「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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あなたのための音楽はどこかで鳴っている
 音楽を全く聴かないという人はいないんじゃないだろうか。もし、あまり音楽を聴かないとしたら、それはその人のための音楽に出会ってないからだと僕は思う。世の中には本当に様々な音楽が存在し、様々な音楽の好みがある。長い歴史の中で人はその時代その文化の中の音楽を創出し、そして、今も新たしい音楽が人の数だけ創られている。でも、一人の人が出会える音楽はとても限られている。言葉と同じで、もうこの世には存在しない音楽も無数にある。音楽はまさしく時間とともに消えてゆく存在であり、そういうものはもう聴く術がない。それとは違う理由で、音楽的鎖国の中にいて他の音楽に触れる機会がないというのもある。そして、日本はまさしく音楽的鎖国の中にある。

 そんなバカな!という人もいるだろう。しかし、TVをつけて調べてみるといい。そこから聞こえてくる音楽はごく限られている。わたしたちの勘違いは「それが全てだ」思いこんでいることにある。資本主義というマーケットに流通させるのに効率的な音楽だけが商品として扱われている。この環境の中でわたしたちは自分をこれらの音楽に慣らすか、音楽を聴かないという態度をとる選択に迫られる。しかし、もうひとつ、自分のための音楽を追い求めるというラジカルな手段が存在する。その音がきっと自分のためにどこかに存在すると信じて。

c0045997_17391269.jpg そういう僕も、あやうく、音楽を聴かない人の側に回りかけていた。音楽を求める気持ちはあるが、どんな音楽にも「なにかが違う」という物足りなさを感じていた。そんな高校生の時、深夜のラジオでふと、流れてきた音楽に僕の体は凍りついた。その次に、意識したこともない体の奥底の方から、思いもかけないほどの熱いものがこみ上げてきて、それはそのまま涙になってあふれ出た。それはレオシュ・ヤナーチェクの交響曲「グラゴル・ミサ」だった。その曲を聴いている間中、自分が何者でどこにいるのか分からなくなった。自分が味わったこともないような悲しい気持ちや、喪失感、さまざまな感情が走馬灯のように駆け巡った。聴き終わったときにはぐったり疲れていた。

 次の日、さっそくレコード屋に行ってみたが、CDはなく、古いレコードしか存在しなかった。しかたなく、それを一ヶ月分の小遣いで購入した。しかし、僕にはレコードデッキがなかった。その日から、毎日、ただひたすらレコードを眺めた。レコードに刻まれた溝を見つめていると、音が頭の中で鳴り出した。でも、むなしかった。母親にいぶかしがられ、事情を話すと、倉庫の奥にレコードデッキがあるんじゃないかという。僕は勇んで倉庫の中を掘り出した。それは確かにあった。倉庫の一番奥深く、積年の埃と、聴かれなくなったレコードと一緒に。そして、もう一枚のヤナーチェクのレコード。僕の頭は混乱した。

 僕の聴き覚えのないそのレコードは僕が生まれる前に買ったものだった。正確には僕がお腹に宿った直後に購入されたそのレコードは僕への胎教音楽として主に聴かれたそうだ。しかし、僕が産まれると、なぜか、それらのレコードは倉庫の中にしまわれた。とすると、僕はお腹の中でヤナーチェクを聴いていたのだ。こんなことってあるんだろうか。でも、あのこみ上げてきたものは何だったのだろうか。お腹の中の子供にあのような感情があるんだろうか?結局、レコードデッキは壊れていた。しかし、僕はラジオで一度、聴いただけのその音楽の全体を克明に記憶していた。

c0045997_17395664.jpg 僕はようやく自分のための音楽に出会えることができた。ヤナーチェクの音楽と、彼が存命した当時の通俗音楽や民族音楽にひどく、針が震えた。それらは僕にもうひとつの記憶というものを想像させるのに難くなかった。それはヤナーチェクの足跡を追ってチェコに旅をした時にハッキリとした輪郭を現した。旅の間中、原因不明の高熱に襲われ、そのせいもあってか、朦朧とした頭は、プラハの街にいる間中、僕に既視感を与え続けた。不思議な思い出である。いや、奇妙なことに熱のせいか旅でのことをあまり思い出せないのだ。ただ、その音楽をラジオで聴いた時から続いていた喪失感や、それまでの偏った音楽嗜好は旅から帰ってくると、跡形もなく消えていた。一体、なんだったんだろう。

 音楽は本来、時間とともに消え去るものである。データ化して商品化するのがマズイとは思わない。そのおかげで、現代の僕もグレン・グールドの神経質な演奏に神経をすり減らしたりすることができるのだから。ただ、本来、音楽には、それと出会った時、衝撃的に心の有様を変化させる一回性の効果があるように思う。音楽は好きや嫌いではなくて、初めから自分がある音楽に出会うための種子のようなものがあるのではないか。惹かれるというのは共鳴することではないかと感じたりもする。音楽はいつか鳴り止み、時間はすぎる。でも、記憶というもうひとつの時間の中でその音楽はなり続けている。沈黙をかき消し、埋め尽くすだけの音楽を聴くのなら、自分の中で鳴っている、微かな、その自分のために奏でられる音楽に耳を澄ますほうが、豊かな時間のように、僕には思えるのである。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-28 17:39 | 音楽について
ほら、覚醒しちゃったじゃないかよお
 突然、覚醒した。変なお薬は使っていません。時々、忙しさがピークに達するとこういう状態が訪れる。いわゆる、ナチュラルハイ。それは突然、明らかな変化と共にやってくる。陸の上のペンギンが海に飛び込んだ時のように、ダチョウ倶楽部がおでんを前にした時のように、動きは俄然スムーズになる。

 そうなってみると、人の生活というのはなんという混濁の中にあるものなのかと痛感する。先ほどまで頭を覆っていた光化学スモッグのような重たい空気はさっと晴れ渡り、肌が敏感になり、聴覚はどんな小さな音、空気の動きさえも察知する。色彩はハッキリと、網膜には物質の質感までもが伝わる。この状態に比べたら普段は眠っているようなもんだ、とさえ思える。

 これは丁度、覚醒剤と言われるお薬使用時と同じなんだそうだ。いやいや僕は使ってませんよ。(時々、勝手にこうなるんだから、使う必要ありません)なんのことはない、脳内麻薬といわれる体内物質の働きでそうなるんだそうです。麻薬の方が実は、脳内麻薬のフェイクなんだね。だから、あまり体によくない。こうなると不思議に眠たくなくなる。

 ちょっと、ここんところの忙しさは尋常じゃない。どう尋常じゃないかというと、試しに書いてみる。HPのデザイン案をロゴ含め5ぱたーん。4本のむーびー編集。25本のFALSH制作。3サイトのロゴデザイン。これをゴールデンウィークまでに仕上げる。本の装丁5冊。新しい雑誌の全体デザイン。これはもう期日が過ぎてる。イベントのトータルデザイン担当。それから、自分のイベントの制作。それから1日1時間の創作、1日1時間のパフォーマンスのトレーニング、1日1時間のスポーツジム、1日1時間の読書、1日1回のオナニーと1日1食の炊事は欠かせない。

 特にHPのデザイン案5ぱたーんはシベリアのように厳しかった。ロゴデザインは射的のような気楽さがある。ぽーんとボールを投げて的に当たったらめでたしめでたしみたいなもんである。しかし、まだ存在しないHPのデザインは月にロケットを飛ばすくらい計画的な行為だ。しかも、このデザインときたら、まだコンセプトも決まってないときた。やれやれ、これじゃあ、目的地も決まっていない宇宙船を作るようなもんだ。

 しかも、このデザイン、企画書の肥やしにしかならない。不毛である。突飛さで言えば、まるで、カレル・チェペックのSF小説みたいなもんだ。いや無意味さで言えば、安部公房並みなのだ。脛から生えるかいわれ大根について真剣に語り、誰かにその素晴らしさを納得させるくらいムズカシイ。こんな発注をかける部長の顔が見たい。いや、見たくない。デザインは幼稚園児のお絵描き教室じゃないってことを誰か彼に教えてくれないだろうか。

 というわけで、唐突にギアは火事場のクソヂカラモードに突入した。難儀な精神構造である。人には律儀に計画的に仕事をこなしてゆく人もあれば、要領良くハイスピードに仕事をこなす器用な人もいるのに、僕ときたら土壇場の土壇場にこないと頭が働かない。今朝、プレッシャーにへとへとになって、ヤケクソで部長に対する毒を吐いていた。「誰か吹き矢で暗殺しろ!」「いや、24時間ヘビメタルームに閉じ込めて」とか様々な暗殺方法を考えていた時、それはやって来た。ピーという音が頭の中を駆け巡り、一瞬、目の前を閃光がよぎる。いつもの合図である。

 忙しすぎて圧倒的に時間が足らない時、どうすればよいか。答えは簡単。寝なきゃいいのである。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-27 23:40 | くだらないこと
なんじゃこの忙しさは
 うおー、ぐおー、忙しい。で、なにがどんなふうになっててどう忙しいのか分からないくらいいそがしー。なにがどうなっているのかわっている時点では忙しいとは言わないと思う。この場合の忙しいというのは気分であって状態ではないね、僕の場合。

「あーいそがしいそがし」と騒いでいるのだがあまり効率的に動けない現状。人というのは同時にいくつかのことに真剣に取り組むことができないもののように思う。必然、何かを見ないフリすることになる。あー、こんなことではイケナイイケナイ。いそがしいそがしとイケナイイケナイを連呼するだけでどうにもはかどらない。この、忙しい気分だけでもなんとかなれば、もうちょっと事はスムースに運ぶような気がするのだが・・・。

 こんな時に限って、お布団が気持ちよかったり、お酒がいつもより美味しかったりするんだよね。なんか、パソコンのキーボードの汚れが気になって、仕事どころじゃなくなったり。もう、いじわるぅ。

 学生の頃は、試験勉強するために、家に帰って、徹夜対策のために昼寝して、夜、さあ、これから徹夜で勉強するぞ!と気合入れにちょっとジョギングして、いつもより念入りにお風呂に入り体をきれいにして、それから、いつもより早く就寝・・・ということがよくあった。徹夜するのにおやつとか、飲み物とか色々準備して、ムードを作るのに読書をしばらくとか思ったらハマってしまって、朝が来るなんてこともありました。「いやー、充実した夜だったな。」とかしみじみ朝焼けの空を見て、現実が襲ってくるまでのしばしの満足を味わったり。

 いやー、そういうわけで、なんか、最近、忙しいのでいろんなことが楽しい。これは現実逃避なのですが・・・。はっ、こんなことしてる場合じゃない。え、どんなことする場合なんだ?なにから、はじめよう。うーん、じゃあ、とりあえずヤフーのニュースを観てきます。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-26 15:26 | くだらないこと
パフォーマンスの現在/TVママの子守唄
 現代「声の不在」は深刻な問題である。音声という意味においての「声」ではなく、機能する媒体としての「声」。一体どのような状況がその「声の不在」を作りだしているのか。そして、「声」の不在が我々にどのような影響を及ぼすのか。その状況について考えてみたいと思う。

 人類はつい1万年ほど前に文字の原型を作り出し、口承から識字への進化の過程を歩んできた。文字を持たない民族も存在するが、文明国においては、義務教育の中で誰もが口承から識字への人類が歩んだ文明進化の過程を追体験することになる。しかし、誰もその過程で自分に何が起こっているかを意識的になることができない。時間の概念や自己の概念、ものごとを客観視すること自体、識字が我々にもたらす意識の変化であるからだ。それ以前、我々はどのように世界を認識し、考えていたのか?

 いったん、人が口承から識字へと移行するともう後戻りは出来ない。誰もが子供の頃、同じ事を経験したにもかかわらず、である。それは夢での時間を正しく語る術がないのと同じである。語られたとしてもそれは識字的な言葉をもっての説明に過ぎない。私たちは子供の頃に育んだものを識字において切り離し客体化する。それこそが自我の誕生である。人々は誰もがこのような口承から識字の流れを経て、善悪の意識を育み秩序を学び社会的な人間になることが出来る。

 もし、口承世界を経験しないで識字世界へ踏み込んでしまうとどうなるのか?我々は「われ思う」自意識を客体化できず、意識の流れに逆らうことが出来ない人間に仕上がってしまう。彼らにとって自己というのは自分の前を通り過ぎる他人のような存在に過ぎない。彼らは特徴として自分を指す一人称を三人称的に使う。「彼はそう感じている」と。自意識を満たさないままに、自我の存在を切り離してしまっているからだ。

 そして、現代、そのような子供たちが増えている、やはり、それにはTVやCD、ラジオの存在が密接に関っている。現代の子供は成人するまでの大切な時間の約2万時間近くをTVの前で過ごす。母親が直接、子供に物語を語る機会は少なくなった。本来、子供たちは、母親の口から口へ受け継ぐ「語りかけ」という言葉の乳を十分に受け自意識を発達させる。識字はその豊かな口承文化の上に築かれる。発達した自意識は識字によって切り離され、客体化される。自意識が十分に発達していればいるほど、豊かな感情形成がなされるというわけだ。だが、彼らにとって、その「語りかけ」の代わりにTVやCDといったメディアが口承世界の代用をしているのだ。

 しかし、TVなどのメディアは口承世界の代用ではありえない。それは聞き手が口を挟む事ができないからだ。TVは人間の声を殺してしまう。TVは一方的に情報を流すため誰もそれについて考えたり分析したりすることが出来ない。そして、気に入らなければチャンネルを変えることが出来る。情報を得るために質問もしなければ、リモコンのスイッチを押す以上の労力も必要ない。そのことは子供から最も大切な創造性を略奪してしまう。

 何よりも注意すべきは、TVの言語は識字世界の言葉であるということだ。多くの若者たちが未熟児のまま識字世界へ産み落とされているのだ。彼らはその危険な空白のある状態で、TVが垂れ流す暴力やSEXを受容することになる。もし、それが気に入らなければスイッチをOFFにすればよいのだ。現代人にとっての暴力とはそれと同じ簡単な行為になってしまったとは言えないだろうか。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-20 14:53 | パフォーマンスの現在
一体、どんな夢をみていたのだろう?
 眠った。どれくらい眠ったんだろう。風邪薬のせいもあるんだろうけれど、すさまじく眠った。金曜の夜から今朝の今朝まで、食事をする以外は眠っていた。寝込んでいたのではない。もう、すっかり風邪はよくなっていたのに、ただ眠った。こんなに眠ったのは初めてのような気がする。眠っても眠っても、意識の中心に固い岩みたいに眠りの核みたいなものが鎮座していて、それが消えなかった。

 正しくは、眠気は金曜の朝からあった。仕事も手に付かないくらいに。「春だもんな」きっと春のせいだと思っていた。窓から吹く風にゆらゆらとゆれて、魂が抜けたみたいな気分だった。後頭部を誰かから引っ張られているように体がふわふわと軽かった。普通、眠気というのは重力が下に向かうもののような気がするが、その眠気は、体が空に向かって引っ張られていた。

 家に着く頃には体の感覚がなかった。意識の後ろを体が幽霊のように付いてくるような具合だった。かろうじて食事を済ませ、風呂に入って、ベッドに座ると、後ろから鈍器で殴られるようにいきなり、深い眠りに落ちた。土曜日の朝に一度、目が覚めた。後頭部がズキズキと痛んだ。なにか、ひどくややこしい夢を見ていたような気がした。それを思い出そうとしたら、また突然、深い眠りに落ちた。気が付いたら眠っていたという感じ。

 普通、こんなに眠ったら、頭や腰が痛くなって、いい加減に目が覚めるはずなのに、乾いた砂地に水を浸すように、どこまでも眠りは浸透していった、とても自然に。そうだよな、ここ数年、寝不足が続いていたもんな。そう思い込もうとしたが、さすがに日曜の午後にはあんまりにも自分が眠るので気持ち悪くなってきた。でも、食事にも用便の時にもハッキリと意識はあるし、気分が悪いでもない。ただ、なにかが眠りを欲し、僕をベッドに導く。ちょうど、長編の漫画を読み始めて、最後まで見てしまわないと気が済まないという時の気分に似ていた。

 日曜の夜、もうこれだけ眠ったんだからさすがに眠れないだろう、今夜は何をして過ごそうかなんて考えていたら、やっぱり眠れた。今朝、6時頃、ガバッと飛び起きた。多分、何か夢を見ていたのだと思う。もう、意識の中に岩のような眠気は消えていた。奇妙に頭がすっきりしていた。咽喉の痛みも、風邪の症状と思えるものは微塵も消えていた。不思議な軽やかさだった。なんだかこのまま空を飛べるんじゃないかしらと思えた。

 覚醒という言葉がふさわしかった。鏡で自分の顔を見ると、なんだか別人のように見えた。体や意識のなにもかもがスッカリ入れ代わったんじゃないか、自分の顔を撫ぜてみたり。まんざらでもなかった。多分、ひどく疲れていたんだろう。東京に越してから2年、とてもめまぐるしい生活に緊張し続けていたのかもしれないな。休日も眠るのが怖くて、せっせと体を動かしていた。でも、ここにきてひと段落、体のほうが風邪を引き寄せたのかもしれない。そう思うと、病もまた乙なもんだと思えた。

 しかし、ひどく長い時間眠っていたように感じる。1週間、いや、1ヶ月。今、小学校の長い夏休みを終えた気分になっている。そして、その間、長い長いひとつの夢を見ていたように思う。でも、思い出せない。ただ、飛び起きた時、顔に涙がたくさん付いていた。もしかしたら、何かとお別れをしてきたのかもしれないな・・・。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-18 10:32 | くだらないこと
哲学的な病ってなんなのよ?
 職業と言うのはその人の人種みたいなものだと思う。ヤクザはヤクザらしく、警察は警察らしく、そして、詩人は詩人らしい。人は生まれつき、あらかじめその職業の顔をしているわけではないはずだ。いつのまにか、その業界がその人を変えていってしまうのね。今日、病院に行って思った。医者、彼らはかなり個性的な人種なのだ。先日、喉が痛いので病院に行くと気管支炎じゃないかという診断を受けた。今度は鼻が痛くなったので、別の病院に行ってみた。

「風邪なんじゃないですか?」と問うと
「あなたにそれが分るなら何故、あなたはここにいるのですか?」
「気管支炎じゃないんですね?」と訊き返すと
「それは、また哲学的な質問をしますね」考え込んでいる。
僕はなにも哲学的な質問をしていない。
「つまりどういう状態なんですか?」
「それはあなたが一番知っているでしょう?」
いや、むしろ、あなたの方が哲学的なのではないでしょうか?
「鼻が痛いんですよ」
さっきから何度もそう言っているのに初めて聞いたように
「えっ?どこか痛いんですか」まったく同じ反応をするのである。
「だから、鼻です。気管支炎で鼻が痛くなるんですか?」
「じゃあ、風邪かもしれません」それをさっきから言ってるのだ!
「風邪なんですね?」
「いえ、限りなく風邪に近い症状と言えるだけです」
「つまり、限りなく風邪に近い風邪なんですね?」
「まあ、そうでしょうかね」
「休んだほうがいいですか?」
「まあ、それがいいでしょうねぇ」
「お酒は控えたほうがいいですか?」
「まあ、そうでしょうねぇ」
それはそっちから言うものではないの?
「つまり、鼻の痛みは風邪から来るんですね?」
「えっ?どこが痛いんですか?」…また、振り出しに戻ってしまった。
「ひりひりして涙が出るんですよ」
「花粉症と言うことも考えられますよ」深刻な顔で。
「いえ、いいです。そんなに痛くありませんから」あきらめることにした。

 まったくもってスッキリしないのである。一体、自分がどういう状態でなんであるのか。自分の症状にも自信がなくなってしまった。昔々に行っていたかかりつけのお医者さんは「しんどいんです」というと、「風邪ですね。はいはい、お尻を出しなさい」と言っていつも注射を打ってくれた。大体の病気はそれで治ったものだ。病名を言われるとなんか安心するのだ。こちらとしても「風邪」を治す体制というものが整う。しかし、病名も言ってくれない注射も打ってくれないじゃあ、一体、どんなふうな心積もりで病に接すればいいというのだ。

 悶々と、限りなく風邪に近い風邪に苛まれているのか、いないのか。来て欲しくもないけれど、約束していない相手を待っているような哲学的に憂鬱な午後であるのだ。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-13 13:39 | くだらないこと
和菓子三昧東京散歩の巻き
 今、向島「志満ん草餅」の草もちに白蜜をかけたのを頬張りながら日記を書いている。どうだ、うらやましいやろー。むほほ。餅がね、くちくちしてて、口いっぱいに春蓬の甘い香りが広がって、なんとも幸せさんです。

 今日は久しぶりの和菓子三昧の一日でした。もう、ほんまにアホですわ。浅草は和菓子好きにはたまらない町です。あの辺りに行くと、もう、どれを選んだら良いのか頭を抱えてしまいます。和菓子ハシゴ状態です。とりあえず、今日のところは志満ん草餅、向島きび団子、言問団子、長命寺さくら餅で、勘弁してやっておいた。

 上記のお店は和菓子好きなら誰もが知っている名店揃い。それが、1キロ四方に並んでいるからたまらん。長命寺さくら餅になんぞは花見シーズンもあってか、今日は100メートル近くの行列ができてました。向島きび団子はその中でも最近の注目株。桃太郎の話をきいて誰もが一度はきび団子を食べたいと思ったはずです。実際、桃太郎の里に行って食べたきび団子は「きび」なんか使ってなかった。そんなんで鬼退治に付き合うかっちゅうの!でも、ここのきび団子は本物のタカきびを使ってます。ビー玉大にちぎられた弁柄色の団子をさっと茹でて、きなこをたっぷりまぶしています。もち米とはまた違った甘み、なんともいえません。

 和菓子ちゅうたら、たいがいその辺に、名所旧跡があるんですな。そういうところをぷらぷらしながら、和菓子を頬張るのがなんとも幸せなひと時です。志満ん草餅、向島きび団子の近くには向島百華園と言うのがあって、ここはこじんまりした野の花がなんとも風情よく植えられていて、いかにも良き和の庭という感じです。特に9月の萩が有名なんですが、まあ、一年中なんか咲いとります。所々に立っている灯篭には、ここを訪れた人の作った俳句が書かれていて、それを読むだけでも心和みます。そういう庭に座って餅食ってると、時々、今の時代を忘れてしまいます。

 「地味な趣味だね~」とよく言われる。でも、僕はそういう人たちに、是非この楽しみを教えてあげたい。だいたい、お金がかかりません。僕はどうもショッピングモールというところが苦手だ。いろんな遊具があって、キラキラしてて、音や色があふれていて、食べ物や品物がこれでもかと積まれている。まあ、楽しいやね、ワクワクするやね。「楽しめ!」って何もかもが主張してくる。でも、同時に虚しくなる。そこに自分が入って行けないような気がして来る。

 和菓子って洋菓子に比べるとカラフルじゃないしバリエーションも少ないし地味。名所旧跡だって、キラキラもしてないし、ジェットコースターが走ったりもしていない。でも、共通しているのは「楽しがる」ってことなのかもしれない。自分で面白さを見つけること。自分が近寄ったぶんだけ、向こうも歩み寄ってくれるようなおかしみ。その楽しさにはリスクも限界もない。

 会社に、「TVチャンピオン」の制作をしていた人がいる。彼になぜ、和菓子チャンピオンをしないのか問い詰めたことがある。「地味でしょ、あんこと餅だけだし、」だって。わかってないね。もし、やるんだったら絶対参加するのに。あんこ食べ分けちゃうよ!「うん、これは北海道産の小豆ですね」とか良いながらさ。ねえ、しましょうよ。浪花屋の鯛焼き、うさぎやのどらやき、竹邑のあげまん、羽二重の串餅、群林堂の豆大福、タダで食わせろー!うおっー!わー!

写真に収めるはずだった和菓子、気がついたら全部、平らげちゃいました…。
あー。。。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-11 11:31 | 食べる事と飲む事
足跡ペタペタは人間の本能なのだ!
 結論から言うと「生物の進化というのは弱者の歴史だった」。こんな話の真偽を考えるとキリがないので、とにかくそうだった。そうだったの!だって、強かったらもう進化しなくたっていいじゃない。というわけで、人間の祖先は海から追い出され川を上がり、泥んこになり陸に上がり、森から追い出され、逃げて逃げて、ついに不毛の砂漠に追いやられて、気がついたら人間だった。そりゃね、ひねくれますよ。自然に苛め抜かれてきたわけですから、だから、人間は根源的に、抜本的に、徹底的に、とにかく自然が怖いし憎い。「自然を守ろう!」なんて、あなた、単なるキレイゴトですよ。
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 そんな人間が考えることは、自然を排除することです。見渡せる限りの風景を人工物で埋め尽くすこと。結構、がんばりましたよ。だって、あなたの周りを見渡してください。そこに自然がありますか?なに?植物が見える?鉢植えか何かでしょ。それは、人間が自然を服従させた証しです。でも、困ったことにたった一つだけ、どうしても排除することができない自然が残ってしまいました。それは、あなた自身の身体です。こればっかりは排除することができない。どうしましょう?こうしましょう。服で隠すんです。

 そうやって、人は裸のままの身体を恐れ、衣服で包み隠しました。服従させられていない自然のままの裸を見せることを恥じました。しかし、人は死んでしまったら、どうにも手に負えなくなる、腐り、膨らみ、異臭を放ち、蛆がわく。まさに自然に帰っちゃうんですよ。そんなものは見たくないってんで、土に埋める、土に埋めたら死後硬直で土の中から手や足が飛び出してくるんで、こりゃ敵わんと重い石をのせる、または死体をぐるぐる巻きにして埋める。こういう死体が初期の埋葬として、発掘されることがある。重い石は現在でも墓石として見かけられる。

 そこで!です。僕はこう思うんです。文字や言葉はそこから生まれたと。そこというのは自然への恐怖です。人はまず、怖くて叫びます。その恐怖をより細密に仲間に伝えるために、叫びは言葉に変化して行く。これはかなりのデタラメ論です。でも、それでいいんです。あくまでも仮説ですから。うそでしょー!と思いながら読んでもらえれば幸い。

 じゃあ、文字は?アルファベットが登場したのはたったの3000年ほど前、それ以前にも書くことは存在した。でも、アルファベットほど完成されていない。それは絵の延長だったり、単なる印だったり。人間が文字を持つ歴史は決して古くはない。文字を持たない文化が今でも半数以上存在する。では、その文字はどこから来たのか?

 人が洞窟の天井に絵を描くそれよりも以前に、僕は文字の原型が存在したと思う。それはタトゥーではないかと思う。いや、少し違うな。ボディペインティングだ。人はある種の持続的な恐怖状態に置かれると、その行為を始める。例えば映画「蝿の王」で、無人島に取り残された少年たちが、漫画「ドラゴンヘッド」では暗闇の中に閉じ込められた青年が、誰に教えられたわけでもなく、顔や体に装飾を施すのである。

 文字を持たない民族にも身体装飾は存在する。身体装飾こそは、人間が自分自身という自然を自然のままで置いておかないひとつのテクニックだったのではないか。そして、人はその身体が自分に帰属し、隷属するという印として、タトゥーを刻んだ。それが文字の始り。

 アルファベットの元を作ったといわれているファニキア人は、壷にその所有者の印を刻んんだ。人は所有の印としてあらゆるものに名前を付け、それを刻み込み、或いは描き、自然を、自分自身を、所有しようとした。そして、言葉を発達させていった。こんなふうには考えられないか。

 昔の人は言葉にある種の呪力があり、ものそのものを動かす力があると信じていた。魔法の呪文やおまじないやお経なんかも、それに端を発しているといえる。そして、タトゥー。人は何故、タトゥーを刻むのか?身体という自然を自分自身が所有していることの証し。そうすることで、わけのわからない恐怖や説明のつかない理不尽な不安を封じ込めることができる。そう感じるのかもしれない。

c0045997_2591232.jpg 「不安や恐怖からタトゥーを刻む」ある青年は言う。少なくとも、不安は軽減されるという人は多い。我々はわけのわからない恐怖に接したときにそれを言葉に変換しようとする。これこそが表現の原動力ではないか。そう思ったとき、足跡ならぬ世界の壁画に多く見られる「ネガティブハンド」と言われる手形に、僕は彼らの声を聞く気持ちがする。それは言葉の歴史であり、原始の人々と我々との接点でもある。我々はその手形を通じて彼らと通じ合うことができる。「大丈夫、僕も十分に怖いよ」と。

 どうです、足跡残したくなりましたか?残さないあなたは猿以下ですよ。そのほうが或いは幸せかもしれませんが。でも、あなたは幸い?にも人間です。まぎれもなくね。ね、だから、足跡ペタペタしましょうよ。さあ。
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こちらは今回のテーマに関連した作品
「WALL」です。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-10 03:00 | 言葉について
イエメシの効用 最後の晩餐
 もう、外食いやだぁ!はぁはぁ。ここ数日、仕事が忙しく外食が続き、本当につらい。毎日、同じ弁当ばかり食べている会社のあの人は精神的におかしくなったりしないのだろうか。365日違うメニューを食べる宣言している僕としては、見ているだけで気が滅入る。外食二日目に入ってもはや食欲減退。食べることすらも労働の一環に思えてくる始末。

 人の気持ちの入っていない食べ物って、本当に食べ物なのか?コンビニ弁当にはさすがに手を出さないが、あれは食べ物じゃなくてモノに見える。原材料は塩化ビニールとかポリエチレンとか、着色料とかきっとそんなものでできているにちがいない。

 料理をすると気持ちが落ち着く。素材に触れているだけで手から目から栄養が入ってくるような気がする。レタスを水で流しながら、手でバリっと二つに割る。その音と透き通る緑の色と峻烈な匂い。手は舌のようにその食感や味覚を喚起させる。ああ、ダメだ、妄想とまんないや。

 とにかく、イエメシはその一日をリセットする効果があると思う。どんなに美味しい外食の後でも、やっぱり、家に帰るとお茶漬けさらさらしてしまうものね。そうしないと、なんか落ち着かない。帰ってきた気がしない。家がただの寝る場所になってしまう。家庭って場所のことじゃなくて、営みそのものなのだと実感する。

 死ぬ前に何を最後に食べるかといわれたら。いろいろなメニューを頭に思い浮かべた挙句。ご飯とお味噌汁とお漬物なんだろうな。そんなことを考えただけで、少し目が潤んでしまう。ダメだ疲れてる。長期の海外から帰ってきたとき、お魚の入れ物に入った醤油を最後の一滴までちゅくちゅく吸い取った。あれはうまかった。

 作曲家の故武満徹さんは、病気の治療で口中が口内炎になり薬の副作用で食欲がない時にスケッチブックをいつも自分が作っている料理のカラフルな絵つきレシピでびっしりと埋め尽くしたという。彼はそのまま亡くなった。それをきいて涙が止まらなかった。ひとつひとつのメニューにはさまざまな思い出がこびりついている。料理はただ美味しいだけでは美味しいとはいえない。いつ誰とどこでどんな人が作ったものを食べるかで、料理はまったく別のものになる。

 思いを込めて作られた料理は材料や栄養では説明できないなにかが入っていると思う。同じレシピで同じように作っているのに、いつまでたっても母の味に追いつけない。「鍋に味が染み込んでいるんだ」と強がってみるが、その味は親になってみなければ出せないのかもしれない。ああ、母の粕汁が食べたい。

 我慢しきれなくなったので、この前の晩御飯をうらめしく回想して、気持ちを鎮めます。メニューは漬けマグロのルッコラ和え、菜の花と卵味噌の和え物、大根と鶏のお吸い物、行者にんにくの塩漬け。
c0045997_15161236.jpg 漬けマグロのルッコラ和え。マグロはグレープシードオイルに10分つけておくと、大トロみたいにとろけます。他のオイルだと油っぽくてダメです。それをタマリに漬け込みます。これをルッコラにつつんで食べるとゴマ風味のピリっとした味がなんとも鮪を引き立ててくれます。それから、菜の花と卵味噌の和え物。味噌は卵と味噌を湯煎しながらヒツコクねりねりします。大根と鶏のお吸い物の出汁は鰹と昆布。大根は米のとぎ汁で炊き、鶏はアクが出ないように気をつけます。行者にんにくは目が覚めるような味。これは気をつけないと、にんにくよりも口が臭くなります。7束で700円ともの凄く高価ですが。春ですから、春だけですから・・・。

うん、レシピを書いていると少し落ち着きました。ではでは。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-08 15:16 | 食べる事と飲む事
パフォーマンスの現在/ベンツ製UFOに乗った神様誕生
 「パフォーマンスの現在」の続きが読みたいといってくれる人が数人メールをしてくれました。うれしいので、続けます。(「パフォーマンスの現在」自体は数年前に書いた未公開の文章です。それに、ダイナミックに手を加えて、このブログで掲載している次第。)

 詩の朗読がおもしろくあるべきか?この問いについて、多くの場所で論じられているのを目にしてきた。「詩は表現ではない!」とか「詩は売られてはならない」僕自身はこのことについてあまり答えを急ぎたくない。ただ、同じく他の舞台に当てはめて考えるときに、この問いは別の意味を持つように思う。演劇は面白くあるべきか?芸術は面白くあるべきか?音楽は面白くあるべきか?そして、どの業界でも言う人は口を揃えて言う。「金じゃないんだ!」

 リーバイスのCMでドラゴンアッシュの降谷くんが、「Famous」「money」をマジックで消してゆき、そして、最後に「music」だけを消さないで残すというのがある。あれに対して反論はないが、アートというものが抱える矛盾を分かりやすく見ることができるような気がする。それは幽霊が人間を否定するという図式ではないか?そういう発言をすることで、アートは「自らの存在を否定する幽霊」のような自己矛盾を抱えてしまうことになる。否定することでしか存在を明らかにできないなんて…。

 全ての表現は、人間の影に過ぎない。当たり前のことである。人間抜きの表現というものがあったためしがない。表現という行為は本来、そのものの自立した実体を持たず、どんなに優れた模倣であれ、等価交換はできない。しかし、人はそれを自分の分身として残す努力をし続けてきた。声という実体のないものに文字という実体を与えたように。自らの身体を機能として分離させ、形のないものに形を与えてゆく作業。そして、それは今や、人工知能という領域まで達しようとしている。しかし、その過激な表現からは常に、人間の存在そのものの実体が抜け落ち続けているように思う。

 声は本来、他者なしではありえない。発話者が立ち上げた瞬間消えてしまうのだから。しかし、文字の発明により、記憶は外在化した。その時、伝達という概念が変わった。言葉は書き記しさえすれば何年も後にそれを取り出して伝えることも出来る。識字文化以前の口承文化では自己も時間も客体化することなどありえなかった。人は言葉を書き出し、肉体から切り離すことによってはじめて自分自身にも語りかけることが出来るようになったのだ。

 現代、TVなどの文化によって、まったく受動的な一方向の情報形態を作り上げることで、人類の言語は相互交換を欠き、さらに個人の中へ内在化していった。その結果、自己完結した自我の膨張を招いた。人はこの自我の中で短絡的な全能感を感じることが出来る。人は自我の中に各々の新しい神をイメージし作り出す。恐るべき絶対的な自然という外部社会が作り出す公的な神ではなく、超個人的な価値を思想化し具体化した神的な存在を創造する。

 超個人的な価値観の上に発された言葉は表現としての詩というよりも宗教の経典や箴言に近いかもしれない。これらのことこそ詩が難解になっていくひとつの要因であったと考えられる。そのような状況が生み出した、場をわきまえない非コミュニケーション朗読はなによりも独り言に似ていた。それは声をモノ化して垂れ流す意味で、まさに排泄と同じ行為であるといえる。そして、あとに残るのは無残な自己弁護の山。それはどこか現代の病理の様子とも似ていないか。

 前回の文章で「舞台」の機能について触れたが、それとよく似た空間に「映画館」がある。しかし、「映画館」と「舞台」は似て非なるものであることに注意しなければならない。映画館の闇の中で観客は全くの個になることを強要される。そこで、観客は個々が孤独な批評家になる。舞台のようにひとつの出来事を共有することはできない。映画はその意味で身体抜きの視覚の物語であるといえる。快感は視覚にゆだねられ、価値は共有され、膨らまされるのではなく、浪費されてゆく。その意味で映画は真に資本主義的な幻想を抱え込むことになる。

 文化人類学者のレヴィ・ストロースは「価値とは交換することでうまれる」といった。本来、それ自体になんの物質的価値もない貨幣が価値を持つのも同じことである。私たちの生活する、資本主義という社会は、貨幣によって必要価値を交換しているのではなく、貨幣の交換によって生じる価値の幻想を偏重し、モノを代理にして消費する悪しきスパイラルに陥っている。そこで交換されているものが何であるのか、今一度、見直さなければならない時期が来ている。全てのモノは本当のそのものの価値から切り離されてしまっている。一方で、純粋な価値そのものを具現化したアートがプリミティブな力を失っている現実。

 「交換されること」。アートが面白くあるべきかという問いのひとつの答えとしてこのことが言えると思う。アートは現代の経済のあり方に反している。その半面、もっとも現代の経済のあり方を如実に映し出すことができる鏡でもある。しかし、経済はそれらの価値ですらも商品化無毒化し、すさまじいスピードで消費してゆく。それゆえに実体をもたないデザインという価値が貨幣に等しく現代において絶対的な権力を持ちうる。

 しかし、そこでファインアーティストたちは単に、アンチ経済を主張してよいのか?聖書に鯨に飲まれたヨナの話がある。この状況を打破するのは外部からの働きではなく、本当の内部からのちょっとした刺激ではないのか。そこで、世界はコペルニクス的展開を迎える。価値そのものを交換させるものとしてのアートに貨幣というものを内部から吹き飛ばす、新しい社会の可能性があるといえば大げさだろうか。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-07 23:26 | パフォーマンスの現在