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言葉と文化
by radiodays_coma13
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ゴッコしよ
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9月9日に舞台に立ちます。場所は錦糸町。久米繊維工業プレスルーム。言葉とTシャツのコラボレーションブランド、「詩人類T-shouts」の第一回イベントです。とても美しいTシャツ専用のギャラリーです。


言葉とTシャツ。一体、なにをするのかあまり想像できない人も多いのではないかと思います。それはねー、僕も同じです。


でね、この間、スタッフに聞いたら、やっぱりスタッフも分からないって。で、代表の桑原さんに聞いたら、「とにかくやるんだ!」とお茶を濁してました。


それから、ついに、このイベントのスターター、久米繊維の社長さんでもある、久米さんとお話して「わたしたち一体、何でしょう?」ときいたところ、「とにかくやるんだ!」とどこかできいたことがあるセリフ…


う~ん。とにかくやるんだ~。


だから、なにをっ!


でも、とにかくやるんです。ローマは一日にしてならず。百聞は一見にしかず。虎穴にいらずんば虎児を得ず。飛んで火にいる夏の虫。とにかくやるんです!


だから、なにをっ!!


あのねー、いちいち、話してたら埒が明きませんよ。わからなければ、観に来ればいいんです。話はそっからですよ。


「さて、これから、なにしましょうか?そこで、皆さんに相談です」


やりたいことはそれぞれにたくさんありますよ。もちろんです。でも、あなたはパリの方角で私はロンドン。犬が西向きゃ尾が東、くらいにみんなそれぞれ。でも、可能性だけは広がる。


可能性が大きいということは良いことです。そこに何もないんだから、可能性は無限大。無限大ということは「0」と同じなんですから。


人生もねー40年近く生きていると、何が出来て何が出来ないかだいたいわかってきてしまう。でも、それじゃつまらない。


なにかとなにかをガッチャンコするということは、可能性を押し広げると言うことです。パリとロンドンが一緒になるってことですから。犬の頭から尾が生えるってことですから。なんだか楽しそうでしょ。


「無理っ!」
そう、無理。そうやって今まで「無理っ!」ってあきらめてきてたでしょう。詩ってこんなもの。人生ってこんなもの。でもね、このイベントではその「無理」が始まるんです。


「やってみなけりゃわからない」。そんなのじゃまだまだ弱いんです。「わかっちゃいるけどやってみる」。なんだか、悪い遊びみたいですけど。これくらいじゃないとね。


これはきっとこんな遊びなんです。
「ねえ、ゴッコ、しよ」
「うん、なにゴッコ?」
「ただのゴッコ」
「ただのゴッコ?」
「そう、ゴッコ」
「…どうやって遊ぶの?」
「だから、どうやって遊ぶか考えるの…」


じゃあ、いい?
ゴッコするものこの指と~まれ!
そういうわけで、あなたは目撃するかもしれないし、目撃しないかもしれない。それはあなた次第というわけ。


詳細は「詩人類T-shouts」まで。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-30 01:30 | パフォーマンスの現在
妊婦の裸はエロか?
「ハーパース・バザー」10月号の表紙にブリトニースピアーズさんのヌードが使われている。ヌードと言ってもただのヌードではない。妊婦ヌードなのだ。そして、このヌードをめぐってちょっとした論争が起こっている。


表参道の駅の構内に、雑誌の表紙を引き伸ばしたパネルを張ろうとしたが、それをメトロ側が「待った!」をかけた。雑誌サイドはこれに抗議。話合ったが、取り合ってもらえず、ヌードのお腹の部分に黒いシールを貼り、この顛末を謝罪する形に。しかし、それがTVなどで取り上げられ一転、メトロはそのままの展示を許可したという次第。


うちにもちょうど妊婦が一人いる。


二人いられても困るが、一人いるのもそれはそれでなかなか戸惑う。妊婦がいる空間と言うのはちょっと不思議なものです。家には二人しか姿は見えないのだけれど、そこには確実に、もうひとつの生命が存在していて、時々、その存在を主張してくる。


ぷくぷくに膨れたお腹が内側から、ぐんにゅりとつきあげるのをみると、ひとつの膜を隔てて、あちらの世界とこちらの世界と交信しているような気がする。「もしもーし」と言うと、それに反応するように、とっつとっつと向こうから返事が返ってくる。


  彼はいったいどこからやって来たのか?


僕もいつかあちらの世界にいた。そして、ある日、母親という門をくぐってこちらの世界にやって来た。そう思うと、母親という存在が、自分の恋人という存在を超えてもっと神秘的ななにかに思える。しかも、おっぱいは子供のために日に日に大きくなり、スペシャルフードの生産ラインを整えている。


おっぱいが出始めるタイミングは、子供と一緒に、胎盤が出てきて、それが体から離れると、それをスイッチのようにして、放出を始めるらしい。ますます母親は不思議です。もう、奥さんが自分のための奥さんではなく、子供のための存在に思えてくる。


さて、妊婦はエロかという問い。これは奥さんの手前「ハイ、とってもエロいです」と言わなきゃな気もするのですが、申し訳ないですが無理です。それはすっかりエロを超えてしまっています。


「やはり、妊婦を性の対象にする男性も存在し、刺激が強く、立ち止まって事故でもおきたら大変だ。それに、ヌードをみたくない自由もあるはず」



そんなコメントをコメンテーターがしているのをみました。確かに妊婦マニアは存在するでしょう。しかし、です。そんなことをいちいち言っていたら、マッチョマニアの人はどうするのでしょう。筋肉ヌードなんて、普通に街中で見かけます。それこそ立ち止まって事故でもおきたらどうするのでしょう。


世の中にはいろいろなフェチやマニアが存在します。中にはモノにその視線が向けられます。そして、僕がその哀れな「文字フェチ」です。優れたタイプグラフィに性的興奮を覚えます。僕のおちんちんは故障しているのでしょうか?立ち止まって人に迷惑がられることもしばしです。そんな僕のためにメトロは全てのポスターを撤去してくれるのでしょうか?


キリがないのよ!


世の中はカスタマイズの時代。それぞれの嗜好にそれぞれの性。今までのような多数決のビジネスは通用しなくなってきている。そんなことで、一人一人の「みたくない自由」を採用し、尊厳していたら、なにも公表できなくなっちゃうよね。


そして、メトロもメトロなら、ハーパーズ・バザー側の対応がもっとひどい。お腹に黒い紙を貼り付けて、「メトロのせいで、美しい未来の母の姿を一部隠していることをお詫びいたします。」みたいな謝罪文を書きつけた。


でもね、あなたたちは隠してまで、公表することで、美しいはずの妊婦の姿を誰よりも穢しているのだ、と言いたい。


美談めかして、結局、買え買え広告じゃないか。今回の件で一番、しめしめと思っているのは出版社だろうね。この問題を武器に、雑誌を世間に取り上げさせた根性が気にくわねぇ。妊婦の体を隠してまで公表した醜いパネルこそ「みたくない自由」に該当させて欲しかった。


  「もう、隠した時点で、妊婦をエロと認めてしまった社会があるのだから
  どちらにしても彼らの敗北だ。」


隠すことはエロスなのだ。ブラジャーやパンティー、あのフリフリ。なぜ、隠すための道具に飾りつけがしてあるのか?それは隠すのではなく強調するためだから。


例えば、ある裸族の話。彼らはほとんど裸で、女性は陰毛も臀部をあらわにしているが、腰に紐をつけている。しかし、なにかの拍子でその紐が落ちれば、彼女は顔を真っ赤にして恥ずかしがる。そういうことがある。つまり、「強調している付近がエロスな場所ですよ」とわけなのだ。


これは世界中に共通で、その時代、その文化ごとのエロスを感じる場所を強調する。近代のヨーロッパは猫足家具と呼ばれる机や椅子にレースの靴下を履かせた。映画「ピアノレッスン」でも、女性の靴下の穴から見える足に男性が興奮するシーンがある。つまり、足に強く性的な意味がこめられていた時代があった。


隠すことで触発されるエロスもある。隠されると余計にみたくなるというのがそれだ。逆に隠すことで強調したエロスの文化は実は隠されるとみたくなるという本能に裏打ちされて、発生したのではないかと推察できる。だから、エロスの場所を隠すという文化が世界共通のものとなりえる。


ということは、隠したことにより見えてしまう意味は「ここがエロスの場所ですよ~」というメッセージなのだ。図らずもそのメッセージを発生させた「ハーパース・バザー」の罪は重い。そのパネルは「皆さん、ごらんなさい、妊婦はえろいですよ!」と公言しているようなものなのだ。むしろ立ち止まって事故になる確率は上がったかもしれない。


彼らに、その駅での広告を諦める強さと正しさがほしかった。自分達の雑誌が売れればそれでよいという醜いエゴに付き合わされたこちらはたまらない。そのことを主張することで、妊婦はエロではないという主張は逆効果だった。


妊婦はエロいなんて思わなかった人が、今後、意識してしまうハメになる。女子高生がメディアによって湾曲させられ、マニアが増殖させられたように、どこかの街中の「妊婦大好きっ子倶楽部」の経営者は今頃、ウハウハな気持ちになっているに違いない。


悲しいかな、この報道後、「妊婦の裸はエロ」と社会の風潮は傾くかもしれない。通りすがりの妊婦にいやらしい目を注ぐ男性が増え、女子高生の援助交際が流行り病のように蔓延したように、「妊婦キャバクラ」が殖え「妊婦コスプレ」が流行り「萌え~」の代わりに「産まれる~」が流行ったりするのだ、きっと。


もう一度。妊婦はいやらしいか?本当の答えはね。妊娠をさせたやつが一番いやらしいんです、まる。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-27 17:26 | 考える
いい加減な男
昔からいい加減な男と言われてまいりました。

そう言われ続けると自分でもなんだか、それがまんざらでもなくなってくるのだから不思議なものです。どうかするとそれがホメ言葉だと勘違いしてしまう有様。


でも、やっぱりこれはなかなかいただけない面も多い。まず、責任ある仕事を任せてもらえない。


「ハイ!大丈夫です!」と元気良く答えても
「なんだかなぁ、信用できないなぁ」なんて言われて、
アルバイトでもなんでも、僕より後に入ってきた人に先に大きな仕事を任されたり、年下に顎で使われたり。


でも、生まれついてのバカなので、これが全然気にならなかった。でも、どこかで一生、出世しないんだろうなとタカをくくってたのですが、一人の人との出会いが僕を「いい加減」から「よい加減」に変えてくれた。


その人は僕の人生の支障、もとい師匠であります。いい加減でも世の中を渡ってゆけるのだと教えてくれた人。会社の社長にも関わらず「ちんぽちんぽ~」と元気よく出勤時間を大幅に遅刻してやってきては、仕事がヤダヤダとぐずるのであります。


決してナマケモノの社長なのではなく、ちょうど具合のいい仕事をする人だった。一言でいえば、センスがいい。僕はその人に憧れて、その会社で働くようになった。そして、その人だけは僕に責任のある仕事を任せてくれた。


その師匠が僕に 「いい加減はよい加減だよ」 ということを教えてくれた。 「ちょうどいいというのはマジメな人にはすごく難しいことなのだ」 と。とても気が楽になった。


現在、どういうわけか、色々な場面で、人をまとめる役割をすることが増えた。そんなとき、僕はいつも「いい加減」であることを心がけている。万が一にでも「頼りがいのある人」なんてレッテルを貼られないように。


「頼りない人」でいると得することが多い。・油断してもらえる(話しやすくなる)。反面、・仕事では油断できないと思わせる(しっかりしてもらえる)。・バカにされる(気が楽だ。あと本音がきけちゃう)。


第一、人をコントロールなんて出来るものではない。ぎゃんぎゃん怒る上司というのを見かけることがあるけれど、偉そうにレーニンのように恐怖政治をひいても、きっとそこからよい仕事は生まれてこないのだ、ハラーショ!


できることは、モチベーションをあげること。ここだな、という要点でほめればいいだけじゃないかしら。それはもう素直に賞賛する。「すごいね」「いいアイデアだね」「まいりました」


これが最善だとは思わないけど、なぜか、損をすることはない。気が付いたらいい仕事がぼくのところに回ってくる。これはオススメします。


「いいかげん」に因んで、本日は久しぶりにFLASH作品を公開したいと思います。テキストを作ったのは数年前になるのですが、一度きり舞台で演じたきり、塩漬けにしておりました。


お題は「いい加減な男」。これを作った頃、僕は東京に来たばかりで、仕事もなく、日がな一日、風呂につかって本ばかり読んでいました。しまいには、お風呂のつかりすぎで、体にカビの一種が生えて、皮膚科に通うことになりました。これは本当の話です。


ちょっぴり講談テイストなこの作品、物語形式で、聴きやすくなっているはずです。詩の朗読が初めてという人も、ヘンな先入観を持たずにトライしていただけると幸いです。


これには実は参考にしたお話があります。 「地獄の四人」 という昔話です。どんな話かは、きいてのお楽しみ。知ってる人はなんとなく思い出すはずです。この話、ちょうど今時期にふさわしく、お盆のお話しであります(怪談ではないのでご安心を)。
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ではでは、「いい加減な男」の話、いってらっしゃいみてらっしゃい。パンパン!

 『いい加減な男』 
(音声中心の作品です。)
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by radiodays_coma13 | 2006-08-19 23:21 | くだらないこと
文字を開放せよ
6年前、RADIO DAYSというユニットでユニフォームとなるTシャツを制作した。正面には証明を点けたり消したりするスイッチと背面にはコンセント。
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「僕らはON/OFFの単純な電気回路で動いています」
というジョークのようなメッセージをこめたものだった。


これがなかなか人気だった。僕らをしらない人からもたくさん欲しがってもらえた。そして、一番の効用はあまり親しくない人からも、胸のところにあるスイッチを押してもらえることだった。
(時々、背中のコンセント口に無理やり、コンセントを刺されそうになることもあった…。)


あるアーティストは僕らのTシャツを切り刻み、再構築することで、作品にして、どこかの美術館で展示してくれた。


そのTシャツのおかげで、僕らは自分たちの実力以上の認知度を獲得することができたように思う。イメージとはかくも浸透しやすいものである。


僕はTシャツも目玉焼きと同じくらいだ~い好きだけど、文字もだ~い好き。


完全な

文字フェチです。


特に、印刷技術が登場する以前の古い書物や初期の活版印刷。もうね、その本の魔術的な魅力にゾクゾクしておしっこちびっちゃいそうです。


初期の文字、とくにアルファベットは、現在の文字とは根本的に目的が異なる。それは「声」に翻訳されるための脚本であった。聖書は文字が読める特別な人々による、福音のためのテキスト。アルファベットとは、発音記号そのものだったともいえる。


日本にも、漢字が入る以前、縄文文字「ヲシテ」と呼ばれる表音文字が存在した。古事記はそのヲシテによって記述された。
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漢字やカナについても同じことが言える。それはアルファベットほど、完全な表音ではないにしても、そこには声がこめられていた。文字は人の肉体を離れても声を残すための録音機だったのである。


しかし、印刷技術が洗練されてゆくと、文字は声を捨て、独自の文字文化として洗練されてゆく。本は文字を綺麗に陳列し保存するための箱だったのである。当時、本は、特別な意味を持っていた。国家や教会は書物を巨大な国立図書館に閉じ込め、意にそぐわぬ本を焚書の的とした。


そういう歴史の中から知を保管し、独占するための機関として「大学」は生まれた。現在でもその傾向きちんとは残っている。例えば、論文至上主義。出版物至上主義がそう。そのなが~いなが~い文化の中で、「生きた知」と、そして、「声」はいつもあえいでいる。


そんな折、インターネットの登場は人間の「知」に対して、大きなインパクトを与えた。サイバー空間が人間の脳のかわりをするからである。人工知能という意味ではなく。記憶という意味においてである。


人間はわざわざ血のにじむような努力をして記憶する必要がなくなった。知は誰かが所有できるものではないことがハッキリしたのである。


例えば、今まではたくさんの情報を持っている人がモテモテだった。


「どんなレストランに行く?」といえば、
「美味しいところがあるから教えるよ」といえば女の子は
「あら、素敵っ」てな具合になった。
でも今は、どんなに効率の良い検索の仕方を知っているかが、女の子に、まあ、素敵と思わせるのである。え、違う?


人類学者レヴィ=ストロースは「悲しき熱帯」の中で 「価値は交換によって生まれる」 と言ってたけれど、情報は交換されてこそ価値をもつ。それが現代なんじゃないかしら。


昔、図書館の誰の目にもふれない塩漬けにされている本から、一文字、一文字たちが、蟻となって、書庫から這い出す妄想にうなされたことがあった。そうならないように、文字に空気をあてないと!と思い、片っ端から図書館の本をパラパラした時期がある。


もちろん!今はそんなことはしない。けれど、文字を声にしてやらないといけないという意識はどこかにあるように思う。図書館には発音されなかった悲しい文字たちが、喉をつまらせて、あえいでいる…。


文字がない頃、もちろん録音機なんて想像もできなかった頃。声に出したことは消すことができた。でも、現代、人はこう言う


「言ったことは消えない」


そのかわり、文字ももった人たちは、レトリックということを考え出した。嘘をついたり上手いことをいったり。そして「言霊」と言われるような、言葉が真実であった時代は終わった。


だからこそ僕は夢想する。文字が太陽の光を浴び、風に洗濯されTシャツの上で気持ちよさそうにはためくのを。人の目に触れられた文字が、成仏したように、大気中に溶け出すのを。


詩は待ち望んでいる。 「閉じ、溜め込み、保存する」 ことではなく 「開き、交換し、使用される」 ことを。そして、時代の中で磨り減り、ボロボロになり、朽ちることを。しかし、また新しい身体が新しい文体で、新しい言葉を纏うだろう。おろしたてのTシャツのように…。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-12 01:50 | 文字について
詩人類 T-shouts!
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あたらしいイベントに関わることになった。こんなクソ忙しい時によりによって、自分をクソ追い詰めるようなことを…、と思うのだが、クソ仕方ない。それが僕のクソやりたいことだったからだ。クソっ!


仕事面では今の会社に入って以来、僕の役割の中でもっとも責任の重たい企画が動き出している。そして、初の出産。これは人生の一大事だ。僕が産むわけじゃないので妊婦体操はしなくていいんだけれど、なにかと大変だ。いや、きっとものすごく大変なんだろう。


でも、息子よ、パパを許せ。パパは正直に生きると決めたのだ。欲しいものは欲しいとお前と一緒にじたばたしながらグズるのだ。わっはっは。


でね、その企画というのが「詩人類T-shouts!」というのです。


言葉を生業とする人々が作るファッションブランド。なんだかわからないでしょ?簡単に言うと…簡単には言えません。言葉を使う人々がイベントを通じ、ただ、言葉を提供するのではなく、ファッションを通じて、新たな言葉との関係性、言葉の文化を発信しようというもの。


これね、実は僕がずっとしたかったこと。僕は東京に来る前は大学やファッション関係の専門学校で文化論の講師をしていた。テーマは「身体―言語」。いつも身体と言葉の関わりを軸に作品を考えていた。5年前に一度、言葉を使ったTシャツのブランドを立ち上げようとしたが、色々な理由で頓挫してしまった。


出会いというものは面白いね。


どこでどうつながるかわからないものです。まさに、鴨ネギなき企画を古くから付き合いのある桑原滝弥という詩人が持ちかけてきてくれた。彼は僕が「RADIO DAYS」を結成し、地方に巡業し始めた頃に知り合った。スタイルは全く違うものの、活動的な彼をみていると、なんだか、嬉しくなった。一緒に戦っている心強い仲間のような気がしたからだ。


「言の葉を着こなせ。」


これは桑原氏が考えた「詩人類T-shouts!」のとっても素敵なキャッチ。僕はこれをきいてすごく驚き嬉しくなりました。僕が5年前にしようとした言葉のTシャツのキャッチが「Dress ths word」だったからです。「言の葉を着こなせ。」のまったく直訳です。これには運命みたいなものを感じました。


ファッションというのは言葉を着ることだと思います。それは衣服だけではなく、文化とは言葉を纏うことなのです。本来、衣服は暖をとるためなどの利便性でいうと、それ以上の価値がそこに生まれるはずはないのです。しかし、人はそこに、それ以上の意味を持たせる。


日本語、英語、中国語、言語に色々とあるように、ファッションにも色々とある。言葉は方言や年齢層、文化層によって話す言葉が違う。ファッションにも流行があり、職業や年齢で違いがある。


服を見るとその人がどのような人かだいたい分かる。


誰にでも服で人を判断した経験があるはずだ。でも、不思議なことに、誰も、その服を着ろと言われて着ているわけではないのに、服に無頓着を装っているはずなのに、気が付くと、オタク系の人はオタク系のファッションで身を固めているし、赤坂OLは赤坂OLなスタイルになってゆく。


でも、言葉を装うことに意識的になれる人がどれだけいるだろうか?


本当に多くの人が、服の身だしなみについては考えるのに、言葉の身だしなみについては無頓着なんじゃないでしょうか?


言葉に着られているということが案外あると思う。でも、言葉をオシャレに着こなすなんてことも考えてもいいんじゃないかしら。こんなに情報が溢れている社会だからこそ。


情報化社会では、一人の人はひとつの情報に過ぎないと言われる。パソコンを解体すると出てくる電子基盤。あれをひとつの街と仮定してみよう。すると一人の人はそこを行き来する電気信号なのだ。つまり我々自身が、ひとつの信号なのだ。


Tシャツは極めて現代的で特殊な衣服だと思う。衣服の中にメッセージとして言葉を使い始めたのはいつからだろうか。おそらく、その歴史はかなり浅い。その歴史はまさしく、Tシャツとともに発展してきた。プリントの技術が向上し、それを制御するパソコンも進歩する。まさに情報技術の進化とともに、Tシャツが進化したのではないかというのが僕の仮説。


Tシャツを着ることで、我々は情報になりきることができる。まさにメッセージそのものになれるのだ。それは衣服の究極の形。ファッションは言葉。そして、身体が直接言葉を着る時代になった。本はもう古い。PCももう古い。これからは自分自身がアトムという情報になりきる時代だ。


「脱ニート宣言。わたしに素敵な仕事をください!」みたいにね。求人を主張してみたり。


これからは自分のメッセージをTシャツに込めることにもきっと抵抗がなくなってくるだろう。繊維に編みこむことができる特殊な液晶モニターに自分のお気に入りの写真やメッセージを表示させる時代もいずれやってくるに違いない。


Tシャツはこれからの時代の高度なコミュニケーションツールなのね。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-10 00:43 | 言葉について
はよ乳だせ
奥さんが、早くお乳をださないかなと心待ちにする今日この頃。奥さんのおっぱいが日に日に大きくなってくるのを目を細くして眺めている。


僕は決して巨乳フェチではない。おっぱいはどちらかというと、手の中に…エホン、そんなことはどうでもいいのです。


つまり、お乳が飲みたいのです!


これは僕の悲願なのです。それを聞いて


「実際、気持ち悪うて、飲めへんて」


と友人は言うのですが、僕に限ってそんなことはありません。なぜなら、これは語るも涙のお話。僕は人の乳を飲んだことがありません。僕は母乳に恵まれなかった可哀想なおじさんなのです。


人の子はお乳の中から免疫力や、抵抗力などいろいろと大切なものをもらっているらしいのですが、僕の母は僕を産んだときにお乳が出なかったのだそうです。


子供のときにお乳を飲めなかった子は虚弱体質になるそうですが、その通りです。僕は瀕死状態だったそうです。


30年前の当時、体の弱い子は里子に出すという風習が残っており、僕は実家から1000キロ以上離れた、南国奄美に住む、祖母の家に預けられました。でも、それが功を奏したのか、僕は元気になりました。


というわけで、僕は産まれてこの方、人乳を飲んだことがありません。幼い頃、これを聞かされた僕はお乳への飽くなき憧憬を抱くようになりました。好きな飲み物は牛乳。そして、すべての乳製品。


牛のピンク色のおっぱいをみるだけで、目の前がぼんやりします。しかし、それは性的欲求では決してなく、食欲の原型のようなもっとプリミティブななにかです。


中学になると、僕はお小遣いの全てをチーズに費やすようになります。冷蔵庫で腐ったホワイトソースを発見し、それが発するチーズ臭にクラクラし、ついつい舐めて、九死に一生なくらい下痢をしたり、そうした乳製品に対する異常な執着はそこから来ているのだと思います。


こうなると、もうそれを沈めるのは、人乳しかないと思うでしょう?僕もそう思うんです。でも、そんなチャンスはなかなかないものですね。人妻の授乳をノドを鳴らしてみているのは完全に変態なので、今まで、かなり気になりつつも控えてきました。


しかしチャンスです!今回ばかりは正真正銘のチャンスです。


たとえ右乳は100%赤ん坊のためのものだとしても、左乳、いや贅沢は言いません左乳の乳の50%いや、10%でもいい、それは僕のテリトリーだ。左乳の10%で僕の乳に狂った乳ライフは一区切りの終止符を打ち、新たな父ライフの幕開けとなる。


そんなことを妻に主張すると、頭をはたかれる。


先日、子供用の哺乳瓶が自宅に到着。さっそくそれに牛乳を入れて吸い付いてみました。チューチューチュー。


おそるべし赤子!!!


大人の僕が力いっぱい吸い付いてもやっとちょろちょろとミルクが出る程度。こんなん飲んでるのか!なんでも、母乳にはもうひとつの意味が。おっぱいからの授乳は赤ちゃんにとって全身運動。とくに顎を鍛えるのだそうです。


彼らの吸引力で吸い付かれたら、僕の乳からだっておっぱいが出るかも。(もちろん一度は吸わせてみるけどね)
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by radiodays_coma13 | 2006-08-07 02:52 | 食べる事と飲む事