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言葉と文化
by radiodays_coma13
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みゅーじっくばとんみゅーたんと
 なんだかたくさんの人からミュージカルバトンというのを渡してもらった。数日間、日記を書けずにいたら、バトンがたまってしまったのだ。ちょっと迷ったけど、変則的な形でお受けすることにする。そもそもミュージカルバトンってなんでしょうね。新手の調査なのかしらん?調べようと思ったけど、ま、いいや。どんなものかは下の質問を見たらお分かりになるだろう。

1.コンピュータに保存してる音楽ファイルの全ボリュームは?
2.今かかってる曲は?
3.最近買ったCDは?
4.よく聴く5曲、または思い入れのある5曲
5.バトンタッチする5人の人たちへリンク

 要はこの質問に答えてくださいとこういう訳です。でも、他の5人にバトンタッチするのでチェーンメールみたいに伝染するのです。もしかしたら、自分の聴いてる曲ってなんとなく誰かに主張したくなるものなのかもしれません。ハイ、そういう私も、そのクチです。しかし、コレ知らずのうちに、誰かの役に立っている仕掛けなのかもしれん。それならそれで、もっと気を利かせてほしい。質問の種類に創造力を感じない。もっとワクワクさせてよね。失礼しちゃうわ。なので、変則的に質問を加えて、ここで突然変異させてやろう。で、「5.バトンタッチする5人の人たちへリンク」は実行しないでおきます。あっかんべー!

1.コンピュータに保存してる音楽ファイルの全ボリュームは?
ありません!コンピュータで音楽はききません!仕事中に音楽はかけません!いつもでっかいヘッドホンかけてるけど、これは防音対策です。これしてると静かに仕事できるんです。悪口も都合の悪いことも、なんにも聞こえない。それに、デザインの仕事しながら、音楽を聴くと、その音楽にデザインが引きずられてしまう。ロックなものを聴くとロックな感じに仕上がったり。これが嫌なので、原則音楽はかけない。デザインの中にも音楽は流れているのです。フォルムと配色に耳を澄ませて仕事してます。(この言葉、カッコいいでしょ。ね、ね)音楽聴くときはボリュームをガンガンに上げて体中に音楽だけを染み込ませます。ながら音楽はしません。仕事場で音楽かける人がいたら迷わず嫌な顔をします。

2.今かかってる曲は?
かかってません!今、「S」の文字を二時間くらいかけて作っています。ホ長調で、そうね、多分、ベートーベンの「英雄」みたいな曲が流れてます。カウンタはどこまで深く入れようか、懐をゆったりともたせつつも、スパインはシッカリと芯の強さを感じさせるものにしようとか。作曲してるような気分です。
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3.最近買ったCDは?
買ってません。最近買ってないですね。CDたくさん持ってるほうだと思うんです。いや、違うかな500枚くらい。少ない?割合は古典クラシック3、民族音楽2、現代クラシック2、邦楽1、洋楽1、その他1ってとこでしょうか。その他の中には落語とか、長唄とか、海外で買った、ただしゃべってる奴とか。あと、幸いにもいろんな人がCDを「これ、聴いてみて」と持ってきてくれます。なので間に合っているという感じでしょうか。

4.よく聴く5曲、または思い入れのある5曲
音楽聴く時、いろんなCDの聴きたい所だけを30秒くらいづつを聴くんです。それを2時間くらい、計50枚近くのCDをつまみ食い。最初に聴きたい曲を頭で鳴らせて、それで、そのCDを探す、あれでもないこれでもないと探しまわって、「あったあった」って30秒くらい聴いたら「ああ、これこれ」って納得しちゃう。かれこれ、こういう音楽の聴き方を10年以上続けている。よく人に鬱陶しがられてます。なので、よく聴く曲というのが思い浮かばない。でも、よく頭に浮かぶ曲というのはある。それを口ずさんでたりする。細部を再現できると非常に気持ちよい。ベースのフレーズとかね。でも、それをよく帰り道でやったりするので、気持ち悪がられている。「デュデュデュデューン、ドドッ、スパーン、シャーン」曲になってないから余計に気持ち悪がられるのではと推測する。

 そもそも音楽ってTPOに合わせて聴くものでしょ?思い入れのある曲って言われても、いついつも頭の中にテーマ曲みたいに同じ曲が流れてたら、それこそ鬱陶しい。質問するんなら「スパゲッティイーを茹でるときに、一番ふさわしい曲は何ですか?」とか「トイレでがんばっている時、いつも頭の中で流れる曲は?」とかそういうのにしてほしい。そしたらがんばって答えちゃう。因みにスパゲッティーを茹でるのにふさわしいのは日曜日の昼はベルディのオペラ「椿姫」から乾杯の歌。平日の夜は「帰れソレント」。トイレでがんばっている時は何故か、ハウンドドックのあの有名な曲のメロディが頭の中に去来する。「♪ああああいがぁぁ~すぅべぇてぃすわぁぁぁあ!」快便快便。

 この間、電車でラベルの「ボレロ」を聴いてたんです。あの曲って同じメロディの繰り返しでしょ。それがだんだんと分厚く、巨大に盛り上がってゆく。15分くらいの曲だったかな。そしたら、その曲に合わせてというか、だんだん、電車に人が乗り込んできて、ぎゅうぎゅうになり、最後の最後のクライマックスで、自分の降りる駅。ぷっしゅうーってドアが開いて、そこにジャーン!ってちょうどシンバルが鳴って、なんだか知らないけど、テンション上がりまくり。もう自分が舞台の主人公みたいな気分で両手を挙げて走りだしたくなった。で、そのままのテンションで会社に到着「おはよーございますー!!」ってはりきって挨拶したら。みんな「はっ?」って顔してた。

 こんなんでどうでしょう?ダメよね。僕にバトンを投げるのが悪い。僕は素直じゃないんですから。さて、あなたの頭の中には今、どんな音楽が鳴っていますか?
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by radiodays_coma13 | 2005-06-30 10:44 | 音楽について
外食の味
 先日、北千住の丸井で「北海道」フェアーというのをやっていた。そういうわけで富山名産「鱒寿司」を購入。関係ないじゃないかと言われそうですが、必然です。なんというか、北海道名産とかいいつつも、なんかセンスの悪いものばっかり並んでたんですよ。ステーキ弁当とかいって、すごいいい匂いさせてるんで覗いてみたら、でっかいステーキがドンとのっていて、「おおっ」ってなるんですけど、おかずがこれまた「焼肉」なんです。「???」でしょ。肉のおかずに肉って!どこで、箸休めたらええねんっ!って叫んだら「肉たらしい弁当でしょ~」なんて営業さんのクダラナイ駄洒落が今にも聞こえてきそうなほどのセンスの悪さです。あと、これまたお下品な刺身てんこ盛り弁当。エトセトラエトセトラ。

 北海道のせいじゃないと思うんです。これは、なんと言うんだろ、デパチカ現象です。とにかく、目を引けばいいんですよ。デパートの地下には美味しいもの珍しいものなら山ほどある。その中で、他の商品よりもちょっとでも目を引くもの、ちょっとでも珍しいものとなってくるのはしょうがないんでしょうね。ま、動機は純粋じゃないですがね。北海道にもきっと、素晴らしい名産はたくさんあると思うんです。でも、いかんせんそういうのって地味なんですよね。なんたらの塩漬けだとか、なんたらの干物だとかね。デパチカって異常な空間ですよね。日本ってどんなに豊かやねん!と突っ込みたくなります。というよりも、ちょっと怖くなってくる。こんなことしてていいのかしらん?って。飢えに苦しんでいる人をデパチカで歩かせたら気がふれるんじゃないかな。

 で、なんで、鱒寿司かというと。一応、北海道を味わおうということで、なんか知らんけどぎょうさん人が並んでる「じゃがいも餅」というを並んで買いましたよ。暖かいうちにと思い、その場でほおばりました。不味いんだなコレが。もしかしたら不味くないのかもしれない。こんなに人が並んでいるんだもの。でもね、味が濃いんです。ジャガイモも餅もわかったもんじゃない。「タレ団子」とか言えばいいのに。なにが北海道だ。ちょっと北海道が嫌いになりそうになったじゃないか。味までインパクトですか?困りましたね。ま、そういうわけで、安心できるお買い物というわけで富山名産「鱒寿司」です。

c0045997_1354797.jpgその夜のおかずは
・鱒寿司
・わさび菜のおひたし
・たこのお刺身、オクラ霙和え
・里芋と鳥肉の田舎汁
でした。

 わさび菜はただ茹でちゃうと、辛味がすっ飛んじゃうんですよね。塩でもんで30分、お湯をかけて、冷まして、それを密閉した容器に入れ冷蔵庫で30分。するとあら不思議、峻烈な辛味がどこからかやってくる。これはきっと辛味を降霊する儀式みたいなものね。わからんけど。
たこのお刺身は、皮をむいて、白いところだけを刺身包丁で極薄に。すると、極上の白身魚みたいなのです。それに辛味大根を摩り下ろしたものと、オクラを和える。あとは良き塩。たこにもあらかじめ塩しておく。以上!旨し!
里芋の田舎汁は、鶏肉、きのこ(このときはブナピーちゃんでした)それから若竹をくつくつして、甘口の荒挽き味噌で仕上げます。旨し!旨し!酒もすすみます。

 落ち着いたのでデパチカ現象の続き。とにかく一様にデパチカの味は濃い!外食も同じ。だいたいにおいて濃い!濃くしたら味をごまかせるということなんでしょうね。それもいいですよ、たまには。刺激的ですから。でもね、現代日本の食生活って半分以上が外食だって聞きました。これは由々しき問題です。ならば、外食店はもう少し薄味にして食べる人の健康も考えて欲しいものです。この間、TVで「奥さんの作る料理に満足していますか?」という質問に世のおじさん方はなんと80%が不満足!ばっきゃろぉー!なにを贅沢なことを言ってるんだい!おそらく、奥さんたちは、旦那さんの体のことを考えて減塩食にしているのだろう。そのことを知りもしないで、なにをぬかすか。

 イエメシの効用は味が薄いことにあると思っている。外の味は少しでも食べる人にインパクトを与えようとしている。つまり媚ている。前にも書いたように五味のうちの安易なものだけを選択しているんですね。食材もそう。偏っている。なので、栄養も偏る。とにかくイエメシが一番なんです。よくTVで料理番組をみるけれど、いつも何かがかけているような気がする。それがわからないでいた。しかし、最近やっとそれに気が付いた。それは番組では、味付けを教えるけれど、料理の楽しさを十分に伝えていないということです。僕なら、自宅セットのキッチンで料理にまつわるドラマ仕立ての番組を作るなぁ。

c0045997_13543598.jpg 昔、ひとつだけ、僕が理想とする料理番組がありました。それは「グラハム・カーの世界の料理ショー」です。サスペンダー、ワイシャツ、ぶっといネクタイ。「う~ん、実に美味しそうなロブスターちゃん」とかワインを飲みながら本当に楽しそうに料理について語り、料理するんです。僕の中では伝説のTV番組です。土曜日の夕方はいつもうっとりしてみてました。おそらく、そのことは僕にかなりの影響を与えているはずです。「料理はかくも楽しい!」
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by radiodays_coma13 | 2005-06-21 14:00 | 食べる事と飲む事
日本のドラマはどこへいった?
 「セックス・アンド・ザ・シティ」というドラマにハマっている。最近、映画やビデオをゆっくり観る時間もなく、その手の話には耳を塞いでいたはずなのだけれど、映画マニアの同僚の魅惑的な映画話にほだされ、お墨付きのあった「セックス・アンド・ザ・シティ」を一度、ためしに観てみることに。それが運の尽きだった。しかも、一本の映画ならまだしも、相手はシーズン6まである連続ドラマ。しばらくは寝不足の日々が続きそうだぁ…。

 ドラマに飢えていたのだと思う。日本のドラマにはロクなのがない。何度も言う。声を大にして言ってもいい。なんならTBSの玄関の前で大声を出してもいい。「日本のドラマはつまらない!」。キムタクとやらのロクでもない日本語を聴いていると神経が逆なでされる。極めつけは、幸い終了はしているが「Mの悲劇」はサ・イ・ア・クだった。

 あれはドラマじゃないね。遊園地の出来の悪いアトラクションみたいなもんです。走りだす前はドキドキする。そういう仕掛けだけは手間をかけてる。けど走り出して間もなくクエスチョンマークと嫌な予感が、チビクロサンボがトラと椰子の木を回るみたいに、頭の周りを回り始める。一体、いつになったら盛り上がるんだろうか。そろそろ、そろそろと何かを信じて耐え続けるが、唐突に終わりはやってくる。「ハイ、ここで終了です」「まさかね。」ニコリと微笑んで気を取り直そうとするが、そのまさかである。強制的にゴール地点に立たされている。

 うちの奥さんなんかは、「Mの悲劇」最終回、さあ、今まで期待させるだけさせておいて、きっと準備されているはずのカタストロフィーを期待して行儀よく観ておりました。しかし、あれよあれよと意味のない、符合やら、新事実のガラクタが積み重なり、いきなりジ・エンド。観客をおいてきぼりにしてドラマの方が勝手にカタストロフィーしてしまった。これじゃ、ドリフのコントである。「だみだこりゃ」と言いたくもなる。妻いわく「なんのために今までみてきたのかしら」。ごもっともです。チラ見していた僕だって憤慨しましたから。

 悲しいけれど、アメリカのドラマの方が本物のエンターテイナーです。さすがショービジネスの国。何が「ビバリーヒルズ高校生白書」やら「アリー・マイラブ」「フレンズ」なんていう長い長いドラマの屋台骨を支えているかと言うと、その時々の社会をきっちり反映して、その問題を取り込んでいると言うこと。僕は「アリー・マイラブ」にもかなりハマったのだが、アリーの場合は主人公が弁護士ということもあり、裁判が主軸となって、代理母や精神病の問題やらがフレーズとして、変奏され随所に登場する。

 「セックス・アンド・ザ・シティ」の場合、主題はズバリ、SEX。しかし、これが普通のシモネタではない。女性達が友人同士でお喋りするような類のシモネタなのである。男性のシモネタはジメジメしているのに対し、女性のシモネタってカラっとしている。その中には女性たちだけが持ちうる、性への真摯さが垣間見える。ドラマはドキュメンタリーをパロディしながら、ひたすら軽快に、しかし、今どきのニューヨーク、そして、現実問題をするどく映し出してゆく。見事である。僕なんかは、自分も女性の仲間に入り、まるで、自分も一端のニューヨーカーセレブになったつもり。見終わったらオネエ言葉になってたり…。

 アメリカの場合は事情が深刻なのかもしれない。社会の複雑な問題をドラマという形で共有し、癒してゆくという本来のドラマが機能しているように思われる。そして、そうしなければならない現状がアメリカにはあるのだろう。アメリカは歴史のない国と言われる。しかし、それが本当の意味で深刻なのは、国民が共有するべき、神話や民話、昔話がないということだ。しかし、彼らは映画を自らの文化にした。ドラマを神話のレベルにまで引き上げる不思議な能力を彼らはもっている。「スターウォーズ」もある意味、神話のない国の神話なのではないか。

 「深刻な社会問題は視聴率がとれないからね」日本のTVプロデューサーが言う。このピーマン頭!これこそ、想像力の欠如と言うべきではないか。それを上質のエンターテナーにするのがモノツクリではないの?面白おかしい仕掛けと人気者を使えば誰だってそれなりのものは作れる。でも、それがどれだけ優れているかは、そのこととはまったく関係がない。それじゃあ、いつまでたってもアメリカドラマに追いつけないよ。どこに行ったニッポンのモノツクリ!?

 近頃、韓国製の過去の日本ドラマを模倣したようなドラマがもてはやされているけど、あれは幼児回帰?それとも、懐古趣味?その幻想の向こうににあるのはバブル以前の日本の姿であるようにしか思えない。我々が失った何かがそこにある。しかし、今は21世紀、バブル以後の世界。いつか現実逃避していられないほどの現実が襲ってくる。そんな時、私たちは日本のドラマで本当にカタルシスを得ることが出来るでしょうか?答え、
「ノー!!!!」

追伸:倉本聰さんの「やさしい時間」は素晴らしかったです。エレガントです。そこには本物の時間がありました。
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by radiodays_coma13 | 2005-06-17 12:52 | 考える
表現することの責任について
 先日、つつがなく終えたPOEM SHOW「A day」であるが、好評をいただき、大阪でもという流れになってきている。幸せなことだ。といっても、舞台探しからなにから大変なことである。結構な大所帯で移動するだけで大変な経費である。(どなたか、よいホールご存知ではありませんか?)

 その中の作品のひとつに阪神大震災を扱ったものがあった。この「A day」は、実は出演者三人共全員、偶然にも兵庫県出身者であった。出会ったのは東京で、同郷だから惹かれあったわけでもない、単なる偶然である。それで、震災について語りましょうというふうになったわけでもない。日々のニュースを題材に詩を制作しましょうという流れから、なぜか、結果的に震災についての詩ということになっていた。三人とも、震災当時別々の場所からそれを体験し、関わった。作品では、その三者三様の視点で震災というニュースを立体的に見せようという試みであった。

 それまで、震災について作品にしたり、語るということはしなかった。意図的にしなかったわけではなく、潜在的に、触らぬ神に祟りなし的な回避であったように思う。笑いにすら出来ないのだから。ともかく、震災について語ろうとすると、その一面だけが肥大化して、事実をひどく歪め、語られなかった一方に大きな闇ができるように感じられた。当時、震災の地で活動をしていなかったわけではない。それなりに、まあ、ほんとうにそれなりに、震災を突っついていた。いや、正確には、被災地にいるだけで、全てが震災的活動の様相を呈してしまうのだ。それは、戦後の日本が、なにもかも「戦後○○」だったことと同じ事だと思う。
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(被災地でのパフォーマンス。
イタイ、いたたた、、、
過去の恥を惜しげもなく披露。
あー、何故か快感。。。)



c0045997_21375.jpg プレハブの建築に壁画を描くだけで、焼け野でパフォーマンスするだけで、それは「震災的活動」とみなされた。その当時は、それはそれで、楽しかった。街のいたるところで復興イベント、アートイベントが行われ、「とにかく盛り上げよう!」というお祭り的ムードが支配していた。しかし、しばらく時間が経つと、アーティスト達は目的を失うというか、その行為に、ある種の必然性が失われたような、虚しさがみえはじめた。いや、作品が変わったのではないと思う。観る目が変わったのだろう。今思うと、結果として、それらの作品の中に震災の深部や本質に触れた作品はひとつも見当たらなかった。ただ、紛らわしたかったというか、その記憶を忘れんがための単なる賑やかしだったのかもしれない、なんてね。




 先日、色々と荷物を整理していたら、ダンボールの中から、震災時の様々な人の証言が録音されたカセットテープや、日記が出てきた。僕は、これを作品にしようと思った。今更、震災についての感想を書いたところで、それは他人事に過ぎないだろう。ならば、当時の人々の証言や、その時の自分の思いを、そのままその断片を未完成のパズルピースのように構成しよう、そうすることで、そこに、見えないはずの全体像が浮かび上がるのではないか。

 新聞のニュースはすべて三人称で語られる。そこには、大きく何かがかけている。そのことを「A day」共演者の村田活彦は「大文字のニュース、小文字のニュース」という表現をした。事件は書き記されることで、書き記されなかったなにかが永遠に零れ落ちてしまう。おそらく、結構な量の日記と取材をしておきながら、私がそれを作品にしなかったのは、書くことの無責任さを回避するためだったのではないか。今はそう思う。私はこれを舞台のテーブルにあげるために、観客に、語られることの背後にも異なる層があり、語らたことは語られなかったことの氷山の一角であると観客に感じさせる演出を考え続けた。結果、スクリーンに、語りとは別の角度のセンテンスを表示し、各センテンスのムードを和音のみで表現したものを、チャンネルを切り替えるように音と映像を切り替えていった。

 我ながら良い出来だったと思う、良い出来というよりも、意義のある作品となった。これまでの制作態度を一歩前に進め、そのことにより、次に作るべき作品群をイメージすることができた。その後、SSWSというイベントのチャンピオントーナメントにおいて、この作品のコンパクトバージョンをぶつけた。パフォーマンスの爆発力で圧倒的な力をみせた「スナックぷあ」というアーティストにこの作品でなんとか勝利することが出来た。おそらく、他の作品であれば、確実に玉砕していただろう。

 モノツクリとして、いつも作ることの責任というのを感じずにはおれない。観客を想像し、発言するのであれば、どのような表現にも責任はついてまわる。何かを問うというのはそういうことだろう。もし、そういう責任を回避するのであれば、それは作品ですらない。作品によって、人の心を動かしたいということはそういうことではないか。もし、社会への問いかけをしたならば、作り手はその問いへの答えを用意しなければならないはずだ。それは社会とのダイアローグといえる。しかし、ネットの氾濫により、発言の責任の感覚がおかしなことになってきていると感じる。絶対的量の情報の中で、なにが垂れ流される情報であるか、そうでないか、作られたものの重みを測る時、僕は、その責任の量でひとつの答えを出せるのではないかと思う。
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by radiodays_coma13 | 2005-06-13 01:44 | パフォーマンスの現在
やりたい仕事ってなんやろか?
 前回に続き。お仕事のお話。僕は現在、携帯電話のコンテンツプロバイダーで、コンテンツの開発を行っている。結構、自由にさせてもらっている。携帯をいじくって遊んで、WEBでゲームをして遊んで、シコシコと「こんな商品どうでっか?」と未知なる商品を提出するというお仕事。正直、携帯電話が得意ではない。TVゲームも、小学校の時から「ファミコン嫌い」の筋金入りである。だからこそ、ここにいると思っている。ま、今日はそんな話ではない。

 僕が今までした仕事で、一番、肌にあっていた仕事は「染色」であった。沖縄の紅型を基礎とした草木染めの工房を学生のときに自分で立ち上げた。沖縄の紅型には大きく三つの流れがある。王朝時代、城間家、知念家、沢岻家という紅型御三家が存在し、それが三つの流派となった。しかし、現在に残るのは城間、知念のみで、沢岻は幻の紅型と言われた。薩摩藩が琉球王国の富を吸い上げようとするなかで、沢岻家はそれに抵抗し、型を土の中に産め、技術が外に漏れないように滅びを選択した。しかし、僕はその沢岻の紅型に心酔していた。

 紅型というのは「糊10年染め20年」と言われるほど厳しい伝統の世界。しかも部外者への門戸は狭い。ならばというので、自分で工房を立ち上げた。その状況下で沢岻家の発掘というのは都合が良かった。城間や知念に見習いをする必要が無かったのである。毎日、野山で草木染めの原料を調達し、博物館へいって、現存する沢岻の染色や古文書とにらめっこしていればよかった。

 沢岻の紅型は宝の山であった。当時でも沢岻家は紛れもない王朝紅型の花形であった。現在の紅型では考えられない技法や独創的なデザインセンスがある。そういった、技法の復活に取り組む試行錯誤の毎日は、今考えても、うらやましいくらい充実していた。

 折りしも時代はバブル。商品は飛ぶように売れ、工房のギャラリーに商品が全くないという状況も多々あった。あげくには未完成の作品を奪取してゆく客まで現れた。いやぁ、バブリーな話です。しかし、いつも話しを聞いてくれていた大学の教授の一言が僕のチャンネルを変えた。「本当に現代に生きる人にとって草木染めの紅型がリアルと言えるだろうか?」答えはノーだ。いや、型の復古もとても意味があるものだとは思う。しかし、その時の僕のチャンネルは切り替わったのだ。

 お金持ちの肥やしにしかなっていない現状。なぜ、当時の沢岻家は滅びを選んだのか。それは沢岻の紅型は王朝のプライドだったのだ。日本が、薩摩が奪うことのできない富であった。そして、僕も、染色を封印する決意をした。今思うと何かが沢岻の紅型とシンクロしたのかもしれない。

 滅びの美。今そこにしかあることが出来ないもの。ただ、それに触れたかったんだと思う。現代ではなく、王朝時代のリアルを追っかけたに過ぎない。ちょうど染色から足をひいた直後にバブルという時代は終わり、工房もつぶれた。商品が全く売れなくなったということだ。装飾品なんかではなく、現代に生きる人の本当の価値を作り出したい。残ることを目的としたものではなく、今ここでしか意味の無いもの。きっとそういうものが本当の輝きを持ちうると思っている。後世に残したいなんて不遜な考えだと思う。それは結果にすぎない。それが、僕が沢岻から本当にもらったメッセージだった。

 僕が言いたかったのは、思い出話ではない。話が長くなってしまった。現在、染色とは全く異なる世界にいる。そして、コンテンツ制作とデザインと詩という全く異なる三つの仕事。しかし、不思議にひとつのことをしている感覚というのが僕の中にはある。仏教においては、どんな雑務も修行として行われるという。仕事の様相は異なれど目的は一緒だというのだ。

今まで様々な仕事をしてきたけれど、その時々の自分に必要なものであったように思う。それらの全体像を遠目にみると、ある意味のあるまとまりが見えてくる。「少林寺」というカンフー映画で主人公が様々な修行を行う房をひとつひとつクリアしてゆくのだが、そういうイメージだ。しかし、結果として、主人公は強さというひとつの真実を得てゆく。
 
 どういう仕事につくかというのを悩む人が多いようです。挙句にニートとか言われちゃう始末。本当にそれは重要なことだろうか。「やりたい仕事」というのをイメージで選んでいるようにしか思えないことが多い。「僕は絵描きになる!」って以前教えていた生徒が最近、電話をかけてきた。「そんな職業ないよ」と言っておいた。それから、「デザイナーって面白そうですよね」なんて言うので、「デザイナーだってサラリーマンです」と回答。最後に「夢なんか信じるな。現実を楽しくする工夫をしたら?」と冷たいことを言って切った。与えられた情況をクリアしていく中で、本当に自分の「やるべき仕事」が見えてくるように僕は思うのだが・・・。
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by radiodays_coma13 | 2005-06-07 18:15 | 考える
ワークかジョブか。日常の不安
 先月の22日に舞台に立った。久しぶりの自主企画だった。忙しさというのは塊になるものですね。この舞台を皮切りになんだかあわただしくなってきた。

 それの告知のために、新宿で行われているスラムイベント、SSWSにエントリー。このイベントは言葉を使ったパフォーマンスなら、お笑い、ラップ、詩の朗読、演劇なんでもあり。5分間のパフォーマンスで勝敗を決め、トーナメントでチャンピオンを決めるという、無差別で、ある意味、暴力的なイベント。そこでラッキーにも2位を獲得。次回、6月3日にチャンピオントーナメントに参加する運びとなった。(興味のある人は観に来てね)。今回は二回目のチャンピオントーナメント。自分で納得のいく勝負ができればそれでいい。でも、優勝すると5万円ももらえちゃう。

 そして、ウエノポエトリカンジャム3。これは、詩のイベントでは日本最大。たくさんの豪華ゲストを向かえ、上野の野音で一日ぶっとおし行われる詩のお祭り。僕が東京に来るキッカケを作ったイベントでもある、そして、幸せにも、今回、僕はその実行委員としてデザインを担当しています。

 まあ、自分の活動でも忙しくなってきたねというお話なんだけれど。なんだか、自分の宣伝ってあまり得意じゃない。なんというか照れくさい。商売上手じゃない。どちらかというと、黙ってシコシコ作っている方が楽しい。だから言葉もはずまない。不便な僕の創造力。。。事務的な匂いがすると途端に枯渇してしまう。

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 「仕事」ってなんだろうね。ジョブとワークの違いって?ジョブは作業。ワークは仕事。ジョブは8時間。ワークは24時間って言うよね。会社でのお仕事はジョブ。でも、そう思うと途端につまらなくなってくる。皆様は仕事楽しんでますか?仕事を楽しめるかどうかで人生は大きく異なるものになると思う。「仕事は我慢。時間を売って金を貰う」なんてことを言う人がいますが、そんな時間観念の話をきくといつもミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出します。

 そして「時間」ってなんだろうね。「時を刻む」というけれど、時は刻まれてなんかいない。耳を澄ましても時の音はしない。2時59分59秒と3時の間に境目なんて存在しない。時計というものの発明は人間の文化そのものを大きく左右してしまった。もはや、地球はひとつの時計みたいなものとも言える。人は時計に管理され刻まれている。しかし、本来、時間は体から切り離すことは出来ない。存在そのものが時間の流れの中にある。

 最近、通勤の地下鉄に乗りながら村上春樹氏の「アンダーグランド」と「約束された場所で」を読破した。これは地下鉄サリン事件の周辺のことを書いたルポである。それを東京メトロで読むというのもなかなか悪趣味であるが、脂汗が出るほどリアリティを感じた。簡単な感想を言うと、被害者の痛みや混乱、そして、加害者側であるオウム信者の痛みや混乱を、なぜか同じ種類の「日常に潜む不安」というものとして体感した。ここで、簡単な断罪の言葉など使いたくない。我々はどちらの存在にもなりうるのだ。この事は本当に注意しなければならないと思う。

 ただ、まっとうに生きていても、気が付くと、とんでもない場所にたどり着く事だってある。一体、誰が脱線事故を起こしたJRの運転士を完全否定できるだろうか。社会の上では誰も似たり寄ったりだ。自分は誰も傷つけていないなんて思うことこそ暴力だ。インタビューではオウム信者がオウムに入るキッカケは誰も同じようなものだった。それは誰もが抱える種類の日常に対する不安というか、違和感である。それに知らんフリをして生活していくことは出来るだろう。しかし、もう一方の結果として、JRの事故のようなものがあるのではないだろうか。実はどちらもよく似ている。

 「自我」というものは本当に厄介だ。人はこの「自我」を歪められたと感じると思いがけない行動にでる。しかし、この「自我」は人が識字を獲得してゆく過程で生まれる文明的な錯覚でしかないのだ。識字によって声は肉体から切り離される。そのことによって、自分は他者となり、あたかもそこに「自分」という超精神的存在を感じてしまう。そのことは人が時間を身体から切り離したことと相対的関係にある。人は時間を自我と同じく絶対的な価値に押し上げてしまっている。そして、ワークはジョブに成り下がった。ワークを切り刻んでジョブにしたのだ。自我の達成感と時間の余剰を作り出すために。しかし、本当に人はそれで豊かになったのか?

 昔の人の仕事に給料は無かった。そして、休みの日も。その日、一日を生きるために、仕事は常にその人とともにあった。仕事と人も切り離すことが出来なかった。仕事は切り離し難くその人そのものの存在理由であったのだ。誰も自我実現で苦しんだりすることもなかった。しかし、工業化こそが、余暇を作り出し、余暇こそが人に日常の不安を与えてしまった。

 現代人は言葉と自分を、時間と自分を、仕事と自分を、そして、社会と自分をも切り離してしまって孤独な不安におののいている。そこで、安楽に生活する方法は、自我を安全と思い込んでいる社会に埋没させるか、宗教に自分を埋没させるかである。戦えば戦うほど不安は色濃くなる。

 しかし、もうひとつ逃げ道がある。いや、抜け道みたいなものかもしれない。社会と共にあるということ。「社会と自分を一体化させる」この言葉を表現者が口にするのをよく見かける。「表現活動は自己表現ではない」というのは僕の考え。切り離してしまったものをもう一度、自分の中に取り込むのだ。それは埋没するのとは似ているようで異なる。自我を追わない。社会を病むのだ。社会で起こっていることを、自分の体の中で起こっている事と感じることが出来るようになると、不思議に得体の知れない不安は消えてしまう。それは古代の人が感じた共同体の意識に近いかもしれないと思う。他人はもう一人の自分の別な現れ方である。自己なんて本来それくらい曖昧なものだ。

 あなたの周りの社会がひどくすさんで見えるのは実はあなた自身がそこに映し出されているかもしれないとしたら?そういう社会での表現とは、切り離されてしまったものたちとの和解、そして新たな関係を築くための行為であると、僕は思っている。
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by radiodays_coma13 | 2005-06-02 16:02 | 感覚について