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言葉と文化
by radiodays_coma13
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アートは可能か?
「アートは可能か?」

同じような問いかけが、戦後、現代詩といわれるものが難解化し退廃してゆく過程で吉本隆明氏らを中心としてなされたことがある。
なんて意味のない問いかけなんだろうと思ったことがあるが、この状況で今思うと「結果として不可能だったんだな」というオチを感じる。
ハハハ。。。笑えない。

しかし、それはYES/NO如何ではなく、解体するところからはじめて現状の危機という部分に触れるには意味があると言わざるをえない。だいたい、こんな問いが出たこと自体、詩の、もとい「現代詩」の危機だったんだなと思う。

つまり「我が社の存在は可能か?」という問いが出たのと同義なのよね。

で、今「アートは可能か?」と問わざるを得ない状況が目の前にある。
これに関して、きちんと自分で考える時間を作らねばと思ってきた。

ミュージシャンをアーティスト、イラストレーターもアーティスト、パティシエもアーティスト。なんでもかんでもアートと表現することが多いというのは誰も認識していることだと思うが
最近こんな問いかけを耳にする
「ゲームはアートだ」

これは末期症状だな



***


では、
「アート」とは何か?

アートとはもともとラテン語の「アルス(ars)」という「技術」という意味を持った言葉である。しかし、ここで言われているアートはその意味とは違うものを背負わされていることがハッキリと見てとれる。

例えば、なにか人知を超えた可能性というか、神秘主義的な響きが多分に感じられる。
人はわからないものをして「アートっぽい」ということがある。
わからなくても「アート」であることでなんでも許されちゃう一面まで持っている。

つまりアートという言葉は「免罪符」なのだ。

アートであることである批判を免れることができる。アウトサイダーもイリーガルな存在もアートと名乗れば誰もそれを簡単に断罪したりできない。

社会から批判や疑問符を投げかけられると、決まってアーティストと呼ばれる人たちは声を揃えてこう言う。
「アートですから」

しかし、個人の考えですと断っておきますが
すべての音楽がアートだとは思わない。
すべての絵画がアートだとは思えない。
そして、すべての詩や映画がアートである必要性がどこにあるのか?
ましてやゲームがアートだなんてなんのメリットが?





ひとつある。




ゲームはアートであることで、批判を免れるのだ。
ゲームは今までも批判の的だった。「ゲーム脳」しかり「暴力の温床」しかり。
しかし、あえて、「ゲームはアートですから」ということで音楽同様、社会からの批判を免れえる。

本来、おそらくアートの難解さは「現状の認識に問いかけを投げる」という至上命題から始まっている。現状の認識から異なるゆえに、「今、知っていること」や、「今もっているものの見方」では捉えることができない。しかし、決して、わからないことがアートではない。わからないで済ましてしまってはアートの存在意義はない。

アートとはそのわからないものに接して変化する人の精神状態のことを言うわけで、モノではなく現象と言い換えた方がいいだろう。それを喚起しない作品は「アート」と呼ぶにはふさわしくない。

そもそも「アート」たらんとする鼻持ちならないアートがなんと多いことか。その時点で、すでにその作品はアートであることをやめていると言えないだろうか。「わからないもの」というラベルが貼られた時点で、それは人に問いかけたりしない。

それはアートっぽいという雰囲気であって、香水みたいなものだ。いつも度を越して臭い。
アート臭い。

アート体験って、ちょうど映画「SAW」の極限の状態で密室に閉じ込められた二人に近い。目が覚めると、相手と自分。食うか食われるか。生死に関わる出来事。極限といっても予定調和のジェットコースターとはワケが違う。その衝撃こそアートに最も近い。


***


ゲームに話を戻す。
ゲームはそれが取り巻く環境を含め「カルチャー」ということはできるだろう。
しかし、アートといった時点で、ゲームが失う大きなモノがある。

それは「娯楽」という使命である。

「わからなくていい」は「わかってもらえない」という気持ちの裏返しでしかない。アートということで一般の評価から逃れることができるのだ。しかし、我々、プロの製作者はわかってもらえなくては通用しないのだ。

絶対に楽しませなきゃいけない。

「ピアニストを撃て」という映画があったが、ピアニストも戦いの弾の当たる場所にいなければ存在意義がないようにゲーム製作者も娯楽という立ち位置から離れたらその存在意義を失う。そのお立ち台に立てたものだけがパブリックな発言を許される。まずプロであること、人々からお金をもらってはばからないものをつくり、批判もうけいれること。その上なされた発言が意味をもつのではなのだろうか


じゃあ、人が個人で作る作品はどうなんですか?と批判されるかもしれない。
「それは娯楽でいいじゃないか」

なぜアートである必要性があるのか。
癒されるのもOK、そのことでいろいろ考えられるのもOK。だとしたら立派な娯楽じゃないかと思う。結果として、そこに人々を感動させうる作品が生まれることもあるだろう。それは結果アートだっただけだと思う。

「アートをしよう」「アートであろう」という発想から実は真に意味のあるものは何も生まれない。アートである前にまず「娯楽」であること。娯楽でないということはその力量がないということ。それしか作れないものに、どんなパンチが繰り出せるというのか。全てのつまらないアーティストを差別し糾弾すればいい。そして、それに対して彼らは戦う必要がある。それに対抗するだけの力が彼らには必要なはずだ。

彼らにアートという免罪符を渡してはならない。それがいやなら、思い存分、自分ひとりの世界にひとりで浸ればいい。

「アートが可能か?」という問いに対して、「アートは可能だ」というテーブルに立ってはならない。アートは人に突きつけられた疑問符と言い換えることができる。それは最も暴力に近い。だとしたら許された暴力は国家の暴力と等しい。国家の暴力は歴史の中で常に悲しい結果を招いてきた。そんな暴力を許してはならない。
つまり
アートは可能であってはならない。
そして、可能であってはならないところで可能になるべく起こる運動である。


そして、卑近な例でまとめれば、ゲームはつねに時代の矢面に立たされなければならない。どんな批判にも甘んじて耐えなければならない。「ゲーム脳」しかり「暴力の温床」という批判にも。そして、それに対して、「ではどうすればゲーム脳にならないか」その答えをゲームで表現すればいいだけのこと。

アートと言った時点で、やるべきことはなにもかも失われてしまう。
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by radiodays_coma13 | 2008-03-10 01:21 | 考える
パクチー万歳!
このほど東京にパクチー専門店が登場したそうです。
これはうれしい。
(ニュース元「パクチーの愛好者が近年増加、東京には専門料理店」

パクチーをこよなく愛して30年。
当時はまだベトナム料理やタイ料理もめずらしく。専門店はなかなかなかった。地元、神戸の北野には様々な異国料理専門店や海外の食材を扱う店が多くあるが、僕はその外国の食材を扱う店ではじめてパクチーを買ってきた。ただ、食材としてパクチーを買ってきたのだ。調理の仕方も分からないのに。


カメムシの味がした。。。


世界は広いと思った。


ちょっぴり吐き気がした。



この感動こそが知らない食材を食べる醍醐味である。

その後、「フォー」というベトナム風うどんにこのパクチーを入れたものを食べた時はなんて活かした野菜なんだろうと思った。これに代わる野菜はありえない。まさにかけがえのない食材なのである。それだけで素晴らしい。オンリーワン

これをはじめて食べようと思った人は偉い。
いや、むしろパクチーでなくてもよかったのではないか。つまりまだ世の中には誰も食べようとも思わない草が存在していて、かけがえのない個性を秘めたまま眠っているかも知れない。パクチーはたまたま、強引な誰かによりその才能を発揮されただけなのだ。

「ニンニク」
だって日本の在来種が存在するがその可能性は薬草としての役割しかなく、とんでもなく臭い草という認識が一般的だった、それを発掘し、文化にした国があり、ニンニクは一躍スターになった。一旦、認知されるとその個性は魅力へと変貌する。


よくある話しですね。


僕も、まだ知られざる個性をもった草を探して幸せな文化との出会いをプロデュースしてみようかと目論んでみたり。。。
身近なところで「屁糞蔓(ヘクソカズラ)」なんてどうだろうか。食べれないんだろか。
可憐な花びらに似合わないあの香り。そのギャップが恥じらい文化日本にうってつけだったりしないかな。しないか。
屁糞うどん
屁糞あんかけ
屁糞トッピング


ごちそうさまです。。。


国ごとに野菜や魚でも本当にチャンネルを変えたように異なるが、食材の必然性は文化が支えているということなんでしょうね。こんなに近い韓国と日本でも並んでいる野菜や魚はまったく異なりますからね。日本にあるべき魚、あるべき野菜。そしてパクチーは日本で発掘されることはなかったでしょうね。

つまり「蓼食う虫も好き好き」ってやつですな。


パクチーを前にして自分の才能も本当にここが活かしどころかというのを考えさせられます。
自分のあるべきところにいけば、もっと評価されるってこともあるんですよね。
(なんで、僕のところに歌手のスカウトが来ないんだろか)

***

余談:
昔、彼女と中華街をデートして、パクチー嫌いな彼女の前でまちがってパクチーを食べてしまった。まあ、その後何事もなくいい雰囲気になり、おしゃれにキッス。までは良かったのですが、いきなり彼女に嗚咽されました。


余談でした。

おしまい。
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by radiodays_coma13 | 2008-03-03 23:08 | 食べる事と飲む事
最高のおむすび
僕も子を持つ親として、定説通り涙腺がゆるくなった


昔から涙腺がゆるかった方なので、ゆるゆるである。

でも、自負がある。
TVでやっている感動秘話感動巨編感動スペクタクルとか、感動なんとかと名のついたものでは泣かないというポリシーである。

世界が泣いても俺は泣かない。

それがリアルであれば泣きそうになることはあるが、ありがたいことに、ちょうど良いタイミングで感動的なBGMが流れてくれるので、心はカラカラに乾いてくれる。

   そういうわけでなんとか今まで泣かずに済んでいる。

チープな頭のTVマンの三文演出なんかで泣けるわけがない。なんてね。
おそらく、これは僕もものつくりの一員として作り手の視線で接しているからなのだと考えられる。どうしても製作現場の考えや裏側が見えてしまい
「ここは演出だな」とか
「ちょっとやりすぎだな」とか
心から楽しめないのだと思う。
悲しい職業病である。



これじゃあ、ゆるゆるどころか、氷のハートだと思われそうだが
僕にはスイッチオンで泣き出してしまう種類の映像がある。
それは「食べ物を食べている人の映像」です。
しかも、感動的でなくても、ただ、一生懸命食べている映像を見るだけでなぜか涙がこぼれてしまう。TV側もそんなことで泣かれるとは思っていないから、ヘタなBGMを入れないので思い存分泣くことができる。

よく隣にいる奥さんに、なんでここで泣くのかと不思議な顔をされる。

***

「食べ物」をテーマにした映像で僕がお勧めする映画は

■「カモメ食堂」この映画は全編ズルい。
特に主人公サチエがキッチンに立って調理する音。気持ちはぴしゃんとします。


■「千と千尋の物語」ハクが千尋におむすびを持ってきて食べさせるシーン。「ひとつぶひとつぶ願をかけて結んだ」というようなセリフがあったが、僕も千尋を同じ大粒の涙をこぼしました。


テレビでは
■「食彩の王国」これだけはみているという番組。食材に秘められた歴史やストーリーを聞くだけでジーンとします。晩御飯は確実にその食材になるという番組です。


あと今までにこんなにもTVで泣いたことがないというある番組のある一話があった。

■「田舎に泊まろう」という番組の
勝野洋さんだっけかな、その俳優さんが九州の田舎のおじいちゃんとおばあちゃんの二人暮しの家に泊めてもらうというもので、勝野さんはお礼に手打ちのお蕎麦を二人にごちそうするんですね。その時、おじいちゃんはもううれしくてうれしくて、「こんなにしてもらって、もうほんとうにありがたい」と言いながら、お蕎麦をすするんですね。もう、手をあわせて拝むように、大事そうにズルズルとね。おじいちゃんはあまりのうれしさに泣いているんですね。それでもズルズルとお蕎麦をすすって。


書いてて思い出し涙しました。
まあ、それだけなんですけどね・・・。
心が込められた食べ物ってなんでこんなに感動的なんでしょうね。

時に、作る側の気持ちと食べる側の気持ちがシンクロした時の感動と言ったら、どんな言葉にも代えがたいです。

ささやかだけど、強く確かな心の通い合いがそこには感じられる。


だから、外食をあまりしないのです。
外食でその心を感じられることはめずらしいです。でも、ちゃんとあります。そういうお店は美味しくて僕が泣いていると(よく泣きます)ちゃんと店のご主人も泣いています。
言葉は時に不毛ですが、こういった種類のコミュニケーションは時に言葉よりも心を溶かします。


うちの家庭の場合、ケンカすると、次の朝、こっそり早起きして僕が平凡で最高の朝ごはんをつくります。するとケンカはだいたいきれいさっぱり終わっています。

***

でね、ここまでは前置き。(ナガっ!)


最近、ついに極意を掴みました。
それはおむすびの極意です。
ある朝、ご飯を結んでいたら、頭に光が差しました。
なんといったらいいのかわからないんですが
今、結んでいるおむすびはおそらく最高のおむすびだろうという確信です。
直感なんですが、手の感じとかとか、匂いツヤそれらのバランスが僕が今までで食べた最高のおむすびに近いという確信。
それはもちろん、自分の母親が握ったおむすびです。
よく母がおむすびを握る手を眺めていましたが、ぴったりその音と自分の音が重なったのです。

で、海苔をあぶって巻いて、奥さんにできたてを手渡しました。
食べるまでドキドキして見つめていましたが、奥さんはパリリと一口ほおばり、じっとおむすびをみつめて、そのあとむしゃむしゃと無言で食べきり、最後にボソリと
「このおむすび美味しい」と言いました。
涙がでるほど嬉しかったです。


今は息子がそのおむすびを食べてくれます。
食欲がなくてもおむすびを結んであげると食べてくれます。


幸せです。
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by radiodays_coma13 | 2008-03-02 01:42 | 食べる事と飲む事