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言葉と文化
by radiodays_coma13
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アルデンテの神様
 自分の中では大きな仕事をやり終え、久しぶりに心安らかに、そして真剣にパスタを茹でる事ができるような平和な時間がようやく戻ってきた。パスタをうまくアルデンテに茹で上げるというのは、これはもう奇蹟というか、なにかの思し召しのような気持ちすらしてくる。忙しさにかまけて、「今日はちょっとパスタで済ませるか」なんて生半可な気持ちでパスタに接したら、パスタの報復にあうことは間違いない。そういう日は、茹ですぎのパスタのように、上手く物事が噛み合わないグダグダな一日になる。

 なんというか、パスタを茹でるというのはどことなく儀式的な趣さえあるように思う。どんなパスタに茹で上がるかで自分の置かれている状態が分かるということがある。なにを大げさなと言われるかもしれないが、パスタを茹でるというのは一筋縄ではいかない行為なのだ。単に、タイマーを11分にセットして茹でればいいってもんじゃない。どんなパスタに茹で上がるのか科学的な根拠などそこには存在しない。もう迷信でも信じる他ないのだ。そこにはパスタを上手く茹でるためのパスタに対する熱い思いというか気持ちというか、パスタ的な気合が必要であるということだけは確かだ。

 パスタはちょっとした天気の具合やこちらの機嫌で茹で上がりが左右される。すくなくとも僕はそう思っている。前と同じように茹でたのに、どうも何かが足りなかったり、前とは違うのに、心までぴっちぴっちに踊りだしたくなるような、最上の茹で上がりもある。この文章でいわんとすることはつまり、パスタのそのような気まぐれというか、神秘性がパスタを茹でる僕をおかしなことにしてしまったというお話である。

 あるご機嫌な朝、ふとした出来心で、僕はパスタを茹でながらオペラを熱唱し踊っていた。すると、そのパスタは類稀なほどに絶妙な茹で上がりとなった。その日の食卓をともに囲んだ友人は、今でも、その朝のパスタの美味しさについて熱く語ってくれるほどだ。コレハと思い。その次のパスタの日にも試しにオペラを歌ってみた。それがまた絶妙なのだ。話はそれで終ってくれればよかった。オペラの鼻歌を歌いながらパスタを茹でるくらいなんともない。しかし、そういう迷信はエスカレートする。どうやら、踊りも必要らしい。どうやら、茹で上がり前が効果的らしい。どうやら、意表をつかなくてはならないらしい。そのように、パスタを茹でる僕の姿は次第に人に見せられないほどに奇妙なものになっていった。

 断じて、これは作り話ではない。嘘だと思うなら僕の奥さんに聴いてみたらいい。今では、奥さん以外の人前でパスタを茹でることはなくなった。しかし、これだけはいえる、「パスタ踊り」(勝手にそういっている)付きの僕のパスタは、どの店で食べるパスタよりも最高である。これは奥さんも折り紙つきである。きっとイタリア人もうなづくはずだ。これも、僕がパスタの正しい愛し方とパスタの気持ちを理解しているからに他ならないと思う。それが本当に正しいか、イタリアを旅したときに現地の人に聞こうとしたが言葉が伝わらなかった。

 それでも、休日の昼(パスタを茹でるのに最適なのは日曜日の昼である)に、奇声を発しながら平和な気持ちでパスタを茹でているのは悪くないものだ。なんというか、いろいろな重たい心配事が急にカラフルになり、そういった心配事を作り出す不安なムードというのが雲散霧散してゆくように思われるのです。もし、幸運にもこの日記を読んだ人はいちどオペラを歌いながらパスタを茹でてみてください。そうしたら、お湯の中のパスタが狂喜乱舞して喜んでいるように見えてきますから。そうして、その一日、パスタの神様のご加護がきっとありますから。なによりも、アルデンテのパスタはどんな幸運にも変えがたいものです。
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by radiodays_coma13 | 2005-05-25 19:19 | 食べる事と飲む事
不味いを喰らうシベリア探検隊
 いつも美味しいものの話ばかりしているので、今日は不味いものの話。自慢なのだが、「俺様には食べれないものはない!」と常々豪語している。どんなものでも食べ物であれば食べる自信がある。「もし、俺様が食べれないものを見つけてきたら、大した小遣いをやろうじゃないか」と各所で挑戦状を叩きつけているが、まだ、敗北したことはない。しかし、こんな僕でも、不味いと思うものはある。ここで、断っておくが、不味いと食べれないというのは別だ。食べれないというのは食わず嫌いというだけである。しかし、この不味いというのは食べることにおいて重要な要素のように思う。

 まず、昨今の一般的な食生活において、不味いというものが激減しているように思う。これは、実は食が豊かになったということではなく、食の本質的な空洞化ではないかと思う。ある意味で貧しいのではないか。というのは、味覚には五味といわれる5つの要素がある。苦い、甘い、辛い、酸っぱい、塩辛い。ま、これは大まかなもので、実際にはもっと細かく再分化できると思う。で、最近の食生活というものが、この中の、いくつかの要素を不味いということで、食卓から締め出しす傾向にあるのだ。その代表が「苦い」。そして、おそらく苦いに分類される「エグい」「渋い」、あと「くさい」等。それに反して、「甘い」や「油っぽい」が食卓で大きな顔をしている。いろいろなファーストフードを思い出してみて欲しい。そこで、くさいものや渋いものなんて食べられるだろうか。

 よく、魚屋では養殖とか天然と表示されている。皆様はあの味の違いをご存知だろうか。一般には「天然」=美味しいということになっていると思う。しかし、言わせて貰うと。養殖の方が味的には美味しい。何も言わずに食べ比べてもらうと十中八九、誰もが養殖を美味しいと言う。それは、当たり前の話だ。なぜなら、口に合うように美味しく過保護に育てられているからだ。大体において、養殖は油が乗っていて、天然は身が痩せている。肉の場合は顕著だと思う。野生の鹿なんか固くて食えない。しかも、臭い。野菜だってそう。山菜なんて、不味さの宝庫である。まったく洗練されていない。得体のしれないエグ味や異様な刺激が舌に残ったりする。しかし、そういう不味さには飽食に飽きた舌に鉄槌を食らわすだけの威力がある。なんというか味覚がリセットされるのだ。

 そして、不味いといえば、異国の料理。よく人が旅行に行ってきては「スペイン料理が不味かった」だの「アフリカ料理なんて食えたもんじゃなかった」とか言っている。「喝!なにを言っとるか!不味いに決まっているしょうがにー!」と僕はいつも優しく友人に言ってあげることにしている。だいたいにおいて味のコンセプトが違うんだから。分かりやすく言えばルール。バットも持って立ってたら、いきなりボールを持って突進されるようなもんだ。球がストライクゾーンに飛んでくると思うなよ、ってんだ。自分からボールに飛び込んでいかなきゃプレーすらできない。舌が問い直されるのである。だから、和食好きの僕も海外では和食屋に逃げ込んだりしない。

 でも、異国料理なら日本でも体験できると思っている人が多いが。日本で食べる本格的異国料理なんて本当はありえないと僕は思っている。それは、日本人の舌に馴染むように味付けしなおされているのだ。マックだって、国ごとに全く味が異なる。日本で食べるスペイン料理の方が美味しいなんていう人がいるが、あれは養殖を美味しいというのと同じことのように思う。しかし、それはそれで、美味しいと思うし、文化を考える上で非常に面白い。食堂カレーなんて、もはやインド料理ではなくなっている。餡パン等、幸せな出会いを経て日本に帰化した食べ物もたくさんある。

 しかし、そこには不幸な出会いもある。幸せな不味さもあれば、不幸な不味さというのがある。断っておくが食材に不幸はない。それを制作した文化というか、個人の誤解が不幸な不味さというフランケンシュタインを作り出すのである。今まで、僕がもっとも、不味いと思った食べ物は、小さい頃近所にあったパン屋で売られていた「シベリア」という名の化け物パンである。それは、ニッキ風味のバームクーヘンを油であげて真っ白になるまで砂糖をまぶしたもので、中心に餡、その外に鶯羊羹のようなものがコーティングされている。思い出しただけでぞっとする。「お口に入れれば、心はシベリア(は~と)」ってイメージで、そういうネーミングにしたのだろうか。

 そうだ、今書いていて分かったことがある。シベリアとは、そのビジュアルなんだね!外が雪で、その下に緑が眠っていて、地層があり、最後にマグマ。つまりツンドラの大地を再現したんだね。なるほどー!・・・ってなんでやねん!もう、そのネーミングからなにから、やってみました的な空気が丸出しじゃないか。しかも、それはトマウマになっていて、幼少の頃の僕の和菓子嫌いパン嫌いはそこから来ている。不幸だ・・・。しかし、今はその「シベリア」が懐かしい。想像を超えたあの不味さに、もしかしたらあの不毛の大地にも新しい何かが産まれる萌芽が眠っているかもしれないのだなぁ、少なくとも食について深く考えるキッカケにはなると今更ながらに思う、昨今である。しかし、困難な旅になるだろう。
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by radiodays_coma13 | 2005-05-19 13:33 | 食べる事と飲む事
言葉の大事 心の大事
 言葉というのは本当に大事なものだ。何を今更な話であるが、言葉と向き合えば向き合うほどにそう思う。なんだか型通りな始まり方であるが、今日はその言葉の型についてのお話。

 これまで、それなりに言葉に対して向かい合ってきたと自分では思う。でも、日常において、自分は口が上手くなったなとか、その技術が仕事で活かされたと思うことはあまりない。今まで、言葉で人を傷つけてきた経験の方が多い。そんな時、決まって彼、彼女から言われる殺し文句は「言葉を使う人のクセに」。これを言われたら、もう僕は何も言えなくなる。一体、なんのために言葉と向きあっているのだ?と深く落ち込んでしまう。

 このことを書こうと思ったのはJR西日本の社長が国会答弁をしているのをきいたからである。先に断っておくが、僕はJRをここで感情的に非難するつもりはない。というよりもこんな重たい内容は避けて通りたい。でも、今回は言葉の事に関してだけ、言わせてもらいたいことがある。いや、感じたことを言いたい。

 JRの社長さんは高揚した議員の「家族に対してどう思うんですか?」という質問に対し、下にあるテキストに目を落として、理路整然と「遺憾であり痛恨の極みです」と語った。痛恨の極み?考えてみて欲しい、誰かに対して面とう向かって誤る時に落ち着き払って「痛恨の極みです」とか「遺憾です」なんて言葉使うだろうか。「すいません部長、大切なデータをどこかに置き忘れ、どうやらネットに流出してしまったようです。誠に遺憾であり、痛恨の極みです」僕ならぶっとばすね。例えば、「松坂、痛恨の一打を浴びました」と、野球用語として使われるほうがまだしも実体を感じられる。怒りというのではない、どうも不適切な気がしてならない。

 おそらく、あの場合、我々、ここであえて我々という視点を取らせてもらうと、我々がききたかったのは会社全体としての謝罪を超えた、個人の謝罪ではなかったか。「遺憾です」「痛恨です」は会社を代表するものとしての謝罪であり、なんら自分自身も家族を抱える者としての言葉ではなかったはずだ。彼自身の言葉ではないのだ。議員の「家族をなくされたご家族」という問いかけに対しては答えていないのである。

 もし、あの場で彼が自分の家族に思いを馳せて、出来事を自分の中に落とし込んでから答えたのであれば、「痛恨の極み」なんて言葉が出てくるだろうか?いや、いいでしょう、百歩譲って、千歩譲っていいとしましょう、でも、あの手元のテキストの意味がわからん。もし、あの場にいることを許されたのなら、乱入してテキストをビリビリに破いてやりたかった。「せめて一度、自分の言葉で答えろ」と。

 例え彼が自分の言葉で謝罪したとしても、なにも解決しないが、痛みを共感することは怒りの糸口をつかむ第一歩のように思える。しかし、彼は回避するのである。すべてをテキストに任せてしまった。そこに彼がいなくてもなんら変りはない。文書での解答と何が違ったのか。

 こういう話を聞いた。あの電車の一両目に乗っていた人が、その後、窓口であの電車で乗っていた運賃を請求されたというのだ。あの、死の列車の運賃を…。「そういう規則になっていますから」。出た!またテキスト言葉だ。その職員はその人の状況を察することは出来なかったのだろうか。なぜ、「そうですか、それは本当に、申し訳ありませんでした」くらい言えなかったんだろう。

 それは彼の所属する会社の体質のようなものなんだろう。心中お察しします。なにも彼らの会社だけに限ったことではない。うちの会社だって電車は脱線させなくても、企画はしょっちゅう脱線させている。人を危めないだけだ。いや、どこかで危めているかもしれない。50歩100歩なのかもしれない。

 話を一番最初に戻す。なぜ、僕自身、言葉と向き合おうとするのか。それは、本当にリアルな言葉がみたいからだ。あまりにも、リアルな言葉が減ってきていると思うから。仕事で、企画書をおためごかしな言葉でうめ尽しいると本当に自分が荒んでくる。こんなことのために、自分は言葉を覚えたんじゃないと。もしかしたら、詩を書くことは、そう云うものに対するバランスをとる為なのかもしれない。(だから!と云うイイ訳をしちゃうが、僕は企画書が下手糞だ。企画書のために言葉のレトリックを使いたくなんかない。それをしてしまうと、自分の詩が枯れるという恐怖に襲われる。ハイ、イイ訳おしまい。)

 今こそー、詩が必要だー!なんて熱いことは言わない。詩や音楽、絵やダンスだって、型で作ろうと思えば、できちゃうのだ。詩=心がこもっているなんて嘘。器用に型を使えば、美しい旋律や詩を作るのは誰にも難しくない。なぜ、あのJRの社長の謝罪がグッとこないか、それは紋切り型だから。でも、どんな芸術にだって、紋切り型はある。型との付き合い方なんて言い出したらまたキリがなくなる。でも、もし、人の心を動かしうるものがあるとしたら、型の向こうにあると思う。…リアル。…難しいね。こねくりまわしたらいいってもんでもない。社長さんに、一晩かけて原稿用紙10枚分にオリジナルな謝罪文を作られてもうそ臭い。案外「悲しいです」という一言の中に何かを込められたかもしれないじゃないか。
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by radiodays_coma13 | 2005-05-13 23:20 | 言葉について
東京の味 エスプリの味
 こてこての大阪人としてチャキチャキの関東人の食べ物は不味いと決め付けていたのは確かです。ごめんなさい。ここに、それが間違っていたことを今更お詫びします。いや、正直、平均的な食べ物のレベルは高いんじゃないでしょうか。

 では、なぜ、このような誤った先入観が植え付けられたのか。それは実は先入観ではなく、実体験でした。電車好きの友人にさらわれて初めて東京に降り立った小学生の時、駅で食べたうどんの不味さに驚愕したのです。それは水深1㎝あたりで視界0になる恐るべき「醤油汁」でした。それは出汁文化に育った者としては信じがたい食べ物であったのです。いや、大阪の人の半数以上が東京の食の貧しさを主張しますよ。実際。

 でも、考えてみれば、東京はおそらく日本中のどんな食べ物だって食すことができる街なのです。いや、世界中の食べ物がこんなに集まっているのは東京だけじゃないでしょうか。では、そんな中にあって、東京の味ってなに?おそらく、僕が食べた駅ソバは東京の味ではなく、あれは東京より北の味だということが今になって分かってきました。とにかく、北の国の人々の食生活は塩が濃いと言われています。厳しい冬の国で発達した保存食のせいでしょう。で、駅ソバです。あれは、東京に上京してくる東北の人々のためのホームシックな味なのではないかというのが僕の勝手な推理です。

 そして、蕎麦と寿司に関して、東京は大阪の比ではなく素晴らしいというのが、「私のお兄さんは私よりも年上です」というくらい当たり前の事実です。東京の蕎麦が不味いワケがない。とにかく人間の舌とは悲しいもので、一度、本物を食べてしまうと、もう前のものを受け付けなくなる。じゃあ、今までの蕎麦や寿司はなんだったんだ!本当に美味しい蕎麦や寿司を食べた後では、もうそれは寿司でもなければ蕎麦でもないなにかです。英語訛りの「スッシィー」や「麺類」に過ぎないのです。

 100円スシの「スシロー」や食堂のソバで満足していた私はなんだったんでしょう。東京に来て「100円スシのおすしのマーチ」で「やっぱり東京のスシはレベルが違うね」とかシミジミ言っていた自分が懐かしい。ええ、大阪に対して「俺よりいい男はいないなんて、騙したわね、わたしの時間を返してっ!」と騙されてヒステリーな女性のように怒っとります。

 最近はもっぱら、外食といえば、お寿司かお蕎麦です。お店はちゃんとしたところに行きます。お蕎麦だって、結構、バカにならない出費です。まあ月に数度の贅沢です。今更、回転すしには戻れません。お寿司やお蕎麦の何が美味しいって文化の味です。「ただ、味覚的に美味しけりゃいいってもんじゃありません。作る側にも特別な思い入れが必要ですが食べる側にもそれなりの心構えが必要です」と、僕にお蕎麦とお寿司を教えてくれた人が言っていました。

 僕の寿司蕎麦の先生はザッツお江戸なお方で、一度デザインの仕事で関わった、もう本当にチャキチャキ江戸っ子、粋な遊び人という風情の人です。興に乗ると、その場で落語や歌舞伎を披露してくれます。で、その人から、お蕎麦のHPをリニューアルするから手伝って欲しいってんで、一度、本物のお蕎麦を食べに連れて行ってあげましょうと、そういうことになったのです。

 ですが、僕はこの時点で蕎麦に対してズブの素人、「なにを蕎麦ごときでうだうだ言うてるんや、ちゃっちゃと仕事ふらんかい!」とわめき散らしました。しかし、その直後、僕はカルチャーショックのイカズチに打たれることになります。とにかく、蕎麦を食べさせてくれないのです。卵焼きや焼き味噌、鴨のたたきなんかがでてくるけれど、いっこうに蕎麦を頼む気配はない。メニューをちらりと覗き見ると、蕎麦一盛りが1200円。ええっーと何度も見直したくらいです。蕎麦の中に何が入ってるのん?と大阪のおばはんみたいに訊いてみたくなりました。

 でー、そのままお酒も進み、まあ、蕎麦が高いから、お酒だけ呑んで帰る算段だろうと思って腹をくくっていた。そしたら、そのお方、急に無口になり、掌をパチンと打ったかと思うと、店員さんを呼びつけ、小声で「ふた盛り」。さっきまで、あんなに饒舌だったのに、蕎麦を注文して出てきて食べ終わるまで一切話しかけてくれない。で、僕が食べ終わったとたん「さあ、サトムネさん、帰ってください」だって。「ええっー」と渋っていると「蕎麦食って長居するよう野暮なことをしちゃあいけませんよ、さあ、とっとっとお帰りなさい」と来たもんです。

 つまりこれが蕎麦なんですね。通人いわく蕎麦や寿司はさっと食べてさっと帰るのが流儀だと。そして、もっと上級者になると、店にいって寿司や蕎麦を頼まない。なんかこちょこちょと他のものをつまんでいる。で、いつ頼むのか店の大将が心配するくらいじゃないといけないんだって。本当は早く食べたいのに?そう、江戸の粋とは痩せ我慢の文化なんだそうです。スゴイ人になると、本丸を攻めないで帰ちゃう。「おおぃ~い」って職人さんがツッコミたくなるようなのが達人。そうなると、職人さんも負けを認めるんだとか?今度こそ、本丸を攻めさせてやろう、とこうなるわけだ。まあ、なんかややこしいけど、いいじゃないでしょうか。なんかオモシロイし。

 「粋」これ、説明するのなかなか難しいよね。大阪にはないね。東京に来て初めて「粋」が分かった。フランス語で言えば「エスプリ」に相当するだろうか。東京大阪のこのへんのことはオモシロイのでまた次の機会に話を譲るとして。蕎麦のエスプリが本当なのか、他の店でも検証してみた。そしたら、やっぱりはじめに酒や板わさと蕎麦を一緒に頼んでも、なかなか蕎麦だけは出してくれない。向こうもコチラもじっと我慢の静寂が小一時間続く、そろそろと思って振り合えると、大将の目が背中に張り付いていてコクリと一度頷いて、ようやく蕎麦を出してきてくれました。

 蕎麦も寿司も客と板前の真剣勝負って感じで大好きです。心が引き締まります。もうスッカリ虜です。僕も、こてこて関西人から、最近、ややチャキチャキが混じって、ちゃっこりちゃっこりな、いい感じになってきてます。ところで、寿司はやっぱりカウンターに限るよね。



(最近、日記がとびとびですが実は「A day」というイベントのブログの方に日記をアップしています。イベントまでの間はこんな感じです。興味のある方はそちらも是非どうぞ。)
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by radiodays_coma13 | 2005-05-11 16:58 | 食べる事と飲む事
食べ物の好き嫌いを言う奴は食ってやる!
 最近、ひとつだけ必ず観ているTV番組がある。「世界一受けたい授業」って言うんです。偏屈なTV嫌いな僕は「あら、TVもなかなかやるじゃないの」と何様気取りです。毎週毎週、憧れの先生たちが出てくるので、見逃せません。今週はそれに僕の尊敬する料理人の三國さんが出るというのでTVにかじり付いていました。

 感想とかそんな滅相もないのですが、三國さんの何が好きだってあの笑顔が好きです。笑顔に嘘がないからです。だから、料理にも嘘がないのです。なーんてね、エラソーなこと言うてしまいましたが。僕もTVを観た後、はりきって料理しました。

 TVで三國さんが「味覚は子供の頃に作られる」と言っていましたが、僕は本当に好き嫌いなく育ててくれた親に感謝します。生まれた時はものすごく体が弱かったそうで、よく奄美大島の田舎に預けられました。あかんやんかー!と突っ込みたくなりますが、それが良かったみたい…。

 なんせ、当時の奄美大島は自給自足の生活。さとうきびを育て、余分な野菜や魚を日銭に変えて、あとはゆっくり大島紬を織っていたら、結構な生活が成り立つのですから。それに様々な果物がそこらじゅうに自生していた。バナナ、パッションフルーツ、グアバ、ミカン、竜眼(ライチの一種)釈迦頭、とかとかとか。果物も野菜もとくに面倒みなくても豊かな自然が勝手に育ててくれるんだもの。

 海に潜ればイセエビ、ウニ、アワビ、タコ、シャコ貝、あとあと、もう言いきれないくらい。都会にいれば贅沢なものがそこらじゅうにゴロゴロ転がっている。茄子やトマトなんかも都会のデパートで売っているのなんかと全く味が違う。なんというか、苦いし渋いし甘いし酸っぱい!つまり洗練されてない。でも子供心にもそれが美味しいと感じた。いや、子供だからこそわかったのかも。

 あと、TVで三國さんはこうも言っていました。「親の味だけじゃなく祖母の味というのが大切」これも、その奄美体験がどんぴしゃり!いやね、小学校の頃は「ぜんぜん、美味しないわあ」「田舎くっさー」とかブツブツ言ってたんですよ。でも、この歳になって、父が作る田舎味噌が祖母の味そっくりで、なんか泣けてくるんですよね。

 もうひとつ、田舎の味覚で印象的なのが、食肉に関しての事。田舎では基本的に肉は買わない。肉は村のどこかの家がシメるのを分けてもらう。ある時、自分のところの山羊をシメようということになって、その担当を僕がやることになった。そりゃー、ショッキングです。悲しいし怖いし気持ち悪い、でも、特殊な形をしたハンマーを山羊の眉間に振り下ろした時、僕の中で何かが変った。なんだろう、死の意味が変った。食べるという事は「請け負う」事なんだという実感として僕の中に焼きつけられた。

 それで、泣きながら食べたそのお肉の味。もう、忘れることが出来ません。今まで食べたどんなお肉よりも美味しかった!生き物は簡単に殺しちゃいけない。本当に心からそう思った。しかし、ある時には殺してもいい。ただ、その死を請け負い責任をとる事が出切るなら。この強い思いは今も揺るぎ無く変る事がないし、これからも変ることはないだろうと思う。この時、僕は、食べ物は出来るだけ姿のまま仕入れて自分で調理しようと思った。もし、自分に子供ができたら、酷いかもしれないけれど、僕と同じ体験をさせてあげたいと思う。

 田舎の食べ物の思い出を話し出すといつもキリがなくなってしまう。でも、おかげで僕には好き嫌いというおこがましいものはなくなった。いい子いい子。撫で撫で。ともかく、幸運にも、食べ物に関してはエリート的環境だったりして。

で、今夜のハリキリメニュー。
c0045997_1493857.jpg・ 鴨肉のオレンジソースカルパッチョ
・ 磯つぶ貝の煮物
・ 磯つぶ貝とうるいの酢味噌和え
・うるいの山芋汁
・ かつおの心臓の塩焼き
 今日も上野の市場に行ってはしゃぎまくり。そこではほとんどデパートではみかけない珍しい魚を扱っています。磯つぶ貝(白バイ貝)と鰹の心臓を購入。鰹の心臓は売っていない。これは「もらう」もの。「ある?」って言えば奥から出してきて10個100円くらいで分けてくれる。これがね、疲れている時にはよく効くんです。精力剤みたいなもの。うふふ。

 鰹の心臓は爪楊枝で数カ所刺しよく血ヌキ。塩して焼く。これだけ。磯つぶ貝は量が多かったので、半分は昆布出汁で煮て、半分はハンマーで叩き割って刺身に。結構手間だけど、奥さんが苦手かもしれないので肝と身を分ける。しかし、無事、完食。人の好き嫌いを無くすのは、逆療法かもしれないけれど、始めから終わりまで調理するところをみせ、触らせるのが一番だと僕は思っています。

 うるいは美しい透き通ったエメラルドグリーンをしています。クセはあまりないのですが、独特の渋みと胸がスカっとするようなさわやかな香りを持っています。それをさっと湯通しして半分は酢味噌、半分は山芋汁に浮かべます。山芋は白味噌と一緒にすり鉢で丹念にゴリゴリします。時間をかければかけるほど舌触りが滑らかに風味も増します。そうそう、鴨肉にはルッコラとオレンジが良く合います。

ご馳走様。
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by radiodays_coma13 | 2005-05-01 01:40 | 食べる事と飲む事