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言葉と文化
by radiodays_coma13
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沐浴のとき
子供と過ごす時間を大切にしている。
といっても時間的にそんなに多くはもてない。
そこで密度がものをいう。

沐浴の時間はスペシャルだ。

時間というものが相対的であるということを
アインシュタインの理屈ではなく
体感することができる。

時間は水のように形を変え
のびちぢみし、手の上でころがすことができる。

子供には水を特別好きになってほしい。
水を好きにならなければ
人は何によって癒されるというのだ。

少なくとも僕はポエムで癒されたりしない。



乳幼児の沐浴は父親の仕事であると思う。
腹を痛めない父親ができる最初で最大の命がけの使命なのだ。
水に浮かぶ子供の命の感触をずっしりと片腕で確かめることのできる
神聖で厳かな時間。
沈めようと思えば、いつでも沈めることができる。
すべてを預けることしかできない我が子の存在の弱さと
それを守ることの重たさを知るには沐浴しかないでしょう。

オムツを外すのを見計らったように噴射され
浴びせられるうんちビームでは神聖さに欠けるし
愛を知るというよりも愛することの難しさを知ることになる。


日々の沐浴の時間を通過することで
遺伝子的な父は徐々に肉体的な父親になってゆく。
そして、親子のつながりはしっかりとしてゆく。
だって、父親は母親のように子供が生まれてすぐには
親にはなれないんですから。


まずお湯の温度を確かめる。
感触ではなく、音で確かめる。
ちょうどよいお湯は音で分かる。
手のひらにすくい、30cmくらいのところから垂らす。
やわらかく、くぐもった音がするといい湯加減。
子供を片腕いっぱいに抱え
手のひらの湯を足、足から太もも、手、手から肩
お腹にこぼし、最後に胸。
そしてお湯の中に沈める。
首の後ろから広く後頭部を支え、両耳を小指と親指でふさぐ。

耳元でお湯の音をさせてやる。
できる限り気持ちのよい音がするように努める。
この音は清らかになるサインなのだから。
その音を聞くと、子供は目を瞑る。
もしかしたら体内での記憶を喚起させているのかもしれん。

ガーゼをお湯にひたして
胸の上にかける。

石鹸を手のひらの中で回転させ、手を洗う。
強く握られたままの指を解くように
掴んでいる糸くずや埃を外してやる。
たるんだ皮膚、脇や手首の溝、体の全ての
光の当たらない部分にくまなく水をそそぐ。

一日でも洗わない場所があると
すぐにかぶれてしまうのだ。

胸の上にのせたガーゼが冷たくならないように
ひとつの動作ののち、お湯をガーゼに垂らす。
洗う、お湯を垂らす。これを繰り返す。

頭を撫ぜ、子供をたたえるように
髪の毛を洗う。

小指を使って顔を泡で洗う。
鼻も鼻と口の間も瞼もやっと
小指が入るような間隔しかない。

顔の泡を胸のガーゼを絞り拭いてゆく。
擦るのではなく、ぽんぽんとたたくように
ぬぐいとってゆく。
このときは最も気持ちよいようで
うっとりを目を瞑ったまま
ニッコリとしていることが多い。

もう一度、全ての部分にお湯をかけ
ここからは素早くバスタオルでくるみ
湯上りの準備をしないといけない。
そのため、母親にバトンタッチするべきかもしれないが

遠足が帰るまで続くように湯上りで浴衣を着せ
立て抱きして、よしよしをするまでが沐浴なのだからして
ここで、母親に楽しい時間を譲るわけにはいかない。

ベビーオイルを手になじませ
まだ眠っている未熟な子供の体の感覚をノックし
目覚めさせるように、全ての皮膚を刺激してゆく。
毎日、指の数と骨と目や鼻の位置が間違ってないか
確認する。

パウダーをつけ、浴衣を着せる。
めん棒で耳と鼻を掃除する。
これで子供は新品同様。


湯上りの一連の動作は素早く行わないと
子供が湯冷めするだけではなく
沐浴で夢見心地の子供の機嫌をいちじるしく損ね
大泣きされてしまう。
とにかくスピード。

と、これが沐浴の大まかなフロー。
これらをできるだけ丁寧に素早く
心を鎮めて行う。
少しでも雑念があると
子供が泣き出す。

なので、沐浴の前から精神集中する。

そういう甲斐あってか、
3ヵ月の娘は「沐浴の時間ですよ」というと
どんなに機嫌が悪くても泣き止んでしまう。
関係のない上の子だって一緒に機嫌が治ってしまうくらいだ。

だいたい、沐浴をするというと
なぜか3歳になる上の子も一緒に裸になって
妹の沐浴をうっとりを湯船から見つめている。
沐浴は早朝に行うようにしているのだが
そっと上の子を起さないように沐浴を始めると、
裸になった上の子が黙ってやって来る。

(下の子は怒られるたり、落ち込んだりすると
すっといなくなり、ひとりでお風呂に入っていることがある)


沐浴は祈りに最も近いような気がする。
このような水との関わり合いを
もし子供がいなければ知ることはなかった。
そして、おそらく自分が幼いときの
産湯の記憶なのか、沐浴の記憶なのか
自分がもっとも癒される時間へとそれが
繋がっているように思われるのだ。
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by radiodays_coma13 | 2009-10-29 01:53 | 感覚について
臓物を喰らう
ホルモンが好きだ。

しかし、最近、ホルモンが流行っている。

ホルモンが嫌いだ。


何がホルモンだ!

僕は昔から臓物(ゾウモツ)とよんでいたぞ。

グッチ、アナスイ、ホルモン、ヒュンメル
B級ブランドみたいな名前にしたからといって
臓物がオシャレになるわけがない。

僕の住む池袋にも軒並みホルモン屋が増え続けている。
そこに殺到するのが若い女性客ばかりというのだから
首をかしげる

なにが「ホルモンヌ」だ。

30年以上「ホルメン」を自負する僕としては
由々しき事態だ。

だって、当時、誰も、僕のホルモン修行に
立ち会ってくれなかったではないか。

「キャー、気持ち悪い!」
臓物を食べる人間が汚らわしいみたいに
ホルモン好きのこの僕をさげすんだではないか。

今更になって、ホルモンが美容にいいからって
ホルモンを持ち上げないで欲しいね。

というか、僕の青春を返せ。
僕がもっと美しかった時代(あったのか?)に流行してくれたら
僕はモテモテだったに違いないのに。
「ホルモンが食べられる女子」という恋愛対象ももっと広がったのに。

「腸、一本下さい、それから子宮もね」
「君を残さず食べてあげるよ、脾臓まで」
自称、名ホルピニストのそんな勇ましい姿を見れば
誰だってカッコイイと言ってくれたはず。

臓物は哲学だ。
そんなチャラチャラ食べてくれては困る!
高き理想を目指すのだ。

コラーゲンたっぷりかもしれないが
プリン体だってたっぷりなのだぞ。
カロリーだっててんこ盛りだ。
次の日、確かに、お肌がプリプリになってるかもしれないが
いいか、あれはな、油だ。
お腹だってプリプリになるんだぞ
美容にはいいかもしれないが、ダイエットには不向きだ。
美容とダイエットは両立はしないのだ。

臓物は油と分泌物でぎっとぎとのぐっちゃぐちゃがうまいのだ。
そしたら、次の日は、てっかてっかで鼻の頭から油でまくりだ。
臓物のそのグロテスクさが、生命力を喚起する「うまさ」でもある。

実家のある神戸の長田には、昔、屠殺所があった。
何度か中を覗いたこともあったが、その光景が目に焼きついている。
そこの、ドブには血が垂れ流され、オレンジとも黒ともいい難いヘドロが
かさぶたのようにへばりつき、なんともいえない匂いを発する。
中をのぞくと、肉から湯気がもうもうと立ち込めていた。
そこでは一日、何十頭もの牛が頭を打ちぬかれ、
実にシステマティック殺されている。

身震いのする、そして
なぜか荘厳な気持ちになる光景だった。
それから、肉を食べるときは
ただ、美味しいものを食べるというよりは、覚悟というか
今回は食べる側であったことに安堵すると共に
自分が屠殺所の天井につるされていることを想像して
身の引き締まる思いがした。

そして、悲しいほどに美味かった。
それを目撃した以後の方がはるかに肉が美味かった。
そして、加工されて、死の匂いを消された肉だけではなく
死の匂いが消えていない、または消せない部位がうまかった。
唾液のししたっていた舌や、腹から引きづり出される腸や。

全部全部、食べたいと思った。
頭からかじりつきたいくらいにいとおしいと感じた。

だから清潔できれいきれいな美食は嫌いなんだ。
生きている側が生きていたものを食べるのだから
なにふり構わず残さず美味しく食べるのは責任でしょ。
血しぶきも飛んでこない場所で食べるなんて卑怯だわ。
僕なんか、浴びたいね。
これは趣味だけど・・・。

それにしてもホルモン、美味いよねぇ。
誰か、僕と食べに行かない?
女子限定で。
うるさいこと言わないから。
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by radiodays_coma13 | 2009-10-19 05:05 | 食べる事と飲む事
幸せの技法
仕事柄、「人間の感覚」に興味がある。
人が何を面白いと感じ、欲しがるのか

僕は自分に「センス」や「運」がないせいか
センスや運に頼るという考えがない。
そんな神頼みのようなもので
人にお金を払わせられる気がしない。

人の心は科学的に分析可能で
そんなに複雑なものではないと
ドライに考えている。


そこで、人が最も強く願い
それを求めるゆえに神頼みするもの
「幸せ」について考えたい。

どうして人類の多くが幸せになれないのか
不思議で仕方がない。

それは「幸せって不思議だね」という意味ではない。
どうして、人は幸せについて考えないのだろうという意味。
なにか天啓のようなものによって幸せがもたらされていると
考えている節がある。
自分自身では幸せをどうこうできないような気風が不思議なのだ。
つまり、どうして幸せを「科学」しないのだろう。

これは決して宗教ではない。
断固として宗教と幸せを分離したい。


c0045997_7201131.jpg
「ザ・シークレット」という本が話題なので買ってみた。
幸せについて書かれた本と言ってもいいと思う。
なんだか変な宗教みたく、とても気持ち悪い存在なので読むことにした。
引き寄せの法則といって、良いイメージをすることで
そのことを引き寄せることが可能なのだという。

なるほど
幸せなイメージをたくさん持てばいいのか。
でも、どうして人は悪いイメージばかり抱いてしまうものなのだろう。
そのことについてこの本はきちんと教えてくれていない。
良いイメージを持て!といったところで
ここのところを教えてくれないと
本当に幸せになれる本とはいい難い。

「ザ・シークレット」が正しいかどうかは置いておいて
人は不幸について考える動物なのだと思う。
人だけではなく動物は、色々な不安におびえて行動する。
そうしないと、いろいろなアクシデントで危険に陥る可能性が高くなる。
それは生き残りのためでもあったはず。
幸せのことばかり考えている動物は、近くにライオンが来ている可能性について
考えず、ぼやっとしてすぐに餌食になったはず。

なにか少し良くないことがあると、いろいろな最悪なケースを考えて
頭がいっぱいになる。気持ちはどんどん落ち込む。
よいイメージを持とうと努力しても、
「病気が治って元気いっぱい!」みたいなメモ一枚分のイメージしかでてこない。
最悪なイメージは細部まで湧き出てくる。
腰が痛いことをオカズに本一冊分は書ける。

c0045997_7203764.jpg
昔からどの文化でも天国の絵より、地獄の絵の方がイメージ豊かである。
人はそのようにできているとしか言いようがない。
色々な天国の絵と地獄の絵を見比べて
どちらに遊びに行きたいですか?と聞かれると
僕は地獄の方が面白そうだと思う。
だって、遊園地みたいなんですもん。


天国の絵になると人の創造力は
どうしてこう退屈なんでしょうか。

つまり、人は幸せを想像することに向いていない。
きっとそんなふうにはできていないのである。
そのくせ、想像できていないなにかを到達点にすようとする。

それが不幸を呼んでいる。

人は幸せを到達点にしてしまう。
そこにいけばゴールみたいななにか。
そんな回答を用意してしまうので
そこに行くまでの状況が常に満たされていない
それを「不幸」と感じるのではないだろうか。
「お金持ちになりたい」→「なれない」→「不幸」

そしてチープなイメージだとして
たとえ運良くゴールインしても
幸せは一瞬。
ゴールするときのテープカットの瞬間だけ。
で、あと、どこにいけばいいのだろう?
よく、大きい幸運や目的を達成した人が
その後、鬱になるという。
まさにそれ。

幸せは一瞬
不幸は状態


男性のオナニーのようなものだ。
これは名言でもなんでもなく
今のままでの幸せの考え方では
そうならざるを得ない。

「有名人になる!」
チープな幸せのイメージ一個もっていたところで
当選確率は低い。
それは単純に確率の問題なのだ。
でも、人は不幸に対してはものすごくイマジネーション豊か。
当然、当選確率は高くなる。


本当は幸せは「単純」なものだと思う。
でも、「単純」と思いたくないなにかが人にはある。
人には自分を単純な存在だと思いたくないなにかが機能している。
このことは確かだと思う。

幸せになるのは至極簡単。
食べればいい。
遊べばいい。
愛し合えばいい。

で?
で、それ以上あるのか?
問いたい。
それ以上あります?
んー
それ以上あると思いたい。
それ
それが不幸の始まり。

でも、それすらも満足に得られないという状況がある。
じゃあ、それは不幸か。
それこそ、想像力の出番ではないか。

程度の差こそあれ、
「ない」ことから想像すると
少しでもあることに喜びを感じることもできる。
腰は痛いけど、生きてるだけ幸せとかね。
素食だけど、それが素敵とかね。
小さな幸せはたくさんある。

それからネガティブなものにも幸せなイメージを持てばいい。
さびしさのおかしみ
わびしさのおかしみ
があるようにいろいろなものに「おかしみ」がある。

痛みにもおかしみがある。
腰痛を患っている自分を楽しむということがある。
先日、どこかの駅で腰痛で身動きできなくなっている自分を
もうひとつの自分がみてなんだか楽しくなってしまった。

よく貧しい経験をした人があの頃の方が楽しかったという。
それは豊かなになった人だから言えるのだというかもしれないが
それを楽しむ余裕があった人だから、くさらず精神的に耐えられたのだとも言える。


大きな不幸があるようにもちろん大きな幸せもあると思う。
でも、幸せはシンプルで簡単だと思う。
小さなことに幸せを感じないと
頭がカタクなりどこにも幸せを感じられなくなる。
幸せはきっと筋力のようなもの。
小さな幸せでマッサージしておかないと
大きな幸せを持ちきれず、ギックリ腰になるんです。
小さな幸せを感じるトレーニングをすると
いろんなことに幸せを感じられるようになる。

「心を鍛える幸せストレッチ」
なんて本、出てないかしら。
でてたら、売れそう。
僕、買わないけど。

つまり、幸せという瞬間ではなく
幸せという状態を作るわけです。
それだけです。

僕はむかしからいつもいつも幸せです。
時々、つらくて泣いちゃうけど

追伸
日々成長する子供を抱えてギックリ腰になりました。
これも大きな幸せを持ちきれなかった例です。
ストレッチは重要ですよ。

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by radiodays_coma13 | 2009-10-17 07:21 | 考える
オンガク発見!
最近、オンガクが流行っている。

ある日突然、世の中の音楽という音楽がつまらないものに感じ
音楽を聞こうかなという欲求を家の鍵をなくすみたいに失くしてしまった。
自分から音楽を聴くことはなくなった。
どれがどれか見分けの付かない流行音楽のせいなのか
自分自身の忙しさで荒んだ心のせいなのかは
ハッキリしないのだけれど
オンガクのない世界に3年ほど暮していた。

それが3歳になる子供と一緒にオンガクを
聞いていたところ、鍵をなくして入れなくなっていた家の
中から何かが鉄の扉を突き破った。

うちの子は、協調性というものを持たないようで
子供のお遊戯だとかそういうみんなでやることができない。
というか苦痛を感じているらしい。
この間は、幼稚園の体験入学の際、
音楽を使ったお遊戯中、
踊る子供たちを尻目に
デッキのコンセントを抜きに行くという
勇敢さを見せてくれた。

それを阻止されて、部屋の隅っこで耳をふさいでいる
姿はなかなか哀れだった。

どうしたものかと、たまたま手持ちのベートーベンを流してみた。
確か、交響曲7番だったと思う。
すると、いきなり奇声を発して走りだすではないか。
はじめは嫌がっているのかと思ったら、
どうやら、感極まって興奮しているらしい。
楽章が終わると、はあはあと息を切らして
なんだか情緒不安定になっている。
それほど、興奮してしまったのだ。

次の日から毎日、それを聴かせろと
せがむようになった。
曲を流すと決まって興奮して走りだす。
よく音楽に合わせて緩急をつけ
早く走ったり、特定の旋律では
同じ振り付けがあるのが分かった。
それなりに本人にこだわりがあるようだ。

ソファに座る私の足を上に上げろ!と命令し
下に落ちているオモチャを脇によけてから
音楽を流せという用意周到ぶりである。

試しに他のクラシックを聴かせると
モノによっては反応するが
ベートーベン程ではない
ならばとベートーベンの7番以外の交響曲を
聴かせるとなんと同じように興奮状態になる。
どうやら、ベートーベンに反応しているらしい。
不思議なのはベートーベンという宣言をしなくても
反応が明らかに異なる点だ。

そうか!彼はベートーベンの生まれ変わりなのかもしれん!

というカルトな反応は僕にはできない。
どんなところがいいの?とインタビューすると
「これはね、機関車だよ。ぽぽっーってね言うの」
なるほど、どうやら彼はベートーベンを汽車の音楽と勘違いしているらしい。
走りまわっているのは汽車のつもりなんだな。
奇声は汽笛というわけだ。

じゃあ、これはと「田園」を聴かせると
鳥が鳴いているという。
おお!なんという感受性!

そろそろ、わが子の才能にうぬぼれてもいいかもしれない。

そうして一緒にベートーベンを聴いていると
少し、子供のフィルターを通して聴いているせいか
なんだか、とてもベートーベンが感情を刺激するような気がしてならない。
そう、ちょうど歓喜の嗚咽のような盛り上がり方をするのだ。
そうこうしてくると、一緒に聴いている僕までもが
興奮状態になってくるのだから不思議なものだ。

ベートーベン、すごいな。

ベートーベンのおかげか
子供にも少しづつ協調性が出てきたようで
じっとはしていないが
みんなのお遊戯も機関車として参加ができるようになってきた。

子供がベートーベンによって癒されたように
僕の音楽不信の鉄の扉もベートーベン機関車によって
突き破られたのか、今までの音楽不在を埋めるように
音楽に対する飢えが襲ってきた。



最近、ずっとクラシックを聴いている。
子供も一緒に楽しんでくれるのでとてもありがたい。

今ではストラヴィンスキーや
ヤナーチェクなど反応する音楽も増えてきた。
最初は走り回るだけだった子供も
今では何かを見ながらじっとしている。
はじめは聴いていないのかと思って
話しかけたら
「しっー!音楽きいてるから、待って!」と
指を立ててくる。
曲を覚えて指揮をするような仕草も見せるようになった。

なんといっていいかわからない。
音楽はこんなにも楽しいものなんだろうか。
子供のフィルターを通すと音楽がとてもきらめいている。

今まで僕は間違った音楽との付き合いをしていたのかもしれない。
そんなことを思っているこの頃。
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by radiodays_coma13 | 2009-10-11 04:03 | 音楽について
ハードをタフでマッチョに生きる
唐突に。

また、ブログをはじめることにした。
1年以上ぶりかと思う。

仕事と子育てに明け暮れた過酷な日々であった。
でも、どちらも狂おしいほど充実していた。

「書く」ということをやめていたわけではない。
書いてはいた。
書くには書くがそれをwebにアップするというのは精神的な労力を使うことになる。
書いたことにそれなりの責任もあるし
書いたことに対して、自分なりに考え直す時間も必要になる。

そんな時間があるのなら、
仕事と子育て以外に使える時間が1秒でもあるのなら
子供の顔を見ていたかった。
それだけのことでした。

それでもまた書くことにしたのは
「人生はハードだ」ということでしょう。
ハードな人生をやりくりするには
タフでマッチョでなければ生きてはいけません。

最近、好きな言葉なんです。
「ハードをタフでマッチョに生きる」

最近の価値観の基準です。
タフかマッチョか。
豆大福はマッチョで○
ずんだもちは響きがマッチョ
イチゴ大福はペケ
存在が軟派。

大きな台風が近づいてきていますね。
伊勢湾台風級だとか。
台風から逃げる足があれば台風なんて
まったく怖くありません。
多分。
でも、そこにとどまってやり過ごす必要がある。
守るべきものがあるというのは
なかなかハードです。

猛烈な風の中を飛ばされないように立つということ。

足が4本でも5本でも欲しいところ。

でも、今の僕には足が二本しかありません。
子供と仕事。
ハードな風の中をタフに立っているには
マッチョな足があと何本か欲しいところ。

というわけでまた書くことにしました。

追伸
7月に二人目の子供ができました。
今度は娘でした。
「ツムギ」と名付けました。
皆、健やかに暮らしています。
アマ君はもう3歳になりました。
ムシとオンガクが大好きな3歳になりました。
「パパ、今日は早いの?」と電話口で言われると
今でも涙が出ます。
パパは今日も遅いです。
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by radiodays_coma13 | 2009-10-08 00:35 | ニュース