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言葉と文化
by radiodays_coma13
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テクノロジーの発達と巨人文明2
:近代エゴ「我が言葉こそ絶対なり」

 久しぶりに硬い内容。今日の日記は前回のテクノロジーの発達と巨人文明の続きです。そっちを読んでない人は読んでもらえると、多分1.125倍くらい面白くなる。でも、そもそも小難しい風なことは苦手という人は読み飛ばしてもらっても大丈夫。僕には知る由もないので傷つかないもんね。

 「まるちめでぃあ」だなんて最近、よくきくけれど、本当にその意味を理解しているのですか?と聞かれると、「そりゅーしょん」と並んでとても不安になる言葉のベスト3に入るね。メディアがマルチしている?そのマルチ性ってなんだ?今まであるメディアとどこがどう違い、どこらへんがマルチなのか。単体のメディアと違い、マルチになることで、なぜ、識字すらをも凌駕できる言語たりえるのか。ここで、マッキントッシュの概念を構築したアップル社、ビル・アトキンソンの「ハイパーカード」の存在が、マルチメディアを考える上で非常に示唆に富んでいると思う。

 確かにTVは、それまでの識字とは違い映像で情報を受け取ることができた。それは識字とはまったく異なる方法、異なる情報を伝達することが出来る等、いくつかの点で、識字と性質を異にする。しかし、観客は常に受け手であり、自分で同種の情報を配信することが困難である。口承文化の場合、言葉はききとれるけれど喋れないという人は例外を除き存在しない。識字の場合も読むと言うことと書くと言うことはセットになっている。しかし、映像の場合、見ると言うことに特別な技術はいらない。その代わり、その情報を発信するという場合には、限られた人による限られた手続きと技術が必要になる。

 「パイパーカード」はこのことのメディアとしての未熟さ、つまり、メディアの進化の過程を「ユーザーレベル」という言葉で説明する。つまり、メディアには5つの段階が存在する。①見ることは出来ても情報を変更できない「ブラウジング」。②文字を書き込むことが出来る「タイピング」③描画が可能になる「ペインティング」④場の設定やある種の命令を実行する要素を付け足すことの出来る「オーサリング」⑤最後にその場を支配するプログラム自体を変更することが出来る「スクリプティング」。つまり、この5段階の全ての条件を満たして成熟したメディアであるということが出来る。

 これを例にとると、まだまだ、現状はマルチメディアは成熟しているとはがたい。TVにしろインターネット環境にしろブラウジングからは一歩踏み出してはいるが、完全ではない。ただ、時代は確実にマルチメディアへと移行しつつある。それは多くの人がパソコンの中にインストールされたアプリケーションを使いこなし、複雑な情報を発信することを見れば分かる。いや、そんな所をみなくても自由に携帯電話を使いこない、必要な情報を自らで探し出し、アクションを起こし、行動に結びつけ、現実の変化を引き起こす、もっと若い世代の人たちの変化を見ると、それがダイナミックな形で実現されているのが分かる。

 彼らは、写真や映像を自由に取り込み、リアルタイムに言葉のやり取りをする。そこでは顔文字や絵文字などが識字の範囲をはみ出すかのように自由な表現を獲得している。もう、情報は一方的に受け取るだけではなくなったのだ。我々は新たな情報を作り出すことができるようになった。そこで我々は気がつかないうちに、劇的な意識の変化を迎えている。変化と言われてもピンと来ないかもしれない。しかし、我々は誰もが幼い頃、通過したはずの口承から識字への変化を覚えているだろうか?文字が書けるようになったことで迎えた意識の変化を説明する事ができるだろうか?おそらく出来ないだろう。

 識字を獲得した我々に口承時代の意識について語ることは不可能だ。なぜなら、識字を受け入れた段階で、語られる全ての言葉は識字文化の言葉でしかないのだから。我々が口承時代に何を感じ何を体験したかを語るためには口承言語でしかありえない。例えば「愛」という言葉は識字文化によりもたらされた感覚である。それは純粋に抽象的な概念であり、口承段階では理解することはできない言葉である。しかし、一旦「愛」の概念を知ってしまうと、「わからない」ということがわからなくなってしまう。そして、一番の問題は識字から口承へ、人の感覚は不可逆であるということ。一旦、識字を獲たならば我々はもう口から口への豊かな母性的言葉の世界には帰れないのだ。

 同じように、我々は、良かれ悪かれ、片足をマルチメディア言語に踏み入れてしまい、後戻りできない段階に差し掛かっている。しかし、なんの心配もない。「進歩することは良いことだ!」と言うこともできるだろう。すでに、教育の現場では、パソコンのオペレーティングシステムを使った教育が推し進められている。しかし、本当になんの問題もないのだろうか。日本より先に、教師の不足という問題から教育のデジタル化がなされたアメリカでは、生徒の文字離れが深刻な問題になっている。そして、文字離れをした児童には顕著に暴力的傾向が認められるようになる。この問題をすぐに、デジタル化→文字離れ→暴力化と結びつけるのは短絡的過ぎるが、児童の言語形成の段階で児童の精神に深刻な問題が起こっているということは多くの指摘からも無関係ではないということができる。

 我々が口承から識字、識字からマルチメディア言語へと移行するとき、その前段階の言語の確かな土壌を踏み台にして新たな段階に差し掛かる。つまり、豊かな口承体験があってこそ、豊かな識字体験が獲られ、豊かな識字体験があってこそ、豊かなマルチメディア体験ができるのである。しかし、もしその体験がないものに、強制的に識字やマルチメディアを与えた場合、それは子供に銃を持たせるのと同じことだといえる。それらの文化の本当の脅威を知らないまま、彼らは恐るべき道具を手にしてしまう。そして、それが実際の事件に発展した例を挙げろと言われたら、誰しも枚挙に暇がないのではないだろうか。

 口承文化は小さな共同体の社会を形成するために「神話」という共同のルールを必要とした。それらは語り部の口から耳に届けられる範囲の共同体を形成するのには最適であった。そして、識字文化はもっと大きな共同体に伝えるために、声を体から切り離し、文字という形で共同体のルールを書き綴った。知識は文字を読める者が読めないものに読み聞かせるという形で広められた。印刷技術のない初期の書物は独占所有が可能であったため、それら語り部は絶対的権力を持つことができた。彼らは「王」や「司教」と呼ばれた。そして、「物語」はいつしか「法律」へと形を変える。

c0045997_1422311.gif だが、グーテンベルグが印刷技術を広めると、新たな変化が訪れる。知は独占することができなくなった。このころ「マルチン・ルター」を初めとした宗教改革。その反動として、知を独占せんがための抵抗として「焚書」などが盛んに行われた。「我の神は我の中にあり」ここに、近代的な「エゴ」が誕生する。近代的エゴは「我が言葉こそ絶対なり!」を確かなものたらしめんがために、言葉に権力を与えた。そこに経済も生まれる。もはや法律をも凌駕する存在としての「貨幣」が「言葉」として不動の位置についたと言えないだろうか。
(図:グーテンベルグが最初の印刷物の聖書のために制作したブラックレター書体。印刷の特性に合わせてデザインされている)

 絶対的な神は消え去り、すべての物語には著作者のサインが施され、共有物ではなく著作者に帰属する時代。著作権はそこに貨幣を生む。貨幣という絶対的価値の前では、言論も歪められる。いや、むしろ、貨幣の前で前時代の言葉は無力なのだ。物語や法律は、貨幣という価値体系の一部に過ぎない。では、古代的な物語はもはや機能しなくなったのか。さて、現代、貨幣すらが実体のないこの時代において、あらたな変化が起こっている。このマルチメディアの時代における絶対権力者は誰なのか?そして、変化する価値体系を支えるだけの新たな「物語」が必要になってきている。じゃあ、その新たな言葉の形って?
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by radiodays_coma13 | 2005-09-29 01:48 | パフォーマンスの現在
黄色と白は世界平和の旗印
 一口に卵への愛を語れと言われてもこれはなかなかに難しいものがある。誰しもひとつやふたつ自分だけのこだわりの食べ方があり、100人の人がいれば100通りの卵への愛があるのではないだろうか。そして、やっかいなのが、各自が自分の卵への愛こそが真の卵愛だと思っているという点だ。これが国家間ならば、戦争も辞さないという構えである。「美味しんぼ」という漫画で世界卵焼き学会?なるものがあるという話があった。世界各国の人々が集まり、サニーサイドアップ(片面焼き)やターンオーバー(両面焼き)、白身や黄身の具合など、正しい卵の焼き方というのを論議し合うというのである。その真偽は別として、なんとも興をそそられるのであります。かく言う私も卵の食べ方にはかなりうるさい。僕が姑なら嫁が逃げ出すくらいにうるさい。

 ここで、自分の卵愛を披露するのはいかがなものだろうか。誰かに「私の食べ方はこうです」と返信されても、僕は「いや、それは間違っています」というだけの、偏った愛を持ち合わせている。あいにく、食堂でそういった間違った卵かけご飯の食べ方をみるだけで、怒りがこみ上げ、どうしても指摘したくなってしまうほど、僕は心が狭い。食べ物に関してかなり好戦的な人種であるという自負もある。でも、まあ、仕方ない、それは各々の文化なのだ。憲法9条に免じて、目をつぶるしかない。

 しかし、ここは、卵かけご飯の食べ方を例にとって、世界に真の卵愛というのを今一度、明らかにする意味でも、書かなくてはならないだろう。もし、世界中に正しい卵の統一した食べ方が広がるなら、世界から争いごとの半分はなくなるだろう。これは世界平和への大きな一歩となる。美味しく卵が食べられる朝は誰にとっても等しく平和なのだ。テロリストだって、上手に焼きあがった目玉焼きの前では銃を置いてニッコリする。黄色と白は平和の配色だ。日本の国旗だって黄色と白にすればいいのに。
話がそれたが、まず、僕が弁当のない日に通う食堂で見かける卵かけご飯のバリエーションの例をあげる。
・あらかじめ小皿で醤油と卵を混ぜ合わせるか、ご飯茶碗の中で混ぜ合わせるか
・醤油の量、その他調味料、唐辛子、ソース
・卵の混ぜ方、丹念にまぜるか、ざっくり混ぜるか
・黄身だけを食す(これは問題外!)
・海苔のちぎり方、後のせ、先まぜ

 まあ、これらのバリエーションでほとんどの場合の卵かけご飯を説明できるのではないだろうか。この中にはいくつかの例外と変形版がある。卵がメレンゲ状に泡立つまでまぜる人、混ぜた卵かけご飯をレンジでチンして食べるなど意味不明な食べ方を見たことがある。

 さて、正解は、ご飯の上に直接卵を落とし、醤油をひと垂らし、ざっくり混ぜる、が正しい。混ぜる回数と醤油の量は少なければ少ないほど極み。醤油が少なくても、混ぜる回数が少なければ、塩味は十分に感じられる。最良はざっくり混ぜた後に醤油を垂らす。その後は混ぜない。箸で軽く醤油をイナす感じ。混ぜすぎてしまうと、白身の咽喉越しと、黄身の濃厚な味わいが半減してしまう。七味などは使用するべきではない。ソースに至っては蛮行そのものである。海苔はちぎって載せてしまうと海苔自体の香ばしさと触感が失われる。それに、そもそも卵かけご飯においての海苔は必然ではなくて、添え物の一菜に過ぎない。その他、漬物の類である。海苔を卵かけご飯に混ぜてしまうのは、少々下品であると言える。

 このブログでも何度か触れた事のある世界の三国シェフがテレビで卵かけご飯がどんな料理よりも好きだと言って、実家のちゃぶ台に座って、卵かけご飯をしゃぶしゃぶ啜っていた。かなり美味そうに喰らっていた。その三国さんであるが、かなり正解に近い食べ方である。しかし、世界の三国さんには失礼だが、ちと卵とご飯を混ぜすぎているように感じた。皆様も気をつけるように。これも世界平和のためである。

 高校生の頃、父が朝ごはんを作ってくれる事があった。「なにが食べたい?」というので「卵かけごはん」と言って席についたら、すでにご飯と卵が混ぜてあるご飯が出てきたことがある。これには眩暈がした。「こんなのダメじゃないか!」と父と言い合いになってしまった。「第一、ごはんが冷えてる!」と捨て台詞を吐いたら。父は茶碗をわし掴み、今度はそれをレンジでチンしてしまった。僕の前には、もはや卵かけご飯ではなくなった、卵焼きご飯がもうもうと反旗ののろしのような湯気をたてていた。さすがに今、思うと大人気ない。「ごはんが冷えてる!」なんて口答えするべきではなかったのだ。「卵かけご飯は自分でまぜるところまでが肝心なんだよ!」と怒鳴ればよかった。ほんとうに大人気ないね。

 そういう父もかなりの卵愛の持ち主である。いや、彼の場合は卵マニアと言うべきかもしれない。いささか偏っている。ビールジョッキに生卵を10個ほど割りいれ、醤油を一刺しして、それをごくごくと飲み干すのが大好きなのである。普通の人がみたら気分が悪くなるだろう。それはもう、人前には出せない彼と卵とのプレイ、いやレイプとすら言える。彼の場合は純粋に卵の咽喉越しのみを楽しんでいるのである。それは卵にとっては辱めでしかない。陵辱なのだ。黄身は割れることなく、彼の胃袋の中に滑り込んでいってしまう。なむあみだぶつ。

c0045997_215194.jpg 大阪の黒門市場には卵かけご飯だけを食べさせる店が存在する。卵かけご飯のために選び抜かれた米と卵かけご飯のために研究され炊き上げられたご飯、そして、極上の醤油に極上の卵。それのみ。これはなかなかの潔さでありますなあ。それだけで店がやっていけるのかとちょっと心配してしまいますが、やはり巷の卵かけご飯の人気には絶対的なものがあります。それは吉田ふるさと村が出している「おたまはん」という卵かけご飯専用醤油なるものの売り上げを見てもわかる。その吉田ふるさと村が「卵焼き学会」ならぬ「卵かけごはんシンポジウム」なるものをしているらしく、次の機会があれば、ちょっとチャンスを作って参加してみようかなと思っている次第であります。

 さて、卵に関連して作品をひとつ披露したいと思います。今回は趣向を変えて朗読作品をお送りします。パフォーマンス作品は生を観てほしいというのが本音なのですが、リクエストをもらうことも多かったので、調子にのって公開しちゃいます。今後はFLASH作品に加え朗読作品も折をみて発表していこうと思います。んで、今日のは「月光」という作品です。「月光」はベートーベンさんの「月光ソナタ」のことです。あの曲を聴くとなぜか僕は真っ白な卵のことを思い出すのです。卵の悲哀というか、卵の脆さというか、彼自身のメランコリーに涙してしまうわけです。

→→→「月光」←←←
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by radiodays_coma13 | 2005-09-26 02:11 | 食べる事と飲む事
『ROOM』
おひさしぶりです。ええ元気でしたよ。やっと日記が書ける時間が戻ってきました。うずいてました。でも、なぜ書けなかったかというと…。

 10mの崖っぷちからダイブでもするように浴槽に飛び込む。頭までどっぷり湯につかり、ゆっくりと首を出す。放心。あわただしい半年間だった。今日、トドメのイベントが終了し、なんだかやっと息継ぎができたという気持ち。この半年間、呼吸をせずに走り続け、気が付いたら湯船の中。半年間どこに行ってたんだろ、そんな感じ。体の芯から、震えのように疲れが湯の中に解けてゆく。いくら湯船に漬かっても漬かっても、どろどろといろんな色の疲れが噴出してくる。なんだか湯が濁ってゆくような心地がして蛇口から湯を出し続ける。一時間。風呂から上がった頃には体の中がまったくの空っぽに感じられた。明日のためのこまごまとしたしなくちゃならないことをガラガラと脇に押しやり裸のままベッドに倒れこむ。もうなんだっていい。例え、いまゴジラがヤスキ節を踊っても今の僕には興味ない。眠らせろ。

 とても変な夢をみた。猛烈なブリザードが東京を襲う。風速200メートル。その風に直撃したらみんな凍る。東京の丘から眼下を見下ろすと風速200メートルのブリザードがカチコチに凍った人々を吹き上げている。なんだか、楽しそうだ。あれに巻き込まれに行こう。びゅーん。わー楽しいけど寒い。寒いけど楽しい。しかし、寒い。寒い。

 目が覚めると見慣れない高い天井。クーラーが効きすぎている。裸で眠ったんだった。手をのばすといつもはぶつかるはずの壁がない。広いベッド。気持ちのいい朝の日差しが差し込んでいる。ガバっと飛び起きて辺りを見回す。大丈夫、夢じゃない。いや、夢なんだ。引っ越したんだった。夢のマイホーム!参った。ついにやっちゃった。夢のマイホーム、衝動買い35年ローン。でも、そう思った途端、得も言われぬ不安のフリ戻しが震えようによみがえる。風速200メートルのブリザードみたいだ。でも楽しそう…。ほんとうに家なんか買ってよかったんだろか・・・。しーらないっと。僕の友人が言ってくれた。「年相応の生活というのがあるのよ」。そうだよな。年相応。僕はもう若くない。年相応か…。そうやって、少しづつでもハードルを設定しないとなにもしないまま、時間だけが過ぎてゆく。よく知っている。だって、これまで、なにもしなかったから。

 大学生のころ、初めて東京に遊びに来た。遅い東京デビュー。山の手線をぐるーっと一周。その頃は汐留も六本木ヒルズも恵比寿ガーデンもなく、街といえば渋谷、新宿、池袋。その中でも、詩を嗜む、純真なアート青年の心を射抜いたのは池袋であった。NHK芸術劇場でおなじみの池袋芸術劇場。日本で唯一の詩の専門書店「ポエムパロール」、新宿みたいにビビットじゃなく、渋谷みたいに気取っていない。なんかいいな。でも、あこがれるだけの遠くの街でしかなかった。しかし、僕は今、その街をパジャマで自転車に乗ってブイブイ言わせている。

 僕は多分、とてもミーハーだと思う。都会が大好きだ。でも、そんなミーハーな自分も大好きだ。僕は都会の汚いところが嫌いだ。うるさいところが嫌いだ。人が多いところが嫌いだ。夜眠らないところが嫌いだ。人がイライラしてるところが嫌いだ。欲望が渦巻いてるところが嫌いだ。夜明るいところが嫌いだ。でも、そこにいる自分が好きなのだ。なぜだろう。都会にいないと落ち着かない。自分が世界から関係のないところにいる気分がする。僕の友達のアーティストが「アーティストは自然豊かな場所に住むべきだ」と言っていた。でも、僕には無理だ。多分、アーティストじゃないんだろう。田舎に行くと空気が綺麗すぎて窒息死しそうになる。バーガーを嫌悪するドナルドのような存在なのかもしれん。「それでも、僕にはマックしか居場所がないんだよ…」

 この6年間で6度引越しした。その度に都会に近づいている。確かにちょっと疲れるけれど、想像力は刺激される。環境は人を大きく変化させる。いや、もしかしたら、人は自分の力で自分を変えることはできないのかもしれない。自分の思い通りに行動しているというのは思い込みなんだろう。大都会のジャングルでチーターは生きてゆけない。人食い虎だったらなんとかなりそうだけど…。そんな話じゃなくて。そこに住んでいる人や文化はそこの土と水で育っている。笹の葉が獰猛な熊をパンダに変えてしまうのだ。

 部屋だってそう。自分でさまざまなものを配置しているようだが、引越ししてわかった。ちょっと違う。部屋に自分が配置されているという感覚。自分の部屋の枠を超えて、僕はその部屋に存在することができない。部屋は自分の鋳型みたいなもんなんだろう。僕がいなくても、そこには僕の形の空洞がすっぽりと用意されている。しばらく、同じ部屋にいると自分にジャストフィットする部屋が出来上がる。いや、自分も部屋によって形を変えられる。部屋と自分が同化してくる。

 部屋は、その人の頭の中をのままミニチュアで再現したようなものではないかと思う。他人様の家にあがると、不思議な感覚になることがある。それは「文法の違い」という言葉で表現できると思う。ルールが違うと言うか、なんだろう、語られ方が違う。ちょっとした雑貨や、部屋の配色、モノの配置。それらが構成して作り出す、その人の世界、そして世界観。その有り様が自分の認識している世界観と大きく異なる事に混乱してしまう。しばらく、そこにいると、その部屋の存在に自分が取り込まれてゆくような気がする。いつもの自分と考え方が変わり、話す内容が変わってくる。自分の感じ方や表現が、その人にとって適切でないような不安が湧き上がってくる。その人の部屋の中では、自分はその部屋を構成するモノの一部に過ぎないのだ。

 久しぶりに実家に帰ったりすると、昔の自分の部屋が手をつけられずにそのままで置いてあり、そこに入ると、とても妙な感覚に襲われる。そこが自分の部屋であったことが不思議でならないのだ。まずは知らない匂い。置かれているモノや、その配置のされ方に「他人」を感じる。そこで、初めて自分が徐々に変化を重ね、気がつくとまったく異なる存在になっていることを悟る。そこには当時のままの自分の形の空洞がポッカリあいている。そして、現在の自分はその中にジャストフィットしなくなっている。よそ者なのだ。数学的な負の自分は饒舌に何かを語りかけてくるように感じられる。その時の自分は何を考えていたのか、今の僕になにを言わんとしているのか。昔の自分の部屋でゆっくり時間を過ごすのも楽しいものであります。しかし、それ以上に、新しい環境で自分の居場所を作っていく作業はもっと刺激的で自分が生まれ変わるような気持ちがするものですなあ。

さて、今回、日記に関連して、お久しぶりのFLASH作品をお届けします。
「ROOM」です。
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by radiodays_coma13 | 2005-09-23 23:50 | 考える