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言葉と文化
by radiodays_coma13
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人工知能vs人間
10年後自分は一体何をしてるだろう?


私の場合、自分が10年後、今と同じ仕事をしているイメージはまったく持てない。例えば、それはIT業界の定めみたいなものでもある。2年単位で次々に業界は様変わりしていく。たとえ、ひとつの会社に10年いれたとして、プログラマーだったのがもしかしたら和菓子を練っているなんてこともあるかもしれない。それくらいにめまぐるしく、業態や職種も変化する。だって1年前にはグロースハッカーやら、エバンジェリストなんて職種聞いた事なかった。

そして、10年後を大きく変えるであろう大きなインパクト
人工知能
人工知能の研究をしている知人から、真顔で
「人工知能はあと10年で、
 今ある仕事の在り方をごっそり変えるから
 気をつけた方がいい」
と言われた。

「どう気をつければいいのさ?」

車にひかれないよう気をつけるみたいに通り過ぎるものならいいんだけど、それがやってきたら、ごっそり世界は変わる。もう戻らない。
「人工知能で置き換えられない
 職業につきなさい」

今から?

それは僕、個人の能力の問題ではなく、みんなに等しくそのインパクトがやってくるだろう。今、ある仕事のほとんどが人工知能ロボットにとって変わられる。何もしなければ、社会からの途中退場を余儀なくされる。定年になれば、個人タクシーの運転手にでもなろうかな、なんて。リタイヤの定番のコースも、ロボットに取って代わられる職業の筆頭である。居眠りをないし、うっかりミスもしないロボットドライバーで事故率はかなり減るんだろうね。

そんなに人間の仕事をロボットが肩代わりしてくれればいずれば働かなくていい未来がくる!?

なんてことはきっとないんだろう。働かなくていいのは経営者だけ。休まず働くし文句も言わないロボット社員は経営者には理想に違いない。雇わない手は無い。
「ロボットを管理する職業は残るかもね」
と知人は言っていたが、それもいずれロボットがやってくれるだろう。経営判断もロボット化する。現時点で株のトレーダーに関してはバイアスに左右されない分、すでに、人間よりも人工知能の方が優秀だと言われている。

じゃあ、人間は何をすればいいの?

アート表現や、エンターテインメントに関してはさすがに無理でしょう?

果たしてそうか?

それは人間の希望的観測に過ぎないのではないか。生命の基準や人工知能のチューリングテストのように、人間がそれと気づかなければ、もう、それを生命や知能と呼んでも差し支えないのではないか。人工知能に感情の再現が難しいと言われているが、感情のシュミレーションはできるだろう。人間が何を喜ぶかという統計的な判断こそロボットが得意な分野であるはず。 表情から感情を分析し、一緒に悲しんだふりをしてくれたり、喜んでくれる振りをしたりする、友達ロボに癒される未来はすぐそこにある。

私が自分の知りたいことのテーマにしている、「美しいや楽しいなど、人間の感情について」。例えば美はかなりの部分、理論化が可能である。鳥や虫が特定の形状を好む性選択こそが美である。大きな羊が「美」という文字の起源であるように。文化や個人の差こそあれ、用の美を計測していくと、美の技法化は可能であるだろう。現状でも、デザインには90%の正解があると言われる。

そして、きっと、近いうちに、アプリケーションがそのデザインの正解の判断を行ってくれるようになる。デザイナーはその機能が搭載されたIllustratorに注意されるようになるだろう。

「カーニングにミスがあります。」
「配色違反があります。」
「あなたのデザインは42点です。」

可愛い女の子ロボットに叱られるならちょっとうれしいかも?気がついたらロボット上司にドライに役立たず宣告される日がやってくる。これから大人になる世代はその現実をすんなり受け入れるかもしれない。しかし、辛いのは人工知能普及の過渡期にある我々の世代だろう。仕事を奪われ、自分より優れたロボットに管理される状況に精神が耐えられなく人も多く出てくるんじゃないか。

現状、開発中の人工知能にみんな夢いっぱいで、その負の側面というのはあまり語られないが、まさに、開発しているその当事者たちは、それがもたらすインパクトにはとっくに気づいているはずだ。10年後、現在ある90%の職業はなくなっているという試算がでている。ヘブライ大学の教授、ユヴァル・ノア・ハラリの刺激的な書籍の中では、人工知能の発達が人口の大半を占める「役に立たない人」という新しい階級を生むと言っている。

Alphagoという囲碁の人工知能は世界トップクラスの棋士李世ドル氏に勝利した。予想よりもかなり早い発達と勝利だった。そして、ついに将棋の人工知能対決、電王戦に羽生善治さんが挑戦するというということを発表した。それらのことのインパクトは大きい。人VS人の対戦を楽しむゲームは人VS人口知能との対決を楽しむようになる。しかし、それも過渡期のお話で、いずれ、人工知能は人間を超越し、かなわなくなる。その時、プロ棋士はプロであり続けることができるだろうか。

きっとそれに反発する人たちもでてくるだろう。理論に当てはまらない美や、文化に魅力を見出すことになるのかもしれない。ロボット排斥運動が起こり、もう一度、手作業で車を作ろう!とかね、非合理を追求する人々。非合理性だけは人工知能には理解できないと脳科学者の中野信子さんも言っている。しかし、ロボットにしてみたら、感情や、非合理性、そんなものノイズでしかない。やがて、政治家も汚職がないので、みんなロボットに取って代わられスーパークリーンな政治が行われるかもしれない。晴れて我々はロボットに支配される。

我々に残されている仕事は非合理と感情で作り上げるエンターテイメント産業くらいかもしれない。ロボットにとってはそれはノイズかもしれないが、人間に残された唯一の聖地。我々は娯楽に没入していくだろう。オーバーヘッドディスプレイをつけて架空の世界の中で休日を過ごす人々の姿はなにかモノ悲しい。

人工知能は本当に我々を阿呆にするだろうか?

ニコラス・G・カー著の「オートメーション・バカ」という本では先端技術が我々を無能にしていくという事が書かれている。我々はオートメーション化によって多くの技術をロストしている。身近な例で言えば、もう、服の作り方をしらない。火の起こし方を知らない。もし、真冬にテクノロジーが使えなくなると、我々は凍え死ぬ。しかし、これには反論がある。数千年前、ソクラテスは本を批判したことがある。本のせいで記憶力が失われると。これはPCの発達でも同じことが言われた。
「人はもう記憶する必要はない」
と。しかし、それは杞憂であった。むしろ道具は我々を利口にする。意識を外在化させることで人間は知能を発達させた。道具は我々の新しい器官である。携帯電話というテレパシー器官。車という素晴らしい足。道具の発達はむしろ人間を次のステージに上げてくれる。人工知能に負けて久しいチェスの世界でも、現在ではまた人間が勝利するようになってきている。

だが、やはり、それについていけない人もいるだろう…。進化できる人間が支配階級になり、あとは予言通り、無能階級となるのではないか。

あと数十年後、残っている職業は?僕はいつまで働ける?

MITの経済学者エリック・ブリンジョルフソン博士の書籍「機械との競争」では統計的に技術が進化し機械化が進んだとしても労働者は仕事を奪われることはないとしています。今のままの世界ではないとしても、次の時代には次の時代の新しい仕事が産まれるだろう。ただ、同じ場所に座り続けることはできない。考えれば、それは、いつの時代でも同じことなのかもしれない。前を向いて歩くしかないということか。

チェスの人工知能で最も強いのは最も優れたロジックではなく、優れた人間とロボットのチームワークによるものだそうです。つまり、人間が人間たる強みであるコミュニケーションこそが、優れた人工知能を凌駕しているという意味は大きい。猿にもコミュニケーションがあるが不特定多数のコミュニケーションが可能なのは人だけだ。それによって人はまったく知らない人とも連携が可能になる。知らない人の運転している人の電車に乗り、あまり知らない人と一緒に働く。そして数万人単位のコロニーを形作る。人間のその偶有性を備え複雑なシステムを形成する能力こそ、人工知能を凌駕できるのではないだろうか。

そもそも、人は一対一では猿にも勝てない。

可能性はそこにあるように思う。我々は一人ではない。どんなに孤独であろうが、人は無数の人とつながり助けられている。人がアンドロイドを愛するようになる未来はくるかもしれない。しかし、ギリシャ神話のピグマリオンは既に、創作物に溺愛するというオタクのはしりのようなことをしている。それは何も目新しいことではない。アンドロイドだって人が作ったのである。間接的であれ、人の心を愛していることに違いはない。ロボットが現れ、人の意味は大きく問い直される。素晴らしい時代ではないか。人が人を超える知能を作り上げる歴史的な時代に生まれ、それに立ち会えるなんて。たとえ、それが悲劇でも楽しむ余裕は持ちたい。楽しむということを楽しむことができるのは人間にしかできない。美しいことを喜ぶことはロボットにはできない。

誰かを喜ばせたい。誰かの役に立ちたい。そう思える限り人は無能階級ではない。ロボットは我々を喜ばせてくれるが、人はロボットを喜ばせることはできない。その悲劇は幻想である。喜ばせる意味はないのだ。ロボットは道具に過ぎないからだ。フェティシズムとして愛することはできても、それは人への愛の変奏には違いない。コミュニケーションがそこにある限り、人は人であり続け、生きる意味は失われることはない。

人はかつて、人と愛し合った。
そして、これからも。

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by radiodays_coma13 | 2016-06-07 19:10 | 考える