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言葉と文化
by radiodays_coma13
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娯楽は自分の内にある
c0045997_058051.jpg どうでもいいことなんだけど、今日は月に一度のお寿司の日だったんです。普段、外食しないかわりに、月に一度はゴージャスにカウンターのお寿司。一般人の僕達夫婦にとっては、滅多とない晴れ舞台。二人肩身を寄せ合って、「注文はどれにする?」「はじめから握ってもらうのってやっぱり失礼かな」「一カンずつ頼んでもヘンじゃないかしら」「アガリ、サシカエっていうのってなんかカッコつけすぎててカッコわるくない?」とかオドオドしながら一生懸命、洗練された寿司空間に溶け込もうと努力している。

 でね、僕としては、せっかくそれなりの犠牲をはらってそれなりの場所にいる訳だから、他のお客さまにも、かくあって欲しいんですよ。みんなでこの晴れ舞台を盛り上げよう!とまでは言わないけれど、最低限のマナーはあると思う。場末のラーメン屋じゃあるまいし。いや、ラーメン屋でもマナーは大切なんだけどね。僕は寿司屋にいって、寿司を食べるだけじゃなくて、寿司という文化、心というか、寿司をプレイしているわけであるからして、それを穢す人には速やかに退場願いたいと、そういう訳です。うるせえ貧乏人!と言われたら「はい、すいません」というお話しなんだけどね。

 というのは、明らかにウォータービジネス風の女性の方とそれに同伴されている男性がですね、まあ、とってもお行儀がよろしくなかったのです。「ウニがい~いぃ~」とおねだり、ウニ軍艦20カンセットに始まり、炙りトロ、炙り無しという無茶な注文。一番高いワインを所望し、あいにくワインは扱っておりませんと言われるや「チッ」と舌打ちをなされ、その変わりの一番高く非常に珍しい日本酒を女性にイッキ飲みさせる。店自慢の蒸しアナたれ付きにべっとり醤油をぶっかけて召し上がり、女性はウニ軍艦のウニだけを食べ始める等、もうやりたい放題ですわ。

 それを横目で見ていて、こちらのウニとあちらのウニが同じものだと思うと、ウニのオーラがしょんぼりしているように感じてしまう。板前さんも愛想笑いはしているものの、明らかに顔が引きつっている。心なしか、刺身包丁を持つ手に力が入っているようにも感じられる。丹念に布巾でぬぐわれる包丁はいつもより強く光っており、そこには殺意のようなものが確かに宿っていたね。それを感じてか、お二人様は、ウニ15カンほどを残したまま、早々とお店を去っていきました。立ち上がった時、男性の顔が僕を睨みつけた。その顔はぞっとするほど、殺伐としたお顔立ちをしておられました。トドメに扉を開けっ放しにして「ごちそうさま」も言わずに去っていった。

c0045997_0424970.jpg そこで、考え込んでしまう。あの人は今まで、何ひとつ心から愉快だと感じたことなんてないんじゃないだろうか。手当たり次第に愉快だといわれている娯楽を手に取るが、満足がいかず食い散らかす。本当は彼は焦っているのだ、「こんなはずはない」と。身なりからして、彼はまあ立派な身分の方というのは推測しうる。寿司屋に行きたければ、ちやほやしてくれる女性同伴で毎日だって行ける。外車に乗って高級マンション、巨大な液晶TV。でも例えばそのTVで観る、沢田研二主演「太陽を盗んだ男」をちっとも面白いと感じられない。これは悲劇だ。悲劇の末期症状だ。悲劇のIT革命だ。

 こんな僕だけれど、彼らにひとつだけアドバイスが出来ると思う。君達は勘違いしているね。娯楽は与えられるものではないのだよ。これが娯楽ですと言って与えられる娯楽には楽しいものはなにひとつない。楽しみは自分で見つけるものなんだから。探しているうちに探していること自体が楽しくなってくる。じゃあ、何故、娯楽は社会から与えられ、楽しむよう仕向けらるのか。理由は安全だから。もちろん社会にとって安全。人が真の娯楽を追い求めるとロクなことがない。社会の娯楽の範疇から大きく逸脱した者は時に犯罪者と言われたりもする。だから社会は人々が道を踏み外さないように、安全な娯楽で外を見えなくしてしまう。

 でも、多くの人がそんな社会が与える娯楽に飽き飽きしている。で、「ああ、人生の楽しみってこんなもんか」という諦めに達しているような気がする。一番の被害者は若い子たちじゃないかしら。彼らはひどくつまらなそうだ。精神的に傷ついたと言う人には「癒し」というキーワードでいろいろ用意されているし、「都会」に疲れた人にはロハスというお手軽なナチュラルライフも待っている。果ては援助交際にドラッグ、しかし、悪までもある意味で規格化されてしまっている。これはつまらない!そう思って当然だ。

「娯楽は自分の外ではなく内にある」
と誰かが言っていた。その通りだと思う。鬱になって人生の何もかもが厭になった時、もう、なんとかして楽しむしかなくなるのだ。具体的なものは辛くなるので、とにかくなにかを楽しむ。楽しみを自分で作り出す。「水っていいな」とか、空気の味とか真剣に考えてみたり。なにかをまんざらでもないと思うようにする。あと一日だけと考えて、いろんなものを愛おしんでみる。麻のシャツの着心地とか、洗いたての靴の気持ちよさとか。日々の繰り返しの中に面白みを見つけ出せないと、いずれ人生に飽きてしまうしかないのだから。

 でね、寿司は、とにかく高級なものに限ります。自分の経済の守備範囲なものじゃあ、意味がありません。無理しないと寿司じゃない。ほら、寿司って字には「寿(ことぶき)」が入っているでしょ。ハレとケでいうハレなんですよ。明らかに不釣合いな空間に行くことで、日常を異化する。佇まいを正されるのです。「ああ、こんな店に自由に来られるようになりたいな」と感じることで日々のモチベーションもグンと上昇します。寿司のステータスよりも無理するのが粋で、愉快だなあと思うのです。でも、きっと、僕がお金持ちになったらもう寿司屋なんかに行きません。きっと今みたいに心から愉しむことができないような気がします。その時はその時で、案外、公園でほおばる餡パンかなにかを最高に美味しいと思えるのかもしれません。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-24 00:45 | 食べる事と飲む事
全ての道はスカムに通ず-その2
スカムから遠く離れて…

圧倒的に、かつ原始的に、そしてエレガントに僕は詩を愛している。へへん。でも、今までうんざりするほど、こんな言葉をきいてきた。「現代において詩は可能か?」?!可能じゃなかったのか?では、僕が愛してきたものはなんだったのだ?詩を愛する(?)者の多くがまるで遺言のようにこの言葉を口にする。「詩は可能か?」「詩は売れない」「詩は死に掛けている」僕は彼らに言いたい。「あなたが愛しているのは少なくとも詩ではない。もし、それが詩のようなものだとしても、嘆くまでもなく、あなたの詩はすでに死んでいる」と。

言葉のあり方というのは変化し続けている。日々メディアは変化し、新しいメディアの登場は言葉のあり方のチャンネルを大きく変えてゆく。そのことに意識的であることは非常に困難な作業だ。詩はその時々の言葉のあり方をもっともディープに反映するものだと思っている。もしくは反映しきれないものはディープな詩であることができない。ある種の詩が死に掛けているというのは、ある種の詩がディープに反映していた世界が終焉を迎えたからに過ぎない。現代詩にとって、それはおそらく「戦後」と言われるチャンネルだ。

「戦後なんてとっくに終わってるよ」という人は少なくないだろう。でも、正確に言えばそれはまだ終わっていない。それは一部の心ない人によってまだ、終わらせてもらっていない。「誰か」が戦後にしがみついている。極端に言えば、日本は情報過多を意図的に作り出し、情報の壁によって、非常に鎖国的な状態なある。ある種の情報で煙幕を作り出し、本当に重要な情報を見えにくくしてしまっているのだ。言葉のチャンネルを変えてしまう新しいメディアは次々に登場しているのに、我々の言葉がまだそれについていっていない。そして、その言葉で語るべき物語を見つけることも出来ず、一体何を言うべきかを見失っているように見える。

あらいざらい思っていることを言ってしまおう。こんなにも垂れ流されるポップスの歌詞。すべてスカスカだ。なにも言っていない。そして、垂れ流される多くの詩。これらはまだ、戦後50年以上も経っているのに、未だドロドロした極私的な感傷をぼやきつづけている。「もう、終わったんだよ。頭を上げてごらんよ、もう誰もそこにはいないよ。」これは終わらせないといけないのだ。詩が終わったのではなく、我々が言葉に置いて行かれているだけなのに気がつかないといけない。

c0045997_054837.jpg誰かが言う。「日本語は死に掛けている。」確かにそうだろう。ある芥川賞作家が受賞の言葉でこう言った「日本語を守りたい」え?もう一回、え?ある作家って辻仁成なんだけどね。もう、これにはあいた口がふさがらなかった。貴様に言われたくないと。GOOだかZOOだかわからんけどさ、そういう行為をしている人が日本語を守る?僕は彼は自己否定をしているのかと思いましたよ。死に掛けてるものは死なせたらいいんです。それは今までの日本を支えてきた古い体系の死でしかない。そのかわり、新しい言葉を獲得したじゃないか。ピジンだかクレオール語に成り下がったとして、それが素晴らしいかどうかも置いておいて。それでも、もう、そこでしか表現できないんだから。余計なことしないでくれと言いたい。
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なんなら殺しましょうか?そうだ、死に掛けているという人のために、いっそすべての詩集を焚書してしまえばいい。誰かが詩を殺そうとして立ち上がり、政治的な弾圧をすればいい。例えば、そういう場合に詩はもう一度輝くと思う。今現在、詩だと思われているものが全てなくなれば、確実にそこから、新しい詩は生まれる。そんなものから遠く逃げおおせたものがきっと新しい詩をつくる。

パンダを死なせないで!誰かが言う。同じように「詩は弱者の声なの!」と。その通り、だからこそ批判すべきだと思う。批評性を失ったときにはその表現はダメになる。阪神大震災の時にも同じことが起こった。震災のことを表現すると皆、両手離しで拍手を送った。「よくぞ描いてくれた!」でも、それだけだった。震災にまつわる作品を批評すること自体がなにかしら人を後ろめたい気持ちにさせた。しかし、そこからは佳作と言えるものは何一つ生まれていない。

c0045997_0553351.jpgそれでいいのだ、死ぬ行く生き物は死ねばいい。弱きものは逃げればいい。進化とは弱者のものだから。前回、スカムについて書いたが、それら、未熟で圧倒的に悲しい存在が発する音楽の原初的な強い輝き。悲しい環境を強いられて発せられる表現。しかし、どんな悲劇的な状況であれ、表現者にとってそれこそチャンス。逃げて逃げて逃げ切ったものだけが新しい表現にたどり着く。環境を変えようなんて無理。自分が変わるしかない。そもそも、彼らは制度の外に追いやられた人々なのだから。表現者は強者ではなく、とてもマージナルな存在のはずだ。弱き表現者の命がけの逃走だけが世界の輪郭をすこしづつ広げてきたのだから。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-13 00:59 | 言葉について
街を読む
 とにかく本が好きです。引越し先は近くに大型の図書館があるかで決めます。しかし、現在住んでいる池袋には大きな図書館はありません。が、超大型の書店が2店舗も存在します。しかも、日本最大の詩の専門書店「ぽえむ・ぱろーる」があるのも池袋です。(残念ならが、近々、閉店するそうです)だから、池袋に引越しを決めた時、小躍りしました。

 で、今日は本の話題。サイクリングがね、好きなんです。池袋に引っ越してから、都内のどこかにいくには自転車を使うことが多いです。もちろん、通勤も自転車です。本の話題と関係ないと思うでしょ?でもサイクリングはね、読書なんです。街は本。電車で移動するとほぼ目的地直行ということになる場合が多い。しかも、それがデパートの中にあったりすると、どの街に行こうが、そこにあるのは同じようなものばかり。新しい発見もなければ、どこかに出かけたという喜びを味わう事もない。しかし、自転車に乗って移動すると、まさに、我々は地名をなぞりながら、その街を、ページを読み進むように旅ができる。

 最近、仕事やらなにやら自分の時間がなく、ちゃんとした休みをとれなかったので、久しぶりに一日、休日らしい休日を過ごすことにした。目的設定は東京大丸で行われている「絵本作家ワンダーランド」幸い天気もよく、雑司が谷のなだらかな長い坂を下る頃には、大声をだしたいくらいに上気分。坂をおりて護国寺。そのすぐ前にある、甲月堂にて、桜餅と草餅を購入。ここのお菓子ははずれがない。とても丁寧な仕事をしていて、季節ごとに変わる品ぞろえはどれも繊細。その季節をまるごと味わうような喜びがある。

 江戸川公園の桜を横目に飯田橋へ。わき道に八重桜が咲いており、友人の詩「八重桜で革命を!」を彼の口調そのままに叫んでみる。江戸川橋と飯田橋の間には「TOPPAN」という有名な印刷の会社があり、そこでは、いつも本にまつわる展示をしている。ちょっと寄り道。今回は「世界で最も美しい本」というのをしていました。僕自身も装丁の仕事をしているので、とても勉強になります。無料です。ここには他に「印刷ミュージアム」というのもあり、これは有料ですが、グーテンベルグからの印刷の歴史を閲覧することができます。あと、活版印刷体験コーナーもあり、ゆっくりできれば、一日いても飽きません。

 飯田橋から水道橋、御茶ノ水から秋葉原に向かおうとしたが、神保町にある「上島珈琲」の黒糖カフェオレが飲みたくなって、神保町下る。とにかくこの界隈には印刷関係の会社や出版社が多い。連れとそんな話を談義しながら、しばし、珈琲タイム。そこから皇居に向かうと、今日は歩行者天国。ホコテンと言っても、秋葉原のように人に埋め尽くされるのではなくて、道も広く、近くに掘もあり、緑も多いので、とてもゆったりしている。(毎週末には自転車の無料貸し出しもしています)芝生には人が寝転んでいて、春風心地よく、とにかく気持ちよい。目的も忘れて、しばし、皇居周辺をサイクリング。

 おっと、もう3時過ぎ、いそがねば。と、丸の内前でどこだかの物産店に迷い込む。とにかく試食試食。中に、パソナという会社が出展していたサラダコーナーがあった。パソナって人材派遣の会社なんだけど、なんでも、東京のど真ん中にあるビルディングの中で野菜やお米を育てる実験をしているらしい。そういえばビルの中でお米の収穫ってニュースでやってた。今日はそのサラダ菜を食べさせてくれた。なんだか、ビルの中で育った野菜と思うと不思議なお味。今度は連れと今後の農業のあり方、パソナの戦略について、なんだかんだ語り合う。

 やっと、大丸に到着。とにかく素晴らしい絵本展でした。はじめっから興奮しっぱなし。僕はこれでも一時期、絵本作家を目指したりもしてみたりしたことがあったりなんかして、絵本に関してはうるさい(いつでもうるさいのですが…)(画:里宗作「動物の謝肉祭」から抜粋)。有名な作品のたくさんの原画がきていて、もう絵本好きならクラクラです。見渡すとみんなクラクラしてました。出口にさっきみた原画の絵本が置いていて、「これは陰謀か!?」と内心、憤慨したものの。連れに「子供が生まれたらどうせ必要なんだし」という理屈をつけ、たくさん絵本を買ってもらった。でも本当は子供には触らせてあげない。だって僕んだもん。
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 帰りはもう6時前、できるだけ寄り道しないように、まっすぐ前を向いて自転車こぎこぎ。とかいいながら、おいしそうなたい焼き屋を発見。一匹づつ焼く天然たい焼き。これはたい焼き屋が悪い。店の前でお茶を買って、たい焼き二匹。いつになったら家に帰れるのだろう…。とにかく自転車は楽しい。街と言う本をゆっくり味わいながら読んでゆくようです。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-12 08:33
全ての道はスカムに通ず―その1
 なにか作られたものを鑑賞するときに、そのものが発する情念みたいな、その作品が持っている真髄みたいなものを感じたいのに、それを邪魔するものがある。今日はそれについてのお話。それはズバリ、上手さ。テクニックとも言えるのでしょうが。一個人として作品を鑑賞するとき、それはものすごく邪魔なものに感じられる。それは一見、外見を取り繕っているようで、作品が発する声を掻き消している。

 スカム・ミュージックというものがある。僕はとにかくこれが大好きだ。これを定義するのはとても難しい。ヘタクソというのがキーワードではあるのだけれど、単なるヘタクソではない。ぶっこわれたヘタクソさ。それらの音楽は音楽の根っこにある、情念みたいなものを素っ裸でぶつけてくる。これがタマラナイ。

 しかし、スカムが難しいのはいったん、技術的に向上し、上手くなってしまうと、もうスカムではなくなるという点。市場には狙って作られたスカム・ミュージックというものがあるが、これは厳密にはスカムではない。圧倒的な誤解とそれを無視して突き進めるものだけがスカムに到達する事ができる。。(スカム的な音楽をなんとなくあげろといわれたら少年ナイフとか、ゲンズブールチコピドクリンペライ?とかどうなのかな)

舞台の仕事をしていた時、そこではピアノの発表会や下手なバンドやズバぬけて歌唱力がでたらめなカラオケなどが日々催されていたが、僕はそれらをこよなく愛していた。こっそり録音して、自宅でこれを鑑賞していた。そこには音楽の生命力が満ち溢れていた。僕自身もバンドをしていたが、目指すところはスカム・ミュージックであった。基本方針は皆で弾けない楽器を弾く。つまり作られたスカムではあるが…。(視聴

 ここで極論を言うなら、全ての文化は誕生したときにはスカムであったと僕は思っている。出発点はそこなのだ。そこからしか圧倒的に新しいものは生まれない。そう思っている。そして、スカムからプリミティブな輝きを見出したものだけが、それを洗練へと導く事ができるのではないか。

 しかし、洗練、純潔はいずれ、その文化を死に追いやる。そのようにして死に掛けている文化はひどく多い。例えば、狂言や能。現代詩、多くのジャンルの音楽。ポップミュージックも死にかけている。それが現代詩なんかと違うのは、死に掛けていることに多くの人が気付いていないということだけだ。そこにあったはずの生命感みたいなものは消えて久しい。

 本当に愛さなければならないのは、スカムのスカムな部分ではなくて、スカムな人々がスカムにならなければいけなかった状態の方である。新しいジャンルは、はじめ全てがスカムにならざるを得ない状況から始まっていると思う。ロックは白人と黒人がせめぎ会い葛藤し合う中で生まれたと言いうことができるだろう。それからキューバのサルサの足を上げずに踊る所作は強制労働の黒人たちの足に鎖がつけられていたことによる。能、狂言も、田楽や猿楽という田で踊られる豊作の喜びを表現した農民たちのものであった。

 「それでも我々は踊り続ける。」死にかけている文化にはこういう切羽詰ったものを感じない。むしろ滅びを楽しんでいるかのような。まあ、それはそれで美しいのかもしれないけれど…。ある状況に追いやられたものだけが放つ原初の生命力。もし、死に掛けた文化を再生させうることができるとしたら、僕はこのスカム精神をおいて他にないと思う。それがカンフルとなり、文化が再生するというようなことはきっとありえる。それらを混沌の中に投げ入れ、解体することで再生は始まる。日本独自の文化が本来、渡来のものとの融合によって成し遂げられたように。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-07 01:16 | 音楽について
恋の劇薬
 鬱だということを日記に書いた。鬱ということで思い出したが、鬱と恋煩いは似ているなぁと思う。その心地から、状態、ため息の方法論まで。なにもかもが似ている。果たして鬱が恋に似いているか、恋をするから欝なのか。そんなの考えるまでもなく鬱がただちょっと恋に似ているだけだ。でも、もしかしたら、多くの人の鬱が、実は気付かずに何かに恋しているのかもしれない…なんてふうに原因が分かれば楽なんだけどね、まったく、ふぅ。そう、このため息が恋煩いに似ている。

 で、恋煩いと鬱、どちらが辛いかというと、あるいは恋煩いの方が辛いかもしれん。では、恋煩いと鬱どっちがいい?と言われたら多くの人が恋煩いをとるのではないか。とすると、凄く画期的な鬱の治療法がこの世に誕生することになる。鬱を楽にしたければ恋を煩えばいいのだ!上手くいけば、鬱のことなんか忘れてしまうに違いない。でも、もしかしたらダブルパンチ、なんてこともあるかもしれない。それは僕の知ったこっちゃない。

 そもそもなんで鬱なんかあるわけ?なんのメリットがあるわけ?ダイエット?オシャレ?おしゃべりな人間を黙らせるため?ああ、それなら、一理あるなぁ。でも、鬱に理屈は通用しない。とにかく、ある日、背後からキリキリ鳥が飛んできて、頭の上の気分風船を突っついてぱぁん!といわせて去ってゆく、それだけなのだ。恋煩いの場合はホレホレ鳥が飛んできてぱぁんだ。恋と鬱なんてそれくらいの違いだ。キリキリかホレホレの差。へれへれやぎれぎれではなくて。

 まあ、僕なんかは始終何かに恋をしているわけであって、もう、恋の酸いも甘いも噛み分けた百戦錬磨の達人なわけですよ。女々しいフラれ方に関しては僕の右に出るものはいないんじゃないか!?って勢いですわよ。もう、毎朝、見事な恋のため息で目覚めるわけですよ。ふわぁぁぁぁ~ってね。でも、恋ばっかりは慣れるもんじゃなく、恋焦がれて、焦がれて焦がれて、もう黒焦げになってしまうかと思うくらい、辛い。正直辛い。

 しかし、その恋の中で鬱を凌いで辛いその理由というか、まさに恋の醍醐味といえるのが「嫉妬」です。これは劇薬です。嫉妬のエキスを抽出することに成功すれば、ものすごい兵器が作れることでしょう。おお、考えただけで怖い。どんな成人君子だって、それを一滴垂らせば、たちまち、想いの人の家の前でうろつくストーカーに大変身です。やがて、壁に頭を打ち付けて息絶えます。

 なんか、最近、コンビニでうろうろしていたら「♪ストーカーと呼ばないで~」って歌が聞こえてきて笑ってしまいました。僕は高校の時、付き合ったばかりの彼女と喧嘩して、その晩、自転車で8駅くらい飛ばして、その子の家の前で朝まで立っていたことがあります。なにがしたかったわけではありません。「心は離れ離れでも、二人の距離は近いさ、ふふふ」なんてことを思ったんでしょうか?実は、心理は嫉妬です。彼女の心が自分から離れているそのことを確認したかった。「心配」ではなく、いっそ、ここで娼婦のような姿の彼女が登場し、隣のクラスの山根くんと腕組みして出て行く姿が見たかったのかもしれん。それで、三文怪獣のような雄たけびを上げながら心を散り散りに砕きたいという願望。そう願望。嫉妬とはかようなものではないか。

 しかし、僕ってなんておしゃべりな鬱の人なんだろう。でも黙ると怖いのだ。出来ることなら誰かとしゃべり続けていたい。パンダのぬいぐるみのピーコちゃんもいい加減いやな顔をしている。そうだ、実践あるのみ。恋煩いと思ってため息をついてみよう。はふぅ、ひふぅ、まんざらでもないね。なんか、若いぞ自分っ!てな気分になってくる。こういう場合、できるだけ非リアルな存在を思い浮かべよう。じゃあ、なんだ、火星人のポレ子ちゃんてことにして、ため息をエンジョイしてみる。ここで、ふいにリアルに昔の恋を思い出した。とんでもない鬱状態。結果、恋煩いで鬱なんか忘れられないということが分かった。あおぉ、ダブルパンチじゃんか…。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-06 02:13 | くだらないこと