「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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アップルとマイクロソフト
スティーブ・ジョブスが亡くなっていた。
直接関わったことなんかないのだけれど
身近な親類がなくなったくらいの衝撃を感じた。
ITに関わる者であれば、多かれ少なかれの影響を受け
多かれ少なかれ振り回されたことがあるだろうジョブスという存在。
そして、30年も前、小学校の頃にパソコン少年だった自分にとっては
appleというアイコンはそれ以上に大きな意味を持っていた。

ニコニコ生放送で話題になっていた
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1668825.html
について

脳科学者の茂木さんがおそらく
appleの商品を賞賛する為の対比として
windowsPCの使い勝手の悪さを殊更に
強調してしまったのだろうが
「使っている時間に比例して嫌になっちゃう」
と発言してしまった。
その場に折り悪く、元マイクロソフト副社長の
西さんがおられた。起こるべくして起こったとしか
いいようがない。

一個人の意見として否定するつもりはないが
僕はapple社製品に関して全く逆の感想を持っている。
apple社の製品を使うのが好きではない。
使う時間に比例して嫌になってしまう。

スティーブ・ジョブスは人間的に面白いし、
彼に関する書物は、示唆に富み、色々な意味で
学ぶべきものが多く、尊敬に値する。

そして、彼が作り出した商品は
本当にすばらしいの一言だ。
彼がAPPLE社に復帰して以降の
商品を使ってみて初めて
ユーザーインターフェースの奥深さと
そのなんたるかの意味を知ったように思う。

全てがそろっているが、その使い方がわからない便利な部屋と
欲しいと口にするだけで、全てが前に現れる部屋との違い
くらいの違いがある。

そして、なによりもその洗練されたデザイン。それは
今までのパソコンからは考えられないシンプルさと
美しさを持っていた。それは他のプロダクトデザインにも
強い衝撃と影響を与えた。
今までのIT機器では考えられなかった偉業だ。

apple社の製品はクリエイティブな人々が多く使っているし
windouws派とmac派で言えば
俄然、クリエイティブといえば、mac派といっても
間違いではないだろう。

だがしかし、なのだ
それはわかっているのだが、単なる天邪鬼ではなくて
僕はそれが不思議で仕方ない。

あのPCを使っていると、自分が道具を使っている感じがしない。
何かを作っている感じもしない。
最終的には自分をもインターフェースにしまおうとするその発想から
くるのか、PCと対話しているあの感じがない。
それはいいことなのかもしれないが、ゴツゴツした手触りがないのだ。

そして、こともあろうにクリエイティブを邪魔してくる。
というか、目の前に、すばらしい完成品があり、それを使っていると
なにか悲しくなるというか、答えを見せ付けられているような気がしてくる。
「ほら、俺みたいなものを作れよ」と気がつかないうちに
その思想性やエッセンスを叩き込まれているような、
デザインが引きずられているような心地がしてくる。
他の人に聞いたけれども、それを感じるという人にはまだ会っていない。
だから、これは個人的な感想に過ぎない。
それとも、もう、皆、apple教に洗脳済みだったのかもしれない。

そう、それは宗教に近いのかもしれない。
macで作るということは、ジョブスを教祖とする
彼らの宗教の上で制作をするように思えてならない。
それはすなわち、その価値観の上の道を歩くか
その山のさらに高みを目指すのかという選択ししかない。
macを使って何かを作る心地は
教会で仏を祈るような居心地の悪さに近い。
いつも、背後にジョブスが立っていて
せせら笑われているような被害妄想に陥る。
そこに、猛烈な窮屈さを感じてしまうのだ。使えば使うほどに!
それはmac恐怖症といっても大げさではない。

そして、一方のwindowsは無宗教を感じる。
使い方は自分で考えてくださいと道具を与えてもらう。
初めて工作するときのワクワクがそこにはある。
不親切だが、そこには自由がある。
押し付けがましさもない。単なる箱だ。
僕はのびのびと自分の身の丈で制作に打ち込める。

僕は正直なところ、パソコンには
ジョブスが言うような個性や美しさはいらないと思う。
便利であるべきだとは思うが
作るということの最終目標は
自分でその仕組み自体を作るオーサリングであると思う。
その時、完成された言語や、閉じられたシステムは
それを阻むことになる。
誰もがオーサリングの高みに到達しないとはいえ
閉じられた環境はそこで作られたものにも影響を与えるだろう。
macは常に完成品としての結果を出してきた。
それらの商品はひとつひとつ閉じられた輪を連想させる。
そして、彼が作り出したものや、その態度は
現実に排他的であったといわざるを得ない。
ジョブス無き今、appleは今後、あまりにも個性的な、感情的な
あまりにもジョブス的な商品を引き続き
世の中に出していくのだろうか。
出して行けるのだろうか。

どんな世の中でも
かじりさしのリンゴは猛烈な勢いで
腐敗していくものです。
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by radiodays_coma13 | 2011-10-24 05:49 | ニュース
毎日を普通に生きるための物語
最近、仕事の忙しさに、ボーッとして考えることを止めていたように思う。
とにかくやらなければいけないことをやる時は自我を消すのが一番。
でも、子供と遊んでいる時に居眠りをしていたら
奥さんに、今まではそんなことなかったと言われショックを受けた。
さあ、そろそろ子供向けコンテンツの実制作を開始します。

上の子が幼稚園の年中さんなんだけど、年長さんともなると
もうお受験の準備が始まっている。いや、正確には、年中の今頃から
公立に行かせようとしている親たちは、習い事を始めたり
準備は始まっているようです。
今の子供たちはこんな時から、想像もできない自分の未来に向けて
走り出すことを余儀なくされているのか。
まだ、自分が何者かもわからないのに・・・
一体、何処に行けと言っているのだろうか。
闇雲に、親が指差す方向へ鞭打たれる。
これでは大人になる前に疲弊してしまうんじゃないだろうか。

彼らにとっての幸せはなんなのだろうか?
子供たちの幸せのためにと良く言われる。
しかし、そんなの彼らにしかわからない。
それを、親の世代であるわたしたちが、あれこれ想像して
鞭打つのは、身勝手といわざるを得ない。
えてして、こうあるべきという幸せは紋切り型でしかない。
しかし、どの親もそうせざるを得ない、それは皆がそうしているから。
たったそれだけのことなのだ!
「みんながそうだから」
そんなの怠慢以外のなんでもない。想像力の欠如だ。
子供の幸せのためというのは、体のいい、言い訳に過ぎない。

就職率の低下なんてことが言われているが
それは求人率だけの問題ではないように思う。
就職に魅力を感じられない人が増えているという一面もある。
それは今後、もっと深刻な問題になってくると思う。
何故か?だって、仕事の面白さや、多様な未来について
誰も教えなかったのですもの。もっと増えるんだろう。


そりゃ、絶望したってしょうがない。
TVやメディアが言うのは「金持ちになるために」「夢を持て!」「成功しろ!」
それから、夢を持ち、成功するという薄っぺらなサクセスストーリー。
そんな紋切り型の理想や物語で幸せになれるのはほんの一握りの人でしかない。
じゃあ、そうじゃない人は、どうやって幸せになればいいの?
ハレとケでいう1割にも満たないハレの生活にしかスポットを当てていない。
教育は、我々が当たり前に生きる為の9割以上を占めるケの生活について
より豊かに生きるための知恵を教えない。
しかし、我々の圧倒的多数が凡庸な日常に追われる毎日を過ごすことになるのである。
にも関わらず、その凡庸だが平和な毎日はむしろ悪であるかのように言われ
そこから脱出して、上を目指せだの、当たり前の生活を捨てて
仕事に明け暮れ、成功を掴めだの、本当にうるさい。
そして、金を掴んだ老人になって、世の中金だけじゃないとのたまうのだ。
そんな茶番を見せ付けられて、未来に希望を持ち、日常が楽しいと思えるはずがない。

いや、むしろ金持ちだって、特別な人々だって、
凡庸な毎日を過ごしていることは間違いない。
しかし、「いや!そうではない」と思わせようとしているのが問題なのだ。
そうではないと思い込まされている。退屈な夢を描かせられているのだ。
きらびやかに装飾された理想の生活。それを見せることは消費を促す手段でしかない。
誰もが理想の生活を手に入れられると信じ込ませる。みんなが?理想の生活?
そんなわけないだろう。そんなことしたら、地球が何個あっても足りない。
常に未来に投資し続ける資本主義的なやり方はいつか破綻する。
永遠に右肩上がりの経済なんて、普通に考えてないはずなのに。
現に、世界的な不況がすぐそこまで来ているではないか。もう、大人たちも
強制的な夢に息切れして疲弊してしまっている。

本当に今、必要なのは凡庸な毎日を楽しむ知恵ではないか。
我慢して稼いで、ゴージャスなバカンスではなく
毎日、延々と続く仕事や日常そのものを奥ゆかしく楽しむ知恵。
そして、成功だけが人生ではないと教えてくれる物語。
それらが今、圧倒的に不足している。

「モノを買わずに幸せになる本」
なんてあったとしても企業はそれをオススメしない。
「夢をみない地味な生き方」
なんてハウツー本も書店は売りたくないだろう。
我々は誰から勝手に、買わされ、夢を見させられ、物語られているのだ。

教育は、若者の読解力の低下を警告しているが、
それは教育により奪われたと言ってもいい。
教育は紋切り型の理想を教えることで、人が、自由に物語る力を奪っている。
いや、教育に任せた方が悪いのかもしれない。
教育機関は工場でしかない。学校でいう自由など、与えられた範囲のものでしかない。
つまりそういうところなのだ。そこを出たからと言って
幸せが待っているわけではない。
それが答えであるということは、現状が物語っている。
教育は何故、こんなにも多くの、ニートを生み出してしまうのか。
そして、なぜ、こんなにも多くの、仮想空間の物語に没入する
ネトゲ廃人が存在するのか。

では、自らを物語る力はどこで養われるのか。
それは「遊び」でしかないと思う。
そして、遊びは子供の間でしかできない。
子供の頃にちゃんと遊べなかった子供は
大人になっても、正しい遊びをできない。
子供の頃に遊んでいないと、もう本気で遊べる時期はこない。
大人は習い事や、教育によって、子供からこのような大切な遊びの時間を
奪っているということを自覚すべきだと思う。

そして、子供がよりよく遊べるために、ただ、子供を放置するのではなく
子供が自由に遊べる環境を整えてあげる役目が大人にはある。
それは与えることではなく、無為を過ごせる時間をつくること。
習い事以外でスキマを埋めることでは決してないだろう。
テレビも、ゲームもなにも与えず場所と時間だけを与える。
最初は退屈するだろう。その退屈こそが一番の肝なのではないかと思う。
でも、いつか自分で遊び始める。大人が参加するのはここからだ。
子供の考えた遊びに参加するだけだ。

遊びの中で子供は、自分がどのような形をしているのか
自分自身で気づくチャンスを得る
必ず、子供は遊びの中に自分が熱中することができる何かを見つける。
そして、遊びの中で大人と接し、世界の手触りや、範疇を知る。
それを通して、必ず、それらに付随した知識、それを得るための環境づくりを
自分でやるようになる。自分から学ぼうとするのだ。
何かを学ばせるのはそれからでも遅くないのではないか。

子供の遊びの段階は進化していく。
ただ、何かを見るだけのブラウジングの段階から、モノを使って遊びに参加する段階。
次にルールを持って遊び始めるゲーミング。
ゲームのルールを変容させるオーサリング。
それから、その仕組み自体を変容させる、スクリプティング。
遊びは次第に高次のものになる。そして、物語れるようになるのである。
遊べなかった子供はその頓挫した途中の段階で進化を止めてしまう。
それはどんなことを意味するのか、例えば、オーサリングに達していない子供は
現実を自分で変えることができないという感覚の中に住んでいる。

現代の教育は、子供と大人、特に両親が遊ぶチャンスを奪っている傾向にあると思う。
わたしが作りたいのは、このチャンスを少しでも増やすもの
教育的ではなく、原始的な遊びの中にそれを見出したい
それを現代のテクニカルに置き換えて
より、現代という状況にマッチした形で、進化した玩具を作れたらと思う。
本当に少しでも、子供の環境を改善できれば・・・
そのためにできることをしたい。
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by radiodays_coma13 | 2011-10-11 06:26 | 子供向けコンテンツを作ろう