「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
カテゴリ:パフォーマンスの現在( 12 )
詩人類の行方
「詩人類T-shouts!」のことがエキサイトのニュースで取り上げられていました。取り上げていただいた。さすが、反響があるものですね。Exsite blogにしてよかった。うふふ。

マイミクの人からも「みましたよ」と何通かメールいただき、なんだか、とても嬉しかったです。

ともかく、当日、イベントに起こし頂いた方々、いろいろと暖かいお言葉をかけてくださった方々、あつくお礼をもうしあげます。

詩人類がいよいよ動き出しました。さあて、どこに向かっているのでしょうか。僕にとってようやく、本気で、詩人をバックアップするお仕事が現実のものになってきたという感じでしょうか。

コツコツと続けると、いつの間にか座席が用意され、穴にはまり込むように、ポコンと形になることがある。それはもう、そうなんです。きっとそうなっているんです。地道にコツコツ、気の遠くなるような作業が突然、ポコンと形になる。


僕にとっては言葉のTシャツを作ること、文字や言葉をデザインをすること、詩人を演出すること、つまり、詩人の新しい仕事を創り出すことがそうだった。


僕自身、驚いている。
驚いているのは、僕だけではないだろう。主宰の桑原滝弥も、そして、イベントを支援していただいている久米繊維工業久米社長もそうなのではないか。このイベントに関わる多くの人が今、ジェットコースターの席についた。


それぞれの持つビジョンが、このイベントでがっちりと結びついた。幸せなイベントです。ビジョンがしっかりとあり、それをそれぞれの分野で実績があり形にできる人材が集まったのですから。


「ないものをつくる」
これこそがモノツクリの仕事だとそう思います。
それは奇をてらうことではなくて、多分、自分の仕事を「特別」だと思うことなんだと、そう感じることができるようになりました。


自分の仕事を「特別」と感じられる多くの人たちに囲まれていると、本当に仕事が楽しくて楽しくて仕方がなくなります。それはとてもラッキーなことです。


さて、詩人類がどこへ向かうのか、近いうちに公表してゆこうと思います。今はまだ、内緒。ここで、さらっと言っても、おそらく誰も信じてくれません。


それを信じてもらうための仕組みを形にしてから徐々に、全体を発掘していこうと思います。僕はなにせ地味な仕事が大好きですから。うふふふ。


ありがとうありがとう。繰り返し、おじぎをします。

(詩人類T-shouts!の9月9日イベントに関して久米社長のblogでも取り上げていただきました! http://kume.keikai.topblog.jp/



ps:ところで、いつになったら、僕のベイビーは僕に会いに来てくれるのかしら?
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-09-15 00:28 | パフォーマンスの現在
ゴッコしよ
c0045997_1232295.jpg


9月9日に舞台に立ちます。場所は錦糸町。久米繊維工業プレスルーム。言葉とTシャツのコラボレーションブランド、「詩人類T-shouts」の第一回イベントです。とても美しいTシャツ専用のギャラリーです。


言葉とTシャツ。一体、なにをするのかあまり想像できない人も多いのではないかと思います。それはねー、僕も同じです。


でね、この間、スタッフに聞いたら、やっぱりスタッフも分からないって。で、代表の桑原さんに聞いたら、「とにかくやるんだ!」とお茶を濁してました。


それから、ついに、このイベントのスターター、久米繊維の社長さんでもある、久米さんとお話して「わたしたち一体、何でしょう?」ときいたところ、「とにかくやるんだ!」とどこかできいたことがあるセリフ…


う~ん。とにかくやるんだ~。


だから、なにをっ!


でも、とにかくやるんです。ローマは一日にしてならず。百聞は一見にしかず。虎穴にいらずんば虎児を得ず。飛んで火にいる夏の虫。とにかくやるんです!


だから、なにをっ!!


あのねー、いちいち、話してたら埒が明きませんよ。わからなければ、観に来ればいいんです。話はそっからですよ。


「さて、これから、なにしましょうか?そこで、皆さんに相談です」


やりたいことはそれぞれにたくさんありますよ。もちろんです。でも、あなたはパリの方角で私はロンドン。犬が西向きゃ尾が東、くらいにみんなそれぞれ。でも、可能性だけは広がる。


可能性が大きいということは良いことです。そこに何もないんだから、可能性は無限大。無限大ということは「0」と同じなんですから。


人生もねー40年近く生きていると、何が出来て何が出来ないかだいたいわかってきてしまう。でも、それじゃつまらない。


なにかとなにかをガッチャンコするということは、可能性を押し広げると言うことです。パリとロンドンが一緒になるってことですから。犬の頭から尾が生えるってことですから。なんだか楽しそうでしょ。


「無理っ!」
そう、無理。そうやって今まで「無理っ!」ってあきらめてきてたでしょう。詩ってこんなもの。人生ってこんなもの。でもね、このイベントではその「無理」が始まるんです。


「やってみなけりゃわからない」。そんなのじゃまだまだ弱いんです。「わかっちゃいるけどやってみる」。なんだか、悪い遊びみたいですけど。これくらいじゃないとね。


これはきっとこんな遊びなんです。
「ねえ、ゴッコ、しよ」
「うん、なにゴッコ?」
「ただのゴッコ」
「ただのゴッコ?」
「そう、ゴッコ」
「…どうやって遊ぶの?」
「だから、どうやって遊ぶか考えるの…」


じゃあ、いい?
ゴッコするものこの指と~まれ!
そういうわけで、あなたは目撃するかもしれないし、目撃しないかもしれない。それはあなた次第というわけ。


詳細は「詩人類T-shouts」まで。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-08-30 01:30 | パフォーマンスの現在
またあの悪夢をみるだろうか
 また、あの夢をみた。まぶしい、ふと気が付くと、舞台の上に立っている。光をさえぎって、観客の方をみると、大きなホールが人で埋め尽くされている。あわてて周囲をみると、舞台の上には自分一人だけ。観客は目を見開いて、次のアクションを今かと待ちわびるように、或いは、さあ、早くなにかやってくれと、僕の一挙手一投足を見逃すまいと見つめている。しかし・・・、僕は次になにをすればいいのかなんてさっぱりわからない。つまり、すっかり忘れちゃったわけだ。不都合なことに忘れた事だけは覚えている。つまり、僕はここにいる全員を裏切る事になるということだけわかっている。足下から凍りつき、ついにはそれがこめかみに上ってくる。火傷するような冷たさだ。冷や汗がにじみ出る。静かだ。この静寂を破らねば、だが、僕には、この沈黙を破るどんな気の効いたことを言うこともできそうにない。アワワワ。

 いつもここで汗だくになって目が覚める。もう、この夢を見始めて10年近くになる。しかし、この夢は夢なんかではない。僕は一度、これと同じ事を経験しているのだ。だからこそ、この悪夢を見続けている。もう10年もの間…。勘弁してくれ。しかし、それは一度の現実ではなく、夢に背中をおされるように何度も舞台の上でこの悪夢を再現している。僕はある時から、舞台の上でセリフを喪失するようになった。稽古では、ミスなどしないのに、本番に限って言葉をなくす。こういうのを精神医学では「イップス」というらしい。よくスポーツ選手がこれにかかり、引退を余儀なくされると言う。ゴルフのパットがまったく決まらなくなったり、ピアニストの指がまったく動かなくなったり。僕の場合は本番中にセリフが消えるという症状だった。

c0045997_1241550.jpg とにかく舞台が好きだった。舞台の近くにいられるのならなんだってした。自分で劇団の立ち上げに関わったり、人の劇団のお手伝いをしたり、役者としてだけではなく、裏方としても。ある時、すごく大きなチャンスが巡ってきた。ミュージカルの準主役。なぜ、僕自身、そんな大役を手にできたのか理解できない。出来心でオーディションを受け、なにかアカペラで歌ってくれという注文に美空ひばりの「りんご追分」をセリフ付きフリ付きで熱唱したら、受かってしまった。おせじにも巧かったとは思えない。ただ、非常にウケがよかった。僕はその本番でやらかしてしまった。本番が近づくに連れ、ミュージカルシロートの僕には大きなプレッシャーがかけられた。団員を差し置いて準主役を獲得した僕に周囲の反応もなかなかに冷ややかだった。前宣伝も次第に過剰になってゆき、これは失敗できないぞ!という気持ちも過剰になっていった。そして、本番・・・。

 僕はそれ以後、そのトラウマを抱え続けた。次第に舞台に立つだけで震えがきた。役者としての終わりを感じた。せめて舞台の近くにいたいという気持ちで舞台の会社で働いた。舞台の袖にいて、照明や音響に「キュー」を出したりするのだが、舞台を横から見つめるだけで、じんわり手に汗をかき、セリフもないのになぜかミスを連発した。病院にいって相談もした。その時に「イップス」という言葉を知った。しかし、治すもなにも気持ちの持ちようなのだ。医者にはある時、ふっとよくなるものですよ。精神安定剤を数日分もらった。けれど、そのある時はやってくる兆しがなかった。僕は劇団をやめた。

 それでも、なにかがあきらめきれなかったのだろうか、自分でもよくわからないが、気がつくと、休みの日には、バーやいろいろな場所で詩の朗読をするようになっていた。詩の朗読は、テキストを手に持っても、なにも言われないのでセリフを失くすこともない。それに詩はテキストや読み方まで自分の創作演出なので、非常に自由だ。僕は次第にその深さと面白さにのめりこんでいった。自分ではリハビリのつもりだった。しかし、基本的に詩の朗読が表現である以上、演出としてテキストを持つのはありとしても、本来はテキストは持つべきではないと思った。テキストを持たずにやってみた。しかし、きちんとセリフは飛んだ。いろいろな舞台で挑戦し続けたが、セリフは飛び続けた。その都度、舞台の上で凍りついた。それでもやめなかった。なぜなんだろう。いつも舞台の上で猛烈に後悔した。

 前置きが長くなったが、僕はまた懲りずに舞台に立とうとしている。懲りずに?いや、懲りるもんか。舞台で台詞をなくしてフリーズしている僕を、もし誰かが引きずり降ろそうとしても、僕は舞台にしがみついてでも舞台に居座ってやる。さて、それが来たる3月18日、大阪での話し。去年の5月に東京でやった「A day」という舞台だ。このブログを見てくださっている方にも多く足を運んでもらった。ありがたい話です。おかげさまの好評につき、大阪公演が持ち上がった。さて、その去年の5月でも僕はきちんとやらかした。テキストをもたない作品で数分間フリーズした。3月の大阪公演ではどうだろうか、懲りずにテキストを持たない朗読をするつもりでいる。どうなるかはこうご期待。
c0045997_1201413.gif
 それまでしても、舞台に立ちたいのだ。こうなったら意地だ。TVでお笑い番組を観ていると時々、芸人がフリーズしているのを目撃する。プロだってそうなんだ。そういう時は、いたたまれない気持ちになる反面。非常にうれしい。もし、同僚なら、肩を抱いて励ますだろう。同時に傷口に塩を塗りつけるだろう。「わっ、さぶっ!最悪!客全員おもいっきりひーとったやん。もう、お前におもんない芸人のイメージ出来上がってるわ、もう、誰もお前で笑わんわ、でも、がんばりや、なっ」という具合に。

 なぜそこまでして舞台なのか?舞台の何が面白いのか。その答えは舞台の終わったあとにある。客がハケ、絢爛豪華なセットや派手な照明器具がすべて片付けられ、モップで舞台をはわく。ほとんどのスタッフも舞台からいなくなる。余分な照明を落として、なにもない舞台に寝転がる。これだ。たくさんの人が長い時間準備して作り上げ、今宵一夜のショーを繰り広げる。多くの観客の驚き、笑い、どよめく声、緊張する役者やスタッフ。こだまする拍手。目を閉じ目を開くともう誰もいない。そして、誰もいなくなった。あれはなんだったのか?この感覚。寝てみる夢を現実という世界に作り上げること。究極のハレとケ。祭りの感覚。僕は特に祭りの終わった後の空虚感が好きだ。そこには世界を丸ごと飲み込んでしまうような、豊かな「無」がある。

 その「無」に触れるには、一度、その上に、無が見えなくなるまで、積み上げなくてはならない。積み上げて積み上げて、また崩す。するとそこに、前よりも深く豊かな「無」がある。そこにまた積み上げる。ヒーヒー言いながら、そして崩す。快感。繰り返す、何度も何度も繰り返す。その度に恐ろしい悪夢を見続ける。でも繰り返す。俺はバカか?でもこの悪夢を見るためには一人では無理だ。いろんな人が関わって、いろんな人を楽しませるために、長い時間をかけてなにかを作り上げてゆく。僕は単に、誰かと何かを作る行為が好きなだけなのかもしれない。あの悪夢は、僕にとっての例えば決意なのだ。楽しませなきゃいけないという気持ちが悪夢を繰り返し再生さているのだろう。

 どうですか?こんなにおおげさに書けば、少しは僕の舞台観てみたくなりました?ダメ?そんなつれない事いわないでさ。舞台の上でフリーズしている僕はとってもキュートですよ。首がカックンカックンして、壊れたおもちゃみたいになるんだから。これはもうジェームス・ブラウンのマントショーみたいなもんなんだから。ものすっごくカッコ悪いんだから。。。

 じゃあ、ひつこく宣伝タイム!SSWSというイベントでの音源が公開されているので、それも聴いてみてください。きっときっと、みてみたくなるはず。多分。多分ね。興味の出た方は「A day」ブログへいってらっしゃい!今日はたくさんじこしゅちょうしました。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2006-02-13 01:25 | パフォーマンスの現在
テクノロジーの発達と巨人文明2
:近代エゴ「我が言葉こそ絶対なり」

 久しぶりに硬い内容。今日の日記は前回のテクノロジーの発達と巨人文明の続きです。そっちを読んでない人は読んでもらえると、多分1.125倍くらい面白くなる。でも、そもそも小難しい風なことは苦手という人は読み飛ばしてもらっても大丈夫。僕には知る由もないので傷つかないもんね。

 「まるちめでぃあ」だなんて最近、よくきくけれど、本当にその意味を理解しているのですか?と聞かれると、「そりゅーしょん」と並んでとても不安になる言葉のベスト3に入るね。メディアがマルチしている?そのマルチ性ってなんだ?今まであるメディアとどこがどう違い、どこらへんがマルチなのか。単体のメディアと違い、マルチになることで、なぜ、識字すらをも凌駕できる言語たりえるのか。ここで、マッキントッシュの概念を構築したアップル社、ビル・アトキンソンの「ハイパーカード」の存在が、マルチメディアを考える上で非常に示唆に富んでいると思う。

 確かにTVは、それまでの識字とは違い映像で情報を受け取ることができた。それは識字とはまったく異なる方法、異なる情報を伝達することが出来る等、いくつかの点で、識字と性質を異にする。しかし、観客は常に受け手であり、自分で同種の情報を配信することが困難である。口承文化の場合、言葉はききとれるけれど喋れないという人は例外を除き存在しない。識字の場合も読むと言うことと書くと言うことはセットになっている。しかし、映像の場合、見ると言うことに特別な技術はいらない。その代わり、その情報を発信するという場合には、限られた人による限られた手続きと技術が必要になる。

 「パイパーカード」はこのことのメディアとしての未熟さ、つまり、メディアの進化の過程を「ユーザーレベル」という言葉で説明する。つまり、メディアには5つの段階が存在する。①見ることは出来ても情報を変更できない「ブラウジング」。②文字を書き込むことが出来る「タイピング」③描画が可能になる「ペインティング」④場の設定やある種の命令を実行する要素を付け足すことの出来る「オーサリング」⑤最後にその場を支配するプログラム自体を変更することが出来る「スクリプティング」。つまり、この5段階の全ての条件を満たして成熟したメディアであるということが出来る。

 これを例にとると、まだまだ、現状はマルチメディアは成熟しているとはがたい。TVにしろインターネット環境にしろブラウジングからは一歩踏み出してはいるが、完全ではない。ただ、時代は確実にマルチメディアへと移行しつつある。それは多くの人がパソコンの中にインストールされたアプリケーションを使いこなし、複雑な情報を発信することを見れば分かる。いや、そんな所をみなくても自由に携帯電話を使いこない、必要な情報を自らで探し出し、アクションを起こし、行動に結びつけ、現実の変化を引き起こす、もっと若い世代の人たちの変化を見ると、それがダイナミックな形で実現されているのが分かる。

 彼らは、写真や映像を自由に取り込み、リアルタイムに言葉のやり取りをする。そこでは顔文字や絵文字などが識字の範囲をはみ出すかのように自由な表現を獲得している。もう、情報は一方的に受け取るだけではなくなったのだ。我々は新たな情報を作り出すことができるようになった。そこで我々は気がつかないうちに、劇的な意識の変化を迎えている。変化と言われてもピンと来ないかもしれない。しかし、我々は誰もが幼い頃、通過したはずの口承から識字への変化を覚えているだろうか?文字が書けるようになったことで迎えた意識の変化を説明する事ができるだろうか?おそらく出来ないだろう。

 識字を獲得した我々に口承時代の意識について語ることは不可能だ。なぜなら、識字を受け入れた段階で、語られる全ての言葉は識字文化の言葉でしかないのだから。我々が口承時代に何を感じ何を体験したかを語るためには口承言語でしかありえない。例えば「愛」という言葉は識字文化によりもたらされた感覚である。それは純粋に抽象的な概念であり、口承段階では理解することはできない言葉である。しかし、一旦「愛」の概念を知ってしまうと、「わからない」ということがわからなくなってしまう。そして、一番の問題は識字から口承へ、人の感覚は不可逆であるということ。一旦、識字を獲たならば我々はもう口から口への豊かな母性的言葉の世界には帰れないのだ。

 同じように、我々は、良かれ悪かれ、片足をマルチメディア言語に踏み入れてしまい、後戻りできない段階に差し掛かっている。しかし、なんの心配もない。「進歩することは良いことだ!」と言うこともできるだろう。すでに、教育の現場では、パソコンのオペレーティングシステムを使った教育が推し進められている。しかし、本当になんの問題もないのだろうか。日本より先に、教師の不足という問題から教育のデジタル化がなされたアメリカでは、生徒の文字離れが深刻な問題になっている。そして、文字離れをした児童には顕著に暴力的傾向が認められるようになる。この問題をすぐに、デジタル化→文字離れ→暴力化と結びつけるのは短絡的過ぎるが、児童の言語形成の段階で児童の精神に深刻な問題が起こっているということは多くの指摘からも無関係ではないということができる。

 我々が口承から識字、識字からマルチメディア言語へと移行するとき、その前段階の言語の確かな土壌を踏み台にして新たな段階に差し掛かる。つまり、豊かな口承体験があってこそ、豊かな識字体験が獲られ、豊かな識字体験があってこそ、豊かなマルチメディア体験ができるのである。しかし、もしその体験がないものに、強制的に識字やマルチメディアを与えた場合、それは子供に銃を持たせるのと同じことだといえる。それらの文化の本当の脅威を知らないまま、彼らは恐るべき道具を手にしてしまう。そして、それが実際の事件に発展した例を挙げろと言われたら、誰しも枚挙に暇がないのではないだろうか。

 口承文化は小さな共同体の社会を形成するために「神話」という共同のルールを必要とした。それらは語り部の口から耳に届けられる範囲の共同体を形成するのには最適であった。そして、識字文化はもっと大きな共同体に伝えるために、声を体から切り離し、文字という形で共同体のルールを書き綴った。知識は文字を読める者が読めないものに読み聞かせるという形で広められた。印刷技術のない初期の書物は独占所有が可能であったため、それら語り部は絶対的権力を持つことができた。彼らは「王」や「司教」と呼ばれた。そして、「物語」はいつしか「法律」へと形を変える。

c0045997_1422311.gif だが、グーテンベルグが印刷技術を広めると、新たな変化が訪れる。知は独占することができなくなった。このころ「マルチン・ルター」を初めとした宗教改革。その反動として、知を独占せんがための抵抗として「焚書」などが盛んに行われた。「我の神は我の中にあり」ここに、近代的な「エゴ」が誕生する。近代的エゴは「我が言葉こそ絶対なり!」を確かなものたらしめんがために、言葉に権力を与えた。そこに経済も生まれる。もはや法律をも凌駕する存在としての「貨幣」が「言葉」として不動の位置についたと言えないだろうか。
(図:グーテンベルグが最初の印刷物の聖書のために制作したブラックレター書体。印刷の特性に合わせてデザインされている)

 絶対的な神は消え去り、すべての物語には著作者のサインが施され、共有物ではなく著作者に帰属する時代。著作権はそこに貨幣を生む。貨幣という絶対的価値の前では、言論も歪められる。いや、むしろ、貨幣の前で前時代の言葉は無力なのだ。物語や法律は、貨幣という価値体系の一部に過ぎない。では、古代的な物語はもはや機能しなくなったのか。さて、現代、貨幣すらが実体のないこの時代において、あらたな変化が起こっている。このマルチメディアの時代における絶対権力者は誰なのか?そして、変化する価値体系を支えるだけの新たな「物語」が必要になってきている。じゃあ、その新たな言葉の形って?
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-09-29 01:48 | パフォーマンスの現在
テクノロジーの発達と巨人文明
 20世紀、すさまじいスピードで人間はテクノロジーを発達させてきた。テクノロジーは人に新たな意識変化をもたらした。それはこれまでの道徳をも凌駕してしまうショックを与えた。例えば、クローン技術は、既存の宗教では捉えることのできない問題を含んでいる。それは「神の領域」と言われていた行為なのである。遺伝子技術により、我々は生まれてくる子供を自由に選択することができる。髪の色は?肌の色は?瞳の色は?身体的特徴、身体能力、知能指数、得意分野、性格。つまり「デザイナーズチャイルド」と呼ばれる存在である。親はあらかじめ、生まれる子供をオーダーすることができるのだ。そんなことが倫理上、許されるわけがない。そう思われるだろうか?

c0045997_1828437.jpg しかし、船はそちらの未来へと舵をきっている。我々は出産する以前の段階で子供が発症するであろう疾患をある程度予測できるようになった。もし、その場合、親は産むかどうかを決める事ができる。そんな法律が日本を含め、各国で成立した。産み分けが許可される障害の重度は今のところ心臓病などに定められてはいるが、それもおそらく、今後、範囲を広げてゆくだろう。そして、その延長線上には確実に「デザイナーズチャイルド」がある。それだけではない。遺伝子技術は「身体のスペア」という概念をも作り出した。つまり、自分の体を自由に交換できる時代がくるのだ。
(図:生体組織再生工学によりネズミの背中に人間の耳を生やす。)

 そこで、誰もが生まれ持った身体という在り方がここにきて問い直される事になる。これまで人の身体的特徴はその人の性格にダイレクトに影響を及ぼすと思われてきた。しかし、現在、その身体と自分との必然性がなくなってきているのだ。それは遺伝子技術に限った事象ではない。すべてのテクノロジーは人間の身体を外在化することで発達してきた。そのことは一見、人間の夢見てきた超能力の実現なのかもしれない。例えば携帯電話は我々の新しい耳であり、テレパシーそのものである。車や飛行機は高機能な足や翼であり、テレポーテーション。リモコンはサイコキネシス、どんな大きなものでも、スイッチひとつで動かすことが出来る。ネットという目によりリアルタイムに世界の情報を手に入れることも出来る。ロボットは新しい身体、我々の変わりに働いてくれる。さて、そこで、精神だけが取り残される。「コギトエルゴスム」この考える我々は一体、何者なのだろう?

 今や、テクノロジーなしでは、人間は満足に生活すら出来ない状態にある。いわば、それらは我々人間の身体の一部になってしまった。そのことは一方で人間の身体の輪郭を曖昧にし、まるで、巨人のような状態にしてしまっていると言える。外在化された高機能身体をもった巨人。しかし、それらの身体部位はどれも自由に扱うには大きすぎ、それぞれが独立し過ぎている。我々はまだ、この新しい身体をうまく使いこなすことができていない。なぜなら精神だけは、外在化して進化させることができないからだ。高機能な体を使いこなすべく新しい精神を持ち合わせていないのではないか。我々は新たな身体の危険な一面についても考えなければならない。車やネットの危険性というだけでなく、銃や爆弾などももちろん、我々の身体の延長であると考えられる。進化した身体をあやつる未熟な精神が我々に悲劇をもたらす。このことはどこか、「風の谷のナウシカ」の巨神兵を思い起こさせる。

 最近、よくTVニュースなどで、若者の暴力の原因をゲームやネットで氾濫する過激な映像や、情報のせいにするコメントを耳にする。しかし、そのTVニュースもそれらと同じ情報であり切り離す事はできない。暴力的な情報のみを本当の意味で規制することなどできないのだ。メディアは単なる道具に過ぎない。人を傷つけることもできれば、癒す事もできる。メディア批判は道具批判でしかない。ある殺人事件で人殺しをした包丁を罰するようなものだ。むしろ、新たなメディアは人類が創りだした識字に続く新しい文化の登場であると言えるだろう。メディアは我々の新しい身体が作り出した新しい言語なのだ。

 口承文化において、人は語り部の口から物語を授乳することで、自分の扱い方を学んだ。物語は、自我を精神の深層部分で成長させる効果がある。物語や詩は身体の取扱説明書であったのだ。各文化の物語はその時代、文化における人間の意識のあり方を形作っているといえる。「我々はどう生きるべきなのか」。禁止事項についてはある程度のことを法律が教えてくれるだろう。しかし、法律などという取扱説明書では、悲劇が減少する事などありえない。我々現代人には、この肥大化した身体の有り様を語った物語が決定的に不足している。むしろ、現在、目にする様々な暴力的悲劇は物語の不足に要因があるとするほうが、暴力的描写の有無よりも正確なのではないか。アメリカにおいて、何故、小学生同士の喧嘩に銃がでてくるのか。国家間の争いが何故、人によってではなく核兵器によって均衡を保っているのか。しかし、まず、我々はそのような新しい物語を生み出す前に、もう一度、口承と識字の文化を再考する必要があるだろう。なぜなら、その巨人の体にはまだ、巨人の体を語りつくせる「声帯」が存在しないからだ。

 言語を持たない民族というものは存在しない。口承という文化を経て、人は識字を獲得する。識字を持たない民族は多く存在する。識字により、我々は声を身体から切り離す事ができるようになった。そのことは我々の意識に劇的な変化をもたらした。そして、次なる意識の劇的な変化をもたらす言語の段階に我々は今、片足をかけている。そして、それこそが「巨人の声帯」となるべき新次元の言葉となるだろう。声により人類は現実を指し示すことができるようになった。そして現実世界を作り変える能力を手に入れた。言語を持たない猿と私たち人類とを大きく隔てるのはこの点である。言語を手に入れる事で、我々は本当の意味で類人猿から人になったと言える。そして、新たな段階、文字を発明した人類は、形のない意識に形を与え、この世界にないものを作り出す事ができるようになった。それは、つまり、脳内のイメージが現実に漏れ出した世界。現代社会は高度に脳化した社会と言える。そして、さらに新たな段階がきた。ついに私たちは自らの身体までも切り離す事に成功したのだ。その新たな変化を引き起こしたのが「マルチメディア」である。

(この日記の続きで「マルチメディア」が人類の意識にどのような具体的変化をもたらすのか、そして、それはどのような言語の変化を招き、そこではどのような物語が可能かについて考えてみたいと思います。)
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-07-19 18:37 | パフォーマンスの現在
気骨な人々(関わっているイベントについて)
 相変わらずワケがわからず忙しいです。でも、とても充実している。それは、自分のやるべき仕事を実感しているからです。うん、ちょっと違うな。仕事が向こうからやってくる。しかも、その仕事は自分が志したものです。ついに、ある流れの中に入ったという感じでしょうか。そこにはあらかじめ準備された穴が空いていて、そこにポコっとはまり込むような具合に自分がある役割を担っている。もちろん、その仕事とは詩に関わる仕事です。僕がイメージしていたのは、詩を書く仕事ではなく、詩というものの器を作っていく仕事。

 「詩人です」と言って、何度、残念な思いをしてきたことだろう。多くの人がまるで政治的思想を打ち明けたように「へぇ」と極力引きつった顔を隠して、その後はその話題に触れない。万が一にでも詩をたしなむ人に偶々、その質問をぶつけた場合は、秘密結社の仲間同士のように、目配せして「同士よ、これ以上、ここで、その話題は避けよう」という暗黙の了解が成り立つ。それもそれで、気持ちが悪い。つまり、一般社会において、詩にはタブーの匂いが染み付いている。まあ、そこに至るには戦後の詩壇のゴタゴタがおおいに関係あるんだろう。詩は、政治的で、難解で、必要以上にセンチメンタルで、恥ずかしい。でも、僕はそんな詩はでぇ~嫌えだ。・・・僕はね。

 c0045997_1715418.gif「詩人です」と言って恥ずかしくない社会が作りたい。とウエノポエトリカンジャム3の実行委員長の馬野氏が言っていた。こういうことをちゃんと主張できるって素敵だと思う。そういう時期がきたのだ。そして、その言葉は強い力を持つことになると思う。でも、もう一声欲しい。「詩が他のなによりも好きだ」と言ってもらえるようにしたいよね。実際に僕には詩が一番楽しい。詩人が恥ずかしくない社会にしたいと言うからには、詩人は恥ずかしいという前提がある。まるで、人種差別みたいじゃないか。詩人はそんなにも虐げられているのか?とある意味、恐ろしくなる。

 「詩はエンターテイメントじゃない」という人がいる。そして、そうすることは不可能だと。でも、その人はやった結果としてそれを語っているのだろうか?「本当の詩はエンターテイメントにはならない。」もしかしたら、それを言う人は、エンターテイメントになっていない自分の作品が本当の詩だということを言いたいのかもしれないね。因みに音楽にもエンターテイメントじゃない音楽を主張する人たちがいる。こういう方々はどこの業界にも存在するんだね。エンターテイメントかどうかはこの際関係ないと思うのですが・・・。なぜ、区別する?そんなことを一生懸命考えても答えなんか出んだろうに。それはエンターテイメントとは何か?に問題が摩り替わる魔のループだわよ。

 これを書いている時に詩人から電話があった。(うらやましいでしょう。仕事中に詩人から電話がかかってくるなんて、なかなか素敵だと思いません?違う?)思い切って、いろいろ質問してみる。彼曰く、「詩は個人的だから」。彼もまた難しいことを言う。個人的でなかった表現があるというのか。問題は個を突き抜けて時代に繋がるかどうかだ。「時代と出会うアーティストは幸い」とこれは誰が言ったんだっけ?一体、彼らは誰に洗脳されているんだろう。詩は売れないし、その場がないって・・・。そんなことを嘆くより、やることいっぱいあるでしょうがに。だったら、その場を作ればいいじゃないか。見る限りほとんど誰もそういう努力をしていない。おおっ、これはビジネスチャンスだ!とはあんまり思わないけどね。

 でも、中には気骨な詩人も存在する。ウエノポエトリカンジャム3代表の馬野氏もなかなかガンゴで分からず屋で素敵な人物である。彼もまた信じる人である。そして、確実に詩を取り巻く環境を変えていっている。そして、このイベントの最初の発起人でもあり、またSSWSというイベントの立役者でもある、さいとういんこ氏も信じる人。いや、この人は疑わない人。スマート。僕が東京にくる原因を作った人。エライ!そういうふうに見渡してみると、案外、気骨な人々も多い。いや、幸せなことにそういう人たちが集まり何か大きなものを作ろうとしつつあるのだと思う。そして、幸せなことに、自分もその場でお手伝いできている。僕もエライ!よしよし。

 そして、僕が出会った中でも一二を争う気骨の人。それが、現在「リリース・ルーム」というイベントを主宰している安田倫子氏。この人、信念曲げない。曲げようとしたら曲げられる(ボコられる)。この人は、はしゃがない。一番、根っこの部分をがっちりと抑えている。だからブレない。まあ、あんまり人を褒めると気持ちが悪いので、イベントの説明をしましょう。

c0045997_17155951.jpg(※右写真は、イベントパンフの第一校)
 僕がこのイベントに関わることになったのは、僕からのラブコール。「ちょっと手伝わせろよ~」と申し出た。デザインでのバックアップをしています。イベントの内容は詩の合評会。どこにでもあると思うでしょ。でも、違うのよね。いろんな仕掛けがあるんです。細かい説明はイベントのブログが立っているからそちらをどうぞ。初めての人でも参加しやすいような工夫が施されている。女性だからこそできる細かい心遣いがそこにはあるように思う。デザインもそういう仕掛けや細やかさをスマートに表現できるものを提案していきました。(これも仕掛けがいっぱいですよ)それを、ああじゃないこうじゃないと、創っていったという具合。もう、これは本当に楽しい時間でした。


 奇抜なことをすれば、それでいいということではないと思う。「新しい」かどうかは結果ではないのか。本当の意味で幸せな新しさを獲得しているものをみるとそう感じる。「まだまだやれることはある」リリース・ルームというイベントのコンセプトを聴いている時に僕はそう感じた。地道な、誰も取り組まなかったような些細なことの中に、本質的に何か大きな局面の変化をもたらすキッカケが眠っている。それをみつけたら、あとは当たり前だけど、そこにどれだけのマンパワーを注げるかということだと思う。そこには必ず突破口がある。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-07-01 17:35 | パフォーマンスの現在
表現することの責任について
 先日、つつがなく終えたPOEM SHOW「A day」であるが、好評をいただき、大阪でもという流れになってきている。幸せなことだ。といっても、舞台探しからなにから大変なことである。結構な大所帯で移動するだけで大変な経費である。(どなたか、よいホールご存知ではありませんか?)

 その中の作品のひとつに阪神大震災を扱ったものがあった。この「A day」は、実は出演者三人共全員、偶然にも兵庫県出身者であった。出会ったのは東京で、同郷だから惹かれあったわけでもない、単なる偶然である。それで、震災について語りましょうというふうになったわけでもない。日々のニュースを題材に詩を制作しましょうという流れから、なぜか、結果的に震災についての詩ということになっていた。三人とも、震災当時別々の場所からそれを体験し、関わった。作品では、その三者三様の視点で震災というニュースを立体的に見せようという試みであった。

 それまで、震災について作品にしたり、語るということはしなかった。意図的にしなかったわけではなく、潜在的に、触らぬ神に祟りなし的な回避であったように思う。笑いにすら出来ないのだから。ともかく、震災について語ろうとすると、その一面だけが肥大化して、事実をひどく歪め、語られなかった一方に大きな闇ができるように感じられた。当時、震災の地で活動をしていなかったわけではない。それなりに、まあ、ほんとうにそれなりに、震災を突っついていた。いや、正確には、被災地にいるだけで、全てが震災的活動の様相を呈してしまうのだ。それは、戦後の日本が、なにもかも「戦後○○」だったことと同じ事だと思う。
c0045997_211519.jpg

(被災地でのパフォーマンス。
イタイ、いたたた、、、
過去の恥を惜しげもなく披露。
あー、何故か快感。。。)



c0045997_21375.jpg プレハブの建築に壁画を描くだけで、焼け野でパフォーマンスするだけで、それは「震災的活動」とみなされた。その当時は、それはそれで、楽しかった。街のいたるところで復興イベント、アートイベントが行われ、「とにかく盛り上げよう!」というお祭り的ムードが支配していた。しかし、しばらく時間が経つと、アーティスト達は目的を失うというか、その行為に、ある種の必然性が失われたような、虚しさがみえはじめた。いや、作品が変わったのではないと思う。観る目が変わったのだろう。今思うと、結果として、それらの作品の中に震災の深部や本質に触れた作品はひとつも見当たらなかった。ただ、紛らわしたかったというか、その記憶を忘れんがための単なる賑やかしだったのかもしれない、なんてね。




 先日、色々と荷物を整理していたら、ダンボールの中から、震災時の様々な人の証言が録音されたカセットテープや、日記が出てきた。僕は、これを作品にしようと思った。今更、震災についての感想を書いたところで、それは他人事に過ぎないだろう。ならば、当時の人々の証言や、その時の自分の思いを、そのままその断片を未完成のパズルピースのように構成しよう、そうすることで、そこに、見えないはずの全体像が浮かび上がるのではないか。

 新聞のニュースはすべて三人称で語られる。そこには、大きく何かがかけている。そのことを「A day」共演者の村田活彦は「大文字のニュース、小文字のニュース」という表現をした。事件は書き記されることで、書き記されなかったなにかが永遠に零れ落ちてしまう。おそらく、結構な量の日記と取材をしておきながら、私がそれを作品にしなかったのは、書くことの無責任さを回避するためだったのではないか。今はそう思う。私はこれを舞台のテーブルにあげるために、観客に、語られることの背後にも異なる層があり、語らたことは語られなかったことの氷山の一角であると観客に感じさせる演出を考え続けた。結果、スクリーンに、語りとは別の角度のセンテンスを表示し、各センテンスのムードを和音のみで表現したものを、チャンネルを切り替えるように音と映像を切り替えていった。

 我ながら良い出来だったと思う、良い出来というよりも、意義のある作品となった。これまでの制作態度を一歩前に進め、そのことにより、次に作るべき作品群をイメージすることができた。その後、SSWSというイベントのチャンピオントーナメントにおいて、この作品のコンパクトバージョンをぶつけた。パフォーマンスの爆発力で圧倒的な力をみせた「スナックぷあ」というアーティストにこの作品でなんとか勝利することが出来た。おそらく、他の作品であれば、確実に玉砕していただろう。

 モノツクリとして、いつも作ることの責任というのを感じずにはおれない。観客を想像し、発言するのであれば、どのような表現にも責任はついてまわる。何かを問うというのはそういうことだろう。もし、そういう責任を回避するのであれば、それは作品ですらない。作品によって、人の心を動かしたいということはそういうことではないか。もし、社会への問いかけをしたならば、作り手はその問いへの答えを用意しなければならないはずだ。それは社会とのダイアローグといえる。しかし、ネットの氾濫により、発言の責任の感覚がおかしなことになってきていると感じる。絶対的量の情報の中で、なにが垂れ流される情報であるか、そうでないか、作られたものの重みを測る時、僕は、その責任の量でひとつの答えを出せるのではないかと思う。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-06-13 01:44 | パフォーマンスの現在
パフォーマンスの現在/TVママの子守唄
 現代「声の不在」は深刻な問題である。音声という意味においての「声」ではなく、機能する媒体としての「声」。一体どのような状況がその「声の不在」を作りだしているのか。そして、「声」の不在が我々にどのような影響を及ぼすのか。その状況について考えてみたいと思う。

 人類はつい1万年ほど前に文字の原型を作り出し、口承から識字への進化の過程を歩んできた。文字を持たない民族も存在するが、文明国においては、義務教育の中で誰もが口承から識字への人類が歩んだ文明進化の過程を追体験することになる。しかし、誰もその過程で自分に何が起こっているかを意識的になることができない。時間の概念や自己の概念、ものごとを客観視すること自体、識字が我々にもたらす意識の変化であるからだ。それ以前、我々はどのように世界を認識し、考えていたのか?

 いったん、人が口承から識字へと移行するともう後戻りは出来ない。誰もが子供の頃、同じ事を経験したにもかかわらず、である。それは夢での時間を正しく語る術がないのと同じである。語られたとしてもそれは識字的な言葉をもっての説明に過ぎない。私たちは子供の頃に育んだものを識字において切り離し客体化する。それこそが自我の誕生である。人々は誰もがこのような口承から識字の流れを経て、善悪の意識を育み秩序を学び社会的な人間になることが出来る。

 もし、口承世界を経験しないで識字世界へ踏み込んでしまうとどうなるのか?我々は「われ思う」自意識を客体化できず、意識の流れに逆らうことが出来ない人間に仕上がってしまう。彼らにとって自己というのは自分の前を通り過ぎる他人のような存在に過ぎない。彼らは特徴として自分を指す一人称を三人称的に使う。「彼はそう感じている」と。自意識を満たさないままに、自我の存在を切り離してしまっているからだ。

 そして、現代、そのような子供たちが増えている、やはり、それにはTVやCD、ラジオの存在が密接に関っている。現代の子供は成人するまでの大切な時間の約2万時間近くをTVの前で過ごす。母親が直接、子供に物語を語る機会は少なくなった。本来、子供たちは、母親の口から口へ受け継ぐ「語りかけ」という言葉の乳を十分に受け自意識を発達させる。識字はその豊かな口承文化の上に築かれる。発達した自意識は識字によって切り離され、客体化される。自意識が十分に発達していればいるほど、豊かな感情形成がなされるというわけだ。だが、彼らにとって、その「語りかけ」の代わりにTVやCDといったメディアが口承世界の代用をしているのだ。

 しかし、TVなどのメディアは口承世界の代用ではありえない。それは聞き手が口を挟む事ができないからだ。TVは人間の声を殺してしまう。TVは一方的に情報を流すため誰もそれについて考えたり分析したりすることが出来ない。そして、気に入らなければチャンネルを変えることが出来る。情報を得るために質問もしなければ、リモコンのスイッチを押す以上の労力も必要ない。そのことは子供から最も大切な創造性を略奪してしまう。

 何よりも注意すべきは、TVの言語は識字世界の言葉であるということだ。多くの若者たちが未熟児のまま識字世界へ産み落とされているのだ。彼らはその危険な空白のある状態で、TVが垂れ流す暴力やSEXを受容することになる。もし、それが気に入らなければスイッチをOFFにすればよいのだ。現代人にとっての暴力とはそれと同じ簡単な行為になってしまったとは言えないだろうか。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-04-20 14:53 | パフォーマンスの現在
パフォーマンスの現在/ベンツ製UFOに乗った神様誕生
 「パフォーマンスの現在」の続きが読みたいといってくれる人が数人メールをしてくれました。うれしいので、続けます。(「パフォーマンスの現在」自体は数年前に書いた未公開の文章です。それに、ダイナミックに手を加えて、このブログで掲載している次第。)

 詩の朗読がおもしろくあるべきか?この問いについて、多くの場所で論じられているのを目にしてきた。「詩は表現ではない!」とか「詩は売られてはならない」僕自身はこのことについてあまり答えを急ぎたくない。ただ、同じく他の舞台に当てはめて考えるときに、この問いは別の意味を持つように思う。演劇は面白くあるべきか?芸術は面白くあるべきか?音楽は面白くあるべきか?そして、どの業界でも言う人は口を揃えて言う。「金じゃないんだ!」

 リーバイスのCMでドラゴンアッシュの降谷くんが、「Famous」「money」をマジックで消してゆき、そして、最後に「music」だけを消さないで残すというのがある。あれに対して反論はないが、アートというものが抱える矛盾を分かりやすく見ることができるような気がする。それは幽霊が人間を否定するという図式ではないか?そういう発言をすることで、アートは「自らの存在を否定する幽霊」のような自己矛盾を抱えてしまうことになる。否定することでしか存在を明らかにできないなんて…。

 全ての表現は、人間の影に過ぎない。当たり前のことである。人間抜きの表現というものがあったためしがない。表現という行為は本来、そのものの自立した実体を持たず、どんなに優れた模倣であれ、等価交換はできない。しかし、人はそれを自分の分身として残す努力をし続けてきた。声という実体のないものに文字という実体を与えたように。自らの身体を機能として分離させ、形のないものに形を与えてゆく作業。そして、それは今や、人工知能という領域まで達しようとしている。しかし、その過激な表現からは常に、人間の存在そのものの実体が抜け落ち続けているように思う。

 声は本来、他者なしではありえない。発話者が立ち上げた瞬間消えてしまうのだから。しかし、文字の発明により、記憶は外在化した。その時、伝達という概念が変わった。言葉は書き記しさえすれば何年も後にそれを取り出して伝えることも出来る。識字文化以前の口承文化では自己も時間も客体化することなどありえなかった。人は言葉を書き出し、肉体から切り離すことによってはじめて自分自身にも語りかけることが出来るようになったのだ。

 現代、TVなどの文化によって、まったく受動的な一方向の情報形態を作り上げることで、人類の言語は相互交換を欠き、さらに個人の中へ内在化していった。その結果、自己完結した自我の膨張を招いた。人はこの自我の中で短絡的な全能感を感じることが出来る。人は自我の中に各々の新しい神をイメージし作り出す。恐るべき絶対的な自然という外部社会が作り出す公的な神ではなく、超個人的な価値を思想化し具体化した神的な存在を創造する。

 超個人的な価値観の上に発された言葉は表現としての詩というよりも宗教の経典や箴言に近いかもしれない。これらのことこそ詩が難解になっていくひとつの要因であったと考えられる。そのような状況が生み出した、場をわきまえない非コミュニケーション朗読はなによりも独り言に似ていた。それは声をモノ化して垂れ流す意味で、まさに排泄と同じ行為であるといえる。そして、あとに残るのは無残な自己弁護の山。それはどこか現代の病理の様子とも似ていないか。

 前回の文章で「舞台」の機能について触れたが、それとよく似た空間に「映画館」がある。しかし、「映画館」と「舞台」は似て非なるものであることに注意しなければならない。映画館の闇の中で観客は全くの個になることを強要される。そこで、観客は個々が孤独な批評家になる。舞台のようにひとつの出来事を共有することはできない。映画はその意味で身体抜きの視覚の物語であるといえる。快感は視覚にゆだねられ、価値は共有され、膨らまされるのではなく、浪費されてゆく。その意味で映画は真に資本主義的な幻想を抱え込むことになる。

 文化人類学者のレヴィ・ストロースは「価値とは交換することでうまれる」といった。本来、それ自体になんの物質的価値もない貨幣が価値を持つのも同じことである。私たちの生活する、資本主義という社会は、貨幣によって必要価値を交換しているのではなく、貨幣の交換によって生じる価値の幻想を偏重し、モノを代理にして消費する悪しきスパイラルに陥っている。そこで交換されているものが何であるのか、今一度、見直さなければならない時期が来ている。全てのモノは本当のそのものの価値から切り離されてしまっている。一方で、純粋な価値そのものを具現化したアートがプリミティブな力を失っている現実。

 「交換されること」。アートが面白くあるべきかという問いのひとつの答えとしてこのことが言えると思う。アートは現代の経済のあり方に反している。その半面、もっとも現代の経済のあり方を如実に映し出すことができる鏡でもある。しかし、経済はそれらの価値ですらも商品化無毒化し、すさまじいスピードで消費してゆく。それゆえに実体をもたないデザインという価値が貨幣に等しく現代において絶対的な権力を持ちうる。

 しかし、そこでファインアーティストたちは単に、アンチ経済を主張してよいのか?聖書に鯨に飲まれたヨナの話がある。この状況を打破するのは外部からの働きではなく、本当の内部からのちょっとした刺激ではないのか。そこで、世界はコペルニクス的展開を迎える。価値そのものを交換させるものとしてのアートに貨幣というものを内部から吹き飛ばす、新しい社会の可能性があるといえば大げさだろうか。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-04-07 23:26 | パフォーマンスの現在
秘密結社の闇鍋パーティー
 今日はマジメな話。「パフォーマンスの現在」の三回目。前回の続き。

 個人の感想として、詩の朗読は一言でいうなら秘密結社の闇鍋パーティーだね。誰も不味いと言うことは許されない。そこで許されるのは栄養についての話。それにいいことに、えげつない実験料理などのしたい放題が横行する。美味しいかどうかを問うのはタブーですらある。どんな栄養が含まれているのかを顰め面で語り合う。観客は、もう苦行僧そのもの。誰もどうすれば料理が美味しくなるかを語り合おうとしないんだね。でもね、果たして、この光景は詩の朗読という場だけの話なんだろうか…。

 詩の朗読は娯楽であるべきか、これは全ての表現に突きつけられる問いでもある。これについて考える前に、それらが立つべき舞台とは現代社会においてどのように機能し、パフォーマーはどう立つべきなのか、を考えたい。以前RADIO DAYSとして「パフォーマンス弱者は舞台に立つべきではない」といくつかの媒体を通して発言したことがある。それに対して多くの反響をいただいた。しかし、そのほとんどが抗議であった。もし、それを演劇や舞踏に置き換えて言えばどうなるだろう。おそらくそんな抗議はなかっただろう。では、詩は特別なのだろうか?確認として、そこが「舞台」であるということ。単に人前に立つなというのではない。舞台というもの、舞台で働いていたことのある人間としての思い入れを通して発言すれば、そこは特別な場所なのだ。そこには立つ資格というのが必要だと考えている。プロであるべきというのではない。舞台は現代社会が唯一、機能させることができるリアルなハレの場であるというのが私の考えだ。

 現代は、日常と非日常の境が曖昧な時代になってしまった。過去、まだ、語り部たちがいた頃。神話や昔話は、人々を個から公に結びつけ、社会的存在へと再構成させてくれる重要な祭りごとであった。そこで、人々はひとつの物語を社会の規範として共有することができた。しかし、それは現在の我々が考えているような、ファシズムではない。神話において、人は物語の主人公になることができた。与えられる物語ではなく、それぞれは物語を参加共有することができるのだ。そこには双方向のコミュニケーションが存在する。フェシズムとは、マスコミ時代の一方通行の規範でしかない。人は社会に参加するのではなく服従することを強いられる。TVや新聞というものの性質がそうである。それはただ情報を受動的に受け入れる道具にしか過ぎない。そういう社会の中で私たちは情報に服従するという生き方を迫られることになる。

 語り部たちは、そこで起こっている変化を見逃さない。赤ん坊や犬がないたとしても、それを神話の中に取り込んでゆく。それは過去におこったことではなく、紛れもなく今ここで繰り返される物語なのだ。ひとつの物語は日々、変調し変奏され、繰り返されてゆく。そのことで人々は日常を異化してゆくことができる。社会という共同体の夢を機能させ紡いでゆくのが語り部の役割である。しかし、それが機能するのは識字を持たない者のコミュニティに限られる。重要なのは繰り返されることと、話が常に消えてゆくことであった。…そして、共同体の夢は機能しなくなった。物語は個人のものに堕した。それぞれの話には著作者の名前が記される。話は消えることがない。そこでは、物語の繰り返しは許されない。オリジナルであるために、それぞれの語り部は物語を逸脱し、寸断し、破壊してゆく。

 我々が立っている現代は物語があらかじめ破壊し尽くされた時代といえる。著作権という名のものとに物語の領土はバラバラに切り刻まれた。書かれた個々の物語はそれを大きく包み込む社会というおおきなファクターを失い、単なる記述と化してしまう。そこでは、創作された物語も、事実としての出来事も見分けがつかない。時として、自らの履歴書などに違和感を覚えることは誰しもあるだろう。…これが自分なのかと。共有する物語をもたない我々は、識字という枠から実体を開放する術を無くしかけているのかもしれない。つまり、我々の人生はまるごとテキストになってしまったのだ。人生はどう生きるかではなく、どう解釈するかという問題に帰結してしまう。ついに人は一冊の書物になった。

 ここで、書物を否定するのではないということを先に断っておきます。人は書物だけで機能することができないということ。そこで、舞台の存在があるのではないかと思えるのです。舞台には都会にはない闇があると同時に、都会にはない祭りがあると言えるのではないか。舞台に立つというのはなにも大それたことではない。非常にシンプルなことだと思う。ただ、そこに立つからには人は個人ではなくなる。コロス(群集)の目によって個人は個人の枠を超え、物語そのものになる。言い換えると「出来事」になること。演じるということではない。舞台は個人の発言の場ではない。そんなのそれぞれの勝手じゃないか!そういう人もあるだろう。しかし、それは違う。発言することは物語ることではなく、権力の行使に過ぎない。それは舞台という場所でするべきではない。ここで言っているのは語り部の話で王の話ではない。しかし、悲しいかな、語り部は王によって追放され、物語は王に属するものになっていった。それが歴史の事実である。現代はこのまま舞台という空間さえも失うことになるのだろうか。その時、言葉はどうなるのだろう。
[PR]
by radiodays_coma13 | 2005-03-07 23:47 | パフォーマンスの現在