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言葉と文化
by radiodays_coma13
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カテゴリ:声について( 8 )
朗読の効用
音楽と朗読どちらが好きか?と言われたら、朗読を選ぶというのはやっぱり珍しいのだろうか。



決して音楽は嫌いではない。表現的な青年の王道、バンド活動だってしていたし、僕はデタラメ鼻歌の名人だ。




でも、心が疲れたとき、音楽よりも朗読を選ぶ。




朗読というのも語弊がある。人の声。自分に向けて語られている言葉ではなくて、なんとはなしになにかの文章を読んでいる声。それくらいがちょうどいい。


その人がその人自身の気持ちを書いた文章ではダメ。
へんに表現されているのは聴いていてしんどい。
音楽も邪魔。


ちょうどそういうのが欲しくなる精神状態があるというのが正しいかもしれない。




例えば、色々な仕事で頭が煩雑になって、もう収拾が付かなくなっている時とか。些細な辛いことでなんとなく全てのことがわずらわしくなっている時がちょうどいい。


そんな時、音楽でジャジャーン「元気出せや!」と肩を思いっきり叩かれたら、なんかすごく厭。




なにげない朗読の意味を追うのではなくて、遠くで声が響いている感じがいい。ただ、言葉の抑揚が、心をやさしくマッサージしてくれるということがある。




しかし、そんな都合のいい朗読というのは滅多にない。どれもこれも表現衝動に溢れている。それではこちらが疲れる。




昔、言葉の収集をしていた。こっそり、ボイスレコーダーを忍ばせ、人の会話を録音する。その音質をお風呂の中のようにモコモコにして、寝るときなどに聴いていた。



スヤスヤとてもよく眠れる。



最近はとても素敵なCDを見つけた。「にほんごであそぼ」の全4巻セットのCD。これが僕の宝物。自転車通勤の行きと帰りの往復2時間弱、ずっとそれを聴いている。



子供たちの朗読は本当に素晴らしい。そこに意味は込められていない。言葉の音やリズム、抑揚への喜びだけがある。そして、熟練の者の声とのコラボ。そのメリハリ。とてもバランスがいい。


30分も聴いていると、すっかり頭は空っぽになる。僕もいつかこんな朗読ができたらなとそればかり思う。




本日、ふと、その中にある「雨ニモマケズ」の鹿児島弁バージョンを聴いているとき、本当に自然にポロポロと涙がこぼれた。自分は悲しくないのに、まるで、いっぱいに水が注がれたコップを傾けるように自然に。


雨いも負けぢ
風いも負けぢ
雪せーも、なっの暑っさにも負けん
じょっな体をもっ
よっなこちゃせじ
いけなこがってんはらかかぢ
いってんしずかにわるちゃい
ひしてん玄米四合と
味噌とちっとばっかいのやせをたも
ないごっもわがおばさんにょんいれぢ
ゆーみききをしわか、ほしてけわすれぢ
のっぱらん、松林んかげん
こまんかかやぶのこやよっせ
・・・



僕は意味に涙しているようではなかった。だって、さっぱり意味が分からない。どうやら、その響きに直接コミットしているらしい。それはとても素敵な体験だった。


朗読は心がちぢこまって暗いところでうずくまっている時、どんな音楽よりもやさしく、深いところに、月の光のようにやわらかく光を届けてくれる。


少し、朗読というものの良さが分かったような気がした。


でもしかし「ちんたかなちゃおろいおろいさる」って雨ニモマケズのどのあたりなんだろう…。チンタカした、茶色いおもろい猿がどうかしたのか?


んで、コテコテの神戸(長田)弁にしたらこんなかんじ。


雨にもまけへん
風にもまけへん
雪にも夏暑いのんにもまけへん
めっさつっよい体をもっとー
よくばれへんしー
ほんで、ぜんっぜん、おこれへんねん
いーっつもしずかにわらっとー
一日玄米四合となあ
味噌となー、ちょっとのなあ、野菜食ってなー
どんなんでもわいのんをかずにいれへんで
よーみたりきいたりしてわかってる
ほんで、わすれへんねん
野っぱらのやー松のやー林のやー蔭のなあ
ちーちゃいかやぶき屋根におってな
・・・



で、最後が

「そんなんにわいはなりたいねんや!」

コレイイネ!

「そんなんにわいはなりたいねんや!」

なりたいんか!そーかそーか
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by radiodays_coma13 | 2006-09-26 01:14 | 声について
ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ(その二)
 一日、まったく声を出さないというのはなかなか難しい。前回の「ミネルヴァの梟は~」で声が死んだと書きました。でも、まだまだ、私たちは声を使って意思伝達し、生活をしている。確かに、「死んだ」というのはひとつのレトリックです。正しく言えば、声の意味は、識字文化が発達する以前からすると、大きく変わった。変わったと言うよりも別のものになった、と言えるかもしれない。それは口承文化における声ではなく識字文化に支えられた声ということになると思う。口承から識字へ、この変化はあまりに劇的に人間の精神構造を変えてしまった。

 そこで、識字文化の声とはなにか?口承文化の声との違いとは?まず簡単に言うと、「愛」とか「真実」とか、あと、メタファーとかさ、詩人が好きそうな表現ってあるじゃない?あれは全部、識字的な言葉。口承文化ではそんなものは使わない。「愛」とか「真実」とか、目の前に美味しいマンモスの肉みたいには存在しないので、言い表す必要はない。「好き」なんて言う前に、手にとってかぶりついちゃえばいいんだから。そして、そこでは「過去」という概念すら存在しない。「俺は、そのマンモスの肉を食べたかった」なんてメメしいことは言わないで、わめき散らして、狩りに出かければいいんだから。過去がないと言うことは、「俺ってなんて、ダメなやつ」なんてバカな妄想にとり付かれることもない。なんとシンプルで素敵な世界なんでしょう。

 これをきくと、もう一度、口承文化の豊かな世界に返りたいわ!と思われるかもしれない。しかし、そうは問屋がおろさないのだ。もう問屋では口承文化を取り扱ってはいない。それは不可逆なのだ。人はひとたび、識字の世界に足を踏み入れると、もう口承の世界には返ってゆけない。だから、多くの識字を持たない言語がなすすべもなく滅んできた。一度童貞をうしなうともうチェリーボーイにはもどれないように。口承のみの言語が書き記される事で、滅ぶというのはそういうことだ。その言語は声の中にしか生きていない。紙に定着される事で、その息吹を止める。

 過去を持たないと言うことは、どういうことか?と思うかもしれない。あなたは自分が文字を持つ前の記憶を持っていますか?ある人は、映像として持っているかもしれない。けれど、その時、自分がなにを考えていたかよく思い出せないのではないだろうか?それでも、いや、簡単には考えていたことを覚えているという人もいるだろう。しかし、それが、文字を持ってから後付された感覚だとしたら?実は、3歳児にもかなり高度な社会認識があるというのがわかっている。しかし、それは口承文化の社会認識であり、識字的な認識とは大きく異なる。我々は文字を覚えるのと同時にそういった口承的世界を捨て去る事になる。我々の識字以前の記憶は実は識字的に書き直されたものでしかない。

 しかし、こういった例外もある。口承から識字へ移行するには、それなりの豊かな口承の時期を経験しなければならない。それは母親から授乳されることと同じで、声と言う乳を子供は母親から口移しで得る事になる。しかし、この時、十分な経験をしていないと、すぐさま、識字の洗礼がすぐそこに待ち受けている。そこで、十分な経験のなかった子供がどうなるかというと、口承的な感覚のまま、識字的な思考を身につけていくことになる。具体的な事例としては、TVに育てられた「TVチルドレン」の存在である。彼らは感情的ですぐに暴力をふるい、それにたいして一切、反省の態度をもたない。現代社会の中で識字的なコミュニケーション不全に陥っている。彼らは言葉の代わりに銃を持つ。彼らは識字世界にありながら、非識字化し、ギャング化してしまう。これは日本でも他人事ではなくなってきているのではないか。

 通常、社会は共通認識を持つためのルールというのを持っている。それが識字においては法律であり、口承文化においてはそれが神話や民話などである。そして、彼らギャングたちにも、神話や民話にまでは到達していないが、チーム単位での神話といえる形式のものが機能している。あるいは伝説と言い換えてもいいかもしれない。それらが彼らの中での不文律なのである。文字をもたない彼らは、それらを声として強烈にアピールすることになる。それがラップのルーツである。現在でも彼らの中には多く読み書きが出来ない者もいる。ラップが独自のビートをもち、少数内での言語(スラング)を持ち、英雄化(リスペクト)が行われることからもそれは、口承文化の語りに類似点が多い。

 例えば、マサイ族の語りは全員が車座になり、語り部が、自然の成り立ちについて語る。その語りは毎日繰り返されるが、それは日々、語り部の状態や、その場の環境を取り込み、少しづつ変奏されてゆく、車座を構成している要員は合いの手をいれたり、同じ単語を復唱しながら、物語に参加してゆく。その場において神話は過去の物語ではなく、今そこで、声という肉体を通して起こった事実となる。そこで彼らは物語を生成し、体験するのだ。そこでは繰り返されることに意味がある。このような繰り返しは多くの語りや、原初の演劇形態で頻繁に見られる事例である。しかし、識字文化においてこのような繰り返しはあまり意味をなさない。識字文化において過去はすでに書かれたテキストでしかないのだ。あらためてそれを声に出す重要性は失われている。

 話を戻す。例えば、現代における朗読というシーンを考えるときに、果たしてこのことに意識的になっている人はどれだけいるだろうか。「声の豊かさ」というキーワードを掲げつつも、識字に隷属した声を使っているに過ぎない。テキストに書かれたことを、ただ、なぞっているだけなのだ。それは実態化ではなく単に音声化したにすぎない。体験ではなく、解釈の問題に帰結してしまう。なぜ、朗読というシーンが盛り上がらないかということを考えるときに、それはひとつの答えであると思う。

 「死んだ」という言葉をこう言い直そう。「我々は口承文化の持ちうる声の豊かさという点では、完全な形ではもうそこに触れる事ができない」。ただし、声の新たなあり方という点では、また違った可能性があると思う。そして、「文字」の登場による「声」の衰退。そして、あらたな言語の登場により、今度は「文字」が衰退しはじめている。我々はいま、新たな人類的劇的変化の前にいる。それは誰もが「文字の衰退」という現象により直接的、間接的にすでに体験済みなのではないだろうか。

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c0045997_0283095.jpg5月20日に舞台に立ちます。

「硬地」vol.2

日時:5月20日
open19:00 start20:00
場所:新宿ゴールデン街tomorrow
(TEL:03-3202-0616)
料金:1200円(チャージ1ドリンク付)
出演者:樋口夏樹、あべしん、御徒町由紀子
     丘野こ鳩、横山真二郎
ゲスト:里宗巧麻
問合せ:shishi_kouchi@yahoo.co.jp
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by radiodays_coma13 | 2006-05-17 00:29 | 声について
ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ(その一)
 昔々、ある天気のいい日、たいくつしていた、てんめいちゃん(天明天皇)は、お友達のやすまろちゃん(太安万侶)に向かって「おもしろいことおもいついた」と、なんの気まぐれか、語り部のあれいちゃん(稗田阿礼)が語る国つくりの物語を、当時、流行しはじめた文字を使って書き残すことを提案した。あれいちゃんは長い長い物語を全部暗記していて、そんなことしてなんの意味があるのよとブチブチ言いながら、後の「古事記」となる物語を、語り始めた。

 なぜ、現在、活きた口承文化が存在しないのだろうか?昔の日本、例えば、古事記が書かれる前、おそらく、恐ろしい記憶力を持つと言われた稗田阿礼のような語り部はたくさんいたはずだ。「日本書紀」が書かれたのはその8年後、これも「古事記」と同じように複数の語り部の口から書き記されたと思われる。世界に独自の文字文化を持つ国はきわめて少数である。現在もなお文字を利用せずに生活している人口の方が文字を利用して生活している人よりもはるかに多い。しかし、それらの国の人々の間では未だに声が強い霊的な意味をもち、口承文化が根強く残っている。彼らは絶対者がこの世界を創生し、人が生まれ、現在に至るまでの長大な物語をテクストを使わずに語ることが出来る。

 てんめいちゃんは、ひらめいた。文字にしちゃえば、あれいちゃんがいなくても、国つくりの物語をみることができるじゃない。べつに「暗記しなくてもいいんだ」。口うるさいあれいちゃんの退屈なお説教や回りくどい説明を聞かなくても、「好きなときに好きなところを好きなように」読めばいいんだから。こうして「古事記」は事実から解き放たれ、読む人の自由に解釈できる物語となった。その代わり人は、口承文化の人々が持っていた驚異的な記憶力を失うことになる。口承文化が失われた理由をそんなふうに考えられまいか。

 「文字は消え去る」おいおい、声の次は今度は文字はおしまい、なんてことを言うのかと叱られそうなのであるが、事実なのだからしょうがない。つまり、文字が現れ声が廃れた、という文脈を持ち出して、「〇〇」が現れ文字が廃れたと言うつもり。これは実は僕の詩に取り組んでいる一番のテーマ。いや、人生のテーマといっていい(ちょっとおおげさ)。でも、老人みたいに何度も言ってること。このblogでも、作品でも、いろんなところで。で、その「〇〇」は?という前に、本当に声は終わったのか?口承から識字へと変化することで何が起こったのか?をでっちあげなきゃね。

 「嘘」というのは人間の発明品って知っていました?実は人間が文字を持つ以前。嘘は存在しませんでした。なぜって、嘘がつけないからです。声は何かを指し示す道具という以前に、その人の身体の一部と考えられていたのです。いや、そんなこと考えてないね。考える以前に一部だったというのが正しい。だって、声だけをその人から切り離すことなんて出来なかったから。そして、実体から「切り離すことが出来なかった」から、事実から声を切り離すことも出来なかった。つまり嘘なんて概念は存在しなかった。嘘がつけるのは声を体から切り離すことができればの話。でも、それができるようになった。文字によって声は体から切り離された。書かれたことを都合よく変化させることが出来るようになった。
「嘘」の誕生だ。

 文字の誕生とともにたくさんの空想文学が生まれた。たくさんの嘘物語が。日本における初期文学である「源氏物語」「竹取物語」どちらも文字によって書かれた絵空事。しかし、その内容がSFチックだから空想物語なのではない。魑魅魍魎や、月からの使者が創造力の産物なのではなくて、ただ、書かれた内容が事実ではないということに注目しないといけない。その当時の人々にとって魑魅魍魎や月からの使者というのはリアルであった。見えないもの、理解できないものの存在感を彼らは科学に阻まれることなく、感覚に自由であれただけ。頭の悪い女の子が妖精さんと戯れるのとはちょっと違う。このように、文字の誕生は口承文化とは違う新しい表現をもたらした。

 新しい自由と引き換えに、口承文化は滅んでゆく。あれいちゃんのブチブチが聞こえてくる。20世紀になって、世界に存在する6000以上の言語のおよそ半分が消滅するか、危機に瀕している。それらをなんとかせねばと言語学者や文化人類学者が消えかかる言語の記録、研究にいそしんでいる。しかし、実は皮肉なことに、それらの「書き記す」行為こそが、言語の死滅を招いているという見方がある。西洋人が航海時代に、それら文化圏に持ち込んだ危険物は3つ。銃と伝染病と文字。それらによって、多くの命と多くの文化が致命的に失われた。今になって彼らは消えかけたともし火を守ろうとする。その行為がさらに文化を死に追いやるとも知らず。しかし、本当に滅びゆく言語を残すべきなのか?そして「声」は死んだと言うけれど声は死んだのか?言うまでもなく、誰もが日々、声を使って会話し、生活しているのに?

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c0045997_012380.jpg この文章をシリーズで数回に分けて書きます。で、書こうと思ったキッカケは前回書いた「オープンマイクはもうおしまい。」に頂いたたくさんコメントによるものが大きいです。そして、その中にすごく感銘を受けたメールがありました。それは偶然にも僕がこの5月20日に立たせていただく「硬地」というイベントを企画した人から届いたものです。僕が書いた「詩は文字にしがみつくのか」に対しイベントのコンセプトとして「手のひらに着地することが約束されたそんな装丁を、外してしまいたくなったのだ」と書かれていた。僕はその言葉にとても刺激されました。僕が期待していたオープンマイクの次なるイベントの匂いを感じています。

(「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」とは知の巨人ヘーゲルの言葉です。知の女神ミネルヴァの使者であるフクロウ。すべてを認識するようなフクロウは黄昏、つまりひとつのものが完成し、没落しはじめるときに飛び立つんだ、というような意味です。)
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by radiodays_coma13 | 2006-05-14 00:15 | 声について
「オープンマイクはもうおしまい。」
 オープンマイク形式という詩の朗読イベントの一形式がある。そこではマイクが開放されていて、自分の詩を読みたい人が手を挙げて好きなように参加することができる。詩のイベントといえばオープンマイクというくらい日本全国津々浦々、ある時期、雨後の竹の子のように増殖したことがある。

 90年代後半、僕が神戸にいた頃、まだ関西にはオープンマイクイベントはなかった。そこで、東京へ赴いた。「梅島ユコトピア」というイベントだったと思う。僕は始めて自分と同じく舞台に立つ詩人たちに出会った。筏丸けいこさん、ヤリタミサコさん、さいとういんこさん、ブルーマヨネーズ、今では一部で有名なジュテーム北村さん。すごいインパクトだった。大阪に帰ると程なく、平居謙さんが主宰する、「ポエトリーリーディングの夕べ」が始まった。そこで初舞台を踏んだ「しげかねとおる」とも出会った。驚いた。僕は珍しいパンダを観に行くような気持ちで、日本津々浦々のオープンマイクに出かけた。

 岡山「Happy? Hippie!」東京「ウエノポエトリカンジャム」「ベンズカフェ」京都「声帯エステ」名古屋、福島、エトセトラ。それはそれは楽しい一時期だった。詩を書いていたけれど詩人に出会ったことがなかった僕は20年の恨みを晴らすようにたくさんの詩人に出会った。おかげで、僕は何かを追い求めて東京に引っ越し、東京初舞台思い出の地「梅島ユコトピア」から自転車で10分の所で暮らし始めた。オープンマイクは僕の人生を変えた。と、長々と持ち上げたけれど、実は僕は朗読を一度も心から肯定したことはない。自分で進んで舞台に立っているにも関わらず、人の「朗読」を聴くほど苦痛なものはないと思っている。

 むしろ、詩の朗読がいかに終わっているかを確かめるために舞台に立ち続け、人の朗読をきき続けた。(もちろん聴くにたえるものもあるにはあったけれど…)理由は?僕がただ天邪鬼だから。説明すると長くなる。普通ならここで、割愛するんだろうけれど、でも長くする。天邪鬼だから。それを「今」しておく必要があると感じた。だって、もう今更オープンマイクなんかしても本当にどうしようもないんだから。誰かが「詩の今後のためにするんだ」って言ってた。だったら尚更、本当に本当になんの意味もないんだから!さて、答えは言いました。結果が知りたかった人はここまでで結構です。ここから先は屁理屈と暴言が続きます。

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 初めて詩人の団体さんの前で詩を読んだのは「詩マーケット」というイベントの第一回目の時だった。それまで、僕は自分ひとりで詩のライブとかディナーショーとかわけのわからんことをしていました。まあ、僕があんまり美男子だったので舞台に立てば、それだけで女子(おばさま)たちがキャーキャー言ってくれました。でも、詩マーケットでパフォーマンスをやった時、ある詩人がツマラン!と言った後「もっと自分を表現しなさい!君はどんな思想を伝えたいのかね?」と言った。以後、この言葉はいたるところ、いろんな詩人の口を借りて僕に襲い掛かった。しかし、詩は自己表現の道具なのか?言葉は自分の思想を伝えるだけのちっぽけなものなの?ねえ?そんな問いが始まった。

c0045997_0462499.jpg 詩マーケットのその経験と時を同じくして、僕はそのような現状のアンチテーゼとして「RADIO DAYS」を結成し活動を始めた。趣旨は単純。自己表現しない。思想をもたない。意味から逃れ続ける。というものだった。よって、個人というものから逃れるべく複数名のユニットである必要があった。当初は顔を帽子と自家製のゴーグルで隠していた。任意のラジオチャンネルから流れてくる言葉と会話するパフォーマンスや、同時に複数の人の声を各所で流して口をパクパクさせるものや、「梅島ユコトピア」で行ったパフォーマンスは、体の各部位に書かれたたくさん人のモノローグを読んでゆくというものだった。つまり「声」というあり方での詩の否定からスタートしたと言えると思う。

 当時だったか、その前だったか、詩人の荒川洋治さんが詩の朗読の否定をしていた。深い理由は不勉強ゆえ知らない。でも、確かにつまらない。根源的につまらない。世の中に色々な娯楽や映画やダンスなど、刺激的なメディアがあるというのに、朗読だけもう歴史の定めであるかのようにつまらなかった。必然的宿命的にといってもいい。つまらないという体験から出発してRADIODAYSの強い支えになったのは「 哲学者デリダ」の思想だった。
ロゴス中心主義とは表音文字言語の形而上学である。それは根源的にはこのうえなく独自的かつ強力な民族中心主義であって、今日では地上全体に自己をおしつけつつある
  なんだかややこしいが、声はおしつけがましいということだ。声のうらには真実があるという信念のもとに、人はそれを声に託す。また、声にはそれが可能だと信じているようだということだ。人が人前に立って詩を読むとき、読む人はそこに自分を託し、自分の思想や価値や世界をおしつける。しかも不特定多数に。それを発するべき他者の設定からしておかしかったりして。彼らは誰になにを言おうとしているのか?もう、それがうっとうしいのなんの。デリダや、ドゥルーズ=ガタリ、当時のポストモダニズムの思想家たちはそれを「脱構築」や「ズラす」という言葉で批判し、解体しようとした。僕はただ、息苦しかった。言葉はもっと自由なのに…。

 ある種の言葉は状況を限定し不自由にする。「おれは男だ」とか「きれいな夕日だね」とかね。その言葉によって切り捨てられてしまうものがある。しかし、言葉は使い方によってはさらに人を自由にすることもできる。そんな使い方もある。しかし、詩を自己表現の道具に堕することで、詩は人をちっぽけで不自由な存在にしてしまう惧れがある。戦後詩とはそのような自己憐憫の観念的な独り言のようなものだった。政治運動に疲れ、社会は変えられないという諦めに立ったある種の人々には、それが機能した時期もあるのだろうけれど、詩のそういったイメージは定着しちゃった。詩とはそんなものだと誰もが思った。そのイメージ効きすぎた。詩は一部のくら~い反社会的な人々のものだと。ま、どこかでは外れてないような気もするけどね。詩の業界は瀕死状態となった。

 20年も詩を書いていたのに、それまで一度も詩人に会ったことがなかった。中国の山奥にでも行かないと会えないのかと思ってた。しかし、90年代後半、突如、くら~いこわ~いこの人々たちは立ち上がった。ちょうど、インターネットがさかんになり始めた頃で、ネットで詩を書いている人と、紙媒体で詩を書いていた人が、リアルでぶつかりあったことでうねりが起こった、と僕は認識している。各所で「オープンマイク」や「マーケット」など多くの詩のイベントが行われた。世の中にはこんなに隠れ詩人たちがいたのかと思い驚きました。僕の携帯電話のアドレスは詩人の名前で埋め尽くされた。これってちょっと異常なことだと思う。

 でも、そもそも、それは「詩人」の集まりだったんです。100人集まろうが200人集まろうが。彼らがよってたかってイベントをして、自分達のコロニーを作ってるだけだった。ようはオープンマイクなんて言葉だけ。実のところそれはクローズマイクなんですわ。開いているようで閉じている。はじめは、全国にいる詩人のあぶり出しに効果もあったかもしれない。でも回数を重ねることで、運動はひろがるどころか、純度を増し濃縮されていく結果となった。例えば、コンピレーションイベント。数名の詩人がゲストという名で羅列されるイベント。オープンマイクとなんら変わりない。どれも押しなべて閉鎖的でつまらない。疑うなら、街で歩いている人をその中にほおりこんでみるといい。顔をしかめ、ついには耳を塞いで逃げ出すに違いないから。彼らはいっこうにそんなことは気にしない。「自分だけがたのしくその場に立てればいいのだから」

 「オープン」という言葉になぜか後ろめたい閉鎖感を塗りこめているだけなのだ。誰かがその場にいるからオープンなのではない。態度の問題ではないか?閉じているか、開いているか。いくら、マイクを不特定多数の人々に向けても同じことだと思う。それはある意味で暴力でしかない。だって、こんな時代に自己表現するべき自己なんてどこにもないし、表現すべき内容なんてないんだから。自己表現しろ?無理!「自己」なんて、現代が作り出した幻想でしかない。それを訴えるべき他者もない。そのことを若い人々は気付き始めている。いや、体現しつつある。

 哲学の歴史がその時代の問題から派生するものであれば、表現も色濃くその時代を反映しているはずだ。日本では「荒地」が戦後を象徴した。80年代。浅田彰さんがポストモダンという言葉を掲げて華やかに登場した。彼が言うようなポストモダンなあらかじめ価値観の崩れた社会もやってきた。さて?さて、僕達はそこで何をすればいい?ポストモダンな社会がやってくると浅田さんは言ったけれど、その後のことはあの人なんにも言わなかった。

 トリッキーな答えしかないけれど、「クローズマイク」という名の開かれたイベントじゃないかしら。そこでは言葉から逃れるための遊びが行われる。言葉というシステムの呪縛から逃れるためのレッスン。「夢」や「自分」という人々の自由な意識を妨げる、くだらない社会的な意味づけから開放するような言葉の解体。とてもシンプルな言葉との戯れ。そんなものが僕は観たい。言葉は自分の考えを語るだけのものではなく、時に自分をあざむき、自分を超える。テクストは誤読するためにあるとデリダは言った。なにか真実を言っているように気になって悦に入っている人にとって、マイクや舞台は力の象徴なのかもしれない。しかしそんな暴力的なマイクを押し付け合うオープンマイクなら、もう本当に「お開き」にしてはどうだろうか?そうだ、リリース、開放してしまえばいいのに。まずはそこから始めよう。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-06 00:55 | 声について
声と言葉のクロニクル「日本語最後の話者」後編
 「あなた」が日本語最後の話者になる可能性は0%ではない。今、我々、日本人は人口的に繁栄の頂点を極めているようで実は、ジェットコースターの頂上にいるのだ。そして、その不気味な下降の徴候が現れている。ついこの数年前、日本の平均出生率が2人をわる1.8人になったことで、問題として取り上げられはじめた。しかし、今年、調査の結果、それは、1.29人までに下がっている。それは今後も下がりつづけ、東京では1人をきるまでにいたった。これはどういうことなのか。つまり、人口が2分の1以上のスピードで減っていく計算。そして、結婚率の低下がそれに加速をかける。つまり、冗談じゃなく、あと100年もしたら、人口は現在の100分の1にも落ちる。これは決して悲観的な数字ではない。むしろ、これに加速が加われば…。で、日本語の方は人口の消滅を待つまでも無い。言語の消滅は一度、滅びの過程を歩み出せば、早いものだ。沈みかけた船からネズミがいなくなるように、誰もが日本語の船から逃げ出してゆく。…そして、あなたが取り残される。ある朝、あなたはそれに気付く…。

 現在世界には言語学者の推計で5000から6700の言語がある、少なくともその半数は次の100年の間に死滅するであろう。
存続危険な言語キクユ、ポモ、ソンソロル、ウゴング、ブルトン、チャモロ、トゥルマイ、ヒシュカリヤナ、タイアプ、ハワイ、マオリ、アブナキ、ベラクーラ、ラマ、グーグ・イミディル、カバナ、アゼラ、ボイケン、トバ、バタク、フィアム、ツォツィル、セブアノ、モキル、カカオペラ・・・

 ブリテン島の古い言語であるカンブリック語はたった三つの単語しか残されていない。紀元前八世紀から西暦四世紀までスーダンで同じ名前の帝国の公用語であったメロエ語は現在まで未解読の碑文の形で残るだけである。世界で知られる言語のほぼ半数がこの500年の間で消滅している。エトルリア語、シュメール語、古代エジプト語などの古代帝国の言語は数世紀も前にこの世界から消失している。アメリカ合衆国もまた数百に及ぶ言語の墓場と化している1949年にコロンブスが到達したとき推計300あった言語のうち現在話されているのは175言語に過ぎない。その大部分はかろうじて残存しているものの死滅にいたるのはおそらくわずか1世代を残すのみである。カリフォルニア州に残存している北米インディアン諸語はもう子供たちに教えられおらず、マサチューセッツなどの州名に名を留めているに過ぎない。

 日本語最後の話者である、あなたはある日、このことに気付くだろう。あなたの世界、思考。そして思い出、それらは全て日本語で形成されているということ。昔、母に話してもらった神話や昔話。わらべ歌の数々。誰もがそうであるように、言葉の遊びという豊かな乳によって、言葉のある人間の世界へ生まれてきた。言葉は文字ではなく、口から口の、マウストゥーマウスでしか伝わっていかない。鳥が餌を与えるように、母親は子供の口に言葉の乳を与えるのだ。

 言語の滅びは、まず、その言語で作られた歌や民話、神話の喪失から始まるという。言葉が遊びを無くした時、滅びが始まると言っていい。そのような豊かな言葉の乳がなくなるということは、次にその言語を受け継ぐ子供たちが育たなくなることを意味する。

 言葉によって引き継がれてきた世界。日本語が滅びるということは、ひとつの世界の終焉を意味する。それに気付いた瞬間、日本語によって形成された世界があなたに一斉に手を差し出して、悲鳴をあげるに違いない。その時、あなたの自我は耐え得るだろうか。

 この春、奄美諸島の沖縄に程近い与論島という島の言葉1万5000を治めた辞典が出版される。この本を出版するのは農家の主婦、菊千代さん(78)。彼女は高度経済成長真っ只中の30年ほど前から、それに伴って消えてゆく古い民具を物置小屋に集めて博物館を開いた。そして、それを整理し、方言名で台帳につけていくときに、「民具が消えると、その言葉も消えてゆく」ことに気づいたという。「方言がなくなるということは、ふるさとの心がなくなるというもの」そして、彼女は鉛筆と手帳片手に、日常会話や古老との会話で気付いた言葉を書きとめ、それをまとめたものを昭和60年自主出版。それが学者の目にとまり、その言葉の特異さ、学問的な観点での重要性を理解され、この程、辞書として、出版される運びとなった。菊さんは「言葉は使われて始めて存在意義があるが、消えつつある今、辞典として残すしかない。この辞典を通して若い人たちが一語でも言葉を引き継いでいって欲しい」と語る。さて、もし、あなたが最後の話者になるとしたら、あなたには何が出きるだろう。そして、そうならないように今、何ができるだろう。もちろん、今すぐ、誰かと子作りするという手もあるけどね。


 言語は川のように死ぬ
 今日は君の舌に絡みつき
 歯と唇の間で砕かれて
 思想の形になった言葉は
 今こうして色あせて
 一万年も昔の
 象形文字とかす

 ―カール・サンドバーグ

                                -おしまい
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by radiodays_coma13 | 2005-03-30 09:58 | 声について
声と言葉のクロニクル 「日本語最後の話者」
あなたは何語を喋る何人ですか?
って、神妙に始めても、この文章が読めてるってことは十中八九は日本語が話せる日本人だと思うけどね。現在、世界中にどれくらいの言葉が存在するか知ってる?5000~6700もの言語があるんだって。で、人類が産まれてこの方で換算すると、ざっと200万もの言語が存在していた。でね、こんな話しを持ち出したのは、あなたが使っている日本語、この言葉は人数と使われた期間で割り出した確率で言うと、ごく少数派の言葉というわけ。あなたはたまたま日本に生まれるか何かして、ウオノメをこじらせて死ぬくらいの、もう奇蹟的な確率で、この珍しい言葉を使っている。で、そんなことが言いたいんじゃなくて。現在使われている言語5000~6700ってえらく曖昧な言葉だと思うでしょう?というのは、今こうしていうちにも、またひとつ言葉が消えていっているってこと。つまり、消えつつある言語を考慮に入れると、もしかしたらもっと、あるかもしれない。正直、今、世界にどれくらい言語があるか研究者も解っていない。あまりにも少数になると、調べる術さえない。もし、ある言葉が消えかかっていて、たった一人しか、その言葉を使えないとしたら、それは言語とさえ言えないのじゃないか?

イーヤック語最後の話者、マリー・スミス
マン島語最後の話者、ネッド・マッドレル
ウビフ語最後の話者、テフヴィック・エセンチ
カトーバ・スー語最後の話者、レッド・サンダークラウド
ワッポ語最後の話者、ローラ・サマーサル
ユーキ語最後の話者、アーサー・アンダーソン
コーンウォール語最後の話者、ドリー・ペントリース

あなたは、自分が日本語最後の話者になることを想像したことがありますか?何億人と繁栄してきた日本の、何千年と続いてきた日本語の、その言葉が抱えてきた歴史や文化、記憶があなたで尽きてしまう事を…。例えばある天気のいい休日の昼下がり、ふと、あなたはもう、周りに日本語が喋れる人がいなくなっている事に気付く。その時、あなたならどうする?

イーヤック語最後の話者、マリー・スミスはこういっている。
「なぜ私なのかわかないわ。たった一人の話者だなんて、ねえ、あなた、それはとても辛いことよ。私の父は最期のイーヤックの族長だったから、後を継いだだけのことなのに。それで今は私が族長というわけ。私たちの土地を切り刻むのをやめてもらいにこれからコルドヴァまで行かなければならないの」実際、彼女たちの住む土地は森林伐採やダムの建設により多くの部落は川の底に沈んだり、砂漠と化した。人々は土地をすて、他の言語集団での生活を余儀なくされた。

最近の研究で面白い結果が出ている。言語の存亡と生物の種の減少は比例している。つまり、生物の種が多く死ぬ地域で、同じように言葉が死んでいる。ここで、長々と生物の話しをするわけにはいかない。しかし、種の多様性の重要性が囁かれている昨今、言語の多様性とそれに深い因果関係があるということ。多様性、つまり、様々な種類がいてこそ、生物環境は保たれている。もし、その多様性が無くなれば、種はその瞬間、突発的に滅びのジェットコースター曲線を滑り落ちてゆく。今まさに日本語がその曲線をなぞっている。

                                      ― つづくよ
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by radiodays_coma13 | 2005-03-28 03:25 | 声について
言霊、ソシュールの憂鬱
 以前の日記で、「水からの伝言」という本をとりあげた。(水は人の言葉に敏感に反応し、氷の結晶を作り出すという本です)その日記にいただいた書き込みに『日本人が「死ね」という場合と例えばですがアフリカのどこかの部族語で「シネ」とう言葉があってそれは幸福という意味している場合、アフリカの部族の方が「シネ」といっても多分、美しい結晶が出来るのでしょうね。』というのがあった。興味深い問題だと思った。しばらくそれについて考えた。この場合、水は何をもって美しい結晶をつくるのだろうか。水は言葉そのものの意味を理解するからこそ、言葉に対応した結晶を作り出していると言える。では、水はバイリンガルなのか?しかし、その考え方はちっともサイエンスじゃない。例えば、音の振動が水に影響を与えていると考えるのはどうだろう。しかし、水は言葉が書かれた「紙」に対しても反応してしまう。じゃ、感情に反応するということにしようと思っても、辻褄が合わない。「キミってサイコー!」と言いながらバカにすることだってできるのだ。それを書いた人の気分というのはまちまちなはず。この辺り、がこの本のマユツバなところ。なにをもって水が変化するのかきちんと触れられていない。「愛」なんて漢字じゃんか!なんで、水に漢字がわかるんだよぉ。つまり、彼らの言い分はこうだろう「水は生きている」ああ、そうですかい。水は生きていてもいいけど、じゃあ、どこで漢字習ったんですか?

 その話は無理やり置いといて。その「水からの伝言」をとりあげた日記で、ある種の響きには人を癒す効果があると書いた。個人的に私は言葉の響きが水を変化させるのはないかと仮説を立てている。とすると「死ね」と「シネ(幸福)」の矛盾が起こる。う~む、考え込んでしまう。そもそも、何が言葉と響きを結び付けているのだろうか。つまり「死ね」という攻撃的な意味と[shine]という音。両者はどんな必然性で結びつけられているのだろう。言語学者的に言うと「そこに必然性はない」のだそうだ。たまたま任意に選ばれた音でしかないと。それは「シ」という音素と「ネ」という音素の無意味な寄り集まりであると。じゃあ「シネ」が「アイ」でも「ニラ」でも良かったわけだ。でも、本当にそうなの?

 ソシュールという言語学者がいる。言語学と言えばソシュール、ソシュールと言えば言語学というような人。彼こそがモノと意味、言葉と音を学問的に分離した張本人。しかし、そのソシュールさん、一時期「詩」の研究に没頭したんです。彼は「詩」において選ばれる「音」と意味の必然性を詩のアナグラムという手法において明らかにしようとした。しかし、彼のその研究は学会で黙殺されてしまいました。(この時期のソシュールさんは霊媒師の話す火星語の研究とかもしちゃってます)彼は他の論文において後世に名を残すのですが、彼を信仰する研究者もその一連の研究をまともに取り上げることはしません。しかし、ソシュールさん、安心してください。私は実は、このソシュールのアナグラムの研究を支持します。といっても言語学会は揺らぎません。しかし、私にはどうも、音と意味の必然性があると思えてならない。

 ここで、そのことを書くときりがないので。例えばわかりやすいところで、楽器の名前と音の関連性について取り上げます。楽器の名前とその楽器の弾き出す音との間に何らかの関連性があるのではないか。まず、「ピアノ」これは「弱い」という意味をもつ言葉で、その楽器のために創られた言葉ではない。しかし、「ピアノ」の鉄の弦を弾くピンという音と「ピアノ」という言葉の響きはどこか似ている。これだけじゃ、「どうかな~」なんて思われるかもしれませんが、「ホルン」とホルンの音、「トロンボーン」とその伸びる音の性質、「チューバ」「ピッコロ」「フルート」「トランペット」あるいは「らっぱ」「バイオリン」「ヴィオラ」「チェンバロ」枚挙に暇がありません。音と似ていると思いません?もし「ピアノ」が「ピアノ」じゃなく「ゴンタック」だったら?どうでしょう。あるいは「ゴンタック」も候補にあがったかもしれない、けれど進化論のような取捨選択があったのではないか。その時、やはり人の意識の中に音とモノとの関係についての潜在的な結びつきがあったとは考えられないか。

 抽象的な言葉の場合、どうなるだろう?例えば、実体を持たない「愛」や「憎しみ」、「死ね」もそうですね。私は言葉には「ア」や「イ」という音素レベルである種の意味が存在するのではないかと思っています。それは単に勝手な思いです。ある語が選ばれるとき潜在的にその音素のもつ意味への意識が人のなかで働いている。ある音素はある状況を示す言葉に多く使われているという例を挙げることは簡単だ。例えば大きく区切って「K」の音。「ころす」「切る」「決定的」「きらい」「蹴る」「kill」これらKの音素が頭に使われている言葉はどれも「切り離す」というようなきつい意味を持っている。それからハ行はどれも笑いになりますね。「ははは、ひひひ、ふふふ、へへへ、ほほほ」これがKのカ行だと「カカカ、キキキ、ククク」ちょっとドライでクールな笑いになる。「殺すぞ」という言葉を「ハヒヘヒヘするぞ!」といってもあまり怖くない。

 日本には「言霊」という言葉がある。これは言葉の中に、霊的なものが宿っていると言う考え方。モノとそれを示す言葉の間には切り離すことができない必然性が存在する。いや、名前はモノそのものであるという思想。例えば、人々には本当の名前というのがあって、その名前を呼んで命令すると、人を自由に操ることができると考えられていました。これは日本に限った思想ではなく、過去の世界に共通する考え方です。呪術における呪文がそれにあたります。それは、しかし、至極当然の考え方なのです。世界において、文字を持つ言語は3000以上存在する言語のうち78言語。その内、世界で通用するのはたったの5~6に過ぎない。文字ができる前、言葉は肉体から切り離すことができなかった。つまり、言葉は肉体の一部であったと言い換えられる。そして、この感覚は、過去だけではなく、現在でもまだ、多くの人々の中に根源的に宿っているいるのではないだろうか。言葉と肉体が切り離され、言葉と意味が切り離されたのは、人類にとって、たかだか100年ほどの出来事なのである。

 言葉はレゴブロックのように外部に存在し、任意に組み替えられるものではなくて、実は人々の身体の内部に細胞のように宿っていて、肉体の感情に連動して、噴出してくるものではないだろうか。そう考えると、詩というもの、ひいては言葉そのものの役割に対して興味を失いつつある現代人は、言葉ではなく、身体の感覚を失いつつあると言い換えることができるような気がする。もし、言葉が水を変質させる働きを持つのなら、人体に対しても同じことだろう。ここで重要なのは言葉の意味ではない。身体をバイブレーションさせる言葉の欠落が、人に、人の精神に深刻な影響を与えるのではないかということである。水の本の真偽に関しては学者じゃないのでこの辺りあいまいに、うっちゃります。
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今日の作品は「ATOM」です。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-02 10:48 | 声について
声に恋する
 人を好きになる時、あなたは初めにどこを好きになりますか?あなたにとって一番重要な部分はどこですか?色々な人に質問したことがあります。顔や性格、趣味が同じという人は多いでしょう。または年収という人もいるでしょう。珍しいのでは、手とか、匂い。手の触感と言う人もいました。爪を噛む癖という人と会ったこともあります。でも、意外に「声」という人が多くいるのに驚きました。そういう私も実は「声」はその人を好きになる最も重要な要素のひとつです。

 たまに嫌いな声の持ち主というのと出くわすことがあります。「感情は表に出さない」を日本人的な美徳として育ってきた私にとっても、ある種の声は、妙に感情を逆なでします。それはなにがどう嫌いというのではなく、なにもかもがどうにも嫌いなのであって、非のうちどころがない。「声だけで」と言うかもしれませんが声には実に様々な情報が入っているように思います。僕の女友達に、声だけで濡れるという人がいます。ある特定の波長の声に無条件に濡れてしまうそうです。あ、それ、いいな、と思う。「あ~」とか「う~」とか言ってたら、その人が気持ちよくなってくれる。他にこんな人もいます。声で好きにならることはないけど、声で嫌いになると言う人。欠点はないのに、ある日、その人の声がたまらなく、嫌なものになるというのです。考えるとちょっと怖いです・・・。

 モンゴルにはホーミーという発声法があって、それによって人を治療する人がいる。世界にはホーミーだけでなく声で病を癒す療法士の人が多く存在します。まあ、病と言わなくても、時に歌手の歌声に心癒されることは誰しもありますよね。で、不思議なのは、同じ楽曲でも、歌手によってまったく、その良さが異なるということです。楽曲さえよければ、ヒットするんだみたいな気持ちもどこかにあるんだけれど、やはり、根本的な部分で、人は曲ではなく、「声」を求めているんではないかしら。

 声の良し悪しは声帯の形に由来するんだけれど、それを形成するの遺伝的要素だけではないと思う。その人のライフスタイルや人間構築に大きく起因するに違いない。ワイルドに憧れた20代、750ccバイクに跨って口ひげを生やした大学時代の僕の友人は、10年後、オカマちゃんに転身、野太いダミ声は、甲高いか細い声に変わっていました。もう、あの野太い声は真似ようにも、まったく別モノになっていた。声はその人の健康状態や精神状態すら如実に表す。その人に波長を合わせ、声に聴き入ると、なんとなくその人の状態が見えてくるものだね

 声って水みたいなものだと思う。本来、言葉は体に根付いていたもので、声を身体から切り離すことはできなかった。録音機なんかなかったし、そして、「文字」がなかった。文字が発明されたたかだか数千年ではじめて、言葉は体から切り離すことができた。言葉は体から、沸き出で、空に消えてゆく。山々にそれぞれの水が沸くように、それぞれの体からそれぞれの声が湧き出すというビジョン。「水からの伝言」c0045997_2116566.jpgという興味深い本がある。ちょっと眉ツバなのだが、とにかく面白い。水にある特定の言葉や音楽を見せたり聴かせたり、それを凍らせてその氷の結晶を見ると、実に様々な形の氷の結晶が表れる。「愛してる」という言葉だと、美しい結晶が出来上がり、「死ね」という言葉だと、グチャグチャの結晶になる。真偽はどうあれ、確かに、今まで多くの山に登って名水と言われる水を飲んできたが、水の味は確かに、異なる。もっというと、日本酒は…あっと、お酒の話にそれると長くなるので、とにかくそう感じましたということで…

 なんかね、意味って信用ならんわけですよ。話に本当の真実味を持たせるのは内容ではなく、その人の声質だったりするような気がする。でも、情報化の社会において、質よりも、情報量が重要視されてしまう。「オレオレ詐欺」なんて情報が勝ってしまういい例だと思う。電話が貴重だったあの頃、電気的な沈黙はなによりも多くのことを語ってくれたように思う。「ねえ、泣いているの?」とかね。キャー!恥ずかし。我々はますます、声に関して愚鈍化していく。声の方も変に技法化され、浄水器にかけられた様な味気ないしゃべり方をする人が多い。もっとも恐れるのは、水が汚れることではなく、意味に固執し、良き水を良きことと判断できなくなること。それは、われわれの耳の問題だと思います。
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今日の作品は「Listen」です。

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by radiodays_coma13 | 2005-02-20 21:22 | 声について