと。
それを推し進める企業だの政治がエコを本当の意味を歪めて悪用するのが許せない。
エコの本当の意味は、日本の「もったいない」が一番近い。

まだ、使える電化製品、買い換えるのはモッタイナイですよ。

食べられるサメをヒレ以外すてるのは
もったいない!
あのスタッフ、殺した生物全部食べたんだろうなぁ~(怒)

以上、オーシャンズの感想でした!
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2010-01-25 05:59 | 食べる事と飲む事
ファミリーツリーの物語
「ワッツママ」「ワッツパパ」という
指輪物語のようなケルト神話を題材とした
一大スペクタクル2部作映画がこの春、封切られるそうだ。

テーマは第一部は「母とはなにか?」
そして二部は「父とはなにか?」
なんじゃそりゃ。

後光を放つ女神のように美しい女性が険しい自然の中に立つポスター
鋼のような肉体を持つウォーリアーのような男性が魔物たちと対峙するポスター
リアリズムで細部がコントラストでギラギラと輝くようなその絵の中に
違和感のある丸ゴシック系のタイトル。
センス悪っ!。
でも、これは気になるぞ。
いや、これは観に行かなければ!


というところで初夢から目覚めた。


目を開けると曽祖父、曾祖母の写真が僕を見つめていた。
実家の仏壇の部屋は冷暖房が不十分で、
隙間風で凍えそうになり、何度も目が覚めるため、夢は細切れになる。
子供たちの毛布をかけなおすと、そのまま目が冴える。
隣の部屋からは老いた父、母の寝息が聞こえてくる。
ふと哲学が鎌首を持ち上げる。
家族とは何だろうか?


親戚の多い家系ゆえに、正月ともなると
毎年、多くの親戚がやってきて実ににぎやかだった。
祖母を中心として毎年100人近くもの人々がやってきた。
毎年毎年、いとこの誰それ、はとこの何ちゃんが
どうしたの、こうしたの、離婚しただの、再婚しただの
武勇伝やバカ話などが飽くことなく語られる。
しかし、僕はそれがわりと好きで
ちょこちょこと書き留めては採集していた。
そういう無駄話でも書き残すと色々と気が付くことがある。

話しにはいくつかの分類と型があり
縦糸と横糸に分けられる。
全く同じ話しでも、語り部や家系が変ると変奏され
親等が離れると主人公そのものがすり返られたり
代が変ると、話は大げさになり、伝説に近くなる。
3代もさかのぼると、それは神秘性を帯び
現実から遊離し、お伽話に繋がってゆく。
知り合いの曽祖父の祖父は鬼から逃げて別の村に住むようになったそうだ。
まさに昔話がつむがれる現場がそこにある。
そして昔話はやがて神話へと時間をかけて蒸留されるのかもしれない。

母を中心としたひとつの家族というユニット
それを大きくまとめる祖母という一族としての大きなユニット
それぞれのユニットの中にトリックスター(道化師)を演じる者がいて
王(権力者)がいて、僧侶(法律家)がいて、戦士(労働者)がいて
農民(被支配者)がいる。それぞれ、自分の役割を演じている。

僕の叔父は定まった仕事には就かず、飲んだくれ、小鳥のメジロを愛し
誰よりも素潜りが上手く、意地汚く、ユーモアがあり
いつもネズミ男のように問題を起し、とにかく嫌われ者だ。
しかし、子供たちからは誰よりも愛されている。
滑稽なのだが、トリックスターはトリックスターらしく
まるで、演じているようにしか思えないのだ。

ふと、思う。
彼がいなければ、この大きなユニットは支えを失い
自壊するのではないだろうか。
しかし、実際にはユニットは新たなトリックスターを生み出すだろう。
そして、逸話は場所を変え、家族を変え語り継がれる。
実際に僕は曽祖父の人格に置き換えられ類似点が挙げられる。
僕の幼少の頃のできごとは一人歩きをし、繰り返し語られ変奏され
いつもの間にか親戚中の誰もが知るところである。

しかし、その家族の物語を通じて、
僕は自分が大きな樹の一部であることの実感を持つことができる。
その枝を手繰っていくと、いつか、枝は大きな幹にたどり着き
そこでは、お伽の物語が息づき、この現実と地続きになっている。
神話に自らをプラグインすることができるのだ。

まさに戦士の姿をした自分が
物語の魔物たちと戦っている姿が見えてくるのだ。
それは大げさにしても、
物語は家族の中にありどう生きるべきかを示唆してくれる。
果たしてそれが現代にとって有効かいなか、それはさておき。
実は神話やお伽話とはそういう類のものであったはずだと思う。
誰かが創作により、ぽこっと取り出して語るものではなく
家族、一族に語り継がれ
もっと大きなユニットの中の生活と神話は深く関わっていた。
生活の必需品としての物語があった。
その中に暮らす者にとっては物語が示す知恵は
絶対であったに違いない。
絶対というよりもむしろ、物語はファミリーツリーを
脈々と流れる水のようなもの。つまり血そのものなのだ。

物語の中には家族の系譜がある。
そして、その血は血族として
自分達の子供に受け継がれる。
人はひとりひとり自由であるが
実は、この家族のストーリーは
多かれ少なかれ、聖火のように
リレーされ、意思として受け継がれるものではないかと思っている。
最近、そんな風に思うのだ。
反抗することに心血を注いだ父との関係であったが
歳を経て確実に父の意思を継いでいると感じられることがある。

僕は特定の宗教を信じないが
ゆるやかにどの宗教も受け入れている。
なににでも見境なく祈る。
ファミリーツリーの前では宗教のビビットさは色あせる。
世界の多くの宗教は
実はこのファミリーツリーの派生ではないかと思うことがある。

人は「人には規範は必要だ」と考えている。
だから寄る辺としての宗教のようなものが必要になる。
そして、僕にももちろん規範が必要だ。
宗教が生きるための多くの滋養を含んでいることは確かだ。
まるまま否定するにはもったいない。
しかし、特定の宗教にはその宗教を生んだ文化の
因習が深く染み付いている。
それをまるのまま飲み込み受け入れるのはとても難しい。
牛肉を食べないで生きるなんてのはできない相談だ。

ファミリーツリーをさかのぼり、神話のさらに先
そこを進むと枝分かれし、研ぎ澄まされもうひとつの極に行き当たる。
それこそが宗教ではないだろうか。
それは枝分かれし根のように入り組んでいる。
さながら、逆さまの樹のような姿となる。

僕はこのファミリーツリーの幹を通じて
根の養分を吸うことができると信じている。
そこには文化の因習に縛られない、
自然な祈りがあるように思えてならない。

ただ、現代はこの家族の樹が危機にある。
見渡すと多くの葉が落ちていくのが見える。
都会では誰もが大きな家族樹と分断され孤立し枯れてゆく。
物語によって与えられていた使命や乗り越えるべき試練はなくなり
目的を失って無闇に色づいていく。誰もが老成してゆく。

都会の生活は確かにクリアで気楽のように思える。
しかし、一方で各家族化は進み、隣人はなくなり
共同体は失われている。
その中で他人を思いやるということも希薄になっているのも確かだ。
そのことが派遣切りやワーキングプアへとも繋がっているようにも思う。

切り離された社会の中で
死や老いや貧困はさらに陰惨にギラついて見える。
一方で昔話にでてくる老いや死は陰惨ではない。
老い死にゆくまでのサイクルを物語はおだやかにみせてくれる
死の間際、荘厳な死の物語
畳の上で皆に見守られて往生することの美しさ。
しかし、そんなものはとっくに失われた。

昔々、子供と老人は共に暮らし
死に行くものから若きものへと受け継がれるものがあり
老人は緩やかにそして確かに死ぬことができた。
子供はジジババと接することでどんどん大人になる。
田舎帰りをした後の子供の成長はいつも見違える程で、
不思議に思っていた。
きっと親が与えられないものを与えているのだろう。
犬も孫犬を見て、突然老い、死の準備を始めると聞いたことがある。
例えばユズリハのようなものかもしれない。

確かに都会の中に住んで家族の実現は難しい。
同じ家の中にいてさえ、現代の家族は孤立する傾向にある。
エコエコ騒いでいるが、我々が失うものは環境ではなく
先に「物語」なのだ。そのことはあまり騒がれない。
環境の破壊は物語の破壊の結果ではないかと思う。
孤立する我々が地球のことを思おうにも
プラグインできるわけがない。
「地球にやさしい」という言葉は単なるコピーとなる。
地球を破壊している我々、地球という家族ユニットを
我々は感じることができないのだ。
まず、家族とつながり、
この地球と言う家族樹の幹にたどり着かなければならない。
そこで、初めて地球にプラグインすることができるのではないか。

都会が我々に求めているのは自然からの孤立、家族からの孤立である。
それは結果として蜂の巣のようなゲージに囲われた生活になる。
そこから全体を見ることはできない。
ネットカフェ難民やニート、異性関係を放棄する人々
都会はあのようなスタイルを人に求めているのだ。
オフィスもそうなっていくだろう。
果たしてどちらが人間にとって優しいのか。



我々は模索しなければならないだろう。
現代に耐えうるファミリーツリーの物語を。
そして、それを探し、子供たちに語り継いで行けたらと
ただただ願う。

自分に残された時間をそのことに費やせたらと
今、考えている。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2010-01-08 07:03 | 考える
クリスマスの三角帽子
子供が二人とも風邪をひいてしまった。
下の子は初めての病ということもあり
それはそれは大変だった。
子供が二人いて、一人が風邪をひくというのは
そういうことなんだろうな。
誰か一人で食い止めることは至難の業。
というわけで、僕も伝染し、一週間がつぶれた。

子供が苦しそうに寝ているのをみていると
痛みを肩代わりしてあげることはできないと分かっていても
心は痛むわけで、不規則な呼吸に合わせていると
こちらまで眠れなくなり、寝不足からダウンしてしまった。

ようやく家族装置も復旧し
先の日曜日には家族らしくクリスマスツリーがお目見えした。
こんなにもクリスマスツリーが心温まるものだとは思いませんでした。
あれは自分が喜ぶものではなく、喜ぶ誰かの顔があって初めて
心躍るものなのですね。

クリスマスを経験したことのなかった私にとって
ツリーは陰惨な冬の夜の事件を連想させるだけのものでした。
おそらく、できないのなら、それを嫌おうという心理が働いていたのかもしれません。
「商売人にはサンタはこない!」と叱りつけられて師走の商売の手伝いをしている
子供にとって、クリスマスで賑わう商店街が忌まわしい景色でしかありませんでした。

ツリーにぶらさがる、サンタの虚構の笑い顔が憎たらしくて
友達の家のツリーのサンタの口に赤いマジックで血を描いたことがある。

母曰く、商売人のサンタは2ヶ月遅れでやってくる。
商売が忙しいので気を利かしているのだそうだ。
サンタの正体は「えべっさん」であるという衝撃の事実。
・・・確かに、少し似ている。
子供心に納得した。
ツリーは笹に化けた。

しかし、その僕が今、サンタを待ちわびている。
子供に何をプレゼントしようかと考えるだけで心が浮き立つ。
サンタなんかいるわけないと豪語していた僕の心に
純粋に子供を喜ばせたいというサンタが住んでいる。

上の子はサンタクロースを「三角さん」と言う。
三角の帽子を被っているからだろう。
確かに「さんたくろーす」と「さんかくぼーし」は似ている。

クリスマスツリーに「いらっしゃい」と書いた
三角帽子を被ったえべっさんの絵を貼ってあげたら大喜びした。

小躍りしながらハッピーバースデーのメロディにのせて
「いってまーせー、じーじー」と勝手な歌詞で歌を歌ってくれた。

それから何枚も欲しい物の絵を描いて吊るしていたが
それは七夕だろう。

なんだか色々まざって良い感じになっている。

プレゼントは何にしようか。
あれもこれもと考えて
あまり甘やかすのもよくないのかと思い直したりしたが
やっぱり子供の喜ぶ顔がみたい。
甘やかすのと喜ばせるのとは似ているようで違う。
「甘やかす」のは、いろいろ考えるのが面倒くさいので
とりあえず、子供の要求を呑むこと。
「喜ばす」というのは能動的で、
自らも子供の感情に参加して喜びを教え
ひいては一緒に喜ぶことではないかと思う。
そして喜ばせることはどれだけしても
いいのではないかというのが
子供と関わりたくてしょうがない僕の出した答え。
というわけで、子供と一緒に楽しめるものばかりにした。
ばかりということは、まさにプレゼントがひとつではないということ。
自転車と、組み立てて飛ばせる飛行機と、手作りの絵本
ぶつぶつと自分で言い訳をしながら、思うさまプレゼントを用意した。

ちょっとした風邪で、気をつけさえすれば
子供を失うことなんてないのは分かっているが
子供が健康で笑っている姿をみると
もう、それだけで、うれしくてしかたなくなる。
それ以上はなにも望まないという気持ちになる。
そして失うわけではないのに、
今のうちにやってあげられることは
全部してあげたいと思うこの頃である。

今年の三角さんは12月にやってくる。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2009-12-23 03:20 | ニュース
コピーとオリジナル
TVで歌番組を久しぶりに見てみた。
半分以上が過去の楽曲で驚いた。
最近、TVがひどいことになっているときいてたけど、なるほどね。
とてもこのままの状況で来年のTV業界があるとは思えない。

一方
わざわざ携帯のキャリアを
ドコモに変えてまで「BeeTV」をみているのだけれど
確かに面白い番組が多い。
ちゃんと作っているなと感じた。
でも、なんだかみているとしんどくなる。
なぜだか重たい感じがする。

あのTVの「なんとなくみている感じ」
というのができない。

同じお金を払ってみているのでもNHKとは大きく違う。

会員数が増えてやっと成り立つ
BEETVのビジネスモデルは果たして
続けていけるのだろうか。
これもこれで来年が心配。

ネットができてから、人のTVの見方
娯楽の楽しみ方が変ったのかもしれないけれど
一方で膨大に蓄積された過去のコンテンツという問題がある。
クリエイティブな世界は
今後ますます過去のコンテンツとの
戦いにさらされる。

例えば、ゲーム業界も
いろいろなゲームがやりつくされた感がある。

僕は職業ゲームクリエイターのくせに
ゲーム嫌いなので、ゲームのことをろくに知らない。
そのせいでゲーム企画をするたびに
「ああ、もう、それあります」と
冷たく言われてしまう。

しかし、ゲームなんて、大きく分類してしまえば
そんなに種類はない。
確かにやりつくされたかもしれないが
それはカテゴライズして考える、
またはカテゴライズされた頭がそう思わせるだけで
本当はまだまだやるべきことがあるはずだと思われる。

初めて聴いた音楽に「ああ、それロックですね」と言ってしまうようなものだ。
「それ、あのバンドに似ていますよ」
それって悲しい考え方だけど
むしろ、社会が、我々をそんなふうにさせていると思う。
そのことで我々は多くのことを見落としてしまう。
しかし、作り手も自分自身をカテゴライズするために
型どおりのものしか作れない。

「シューティングゲームを作ろう」とか
「スーパマリオ」みたいなゲームを作ろうだとか
枠の中でしか創造することができなくなっている。

そんなことを昨日の歌番組に流れる、今年のヒット曲を聴いて思った。
これはないだろう!
それではまったくの焼き直しではないか。
過去コンテンツとの対決をあきらめ、
再提示にしかなっていない。

歌詞も悲惨なものだった。
ある形式化されたターゲットに
形式化された言葉を選んでいた。
そこで零れ落ちるものの大きさを考えるとせつない。
せめて、せめてリアルをみせてほしい。

しかし、ユーザーはそれらの楽曲に
「オリジナリティがないこと」を批判してしまう。
それはお門違いではないかしらん。
一体、オリジナリティーにどれほどの価値があるのだろう。
新しい絶望や新種の愛があるというのだろうか。

なにかが流行ったらみんなそこに乗っかる。
乗っかっているだけ。
自ら反省するところが多いが
それは理解する前に、消費してしまうような所業。
実る前に刈り取るようなことをしている。
みんなで芽を枯らしてしまうのだ。
本当は大切なつぼみが踏みにじられてしまう。

やりつくした感。
どこかでみた感じ。
みんなたいくつしている。
でも、欠落しているのはオリジナリティーではなく
リアリティーではないのかしら?

新しいものを作ろうとして
本当に革新的な新しいものができるようには思わない。
それはリアリティーの中からひょっこり産まれるように思う。
オリジナリティーを強要する現代は一方で創造力を締め付ける。
ほとんどのイメージは過去の蓄積というデータベースの中に存在する。
写真家は本当に全てのものを撮りつくしたのか?
歌手は全ての歌を歌いつくしたのか?

凡庸でいいじゃないか。
刺激を求めすぎる感性は
いつか刺激の中で麻痺してゆく
凡庸の中から面白さを引き出す
個人の力にこそ創造力が潜んでいるように
思えてならない。

加熱水蒸気式の電子レンジでは
作られる料理が限られてしまうが
火があればなんでもできる。
余計なことはしなくていいのだ。
包丁は変な形をしている必要はないし
ゲームは親切過ぎないでいい。
道具はシンプルな方が自由度が高い。
本当におせっかいなものが多い。
コンテンツも同様だと感じる。

新しいことをしなければ!
今までになかったものを産み出さなければ!
そんな焦りのせいで
電子レンジがしゃべり始め、おばあさんの
肩をもみはじめるかもしれない。
とにかく電子レンジは暖めればいいのだ。
どうか食べ物以外のものを暖めないでほしい。
ネコも荒んだ心も。
[PR]
# by radiodays_coma13 | 2009-12-08 23:43 | 考える