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言葉と文化
by radiodays_coma13
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ホワイトバンドをほっとけますか?
 ホワイトバンドを買った。(「ほっとけない世界の貧しさ」をキャッチコピーに世界の貧困をなくそうというプロジェクトです。詳細はHPで。http://www.pia.co.jp/whiteband/)2ヶ月ほど前、それに関連するビデオをネットでひらい、単に映像として面白かったので、数人の友人に配布した。いつもは人が転んだり、動物がしゃべったりするようなクダラナイのをバラまいているのだけれど、ま、たまにはこんなものもいいかと思い、気まぐれでバラまいた。先日、その内の一人がホワイトバンドを手に巻いていた。行きがかり上、言いだしっぺの僕がしていないのも変だなということで、ホワイトバンドを購入。収入は寄付にまわされるということだ。これはイイコトなんだからと自分をまんざらでもない気持ちに追い込む。自宅に帰ってそうそう妻にも勧めてみる。いぶかる妻。普段、慈善事業的なイベントに参加などしない僕が、アクセサリーなどしない僕が、なにかおかしいということで、不信がる妻。まあ、仕方ない。悪いのは僕なの。日頃の行いが悪いせいなのね。慣れないことはするものではないのです。

 機嫌が悪くなった妻の横で、僕はこういった慈善について考えてみた。貧困は人災なのだ。では、その貧困は具体的にはどこで作られているのかというと、豊かな国が作り出している。そして、日本もそのひとつなのだ。自らの豊かさを他の国から安くで買っている。その国がもっと貧しい国から、モノを奪ってゆく、そして、ひどく貧困な国ができあがる。その中でも無力な子供が犠牲になる。この連鎖を断ち切るのは、本当にこういったプロジェクトなのだろうか?一番手っ取り早いのは、豊かな国々が、しがみついている豊かさからいっせいに降りればいいだけなのだ。例えば、全地球がニューヨークの人々の豊かさを手に入れるためには地球が20個あっても足りないといわれている。所詮、ありえない豊かさなのだ。日本人はその幻想の豊かさの中にいて、ホワイトバンドのことをいう。これは大きな矛盾である。もし、ホワイトバンドの訴えることが実現したとしたら、我々の前から今の豊かさは消えてなくなる。これは自分の足元をすくうような言動なのである。では、なぜ、ホワイトバンドなのか?少し、怖い考え方をすればホワイトバンドをすることで、自分が犯している現実の罪悪感をぬぐおうとしているのではないか。俺は貧困に加担していないと。

 よく使われる批判がある。原子力を批判する人が、自分はクーラーの効いた部屋でくつろいでいる。これと同じ事が常にこのような慈善事業に諸刃の剣として付きまとう。もし、本当に世界の貧困と戦うのなら、僕は全てを投げ打って、この貧困と戦わなければならないだろう。政治家になるか、世界の大富豪になるか。たかだか300円を世界の豊かな国々の人が購入したとしても、貧困の根源はなくならない。貧困は一時、潤いはするだろう。しかし、それは今だけの話しで、焼け石に水でしかない。なにが、無尽蔵に湧き出すこの貧困を作り出すのか、それは貧困な国々に原因があるのではなく、まさに豊かな我々に原因があるのだとしか言いようがない。だとしたらホワイトバンドは貧困な国々のためではなく、我々に見せ付けるためにあると言えるだろう。現在のままの資本主義社会がある限り、ギラギラした豊かさの幻想はなくならない、その下で色濃い影が出来るのは当然なのだ。痛みを伴わない慈善は偽善でしかないと誰かが言いました。我々は「ほっとけない世界の貧しさ」の前で何が出来るのでしょう?今、世界の富を平均的に分散させ、貧困のない世界が来たとしたら、我々の食卓はちょうど、戦後日本のつつましき食卓に戻ると言います。僕は我慢できると思う。しかし、もし自分の子供が「もっと欲しいよお」と言ったら、もしかしたら、僕はその生活を否定するような気がします…。

c0045997_23562923.jpg しかし、最終的な僕の結論は、自分が社会の現状を知り、そのことで、一人でも多くの人が現状を認識する事につながればそれでいいという事です。こういった運動の意味としては、解決させるというよりも「知らせる」という側面に大きな意味があるのだと思う。そして、じゃあ、「知った」後、我々はどうすればいいの?と言う答えは知ったこちゃあない。ホワイトバンドはその後のビジョンについて何も語っていない。貧困がなくなると何が起こるのか、その前に、貧困をなくす過程で何が起こるのか。それは、それぞれ勝手に想像してくれというのだ。ならば、そこからは、夢想家であるモノツクリの仕事ではないですか。

 で、現実の話、今、僕はホワイトバンドをしているのかと言うと迷っているのです。なんというか、複雑なおじさん心なんである。いい人にみられたくない、でも親切はしたい。だったら、バンドを買って、そのまま家に置いておこうか、でも、それしちゃうと、多くの人に知ってもらうという意味がなくなってしまう。でもでも、多くの人が巻きはじめたら、それはそれでちょっと嫌だな。その時は、僕はもっと前からしてましたよと耳打ちして回ろうか。とりあえず、みんながするまで辛抱してみよう。ああ、でも誰かに「あの人はホワイトバンドなんてしちゃって、イイ人ぶっちゃってさ」なんて思われるだけは許せない。僕は辛抱して付けてるんだよと言ってやりたい。ジロジロみられたら、さも俺は悪い奴だといわんばかりに睨み返してやろうか。ダメだ、そんなことをしたら危ない人だって思われる。こんな時は開き直って偽善者風にしてればいいんだ。ところで、偽善者風ってどんなんだろう、誰彼構わず立っている人に席を譲って回ろうか。それとも、隣のおばあさんの荷物を持って立っていようか。それは開き直りすぎだな。そうだ、一本だから中途半端なんだな。いっそのこと両腕に合計20本くらいホワイトバンドをしてみようか。そしたら「スゴイいい奴」と思ってもらえるかもしれない。いや、たかだか6000円じゃないか、そんなんでスゴイいい奴ぶるなんて、俺はスゴイ悪い奴なのかもしれない。こういうのは痛みを伴わないとダメなんだな。全財産、ホワイトバンドに費やすくらいしないと、スゴイいい奴とは言ってもらえない。そんなことをしたら俺が貧しさで餓死してしまうよ。でも、ホワイトバンドで餓死したら、ニュースになるかもしれない、そしたら「世界に貧困を知らしめた男」として歴史に名を残すかもしれない。うん、いいぞ「ホワイトバンド」が「サトムネバンド」って名前になるかもしれないな。「そこのお嬢さん、これはねサトムネバンドと言いましてね、どうですか一本?」

 どうも、さりげなくホワイトバンドを付ける事ができないので困る。黒く塗りつぶそうかな。そしたら目立たないけど、分かる人はわかるかもしれない。でも、分かる人からしたら黒く塗りつぶしてる俺はものスゴク悪い奴じゃないか、ああああぁぁ。うだうだ言うとりますが、こういうのは、カッコイイからつけるとか、誰か好きな有名人がつけてるからとか、もっと軽い気持ちで、いいんだと思います。いや、むしろ軽い気持ちの方が好ましい。だからこそ、賛同者も多くなる。じゃあ、僕の場合はどうしよう。どうしようかな、ええと、そうだ、Mr.ビーンがしてるからと言うことにしておこう。なんかミラクルじゃないですか。

 とにかく、こんなおっちゃんでも、世界の貧しさのために、ささやかに戦ってるんだなと(戦う場所を間違っているような気もしますが)。決していい人と思われたくてバンドをしてるんじゃないんだと、僕を道すがら見かけたら、心の中でそう思ってください。いや、思いなさい。僕は30代半ば、中肉中背、アロハを着ているどこにでも偏在しているおっちゃんですから。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-26 23:57 | 考える
外食の達人への道
 お気に入りの外食屋をみつけるという事は値千金でございますなぁ。安心して心許せる一軒のお店は、心の砦みたいなもんです。そういうお店が一軒でもあると、なにかいざという時に役立つものです。特別に嬉しい時、またはその反対の特別に辛い時、自分の力だけではどうしようもない、そんな時、そういうお店が一軒あるだけで、背水の陣を乗り切ることが出来ます。でも、そういうお店に矢鱈滅多に出会えるものではありません。それは良き人の出会いと同じようにある種のタイミングと、必然的な運命みたいなものまで感るものです。

 しかし、まあ、私みたいに日本美味いものに出会いたい連合の会長ともなると、そういうのも達人の域に達してきますわな。もうなんといういうか、レーダーみたいなものが始終働いていて、そういうお店がある界隈までくると、なんか胸騒ぎみたいなものに捕らえらるんですわ。なんちゅうか、ソワソワしてくる。それから、良き店の暖簾ちゅうのは「おいでおいで」をしているんです。これがわかるようになったら達人です。

 まずそういうお店の暖簾をくぐるわけですが、最初が肝心です。できるだけ場違いな笑いを浮かべて暖簾をくぐるべきなんです。「あのお、ちょっとお邪魔してもよろしおまっしゃろか」というずうずうしいけれど、勝手がわからないという下卑たニタリ笑いが大切です。そしたら、だいたい良き店ちゅうのは、「まあまあ、遠慮しないでいいですよ」というようなエエ感じな案内をしてくれるものです。ここ!ここで、最大の注意点。だいたいの人が冒しやすい第一の難関がここにあります。八割方の人がこの時に店員の値踏みをしてしまうということです。この時のウェルカムな微笑というのは、入り口でしかありません。店員の愛想がいい店が必ずしも良き店というわけではないのです。

 ここで、まず始めに目をやるべきはお客の顔なのです。厳しいことをいうようですが、お客の顔が悪い店に良き店はありません。店員の顔ではありませんよ。まず、店に入って店員の顔を値踏みしてしまうという過ちは誰もが冒しやすいものです。まったく、ドシロートはこれだから敵いません。別に、美男美女を探せというのではありません。そういうのがたくさんいる店もある人には良き店なのかもしれませんがね…。そうではなくて、この場合、客層やその会話の進み具合、表情の良し悪しです。実は、ほぼこれに尽きます。美味しいものを食べている人の顔というのは本当に美しく豊かな顔をしています。ほっぺたの肉が常に2センチ位上に上がっているのです。そして、会話も弾む。これは絶対。やれ高級だ、やれ噂の店だ、という店に限って、皆、厳かにメシを食っていますが、あれは正直、あんまり美味しく思っていないんです。でも言い出せないで「オホホホホ」で誤魔化しているんです。何を話していいのかわからないでいる。会話が弾まなきゃ嘘です。

 この条件を満たせばまず美味しい店であることには間違いない。ただし、これだけでは、ただの美味しい店で終りです。贔屓の店という訳にはいかない。さて、ここからが、店とのバトルです。蛇の道です。妥協は許されません。会長様直伝の秘伝の技をお教えします。ただし覚悟がなければ実行するべきではありません。まずは、飲み物を頼み、リングの上に立ちます。目を閉じて腕組み静かに飲み物がくるのを待ちます。飲み物を持ってきたら、注文をしないで迷います。忙しい店なら「お決まりになりましたら、お呼び下さい」と言って席を離れるだろう。その時は迷わず、すぐに手を上げて「すいませーん」と小さからず大きからずの声を出し店員を呼びつける。で、もし、30秒以内に店員が来なければ失格!すぐ様、その店を退散しましょう。容赦ナシです。蛇の道です。

 店員が30秒以内に現れたとしても責めの手を弛めません。自分で呼んだにも関わらず再度、注文を迷います。ここで、店員が嫌な顔をしたら退散。ここでの模範解答は「オススメメニュー」を自分から言ってくるです。もし向こうから言ってこなければ「なにかオススメは?」と訊きましょう。もし、解答できなかったら失格。即退散です。自分の店のオススメや人気商品がわからないという店は絶対にたいしたことありません。

 ここまでクリアしても、これしきで店員を信じてはいけません。次にわがままや無理難題を言いましょう。「あれはないのか」「これは何?」「それ本当に美味しいの?」もし、売り切れの商品があれば「じゃあ、そのかわりにもっと良いの持ってきて!」とゴネてみる。これくらいは当たり前です。いい店なら絶対、気持ちのよいディスカッションができるはずです。これはチェックという意味だけではなく、店と自分との距離を縮めるための通過儀礼です。しかし、気をつけて欲しいのは、これをやって良いのはこれまでの関門を越えた良き店だけです。変な店でこれをやると追い出されることがあります…。美味しいだけのつまらない店というのはどこか自惚れていて、こちらがゴネると、気持ちのいいくらい困ってくれます。そんなこと、一店員に言ってもねぇ、とお思いになるかもしれませんが、それは間違いです。良き店を経営してる良き店長というのはきちんと店員を躾けているものです。そうでなければ良き店じゃあありません。自惚れた店、店員の躾が行き届いてない店は絶対にその妥協が味に現れています。どこか心から幸せになれない。

 さて、ここで抜き打ちテスト。振りかえりキョロキョロしましょう。店員の誰かがあなたのこを見ていますか?見ていない?残念でした。惜しかったですね。その店は本当に良き店とは言い難いようです。見ていましたか?何人も?いいですね~。そしたら、その中で一番眼光の鋭い人が店長です。睨み返してしばらく、軽く会釈しましょう。「俺はあんたが店長だってことはわかってるぞ」という感じです。これは、相手の店長に常連と勘違いさせるパイパーテクでもあります。しかし、本当にすごい店は背中に痛いくらい視線を感じます。いつ振りかえっても目が合うというのが正しいあり方ですね。店長さんは全ての人と目を合わせる必殺技を持っていないといけません。店長は大変なんです。

 さて、ここまでくれば安心です。満面の笑みで料理を堪能しましょう。上の条件を満たしたお店なら、細やかな手作業と気配りは必ずやあなたの心の襞ひだまで、くすぐってくれます。その心遣いが深ければ深いほど、その奥まで降りていってそれに気がついた時って涙が出そうになっちゃいますね。下手な言葉で慰めるバーや人情酒場がありますが、こういう店には言葉は要りません。優しさや思いやりといった気持ちが料理という実体になって現れているからです。言葉ではそうそうお腹いっぱいになりませんが、料理はお腹いっぱいになります。わかりやすいでしょ。

 僕は美味しい料理を食べるとだいたい泣いてしまうのですが、いつもそのことで得をします。店長さんが喜んで、いろいろとサービスしてくれるのです。「良いお酒がある」とか「いいのが手に入ったんですよ」とトットキの一品を出してくれる。なので、美味しい時は言葉や体で表現しましょう。きっとお店から可愛がってもらえます。

 さて、前置きが長くなってしまいました(前置きかい!)。昨日、実に素敵な店を見つけました。都心で大きな地震があり、駅で数時間足止めをくらったのですが、仕方ないので、この際、足止めを楽しみましょうと駅を出て、御徒町界隈をフラフラと流していた。で、心ひかれる暖簾に出会い、入ってみたら、これが実によく気配りの行き届いたお店。名前はもちろん教えませんが、魚の干物専門のお店です。「千と千尋の神隠し」に出てくる屋台みたいに、囲炉裏の上に干物が吊るしてあるその演出ですでにノックアウト状態。これに屈せず、お店チェック。難なくクリア。一品目の突き出しは5品のうちからひとつ選ぶという乙な演出。その中から、「ハモの煮凝り」と僕の地元神戸の味「胡桃くぎ煮」。どれもレベル高し!上に振ってあるゴマは今しがた煎って振りかけたという証拠にチリチリ音を立てて、実に食欲を刺激してきます。5品を選ばせる突き出しでこれをやるというのはかなり筋金入りです。昨日食べたメニューの中でも「赤魚のいしる漬け干物」はクラクラするくらい美味かった。皮までパリパリに焼けていて尻尾まで美味しく頂けました。

 ほんと思うのですけど、こういう店って捨てがない。調理も演出もなにもかも行き届いている。畏敬の念すら感じます。例えば、お酒を注いでくれる時に一瞬、溜めがあるんですね。わざと沈黙を作る。そしたら、いやがおにも、酒の注ぎ口に目がいく。それからお客と息を合わせてその酒を大事そうにトクトクと注いでいく。もうそれだけで、その酒のレベルがひとつもふたつも上がったような気がする。これはマジックです。ちょっとした演出で、価値というのは創り出せるものなのだなぁと思わされます。

 で、お会計。再び蛇の道。まず値をきく前に誠にいやらしいけど自分で値踏みしましょう。「なんでも値踏みしてみる」というのは関西の商売人の息子に育った習性かもしれません。いつも頭の中でチャリーンチャリーンという音がしている。でも、これは妥協したらいけない。あくまでも厳しく、常識で考える。そして、本当の会計と比較する。「高かろう美味かろう」なのだ。高いのであれば美味しいと思わせて当たり前。「安かろう美味かろう」が関西人の価値。関西人の場合、会計でその店の真価が問われる。少しでも商品に対して「安い」と思わせたら店の勝ち。その店は、もう天晴れでした。拍手したくなりました。そして、最後に忘れてはいけないのが「ごちそうさまです」。深く頭を下げ感謝の念を伝えます。そうしたら、絶対に店長と思われる人は心のこもった声で「ありがとうございました」とゆっくり言ってくれるはずです。

 で、オマケ。店を出たら店員さんが僕らが角を曲がって見えなくなるまで、店の前に立っていつまでも見送ってくれました。こういうのって本当に気持ちが良いですね。胸がジーンと温かくなります。なんか生活へのモチベーションがすごく上がります。「明日も元気にやっていこう」と思わせてくれます。美味しい料理の本当の実力は食べた後のこの幸せな気持ちにあります。そしてこれはプライスレス。たまには足止めも乙なものです。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-25 00:57 | 食べる事と飲む事
キッチン。仁義なき戦い
 本当に久しぶりにちゃんとした洋食を作って食べた。ここんところ、めっきり和食づいていた。もともと、料理は好きだが、和食なんて自分で作ったことがなかった。自分で作るといえば、もっぱら洋食と決めていた。それには割り切れる理由がある。自分で和食を作っても母の味に追いつけないのが分かっているからだ。何を作っても何かが足りない。同じレシピ、同じ手順、同じ素材で作っても結果は変わらない。母の鍋にはきっとなにか仕掛けでもしているのだ。

 癪なのだ。作っていても、いちいち母の忠告が聞こえてきそうで。本当に料理には口うるさい母なのだ。気を利かせて夕飯をこしらえても、うだうだ文句を言ってくるからかなわない。やれ、昆布を煮すぎだの、大根の角取りしていないだの。おかげでと言うべきか、料理の基本は叩き込まれた。しかし、今でも、母の前で、料理するのはびくびくする。だから、母が手を出さない洋食を専門で作るようにした。そうすれば、母にうだうだ言われなくて済む。住み分けというやつだ。

 それでも、実家を離れてしまうと、そうも言っていられなくなる。人が幼い頃に食べた味というのはその人のベースになってしまうものだと思う。毎日、パンとチーズでも平気だと思っていたが、長期の海外でそれが間違っていることに気が付いた。帰りの飛行機で、行きにはあんなに不味かったニセ寿司が極上の料理に思えた。おそらく、それ以来、観念したように和食一辺倒になった。

 僕は記憶力がちょっと落ち込むくらい悪く、注意力も散漫である。しかし、神様はひとつくらい特徴のある能力をくださるものでありますなぁ。食べ物に関する記憶力だけはズバ抜けていると僕は自分を信じている。一週間前の三食を全て記憶している。それから、料理の周辺にあった風景や環境、その時の気分など、料理を手がかりに思い出すことが出来る。それがどんなに古い記憶でも。これには周りの人もたいてい驚いてくれる。それから、味付けも、一度食べると忘れない。長い間、和食に手を出していなかったが、幸いにも舌が味付けを覚えていてくれる。もしかしたら、これは絶対音感ならぬ、絶対舌感ではなかろうか、というくらい自惚れている。

 しかし、僕はこの能力だけは職業にしないでおこうと決めている。僕にとって唯一の穢れない愉しみなのだから。どんなに機嫌が悪くとも、どんなに疲れていようとも、料理を作り食べることで平常心に戻ることが出来る。これを、職業という行為で汚したくない。これだけは守りたい。すこしナーバスなくらい料理を大切にしている。何故、そんなに過剰なのか、考えた事がある。それは自分がマザコンであることを惜しげもなくバラしてしまうが、自営業で忙しい母と唯一、共にすることが出来る時間は料理をしている時間だけだったことに起因しているのではないか。とにかく物心ついた時からキッチンが一番落ち着いた。

 で、何故、今日、洋食にしたか?それは、今日が金曜日の週末で、僕も、奥さんも仕事でクタクタで、わぁーって走り出してしまいたいくらいストレスを抱えていて、なにか刺激がほしかったからさ。へへへへへ。

c0045997_1381836.jpg今夜のメニュー
・トマトの肉詰め、ブルゴーニュ風
・目板カレイのフェンネルの包み焼き
・とんぶりと大葉の冷製カッペリーニ
・キンと冷えた白ワイン
 最近はマトンが安くで手に入るようになりましたね。トマトの肉詰めは通常、牛というイメージですが、僕はマトンが好きです。マトンとバジルの相性は抜群。タマネギをいためて、マトンのひき肉、岩塩、香辛料たっぷり。それに隠し味でハードチーズ。今日はミモレット18ヶ月熟成。それをゼリー状の中身をくりぬいたトマトにつめつめ。上からパン粉。オーブンで10分。
 鰈は鱗と内臓を取って、塩で下味。肝は大切において置く。フェンネルをたっぷり敷き詰めた上に鰈を置いてその上からもフェンネル。レモンのスライスを上に敷き詰め、さっきのトマトの半分を上からこぼす。もう一度、塩を振る。それをオーブンで15分。たっぷりのフェンネルとレモンが魚を蒸し焼きにしてくれます。それにしてもいい香り。
 とって置きの肝は初めの10分フェンネルと一緒に蒸し焼きにして取り出し、フェンネルと少量のトマトとすり鉢でペースト状に。塩と隠し味でナンプラー、これを焼き上がりの魚のソースに。
 とんぶりがパスタにそれもカッペリーニに合うのは偶然の発見。キャビアのように癖もないのでタップリかけても美味しい。噛む度にぷりっぷり。大葉はハーブとして扱っても、十分に個性を発揮してくれる優れもの。残りのトマトとタップリのオリーブオイル。生にんにくスリスリ。バルサミコ。あとはパスタがうまく茹で上がるのを神に祈るだけ。
 残りのフェンネルはお風呂に浮かべてハーブ風呂。これでお膳立ては揃いました。ふふふふ。へへへへ。頂きまーす。

追伸:妻はたらふく食べた後、あっと言う間に寝てしまいました。僕は今、一人でワインの残りを飲みながら、自慰的文章で自分を慰めています。ぐぐぐぐ…。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-23 01:38 | 食べる事と飲む事
テクノロジーの発達と巨人文明
 20世紀、すさまじいスピードで人間はテクノロジーを発達させてきた。テクノロジーは人に新たな意識変化をもたらした。それはこれまでの道徳をも凌駕してしまうショックを与えた。例えば、クローン技術は、既存の宗教では捉えることのできない問題を含んでいる。それは「神の領域」と言われていた行為なのである。遺伝子技術により、我々は生まれてくる子供を自由に選択することができる。髪の色は?肌の色は?瞳の色は?身体的特徴、身体能力、知能指数、得意分野、性格。つまり「デザイナーズチャイルド」と呼ばれる存在である。親はあらかじめ、生まれる子供をオーダーすることができるのだ。そんなことが倫理上、許されるわけがない。そう思われるだろうか?

c0045997_1828437.jpg しかし、船はそちらの未来へと舵をきっている。我々は出産する以前の段階で子供が発症するであろう疾患をある程度予測できるようになった。もし、その場合、親は産むかどうかを決める事ができる。そんな法律が日本を含め、各国で成立した。産み分けが許可される障害の重度は今のところ心臓病などに定められてはいるが、それもおそらく、今後、範囲を広げてゆくだろう。そして、その延長線上には確実に「デザイナーズチャイルド」がある。それだけではない。遺伝子技術は「身体のスペア」という概念をも作り出した。つまり、自分の体を自由に交換できる時代がくるのだ。
(図:生体組織再生工学によりネズミの背中に人間の耳を生やす。)

 そこで、誰もが生まれ持った身体という在り方がここにきて問い直される事になる。これまで人の身体的特徴はその人の性格にダイレクトに影響を及ぼすと思われてきた。しかし、現在、その身体と自分との必然性がなくなってきているのだ。それは遺伝子技術に限った事象ではない。すべてのテクノロジーは人間の身体を外在化することで発達してきた。そのことは一見、人間の夢見てきた超能力の実現なのかもしれない。例えば携帯電話は我々の新しい耳であり、テレパシーそのものである。車や飛行機は高機能な足や翼であり、テレポーテーション。リモコンはサイコキネシス、どんな大きなものでも、スイッチひとつで動かすことが出来る。ネットという目によりリアルタイムに世界の情報を手に入れることも出来る。ロボットは新しい身体、我々の変わりに働いてくれる。さて、そこで、精神だけが取り残される。「コギトエルゴスム」この考える我々は一体、何者なのだろう?

 今や、テクノロジーなしでは、人間は満足に生活すら出来ない状態にある。いわば、それらは我々人間の身体の一部になってしまった。そのことは一方で人間の身体の輪郭を曖昧にし、まるで、巨人のような状態にしてしまっていると言える。外在化された高機能身体をもった巨人。しかし、それらの身体部位はどれも自由に扱うには大きすぎ、それぞれが独立し過ぎている。我々はまだ、この新しい身体をうまく使いこなすことができていない。なぜなら精神だけは、外在化して進化させることができないからだ。高機能な体を使いこなすべく新しい精神を持ち合わせていないのではないか。我々は新たな身体の危険な一面についても考えなければならない。車やネットの危険性というだけでなく、銃や爆弾などももちろん、我々の身体の延長であると考えられる。進化した身体をあやつる未熟な精神が我々に悲劇をもたらす。このことはどこか、「風の谷のナウシカ」の巨神兵を思い起こさせる。

 最近、よくTVニュースなどで、若者の暴力の原因をゲームやネットで氾濫する過激な映像や、情報のせいにするコメントを耳にする。しかし、そのTVニュースもそれらと同じ情報であり切り離す事はできない。暴力的な情報のみを本当の意味で規制することなどできないのだ。メディアは単なる道具に過ぎない。人を傷つけることもできれば、癒す事もできる。メディア批判は道具批判でしかない。ある殺人事件で人殺しをした包丁を罰するようなものだ。むしろ、新たなメディアは人類が創りだした識字に続く新しい文化の登場であると言えるだろう。メディアは我々の新しい身体が作り出した新しい言語なのだ。

 口承文化において、人は語り部の口から物語を授乳することで、自分の扱い方を学んだ。物語は、自我を精神の深層部分で成長させる効果がある。物語や詩は身体の取扱説明書であったのだ。各文化の物語はその時代、文化における人間の意識のあり方を形作っているといえる。「我々はどう生きるべきなのか」。禁止事項についてはある程度のことを法律が教えてくれるだろう。しかし、法律などという取扱説明書では、悲劇が減少する事などありえない。我々現代人には、この肥大化した身体の有り様を語った物語が決定的に不足している。むしろ、現在、目にする様々な暴力的悲劇は物語の不足に要因があるとするほうが、暴力的描写の有無よりも正確なのではないか。アメリカにおいて、何故、小学生同士の喧嘩に銃がでてくるのか。国家間の争いが何故、人によってではなく核兵器によって均衡を保っているのか。しかし、まず、我々はそのような新しい物語を生み出す前に、もう一度、口承と識字の文化を再考する必要があるだろう。なぜなら、その巨人の体にはまだ、巨人の体を語りつくせる「声帯」が存在しないからだ。

 言語を持たない民族というものは存在しない。口承という文化を経て、人は識字を獲得する。識字を持たない民族は多く存在する。識字により、我々は声を身体から切り離す事ができるようになった。そのことは我々の意識に劇的な変化をもたらした。そして、次なる意識の劇的な変化をもたらす言語の段階に我々は今、片足をかけている。そして、それこそが「巨人の声帯」となるべき新次元の言葉となるだろう。声により人類は現実を指し示すことができるようになった。そして現実世界を作り変える能力を手に入れた。言語を持たない猿と私たち人類とを大きく隔てるのはこの点である。言語を手に入れる事で、我々は本当の意味で類人猿から人になったと言える。そして、新たな段階、文字を発明した人類は、形のない意識に形を与え、この世界にないものを作り出す事ができるようになった。それは、つまり、脳内のイメージが現実に漏れ出した世界。現代社会は高度に脳化した社会と言える。そして、さらに新たな段階がきた。ついに私たちは自らの身体までも切り離す事に成功したのだ。その新たな変化を引き起こしたのが「マルチメディア」である。

(この日記の続きで「マルチメディア」が人類の意識にどのような具体的変化をもたらすのか、そして、それはどのような言語の変化を招き、そこではどのような物語が可能かについて考えてみたいと思います。)
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by radiodays_coma13 | 2005-07-19 18:37 | パフォーマンスの現在
日々之好日とテロルの匂い
 また、同時多発テロだ。世界中がテロルの匂いで満たされている。きな臭い。今度は日本か?そう思うのは心配性だろうか?

 まず、この度、テロで亡くなられた方々に深い哀悼の意を、そして、今もまたなくなり続けている中東の方々にも同じように哀悼の意を!
 
 誤解を承知で言います。自業自得なのだ。これは戦争なんだから。ブレアさんは、テロは許せないと言い放つ。では、殺しますと宣言して殺すのは善なのか?殺し、殺されただけだ。なぜ、テロだけが悪なのか?こういうと僕も危険思想だろうか。中東でも同じように一般の人々、差別なく女性や子供も多くの犠牲者を出している。その数は今回のテロ、そして、前回の同時多発テロの犠牲者を足してもはるかに凌ぐ。それでも、一方的にテロを断罪すべきなのか。

 今世紀はテロの世紀だと誰かが言った。そりゃそうだろう。肥大化した軍事的経済的大国と対等に渡り合う手段としてテロリズムしかないからだ。彼らは彼らなりに有効な手段として彼らのジハードを戦っている。誰が始めに仕掛けたのか?ああ、石油の利権の匂いがするね。本当にきな臭い。火を近づけたらえらい事になりそうだわ。

 戦争はいつも強者が善で弱者は悪になってしまう。ここで、政治的発言は控える。言えば言うほど虚しくなる。右も左も危険視される。お叱りは甘んじて受けます。僕には確固たる思想などありません。でも、思想には右か左しかないのかしら?戦争反対なら左?戦争反対な右はなし?○×街角アンケートじゃないんだから。しかし、現実に起こっているのは理屈の戦争じゃないのだ。

 僕には到底エルサレムの平和を想像することができない。なぜ、僕はここでこんなことを口に出すのだろう?考えなんかまとまってはいない。面白おかしくも分析できない。ただ、世界を満たしている暴力の深さに、めまいがする。「平和」なんて言葉、口に出したくもない!胸糞わるい!大統領じゃあるまいし。

 でも、僕は黙ってられない。自分がなにもできないとわかっていても、あきらめられない。なにもできないとは信じたくない。しかし、こんなんじゃダメだ。怒りや憎しみじゃ。フォースが乱れる。暗黒面にひきづられる。ハハハ…。

 2年前、イタリアからスペインに向かう夜行列車の中でイラク戦争が始まった。列車の中は騒然としていた。イタリアの国歌をわめきちらす女子高生たち、頭を抱える人々。議論しあう酔っ払い。その時、昨夜のローマ国防省前の異様な厳戒体制の理由が明らかになった。そういうことだったのだ。機動隊が道路を封鎖し、私たちに銃を向けたその理由。街にはイラク系の住民たちが目をギラギラさせて興奮状態にあった。我々は車を乗り継いでイラクにたどり着くことが出来る。こことそこは地続きなのだ。戦争がすぐそこで始まっている!

 翌日、それでも、日本人の僕は、バルセロナの街を平和に闊歩していた。しかし、移動中の地下鉄でその出来事が起こる。電車のアナウンスがなにやら声高に乗客に訴えかけている。それを聞いた乗客たちが、一斉に次の駅で降車してしまう。それを追って地上に上がった僕は信じられない光景を目にする。津波のようにメインストリートを行進するデモ隊であった。地下鉄から降りた乗客はその流れに合流してゆく。その数、数万。数キロにもわたる広い通りが、人で、怒りで埋め尽くされている。とにかく怖かった。足がすくんで、僕はその戦争反対のデモ隊に合流するどころではなかった。

 ホテルでは「日本人は帰れ」と忠告された。「今、日本もそれどころではない」と。そうだ、それどころじゃないんだ、日本はこの戦争に参加しているんだ。それどころじゃなくなった僕が急ぎ帰った日本は、それどころだった。「お昼やーすみはウキウキウオッチング」だった。デモもあるにはあった。「戦争はやめてあげましょー」なテンション。屋根の上に登って降りれなくなった猫を助けてくださいと言ってるんじゃないんだよ!叫びたくなった。

 しかし、二~三日も経つと僕にもウキウキウォッチングなお昼が戻ってきた。本当に日本は平和なのか?不安をあおるつもりはない。しかし、「平和」という名の下で、我々はブロイラーの鶏がベルトコンベアの上でクリーンに解体されるため、ふっと足元をすくわれるように死に直行している。生き死にという絶対的な暴力をマスコミは華奢な幻想にしてしまう。これも立派な暴力じゃないか。それならば、不快なほどにわめき散らして、暴力の影に対して警鐘をならすほうがよっぽどいい。

 今、日本が対峙している暴力は、本当は対外的な暴力ではないような気がする。暴力を組織化し美化し、正当化する超合理主義社会のホワイトの深部で、相対してハレーションを起こしている、真っ黒い個人の闇が持つ暴力の存在ではないか。まさに21世紀はゲリラ的暴力の時代。個人vsマスとの暗い戦いの時代。我々はつねにテロルにさらされている。それは対岸の火事じゃない!僕らは明日死んだっておかしくないんだ。コケコッコ!
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by radiodays_coma13 | 2005-07-09 16:02 | 考える
物語の終わりはいつかやってくる
 もうすぐ、セックスアンドザシティを全て観終わる。これで、ながい寝不足の日々ともお別れだ。だが、しかし、最後のエピソードが怖くて見れない、何が怖いって、物語が終わるのが怖い。これで、もう彼女たちとお別れということが辛いのだ。いっその事、最後の話だけ、見ないで済ませようかとも思う。そうすることで、彼女たちとのストーリーは僕の中で生き続けたままになる。そう、彼女たち・と・の・ストーリー。これは、単なる物語ではなく、僕と、彼女たちとのお話なのだ。僕は5人目の親友となって彼女たちのバカ話に長い間、付き合ってきた。(なぜか僕も女友達なのだが…)

 短い期間で物語世界を突き進んできたが、ドラマの中では数年が過ぎた。(シーズン1では、まだ、ワールドトレードセンタービルが立っていた。)みんな歳をとった。そして、僕も歳をとった。いささかくたびれた。しかし、いや、だからこそ、彼女たちとお別れするのが辛い。正直、男性として彼女たちと付き合いたいとは思わない。僕は彼女たちの悪い部分も知りすぎた。いつも彼女たちにイライラさせられた。なにやってんだよ!と説教を食らわせたかった。しかし、それだけにリアルであった。そこには勧善懲悪が存在しなかった。あるのはニューヨークという厳しい現実。つまりニューヨークという大自然に住むメスライオンたちのたくましくもリアルな生活だけがあった。

 小さい頃、ドラマの最終回が嫌いで仕方なかった。映画の終わりも同様。いつも両手で顔を隠し、別れを回避した。お別れが上手く受け入れられなかった。「バイバイ」が苦手だった。バイバイが言えない子供は、おはようも、こんにちはも言えなかった。それは幼い頃に経験した別れの恐怖から来ているのだと思う。しかし、後で決まって夢の中で、回避した別れを再現させられる。夢の中で回避したはずの物語の登場人物たちが僕に手を振って、遠くに行ってしまう夢をよく見た。目が覚めると決まって、泣きはらしていた。

 物語には、根源的な部分で人を癒す効果があるのだと思う。「もし、その物語が生きているのなら」という場合の話だけれど。卑近な例として、僕は見なかった物語の最後を夢の中で補完して、自分にとって重要な物語に変えてしまった。それは「別れの物語」である。僕はそれを何度も繰り返し見ることで、「別れの意味」を体験することが出来た。人には誰も物語を紡ぎ出す能力と言うのが備わっていると僕は思っている。無数にある物語の中でも、ストーリーの型というのは大まかには数通りしかなく、それが世界各地で、変奏され奏でられているだけではないか。

 世界中には、ひとつの話が派生したのではないかと思われる酷似した物語が多く存在する。ギリシャ神話のオルフェウスの黄泉行きの話と、古事記のイザナギ、イザナミの黄泉比良坂の話の酷似。それの変奏と思われる「禁忌行為」の物語たち「鶴の恩返し」や「パンドラ」も同じような性質を持っている。なぜ、それらの物語が人類の歴史と共に語られ続けたのか。ここでその事を真剣に考えると長くなるが。はしょって答えると、物語が根源的で、人の生活に有用だという事ができる。

 その代表的な例としてアフリカ、マサイ族の語り部の語る物語を挙げることができる。それは老女の口によって語られる。老女の周りを少年少女たちが車座で取り囲む。話しは老女の口から語られる言葉の一説一説に合唱のように相槌を入れてながら進んでいく。神話の中ではサバンナの動物たちが登場人物となりいきいきと語られるのであるが、そこでは実に巧みに動物たちの性質が織り込まれている。その物語により少年少女たちはサバンナで動物と共に生きていく事、そして動物の掟をいつのまにか覚えている。彼らは神話を学ぶのではなく、神話を体験する。実にリズミカルに打ち込まれる合いの手が参加意識を助長している。マサイ族は実に見事に自然と共存することができる。彼らは物語を通じて、本能の中に自然を取り込むのだ。
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 意図的に紡がれた物語よりも、より土着的な物語の方が、我々に深い影響を与えることができる。そう考えると、新しい物語など存在しないのではないかと思う。それはただ、時代時代に変奏されているだけである。物語に著名があるというのは現代人だけの特別なエゴのように思う。物語はオリジナルな事に意味があるのではなく、繰り返される事に意義があると思われる。話を戻すが、喩えるなら、「セックスアンドザシティ」は、「サバンナ日記」みたいなものである。ある都市での女性たちの生態なのだ。ニューヨークで生きていくということはどういうことなのかのHOW TO。ひいては、現代の都市で生活していくということ。ドラマが終わっても彼女たちは生き続ける。ニューヨークというある意味グロテスクな街でそれは日々繰り返される。しかし、それはドラマを越えて、現実である。

 良い物語は必ず、現実と地続きになっている。そして、よいファンタジーはなによりもリアルである。さて、現実に目を向けてみると、どうも物語が不足しているように思えてならない。少年の暴力事件を聞く度に、これはTVやゲームの暴力描写が問題なのではなく、物語の不足が原因ではないかと思える。彼らは自分たちが現実で生きるべき物語というか規範をもっていない。つまり、どう生きてよいのかわからないのではないか。悲しいかな現代は社会全体で機能するようなダイナミックなドラマを失っている。物語は個人的なものに成り下がった。そして、そのことは彼らに物語を自分で作る事を強要する。しかし、社会は彼らに夢見ることは教えても物語ることは教えない。そして、体裁だけの安易な物語を手に取り、型どおりの夢をみる。「有名になりたい」「お金持ちになりたい」。彼らは将来を具体的に想像できないのではないか。ありきたりの現実を魅力的に感じる事ができるような日常をささえる物語をもっていないのではないか。

 もし、僕が幸運にも子供を持ち親になるときが来るとしたら、僕は彼らにどんな物語を用意してあげられるだろうか。それは大人たちの責任だ。もし、その時、どんなに悲惨な現実が待っていたとしても、僕は彼らに、物語る力だけは与えてあげたいと思う。悲惨な現実を生き抜くには物語の力が絶対に不可欠だと感じる。それはどんな夢見る力よりも、意味のある能力のように思える。ゲームやTVが一口に悪いとは言わない。しかし、子供から豊かな「なにもない時間」を取り上げる事が子供たちからどんな重要なものを奪っているか、われわれ大人たちは考えるべきじゃないかと思う。おせっかいなTVやゲームは彼らが自分たちで創造することをさせない。遊び道具のない時代。僕は自分でゲームを作った。いろんな遊びを考え出した。紙と鉛筆さえあれば、無限とも思える時間を楽しく過ごすことが出来た。でたらめに走らせた鉛筆の線に地図を見て、そこに物語を創造した。おかげでいつも退屈な少年は退屈をしない少年になった。物語はいつか終わる。しかし、創造力さえあれば、次の物語を語り継ぐことができるのだ。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-07 17:03 | 考える
『Butterfly』
 久しぶりの新作FLASHです。ここ三ヶ月、ものつくりしてなかったわけではありませんよ。どちらかというとステージに立つことの方が多かったのです。そういえば、そのトドメとして、SSWSのグランドチャンピオントーナメントが来る7月15日(金)にあります。それ以降はまだステージに立つ予定などハッキリしたものは入れていないので、今のうちに観たい人はどうぞ。なんて、ちょっと宣伝らしい宣伝をしておきます。

 今回のテーマは「時間」。震災についての日記でも触れたけど、「事故にあう人、あわない人、それらを分けるものはなんなのか」。ということについて考えたコメントが随分と溜まっていた。その中から「震災」というテーマを抜き出して作品にしたのが「A day」やSSWSでも発表した「0199501170546」。そこで、時間や事件の必然性について記録したものだけを抜き出して作品にしたのが今回の「Butterfly」。まずは作品をどうぞ。「Butterfly」
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 一時期「カオス理論」にハマっていた時期がある。その中にバタフライ効果というのがあって、どこかの飛行機が乱気流で墜落するのは、地球の反対側で蝶々のはばたきによるものであるという説だ。それは比喩であり、つまり、ほんの些細な出来事がある出来事を決定付けてしまう。例えば、あなたが今、まばたきするかどうかで、運命は変わってくる。今、さっきしたあなたのくしゃみで、スカンジナビアの少女が身投げしたかもしれないのだ。そんなふうに考えると、我々は、一瞬一瞬無数の選択肢の網の中にガンジガラメになっていることになる。なんだか、居心地の悪い話だ。

 一方にはこんな考え方がある。「神はサイコロを振らない」アイシュタインの有名な言葉だ。しかし、この考えに基づくと、全ての運命はあらかじめ決まっていたことになる。宇宙が出来る寸前の無の中には現在に至るまでの情報が全て詰まっていた。数学にはラプラスの悪魔という悪魔が住んでいる。ラプラスの悪魔はこう言う「全ての運命は計算によって導き出せる」つまり、それによると、僕という人間がこの世に生を受け、どういう性格になり、どういうふうな恋をして、どんなふうにふられて泣いて、どういうひねくれ方をして、どういうふうに死ぬかを、しかるべき計算によって導き出せるということだ。そして、これもこれで居心地の悪い話である。

 まあ、創造主なるものが存在するとして、僕たちの居心地のいいように世界を作ったとはいいがたいけれど・・・。「運命は自分で切り開くもの」という考え方もある。それを科学的に突き詰めていけば「多元的宇宙論」になる。つまり、僕の運命もあれば、あなたの運命もある。そう、世界は別々ってこと。今朝、自転車で転んでびしょびしょになった僕もいれば、そうならなかった僕も存在するというのがこの理論。宇宙はどんどん枝分かれしてゆく。この宇宙には同時にそのような宇宙が存在しており、なにがしかの装置を使えば、そのなにがしかの世界へ移行できるというのだ。それが「タイムマシン」の原理なのらしい。

 でも、ストーップ!じゃあ、世界は一体いくつあるの?人や運命の数だけ世界があり、例えば、あなたが部屋でこっそりオナラをした世界としなかった世界があって、そう遠くないどこかで僕は強制的にあなたがオナラをした世界としなかった世界に別離してしまうことになる。じゃあ、この世界は?って考えると頭が痛くなってくるよね。でも、そうすると、こうも考えられる。「あなたの一挙手一投足が世界を劇的に変えていく」。つまり、あなたが見ている世界は、あなたが作り出している世界。あなたの世界の中で爆弾が落ちたのならそれはあなたのせい。あなたの世界で誰かが爆弾を落とすのをやめたらそれはあなたのおかげ。

 タルコススキー監督の「サクリファイス」という非常に美しい映画がある。ある日、初老の男が、ラジオから世界中に核爆弾が落とされるというニュース速報を聴く。人々はパニックに陥る。そして、この男は全てを失っていいから、この悪夢を覚まさせてくださいと神に祈る。すると、次の瞬間、そのニュースは消える。危機が回避されたのではなく、そういうニュース自体がなかったことになっている。つまり、時間は危機のなかった時へと巻き戻されたのだ。しかし、そのことを知るのはその男一人。誰も、そんなニュースがあったことすら覚えていない。しかし、男は誓い通りに全ての財産を焼き払う。サクリファイスつまり「犠牲」だ。まあ、ネタバレしてしまったが、この映画はネタを知っていたからといってどうなる映画でもない。とにかく一度、観てみて欲しい。おそらく80%の人が心地よい眠りに落ち。あとの20%の人が不思議な涙をこぼすのではないだろうか。

 「ものをつくる責任」について先日書いたばかりだが、人にはただ生きているだけで責任が付きまとう。しかし、それは非常に自由な責任であり、しらんぷりすることだってできる。しかし、責任とは、あなたのなにかしらの行動がなにかしらの結果となってドラスティックに返ってくるという意味だ。それは、悪事を働けば悪意で返されるなんていうチンケな責任じゃない。あなたは自分の生きている世界に責任を持たなければならない。それはまた別の意味でも当てはまる。世界をどのように見るかはあなた次第なのだから。あなたには世界がどのように見えていますか?荒んでいますか?僕には全部ひっくるめて尚まんざらでもありません。違うって?もしかしたら、本当に生きている世界が違っているのかもね。あなたは自分が世界を劇的に変えられるという話を信じますか?

 今、あなた、まばたきしましたね?では、僕はあなたが今、まばたきしなかった世界へ行きます。まばたきした方の世界には、もう一人の僕を置いていきます。では、さようなら。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-04 00:19 | 感覚について
気骨な人々(関わっているイベントについて)
 相変わらずワケがわからず忙しいです。でも、とても充実している。それは、自分のやるべき仕事を実感しているからです。うん、ちょっと違うな。仕事が向こうからやってくる。しかも、その仕事は自分が志したものです。ついに、ある流れの中に入ったという感じでしょうか。そこにはあらかじめ準備された穴が空いていて、そこにポコっとはまり込むような具合に自分がある役割を担っている。もちろん、その仕事とは詩に関わる仕事です。僕がイメージしていたのは、詩を書く仕事ではなく、詩というものの器を作っていく仕事。

 「詩人です」と言って、何度、残念な思いをしてきたことだろう。多くの人がまるで政治的思想を打ち明けたように「へぇ」と極力引きつった顔を隠して、その後はその話題に触れない。万が一にでも詩をたしなむ人に偶々、その質問をぶつけた場合は、秘密結社の仲間同士のように、目配せして「同士よ、これ以上、ここで、その話題は避けよう」という暗黙の了解が成り立つ。それもそれで、気持ちが悪い。つまり、一般社会において、詩にはタブーの匂いが染み付いている。まあ、そこに至るには戦後の詩壇のゴタゴタがおおいに関係あるんだろう。詩は、政治的で、難解で、必要以上にセンチメンタルで、恥ずかしい。でも、僕はそんな詩はでぇ~嫌えだ。・・・僕はね。

 c0045997_1715418.gif「詩人です」と言って恥ずかしくない社会が作りたい。とウエノポエトリカンジャム3の実行委員長の馬野氏が言っていた。こういうことをちゃんと主張できるって素敵だと思う。そういう時期がきたのだ。そして、その言葉は強い力を持つことになると思う。でも、もう一声欲しい。「詩が他のなによりも好きだ」と言ってもらえるようにしたいよね。実際に僕には詩が一番楽しい。詩人が恥ずかしくない社会にしたいと言うからには、詩人は恥ずかしいという前提がある。まるで、人種差別みたいじゃないか。詩人はそんなにも虐げられているのか?とある意味、恐ろしくなる。

 「詩はエンターテイメントじゃない」という人がいる。そして、そうすることは不可能だと。でも、その人はやった結果としてそれを語っているのだろうか?「本当の詩はエンターテイメントにはならない。」もしかしたら、それを言う人は、エンターテイメントになっていない自分の作品が本当の詩だということを言いたいのかもしれないね。因みに音楽にもエンターテイメントじゃない音楽を主張する人たちがいる。こういう方々はどこの業界にも存在するんだね。エンターテイメントかどうかはこの際関係ないと思うのですが・・・。なぜ、区別する?そんなことを一生懸命考えても答えなんか出んだろうに。それはエンターテイメントとは何か?に問題が摩り替わる魔のループだわよ。

 これを書いている時に詩人から電話があった。(うらやましいでしょう。仕事中に詩人から電話がかかってくるなんて、なかなか素敵だと思いません?違う?)思い切って、いろいろ質問してみる。彼曰く、「詩は個人的だから」。彼もまた難しいことを言う。個人的でなかった表現があるというのか。問題は個を突き抜けて時代に繋がるかどうかだ。「時代と出会うアーティストは幸い」とこれは誰が言ったんだっけ?一体、彼らは誰に洗脳されているんだろう。詩は売れないし、その場がないって・・・。そんなことを嘆くより、やることいっぱいあるでしょうがに。だったら、その場を作ればいいじゃないか。見る限りほとんど誰もそういう努力をしていない。おおっ、これはビジネスチャンスだ!とはあんまり思わないけどね。

 でも、中には気骨な詩人も存在する。ウエノポエトリカンジャム3代表の馬野氏もなかなかガンゴで分からず屋で素敵な人物である。彼もまた信じる人である。そして、確実に詩を取り巻く環境を変えていっている。そして、このイベントの最初の発起人でもあり、またSSWSというイベントの立役者でもある、さいとういんこ氏も信じる人。いや、この人は疑わない人。スマート。僕が東京にくる原因を作った人。エライ!そういうふうに見渡してみると、案外、気骨な人々も多い。いや、幸せなことにそういう人たちが集まり何か大きなものを作ろうとしつつあるのだと思う。そして、幸せなことに、自分もその場でお手伝いできている。僕もエライ!よしよし。

 そして、僕が出会った中でも一二を争う気骨の人。それが、現在「リリース・ルーム」というイベントを主宰している安田倫子氏。この人、信念曲げない。曲げようとしたら曲げられる(ボコられる)。この人は、はしゃがない。一番、根っこの部分をがっちりと抑えている。だからブレない。まあ、あんまり人を褒めると気持ちが悪いので、イベントの説明をしましょう。

c0045997_17155951.jpg(※右写真は、イベントパンフの第一校)
 僕がこのイベントに関わることになったのは、僕からのラブコール。「ちょっと手伝わせろよ~」と申し出た。デザインでのバックアップをしています。イベントの内容は詩の合評会。どこにでもあると思うでしょ。でも、違うのよね。いろんな仕掛けがあるんです。細かい説明はイベントのブログが立っているからそちらをどうぞ。初めての人でも参加しやすいような工夫が施されている。女性だからこそできる細かい心遣いがそこにはあるように思う。デザインもそういう仕掛けや細やかさをスマートに表現できるものを提案していきました。(これも仕掛けがいっぱいですよ)それを、ああじゃないこうじゃないと、創っていったという具合。もう、これは本当に楽しい時間でした。


 奇抜なことをすれば、それでいいということではないと思う。「新しい」かどうかは結果ではないのか。本当の意味で幸せな新しさを獲得しているものをみるとそう感じる。「まだまだやれることはある」リリース・ルームというイベントのコンセプトを聴いている時に僕はそう感じた。地道な、誰も取り組まなかったような些細なことの中に、本質的に何か大きな局面の変化をもたらすキッカケが眠っている。それをみつけたら、あとは当たり前だけど、そこにどれだけのマンパワーを注げるかということだと思う。そこには必ず突破口がある。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-01 17:35 | パフォーマンスの現在