「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
カテゴリ:電話進化論( 4 )
戦う携帯電話
 「宇宙船地球号」という言葉を耳にすることがある。でも地球は宇宙船ではない。地球は戦いのリングなのだ。戦いが終わればリングは要らなくなる。戦いのないところにファイトマネーは生じない。残るのはカラッポのリング。誰もいない地球……。そうならないためにも我々は戦い続けなければならない。滅ぼし合い、膝まづかせるための戦いではなく、違いを見せつけるための戦い。種と種のぶつかり合い。例えばトムとジェリーのように、例えばアンパンマンとバイキンマンのように。そして、日本の神々のように。仲良くけんかするしかないのだ。日本の神道は戦いの上の共存を伝えている。いとも簡単に差異は差異のまま取り込んでしまう。そこに悲劇的な滅ぼしあいはない。一神教にあるのは自己以外の拒否だ。TVというメディアは性質上、一神教的にならざるを得ない。今、必要なのは多神教的なマルチメディアではないだろうか。多面的に物事を捉える見方から立体的な言葉が生まれる。

 コミュニケーションにもまた、ノイズやズレが必要になってくるに違いない。でないと頭に電話を埋め込まれてしまう未来がやってくる。一方ではコンピューターウイルスが安易なネット世界の一元化を防いでいるという見方だってある。要はネット社会の一元性に伝染してしまわないための免疫注射の役割を果たしていると言うのだ。携帯電話の本当の良さは「ゆらぎ」にあると思う。(それは例えば、事前に待ち合わせをしなくても、会いたいときに会えるといった類の揺らぎの延長線上にある。)

 例えば、楽しめる形でノイズを与えるのはどうだろう。人格を持った携帯電話。肩の上にオウムのように乗っかって「いやな奴からかかってきよった!」と自ら着信拒否してしまったり、誰か友達が近くにいると教えてくれたり、いろいろとマネージメントをしてくれる。「なんや、彼女えらい機嫌悪いで」と相手の機嫌まで教えてくれたり、ケンカの仲介役に携帯電話が立ってくれたりもするなんてのもオモシロイ。これからは戦う電話だ。馴れ合いじゃないコミュニケーションツール。電話が繋がっているだけで心が繋がっているわけではないのだ。それだけで安心してはいけない。言葉はそんな簡単に伝わったりしない。たとえ同じ言語であっても。

 携帯電話がどのような発展を遂げるのかを考えると思いは尽きない。ただ、危惧する点も多い。例えば、携帯の待受や着メロなどのコンテンツはただ、右のものを左にという初歩的なビジネスにすぎない。今後、通常のWEBを閲覧できる携帯が続々登場することだろう。そうなれば、コンテンツプロバイダーという業務形態の存続も危うい。今後は、どのように携帯を使うか、というようなビジネスモデルが主流になるだろう。携帯にカード機能を持たせたり、TVが観れたり、音楽を聴けたり。しかし、それらも携帯にとっては本質的ではない。携帯できるという点での優位性はあるが、カードもTVもオーディオ機能もただ、他に成立している機能を奪っているだけのことだ。

 携帯の本質は「いつでもどこでもだれとでも」会話ができる、人間にとっての進化した耳に他ならない。人はこれまで、さまざまな感覚を外在化させ、自らの身体から切り離してきた。車という足。TVやパソコンという目、ロボットという身体、エトセトラ。自分の感覚を自己という存在から切り離し、それを他者として、対峙したいという思い。そこに残るものは何か。それはおそらく、たましいの事。いや、この言い方は正しくない。「脳」である。これだけは自分から切り離せないという何か。人間はそこで「自己とはなんなのか」「我々は何者か」「この痛みはどこからくるのか」という問いを発し続けている。電話とは他者との会話ツールであるだけでなく、自己との対話ツールでもあるのだ。

 技術の進歩は確かに我々の苦悩を見えなくもしてきた。しかし、それは根本的解決ではなくて、ただ隠しただけに過ぎなかった。その代わりの苦悩もしっかりと与えられている。最初に伝達伝授技術の発達は新しい痛みを産むと言ったが、我々はもう単細胞生物に戻ることは出来ない。ならば、あとはマゾヒスティックに痛みを楽しむ方法を考えるしかないのだ。だから、携帯電話もコミュニケーション手段を多様化させ、今後は孤独を紛らわすための道具ではなく、言葉のズレを意識させ孤独を楽しむための道具となれば愉快に違いない。もしかしたら、近い将来のある朝、あなたの携帯電話が「おい、起きろ。お前の将来について、ちょっと提案したいことがあるんだが」とゆすぶり起こすようになるかもしれないのだ。

―終―

(2001.12)
「RADIO DAYSと愉快な未来」より


このコラムは当時掲載したものに手を加え某所に提出したものである。
書いたのは今から5年近く前になる。色々、予言めいたことを書いているが
その多くはすでに実現の目処がたった。
技術の進歩の速度はすさまじいものだと思う。
私にはそれは怖くもあり、はやくもっと先がみたいという嬉しさもある。
この後にも携帯についてレポートを書いているのだが
現在の仕事の関係上、ここにUPすることはできない。(なんのことはない理由です)

電話を道具ではなく、身体の一部として考えるとき、
我々にはもっと多くの重要なことがみえてくるのではなだろうか。

上の言葉をもって、連続して書いたきた携帯についてのコラムを終了します。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-25 13:54 | 電話進化論
携帯電話のグローバル化
携帯電話、インターネットは言語を一元化しようとしているように見える。
WWW(ワイルドワイドウェブ)、どこにでも飛んでゆける世界共通の呪文。
PC言語では英語が世界共通語のようにデカイ顔をしている。
しかし、実はそれは言語の死を意味するのだ。
現在、世界中でざっと六千ある言語の内、
半数以上が死滅する危機にあると言われている。
しかも、世界に通用する言葉はそのうち10言語程度に過ぎないのだ。
それは通信網の発達や自然破壊と無関係ではない。
文明が入り自然破壊の進んだ地域での種の減少と言語の死滅とは
どの地域でもきれいに比例していると言われる。

携帯電話の普及は飽和し、webはもうひとつの現実世界を作り上げた
そこでの言語の一元化は食い止めようがない。
でも先章でも述べたように産まれた時から頭に携帯を
埋め込むというような方向性も非現実的ではない勢いで猛進している。
数世紀後には全ての言語は滅び、
音声言語最後の話者なる者がTVに出てきて大騒ぎになるかもしれない。
ハハハ
頭の中の言葉を自由にやり取りすることができれば
思想の自由もなくなるだろう。
なにしろ考えたことは全て筒抜けなのだから。
おかげでテロなど犯罪を未然で防ぐことも可能になる。
今まで言葉によって伝えることが限界だったイメージも
映像言語なるものを駆使してそのまま人に伝えることが出来るようになる。
TVやリアルタイムで映像を送ることの出来るネット、写メールの普及は
映像言語を推し進めている。
映像言語の交換によりテクノロジーの発達はさらに加速するだろう。
本当に人類はひとつの頭脳を手に入れるのだ。
文化の差なんかそのうち、異文化コミュニケーションの中に
磨り減ってみんなまん丸になるだろう。
右翼も左翼も共産党もみんな仲良く馴れ合うに違いない。
今の日本国会はすでにそうだ。積み木はすでに崩されてしまっているのだ。
思想も伝統も価値観も、CMとして消費される差異でしかない。

あと数百年かかると言われた人間の遺伝子解析が終了した。
それを自由に組み替えれば優れた人間ができる
クローン人間を解禁するのは時間の問題。
すでに、胎児の時点で遺伝子に欠陥があり、重大な障害がある場合は
妊娠8ヶ月を過ぎても堕胎してもよいという法律さえある。
これは立派な優性遺伝子論世界の幕開けではないか。
だが環境学者が警鐘を鳴らすように、「多様性を無くした種は滅びる」
そこで言語の一元化の現状が示す、不思議な符合。
そして、人類全員が「YES!」と言ってしまった時
……地球は終わる。

例えば、同じ抗体を持つ種では同じウイルスにやられて死滅する。
生物は種の多様性を守ることで
いかなる状況にも例外をつくり、種を保存してきた。
しかし、経済はその種の多様性こそを食い物にしているのだ。
貧富や文化の差こそが経済を生む。
その落差が大きければ大きいほど、大きなお金が動く。
先進国はそのようにして発展を遂げてきた。
TVというメディアを使い、「より豊かになるために消費せよ!」
というメッセージを流し続ける。
それがTVという伝達方法に適したメッセージであり、
それにより我々は貧しさという苦悩をより鮮烈に認識し恐怖するようになった。
TVは一方的に情報を流すことで
物質的な豊かさを一神教のようにして人々を洗脳し始めた。
人々が種の多様性に気付かないようにまんまとしてやったり。

見えなくする罠はいろいろある。
エコロジーもそのひとつだ。
人が一致団結するには共通の敵が必要である。
ある仮想の敵を作れば、人はその名のもとに一致団結して集団を信頼する。
大きくなりすぎた人間社会を地球ごと一致団結させるには
まさに「地球を守れ」というメッセージが最適だった。
しかし、このエコロジーという言葉こそが環境破壊につながっているのだ。
今やエコロジーは社会を肥大させ消費を促すキャッチコピーでしかない。
もちろん地球の環境は大切だ。
だが大きな経済が最もたくさん地球を汚しているのだし
それ以前に、産業が発達しなければ
環境もそんなに汚れはしないのもまた確かなのだから。

しかーし!落ち込むことなかれ
地球がダメと分かれば、とっとと他の星に行けばいい。
「いざイスカンダルへ!」今度はこんな言葉が地球で大流行だ。
今、携帯電話やネットは個の痛みを伝えるものから
人類的な痛みと孤独を伝えるものへ。
そして、テクノロジーは地球規模の苦悩を知らせるものへと変化し始めている。

(2001.12)
「RADIO DAYSと愉快な未来」より

([戦う携帯電話]へと続く)
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-16 02:27 | 電話進化論
電話進化論
初期の携帯電話と言えばとにかくカッコ悪かったね。
しかも、有線電話に比べればベラボーに高価で性能も悪く、
一部のブルジョアジーしか持つことが許されなかった。
それだけに当時のゴルフ好きのバブル成金にとって
携帯電話は悪趣味なステータスとなった。
ショルダーバックのようにデカくてダサい携帯電話は
もちろん女性に人気がなかった。
「携帯電話」といえば「おじさん」という暗号のような関係だった。
軽くて小さな携帯電話が登場すると、携帯する女性も現れた。
だが、依然、携帯電話は健全な職務につく女性には高価すぎた。
そのためバブル成金とその仲良しさんたちのブランドとなっていった。
以後、携帯電話は加速度的に小さく軽くなり値段も手ごろになってゆく。
そうなると今度は物好きな嬉しがり屋さんはこぞって買い求め、
ここぞと街中で見せびらかした。
当時は携帯電話で会話している人種が街の人には異様に映った。
パラノイヤと勘違いし距離をとる者、
自分に話しかけられてると思いきや会話にうなずく老人たち。
携帯電話の永い受難の時代は続いた。

気がつくと携帯電話は自らを恥じるように
取り返しがつかないくらいに小さく軽くなってしまっていた。
それがポケットの中に入っているのかさえ気付かなくなるくらいに。
このように初期の携帯は異物でしかなかったのだ。
そこにファッション性といえるようなものは存在しなかった。
携帯はまだその時、電話の延長線上でしかなかった。
明治から昭和、初期の電話は家の玄関にあった。
それは廊下へと場を移し居間へ、居間から個室へ。
電話は初め、客人として迎えられ、居候となり
家族に進化し、各部屋に忍び込んでゆく。
ついには、電話はその人と行動を共にするまでになった。
しかし、電話はまだ他者であることに変わりはなかった。

名前が携帯から「ケータイ」に変わった時
携帯電話は間違った進化に気づいたようにようやく機能に目覚めた。
番号通知、着信メロディー、モバイル機能、所在地レーダー、写メール。
番号通知がない頃には電話が鳴ると
誰から掛かってきたのかを想像しようとした。
不思議なものでそうしていると、分かったような気になったものだ。
音の鳴り方で相手の機嫌まで感じ取ることが出来た。
しかし、今や通知がないと声を聴いても
誰なのか分からないくらい感覚は退化した。
でも、そんなことはどうでもいい。機能が代理してくれるのだから。
なんなら、機嫌だって顔文字であらかじめ知らせてくれればいい。
そしたら、着メロと合わせて電話をとる前に心構えが出来ると言うものだ。
そうこうしているうち若者にとって
ケータイを携帯していないことのほうが異様なことにまでになった。
単なるアクセサリーではなくなった時、
はじめて携帯は個々に適応するファッション性を獲得することになる。
いや、そのチンケな仮装を脱ぐというべきだろう。

では、今後どうなるのか?
携帯はより個人と同一化してゆくだろう。
すでに都市生活には切っても切り離せない身体の一部なのだ。
いっそのこと頭に埋め込んだらどうだろう。
そしたら念じただけで念じた人と会話が出来る。
まるで超能力みたいじゃないか。
いや、ケータイは人類の夢見たテレパシーそのものなのだ。
頭の中に埋め込めるのなら、言葉を思い受かべるだけで会話できるといい。
実際に声を出さなくて済むから他人の迷惑にならない。
そうだ、頭の中の言葉をデータ化できるようになれば、
世界共通言語化も進むかもしれない。
そうなればケータイは世界を救うかもしれないぞ・・・。

(2001.12)
「RADIO DAYSと愉快な未来」より

([携帯電話のグローバル化]へ続く)
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-11 10:15 | 電話進化論
携帯電話クロニクル
数年前、ある友人のサイトで電話に関する
ちょっとしたコラムを連載させてもらったことがある。
「RADIO DAYSと愉快な未来」というものだった。
テクノロジーやメディアと言葉をコンセプトとする我々としては、
非常に良い出来だと自画自賛していた。
本当のところの反響はわからないままだったが、
実はそのコラムがきっかけで、私個人の運命は大きく変わってゆく。
もし、このコラムを書いていなかったら、
私は今、携帯電話のコンテンツに関係した仕事はしていないと断言できる。
今後の自分自身の方向を見定める上でも非常に重要だと思うので、
過去のものではあるが何度かに分けてここにこれを掲載します。


[携帯電話クロニクル]

ホントね、携帯電話も進化したものです。
いや、携帯電話からその進化を問うよりも、
ベル博士の悲鳴と共に電話が発明されてから100年余、
伝達手段の目覚しい進歩は云々かんぬん……
でも、もし電話と言う手段を問うなら人間有史、
もとい、生物史から見た伝達手段の進化も無視できないよね。
それだけ携帯電話の登場は生物史にとってみても
一大センセーショナルに違いなかった。
とにかく「いつでもどこでもだれとでも」コミュニケーションできるのだから。
それは単細胞生物が触覚を発見してから
100億年以上後の出来事だった。
そこにはどんな紆余曲折があったのだろう。

それまでどんな感覚も持ち合わせていない単細胞生物たちは
「あれ、オレ、今、食べられてない?」
ぶつかっているか食べられているかさえ分からなかった。
ただ、生きているんじゃないかな?という予感だけが頼りだった。
そんななかある単細胞生物が「触っているぞ」という感覚をみつけた。
みつけた!のだ。
それは画期的なことだったにちがいない。
なにしろ、食べられているということが分かるようになったのだから。
そのかわりちょっぴり「痛み」まで覚えてしまった。
そうやって生物たちは「痛み」と引き換えに
ひとつひとつの感覚をゆっくり時間をかけて開発していった。
聴覚は何番目だっただろう。おそらく嗅覚の後ではないか。
彼らは遠くの敵の足音に怯えることができた。
そして、五感の最後に視覚が登場した。
彼らははじめて恐ろしい敵の姿を目撃した。
声でコミュニケートする生物も登場した。彼らは叫んだ。
身振りでコミュニケートする生物。やめてくれと懇願する。
そこに人間の登場。もっとも臆病で痛がる生物。
奴らは言葉なるものをあみ出した。
それによってより細かな痛みの情報を伝達伝授することが可能になった。

しかし、彼らの発明は言葉だけにとどまらなかった。
文字の発明である。
文字はなんと、時間の壁を越えて言葉を
肉体から切り離し伝えることを可能にした。
伝わることの発達は過敏になることを意味し、
その情報が多くなることは、そのまま伝えられる苦悩が増えることも意味した。
「人類は痛がる猿である」
我々ほどに涙する生き物はいない。
感覚や伝達方法の多種多様化はそのまま苦悩の歴史でもあった。
痛みが先か感覚が先かを問うのはパラドクスに過ぎない。
しかし、ネットや携帯電話の存在は現に我々の孤独を彩った。
その時、人類初の電話による会話が、
ベル博士が離れたところにいる助手に伝えた苦悩の叫びである
と言う事実がシニカルな意味を持つことになる。
携帯電話は「いつでもどこでもだれとでも」の道具ではなく、
本当は「今、わたしはここにいるよ」と訴えるためのものなのかもしれないね。

(2001.12)
「RADIO DAYSと愉快な未来」より

([電話進化論]へと続く)
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-02-09 10:40 | 電話進化論