「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
<   2005年 02月 ( 23 )   > この月の画像一覧
覗くってことはオモシロイ
c0045997_065369.jpg
覗くってことはオモシロイ。丸見えなんかよりもHっぽい。いけないことをしているような気がする。ためしに指で輪っかを作っていろんなものを覗いてみるといい。例えば富士山。いつもの富士山なのに、ただ、覗くだけで、なんだか富士山の秘密の場所を見てしまったような気がしてくる。やっぱりそれは見えないところを妄想してしまうからなんだな。富士山のあの微妙なとんがり具合とか、あそこのあんな具合とか。それは絵画の額もおんなじで、ホントのところ、絵は見えてない部分が一番オモシロイわけで。モナリザのパンティーの色はどんな色だったか、とかね。モロ見えって事は、タダ、ソコニ、ミエテイル、それだけではつまらない。これからは見せ方よりも隠し方を考えなきゃ。女の子だって、いい服着たり、化粧するよりも、うまい脱ぎ方をお勉強したほうがモテモテというものです。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-28 00:11 | くだらないこと
脳内オペラ
 早々、「オペラ座の怪人」を観に行った。ここで、映画の感想を言うつもりはない。面白いかどうかはそれぞれの問題なので。ただ、オペラ(ミュージカル含む)マニアの私としては、十分に楽しめた。オペラ好きの人はあまり知り合いにいないけど、オペラが我慢ならないほど嫌いという人はたくさん知っている。あの、甲高い声と、わざとらしい世界が嫌なんだと。でも、こちらとしては、そのわざとらしいところが大好きなのよ。もう、芋焼酎みたいなものである。好きな人は酒臭さが好きで、嫌いな人はそれがイヤ。相容れることはない。ズバリ、オペラの魅力は「嘘」にある。どれだけ嘘をつけたか。普通「そんなことないやろ~」と大木こだま風ボケ突っ込みしたくなるところを、どっぷり浸ってハンカチ噛んでメソメソ泣くところが気持ちよい。自ら、その嘘にダイビングして、能動的に楽しまなければ楽しめない。そこでは、自分が主人公なのよ。ヒロイズムね。TVのように受動的でいては、嘘っぽいだけ。しかし、オペラの嘘は「嘘っぽい」じゃなくて、明らかな嘘である。オペラを嘘っぽいという人は端から批判の仕方を間違えている。

 ただ、現代において、オペラが成立するかと言われたらちょっと疑問が残る。そもそも、都会というもの自体が、人間の作り上げた純粋にイメージから作り上げられた幻想の世界そのものなのだから。そこに一切の自然は存在しない。そもそも、妖怪もお化けも人間が暗闇と自然に対する畏怖をイメージ化したものだ。電気の明かりがない時代には、日常に妖怪やお化けがあふれていた。「源氏物語」などでは人間世界と超現実的な世界の区切りをつけることすら難しい。妖怪の存在がフィクションでない。過去の人たちは、そういった超現実の世界を祭りという形で外在化させ取り込んできたと言える。ハレとケという感覚である。そのことで、彼らは生活のバランスを保ってきた。しかし、我々には本当の闇は存在しない。24時間、街には明かりが灯り、コンビニで買い物ができる。街に妖怪はいなくなった。そのかわり、我々は自らの心の中に闇を持つようになったのではないか?しかも、我々は祭りによってその闇を浄化することもできない。そして、ハレとケの境がなくなった。ということはその闇に住む、妖怪と神的なものとの区別もつかなくなったということでもある。

 私は5年間、舞台の仕事をしてきた。演目のない日は誰もいない巨大な劇場を一人で留守番した。そこは、「オペラ座の怪人」とまではいかないけれど、謎めいた迷宮空間である。しかも、昼というのに、一切、日の光が差し込まない闇の世界。そこを一人で点検するというのは、気持ちのよい作業じゃない。どこの舞台でもひとつやふたつ幽霊話を持っている。チャンスのある人は舞台で働いている人に尋ねてみるといい。絶対にひとつくらい体験談をしてくれるから。例えば、スノコ(舞台天井部)の電気ケーブルが本番中に外れたようなので上がってみると、そこに子供が立っていたとか、ね。次に上がってみると今度は、家族でコタツに入っていたという。…コタツって。因みに僕は、舞台に設置されたモニターに、いるはずの人影をみたりしました。怖いので本番のない時はいつも消していました。そこで、私はこう思うのです。都会から闇は消えたが、舞台には人間の手で作られた人工的な闇が存在する。つまり、都会で生活することができない妖怪たちは舞台で生きのびているのではないかしら。

 そこで「オペラ座の怪人」を考えると非常に興味深い。現在、上演されている90%以上のオペラは前世紀の前半に創られたものであるということ。現在制作されたオペラは上演される機会に恵まれても、一度か二度。ロングランになることはあまりない。その中で数少ない成功例が「オペラ座の怪人」である。現代のオペラやミュージカルでヒットしている作品の不思議な傾向は舞台を扱ったものが多いという事。「シガコ」「ムーランルージュ」「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」もそう。こう思うんです。ファンタジーは舞台の外から出ることができなくなった。「オペラ座の怪人」でも舞台以外のシーンはほとんどなかった。シーンとして成立していたのは唯一、墓地のみ。(それもある意味、面白い。)

 我々は現実の世界にファンタジーを持つことができなくなったのかもしれない。わざわざ自分たちで闇の装置を作らなければならない。我々は日々、都会という不自然と対峙し、超過密な日常という非日常の中で生きている。現代において、リアルなんて言葉に意味はない。リアルを嗜好することのほうが似非リアルですらある。むしろ、TVに登場するブルジョアが自分たちの家の内装を19世紀貴族風にしていることの方が不思議なリアルを感じる。舞台の中でしか生きることができず、善悪の区別も曖昧な怪人ファントムに現代に生きる妖怪の脆い美しさを感じた。そして、それは完全な妖怪ではなく、半人半獣、仮面で顔を隠した、合わせ鏡に映る自らの姿であることは示唆的だね。しかもファントムは鏡の中から現れ鏡の中に帰ってゆく。

 今の時代、神も妖怪も外の世界にいないことが自明のことになってきた。月に立ったアメリカの宇宙飛行士バズ・オルドリンはそこに神の不在をみたという。そして、精神の異常をきたした。神や妖怪を外に求めてももう見つからない。それは自らの内部にしか存在しない。もしかしたら我々はもうオペラやファンタジーという豊かな「嘘」を外在化させることができなくなっているのかもしれない。そして、ハレとケの境目をなくした、その分だけ、我々の生活そのもののリアルが希薄なものになってきているような気がしてならない。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-27 01:10 | 考える
戦う携帯電話
 「宇宙船地球号」という言葉を耳にすることがある。でも地球は宇宙船ではない。地球は戦いのリングなのだ。戦いが終わればリングは要らなくなる。戦いのないところにファイトマネーは生じない。残るのはカラッポのリング。誰もいない地球……。そうならないためにも我々は戦い続けなければならない。滅ぼし合い、膝まづかせるための戦いではなく、違いを見せつけるための戦い。種と種のぶつかり合い。例えばトムとジェリーのように、例えばアンパンマンとバイキンマンのように。そして、日本の神々のように。仲良くけんかするしかないのだ。日本の神道は戦いの上の共存を伝えている。いとも簡単に差異は差異のまま取り込んでしまう。そこに悲劇的な滅ぼしあいはない。一神教にあるのは自己以外の拒否だ。TVというメディアは性質上、一神教的にならざるを得ない。今、必要なのは多神教的なマルチメディアではないだろうか。多面的に物事を捉える見方から立体的な言葉が生まれる。

 コミュニケーションにもまた、ノイズやズレが必要になってくるに違いない。でないと頭に電話を埋め込まれてしまう未来がやってくる。一方ではコンピューターウイルスが安易なネット世界の一元化を防いでいるという見方だってある。要はネット社会の一元性に伝染してしまわないための免疫注射の役割を果たしていると言うのだ。携帯電話の本当の良さは「ゆらぎ」にあると思う。(それは例えば、事前に待ち合わせをしなくても、会いたいときに会えるといった類の揺らぎの延長線上にある。)

 例えば、楽しめる形でノイズを与えるのはどうだろう。人格を持った携帯電話。肩の上にオウムのように乗っかって「いやな奴からかかってきよった!」と自ら着信拒否してしまったり、誰か友達が近くにいると教えてくれたり、いろいろとマネージメントをしてくれる。「なんや、彼女えらい機嫌悪いで」と相手の機嫌まで教えてくれたり、ケンカの仲介役に携帯電話が立ってくれたりもするなんてのもオモシロイ。これからは戦う電話だ。馴れ合いじゃないコミュニケーションツール。電話が繋がっているだけで心が繋がっているわけではないのだ。それだけで安心してはいけない。言葉はそんな簡単に伝わったりしない。たとえ同じ言語であっても。

 携帯電話がどのような発展を遂げるのかを考えると思いは尽きない。ただ、危惧する点も多い。例えば、携帯の待受や着メロなどのコンテンツはただ、右のものを左にという初歩的なビジネスにすぎない。今後、通常のWEBを閲覧できる携帯が続々登場することだろう。そうなれば、コンテンツプロバイダーという業務形態の存続も危うい。今後は、どのように携帯を使うか、というようなビジネスモデルが主流になるだろう。携帯にカード機能を持たせたり、TVが観れたり、音楽を聴けたり。しかし、それらも携帯にとっては本質的ではない。携帯できるという点での優位性はあるが、カードもTVもオーディオ機能もただ、他に成立している機能を奪っているだけのことだ。

 携帯の本質は「いつでもどこでもだれとでも」会話ができる、人間にとっての進化した耳に他ならない。人はこれまで、さまざまな感覚を外在化させ、自らの身体から切り離してきた。車という足。TVやパソコンという目、ロボットという身体、エトセトラ。自分の感覚を自己という存在から切り離し、それを他者として、対峙したいという思い。そこに残るものは何か。それはおそらく、たましいの事。いや、この言い方は正しくない。「脳」である。これだけは自分から切り離せないという何か。人間はそこで「自己とはなんなのか」「我々は何者か」「この痛みはどこからくるのか」という問いを発し続けている。電話とは他者との会話ツールであるだけでなく、自己との対話ツールでもあるのだ。

 技術の進歩は確かに我々の苦悩を見えなくもしてきた。しかし、それは根本的解決ではなくて、ただ隠しただけに過ぎなかった。その代わりの苦悩もしっかりと与えられている。最初に伝達伝授技術の発達は新しい痛みを産むと言ったが、我々はもう単細胞生物に戻ることは出来ない。ならば、あとはマゾヒスティックに痛みを楽しむ方法を考えるしかないのだ。だから、携帯電話もコミュニケーション手段を多様化させ、今後は孤独を紛らわすための道具ではなく、言葉のズレを意識させ孤独を楽しむための道具となれば愉快に違いない。もしかしたら、近い将来のある朝、あなたの携帯電話が「おい、起きろ。お前の将来について、ちょっと提案したいことがあるんだが」とゆすぶり起こすようになるかもしれないのだ。

―終―

(2001.12)
「RADIO DAYSと愉快な未来」より


このコラムは当時掲載したものに手を加え某所に提出したものである。
書いたのは今から5年近く前になる。色々、予言めいたことを書いているが
その多くはすでに実現の目処がたった。
技術の進歩の速度はすさまじいものだと思う。
私にはそれは怖くもあり、はやくもっと先がみたいという嬉しさもある。
この後にも携帯についてレポートを書いているのだが
現在の仕事の関係上、ここにUPすることはできない。(なんのことはない理由です)

電話を道具ではなく、身体の一部として考えるとき、
我々にはもっと多くの重要なことがみえてくるのではなだろうか。

上の言葉をもって、連続して書いたきた携帯についてのコラムを終了します。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-25 13:54 | 電話進化論
「人」を愛する会(酒の話)
 ハイ、また、お酒の話です。タイトルから、なにかありがたいお話と勘違いした人はスイマセン。でも、せっかくだから、最後まで読んでもらえると嬉しいやね。まま、まずは一献どうぞ。とくとくとくっ。「人」というのはお酒の名前なのです。兵庫の加西にある「富久錦」酒造という所が出しているお酒です。これがね、ちょっと不思議なお酒なのです。どう不思議かというと、注ぐ人によって味がまったく異なってしまうんです。いやいや、嘘じゃない。僕はこう見えても疑り深い方なので、そう簡単に鵜呑みしたりはしない。そもそも「人を愛する会」とはその感覚が本当なのか自分自身でも信じることができなくて、多くの人に検証してもらおうということで、始めたのです。

 会の基本姿勢はつまりそれ。ただの飲み会ではなく、一人でも多くの人に「人」を酌み交わしてもらおうと。ルールはパーティーのホストである僕が任意にもう一人のホストを選び、お互いに任意のゲストを5人づつ選び出し計12人で行う。ここで、ゲスト以外の人はできる限り初対面が望ましい。そこで、各自の前に、とっくりを一本置き、代わる代わる酒を酌み交わしてゆくというシンプルなもの。これまで、その会を10回以上行ってきたのですが、結果的には、誰一人、その不思議を否定する人はいませんでした。

c0045997_014377.jpgさて、その不思議は実はここで終わりではありません。このお酒、どうやら味にその人の性格を反映するようなのです。厳しい性格の人が注いだ酒はキリリと辛く、八方美人でニヤニヤした人のはべったり甘ったるく。これがどうして証明できるかといえば、そのためにわざわざ初対面の人々を集めたのです。彼らにそれぞれの人が注いだ酒の味を表現してもらう。すると、不思議なことに、その表現とその人の人柄が一致している。まだまだ不思議があります。このお酒、注いだ人と注がれる人の関係をも味として表現しているように思われる節がある。Aという人が注いだお酒は共通する一定の特徴を持つのですが、特定人に対してのみ、Aさんのお酒は澄んだり濁ったりする。これはあくまでも結果論なのですが、日本酒が苦手な人が、ある特定の人が注いだお酒だけを飲むことができた。目隠しをして猪口を並べても、その人のお酒を判別することすらできる。で、後日談ですが、そのお二人さんは、その会がキッカケでご結婚なれさました。この実験の副産物として、その会からなんと3組もカップルが誕生し、2つのビジネスが成立しました。

 では、他の日本酒ではどうかというと、実はちょっと曖昧なんですが、そのような特徴があるものがあるにはある。しかし、「人」のように顕著にその性質は認められない。いや、そもそも酒を酌み交わすとはそういうことではなかったか。ちょうど、この前の日記で、「水からの伝言」という本をとりあげました。これは、その時に参加した友人が参考までにとプレゼントしてくれたものです。水は言葉やその場の空気に敏感に反応して、その形状を千変万化させるというのです。で、あるならば、人の心のこもった「酒」はさらに、その人の心を鏡のように映すのではないか。

 戦国時代、武将たちは敵同士であれよく酒を酌み交わしたといいます。今でもその人の本心を探るのに、酒を利用することってありますよね。そのような結果であるのか、今まさに戦をしている相手同士が深い友情で結ばれることもあったとか。「一献刺す」というのは刀ではない、心と心のぶつかり合いであったのかもしれません。当時は、今よりも深い沈黙と闇が夜を占めていた。そこで、酌み交わされる酒の変化に人は全てを見ることができたのかもしれないなと思う。

 さて、ここにはひとつの大きな疑問が残る。その人に注いだ酒をその他の人が味見させてもらう場合、味に変化は現れないのか?そのことをどうやって証明するのか?各自のとっくりへ誰が酒を注ぐのか?そのことで味は変化するのではないか。ならば、この瓶詰めをしたのは誰なのか?それを探りに一度、酒蔵のある加西まで行ったことがあります。わかったことは、とても良い人たちが心を込めて作っているということだけです。(いつもお邪魔する度にへべれけになって帰ってくるのですが。)さて、だいたい、会はいつも、皆に同じような疑問がわきあがって、わんやわんや言い出した頃には、宴もたけなわ、誰が誰だか、酒の味もわからなくなり、会はお開きとなるのです。私はサイエンスとしてこの会に冷徹かつ真摯に取り組んできたわけですが、「観測のゆらぎ」の壁の前で分子生物学などが今まさに抱える問題にぶち当たり、現代科学の限界を感じた次第です。ひっく。お開きです。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-24 00:16 | 食べる事と飲む事
パフォーマンスの現在―2
やわで感傷的な蓄音機の針

 詩の朗読がつまらないのは至極当然なことである。しかし、「それは詩が悪いから」というつもりはない。朗読という性質の問題である。まず、そのテキストが声に出して読まれるために書かれたのかということである。どのタイプの言語を使用しているのか?これは、実は、朗読にとって、いや、詩にとって、そして、これから書こうとしている一連の文章にとって最も重要な問題である。それが、書き言葉なのか、しゃべり言葉なのか。もっと細分化して、書き言葉であればそれが紙媒体での活字なのか、電気的なインターネットの活字なのか。インターネットの活字ひとつとっても、日記なのか、BBSなのかで大きく言葉の性質は異なってくる。我々は普段何気なく、それらの言葉を交通しているが、実は言葉を使っているのではなく、使用する言語タイプによって、我々が変えられていることになかなか意識的になることができない。

まず、書き言葉で書いた詩を朗読する例について考えてみる。詩人が詩を書くと言うこと。それは内から湧き上がってくる想念を文字に変換すること。つまり、意識の中にある言葉以前の状態を言葉に翻訳している。そして、次に、それを活字化して線の連なりとして紙の上に定着させる。形への翻訳作業。ここで、何度か、これまでの工程を往復して文章は推敲されてゆく。このあたりは、彫刻家が、粘土で塑像を製作し、石膏で型をとり、再び彫刻され、再度型を取り、ブロンズに鋳造される工程と似ている。定着された活字は次に複成される。時にはデータ化され、又はコピー、印刷されて多量にばら撒かれ配信される。言葉はその時にも変質を余儀なくされる。

そして、最後に読まれるという行為。観客の前で詩を声にするために文字は音声に翻訳され読まれる。だが、その時点で詩はすでに書かれた時の感情とは別物である。まったく別次元の言葉と言い換えてもいい。なぜなら、そこには発想から発話までの多重の翻訳作業と変質が介在している。それは大勢による厄介な内容の伝言ゲームと同じだ。その時、言葉は紙に定着された感情の残像に過ぎない。詩人は紙に書かれた言葉の記憶を蓄音機のようには上手く奏でることはできないのだ。

ここで、朗読が不可能であるということではないことを確かめておきたい。可能性として、読まれる場において、もう一度、再演されることが可能である。それは声に変換する「よむ」という行為とは異なる。再演するとは詩のテキストを音楽における楽譜のような存在と認識し、もう一度、再解釈を施すということでもある。まず、この時点において、多くの朗読者が脱落する。彼らは、テキストを持って舞台に立つということにあまりにも無自覚なのである。舞台と国語の授業とを履き違えている。ただ、自らが書いたはずの文字の痕跡を、まるで、道端に落ちている石でも拾うようにテキストを音声化するだけなのだ。観客にとってそこに意味を読み取ることは至難の業である。それはエキサイト翻訳での変換作業を何度か繰り返したような状況を呈している。

しかし、そこで、大きな問題に行き当たる。では、作者が朗読することと、一読者が声を出さずに読むこととどう違うのか?意味を理解し味わうという点においては本質的に変わらない。むしろ、観客の理解速度を無視して読まれるので、理解度が落ちるという点で劣っている。ここで、演者が変に感情を込めて絶叫したり、悲しげにしてみたところで、それはノイズにしかならない。観客は活字としての「詩」を見ているわけではなく、声と身体をみているのだ。つまり、朗読は「声・身体」という言語を扱うということである。「想念→声・言語」という流れになるのだが、ここでどれだけ、翻訳作業を介さずダイレクトに想念をカタチにするかがポイントとなる。人前で演奏する時に初見で舞台に立つ音楽家がいるだろうか?演奏家であれば、ほとんど楽譜を意識しないところまで訓練を重ねるだろう。しかし、恥ずかしながら、詩人たちのほぼ9割がテキストを手にもって行為を行う。テキストを手に持つのであれば、それに対してどれだけ意識的であれるか。これは技術的な問題なのだ。そして、二つ目のハードルにすぎない。

自らが使用している言葉に意識的になって、まず、「声・身体」を立ち上げること。当然のことなのだが、どこかで、活字的な「意味」にしがみついてしまう。人前に立つことにおいて、意味を伝える事は重要でない。むしろ、あきらめなければならない。ミュージシャンなら言うだろう。大切なのは「関係」を築くこと。言葉は関係において意味を成す。状況によって言語タイプは様々に変化し、それぞれは大きく性質を異にする。活字化したからといって、自律し自由に解釈されているわけではない。書籍と人との関係性がきっちりと存在する。まず適切な言語タイプを選択し、「関係」を築けなければ、観客は「意味」というテーブルにつくことすらできないのだ。「作品が良ければきっと伝わる」こんな神話を信じられる状況はどこにもない。しかし、詩の朗読、然り、前衛演劇や実験的パフォーマンス、舞踏において、その前提に立たないものがあまりにも多い。これは批評家の目で言っているのではない。その結果におていの感想を言っているだけだ。つまり、つまらない。ただ、それだけなのだ。面白くあるべきかという問題については次にする。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-23 11:14 | パフォーマンスの現在
アイスワインとトカイワイン
 またまた、「うるるん滞在記」でお酒を取り上げていましたね。だまされるものかと思っていたのですが、涎をたらしてTVに釘付けです。昨日は「アイスワイン」でしたね。ちょうどその時、コンテAOCチーズとスペインのこってりした赤ワインをいただいておりましたので、「ああ、あれね、あれも甘露で美味よね」とちょっと貴族的な気持ちに酔いしれながらプチブルを堪能しておりました。おほほ。チーズにしてもワインにしても世の中の発酵食品って本当に自然の偶然が作り出した神秘ですね。顕微鏡なんてない時代から、彼らは微生物やカビの働きを熟知して利用するんだから昔の人はほんとエライ。でも、アイスワインにしたところで、ほんの最近、といっても1790年代に偶然、霜が降りて、その発見に繋がったわけだけれど、ということは世の中には、まだ、発見されていない発酵食品があるというか作り出される可能性があるってこと?と、思うと、ちょっと腐っているものも口にしたくなる親心なんですが。ダメですね。やり方がサイエンスしていない。アイスワインと並び賞されるワインに「貴腐ワイン」というのがある。これはハンガリーのトカイ地方が発祥の地。完熟した葡萄が霧の多い気候のせいでカビてしまい、それをワインにしたところ、甘くて芳醇なワインが出来上がったということです。しかし、どちらも、発見したのは貧しい農民のもったいない精神であって、もしかしたら、この私にもチャンスが巡ってくるかもと思い、目の前の食べ残しの魚をじっとり見つめていたのですが・・・。

 貴腐ワインにしてもアイスワインにしても、他のワインに比べると圧倒的に甘いわけですが、どうして、それが当時の貴族たちに人気があったのか想像してみると、昔は単に甘い物自体が高価だったのではないかという答えに行き着くのです。それは昔の日本でも顕著なように思います。とにかく、戦後数十年までは砂糖は貴重品だった。あまい=うまい。(実はこの言葉語源的にも同じです。)砂糖が貴重だったというのは、田舎の人がお歳暮などで砂糖をよく贈答することにも現れていますね。なぜ、貴腐ワイン、アイスワイン(あと、ポートワインという甘いワインもありますね)がこんなにも珍重され愛されるのか、つまり、こうです。甘いからです。じゃあ、昔の貴族に赤玉パンチを飲ませたらどういうでしょうね。私は子供の頃正月だけ飲ませてもらえる「赤玉パンチ」が大好きでしたけどね。食べ物やお酒の美味しさって本当のところ子供にはわからないだろうと思います。本当の美味しさって僕にとっては想像力なんですね。自然が育んだ神秘と思えば美味しさも一塩。その甘さが添加された甘さなのか、妖精たちがかけた魔法だと思うのか大きな違いがあります。想像力が欠落してしまうと、アイスワインも赤玉パンチも同じになってしまう気がする。本当のところ、食べ物の微妙な味の違いを理解して食べてる人ってどれだけいるんだろう。僕は理解はできないけど、想像はできるので、なんでも美味しく食べられる。これは特技です。おにぎり一個の時は自分が本当に飢えるほど貧しいと仮定して、両手で、大事そうにいただきます。涙が出てくるほど美味しいです。あとで、歯の隙間から米粒が出てきたらそれをうやうやしく頂く。よく食べ物で泣くんですが、皆さんはそんなことないですか?

 本当はちょっとワインの薀蓄をひけらかそうかなんて思っていたんですけど、その後の世界遺産という番組でなんと「トカイワイン」が取り上げられていてびっくり。出る幕無しとなりました。10年ほど前、日本でも貴腐ワインが作られていると聞いて、山梨のワイナリーまで、友人を口説いて車で連れて行ってもらったことがあります。トカイワインにしてもアイスワインにしても、値段的に若者の手に入るようなシロモノではありません。お猪口みたいなグラスに入れて1000円しました。それを貧乏人を尻目に一人満喫していると、同行した友人たちがモノ欲しそうにみている。慈悲深い私は、味見させてやることに、そしたら、最後の一人が、のこったワインをぐびぐびと飲み干しちまいやがった。その時は、撲殺してやろうかと思いましたよ。いやー、了見狭いですよ。今でも恨みは忘れていません。でも、いつかの誕生日に自分へのご褒美として、トカイワインをプレゼントしてあげようと思っています。が、まだ、その夢はかなっていません。本当は貧乏ですから。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-22 09:57 | 食べる事と飲む事
声に恋する
 人を好きになる時、あなたは初めにどこを好きになりますか?あなたにとって一番重要な部分はどこですか?色々な人に質問したことがあります。顔や性格、趣味が同じという人は多いでしょう。または年収という人もいるでしょう。珍しいのでは、手とか、匂い。手の触感と言う人もいました。爪を噛む癖という人と会ったこともあります。でも、意外に「声」という人が多くいるのに驚きました。そういう私も実は「声」はその人を好きになる最も重要な要素のひとつです。

 たまに嫌いな声の持ち主というのと出くわすことがあります。「感情は表に出さない」を日本人的な美徳として育ってきた私にとっても、ある種の声は、妙に感情を逆なでします。それはなにがどう嫌いというのではなく、なにもかもがどうにも嫌いなのであって、非のうちどころがない。「声だけで」と言うかもしれませんが声には実に様々な情報が入っているように思います。僕の女友達に、声だけで濡れるという人がいます。ある特定の波長の声に無条件に濡れてしまうそうです。あ、それ、いいな、と思う。「あ~」とか「う~」とか言ってたら、その人が気持ちよくなってくれる。他にこんな人もいます。声で好きにならることはないけど、声で嫌いになると言う人。欠点はないのに、ある日、その人の声がたまらなく、嫌なものになるというのです。考えるとちょっと怖いです・・・。

 モンゴルにはホーミーという発声法があって、それによって人を治療する人がいる。世界にはホーミーだけでなく声で病を癒す療法士の人が多く存在します。まあ、病と言わなくても、時に歌手の歌声に心癒されることは誰しもありますよね。で、不思議なのは、同じ楽曲でも、歌手によってまったく、その良さが異なるということです。楽曲さえよければ、ヒットするんだみたいな気持ちもどこかにあるんだけれど、やはり、根本的な部分で、人は曲ではなく、「声」を求めているんではないかしら。

 声の良し悪しは声帯の形に由来するんだけれど、それを形成するの遺伝的要素だけではないと思う。その人のライフスタイルや人間構築に大きく起因するに違いない。ワイルドに憧れた20代、750ccバイクに跨って口ひげを生やした大学時代の僕の友人は、10年後、オカマちゃんに転身、野太いダミ声は、甲高いか細い声に変わっていました。もう、あの野太い声は真似ようにも、まったく別モノになっていた。声はその人の健康状態や精神状態すら如実に表す。その人に波長を合わせ、声に聴き入ると、なんとなくその人の状態が見えてくるものだね

 声って水みたいなものだと思う。本来、言葉は体に根付いていたもので、声を身体から切り離すことはできなかった。録音機なんかなかったし、そして、「文字」がなかった。文字が発明されたたかだか数千年ではじめて、言葉は体から切り離すことができた。言葉は体から、沸き出で、空に消えてゆく。山々にそれぞれの水が沸くように、それぞれの体からそれぞれの声が湧き出すというビジョン。「水からの伝言」c0045997_2116566.jpgという興味深い本がある。ちょっと眉ツバなのだが、とにかく面白い。水にある特定の言葉や音楽を見せたり聴かせたり、それを凍らせてその氷の結晶を見ると、実に様々な形の氷の結晶が表れる。「愛してる」という言葉だと、美しい結晶が出来上がり、「死ね」という言葉だと、グチャグチャの結晶になる。真偽はどうあれ、確かに、今まで多くの山に登って名水と言われる水を飲んできたが、水の味は確かに、異なる。もっというと、日本酒は…あっと、お酒の話にそれると長くなるので、とにかくそう感じましたということで…

 なんかね、意味って信用ならんわけですよ。話に本当の真実味を持たせるのは内容ではなく、その人の声質だったりするような気がする。でも、情報化の社会において、質よりも、情報量が重要視されてしまう。「オレオレ詐欺」なんて情報が勝ってしまういい例だと思う。電話が貴重だったあの頃、電気的な沈黙はなによりも多くのことを語ってくれたように思う。「ねえ、泣いているの?」とかね。キャー!恥ずかし。我々はますます、声に関して愚鈍化していく。声の方も変に技法化され、浄水器にかけられた様な味気ないしゃべり方をする人が多い。もっとも恐れるのは、水が汚れることではなく、意味に固執し、良き水を良きことと判断できなくなること。それは、われわれの耳の問題だと思います。
c0045997_21165753.gif

今日の作品は「Listen」です。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-20 21:22 | 声について
メガネの魔力
メガネに滅法弱いのである。フェチと言っていいのだろうか。いや、ちょっと違うと思う。さて、それがどう違うのか、自分の中でどうも説明できなかった。好きな理由を説明できないから、得体の知れない、その魔力に無条件降伏するしかない。どうなるかというと、メガネの人が近くにいると、ただただ、釘付けになってしまう。目が離せない。それは、もう、宿命というしかない。会社にね、目の前の席にメガネの女の子がいてね、悪いとは思ってるんだけど、じとぉーっと見ちゃうんですよ。きっと気持ち悪がれていると思うな。でも、こちらに変な下心があるわけじゃない。その証拠に、メガネを外したとたん、ハイイッ!催眠術から醒めたように、なんともなくなってしまう。不思議ですね。で、かといって、そのメガネ自体にはなんともこないんです。つまり、メガネそのものにも、その女の子にも特に魔力は感じない。メガネをかけて初めて、そこに魔力が生じる。これを「ウルトラマンセブン現象」と勝手に呼んでいて、つまりメガネ+人でウルトラマンに変身の図式で、メガネをかけた瞬間、僕にはその人の全てが特別な何かに代わるわけです。これは、女の子に限ったことじゃなくて、同性もしかり、失礼だとは思うけど、一般的にブスだと言われている、光浦靖子さんも、メガネ姿が素敵だなと思う。釘付けです。

これってなんだろう。僕も男として悩むわけですよ。フェチってあれでしょ、モノそのものに興奮を感じることでしょう。例えば、僕は文字フェチなんですけど、これは明らかにフェチと断言できる。僕は文字に女性を連想したりはしない。自給自足しているんですね。純粋に文字のフォルムと活字の集まりに興奮を催すわけで。(まあ、それもそれで、誤っているとは思うけど。)しかし、メガネ自体に僕は性的興奮を感じることはない。メガネは単なるメガネです。なんのことはない。このあたりはキッチリ区別しないとね。

 でも、ちょっと、わかったことがある。僕がメガネに対する異常な執着を感じ始めたのは、小学校1年の時だったと思う。とても活発な女の子が近眼でトンボメガネをかけていた。小柄な女の子だったんだけど、走るたびにメガネが、ズレる。それをね、不自由そうに、指でもとに戻す。なんかね、胸がむずがゆいようなたまらない気持ちになったのを覚えています。それと同じ感覚を、その数年後に漫画Drスランプのアラレちゃんに感じました。万能なロボットなのに、ただひとつ目が悪いという欠陥をもつ。つまり、メガネというのはハンディなわけです。その人から、メガネを取り上げると、とても不便なことになる。つまり、完全ではなくなる。メガネに束縛されている状態。肝はココなんですよ。メガネをつけることでバランスを保たれている存在。それは、服を着る人間にとっての服と同義です。極端に言うと下着的存在と言える。下着を着けている女性にはコーフンするが、脱がれた下着そのものには興味がない。(ちょっとは興奮しますよ、ええ。それは物質的というよりも、興味の対象の、特定の女性に由来するものです。僕の場合はね。)で、下着を脱いでしまった女性には、脱いだという事実にさかのぼって興奮はするが、そのうち、興味は醒めていきます。「ピアノレッスン」という映画で、おっさんがヒロインのスカートの中に入って、靴下の穴をまさぐるシーンがありましたが、あれ、異常に興奮しました。そのあと、ヒロインが全裸になるわけですが、心の中でそれを望んでいたはずなのに、脱いだとたん興奮が氷解していくのがわかりました。つまり、メガネは僕にとって、その靴下の穴なんです。

下着とメガネでは本質的に違うと言われるかもしれません。下着は恥部を隠すもの。しかし、実は恥部というのは文化や制度によって変わるモノなんです。ある、アフリカの裸族の女性たちは全裸なのですが、腰に細い飾りヒモを巻いている。彼女たちは恥ずかしがることもなく、おっぱいもおまんこも、ぶらんぶらんさせている。彼女らに羞恥心がないかというと実は違っていて、彼女たちが何かの弾みで腰のヒモを落としてしまった時、顔を隠して恥ずかしがるという。つまり、下着というのは恥部を隠す目的のものではなく、隠すことで、逆に性的に強調し、囲い拘束することで、そこに秘められている原始的な魔力を予感させている。聖域における、しめ縄や、魔方陣と同じことです。そして、その隠す道具が特にブラジャーやパンティでなくてもいい。メガネでもいいじゃないかというワケです。

どうだ、納得したか。つまりね、僕が、前の席の女の子を凝視するのはしかるべき高尚な人類学的な問題を孕んでいると言う訳です。長々とイイワケしたかっただけですよ!

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-19 02:58 | くだらないこと
パフォーマンスの現在
 詩の朗読というジャンルのパフォーマンスがある。いや、あるのかな?あるけど、成立してるのかどうかわからない。ただ、その行為(あえて行為と呼ばせてもらう)は至る所で頻繁に行われている。しかも、有料で、だ。はじめに断っておく、もし、街でそれらのイベントを見かけたら、どんなに興味をそそられても、やめておいたほうが身のためである。いや、衒学のために一度、行ってみてもいいかもしれない。ただ、十中八九、「もう、二度と行くもんか!」と業を煮やすに違いない。詩の朗読とはそのようなシロモノだ。そんなことを言ったら、「面白いのだってあるゾ!」と詩人の人たちに怒られそうだが、それは詩人の贔屓目というものである。

 無謀にもその「詩の朗読」を主題として「パフォーマンスの現在」を語ろうというのだ。巨視的に言ってしまえば本質的には演劇であれ、ダンスであれ、それらは「詩の朗読」を起源とした枝葉の表現形態のひとつの過ぎない。しかし、いくらなんでも「詩の朗読」を基準にパフォーマンスを語るなんで暴力的すぎると言われるかもしれない。いや、私にはそのことでしか見えてこない、現代的な「声」の入り組んだ現状があるように思えてならない。

 現代において、「詩」というもの自体が、人々にとって魅力のないシロモノになろうとしている。それは、詩人が悪いのではない。現代という中でのメディアのあり方、そして社会の状況が「詩」を今まで成立してきた文化とは違うものにしている。つまり、我々は詩という病にかからないように免疫注射されているようなものなのだ。そして、それは他のファインアートにも同じことが言える。では、何が現代の「言葉」を変質させているのか?その問いについて考えたい。

 「詩の朗読」を取り上げるもうひとつの理由。それは、他でもなく私が「詩」という病を患い「詩の朗読」を愛しているからだ。これから何章かに渡り文章を自らも舞台に立ち「詩の朗読」を愛するひとりの表現者として書こうと思っている。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-18 13:15 | パフォーマンスの現在
あそこの形
おっさんの特権でシモネタします。

小学校の頃、女性のあそこの形の事で頭がいっぱいだった。
こんなことなら、もっと女風呂に入っとくんだったと悔しい思いをした。
どうしても思い出せないのである。
幼馴染のまち子ちゃんが道端でしゃがんで小便するのを見たことがある。
必死でそのブラックゾーンに記憶のクローズアップしてゆくのだが
妄想は変な方向へ行ってしまう。
蝶々の形をしてるんじゃないか
バラの花びらみたいなんじゃないか
軸抜きキムタマみたいなんでは?とか妄想は尽きない。
友達の家でアダルトビデオをこっそりみせてもらう。
モザイクがかかっているのを必死で目を凝らして観つづける。
そのうち、女性のあそこにはモザイクが
かかっているのではないかとさえ思えてくる。
古本屋に行けば、謎が解けると伝えきいて挑戦しようとしたが
その勇気はなかった。暗い古本屋のそのまた奥の
うず高く積まれた本の下にそれは眠っているという
そのコーナーの近くには顰め面の火を吐くばあさんがいる。
まるで冒険物語のようだった。
無垢な少年、正確には無垢でなくなろうとしている少年には
その本を手に取れないからこそ、古本屋は妄想の温床となった。
古本屋の前を通りかかるだけで、心臓がバクバクした。
それは、欲望を通り越して、畏怖の領域に入っていた。
夢の中で渦巻く女性器に飲み込まれて、うなされることもあった。
未知なるものであるからこそSEXというものは神秘に満ち溢れていた。
もう、自分の存在をゆるがせてしまうような、
あんな強烈なエロスを感じることなんてないんだろうなぁ。

satomune
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-17 00:29 | くだらないこと