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言葉と文化
by radiodays_coma13
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失語症のテーブル/「み」の書き方講座
 時々「み」を忘れる。ひらがなの「み」ってどう書くんだっけ?あれ、あれれ、出来上がったのは不思議な渦巻きだったり、豚のしっぽみたいのだったり。わし、これ、やばいのかもしれんと思いながらもその状況を一応楽しんでみる。休日など一日、まったく人と口をきかないでいると、自分がもしかしてしゃべり方を忘れているんじゃないかと不安になることもしばしば。

 あるお喋りな友人にそういう相談をしたら、「僕なんかは、いつもそれが怖くて喋り続けているんだよ」とのこと。「朝からウォーミングアップに身近にあるものの名前を読み上げてゆくよ」。ほほぉう、僕はまだ、甘ちゃんだったよ。でも、実際にそれは病の兆候なのだそうです。あら怖い。本当は怖い家庭の医学みたい。あなたは!「失語症」かもしれません。

 失語症にもいろいろあるんです。というか、実際にはどんな体の変調もきたさないので病と言えるかどうか。ただ、ある日、徹底的に言葉が壊れてしまう。病じゃないといっても、これは、立派な障害です。でも、この失語症なにかとても奇妙。りんごを見て「これはなに?」ある場合には言葉とものそのものの名前が切り離されてしまったり。「犬は猫の仲間?」ある場合には、カテゴリー能力が徹底的に破壊されたり。「愛ってなに?」ある場合には、抽象的な言語を一切使用できなくなったり。

 どこをどうしたら、自分たちが普段使っている言葉の一部がうまい具合に狙い撃ちされて壊れてしまうのだろう。というよりも、興味は人が言葉を喋る仕組みの謎に絞られていきます。そして、その謎を解く鍵、いや、謎解きを面白くするのが、文字をかけない人はほぼ失語症にならないという数字。ゴゴゴゴゴ!面白くなってきましたよ。

 文字ってのはたかだか、数千年の間に人が発達させてきた文化ですね。ってことはつまり、失語症は現代病。文字を知らない人を我々、識字者は阿呆よばわりする。しかし、言葉を忘れてしまうのは我々、文に明るい文明人の方。まず答えとして、声に出す言語能力は人の本能的な部分。識字能力は後天的な部分。失語症はこの後天的な部分をいろいろ込み入ったやり方でこっぴどく破壊してしまう。

 後天的な部分だけ破壊するんならあんまり問題ないと思うでしょう?でも、違うんです。現代人の思考は識字能力によって徹底的不可逆な変化をきたすということです。さて、ここで、こんな込み入った話をしていたら僕は楽しくって、これをおかずに三日三晩寝ずに妄想にふけれます。なので、ここははしょって。つまり、どんな具合にか、人は識字によって自我や愛や過去未来など時間の概念、嘘や真実ということを考えるようになった。つまり、それ以前は、そんなこと考えもしなかったというのだわ。

 ちょっと、俄かには信じがたいよね。でも、とにかくそういうことなの。もっとそのことについて知りたいって人は、えーと、自分で調べて。人は識字によって、自分の言葉をはじめて自分から切り離すことができるようになった。そこで、客観という概念が生まれる。その証拠に識字を持たない文明の人々はそれができない。

 車を説明してくださいという問いに、あなたなら「人をある特定の場所に速やかに移動させるための乗り物」という具合に答えるだろう。しかし、彼らは「わしは従兄弟のジェニカの所にイチゴも持っていく時に乗る」と答える。車はどんなものですかと再度聞き直すと、わかりきった質問するなよ!というふうに「乗れば分かるよ!」つまり彼らにとってモノはモノではなく、身体と切り離すことができない自分の経験の一部である。そして、クルマは「車」とは切り離せないなにかなのだ。だが識字者は時にクルマから「車」が走り去って行ってしまう。そして、文字だけが残る。

 失語症を通すと、人にとって言葉がどんなものであるのかがよく見えてくるように思う。この内容は手短に話できる内容ではない。というかもったいない。チキンの骨の周りの肉を食べないようなもんだ。あそこが一番美味しい。次の機会に拷問でもするみたいに、ジクジクこの話題を責めてやろうと思う。
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 で、もっと失語症の話が面白くなるために、一度、皆様にも失語症を経験してもらいましょう。10年も前に「失語症のテーブル」というパフォーマンスの舞台を行ったことがある。怖いとか狂気と言われ封印したが、ここに、その演目の一部がふっかーつ!今、ここでイイワケすれば僕が狂気なんじゃなく、その狂気を解剖しようとしただけなのよん。だから全然怖くないのよー。でも、失語症になってもしらないよー。危険と感じたら右上の「NOT」からすぐにドロップアウトね。そんなんじゃないけど、一応…
「APPLE」
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by radiodays_coma13 | 2005-03-31 02:28 | 言葉について
声と言葉のクロニクル「日本語最後の話者」後編
 「あなた」が日本語最後の話者になる可能性は0%ではない。今、我々、日本人は人口的に繁栄の頂点を極めているようで実は、ジェットコースターの頂上にいるのだ。そして、その不気味な下降の徴候が現れている。ついこの数年前、日本の平均出生率が2人をわる1.8人になったことで、問題として取り上げられはじめた。しかし、今年、調査の結果、それは、1.29人までに下がっている。それは今後も下がりつづけ、東京では1人をきるまでにいたった。これはどういうことなのか。つまり、人口が2分の1以上のスピードで減っていく計算。そして、結婚率の低下がそれに加速をかける。つまり、冗談じゃなく、あと100年もしたら、人口は現在の100分の1にも落ちる。これは決して悲観的な数字ではない。むしろ、これに加速が加われば…。で、日本語の方は人口の消滅を待つまでも無い。言語の消滅は一度、滅びの過程を歩み出せば、早いものだ。沈みかけた船からネズミがいなくなるように、誰もが日本語の船から逃げ出してゆく。…そして、あなたが取り残される。ある朝、あなたはそれに気付く…。

 現在世界には言語学者の推計で5000から6700の言語がある、少なくともその半数は次の100年の間に死滅するであろう。
存続危険な言語キクユ、ポモ、ソンソロル、ウゴング、ブルトン、チャモロ、トゥルマイ、ヒシュカリヤナ、タイアプ、ハワイ、マオリ、アブナキ、ベラクーラ、ラマ、グーグ・イミディル、カバナ、アゼラ、ボイケン、トバ、バタク、フィアム、ツォツィル、セブアノ、モキル、カカオペラ・・・

 ブリテン島の古い言語であるカンブリック語はたった三つの単語しか残されていない。紀元前八世紀から西暦四世紀までスーダンで同じ名前の帝国の公用語であったメロエ語は現在まで未解読の碑文の形で残るだけである。世界で知られる言語のほぼ半数がこの500年の間で消滅している。エトルリア語、シュメール語、古代エジプト語などの古代帝国の言語は数世紀も前にこの世界から消失している。アメリカ合衆国もまた数百に及ぶ言語の墓場と化している1949年にコロンブスが到達したとき推計300あった言語のうち現在話されているのは175言語に過ぎない。その大部分はかろうじて残存しているものの死滅にいたるのはおそらくわずか1世代を残すのみである。カリフォルニア州に残存している北米インディアン諸語はもう子供たちに教えられおらず、マサチューセッツなどの州名に名を留めているに過ぎない。

 日本語最後の話者である、あなたはある日、このことに気付くだろう。あなたの世界、思考。そして思い出、それらは全て日本語で形成されているということ。昔、母に話してもらった神話や昔話。わらべ歌の数々。誰もがそうであるように、言葉の遊びという豊かな乳によって、言葉のある人間の世界へ生まれてきた。言葉は文字ではなく、口から口の、マウストゥーマウスでしか伝わっていかない。鳥が餌を与えるように、母親は子供の口に言葉の乳を与えるのだ。

 言語の滅びは、まず、その言語で作られた歌や民話、神話の喪失から始まるという。言葉が遊びを無くした時、滅びが始まると言っていい。そのような豊かな言葉の乳がなくなるということは、次にその言語を受け継ぐ子供たちが育たなくなることを意味する。

 言葉によって引き継がれてきた世界。日本語が滅びるということは、ひとつの世界の終焉を意味する。それに気付いた瞬間、日本語によって形成された世界があなたに一斉に手を差し出して、悲鳴をあげるに違いない。その時、あなたの自我は耐え得るだろうか。

 この春、奄美諸島の沖縄に程近い与論島という島の言葉1万5000を治めた辞典が出版される。この本を出版するのは農家の主婦、菊千代さん(78)。彼女は高度経済成長真っ只中の30年ほど前から、それに伴って消えてゆく古い民具を物置小屋に集めて博物館を開いた。そして、それを整理し、方言名で台帳につけていくときに、「民具が消えると、その言葉も消えてゆく」ことに気づいたという。「方言がなくなるということは、ふるさとの心がなくなるというもの」そして、彼女は鉛筆と手帳片手に、日常会話や古老との会話で気付いた言葉を書きとめ、それをまとめたものを昭和60年自主出版。それが学者の目にとまり、その言葉の特異さ、学問的な観点での重要性を理解され、この程、辞書として、出版される運びとなった。菊さんは「言葉は使われて始めて存在意義があるが、消えつつある今、辞典として残すしかない。この辞典を通して若い人たちが一語でも言葉を引き継いでいって欲しい」と語る。さて、もし、あなたが最後の話者になるとしたら、あなたには何が出きるだろう。そして、そうならないように今、何ができるだろう。もちろん、今すぐ、誰かと子作りするという手もあるけどね。


 言語は川のように死ぬ
 今日は君の舌に絡みつき
 歯と唇の間で砕かれて
 思想の形になった言葉は
 今こうして色あせて
 一万年も昔の
 象形文字とかす

 ―カール・サンドバーグ

                                -おしまい
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by radiodays_coma13 | 2005-03-30 09:58 | 声について
声と言葉のクロニクル 「日本語最後の話者」
あなたは何語を喋る何人ですか?
って、神妙に始めても、この文章が読めてるってことは十中八九は日本語が話せる日本人だと思うけどね。現在、世界中にどれくらいの言葉が存在するか知ってる?5000~6700もの言語があるんだって。で、人類が産まれてこの方で換算すると、ざっと200万もの言語が存在していた。でね、こんな話しを持ち出したのは、あなたが使っている日本語、この言葉は人数と使われた期間で割り出した確率で言うと、ごく少数派の言葉というわけ。あなたはたまたま日本に生まれるか何かして、ウオノメをこじらせて死ぬくらいの、もう奇蹟的な確率で、この珍しい言葉を使っている。で、そんなことが言いたいんじゃなくて。現在使われている言語5000~6700ってえらく曖昧な言葉だと思うでしょう?というのは、今こうしていうちにも、またひとつ言葉が消えていっているってこと。つまり、消えつつある言語を考慮に入れると、もしかしたらもっと、あるかもしれない。正直、今、世界にどれくらい言語があるか研究者も解っていない。あまりにも少数になると、調べる術さえない。もし、ある言葉が消えかかっていて、たった一人しか、その言葉を使えないとしたら、それは言語とさえ言えないのじゃないか?

イーヤック語最後の話者、マリー・スミス
マン島語最後の話者、ネッド・マッドレル
ウビフ語最後の話者、テフヴィック・エセンチ
カトーバ・スー語最後の話者、レッド・サンダークラウド
ワッポ語最後の話者、ローラ・サマーサル
ユーキ語最後の話者、アーサー・アンダーソン
コーンウォール語最後の話者、ドリー・ペントリース

あなたは、自分が日本語最後の話者になることを想像したことがありますか?何億人と繁栄してきた日本の、何千年と続いてきた日本語の、その言葉が抱えてきた歴史や文化、記憶があなたで尽きてしまう事を…。例えばある天気のいい休日の昼下がり、ふと、あなたはもう、周りに日本語が喋れる人がいなくなっている事に気付く。その時、あなたならどうする?

イーヤック語最後の話者、マリー・スミスはこういっている。
「なぜ私なのかわかないわ。たった一人の話者だなんて、ねえ、あなた、それはとても辛いことよ。私の父は最期のイーヤックの族長だったから、後を継いだだけのことなのに。それで今は私が族長というわけ。私たちの土地を切り刻むのをやめてもらいにこれからコルドヴァまで行かなければならないの」実際、彼女たちの住む土地は森林伐採やダムの建設により多くの部落は川の底に沈んだり、砂漠と化した。人々は土地をすて、他の言語集団での生活を余儀なくされた。

最近の研究で面白い結果が出ている。言語の存亡と生物の種の減少は比例している。つまり、生物の種が多く死ぬ地域で、同じように言葉が死んでいる。ここで、長々と生物の話しをするわけにはいかない。しかし、種の多様性の重要性が囁かれている昨今、言語の多様性とそれに深い因果関係があるということ。多様性、つまり、様々な種類がいてこそ、生物環境は保たれている。もし、その多様性が無くなれば、種はその瞬間、突発的に滅びのジェットコースター曲線を滑り落ちてゆく。今まさに日本語がその曲線をなぞっている。

                                      ― つづくよ
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by radiodays_coma13 | 2005-03-28 03:25 | 声について
産湯の記憶 赤ちゃん空を飛ぶ
 週に二回、酸素不足になるまでスポーツクラブで小1時間泳ぎつづける。そうしないと落ち着かない。小学校4年生になるまで水が怖くて泳げなかったのに、考えると不思議なものだ。水に浸かっていると妙に安心する。「安心」というのか、恐怖と安堵、対極し合うものが癒着した不思議な感覚。なんだろう、その感覚の中枢に触れたくて、いつも泳ぎつづける。泳ぎすぎてクタクタになる。いつもいい所で体力が限界になる。

 今日は休日なので「赤ちゃんスイム」というお母さんと赤ちゃんが一緒に泳ぐカリキュラムを行っていた。お母さんたちは歌を歌いながら子供をゆすったり、水の中に放ったり、いろんなことをする。僕はその隣りのコースで泳いでいる。今日は実に天気もよく、プールに光が差し込んで気持ちが良かった。そういう光景を見ていると、僕自身も赤ちゃんになって泳いでいるような気がして、なんだかとても幸せだった。「おいでおいで~」という若いお母さんの胸に、「ばばばばばば」って僕が泳いで行くことを想像してニヤけた。

 赤ちゃんは実に不思議な生き物だ。ビービー泣いているから、水が怖いのかと思っていたら、水に浸した瞬間、泣き止んでしまう。さっきまで泣いていた子が、おいでおいでの掛け声に、腰掛けていたプールサイドから入水してすいすい泳いでお母さんの元にたどりつく。一瞬沈んで心配してしまうけど、10年前から泳いでますっていう年季の入り方で、ちゃんと器用に手足を動かし前に進んでいく。僕だったら泣くね。「ちゃんとフォローせんかいっ!殺す気か!」って泣きながらブチ切れる。絶対に。

 泳げない、ってのはそれを見る限り後天的なものかもしれん。だとしたら僕の水恐怖症は、父親あたりが僕を風呂に入れて水の中に落っことしたか?そんなことも心配になってくる。赤ん坊はもともと羊水の中で浮かんでいるようなもんだから、水恐怖症ってちょっとありえない。本来は落ち着くべき状況なのだ。僕の水恐怖症が先天的なものだとしたら、僕はとっくにお腹の中で溺れてた。

c0045997_1184376.jpg …溺れてたらしい。4度も流産しかけたと母が言うのだ。しょっちゅう暴れてお腹から足の形が見えることがあったって。今でもよく落ちる夢をみる。夢じゃなくてもよく落ちる妄想に囚われる。ただ立っているだけで、高所恐怖症的な恐怖がふと襲ってくることがある。特に天気の良い日、自分が空に向かって落っこちていきそうな気がすることがある。思わず「はっ!」と声を出してしまう。

 三島由紀夫の小説「仮面の告白」で産湯の記憶についての記述があります。「金のたらいの縁が光った」。これは創作だという説が有力ですが。僕にもそれと似た記憶があり、それがどの年代の記憶なのかわからず仕舞いどころに困っている記憶がある。それは、ただただ眩しく、ただただうるさく、ただただ息苦しく、とにかく目が回っている自分の記憶です。(※二日酔いになった最近の記憶ではありません!)そして、絶望感。「落ちてしまった」というこの記憶はどこから来るのか。

 本当に綺麗な海で泳いだことのある人ならわかる感覚、自分が水の中にいることを忘れてしまうような浮遊感。高所恐怖症の人ならジタバタしてしまうだろう。僕が幼い頃感じた水の恐怖は、物理的な水に対する恐怖ではなく、窒息と墜落への原理的な恐怖であるように思う。そのような恐怖を今は感じることがなくなった。でも、時々、自分がこの地上からどこかに落ちて行ってしまう嫌な夢を見る。そういう時、僕は仕事中であろうが声をあげる。かなり恥ずかしい。

 「泳ぐ」という行為はもしかしたらその「落ちる」行為の代償ではないかと思うことがある。どこから落ちてきたのか、どこへ落ちてゆくのか。時々お風呂に、水中眼鏡を持ちこんで、純粋に「潜る」という遊びをしている。息が完全に切れた所で光の加減が少し歪んで見えることがある。もしかしたら、そこを越えると「おんぎゃあ」って違う世界に落ちてゆけるのかもしれないとい思う。そしたらまた、キラキラしたプールで「ばばばばば」ってピチピチした胸の中に飛び込めるのだろうか。と、そんなことを思ってみた。僕だったらやっぱり泣き止んじゃうね。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-27 01:21 | 感覚について
3分間恋愛術
 電車で本を読むのを日々の密かではない、おおっぴらな楽しみにしている。重たいカバンの中は図書館状態だ。しかし、稀に、ふとどんな文章も頭に入ってこなくなる時がある。文字を目で追いはするがその文字がどんな意味を持つものなのか分からなくなる。初めて文字を見た進化前の猿のような気分である。そんな時は素直に顔を上げて人を眺めて楽しむことにする。

 昔から、よく人を凝視して、両親に叱られた。でも、治らない。ある人は目をそらし、ある人はどこかに移動し、ある人は殴りかかってきたりもする。でも、極まれにある人は、ニコッと笑いかけてくる。そんな時は、ただ照れてしまう。こちらとしてはその人がどんな人なのか「知りたい」だけなのだ。人は顔や衣装や、爪や匂いのような細部にさまざまなその人の生活の情報を保存している。そして、パスワードさえあれば、その情報を引き出すことができる。或いは「読み」は間違えているかもしれない。そんなことはあまり関係がない。これは単なる、イメージの遊びなのだ。

 今日、電車で、見つめた女の人は僕に笑いかけてきた。それから、ちょっと思い直したのか、咳払いをしてそれをごまかした。パスワードとはこの「声」のことである。その人の声を聴くと、その人が持つ、さまざまな情報が声を中心に像を結ぶ。その人の好き嫌いや、趣味、性格や過去。どんな恋愛をして、どんなセックスをするか。小さい頃のどんなエピソードによってどんな性格になったのか。そして、この延長線上に「3分間恋愛」がある。

 これは即ち、3分間内でイメージ恋愛をするということ。出会いから別れまで、その人と僕がどんな恋愛をし、どんな喧嘩をし、別れるのか、そして今、例えば電車の中。この時が最後の別れの瞬間。今までのことが走馬灯のように頭の中を駆け巡り「さよなら~」電車を降りる。たった、それだけ。それ以上でなく、それ以下でもない。

 妻帯者の僕としては、ちょっと不謹慎な遊びかもしれない。それに、僕がこんな遊びをしていると言ったら、ある人は顔をしかめるだろう。しかし、やめられない。これは一種のトレーニングなのだ。或いは、本を読むように、人を読んでいるだけ。ルールとして知っている人には決してしないこと。これだけは守っている。もう二度と会うことはないだろうということが分かっている人にだけ「3分間恋愛」を行う。

 今日の人は様子が違った。まず、笑いかけてきた。咳払いとともに、パスワードを打ち込み、その人の中に入り込む。驚くことに、彼女は僕が入り込んだことを察知した。僕の目をじっと見つめ返してうなずいた。そこで、僕は「3分間恋愛」のストーリーテーリングに入る。「しかたない、その話をきくわ」というよう様な顔で、彼女は僕の隣の席に座った。

 僕はいかに彼女と出会い、どんな恋愛をするかを心の中で語り始める。なかなかの出だしだった。心拍数が上がる。彼女はじっと目を閉じて聴いている。少なくともそのように見える。しかし、どのように喧嘩し、別れるかを想像する段で、話が先に進めなくなる。そこで、僕は彼女が僕にとって完璧な相手であることを知る。100%の異性というのが存在するかどうかは分からない。ただ、直感的にそう感じただけのこと。そして、この先100%の女性に出会う確立は0に等しい。僕はここで彼女と別れてしまったら、二度と会う機会がなくなるのはわかっていたので、思い切って声をかける。「次の駅で降りましょう」彼女は静かにうなずく。

 と、出会いはこんな風なストーリーにした。それから、100%の我々は100%の恋愛をして、100%のセックスをして、100%の喧嘩をした。たくさんたくさん、思い出も作った。そして最後に100%の別れを急いでしなければならない。もう僕の降りる駅は次の駅だ。もし、本当に彼女に「次の駅で降りましょう」と言ったら彼女は付いてきてくれるだろうか。ここで「別れない」という選択肢もある。しかし、僕はそんなことはしない。なぜなら、これはイメージの遊びだから。ここで、全ての思い出を捨てて僕は自分の現実に帰っていかなければならない。

 ここまではまずまずの出来だ。彼女の顔を覗き込む。大丈夫、ちゃんと目を閉じて僕の話に聞き入っている。イメージ再開。
「ふたりで食べた大福、美味しかったね」
「本当に、でもお別れね」
「うん、これはイメージだからね。本当の出来事じゃない」
「二人の記憶は永遠になくなり、わたしはあなたを忘れるの?」
「うん、すっかり忘れる。2年前、二人が出会ったあの朝の電車のことも」
「2年、正確には10分くらいね。まるで、走馬灯のよう。さよなら」
ドアが開いた。僕は立ち上がる。彼女が顔を上げる。もう一度、ニコリと微笑んでくれた。「なかなか面白いお話ありがとう」とは言わない。でも、きっとそう思っている。そういうことにする。「お粗末さまでした」僕は一度お辞儀して、電車を降りた。

なかなか今日の「3分間恋愛」は良い出来だった。しかし、疲れた。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-24 12:11 | くだらないこと
デザイナーということ
 どうして、僕がヘリクツばかり言うようになったか考えてみる。それは仕事柄なのだ。職業病みたいなもの。しかたないだろう。と思ったら、子供の頃から理屈屋だったそうだ。しょんぼり。おかしいな、大学生の頃は「理屈じゃないだろう!」と粋がっていたはずなのに。

 なんの間違いかファインアートを目指していたはずが、いつのまにか職業デザイナーになっていた。あれれ、人は生き方を自分では決められないものであるなぁ。でも、デザインに関しては完全な独学なので、ものすごいコンプレックスを持っている。コンペに上がってくる作品を観てはいつも身もだえしている。

c0045997_1365328.jpg しかも、責任ある立場に立たされると、失敗は許されない。ファインアートならば、「駄作だね。」と言われても「そうですか、でも、僕の作りたかった作品なんです」と言えば済む話だ。デザイナーは「駄作だね」とは言ってもらえない。「駄目。」これでおしまい。コンペでは「駄目」も言ってもらえない。

 「センスがいい」という褒め言葉がある。でも、これは作る側には存在しない言葉だ。ことデザインに関しては50%の経験力と30%の技術力と15%の知識や理論、分析能力、説得力もここにいれよう。あと4%の運。のこり1%のセンスだと思う。でも、デザイナーさんたちはこの1%でしのぎを削っている。胃が痛い話だ。

 僕にはセンスも経験力も技術力もない。自分で言うのもなんだが、運と知だけがある。いや、知に関しては努力しだいだ。ひとつだけ、自分自身に自信が持てるとしたら「見る力」ではないかと思う。そして、僕はこれがモノツクリにとって一番重要な能力ではないかと思っている。

 とにかく、このことで、僕はなにかと感謝している。なにに感謝していいのかわからないので、なにかにつけて感謝している。学校で教えていた時、考えてみれば、物凄くデタラメな授業をしていた。ただ、一点、「よくみること」このことだけを言い続けてきた。100みたら、どんなおバカさんでも、1の真実をみつけ、それが100貯まったら、1だけ確かな表現ができる。

 歳をとると「ない」物ばかり気がつくようになる。若い時は「ある」ものだらけだったのになぁ。だから、ささやかでもあるものの中で何かを組み立てるしかないことも分かってくる。それを才能とは言わない。建築とでも言ってほしい。

 ヘリクツはつまり、家を建てるときのカンナのおが屑だったり、廃材だったり、そういった余りのように思える。商品には観る人がわかるような努力の後やリクツは持ち込みたくないという考えはきっと正しい。少なくとも、僕はエレガンスでありたい。

 でも、こんな仕事を続けていると、余りはたまる一方である。理詰めの仕事をする一方で、役に立たないヘリクツや不条理さといったものが、製造したものとまったく同じだけ出てくる。むしろ、人は生きた分だけ、その逆の負の自分を抱えることになるのではないかと思う。いや、違うな。言葉で囲い込むことができない零れ落ちる自分。

 ある日、それはたまりにたまって、バンッ!爆発する。その時では遅い。だから、屁がぷっぷ。ヘリクツこねこねクソジジイでありたいと思う。それは、いや顔にも構築されてゆく自分や、理屈に対するささやかな抵抗なんじゃないかな。ヘリクツはできるだけ大げさで下らない方がいいよ。うん。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-23 13:09 | くだらないこと
コーヒー 豊かな時間
 イタリアに旅をするまで、15年間コーヒーが好きなフリをしてきた。なんかちょっとカッコいいじゃないですか。「違いの分かる男」みたいで。正直、苦手でした。心の中では「苦汁(にがじる)」と言って蔑んでました。飲むと寒気がするのですが「うーん」と顔をしかめ、味わってるフリでごまかした。きっと、誰もおんなじなんだろうと思っていた。コーヒーを分かるフリをすることで大人になれるんだろうと。「苦汁(くじゅう)をなめる」「苦渋の選択」の「苦汁」や「苦渋」ってコーヒーの事だとちょっと思ってました。その苦汁を好き好んで舐める、この痩せ我慢が大人なんだろうと、大人の世界の複雑さをそれなりに楽しんでいたんですが、それがちょっと間違ってるというのに3年ほど前、気がついた。

 イタリアにおいてコーヒーはドリンクじゃない。それはなにか象徴的な出来事のように思える。皆、コーヒーを飲みに行こうというような気持ちになってからコーヒーを所望するのではなく、生理的、あるいは宿命的、日常に楔を打ち込むように、人はコーヒーによって時間に「しるし」を付けてゆく。「飲む」ではなく「打ち込む」。ある人は、足早に、ある人は通りすがりにハタと足を止め、回れ右をして、キュっとあおってサッと去る。何事もなかったように。ある人はその後、その場で数分間おしゃべりに興じたあと、最後にもう一杯、キュッとあおってから去る。基本的に現地の人が通うカフェには椅子がない。

 イタリア人の飲むコーヒーとはすなわち「エスプレッソ」のことである。それまで、何度か日本でも飲んだことがあったが、僕はそれがコーヒーの豆の種類だと思っていた。初めてときは呪いのように真っ黒な液体を見て、それが間違えて出されたのだと思った。それは「間違えて」いるのだと。きっとここの喫茶店は粉コーヒーの分量を間違えたんだと、こころの中で憤慨していた。エスプレッソがコーヒーを蒸らして絞ったものだということをイタリアではじめて知った。絞った!?とんでもない!と思っていたが、彼らのコーヒーの享受の仕方に興味を覚え、一度、そっくりそのままマネをしてみようと思った。

 何か用事のある人のように早足でスタスタ道を歩く。あくまでもコーヒーのことは念頭にないというふうなウォーキングがここでのポイントだ。視線は100メートル先を見つめたままカフェの前まで来て、ふと立ち止まる。ここでカフェを見てはいけない。まるで、一瞬、時間が止まったという具合にだ。本来の自分は視線を100メートル先に維持したまま、歩き続けているイメージを持ち続ける。その自分を置き去りにして、あるいは脱ぎ捨てるようにして回れ右をする。ここで、初めて件のカフェを見る。さっとカウンターの前に立ち「うんかふぇ」。程なく出てくるちっちゃなコーヒーカップ。それに砂糖をスプーン一杯(みんなそうしていた)。なにかのまじないみたいに良くかき混ぜて、一度、大きく息を吐き出す。その後、一気にキュッとあおる。

 率直に言うと、今までに感じたことのない快感がそこにあった。一瞬、体中の毛穴が引き締まって、時間が収縮して止まったようになる。それから、徐々に時間がほぐれていくみたいに、体の緊張がほぐれてゆく。この時、ああそうなんだ、と一気に合点がいった。コーヒーってそういうことなのね。これは時間そのものなんだ。タバコもコーヒーと同じ。吸わないけど分かる。あれは時間を目に見えるようにする道具。コーヒーとおんなじような時間の収縮もある。だから、タバコ吸う人をうらやましくはないけど、吸わない人って気持ちが休憩しない。休憩時間と仕事時間の区別を付けることができない。実は吸ってた時期があるから分かる。3分間。あの時間だけきちんと休憩できる。煙だけでも見たいと思うときがある。線香でも立ててやろうかと思うときだってある。でも、やっとタバコに変わる休憩方法を発見した。エスプレッソだった。

c0045997_1284069.jpg 今でも、イタリア仕込みの手順で、一日に数度、エスプレッソを打ちに行く。不思議なことにそれ以後、コーヒーの味も分かるようになった。時間を楽しむ有効な方法だと思う。休日は六本木にある会員制の図書館で一日中コーヒーを飲んで仕事をしている。時間そのものを楽しむと言うのは簡単そうでいて難しい。とても贅沢な行為だと思う。普段、仕事をしている時は、ただ、時が早く過ぎてくれることを思ってしまうが、そんな生き方はしたくないなとイタリアにいってつくづく思った。彼らは時間の使い方のセンスがいい。時間を売って生きていきたくはないよね。仕事の努力じゃなくて時間を楽しむ努力を優先したいものです。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-22 12:10 | 食べる事と飲む事
屁理屈ヌキの日記に挑戦
 「お前のブログは理屈っぽい」と言われた。そう、僕は理屈っぽい。付け足してもらうならば、理屈っぽく口うるさい頑固じじいと言ってもらっても差し支えない。よくTVにだって説教してるし、始終、口の中でもごもご文句を言っている。

 でも、「何か言いたいことあるの?」と訊かれたら「あ、いや、なんでもありません」という意気地の無さも持ち合わせている。なかなか完璧である。将来の夢は野球ボールが飛んでくる縁側で怖い顔で座っているクソじじいになることだ。

 一度、日々の理屈を言わない努力をしたことがあった。そうすると何故か作品が理屈っぽくなってしまった。これはきっとガスの問題なんだろう。どこかでガス抜きをしなきゃならないのよね。

 小さい頃、近所に住む駄菓子屋のオバはんがオナラばっかりするので、「オバはん屁こくな!」って言ったらゲップするので怖くなったことがある。ガスはどこかに抜かないと人はパンクしてしまうのである。うん。

 でも、ちょっと努力してみる所が僕のかわいいところ。理屈抜きの日記らしい日記に挑戦してみる。

 今日は5月の舞台準備のため、朝一の打ち合わせを大手町で。その後、奥さんと待ち合わせて、御徒町の「うさぎや」にどら焼きを買いに行く。これがね、おいしいんです。「うさぎや」は色んなところにあるけれど、御徒町のうさぎやが一番。あんこがね、もうとろとろ。豆がまめまめしてるの。「まめ~」って叫びたくなる。何言ってるのか自分でも解りませんが。

c0045997_22343392.jpg それをね、いつもは店の前で開けてまだ温かいのを、ほおばっちゃうんだけど、今日は我慢我慢。すぐ近くの湯島天神に梅が咲いているのを思い出して、急ぎ足で湯島天神へ。ちょっと見頃は過ぎてたけど、まだまだ、いい感じ。裏手の軒に腰掛けて、どら焼きをパクパク。梅がうめうめしててね。すごくいい匂いで。むふぅーむふぅー、おほほほって。でも、なんかもう趣味が老いぼれ。

 で、そのまま、アメ横まで歩いて行って。これはいつものお決まりコース。なにか春らしい旬のものを探してフラフラ。今日はタコの卵とセリを発見。で、いつものように、生臭いビニール袋を抱えてスタバに直行。いつものように顰蹙を買う。

c0045997_2235130.jpg 今夜のメニューは牛肉とセリのちぎりこんにゃく鍋。タコの卵、半分は湯通しして酢味噌と生海苔の和え物。半分は、しょっつる醤油とたまりでつけこんで生のまま頂く。お酒は黒糖焼酎「里の曙」田舎から送ってきたもの。しめて2人前総額600円。でも、こんなに贅沢していいのかしらんって気持ちでいっぱい。おほほほ。

 でした。まる。
でもね、おいちゃんはね、贅沢ってのはぁ・・・くどくどくどくど。いや、もう後は一人で始末します。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-20 22:40 | 食べる事と飲む事
スローミュージック 音楽のTPO
 人の家に行ったら、まず、本棚とCDを確かめてしまう癖がある。読んでいる本や聞いている音楽で、その人の好き嫌いは決めるつもりはないけれど、聴く音楽や読む本の傾向で、その人がどんな人なのか見えてくる。それだけで判断しようなんて思わないけど、例外もある。これが、結構、侮れないのだ。要注意なのが浜田省吾と尾崎豊。いや、決して、彼らの歌が悪いと言うのではない。でもね、彼らのファンと言うのは、僕が知っている範囲では、いいですか、知っている範囲ですよ。ここ、大切です。いついかなるときも大音量でそれらの音楽をかけたがるのです。いついかなるときも!一度なんか、自宅に招いた友人が「BGMかけていいか?」と言って、おもむろにポッケの中から尾崎豊のMD取り出した時には驚きました。

 大学の頃、となりの研究室の彼がもう、朝から晩までハマショーを掛けまくるんです。その時ばかりは気が狂うかと思いました。どんな音楽でも、一日中同じモノを聴かされたら気が狂うと思いますよ。よくTUTAYAとかの玄関にちょっとしたゲームが置いてあるでしょ、ぴろぴろろ~って鳴らしてるじゃないですか。あれね、僕だったら一日でアウトです。それを理由に即日退社しますね。で、僕は日本画専攻だったんですけど、これはハマショーに合わないんですわ。「まねー、まねーいっつあくれいじぃ~」ですからね。「いい加減にしてくれないかな~」と隣をガラガラっと開けると、そいつがね、サングラスにジージャン着て日本画描いてるわけ。もう、怒る気もなくなっちゃいました。

 音楽にはTPOがあると思う。なんにだってTPOはある。僕は人も食べ物も音楽も滅多に好き嫌いしない良い子なのですが、空気を読まないものというのがとっても苦手です。空気を読むのは人だけじゃありませんよ。植物だって春になったら、空気を読んで、そろそろいいかな?って地面から伸びてくる。そういうやつを自然からちょっと拝借して食べるのが一番おいしい。それは食べる側の心意気も同じです。食べたい時がそれを体が必要としている時と心得て、注意深く食べたい物を考える。誰も朝からステーキを食べたくはならない。もしかしたら、そんなワイルドで意味深な朝だってあるかもしれないけど。とにかく、正坐して日本画を書いている時にハマショーはTPO違反で厳罰です。でも、やっぱり僕にも尾崎豊やハマショーを聴きたくなる時が来るかもしれない。例えば、社会から寄ってたかっていじめられて、酔いつぶれて、路地裏で座り込み、恋してる人のことを思う時とか。(そういうシチュエーションに遭遇するか疑問ですが)「I LOVE YOU♪」とか歌っちゃうのかねぇ。歌わないと思うけどねぇ。でも、正しい状況に正しい場所、正しい状態で音楽を聴けば、どんな音楽だってすばらしいと僕は思います。

 で、ここからが本題。昨日、会社の人からCDを借りたんです。「アルタイのカイ」という民族音楽。以前、このブログでも取り上げたホーミーという音楽です。で、これがスバラシイ。僕はTVをほとんど見ないせいか、流行歌というのはまったく聞かない。ファーストフードみたいで、なんか体に悪そう。音楽にもスローフードとファーストフードが存在する。そのCDを会社で聴き始めたら仕事がまったく手につかなくなっちゃいました。仕事中に聴く音楽じゃありませんね。TPO違反。でも、なんか聴いてると、仕事してるこっちの方が間違っているような気になっちゃいました。勝手に涙がぽろぽろ出てくるんですね。こういう音楽というのは力ずくで、人の心をあるべき所へ引き戻す作用があるように思う。少しだけCDの中から詩を引用させてもらいます。

  長い夜を短くするため、聴け、わたしの歌うカイを。
  重い頭を軽くするため、我が子よ、わたしは語りはじめる。
  この世で一番のあの日の出をもっと長く見るため、
  聴け、わたしのカイを。
  おまえに心の平安を運んでこよう、
  わたしはわたしのウルゲルの言葉を歌いはじめる。

 これらの歌を聴いていると、歌い手がこの世を超越したところから声を通じて私たちをもっと大きな繋がりへと結びつけてくれるような気がします。
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 で、正しいTPOの音楽について話したついでに、作品をひとつ。アルタイのカイに触れた後でなんなのですが、以前、制作したラジオ番組から「シチュエーションミュージック」というのを。これはまさにコンセプトはTPOに適した聴き方を提案するというもの。今日、紹介するのは「トラックの運ちゃんが聴く舟歌」です。オープニングとCMそして曲(途中までです)をお楽しみ下さい。「RADIO」
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by radiodays_coma13 | 2005-03-19 18:50 | 音楽について
バベルの崩壊にえんがちょをくらわす
 汚かったのかもしれん。会社で女の子に「えんがちょ」をされた。正確には「ぎっちょ」と言っていた。「それは違うでしょ、それは『ぐっち』だよ」と、隣の女の子が反論した。「いや違うよ『みっき』だよと僕は答えた。すると、そこをたまたま通りかかった上司が「バカヤロー!それはえんがちょだよ」大声でまくしたてた。「そうだよな!」と前に座っている社員Aに同意を求めると「そうですよ!」。そこに割って入った社員Bが「それは、めんちょです」。話がだんだん大事になってきた。上司は上司らしく、通りかかる人々に指を絡ませ「これ、なんてゆーんだよ!」とからんでいる。その多様性は年代なのか、地方性に因るものなのかが論争の中心になった。関東を中心に「えんがちょ」北に向かって「ぎっちょ」ではないか、という、「えんがちょ分布図」なるものが仮定された。しかし、何人に聞いても「みっき」に類似する言葉はでてこない。「みっき」だけは僕の勘違いというということで、その分布図からはずされてしまった。
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 未練がましく関西出身の社員にきいてみると「えんがちょ」とのこと。活路は絶たれた。しかし、「昔はなんか言うとったような気がするなあ、でもTVはだいたい、えんがちょやろ、それでちゃうかなあ。もっといろいろあったような気がするよ」という興味深い話。色々な人に電話をかけて聞いてみた。すると名古屋では「めんちょ」福岡では「ぎっちょん」埼玉で「えんがちょん」、他にも「べべんちょ」「きっちょ」「ぐっちょん」が存在することが分かった。ここで、ひとつの共通点が明らかになる。どれも「cho(チョ)」の発音を持つということ。おそらく、なにかひとつのルーツからの派生だということが推測できる。しかし、ここにきても「ミッキ」だけはどこにも属してくれない…。

 私の憶測で話をさせてもらう。こういうのは得意だ。「えんがちょ」はつまり「縁がちょん」ではないのだろうか。糞などを踏んだ人に対して縁をちょんと切るという意。それを証拠に「えんがちょ」と言った後に両手で糸を伸ばす仕草をしてそれを切るアクションをすることがあるという証言を得た(「千と千尋の神隠し」で同じ行為を確認できる)。とすると、指二本を絡ませるあの独特の仕草は「ハサミ」を意味するのではないだろうか。大阪では指は絡ませずにちょうどチョキと同じ形を作るようだ。[cho]という言葉の響きだけが残り、バリエーションが派生してゆくという試論をひとまず立てることにした。

 ここで、「えんがちょ」の真意よりも興味深いのは、ひとつの意味をもつ、この言葉のバリエーションの豊富さ、多様性であるように思う。主にこのような現象は子供のコミュニティ文化の中に多く起こるような気がする。例えば「じゃんけん」。私が知っているだけでも「じゃんけんほい」の他に「でっちんほい」「いんじゃんほい」あと、「でっちこまにゅーどの屁の河童」という意味不明のものもある。それから「滅茶苦茶にすごい」の滅茶の部分の展開には驚くべきものがある。主に関西圏を例にとると、「むっさ」「めった」「げった」「がった」「ごっさ」「でっさ」「ぐった」「ぼっさ」「でら」「げら」「めら」「がら」「ごら」その上に「おに」をつけて更なる変化が現れる「おにむっさ」「おにでら」「おにーん」そして、もっと興味深いのが、この最上級をあらわす「滅茶」の使用により、その利用者の生活域を特定することができるということである。現に、私が小学生の頃「めちゃ」活用により、相手がどこの縄張りのものかを予測することができた。線路向こうの者なのか、川向こうのものなのか。

 それは驚くべきことに、丁目ごとの変化を見せている。つまり、方言はもっと大きなエリアでの変化を捉えた言語を表すが、それよりも狭い範囲、土地に根付いた存在としての子供において、前段階方言とでも言うような方言の元を作り出しているということである。ここには方言の捕らえ方を問い直すものがあると思う。交通が行われないゆえに発生する単なる地域差としてのネガティブな方言発生説ではなく、交通を活発化したゆえに起こるコミュニティ同士の軋轢により発生するというポジティブ発生説が考えられる。つまり、方言は自らがどこのコミュニティに属するかということを明らかにし、速やかな住み分けを行うための手形の役割をするのだ。

 そう考えると聖書における「バベル」説が崩れ去ることになる。人間が神に挑戦し、バベルの塔を建てようとした時、神が天罰として人々の言葉をバラバラにした。結果、人々はいがみ合うことになった。しかし、方言や、それをもっと大きなエリアで見たときの言語は、人がポジティブに作り出した、平和に住み分けるためのものということになる。TVやパソコンが文化の平板化、グローバル化を推し進めることで、一番最初に地域言葉を、そして地方言葉を破壊してゆく。その事は、言葉が生きてゆくための新鮮な流れを失うということでもある。動きを失くした言語は淀んで、終には死ぬ。現在でも世界中で7000の言語が死滅しようとしている。それはメディア文化と無関係ではない。子供の言葉遊びは、真に豊かな原始の言葉の海であるように思える。それが失われるのは人にとってどんなダメージを与えるのだろうか。言葉が腐るということは実際に起こりうるのだ。みっき、ばーりあ。べべんじょ、かんじょ、かぎしーめた!縁きーった。

「えんがちょ」あなたはなんて言いますか?
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by radiodays_coma13 | 2005-03-16 23:50 | 言葉について