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言葉と文化
by radiodays_coma13
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兵隊さんはかわいそうだね、トッテチッテタ
 僕はどちらかというと高尚な人間なので、芸能人にはあまり興味がない。「キャー、つまぶきく~ん」というふうにはならない。ましてや、アイドルの女の子にはもっと興味がない。なんというか臭そうやし。ハイ、すごい偏見です。もう、僕の芸能人を見る目は冷酷そのものです。「鼻の頭に脂汗をかきそう」とか「頭洗わなさそう」とかいわれのない批判をします。きっと、それを知るとたくさんの女友達をなくしてしまいそうですが、どうやらそれは芸能人だけに向けられる感情らしく、どのような心の傷が僕をそうさせてしまったかは謎です。舞台の仕事である女優さんにひどい一面をみせられ、こっぴどくいじめられたなんて口が裂けてもいえません。

 しかし、その中で一人だけ僕の好きな女性芸能人がいます。いや、僕にとっては芸能人ではなく、天気のいい日曜日に会って、30分ほど何気なくお話しをしたいというような相手なのです。そう、まったく距離を感じない。そのお相手は、HANAさんです。「好きな女性のタイプは?」ときかれると、僕が言える唯一の誰もが知っているだろう女性です。しかし、これがなかなか男性には不評です。今まで「おお~俺もHANAが好きだよ!」と手を取り喜び合える男に出会ったことはありません。その代わりというか、なかなか女性には評判がよいようです。なぜか「いいセンスしてるねぇ」ということになる。しかし、なぜ、そうなるのか謎です。

 だがしかし、この世に、僕がHANAを好きということを快く思わない人がいます。それはうちの奥さまです。自分は「サッカーの宮本くん、カッコヨイ」とか「レミオロメンのなんとか君、いい!」とかさんざん言うくせに、なんだよ!。奥さん曰く「HANA以外ならいい」と言うのです。理由を尋ねると「HANAはなんかリアル過ぎ」。「なんか、ありえる」ってありえないよ!そんな奥さんは最近、HANAが出ているオルビス化粧品の宣伝がTVで流れると、僕の前に立ちはだかり見せてくれない。そして、あろうことか「オーファイブオー、オファイブオー」という所で「ほら、HANAがおっぱいぼーんおっぱいぼーんって言ってるよ、やらしい女!」と言いがかりをつけてくる。しかしだ、妻よ。HANAが好きなのも、少しあなたに似ているからなんだがね…。

男性が他の女性にまったく興味がなくなるというのはどうなんでしょう?僕は少し違うかなと思うのですが。男性にとって性はかなり、グロテスクで不気味な相手です。でも、それが自分の中にいるんです。そいつが自分を暴走も破綻もさせるし、時にはそれは核のように圧倒的な原動力にもなる。そいつの扱い次第で、男の人生は大きく左右されてしまう。男の人生の大半はこのもうひとつの人格をどのように克服し、上手く付き合っていくかということがテーマになるといって過言ではないでしょう。かといって、そいつがいなくなると、魅力のないしょぼくれた人間になったりしてね。僕の場合、自分の変態性の解放というところで、ひとまず奴との和解をしました。もう、それを認めないでいる間は、いつ犯罪者になってもおかしくないようなアンビバレンスな状態だったと思います。自分の性欲の暴走に耐え切れず、街中でガマンできなくなって、ビジネスビルのトイレで腕時計をおかずにオナニーしたことがあるくらいです。「秒針が長針を追い越すよぉぉ」とか言いながらね。

 とある女友人が「結婚しても恋はしなきゃね」なんて悠長なことを言っていましたが、それは綺麗事です。あなたも結婚したら、そんな気持ちは女性の夜中の眉毛くらいにきれいさっぱりなくなります。かといってこの世の全女性の顔にマルコビッチの穴みたいに、全部、妻の顔を当てはめることはできません。それなら、僕は腕時計でオナニーします。つまり、「性」という物差しで、気持ちを計ってはなりませんよ、ということです。いや、ちょっと違うな。性は原材料なんです。それをどう加工したかということね。性が原油なら、ただ燃やしたか、それを精製して、いろんなものを作ることもできる。そして、それはより高次な欲求へ。理想の形は公害の少ないリサイクル的利用方法です。あなたはどのような利用をしていますか?燃やしてるだけですか?もしくは女性は燃やされてるだけなんてことありません?

 でも、動物たちは直球勝負なんですよね。「好きだ!」とはいわず「やらせろ!」と行動あるのみ。メスの前でオスがやらせろダンスを踊る。「やっらせ~ろ、やらせ~ろ♪」。その横っちょから「くわせろ~!」のワニに食べられたりしてね。生き物はほんとうにかなしいね。そういう意味では性に暴走させられる男子は生き物としてはかわいらしいと僕は思うのです。どうして、そこまで、やるんですか?と問い詰めたくなる。彼らを捕獲して、観察してみたいものです。

 関係のない話かもしれませんが、先日、雨の日に会社から自転車で帰ったんです。僕はね、それが大好きなんです。雨に濡れるとね興奮するんです。今、「濡れる」という部分で感覚的なエロスを想像した人は大間違いですよ。僕は雨がそこにあるものをすべて包むから好きなんです。雨に濡れていると、そこにあるもの全て、木や地面や人やいろんなものとなんだか仲良くなったような気がするんです。「一体化」というありがちな言葉でもいいです。祭りを感じるんですね。だから、僕にとっては雨はちっとも悲しげじゃない。昔から雨が降ると、外に飛び出したくて仕方なくなります。僕にとってのエロスです。

 で、その夜も「ほっほ~い」とか言いながら雨の中飛ばしていたら、濠のある坂道になにやら無数の黒い物体。自転車で踏み潰しそうになりながら良く見ると、なんとそれは全部カエルくんたちでした。カエルくんたちがわきわきと道路を横断して、高速を横断して、道にはいずりだしているのです。しかも、10センチ以上の大きなカエル。さながら、カエル軍の行進です。しかし、無残にも、敵の巨大戦車にひき潰されるカエルたち。悲しいです。悲しすぎます。なんの目的があってそんな負け戦をするのでしょうか?それはきっとやはり性と書いて「サガ」です。僕は思わず興奮して自転車から降りて彼らを応援していました。「兵隊さん、すっすめー!すっすめー!」。それだけじゃ、あんまり盛り上がらないので、体の重たいドンくさい彼らに、近くに咲いてあったツツジを逆さまにして片っ端から彼らの頭に被せていってあげました。これで、兵隊さんらしくなりました。「兵隊さん、すっすめー!すっすめー!」彼らがよりたくさんの子宝に恵まれますように。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-31 01:34 | くだらないこと
ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ(その三)
 古事記の語り部であった稗田阿礼は、古事記編纂の後、どのような生涯を送ったのであろうか。文字にする事で、語る必要のなくなった彼は職にあぶれ上野駅でビッグイシューを持って立つことになったかもしれない。しかし、当時は文字に編纂したからと言って、文字を読める人は圧倒的に少なく、その事自体が特権的なものであった。あれいちゃんは、その後も多くの場所でひっぱりだこの大活躍だっただろう。しかし、これを現代に置き換えると、事情は酷いことになるだろう。ケロヨン洗面器の登場で、銭湯から桶が消え、職人が消えたように。あっというまに代替技術はそれまでの文化を根絶やしにする。

 「TVも携帯もPCもなくていいんです」という人が多い。なくて済むならそれが幸せだと。だが、40年前の人たちはTVを、夢をもって迎えた。きっと虹色の素晴らしい未来が来ると…。そんな素晴らしい未来は来なかったけれど、じゃあ、いりませんというのはどうか?その人たちは不安なのだ。「テクノロジーは人を幸せにするものではない。むしろ、我々の仕事を奪い、生活の本当の豊かさを奪うものだ」と。アーティストに限ってそんなことを言う。悲しい事です。不安を抱いている暇があるなら、より良い物を作ればいいのだ。より人にやさしいTVや携帯やPCを作ること。それがどんなものかを提示してくれるのがアーティストの仕事だと思っていた。ぶつぶつ言うアーティストはテクノロジーにより自分の仕事を奪われるという不安を抱いているだけなんだろう。そんな恐竜アーティストは絶滅すればいい。アーティストや詩人と自称する人こそ、最先端のテクノロジーを作る会社に就職すべきだ。そこで、時代遅れの人々がどのように生きてゆけるかを模索して欲しい。

 口承から識字、識字から次の言語文化へ、この流れは不可逆だ。同じように我々は文明を後ろに歩く事はできない。確かに、こんな現代に詩人として生きる道というのはなかなかあると思いにくい。詩人だけではなくファインアートだって難しい。しかし、だからこそ、この過酷な現代のサバンナで生きられる詩やアートの存在は美しい。そして、人間の意識が次のステージに移行する段階にあり、表現は根本的な変異にさらされるだろう。絵画は口承から識字への変更に伴い、無名性の壁画から、有名性の絵画へと移行した。そして、「映像言語」の登場。今、まさに、識字から「映像言語」への変化への真っ只中。一体、表現は、人の意識はどのような変化の渦中にあるのだろうか?

 なんだ、識字の次は「映像言語」?そんなのありきたりじゃん、とっくに世に映像は溢れありふれていて、そんな圧倒的な変化なんて、どこにあるんだよ、と思うかもしれない。しかし、それほどに、我々は無自覚のうちに映像に慣らされ、日々、確実な意識の変革の中に放り込まれている。だからこそ恐ろしいのだ。動いている電車の中は静かであるように、その揺らぎはおだやかである。自分が猛スピードで違う世界に連れて行かれていることに誰もそんなには自覚的になれない。自分を時代から相対的にみるというのはおそろしく困難な作業である。気が付いたときには、国境を越えて見たこともない風景が外に広がっている。

c0045997_2214519.jpg 緩やかで劇的な映像言語に向けた変化、それはまず数世紀前に訪れた。グーテンベルクの印刷技術である。言葉は声から文字に変換される事で肉体から切り離された。その文字は印刷技術により、今度は文字の持つオリジナルな肉体から解き放たれた。文字は文字自ら意味することの出来る記号となり同時偏在的に世界中に存在する事が可能になった。印刷技術の発達は文字だけではなく映像のオリジナリル概念を変えてしまう。絵画は写真に撮られ、美術館から開放され世界中で見ることができるようになった。雑誌のフォトグラフィはオリジナルよりも強い価値と意味合いを発する。

 そしてTVの登場。TVの発達は世界のニュースを同時に受信する事が可能にした。しかし、初期の識字がそうであったように映像情報を配信できるのは依然、特権的であることに代わりがなかった。我々はTVの情報を鵜呑みにするしかなかったのである。「そこで起こっていることは真実である」と。しかし、現実には映像は編集され、時間は切り刻まれ、意味は再構築される。文字よりも巨大な情報をより巧妙に。権力のコントローラーは彼らの手の中にある。口承文化では語り部が、村をおさめたように。識字文化では文字を読めるエリートたちに文字を読めない人々を支配したように。我々はいち早く、映像言語を学ばなければならない。今、現実では何が起こっているかを知るために。

 印刷技術以前、中世のヨーロッパにおいて、文字が読めると言うのはある種の人々の特権であった。彼らは教会に属していて、聖書の研究と聖書の知識の普及に努めた。彼らは一般市民に対し、聖書を声に翻訳する事が唯一許される存在であった。それゆえに、カソリック教会は絶対的な権力を誇示することができた。そして、文字を読める人々の中においても「黙読」の技術を持つものは高度の技能保持者として、周囲から尊敬を集めた。文字を声に翻訳するためのものではなく、純粋に意味として理解、解釈することは、文字を読めることとは全く別の意味を持っていた。それはつまり、自分だけの解釈がありえるということなのだ。それは教会にとっては脅威だった。各々がひとつの真実である聖書を勝手に解釈しては困るのだ。ちょうど、聖書の手書きによる複製本が出回る頃と同じくして、カソリック総本山による異端審問が盛んになってゆく。

 しかし、キリスト教に衝撃が走る出来事が起こる。15世紀、グーテンベルグによる印刷技術の誕生である。それにより最初に出版されたのが他でもない「聖書」であった。これにより、聖書は聖職者のものではなく一般に普及してゆく。このことが教会に隷属していた中世に終わりを告げ、人間の時代、つまりルネサンスの到来を招くこととなった。グーテンベルグ以降、カソリック教会はもう、絶対中心的な位置を保持することができなくなった。各地で、様々なキリスト教宗派が産まれ、独自の解釈を展開してゆくこととなる。この頃から、個の価値を謳歌するするように、様々な聖書以外の書物が出版されはじめる。価値は宗教の外にこぼれ出したのだ。このように映像言語のさきがけの技術である印刷は人々の価値観に大きなインパクトを与えた。これ以降、権力は教会ではなく、本そのもの識字そのもの中に書き写されてゆくことになる。

c0045997_22142034.jpg 口承文化における悪の存在はトリックスターという牧歌的な存在でしかない。それは善と悪という二極対立ではない。もっと曖昧で、動物的だ。欲求のままに行動し、時に欲さえも超える存在。物語の進行を破壊し、そこから新しい物語を産む存在として書かれる。それは例えば、不条理で豊かな自然の象徴であった。そして、識字が産んだ悪は「デビル」として登場し、小脇に契約書を持っている。つまり、価値が識字によって規定されていたことをそれは意味する。識字社会にとっての悪とは常に他者である。我々は自分達を苦しめるのは常に他者、例えば、社会、政治、資本であると信じてきた。自分の外にある悪を克服する戦い。そのために多くの政治的な戦いや革命が実行された。例えば戦後日本、学生たちは大学を悪として立ち上がった。思えば、それは大学という識字の象徴のような場で起こった最後の識字的な対立ではなかったか。

 しかし、今、その対立は形を変え、深刻な状況を見せ始めている。つまり映像文化な対立。よくTVアニメで、みかける描写がある。ある悩みに対して葛藤する主人公。すると、彼の両肩に主人公と同じ顔をした天使と悪魔が現れ、彼を説得する。実はこれが映像文化的な対立の型ではないかとわたしは思う。悪が他者ではなくなったのだ。トリックスターからデビル、そして、映像言語、そのミラージュの中に立っていたのは、自分自身の似姿であったというわけだ。我々はそれら悪と対峙する時、他者ではなく、自分の内に向かう。今までは社会に対して向けられていた不満が自分に向かう。そして、彼らは引きこもる。最近、多くの犯罪者がこういう言葉を言う「悪いとは思っていない」。これは道徳の破壊なんかではない。新しい悪の誕生なのだ。

 問題は、新しい悪の誕生ではない。それは識字から映像へと移行する段階で起こる必然なのだから。ニュースでは連日起こる道徳的に不可解な犯罪に対して紋切り型のコメントがなされる。「一体、悪いのは誰なんでしょうか?」そこで、教育や彼を育てた家庭に非難の目が向けられる。その事件を産んだ悪がどこか外にあると思いたいのだ。しかし、事態は単純ではない、昨日までは被害者だった善良であるはずの一般市民が次の日には不可解な事件の加害者に変身する。映像文化的犯罪を、識字的に語ろうとしても無駄である。その言葉はいつまで経っても事件の深層に触れることなどできない。表現者の急務はこの社会を語ることのできる新しい表現形式の獲得ではないか。そして、映像文化の中で耐えうる新しい道徳のモデルを示すことが何よりも待たれている。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-27 22:14 | 言葉について
「男」の悲劇
 今からするのは、「まあ、お下劣ね」というような話しなので、好みでない方は遠慮した方がよいかもしれません。なんというか、言いにくいんですけど、ほら、アレの話し、男の人のあの大事な部分、♪丸かいて丸かいて、お豆に芽が出て~、ペニスの話し。あれって、どういうふうに言えば、一番、やらしくないんでしょうか?〇で隠すと、余計にやらしくなったりしますよね。「ち〇ぽ」とか、でも〇で隠すだけでも、いろいろなものが勝手にやらしくなっちゃいますね。「お〇ち」「おで〇」。

c0045997_1954459.jpg 隠すからいけないんですよね。服装文化論から言えば、隠すことは強調するということ。ブラジャーにしても本当に隠す意味があるなら、レース編んだり、フリフリつけたりしなくてもいいからね。例えば、ある文化で、鼻を隠す「鼻隠し」なるものが存在すれば、そこに特別な意味が発生してしまう。男どもはその「鼻隠し」が風にヒラヒラ揺れるたびに興奮しなければいけなくなるというわけ。ドアノブや机の脚やティッシュの箱や電話の受話器に下着みたいなのをつけているのを見かけたことがありますが、ああいうのは、上品というよりも実は背後にはある種の淫靡なセクシャリティが潜んでいる。関係ないですけれど、僕が前に勤めていた職場の朝の挨拶は「ちんぽ!」でした。嘘ではありません。まず、社長が「ちんぽ~」と登場し、部下一同「ちんぽ!」と元気に返します。もう、お互い隠すことのない明るい、なかなか健康的な会社でした。

 で、ちんちんの話しに戻します。これから話すのは壮大な「おちんちんの悲劇」です。昨日ね、ちんちんの皮をね、ジッパーではさんじゃいました。これね、男性なら、絶対経験あると思います。痛いんですよね。でも、大体の場合は、「あいっ!おっと!」という具合に挟みきる寸でのところで止めるわけです。しかし、昨日の僕は本番前で、何事か考え事をしながら、最後に、気合を入れる意味で「よっしゃー」と勢い良くジッパーをあげたところ「あいっ!おっと!」と止めるどころか「あいっ!うえっ!おおおおっ!おえええっ!」と最後まで挟みきり、今度はそのジッパーを降ろすことが出来なくなった。数分間、トイレの中でもだえ、本番前の気合以上の気合を入れて、「むごごごご!」とようやくちんちんを開放してあげることができました。

 しかし悲劇はこれからだったんです。自宅に帰って、トランクス一枚で作業していてなにげなくおちんちんを見てみると、はさまれたところに、血豆ができていたんです。あ~あとか言いながら、それを爪できゅっと潰し、作業に戻って、再び、下に目をやると、パンツに赤い染み。おそるおそるパンツをズラしてみると、ちんちん血まみれ。どうしようかと考えあぐねていると、そこに妻の足音、作業をせずにオナニーをしていたと思われるのがいやなので慌ててパンツを上げて、何気なく作業をしているフリ。しかし、みるみるパンツの染みは赤く広がってゆく。旦那がパソコンに向かって作業しながら、パンツを真っ赤にしているのもなかなかシュールなので、覚悟を決めて立ち上がり「はじまっちゃったみたい」とはにかんでみせるのだが、妻は僕の体を張った渾身のボケに一片の微笑みもくれず、一度、クラッとのけぞり、おもいっきり頭突き…。

 ちんちんって血がでたらなかなか止まらないんですよ。気をつけてください。僕はこれまで、何度かちんちん大流血事件を起こしている。一度は小学生の頃、風呂場の排水口にちんちんを吸い込まれた時。入浴中に排水栓を外し、ちんちんを近づけると、勢い良く、はたはたとちんちんがそよぐのが面白く、近づけすぎたら、しゅるしゅるしゅぽっとチンチンがはまってしまった。あの時はちんちんは痛いし、溺れて息が出来ないし、死ぬかと思った。もう一度は畑にダイビング、ちんちん串刺し事件。刈り込んだ笹が袋に直撃、咄嗟に袋が破れた!と思った。怖くて見ることが出来きず。泣きながら「玉がこぼれたー」「玉がこぼれたー」と家に帰った記憶がある。無事だったんだけどね。で、これで三度目だ。

 妻に散々、バカ呼ばわりされながら、その後、ちんちんに赤ちんを塗ってもらい、あまりの痛さに「ちんちんが火事だー」とふりちんで走り回り、そこに耐水絆創膏を貼り付けられた。それでも、なかなか血が止まらず、布団が汚れると困るという理由で、パンツにナプキンを貼り付けられてしまった。しかし、悲劇はまだまだ終わらなかった。翌朝、すっかりちんちん流血事件のことなんか忘れてそのまま、外にお買い物に出かけたのが運の尽きだった。

 池袋の駅前を歩いていると、ふと、足元に違和感。いやな予感がして、見下ろすと、ズボンの裾からちょっぴり血のついたナプキンが「コンニチワ」している。そもそも男性のトランクスはナプキンをつけることに秀でてはいない。歩いているとヒラヒラするので、こすれて外れてしまったのだろう。まいった。どうしよう。今の自分が周囲からどのように見えているかを冷静に分析し、一番、ダメージの少ないのを演じることにしよう。①変態ナプキンマニア。②男にみえるけど実は女。③ナプキンの開発研究者の使用テスト。しかし、どれであれ状況はかなり衝撃的だ。仕方なく③を選択し、ナプキンの心地を観念的に追及するような出来るだけ難しい顔をして早足で歩く。なのだが、上手い具合にナプキンの粘着がきいて、「コンニチワ」のまま裾にへばりついている。足をバタバタして、ナプキンを振り落とそうとするも、余計に目立ってしまう虚しい結果。

 ダメだ、このままでは、非常に目立ってしまう。バタっと立ち止まり、片足で、裾を踏んづけナプキンごと隠す。誰も見ていないだろうタイミングを見計らって歩き出すが、なんと、今度は靴の裏にナプキンがくっついている!まずい、この場合、道端でうんこを踏んでしまった人よりもかなりカッコ悪い人なのではないか。どうすればいい?俺。①ナプキンを靴にくっつけて歩くのが趣味の人。②ナプキンを足にくっつけて歩くという凶悪な虐めに遭遇している人。③たまたまナプキンを踏んづけてくっつけて歩く、最悪にカッコ悪い人。仕方ない③しかない。「ハイハイ俺は哀れな男ですよ。皆、かっこ悪い俺を見るがいい」というような諦め顔で、やれやれと首をふり、靴の裏からナプキンをはがし、奇異の目で見つめられる中、それをポケットに入れて、そそくさとその場を立ち去った。

 しかし、この文章を書いている今、まるで皮膚と同化した絆創膏を、さて、どうやって剥がせばよいかということを考えて、また憂鬱になっている次第です。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-21 19:06 | くだらないこと
ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ(その二)
 一日、まったく声を出さないというのはなかなか難しい。前回の「ミネルヴァの梟は~」で声が死んだと書きました。でも、まだまだ、私たちは声を使って意思伝達し、生活をしている。確かに、「死んだ」というのはひとつのレトリックです。正しく言えば、声の意味は、識字文化が発達する以前からすると、大きく変わった。変わったと言うよりも別のものになった、と言えるかもしれない。それは口承文化における声ではなく識字文化に支えられた声ということになると思う。口承から識字へ、この変化はあまりに劇的に人間の精神構造を変えてしまった。

 そこで、識字文化の声とはなにか?口承文化の声との違いとは?まず簡単に言うと、「愛」とか「真実」とか、あと、メタファーとかさ、詩人が好きそうな表現ってあるじゃない?あれは全部、識字的な言葉。口承文化ではそんなものは使わない。「愛」とか「真実」とか、目の前に美味しいマンモスの肉みたいには存在しないので、言い表す必要はない。「好き」なんて言う前に、手にとってかぶりついちゃえばいいんだから。そして、そこでは「過去」という概念すら存在しない。「俺は、そのマンモスの肉を食べたかった」なんてメメしいことは言わないで、わめき散らして、狩りに出かければいいんだから。過去がないと言うことは、「俺ってなんて、ダメなやつ」なんてバカな妄想にとり付かれることもない。なんとシンプルで素敵な世界なんでしょう。

 これをきくと、もう一度、口承文化の豊かな世界に返りたいわ!と思われるかもしれない。しかし、そうは問屋がおろさないのだ。もう問屋では口承文化を取り扱ってはいない。それは不可逆なのだ。人はひとたび、識字の世界に足を踏み入れると、もう口承の世界には返ってゆけない。だから、多くの識字を持たない言語がなすすべもなく滅んできた。一度童貞をうしなうともうチェリーボーイにはもどれないように。口承のみの言語が書き記される事で、滅ぶというのはそういうことだ。その言語は声の中にしか生きていない。紙に定着される事で、その息吹を止める。

 過去を持たないと言うことは、どういうことか?と思うかもしれない。あなたは自分が文字を持つ前の記憶を持っていますか?ある人は、映像として持っているかもしれない。けれど、その時、自分がなにを考えていたかよく思い出せないのではないだろうか?それでも、いや、簡単には考えていたことを覚えているという人もいるだろう。しかし、それが、文字を持ってから後付された感覚だとしたら?実は、3歳児にもかなり高度な社会認識があるというのがわかっている。しかし、それは口承文化の社会認識であり、識字的な認識とは大きく異なる。我々は文字を覚えるのと同時にそういった口承的世界を捨て去る事になる。我々の識字以前の記憶は実は識字的に書き直されたものでしかない。

 しかし、こういった例外もある。口承から識字へ移行するには、それなりの豊かな口承の時期を経験しなければならない。それは母親から授乳されることと同じで、声と言う乳を子供は母親から口移しで得る事になる。しかし、この時、十分な経験をしていないと、すぐさま、識字の洗礼がすぐそこに待ち受けている。そこで、十分な経験のなかった子供がどうなるかというと、口承的な感覚のまま、識字的な思考を身につけていくことになる。具体的な事例としては、TVに育てられた「TVチルドレン」の存在である。彼らは感情的ですぐに暴力をふるい、それにたいして一切、反省の態度をもたない。現代社会の中で識字的なコミュニケーション不全に陥っている。彼らは言葉の代わりに銃を持つ。彼らは識字世界にありながら、非識字化し、ギャング化してしまう。これは日本でも他人事ではなくなってきているのではないか。

 通常、社会は共通認識を持つためのルールというのを持っている。それが識字においては法律であり、口承文化においてはそれが神話や民話などである。そして、彼らギャングたちにも、神話や民話にまでは到達していないが、チーム単位での神話といえる形式のものが機能している。あるいは伝説と言い換えてもいいかもしれない。それらが彼らの中での不文律なのである。文字をもたない彼らは、それらを声として強烈にアピールすることになる。それがラップのルーツである。現在でも彼らの中には多く読み書きが出来ない者もいる。ラップが独自のビートをもち、少数内での言語(スラング)を持ち、英雄化(リスペクト)が行われることからもそれは、口承文化の語りに類似点が多い。

 例えば、マサイ族の語りは全員が車座になり、語り部が、自然の成り立ちについて語る。その語りは毎日繰り返されるが、それは日々、語り部の状態や、その場の環境を取り込み、少しづつ変奏されてゆく、車座を構成している要員は合いの手をいれたり、同じ単語を復唱しながら、物語に参加してゆく。その場において神話は過去の物語ではなく、今そこで、声という肉体を通して起こった事実となる。そこで彼らは物語を生成し、体験するのだ。そこでは繰り返されることに意味がある。このような繰り返しは多くの語りや、原初の演劇形態で頻繁に見られる事例である。しかし、識字文化においてこのような繰り返しはあまり意味をなさない。識字文化において過去はすでに書かれたテキストでしかないのだ。あらためてそれを声に出す重要性は失われている。

 話を戻す。例えば、現代における朗読というシーンを考えるときに、果たしてこのことに意識的になっている人はどれだけいるだろうか。「声の豊かさ」というキーワードを掲げつつも、識字に隷属した声を使っているに過ぎない。テキストに書かれたことを、ただ、なぞっているだけなのだ。それは実態化ではなく単に音声化したにすぎない。体験ではなく、解釈の問題に帰結してしまう。なぜ、朗読というシーンが盛り上がらないかということを考えるときに、それはひとつの答えであると思う。

 「死んだ」という言葉をこう言い直そう。「我々は口承文化の持ちうる声の豊かさという点では、完全な形ではもうそこに触れる事ができない」。ただし、声の新たなあり方という点では、また違った可能性があると思う。そして、「文字」の登場による「声」の衰退。そして、あらたな言語の登場により、今度は「文字」が衰退しはじめている。我々はいま、新たな人類的劇的変化の前にいる。それは誰もが「文字の衰退」という現象により直接的、間接的にすでに体験済みなのではないだろうか。

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c0045997_0283095.jpg5月20日に舞台に立ちます。

「硬地」vol.2

日時:5月20日
open19:00 start20:00
場所:新宿ゴールデン街tomorrow
(TEL:03-3202-0616)
料金:1200円(チャージ1ドリンク付)
出演者:樋口夏樹、あべしん、御徒町由紀子
     丘野こ鳩、横山真二郎
ゲスト:里宗巧麻
問合せ:shishi_kouchi@yahoo.co.jp
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by radiodays_coma13 | 2006-05-17 00:29 | 声について
鯨海酔侯
 妊婦には鉄分が不足しやすいらしい。普段から貧血気味の奥さんのために、最近、血のしたたる食べ物をたくさん作るようにしている。血のしたたるステーキとか、血のしたたるラム肉とか、血のしたたる鶏肉とか、レバー。毎日、台所は流血惨事である。奥さんのためにというよりも、実は血のしたたる食べ物を僕が好きなだけなんだけどね。奥さんがなんでも食べられる人でよかった。普通の可憐な少女だったら、料理現場を目撃するだけで卒倒するだろう。

 僕は血を見るのが大好きだ。血を見るととても興奮する。お腹がぐーぐー鳴る。エチレンの容器に行儀良く乗せられた肉ではなく、生きて動いている牛や豚を見るほうが「肉だ、美味しそう」と感じる。そのまま、お尻からガブリと行きたい気持ちになる。だから動物園のライオンを見るとかわいそうだと思う。「さぞ、狩りたいだろうに」と思う。

 だから、僕にはどうしても思想としてのベジタリアンというのが理解できない。批判ではない。理解できないだけ。肉が苦手というのならかまわない。その人はきっと草食動物なのだ。理解できないけれど仕方ない。住む世界が違うだけ。一緒には住めない。僕は肉食なので、彼らを見かけたら頭からバリバリ食べると思う。ディズニー映画のような茶番はそこでは起こらない。でも、やっぱり思想的に肉は食べないというのは理解できないという以前に、間違えていると思う。

 マクロビオティックとかいうベジタリアン健康法があるらしいが、あれは健康法ではない。そんな言い方をしちゃいけないと思う。そんなの自然派的生活に「ロハス」と名付けるくらい愚かなことだ。それは単なる食生活だ。「野菜中心の食生活がいい」くらいゆるやかに言って欲しい。僕には野菜8:肉2という自分の中の理想の比率があるので、マクロビオティックな食生活はどちらかといえば好みである。しかし、マクロビオティック健康法と言われるだけで、何故か肉を食べることにある種のうしろめたさを感じてしまう。それがいくら健康のためとは言っても、ライオンに「肉は体に悪いからよしなさい」と説教するのは酷である。いくら長生きしても、そんなのむなしい。

「昔の日本人はマクロビオティックな生活をしていたんですよ!だから日本の食生活は優れてるんです」
と友人に力説されたことがある。それは違う。ちょっと違う。昔の日本人はマクロビオティックな生活を強要されていたのだ。ただ、肉に恵まれなかっただけだ。その証拠に肉のチャンスがあれば、彼らはそれを喜んだ。その証拠が日本における鯨文化だ。
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 鯨は日本人にとってとても特別な生き物である。食料としてだけではなく、精神的な象徴として。彼らは鯨を神とあがめつつもそれらを糧として捕獲する。なんてすごいダイナミズムなんでしょう!神を食べちゃうんだから。その代わり、皮から髭から、ひとつ残さず利用する。鯨に関する文化は多く存在する。日本人と鯨は切っても切れない。しかし、そのことは何故か、あまり振り返られない。日本人がいかに鯨と深く関わり、鯨を愛してきたか。

 しかし、西洋人。ことにアメリカの方々は鯨を食べちゃいけないと言う。「鯨は頭がいいんだから」なんて言ったりして。ま、なんて頭のぬるい、ひどい言い草なんでしょう。そんなことを言ったら頭の悪いあなた達を頭から食べちゃいますわよ。それは罪じゃないんですよね?日本人は神をも食らうのだ!文句があるか!うだうだ言ってると刺身にするぞ!だから、ねえ、鯨を食べさせてよぉ、あなた達は心配してるかもしれないけれど、鯨があってもちゃんと牛さんも食べるからさぁ。是非そこんとこお願いしますよぉ。鯨が食べたいんですよぉ。

 というわけで、今夜は美味しい鯨の刺身を手に入れてきました。残念ながら普通の赤身の部分でした。僕が今まで食べた刺身という刺身の中で一番、美味しいと思っているのはヒゲ鯨のおのみです。思い出すだけで涙がこぼれます。小さい時に食べたのですが、その記憶は鮮烈です。どんな魚よりもやわらかく、癖がなく、口の中でとろっと溶けます。少し、ミルキーな香りがしたのを覚えています。幼い子供が食べ物に心震えたのですから、その美味しさたるや。それはきっと、日本人の中に眠るダイナミックな血をゆすぶり起こすような味だったのかもしれません。残念ながら、ヒゲ鯨はもう食べられません…。

c0045997_2315623.jpg今夜のメニューは
・鯨の刺身
・にゅうめん
・おむすび
 鯨の刺身はネギとニンニクとショウガのスライスを添え、炒ったゴマを振ってます
 にゅうめんはアクシデント発生です。鰹節をきらしていることに作り始めて気が付いたのです。しかし、ハプニングこそ、調味料。こんな時ほどなぜか美味しいものが出来るのです。冷蔵庫を探ってみたものの特に出汁が出そうなものがなく、隅っこから、桜海老と少量の干し椎茸が出てきただけ。じゃあ、と、まず椎茸をお湯で戻している間、ゴマ油で桜海老を弱火で良く炒って、椎茸が戻ったらそのお湯を炒った海老のフライパンに注ぐ。じゅわ~といっせいに出汁が桜色に染まる。こでれ、香ばしい海老の出汁ができあがり。椎茸と新鮮な竹の子を塩で煮て先に下味をつける。出汁は醤油は使わないで、フライパンでよく炒った炒り塩だけで味付け、「海老にゅうめん」の出来上がり。しかし、これがなかなかでした。あたらしいレパートリーの誕生です。
 でもやっぱり鯨の刺身は、何故か心が躍ります。日本人の味だなぁと思う次第です。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-15 02:34 | 食べる事と飲む事
ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ(その一)
 昔々、ある天気のいい日、たいくつしていた、てんめいちゃん(天明天皇)は、お友達のやすまろちゃん(太安万侶)に向かって「おもしろいことおもいついた」と、なんの気まぐれか、語り部のあれいちゃん(稗田阿礼)が語る国つくりの物語を、当時、流行しはじめた文字を使って書き残すことを提案した。あれいちゃんは長い長い物語を全部暗記していて、そんなことしてなんの意味があるのよとブチブチ言いながら、後の「古事記」となる物語を、語り始めた。

 なぜ、現在、活きた口承文化が存在しないのだろうか?昔の日本、例えば、古事記が書かれる前、おそらく、恐ろしい記憶力を持つと言われた稗田阿礼のような語り部はたくさんいたはずだ。「日本書紀」が書かれたのはその8年後、これも「古事記」と同じように複数の語り部の口から書き記されたと思われる。世界に独自の文字文化を持つ国はきわめて少数である。現在もなお文字を利用せずに生活している人口の方が文字を利用して生活している人よりもはるかに多い。しかし、それらの国の人々の間では未だに声が強い霊的な意味をもち、口承文化が根強く残っている。彼らは絶対者がこの世界を創生し、人が生まれ、現在に至るまでの長大な物語をテクストを使わずに語ることが出来る。

 てんめいちゃんは、ひらめいた。文字にしちゃえば、あれいちゃんがいなくても、国つくりの物語をみることができるじゃない。べつに「暗記しなくてもいいんだ」。口うるさいあれいちゃんの退屈なお説教や回りくどい説明を聞かなくても、「好きなときに好きなところを好きなように」読めばいいんだから。こうして「古事記」は事実から解き放たれ、読む人の自由に解釈できる物語となった。その代わり人は、口承文化の人々が持っていた驚異的な記憶力を失うことになる。口承文化が失われた理由をそんなふうに考えられまいか。

 「文字は消え去る」おいおい、声の次は今度は文字はおしまい、なんてことを言うのかと叱られそうなのであるが、事実なのだからしょうがない。つまり、文字が現れ声が廃れた、という文脈を持ち出して、「〇〇」が現れ文字が廃れたと言うつもり。これは実は僕の詩に取り組んでいる一番のテーマ。いや、人生のテーマといっていい(ちょっとおおげさ)。でも、老人みたいに何度も言ってること。このblogでも、作品でも、いろんなところで。で、その「〇〇」は?という前に、本当に声は終わったのか?口承から識字へと変化することで何が起こったのか?をでっちあげなきゃね。

 「嘘」というのは人間の発明品って知っていました?実は人間が文字を持つ以前。嘘は存在しませんでした。なぜって、嘘がつけないからです。声は何かを指し示す道具という以前に、その人の身体の一部と考えられていたのです。いや、そんなこと考えてないね。考える以前に一部だったというのが正しい。だって、声だけをその人から切り離すことなんて出来なかったから。そして、実体から「切り離すことが出来なかった」から、事実から声を切り離すことも出来なかった。つまり嘘なんて概念は存在しなかった。嘘がつけるのは声を体から切り離すことができればの話。でも、それができるようになった。文字によって声は体から切り離された。書かれたことを都合よく変化させることが出来るようになった。
「嘘」の誕生だ。

 文字の誕生とともにたくさんの空想文学が生まれた。たくさんの嘘物語が。日本における初期文学である「源氏物語」「竹取物語」どちらも文字によって書かれた絵空事。しかし、その内容がSFチックだから空想物語なのではない。魑魅魍魎や、月からの使者が創造力の産物なのではなくて、ただ、書かれた内容が事実ではないということに注目しないといけない。その当時の人々にとって魑魅魍魎や月からの使者というのはリアルであった。見えないもの、理解できないものの存在感を彼らは科学に阻まれることなく、感覚に自由であれただけ。頭の悪い女の子が妖精さんと戯れるのとはちょっと違う。このように、文字の誕生は口承文化とは違う新しい表現をもたらした。

 新しい自由と引き換えに、口承文化は滅んでゆく。あれいちゃんのブチブチが聞こえてくる。20世紀になって、世界に存在する6000以上の言語のおよそ半分が消滅するか、危機に瀕している。それらをなんとかせねばと言語学者や文化人類学者が消えかかる言語の記録、研究にいそしんでいる。しかし、実は皮肉なことに、それらの「書き記す」行為こそが、言語の死滅を招いているという見方がある。西洋人が航海時代に、それら文化圏に持ち込んだ危険物は3つ。銃と伝染病と文字。それらによって、多くの命と多くの文化が致命的に失われた。今になって彼らは消えかけたともし火を守ろうとする。その行為がさらに文化を死に追いやるとも知らず。しかし、本当に滅びゆく言語を残すべきなのか?そして「声」は死んだと言うけれど声は死んだのか?言うまでもなく、誰もが日々、声を使って会話し、生活しているのに?

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c0045997_012380.jpg この文章をシリーズで数回に分けて書きます。で、書こうと思ったキッカケは前回書いた「オープンマイクはもうおしまい。」に頂いたたくさんコメントによるものが大きいです。そして、その中にすごく感銘を受けたメールがありました。それは偶然にも僕がこの5月20日に立たせていただく「硬地」というイベントを企画した人から届いたものです。僕が書いた「詩は文字にしがみつくのか」に対しイベントのコンセプトとして「手のひらに着地することが約束されたそんな装丁を、外してしまいたくなったのだ」と書かれていた。僕はその言葉にとても刺激されました。僕が期待していたオープンマイクの次なるイベントの匂いを感じています。

(「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」とは知の巨人ヘーゲルの言葉です。知の女神ミネルヴァの使者であるフクロウ。すべてを認識するようなフクロウは黄昏、つまりひとつのものが完成し、没落しはじめるときに飛び立つんだ、というような意味です。)
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by radiodays_coma13 | 2006-05-14 00:15 | 声について
とても優雅な休日だった
 皆さんはゴールデンウィークいかがお過ごしでしたか?わたしは久しぶりにゴージャスで優雅な休日らしい休日を過ごすことにあいなりました。胸を張って激務といえるような環境を1年も続けると体はなかなかボロボロになるものですなぁ。いやぁ、人間の体ってちゃんと壊れるようにできているんです。こんなところまで?ってくらいにいろんな所が、さび付いたおもちゃのようにギジギジいってるのが分かる。オズの魔法使いのブリキのきこりさんの気分です。心がないところもそっくり。

 どうも、最近、目が覚めると疲れてるな、ヘンだな。それに、ふと夜中に目が覚めると、どうもヘンな寝相をしていることが多い。この間なんか、枕に向かって土下座してたり、軽い腕立て伏せの格好で、ラージヒルジャンプみたいになっていたり。そんなある日、目が覚めると、首を傾げたまま動かなくなっていた。これは困ったと言っている僕は、「果たしてそうかな」という具合に斜め上を向いたままであった。僕は「果たしてそうかな」という態度のまま会議の多い一日の仕事を終えると、近所のカイロプロテックに向かった。

 が、それがいけなかった。遅い時間だったので、そこしか開いてなったのだ。胡散臭い中国人の「珍先生」と自ら名乗る男が、愛想良く登場し、「たいちょぶたいちょぶ」を連呼し、どこが痛いのかを訊かないまま、そこいらじゅうをもみたおされた。僕の首は今度は上を向いたまま動かなくなった。しかも、口を開けていないと首に激痛が走る。鏡を見ると僕は「そうだったのかっー!」という具合になっていた。「すくによくなるよ」と言う珍先生。そんなはずはない!と言いたいが僕は「そうだったのかっー!」になっている。「また明日きてねー、珍先生はとてもいい先生よ!」とそこだけは流暢に話す。「そうだったのかっー!」のまま僕は店を出る。二度とここに来ないと心に誓い上を見るとマッサージの横に「カイロピロテック」と手書きで付け足している。カイロプロティックとちゃうやんけ!「そうだったのかー!」と尻尾を巻いて帰る。

 その不自然な状態は珍先生の暴力的な超絶技巧でさえちっとも改善しなかったのですが、暖かいお風呂にゆっくりつかると、あっさり痛みがひいた。これは!と思い、GW湯治計画が持ち上がったわけだ。持つべきものは遊びの達人級の友人です。彼に教えてもらったお宿の素晴らしかったこと素晴らしかったこと。一泊二食付でたったの5000円。これも常連価格なのか。しかも!場所はさる美術館の敷地内ときたもんだ。大きめの部屋を予約したためか、なぜか、ベッドが三台。一面の200度張り出しガラス、まるで、自然の中にいるような錯覚に陥る。そこからは美しい自然と美術館の彫刻が見える。絶景かな。
c0045997_2142164.jpg
 共同の巨大風呂だけではなく、部屋にも外を見渡せるベランダに半露天の風呂が備え付けられ、他の客もGWなのに少ない。料理も土地のものを中心にした季節懐石。これでたったの5000円!もう絶対、誰にも教えません!近くの観光スポットに物見遊山でもしようかと思ったのですが、あまりの部屋の気持ちよさに、一日中、ブランデー片手に、石原裕次郎ばりに外を眺めて読書三昧。温泉三昧、晴れて曲がった首はまっすぐになり、曲がったへそと性根もまっすぐになって来ました。場所がばれるとイヤなので誰にも何一つ、お土産を買いませんでした。ふふふふ。

 今度、仮病つかって、数日間、あの部屋で缶詰になって仕事しにいこーっと。くくくく。皆さんはちゃんと休んでますか?ちゃんと休まないと「なにおっー!」ってムンクの叫びみたいなまま、首が動かなくなっちゃいますよ。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-11 02:15 | 食べる事と飲む事
「オープンマイクはもうおしまい。」
 オープンマイク形式という詩の朗読イベントの一形式がある。そこではマイクが開放されていて、自分の詩を読みたい人が手を挙げて好きなように参加することができる。詩のイベントといえばオープンマイクというくらい日本全国津々浦々、ある時期、雨後の竹の子のように増殖したことがある。

 90年代後半、僕が神戸にいた頃、まだ関西にはオープンマイクイベントはなかった。そこで、東京へ赴いた。「梅島ユコトピア」というイベントだったと思う。僕は始めて自分と同じく舞台に立つ詩人たちに出会った。筏丸けいこさん、ヤリタミサコさん、さいとういんこさん、ブルーマヨネーズ、今では一部で有名なジュテーム北村さん。すごいインパクトだった。大阪に帰ると程なく、平居謙さんが主宰する、「ポエトリーリーディングの夕べ」が始まった。そこで初舞台を踏んだ「しげかねとおる」とも出会った。驚いた。僕は珍しいパンダを観に行くような気持ちで、日本津々浦々のオープンマイクに出かけた。

 岡山「Happy? Hippie!」東京「ウエノポエトリカンジャム」「ベンズカフェ」京都「声帯エステ」名古屋、福島、エトセトラ。それはそれは楽しい一時期だった。詩を書いていたけれど詩人に出会ったことがなかった僕は20年の恨みを晴らすようにたくさんの詩人に出会った。おかげで、僕は何かを追い求めて東京に引っ越し、東京初舞台思い出の地「梅島ユコトピア」から自転車で10分の所で暮らし始めた。オープンマイクは僕の人生を変えた。と、長々と持ち上げたけれど、実は僕は朗読を一度も心から肯定したことはない。自分で進んで舞台に立っているにも関わらず、人の「朗読」を聴くほど苦痛なものはないと思っている。

 むしろ、詩の朗読がいかに終わっているかを確かめるために舞台に立ち続け、人の朗読をきき続けた。(もちろん聴くにたえるものもあるにはあったけれど…)理由は?僕がただ天邪鬼だから。説明すると長くなる。普通ならここで、割愛するんだろうけれど、でも長くする。天邪鬼だから。それを「今」しておく必要があると感じた。だって、もう今更オープンマイクなんかしても本当にどうしようもないんだから。誰かが「詩の今後のためにするんだ」って言ってた。だったら尚更、本当に本当になんの意味もないんだから!さて、答えは言いました。結果が知りたかった人はここまでで結構です。ここから先は屁理屈と暴言が続きます。

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 初めて詩人の団体さんの前で詩を読んだのは「詩マーケット」というイベントの第一回目の時だった。それまで、僕は自分ひとりで詩のライブとかディナーショーとかわけのわからんことをしていました。まあ、僕があんまり美男子だったので舞台に立てば、それだけで女子(おばさま)たちがキャーキャー言ってくれました。でも、詩マーケットでパフォーマンスをやった時、ある詩人がツマラン!と言った後「もっと自分を表現しなさい!君はどんな思想を伝えたいのかね?」と言った。以後、この言葉はいたるところ、いろんな詩人の口を借りて僕に襲い掛かった。しかし、詩は自己表現の道具なのか?言葉は自分の思想を伝えるだけのちっぽけなものなの?ねえ?そんな問いが始まった。

c0045997_0462499.jpg 詩マーケットのその経験と時を同じくして、僕はそのような現状のアンチテーゼとして「RADIO DAYS」を結成し活動を始めた。趣旨は単純。自己表現しない。思想をもたない。意味から逃れ続ける。というものだった。よって、個人というものから逃れるべく複数名のユニットである必要があった。当初は顔を帽子と自家製のゴーグルで隠していた。任意のラジオチャンネルから流れてくる言葉と会話するパフォーマンスや、同時に複数の人の声を各所で流して口をパクパクさせるものや、「梅島ユコトピア」で行ったパフォーマンスは、体の各部位に書かれたたくさん人のモノローグを読んでゆくというものだった。つまり「声」というあり方での詩の否定からスタートしたと言えると思う。

 当時だったか、その前だったか、詩人の荒川洋治さんが詩の朗読の否定をしていた。深い理由は不勉強ゆえ知らない。でも、確かにつまらない。根源的につまらない。世の中に色々な娯楽や映画やダンスなど、刺激的なメディアがあるというのに、朗読だけもう歴史の定めであるかのようにつまらなかった。必然的宿命的にといってもいい。つまらないという体験から出発してRADIODAYSの強い支えになったのは「 哲学者デリダ」の思想だった。
ロゴス中心主義とは表音文字言語の形而上学である。それは根源的にはこのうえなく独自的かつ強力な民族中心主義であって、今日では地上全体に自己をおしつけつつある
  なんだかややこしいが、声はおしつけがましいということだ。声のうらには真実があるという信念のもとに、人はそれを声に託す。また、声にはそれが可能だと信じているようだということだ。人が人前に立って詩を読むとき、読む人はそこに自分を託し、自分の思想や価値や世界をおしつける。しかも不特定多数に。それを発するべき他者の設定からしておかしかったりして。彼らは誰になにを言おうとしているのか?もう、それがうっとうしいのなんの。デリダや、ドゥルーズ=ガタリ、当時のポストモダニズムの思想家たちはそれを「脱構築」や「ズラす」という言葉で批判し、解体しようとした。僕はただ、息苦しかった。言葉はもっと自由なのに…。

 ある種の言葉は状況を限定し不自由にする。「おれは男だ」とか「きれいな夕日だね」とかね。その言葉によって切り捨てられてしまうものがある。しかし、言葉は使い方によってはさらに人を自由にすることもできる。そんな使い方もある。しかし、詩を自己表現の道具に堕することで、詩は人をちっぽけで不自由な存在にしてしまう惧れがある。戦後詩とはそのような自己憐憫の観念的な独り言のようなものだった。政治運動に疲れ、社会は変えられないという諦めに立ったある種の人々には、それが機能した時期もあるのだろうけれど、詩のそういったイメージは定着しちゃった。詩とはそんなものだと誰もが思った。そのイメージ効きすぎた。詩は一部のくら~い反社会的な人々のものだと。ま、どこかでは外れてないような気もするけどね。詩の業界は瀕死状態となった。

 20年も詩を書いていたのに、それまで一度も詩人に会ったことがなかった。中国の山奥にでも行かないと会えないのかと思ってた。しかし、90年代後半、突如、くら~いこわ~いこの人々たちは立ち上がった。ちょうど、インターネットがさかんになり始めた頃で、ネットで詩を書いている人と、紙媒体で詩を書いていた人が、リアルでぶつかりあったことでうねりが起こった、と僕は認識している。各所で「オープンマイク」や「マーケット」など多くの詩のイベントが行われた。世の中にはこんなに隠れ詩人たちがいたのかと思い驚きました。僕の携帯電話のアドレスは詩人の名前で埋め尽くされた。これってちょっと異常なことだと思う。

 でも、そもそも、それは「詩人」の集まりだったんです。100人集まろうが200人集まろうが。彼らがよってたかってイベントをして、自分達のコロニーを作ってるだけだった。ようはオープンマイクなんて言葉だけ。実のところそれはクローズマイクなんですわ。開いているようで閉じている。はじめは、全国にいる詩人のあぶり出しに効果もあったかもしれない。でも回数を重ねることで、運動はひろがるどころか、純度を増し濃縮されていく結果となった。例えば、コンピレーションイベント。数名の詩人がゲストという名で羅列されるイベント。オープンマイクとなんら変わりない。どれも押しなべて閉鎖的でつまらない。疑うなら、街で歩いている人をその中にほおりこんでみるといい。顔をしかめ、ついには耳を塞いで逃げ出すに違いないから。彼らはいっこうにそんなことは気にしない。「自分だけがたのしくその場に立てればいいのだから」

 「オープン」という言葉になぜか後ろめたい閉鎖感を塗りこめているだけなのだ。誰かがその場にいるからオープンなのではない。態度の問題ではないか?閉じているか、開いているか。いくら、マイクを不特定多数の人々に向けても同じことだと思う。それはある意味で暴力でしかない。だって、こんな時代に自己表現するべき自己なんてどこにもないし、表現すべき内容なんてないんだから。自己表現しろ?無理!「自己」なんて、現代が作り出した幻想でしかない。それを訴えるべき他者もない。そのことを若い人々は気付き始めている。いや、体現しつつある。

 哲学の歴史がその時代の問題から派生するものであれば、表現も色濃くその時代を反映しているはずだ。日本では「荒地」が戦後を象徴した。80年代。浅田彰さんがポストモダンという言葉を掲げて華やかに登場した。彼が言うようなポストモダンなあらかじめ価値観の崩れた社会もやってきた。さて?さて、僕達はそこで何をすればいい?ポストモダンな社会がやってくると浅田さんは言ったけれど、その後のことはあの人なんにも言わなかった。

 トリッキーな答えしかないけれど、「クローズマイク」という名の開かれたイベントじゃないかしら。そこでは言葉から逃れるための遊びが行われる。言葉というシステムの呪縛から逃れるためのレッスン。「夢」や「自分」という人々の自由な意識を妨げる、くだらない社会的な意味づけから開放するような言葉の解体。とてもシンプルな言葉との戯れ。そんなものが僕は観たい。言葉は自分の考えを語るだけのものではなく、時に自分をあざむき、自分を超える。テクストは誤読するためにあるとデリダは言った。なにか真実を言っているように気になって悦に入っている人にとって、マイクや舞台は力の象徴なのかもしれない。しかしそんな暴力的なマイクを押し付け合うオープンマイクなら、もう本当に「お開き」にしてはどうだろうか?そうだ、リリース、開放してしまえばいいのに。まずはそこから始めよう。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-06 00:55 | 声について