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言葉と文化
by radiodays_coma13
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ドアマンの奢り
なんとなく昨日の続き

 舞台の仕事をしていた。僕はその仕事を心からとても愛していた。舞台の近くにいれたらそれだけでいいとさえ思っていた。毎日演目の違う舞台の仕事は飽き性の僕にはぴったりだった。ここだけの話、これは内緒なんだけど、舞台は客席で観るより舞台袖で観たほうが何倍も素敵なんです。今しがた拍手喝さいを浴びて帰ってきた演者は、舞台照明が放つ光の粉を身に纏ったみたいにキラキラ光っていてなんだか嫉妬したものでした。

 それに、なんにも舞台のない日にはこっそり、調律の効いたスタンウェイのピアノも弾けるしね。その当時、僕が教えていた学校で、元は音楽学校に通っていた生徒がいた。いろいろあって今は、美容師を目指しているということだった。でも、彼女は音楽学校を辞めた今でもとてもピアノを愛してた。いつも僕の授業を受けながら机をピアノみたいに弾いていた(僕の授業は美術なんだけどね…)。その彼女を舞台の演目がなんにもないある日、こっそり誘ったことがある。

 「調律のぱりっと効いたスタンウェイのピアノ、舞台の上で弾きに来ない?」口説き文句としては最高でしょ?その女の子は学校を休んででもピアノを弾きに来ました。誰もいない真っ暗な舞台の照明を点灯して、僕は、反響板のドアを開け、彼女をステージに上げました。その時、彼女が弾いたシューマンの曲は今でも忘れがたい思い出です。舞台って不思議で、時に、ピアノコンクールの小ちゃな女の子の弾いた曲がプロのピアニストを凌駕したりするんです。その日、その女の子から、お礼のキスをもらいました。

 もしそんな職業があるとしたら、僕は舞台のドアマンになりたいと思う。もしあるとしたら、僕はわりと有能な方だと思う。ステージに招き入れる舞台のドアマンに有能も無能もあるもんかという人はなにもわかっちゃいないね。むしろ、あるコンサートの成功の鍵を握るのは舞台ドアマンの仕事だって思えるくらい。

 自分のリアルな時間を犠牲にして、今か今かと、自分にとってリアルで贅沢な時間を心待ちにする理解ある観客、そして、熟成した音楽を最高にいい精神状態で、封を切られる前のワインのように静かに舞台袖で佇む演者。ドアマンはまさに、観客に一番言い状態でワインを施すソムリエのようなものです。

 コンサート専用ホールには反響版という、重たい木の壁が舞台を囲み、反響板には、演者を招き入れる重たく分厚い木の扉がある。舞台のドアマンは、観客と演者の気持ちが一点に集中したまさにその瞬間、その重たいドアを厳かに開き、演者を、グラスに注ぐかのように、舞台に招き入れる。その一瞬は遅すぎても早すぎてもいけない。

 これは一流のドアマンの驕りだが(なんてね)、ドアマンには扉を開けた瞬間、すでにそのコンサートが成功するか失敗するか分かっている。成功するコンサートの扉は重たい。観客の期待と、演者の気持ちが、両方からドアを押し、まるで、圧力釜のように、恐ろしい圧力がドアに掛かる。演者の緊張の最高潮で放たれる「よしっ!」という掛け声と観客の水を打ったような静けさの交差した点でドアを開門する時の喜びはなににも変えがたい。重たいドアに体重をかけて開くとき、まるで、舞台そのものがシャンパンになったみたいに「ぼっふぁっ」という不思議な破裂音がする。その音は、成功の祝いの音なのだ。すでに演奏の成功は約束されている。

 これは決して、自己満足ではない。なぜなら、どんな演奏家でも成功した演奏が終わった後、一番先に、ドアマンに握手を求めてくる。「ありがとう」と耳打ちしてくれた人もあった。僕は演奏家になりたかった。僕は演奏家にならなかったが、舞台の裏方になることで演奏家の喜びの一部分を共有することができた。それはとても重要な一部分で、皆と一緒に感動を分かち合いたいということ。それは今の自分の仕事のスタンスにもしっかりとつながっていると感じる。
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by radiodays_coma13 | 2005-10-25 00:43 | 音楽について
ピアノがピアノである理由
「お前の日記は長い」と言われた。あと「理屈っぽい」んだって。そうなんだーと思いつつ、まあ、これは性格だからしょうがないとあきらめムード。

ほら、僕はおしゃべりでしょう?毎日毎日、仕事中でも女子高生のようにおしゃべりしたくてうずうずしてるから。黙ってたら、いろんなアイデアで頭がパンパンになって辛くなってしまうんですもの。

ふと、短い日記でも書いてみようかなと思いつく。頭の中にモヤモヤしているアイデアのガス抜きしなくちゃ。

ピアノって響きが好き。うん、この場合、ピアノの音ってことじゃなく。ぴ・あ・の、という言葉の響き。音色はもちろんですけどね、その音色にぴったり。どんな職業に憧れるかって「ピアニスト」でしょう、やっぱり。

楽器の名前って良くできてる。バイオリン、ヴィオラ、トランペット、チェンバロ、ホルン。まるで、楽器の音をそのまま、名前にしたような感じ。その楽器の音色を想像できますよね。

でも、もし、ピアノを作った人が、ガンゴで自己主張の強いおじさんだったら、その人の名前になっていたかもしれない。そして、そのおじさんの名前がゴンザレスさんだったら、ピアノはもしかしたら「ゴンザレス」と呼ばれていたかもしれない。それから、その楽器を弾く人は「ゴンザレスト」。いやだなあ、ゴンザレストにはなりたくないなぁ。

僕はね、楽器の名前は人が選んでるんじゃなくて、本当は楽器が自分の名前を選んでいるんだと思う。ちゃんと自己主張して、自然にそれにあった名前に定着する。楽器にも「たましい」みたいあなものが存在する。

それと同じで、ピアニストやバイオリニスト、楽器を弾く人も、楽器に選ばれてるんじゃないかって気がする。だいたいにおいて、トランペットを吹いてる人ってスタイリッシュでキザなんですよね。いや、褒めてるんですよ。楽器にはそれを奏でる人間性というか、資格があるんじゃないかしらん

僕はピアノに憧れたけど、ピアノには仲良くしてもらえなかった。舞台のお仕事をしている時に、ひとりぽっちの舞台でアイロンしたてのYシャツみたいにぴしっと調律の効いたスタンウェイのピアノをこっそり弾いてみたりした。そこには本物だけにゆるされる、曰く近寄りがたい雰囲気というものがある。「あら、あなたにわたしが乗りこなせるかしら」だって!そんな女性は僕は好きじゃないな。あ、女性の話じゃなくて、楽器の話ね。自分と仲良しの楽器はピアニカ。チープでフェイクでオモチャ。その音色は、悲しいかなやっぱりいろんな意味で自分らしいなぁと思える。なんかしっくりくるのね。

あなたの楽器は何ですか?僕はよく、この人は「チューバ」だなとか「ティンパニー」な人だなとか想像して遊んでます。因みに、僕の友達は管楽器な人が多い。特に傾向として、「ホルン」な人との相性が良いような気がする。

ところで、僕はまだ「シンバル」な人に友達がいません。この人はシンバルのために生まれてきたんだというような、ここぞ!という一番の盛り上がりのときにジャーン!って言って話に決着をつける人。大阪人で言うところの無口な究極のツッコミ人。いや、別に本当にシンバルを叩いてなくてもいいんだけどさ。

もしくは、シンバルにはまだ見出されていないだけで、どこからどうみてもシンバルな人。きっと、シンバル人と僕はすごくいい関係になれると思うんです。普段は無口だけど、僕が困っている、ここぞ!という大切なときに「ジャーン!」って素敵なことを言ってくれる。誰か紹介してくれません?
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by radiodays_coma13 | 2005-10-23 23:21 | 音楽について
時間は歪んでる
 自転車通勤をしている。最初はダイエットのためにと思っていたのだけれど、今は楽しくて仕方ない。会社についてからも朝いちの仕事がはかどる。大変じゃないですかと言われますが、思ってるより大変です。でも、なにより素敵なのは電車通勤よりも早いこと。池袋から溜池山王まで電車を使った場合のドアtoドアの時間は55分。自転車通勤だと40分。さて、ここで不思議に思われるでしょう?思わない?じゃあ、思ってください。これを不思議がらないと話が始まりません。なんで自転車の方が早いのか?それは東京が小さいからです。5キロを自転車通勤可能範囲と設定した場合、例えば、新宿を中心点として半径5キロの円を描くと、なんとすっぽり山の手線が囲めてしまいます。東京は本当に小さいんです。ただ、車の渋滞や網の目のような地下鉄の乗り換えが私たちの頭の中に巨大都市東京の仮想地図を作り上げているだけなんです。すっかり騙されていました。
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 でね、もっと不思議なことがあるんです。自転車通勤の40分間、僕にはどうしても40分だとは思えないのです。少なく見積もっても1時間30分。多いときは2時間くらいに感じられるんです。なぜでしょう。これには当初、かなり首を傾げました。時計を見て、1時間の違いを感じると、まるで、タイムスリップしてしまったような気持ちになります。これをちょっと調べてみました。いいですか、つまり時間は相対的だってこと。びっくりしました?知ってた?じゃあ、知らなかった事にして聴いてください。大人になって一日が早く過ぎるというような感覚になったことありません?子供の頃はもっと一日が長かったって。それと同じ事らしいんです。子供の毎日には初めての事や未知の体験というイベントが多く、大人の毎日はわかりきっていて平坦、すると指標点の多い一日の方が長く感じられる。自転車通勤は発見も多く、知らない道を通る時などまるで大冒険です。会社についた頃には「いや~遊んだ遊んだ」という気分になっています。もし、それが可能だという人は是非とも自転車通勤をオススメします。

 東京は小道や坂が多く、旧と新が混在していて、毎日、通勤していても飽きません。大冒険のことについてははもっときっちり書きたいのですが、それは今度ということにして、今日は「時間」の話。子供の頃、「永遠」という言葉を覚えたての時、その言葉がお気に入りで永遠について毎日考えました。死んだら「永遠」になるという話をきいて、それがどんなものか死んだフリをしたままじっとしてみた。時計の音がゆっくりになってゆくような感覚になり、もしかしたら、これが永遠の入り口なのかもしれないと思いました。「このまま死んだふりをしていたら、永遠に入ってゆくのかもしれん」。それから、休みの日に遊んでいて一日が永遠と思われることがありました。このまま、永遠に夜にならないんじゃないか。遊んでも遊んでも、日が暮れなくて、怖くなったりした。永遠というのは時間が止まることなんだろうと幼い僕は悟ったように思う。

 永遠はとても恐ろしい。それは昔も今も変わらない思い。永遠に夕方のままだと晩御飯が食べられなくなる。永遠に10月のままだと、正月にいとこのよっちゃんに会えなくなる。そんな時は泣きたくなり、どうやったら時間を早く進められるか、止めてある自転車のペダルをグルグル回してみたり。でも、ふと思い当たる。時計ってなに?時間が相対的で個人的なものなら、時計はなにを刻んでいるの?そう、時計はかなりアテにならない。誰の時間なんよ?多分、仮にみんなの時間を決めてみたんだろうね。暦だって世界中にいろいろあるからね。でも、この時計、侮れない。時計のせいで僕は好きなときに食事できない。時計のせいで僕はゆっくり眠れない。みんなみんな時計のせいだ。時計があるから時間がお金になるし、時計があるからみんな急いでいる。世界中の時計を少しづつ狂わせたい欲求に駆られる。

 時には、分も秒も刻まれた点なんてないのに、あのカチカチという音に追い立てられているような気がしてしまう。本当に可哀想なのは、人によって体内に流れている時間は違うのに、同じルールの時間上で働いているということ。これはかなりムゴイ。社会適応能力を疑われている人の中には、きっとこういう時間の違いに苦しんでいる人もおおいに違いない。まあ、僕はどちらかというとセッカチなので、いろんな事が人よりも早いのだけれど、それはそれで、困る事もある。とにかく一日が早い。そんな時、全てが自分時間で自由に動けば、いいのになぁと思う。嫌な仕事2秒、睡眠3秒、お散歩4時間、食事6時間、モノツクリ13時間59分と55秒。そんな風に感じれたらいいのになぁ。いいのになぁ。なんないかなぁ。
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 さて、今日の日記に関連してFLASH作品をお贈りします。「INFINITY」です。永遠の1000分の1のサンプルです。コンセプトは時間を切り出して、活きのいいところを醤油に漬けて食べたら美味しいだろうな、とそういう作品ではありません。でも、時間を切り出してそれを目に見えるようにできないかなぁとちょっと思いました。最近、時間に関する、ある最新の本を読んだ。それによると時間に実体はないんだそうだ。それは純粋に人間の作り出した観念だと。頭の中で、世界を構成するためにつくりだした便利なページ分けみたいなもんなんだって。もしかしたら一生というのは一瞬に起こったことを、それが起こった後で、時間というページの上に配置したもんじゃないかって。ふーん、なんとなく嫌な話だけど、気付かなければいいや。
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by radiodays_coma13 | 2005-10-11 16:07 | 考える
運が悪い奴ほど運がいい
 運というものをまったく信じていない。それはカッコいい人生の指標なんかではなく、なんというか、なりゆきの問題であります。今まで運が悪く、暗い人生だったわけではないんだけど、すばらしくクジ運が悪いのだけは確かだ。なんとなくクジ運が悪いんじゃなくて、ある意味では確率的に素晴らしい悪さであると思う。これは意図的なものを感じずにはおれない。ギャンブルを始め、抽選やクジの類、単なる遊びではなく商品や賞金という利害が絡むと、目覚しく結果が最悪になる。ここまでくると、これは一種の思し召しなんじゃないだろうかと思っている。

 そのおかげで、どちらかというと性格的にはギャンブル好きなのだが、結果が火をみるよりも明らかなので、挑戦する気が起こらない。他にも、例えば何かの真実を賭けて「じゃあ、賭けるか?」なんてよくやるあれ、あるでしょ?でも、あれも僕がやると不思議なことに真実のほうが捻じ曲がっちゃう。

 あと、最近はこんなことがあった。会社の半期に一度のアトラクション。全員でクジを引いて商品を贈与するというもの。社員全員分の商品が用意され、一人一人発表してゆく、どんどんとスカみたいな商品がばらまかれる。どうせ、すぐに当たっちゃうんだろうと鷹をくくっていたら、不思議なことに当たらない。そうこうしているうちに商品のレベルがどんどん吊り上ってゆく。ブランドものの香水やベルトなど。
「まだ、当たってない人、手を挙げて」
もう5人ほどしか残っていない。高鳴る心臓。
「ついに、僕にも運が目覚める時がやってきたか!今までさんざんだったからな、宝くじの一回や二回当たってもおかしくないだろう。社内の小さなクジで運を使うのもなんだけど、悪い気はしない。一番ビックな商品を当てて、みんなの前でなんて挨拶しよう。さあ、来い!」と思っていたら、番号が呼ばれ、てっきり僕だけが残っているのだと思っていたら、後ろから「ハイっ!」って声がした。
「今日、一番、ビックな商品をあてたIさん」とか言われてて
「あれ?あれれ?」なんてやっていると
「全員に商品がいきわたったところでクジ引き終わります」なんて言っている。
「ちょっと、待った。僕はまだ、なんにももらっちゃいませんが」と言うのも恥ずかしいので、挙げかけた手を降ろすもおせっかいなお隣さんが
「ハーイ!まだ里宗くんがなんにももらってませーん!」なんてクラスの学級委員みたいなことを抜かし、いきなり可愛そうないじめられっ子のように立たされ、みんなから笑われるやら哀れまれる始末。
あげくには不憫に思った上司がそこらじゅうのダンボールをあさり「じゃあ、これ」といってカレンダーをくれた。しかし、そのカレンダー、3月の日付に27日が3回も登場するワイルドな誤植付カレンダーでした。

 そんなわけで、僕はまったく運を信じていない。というか宛てにしていない。サイコロは単なる確率に過ぎず、リンゴが気から落ちるのは運じゃなく万有引力。そんなところに大切な創造力は使わないようにしている。競馬である馬が勝つのは確率ではなく努力と状態だと思っている。ちゃんと馬と騎手に綿密な聞き込みをすれば、きっとなにがしの答えは出てくるだろうと思っている。そんなわけで、運を疑う僕は、すべてのものには原因と結末があり、それさえわかれば、どんなものも予測可能だと思っている節がある。株の動向なんて初歩的なもので、僕がアロハで自転車に乗っていて警察に呼び止められるタイミング(ほぼ確実)とか、わからないことはないんです。

 前置きが長くなったが(いつもの話だけど)最近の僕は神がかっている。予測したことがほぼ百発百中ズバリ的中してしまう。僕の人間観察もくるところまできたなという感を隠せない。さて、なにが的中するのかというと、通勤電車で次の駅で降りる人を予測することだ。どうです、スゴイでしょう。これには僕も自分で驚いている。なかなか軟弱なので、普段からいつもどこか空いている席がないかとキョロキョロしいる方だったのだけど、それが功を奏したのか、ムードで次に降りる人がわかるようになった。なにってそれだけなんですけどね。で、ただ、これだけのことが言いたくて、長々と書きました。おしまい。

 でも、最近、電車通勤から自転車通勤に変えたのであまりこの能力も役に立たなくなってしまいました。ちょっと残念な今日この頃。次の日記では自転車通勤について書きたいななんて漠然と思っています。
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by radiodays_coma13 | 2005-10-06 00:30 | 考える