「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28
<   2006年 02月 ( 7 )   > この月の画像一覧
ニュースは今そこで起こっている
 日々、実に様々なニュースが行きかっている。昔、大人はなぜ、自分に関係のない、見ず知らずの場所の見ず知らずの人々のニュースに一喜一憂するのか不思議で仕方なかった。父はよくTVに向かって怒鳴り散らしていた。金属バッドで両親を殴り殺した青年のニュースに「根性が歪んどる!親の顔がみてみたい!」とわめいた。しかし、父さん、両親の顔はきっと見られないくらいにグチャグチャだろうね。そう言いたいのをこらえた。高校になってからは、ニュースというよりも、父のまるで感情的で破綻した論理に刃向かうのが面白く「それは違うね、ダディ」と反論し、マヨネーズのかけ合いをしたものだ。

 ニュースは常に遠くで起こり、遠くで決着が付いた。近くで起こった銀行強盗をTVで観てやっと実感したりした。世界は僕の外にあった。しかし、それはある日を境に反転する。僕はアーティストなんかになろうとして、日々、外部と遮断された場所で、モノツクリに没頭していた。向かい合うのは自分の精神世界だけだったように思う。そして、そういう者の誰もがそうであるように、精神を病んでいた。しかし、幸か不幸か、なんとかかんとか、それだけで生活できていた。しかし、そのある日はやって来た。まるで、僕の作った殻をぶち壊すように。1995年1月15日、阪神大震災。僕は実家と、僕の持っているものの多くを失った。ニュースは遠くで起こってくれなかった。僕は丸裸で燃え盛る世界のど真ん中に放り出された気分だった。ラジオのニュースにかじりついて、家族の名前がないことに深く安堵した。

 先日、ついに僕も誰かの父親になる日がくることを知った。はははは、パパである。無理に笑ってみる。心のどこにも届かない。今度は厳しい顔をしてみる。だめだ、口元がニヤけている。できちゃったのである。いや、できちゃってない。できるのを待ち望まれできるべくしてできたので、「できたじゃないか」というべきだろう。僕にもやればできるじゃないかという感じ。僕にも!なんだろう、こういう時の男性のふがいなさは。むしろ両親の方が上手に喜んでいた。ただ、これから僕に起こるであろう劇的な変化の予感だけが一番実感のあるものとして感じられた。観るもの触るものの心地が少しづつ違っているような気がした。大きく何かのチャンネルが変わったことだけが理解できた。

「もしも僕の子供が産まれたら」
 そんなことをよく想像して遊んだ。なにして遊ぶ?なにをお話する?ここで、ハッキリさせておきたいが、僕は子供と遊ぶのが天才的に上手い。子供の気持ちが手に取るように分かる。子供は楽しいだけでは楽しめないことも知っている。怖い、さびしい、悲しい、わからない、しりたい、痛い、くすぐったい、いろんな感情をまぜこぜにしてあげないと、心から楽しめないのだ。僕も子供もね。でも、本当にできちゃったので、とても戸惑っている。今から照れくさい。どんな顔してその子の前に行けばいいのだ?「あの、えー、エホン、非常に申し上げにくいのですが、僕が、いや、私があなたの父になることになりましたサトムネと申します。ああ、おたく様もサトムネですね、あー、始めまして」でも、大丈夫。きっとすぐにフリチンダンスで意気投合できると思う。そんなことを思うと、やっと胸に熱いものがこみ上げてきた。二人でフリチン合唱隊を結成するんだ。あ、女の子だったらどうするんだ?

 最近、ふと気が付いた。僕がTVに向かって文句を言っているのである。そう、あの父のように。なぜ、父がどんなニュースにも口を挟んでいたのかが今は良く分かる。世界は無関係ではないのだ。ニュースは僕の世界の中で、僕が責任を持たなきゃいけない場所で起こっている。僕はもうなにひとつ世界のせいにはできないのだと感じている。僕は生まれてくるだろう子供のために少しでも心地の良い寝床を用意しなければいけない。時には耳を塞ぎ、目を塞いであげなければならないこともあるだろうな。その子が傷つかないためなら世界の真実をすこしだけ歪めてもいいと思う。だって世界はあんまり危険すぎる。いつか自然に子供は僕に刃向かうようになる。それまでは、たくさんフリチンダンスを踊るんだ。僕の父がそうしてくれたように。

*************************
この日記は大阪で行われるイベント「A day」のブログとの連動企画です。
c0045997_1534867.gif

[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-28 01:57 | 考える
iPodを買った
 最近ね、「iPod」を買ったんですね。つい最近まで、絶対に買うもんか!と思っていたんです。周りの人々が、うれしそうに「iPod」の奴をちらつかせるのを見て「この資本主義の犬めが!」と心の中で罵っていたのですが、たった一度、会社の女の子に「iPod」の素晴らしさについて講義されただけで、尻尾振って次の日には購入しちゃいました。これね、すごい小さいのに、何十枚分ものCDが入っちゃうのね。それから、曲のタイトルとかも自動で入ったりしてとってもかわいい奴だね。シャッフルして再生したり、すごく頭がいいの。ほら、やっぱりみんな持ってるじゃん。なんかカッコいいじゃん、だから、欲しくなるじゃん、しょうがないじゃん。もう何とでも言って下さい。僕は犬です。ワンワン。

 はじめの数日はうれしくって、あのアルバム入れようか、これ入れようか、自分の自転車に乗っている様々なシチュエーションを考えて、曇りの日はコレ、天気の日はコレなんて想像するのが楽しくて会社遅刻したりしたのですが、変化はすぐに訪れました。数日もすると、飽きてきちゃったのです。人ってそうそう聴きたい音楽ってないもんですね。どれを聴いても自分の今の気分にぴったり来ない。逆に音楽を聴くことで、自分の気分を限定しているような気がしてきた。バッハな気分って言えば気分なんだけど、どこかで20%ほど美空ひばりが流れていて、でも、バッハを実際に聴くことで100%バッハな状態になってしまう。20%美空ひばりな気分の中にもしかしたら本日を生き抜くためのとても重要なヒントが隠れているかもしれないにも関わらずだ。

 音楽が携帯できるってすごいね、改めて。どれくらいすごいかというと…長くなるから止めておく。それは言葉が身体から切り離され声ではなく文字になったことと似ている。音は楽器や人の身体を離れいついかなる時も再生可能になった。そのことは人がどんな身体的状態や感情の状態に関わらず音楽が鳴るということ。脳みそが直接音楽を聴いているみたいなもの。つまり、例えば僕は、寒いと反射的に「♪おしくらまんじゅうおされてなくな」という歌が頭の中に流れる。何も考えないでいると、自分の状況に合わせて実に様々な音楽が流れていることに気付く。それはめまぐるしく1フレーズをなぞったかと思うと、次の瞬間、別の曲になっていたりする。そのように、心の中の音楽は今、本当に聴こえている音や身体的状況によって、曲を選曲している。時々、聴いたこともないような音楽が流れたりもして…。

c0045997_17433537.jpg というわけで、すでに「iPod」はポケットには入っているけれど、音を鳴らさないシンボルみたいなものになってしまいました。イヤホンは自宅に置いたままです。これは「Ihave MUSIC」というシンボルなのです。でも、僕が持っている「iPod」の方がもっと素敵です。いろんな自然の音がプレインされていて、音楽を取り込まなくても、好きなときに好きな曲の好きなところだけを聴くことができ、しかも、まだ録音されていない自分だけのオリジナルな曲も再生してくれる。それから、なにより誰の「iPod」にも入っていないだろう、豊かな沈黙がたくさん入っています。

****************

この日記は大阪で行われるイベント「A day」のブログとの連動企画です。
c0045997_174799.gif
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-26 17:48 | くだらないこと
ムツゴロウに食べられる
c0045997_204998.jpg今度、大阪で舞台をします。
今日からそれの本番の日まで、こちらの日記をそのイベントのブログと共有させます。興味ある方は是非、そちらも覗いてみてください。共演する二人のすごく面白い日記、まあ、僕の日記よりもちょっぴりつまらないけどー、すごく面白い日記もアップされますから。その他にもそっちのBlogだけの特典もたくさんあるのでどうぞいってらっしゃいまし。
「A day blog」

その舞台のテーマは「日常」つまり「あたりまえのこと」。フツーのおじさんたちがフツーの生活の中で、ちょっとまじめにポエムに興じてみる。イメージとしては「背広を着た雨に歌えば」な感じ。その舞台は一日をテーマごとに区切り進行していきます。今日の日記はそのテーマのひとつの「food」について書いたものです。

*********************

c0045997_20461316.jpg 僕はまだムツゴロウを食べたことがない。でも、すごく食べてみたい。僕はとにかく何でも食べてみたい。好き嫌いというものがない。おそらく、なんだって食べ物だと言われたら食べる自信がある。虫でも、腐ったものでも。植物園で「これは食べられる植物です」と書いてあったら、コッソリちぎって食べずにはおれないという性分だ。いちどは、カカオの実がなっていたので、かぶりついてエライ目にあった。

 いきものがいきものを食べているんです。食うか食われるか。好き嫌いなんておこがましい。パンダがもし、笹の葉を嫌いになったらどうするんだ。ライオンはベジタリアンになれるのか?僕にはベジタリアンの意味がわからない。植物から見たら彼らは肉食人種である。あんまりうるさくアメ公の奴らが「鯨は頭のいい動物ですよ」というのなら、ジャパ公の僕が「植物は人の心を癒すやさしい友達」とグリーンピースに対抗してピーナッツを結成しますよ。

 肉食を否定する背景には「強者が弱者を食い物にする」という図式になにか後ろめたい気持ちがあるのだ。アメ公は胸に手をあてて考えてみてください。そこで、僕からの平和な提案です。もう一度、仲良く戦争をしましょう。食うか食われるかを再現するんです。そしたら、きっとその後ろめたい気持ちは一蹴されますから。それとも何ですか、僕が北極海に飛び込み、鯨の頭に直接かぶりついたら誰も文句は言いませんか?

 こういうのはどうでしょう。戦争を自由化します。でも、武器は刀のみ。殺していいのは、自分が食べきれる分だけ。殺した人を最後まできれいに食べてあげなきゃいけないというルールをこしらえるんです。中国で、いろんな獣たちが毛皮を剥がされている。そんな映像を見て、先進国の人々は嫌悪します。じゃあ、自分で剥げばいいのにね。そういう人のためのルールです。自分で食べる命くらい自分で責任もたなきゃ。

 昔々、自分がオオカミだった頃、僕はお腹をすかして一人砂漠をさまよっていたことがあるような気がする。そしたら、向こうからも、お腹を空かせたオオカミがやってくる。二匹は広い砂漠の中で鉢合わせ、しばし、見詰め合う。相手の喉がゴクリと鳴る。それから二匹はおもむろに腕を振り上げてじゃんけんをする。「じゃーんけーんぽい!」僕がパーを出し、相手がチーを出す。沈黙。。。そんな過去を思い出してみたり。

 ムツゴロウを美味しく食べるコツ。ムツゴロウに食べられるかもしれないという対等な関係にあれば、ムツゴロウの味もまたひとしおに違いない。もしくは、「わーいわーいムツゴロウが釣れた!」と狂喜して、捕まえたムツゴロウをわっしと掴んだら、ムツゴロウが手から離れなくなり、そのまま空の上へ引っ張り込まれる。巨大な顔が狂喜して「わーいわーい、人間が釣れた!」というシチュエーションを思い浮かべる。僕達はいつでも自分が美味しく食べられる心の準備をしておかなくてはならないのです。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-18 20:51 | 食べる事と飲む事
あなたはなにをする人ぞ
 そろそろ春ですね。そろりそろりと春ですね。隣のビルの屋上庭園では春の鳥が鳴いていました。ああ、ポカポカして気持ちいいなぁと思っていたのですが、あまりに良くできすぎた春だったもので、もしや、この鳥のさえずりはスピーカーから流れてくる音じゃないかと疑ってみたり。演出された春に踊らされているだけじゃないかと思うと悔しい。

 ところで、あなたは何をする人ですか?と、唐突に質問を変えてみたり。僕は春を疑う人です。いや、そうじゃなくて、日々、何をしている人?春って気持ちも緩む分、いろんなことが思い出されるように不安になってきたりもするんですよね。僕って、このままでいいのかしらん?ってね。こういうのって春の流行でしょ。ホーホケキョ。
春浅し あなたはなにをする人ぞ
c0045997_1514016.jpg 呆然とした不安がふわふわと重なって気がつくと、巨大な塊の不安になっていたり。春ってそんな季節。でも、とらえどころがない。春って精神病の一番多い季節らしいですね。ええ、「らしい」ということしか知りませんが。最近、知らない人に仕事で会う機会が多く、こんな質問をされます。「あなたはなにをしている人ですか?」まあ、あなた不躾な人ですね。それはあなた、「あなたは怪しい人じゃないですか?」と聞いているようなもの。答える代わりに、三つ指立てて「オイラ、ベロってんだ、怪しいもんじゃねえよ」って言ってやろうか。でも、訊いちゃうんだよね、これが。

 なにをしているのか?と問われてどこまでを答えればいいんだろうか。その人にとって会社の仕事が本当の自分なのか?もしかしたら、万が一、趣味の世界では、折り紙界の神と言われる存在かもしれないしね。僕の場合、会社の仕事ひとつとっても非常に複雑で、人に説明するのがひどく面倒。「まあ、クリエイター系?」と言えばもしかしたら、「ああ、あれね」とか納得してもらえそうな気がするが、僕はこのクリエイターという言葉が大嫌い。

 なんで、そんなカッコイイ言い方するかなあ。「デザイン的事務作業をしています」とか正直に言えないかねぇ。だいたい、ウェブを作ったり、DTPで雑誌の頁つくったり、HPの運用をする仕事のどこがクリエイティブなんだ?じゃあ、なにか歌手は全部クリエイターか?料理人も服のパタンナーも?そんなこと言ったら、世界中の人はみんなクリエイターだよ。ニートなんか、時間浪費クリエイターとか言えちゃう。農家のおじさんの方がよほどクリエイティブだわ。ぶつぶつぶつぶつ。どうも春のせいで情緒不安定みたい。

c0045997_1515990.jpg そもそも、この「あなたはなにをしている?」という概念こそが罠じゃないのか。人はそれでしか、自分や他人の存在を測れなくなっているんじゃないか。僕はキュートなものが大好きで、意外に小心者な、ボタンマニアの30過ぎのオッサンという一面もあるわけで。「まあ、クリエイター系ってやつですか?」という言葉により、それらの一面が欠落して、まあクリエイター系な奴に公約数されてしまう。

 だったらだ!もし、僕になにをしているのですか?という質問する勇気があるなら僕のライフスタイルから、僕がどの映画のどのシーンで泣くのかとか、どんなセックスをするのかとか、棺桶の色の希望まで教えてやるから最後まで聞けよと言いたくなる。そういうことじゃねえのかよ!

 なにをお怒りなのですか。つまり春なんですよ。真綿のような不安と鉛のような怒りが僕の眠たい頭の天秤の上で釣り合っているのです。その代わり、僕の中のいろんな僕がまるで乱視みたいにみんなバラバラに見えてきて、自分でも自分がなにをする人かわからなくなってくる。これこそ「なにをしている人ですか?」の罠です。

 そんな折、(例によって、今までの文章は前置きです)、あるところで、ある人の名前をきき、「あ、それ、僕の友達だよ」と言うと、非常に驚かれた。その人にとってはすごく有名人だったようで、なんだか、そこにいる自分が別人のように感じられた。そういうことなのだ、ある人が何をしているかどうかよりも、その人がどういうネットワークの中で生きているかということの方がその人をより正確に知る手立てのように思う。

 或いは、僕は僕の大好きな詩人と一緒にお酒を飲んで熱く語り合ったことがある。僕はいかにそのことがスゴイ事で、そのことがどんなにうれしいのかいろんな人に自慢した。でも、そのうちの8割の人が「その人、誰?」と言い、そのうち2割の人が「その人、まだ生きてるの?」と言った。以後、誰にも言わないようにした。時に自分がどのネットワークに存在しているのかを主張することはすごく孤独な行為であるという例。

 ともあれ、自分が何者であるかなんて、自分にも他人にも問うべきではないという、自分探しなんてゆめゆめするもんじゃありませんよという、ありがたいありがたいお話。でした?
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-17 01:53 | 考える
またあの悪夢をみるだろうか
 また、あの夢をみた。まぶしい、ふと気が付くと、舞台の上に立っている。光をさえぎって、観客の方をみると、大きなホールが人で埋め尽くされている。あわてて周囲をみると、舞台の上には自分一人だけ。観客は目を見開いて、次のアクションを今かと待ちわびるように、或いは、さあ、早くなにかやってくれと、僕の一挙手一投足を見逃すまいと見つめている。しかし・・・、僕は次になにをすればいいのかなんてさっぱりわからない。つまり、すっかり忘れちゃったわけだ。不都合なことに忘れた事だけは覚えている。つまり、僕はここにいる全員を裏切る事になるということだけわかっている。足下から凍りつき、ついにはそれがこめかみに上ってくる。火傷するような冷たさだ。冷や汗がにじみ出る。静かだ。この静寂を破らねば、だが、僕には、この沈黙を破るどんな気の効いたことを言うこともできそうにない。アワワワ。

 いつもここで汗だくになって目が覚める。もう、この夢を見始めて10年近くになる。しかし、この夢は夢なんかではない。僕は一度、これと同じ事を経験しているのだ。だからこそ、この悪夢を見続けている。もう10年もの間…。勘弁してくれ。しかし、それは一度の現実ではなく、夢に背中をおされるように何度も舞台の上でこの悪夢を再現している。僕はある時から、舞台の上でセリフを喪失するようになった。稽古では、ミスなどしないのに、本番に限って言葉をなくす。こういうのを精神医学では「イップス」というらしい。よくスポーツ選手がこれにかかり、引退を余儀なくされると言う。ゴルフのパットがまったく決まらなくなったり、ピアニストの指がまったく動かなくなったり。僕の場合は本番中にセリフが消えるという症状だった。

c0045997_1241550.jpg とにかく舞台が好きだった。舞台の近くにいられるのならなんだってした。自分で劇団の立ち上げに関わったり、人の劇団のお手伝いをしたり、役者としてだけではなく、裏方としても。ある時、すごく大きなチャンスが巡ってきた。ミュージカルの準主役。なぜ、僕自身、そんな大役を手にできたのか理解できない。出来心でオーディションを受け、なにかアカペラで歌ってくれという注文に美空ひばりの「りんご追分」をセリフ付きフリ付きで熱唱したら、受かってしまった。おせじにも巧かったとは思えない。ただ、非常にウケがよかった。僕はその本番でやらかしてしまった。本番が近づくに連れ、ミュージカルシロートの僕には大きなプレッシャーがかけられた。団員を差し置いて準主役を獲得した僕に周囲の反応もなかなかに冷ややかだった。前宣伝も次第に過剰になってゆき、これは失敗できないぞ!という気持ちも過剰になっていった。そして、本番・・・。

 僕はそれ以後、そのトラウマを抱え続けた。次第に舞台に立つだけで震えがきた。役者としての終わりを感じた。せめて舞台の近くにいたいという気持ちで舞台の会社で働いた。舞台の袖にいて、照明や音響に「キュー」を出したりするのだが、舞台を横から見つめるだけで、じんわり手に汗をかき、セリフもないのになぜかミスを連発した。病院にいって相談もした。その時に「イップス」という言葉を知った。しかし、治すもなにも気持ちの持ちようなのだ。医者にはある時、ふっとよくなるものですよ。精神安定剤を数日分もらった。けれど、そのある時はやってくる兆しがなかった。僕は劇団をやめた。

 それでも、なにかがあきらめきれなかったのだろうか、自分でもよくわからないが、気がつくと、休みの日には、バーやいろいろな場所で詩の朗読をするようになっていた。詩の朗読は、テキストを手に持っても、なにも言われないのでセリフを失くすこともない。それに詩はテキストや読み方まで自分の創作演出なので、非常に自由だ。僕は次第にその深さと面白さにのめりこんでいった。自分ではリハビリのつもりだった。しかし、基本的に詩の朗読が表現である以上、演出としてテキストを持つのはありとしても、本来はテキストは持つべきではないと思った。テキストを持たずにやってみた。しかし、きちんとセリフは飛んだ。いろいろな舞台で挑戦し続けたが、セリフは飛び続けた。その都度、舞台の上で凍りついた。それでもやめなかった。なぜなんだろう。いつも舞台の上で猛烈に後悔した。

 前置きが長くなったが、僕はまた懲りずに舞台に立とうとしている。懲りずに?いや、懲りるもんか。舞台で台詞をなくしてフリーズしている僕を、もし誰かが引きずり降ろそうとしても、僕は舞台にしがみついてでも舞台に居座ってやる。さて、それが来たる3月18日、大阪での話し。去年の5月に東京でやった「A day」という舞台だ。このブログを見てくださっている方にも多く足を運んでもらった。ありがたい話です。おかげさまの好評につき、大阪公演が持ち上がった。さて、その去年の5月でも僕はきちんとやらかした。テキストをもたない作品で数分間フリーズした。3月の大阪公演ではどうだろうか、懲りずにテキストを持たない朗読をするつもりでいる。どうなるかはこうご期待。
c0045997_1201413.gif
 それまでしても、舞台に立ちたいのだ。こうなったら意地だ。TVでお笑い番組を観ていると時々、芸人がフリーズしているのを目撃する。プロだってそうなんだ。そういう時は、いたたまれない気持ちになる反面。非常にうれしい。もし、同僚なら、肩を抱いて励ますだろう。同時に傷口に塩を塗りつけるだろう。「わっ、さぶっ!最悪!客全員おもいっきりひーとったやん。もう、お前におもんない芸人のイメージ出来上がってるわ、もう、誰もお前で笑わんわ、でも、がんばりや、なっ」という具合に。

 なぜそこまでして舞台なのか?舞台の何が面白いのか。その答えは舞台の終わったあとにある。客がハケ、絢爛豪華なセットや派手な照明器具がすべて片付けられ、モップで舞台をはわく。ほとんどのスタッフも舞台からいなくなる。余分な照明を落として、なにもない舞台に寝転がる。これだ。たくさんの人が長い時間準備して作り上げ、今宵一夜のショーを繰り広げる。多くの観客の驚き、笑い、どよめく声、緊張する役者やスタッフ。こだまする拍手。目を閉じ目を開くともう誰もいない。そして、誰もいなくなった。あれはなんだったのか?この感覚。寝てみる夢を現実という世界に作り上げること。究極のハレとケ。祭りの感覚。僕は特に祭りの終わった後の空虚感が好きだ。そこには世界を丸ごと飲み込んでしまうような、豊かな「無」がある。

 その「無」に触れるには、一度、その上に、無が見えなくなるまで、積み上げなくてはならない。積み上げて積み上げて、また崩す。するとそこに、前よりも深く豊かな「無」がある。そこにまた積み上げる。ヒーヒー言いながら、そして崩す。快感。繰り返す、何度も何度も繰り返す。その度に恐ろしい悪夢を見続ける。でも繰り返す。俺はバカか?でもこの悪夢を見るためには一人では無理だ。いろんな人が関わって、いろんな人を楽しませるために、長い時間をかけてなにかを作り上げてゆく。僕は単に、誰かと何かを作る行為が好きなだけなのかもしれない。あの悪夢は、僕にとっての例えば決意なのだ。楽しませなきゃいけないという気持ちが悪夢を繰り返し再生さているのだろう。

 どうですか?こんなにおおげさに書けば、少しは僕の舞台観てみたくなりました?ダメ?そんなつれない事いわないでさ。舞台の上でフリーズしている僕はとってもキュートですよ。首がカックンカックンして、壊れたおもちゃみたいになるんだから。これはもうジェームス・ブラウンのマントショーみたいなもんなんだから。ものすっごくカッコ悪いんだから。。。

 じゃあ、ひつこく宣伝タイム!SSWSというイベントでの音源が公開されているので、それも聴いてみてください。きっときっと、みてみたくなるはず。多分。多分ね。興味の出た方は「A day」ブログへいってらっしゃい!今日はたくさんじこしゅちょうしました。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-13 01:25 | パフォーマンスの現在
合コンの魅力について語れ!
 誰か、僕に合コンの魅力について説明してくれないでしょうか?僕にはその合コンなるものの、魅力がちっともわからないのです。もちろん、合コン未経験者ではありません。大学の頃はそれなりに新入生歓迎コンパにはじまり、他の学科や他の大学との合コンが毎週どこかで催されていて、それなりに誘われ、それなりに参加もしていました。しかし、僕はただの一度もそういう場で愉快な思いをしたことがないのです。大学も5年生(なんでですかねぇ)になると誘われても行かないか、僕にとって合コンとは、にぎやかな夕食会と化しました。それでも、理解するまでに4年を費やしたことになるのですが…。

 まず、その前提がいけない。純粋に機知に富んだ会話を楽しみに行こうとしている者に、男探し、女探しが最終目的の場所でどうやって会話を楽しめと言うのだ。何度か素敵なセッティングの合コンに誘われたこともある。時に演奏家、時にデザイナーやアーティスト、詩人や科学者の合コン。しかし、結果は同じだった。そんなにも面白い人物を集めておいて、見事につまらなかった。みんななにかにとりつかれたように上の空で、ただ、その場で意味を持つのは、男女のまぐあいだけなのだから。「おい、みんな目を覚ませ!君達が普段、命がけでしていることはなんなんだ!」と一人一人のほっぺたにビンタをくれてやりたくなる。

「それでいいんだよ。俺達が一生懸命に何かに打ち込むのも、いい異性に出会うためなんだから、そうだろ?」
 さも、当然なように、合コン百戦錬磨の友人が主張する。しかし、待て、百歩譲って、素敵な異性に出会うためだとしても、出会うための出会いはつまらなくないか?出会うために出会いが用意される。確かにね、「一目会ったその日から恋の花咲くこともある」みたいな出会いを欲してはいる。電車の通勤中、もしかしたら、万が一、前の席に座っている、美しい女性が電車を降りようとする僕の腕を掴み「惚れちゃいましたわ」なんて言って来るんじゃないか、時々、ドキドキしてるけどさ。僕はね、豊かな時間が欲しいわけ。もし、万が一の女性がいたら僕は、喉まで出かかった「ヤッホー!」を飲み込み、「お嬢さん、それはいけません、僕はあなたのことをまったくしりません」と言うだろう。そしてちゃんと「じゃあ、今からいろいろと知り合いましょう」と言うだろうけどね。

 これはつまりPTSD心的外傷後ストレス障害にちがいなのです。沖縄の大学に行っていた僕は、合コンの進化する以前の原始的形態である沖縄名物ビーチパーティーというものに参加したことがある。ビーチパーティーと言えばなんだか垢抜けたオシャレな遊びのように感じられるが、これはもう、れっきとした原始的な乱痴気騒ぎである。満月の夜、海岸で火を焚いて、歌い踊るわけだ。それはもう、一晩中、気になるあの子や才能豊かな人々と語り明かせると思ってワクワクして参加したのだが、そこで行われたのはオープンな会話などではなく、ヒソヒソニタニタ。男が女の耳元で話すのが炎に照らし出されて、まるで悪魔の儀式みたいなシロモノだった。やがて、一組、二組と暗闇の中に消えてゆく。そして、気になるあの子も、くだらない野郎に口説かれて暗闇に消えた…。僕は一人、炎の前に取り残された。以後、ビーチパーティーには二度と行かなかったし、その女の子とも口をきかなかった。

 とかなんとか純粋なことを言うとりますが、実際の僕は、どんな場であれ、男女問わず、口説いて周っているので、合コンとか関係ないわけですよ。合同カンパニーだかゴーゴーコンパだか知りませんが、そんなことをしないと異性も口説けないのかと僕は問いたいわけですよ。そんな改めて、「さあ、どうぞ、みなさん、今宵もじゃんじゃん口説いて参りましょー!」なんて場にいたら口説きにくいやら、話しにくやら。ちょっと、「ねえねえ、どんな仕事してるの~?」と質問しただけで「あ~、この人、口説いてる~、あたしのこと口説いてる~」なんて騒がれたりしたら、みぞおちにパンチをくれてやって気絶した隙に、その場を逃げ去りたくなりますがな。普通に会話がしたいだけなんです。なんなら、いかつい顔して「フ~ア~ユ~!?」でもなんでもいいんです。とにかく会話がしたい。

「日々口説く」
 コレです。日々功徳みたいでなんだかアリガタイ宗教家の言葉みたいですが、基本はコレです。愛のオーラです。愛の雪崩です。ナイアガラです。汲めど尽きせぬ愛の泉。いういなれば、コンパはプール。それも、ちゃちなおもちゃのプールです。その場限定の水遊びなの。あのね、だから、つまり、なんです、僕はその場だけの冷たいあの空気が嫌なんです。とかウダウダ言って、本当はコンパに行きたいんでしょとよく言われますが、それは無理です。既婚だしね。もし、コンパに参加したら、奥方様の使いの者に物陰から毒矢を飛ばされて僕は抹殺されます。だから口がさけても、本当は心の底からコンパに出たいなんて言えませっ、あう…無念。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-05 00:27 | くだらないこと
あなたは良い人?悪い人?
 最近、人を「良いひと」と「悪いひと」で分類するのが自分の中で流行している。もちろん、人には良い部分もあり悪い部分もあり、一口に「良いひと」と「悪いひと」で分けられないのは合点承知ノ介である。しかしだ、「あなた悪い人」「あなたは良い人」。人を二種類に分けるときの、なんとも言えないあの一刀両断なバッサリ感がたまらないのだ。

 そもそものキッカケは一ヶ月ほど前に僕のチームに入ってきた女子の質問からだった。「あの人は良い人ですか?」その質問に思わず笑った。そんな質問ってあるだろうか?まだ、名前も覚えていない特定の人に対してあの人は良い人ですか?ある日は、少し部下に小言を言っている部長を横目で捕らえた彼女は「あの人は悪い人ですか?」と、まるで、初めてパンダに出会ったマサイの戦士が「あれは食べられますか?」という質問かのように繰り出すのである。

 まだ、業務経験の浅いという彼女は、おそらく今まで、彼女にとって良い人ばかりのコミュニティで暮らしてきたのだろう。それは彼女が前社会の段階で彼女を擁護するために機能してきた。しかし、彼女はその後、社会に出て一気に社会的悪意にさらされるようになった。そこで、彼女は社会には「良いひと」と「悪いひと」が存在することを学んだ、と、こうなるのではないか。彼女がこのような基準を獲得するまでの過程を考えると涙ぐましいものがある。誰だってそんな人生のある季節には浜田省吾の「マネー」を雨にうたれて熱唱したくなるものなのだ。

 が!しかし、古狸のようなオッサンになると、世の中の悪いものも良いものも、みんないっしょたくにして「まあまあまあ」とやり過ごすようになる。「まあまあまあ、そこんところなんとかなんないかな」「いや、まあまあまあ、ここはひとつ内密に」とか、なにかとその方が楽チンだからね。実は、ものごとを良いと悪いに分けるには結構、体力がいるものなのだ。人はそのうち、誰かの判断基準に従うようになってしまっている。そうこうしているうちに自分ではなにが本当に良いものか悪いものか分からなくなってくる。で、気がついたら、ふと、とんでもなく悪いことをしでかしてるなんてことが起こったりしてね。

 そういう寝ぼけた価値基準のお風呂みたいな日常の中で彼女の「良い」or「悪い」の基準はメントス一気食いのように目覚しい。というわけで、近頃、いろんなものを「良い」「悪い」で分類している。仕事をどっさり持ってやって来る同僚には「あなたは悪い人だ」。素敵な作品ができたら「良い指がこれを作りました」と自慢する。同姓の同僚は「良い○○くん」と「悪い○○くん」に分ける。分けた二人を「良い方の○○くんに頼んでおいて」と第三者に説明する。とても分かりやすい。物事をきっちりと区別するのはとても気持ちが良い。これは良いことだ。

c0045997_113478.gif まるで王様になった気分である。その日の気分でいろんな人を「悪い人」にして、信じやすい純粋な例の彼女に「あの人は悪い人だから気を付けたほうがいいよ」と忠告してあげる。それから「良い人」を承認した権限で誰かを称えたりすることもできる。でも、時々、「悪い人」が「良い一面」をみせることもある。そうなるとこれは新たな驚きである。どうやら人は時によい人になったり悪い人になったりしながら生きていっているようなのである。

 でも、考えたら、誰も「良い」や「悪い」についてよく考えた人ってなかなかいないんじゃないか。もしかしたら「良い」さんは、本当は「悪い人」なのかもしれないし、「悪い」さんが実は「良い人」だったりするかもしれない。「悪い」さんはみんあの誤解にさらされながら夜の枕を一人濡らしているかもしれない。でも、そんなこと考え出したら夜も眠れないよね。みんな、「良い」を「良い」と思っているから、とても生きやすいのにね。そんなこと考える人は「悪い人」ですよ。そういう時はこういうのです。「まあまあまあ」

追記:
c0045997_16451.jpgこの日記を書いた後、面白いサイトをみつけた。「The Gematriculator」。調べたいサイトのURLを書き込むだけでそのサイトが善か悪かを判断してくれるんだそうだ。なんと便利なシステムなんだろう!どういう仕掛けかは知らないが、人様の体力を浪費せず、この難しい問題に取り組み答えをはじき出してくれるなんて。で、さっそく測定。。。回答は55%悪、45%善。予想通りどちらかといえば悪なのだが、なんとも中途半端だ。サトムネ同様、まあまあまあなサイトだこと。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-01 01:14 | 考える