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言葉と文化
by radiodays_coma13
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カテゴリ:文字について( 6 )
文字を開放せよ
6年前、RADIO DAYSというユニットでユニフォームとなるTシャツを制作した。正面には証明を点けたり消したりするスイッチと背面にはコンセント。
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「僕らはON/OFFの単純な電気回路で動いています」
というジョークのようなメッセージをこめたものだった。


これがなかなか人気だった。僕らをしらない人からもたくさん欲しがってもらえた。そして、一番の効用はあまり親しくない人からも、胸のところにあるスイッチを押してもらえることだった。
(時々、背中のコンセント口に無理やり、コンセントを刺されそうになることもあった…。)


あるアーティストは僕らのTシャツを切り刻み、再構築することで、作品にして、どこかの美術館で展示してくれた。


そのTシャツのおかげで、僕らは自分たちの実力以上の認知度を獲得することができたように思う。イメージとはかくも浸透しやすいものである。


僕はTシャツも目玉焼きと同じくらいだ~い好きだけど、文字もだ~い好き。


完全な

文字フェチです。


特に、印刷技術が登場する以前の古い書物や初期の活版印刷。もうね、その本の魔術的な魅力にゾクゾクしておしっこちびっちゃいそうです。


初期の文字、とくにアルファベットは、現在の文字とは根本的に目的が異なる。それは「声」に翻訳されるための脚本であった。聖書は文字が読める特別な人々による、福音のためのテキスト。アルファベットとは、発音記号そのものだったともいえる。


日本にも、漢字が入る以前、縄文文字「ヲシテ」と呼ばれる表音文字が存在した。古事記はそのヲシテによって記述された。
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漢字やカナについても同じことが言える。それはアルファベットほど、完全な表音ではないにしても、そこには声がこめられていた。文字は人の肉体を離れても声を残すための録音機だったのである。


しかし、印刷技術が洗練されてゆくと、文字は声を捨て、独自の文字文化として洗練されてゆく。本は文字を綺麗に陳列し保存するための箱だったのである。当時、本は、特別な意味を持っていた。国家や教会は書物を巨大な国立図書館に閉じ込め、意にそぐわぬ本を焚書の的とした。


そういう歴史の中から知を保管し、独占するための機関として「大学」は生まれた。現在でもその傾向きちんとは残っている。例えば、論文至上主義。出版物至上主義がそう。そのなが~いなが~い文化の中で、「生きた知」と、そして、「声」はいつもあえいでいる。


そんな折、インターネットの登場は人間の「知」に対して、大きなインパクトを与えた。サイバー空間が人間の脳のかわりをするからである。人工知能という意味ではなく。記憶という意味においてである。


人間はわざわざ血のにじむような努力をして記憶する必要がなくなった。知は誰かが所有できるものではないことがハッキリしたのである。


例えば、今まではたくさんの情報を持っている人がモテモテだった。


「どんなレストランに行く?」といえば、
「美味しいところがあるから教えるよ」といえば女の子は
「あら、素敵っ」てな具合になった。
でも今は、どんなに効率の良い検索の仕方を知っているかが、女の子に、まあ、素敵と思わせるのである。え、違う?


人類学者レヴィ=ストロースは「悲しき熱帯」の中で 「価値は交換によって生まれる」 と言ってたけれど、情報は交換されてこそ価値をもつ。それが現代なんじゃないかしら。


昔、図書館の誰の目にもふれない塩漬けにされている本から、一文字、一文字たちが、蟻となって、書庫から這い出す妄想にうなされたことがあった。そうならないように、文字に空気をあてないと!と思い、片っ端から図書館の本をパラパラした時期がある。


もちろん!今はそんなことはしない。けれど、文字を声にしてやらないといけないという意識はどこかにあるように思う。図書館には発音されなかった悲しい文字たちが、喉をつまらせて、あえいでいる…。


文字がない頃、もちろん録音機なんて想像もできなかった頃。声に出したことは消すことができた。でも、現代、人はこう言う


「言ったことは消えない」


そのかわり、文字ももった人たちは、レトリックということを考え出した。嘘をついたり上手いことをいったり。そして「言霊」と言われるような、言葉が真実であった時代は終わった。


だからこそ僕は夢想する。文字が太陽の光を浴び、風に洗濯されTシャツの上で気持ちよさそうにはためくのを。人の目に触れられた文字が、成仏したように、大気中に溶け出すのを。


詩は待ち望んでいる。 「閉じ、溜め込み、保存する」 ことではなく 「開き、交換し、使用される」 ことを。そして、時代の中で磨り減り、ボロボロになり、朽ちることを。しかし、また新しい身体が新しい文体で、新しい言葉を纏うだろう。おろしたてのTシャツのように…。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-12 01:50 | 文字について
携帯電話の可能性
 おっきなお仕事がひとつおわった。たくさんの打ち合わせとたくさんの徹夜をして、たくさんのわら人形をこしらえた。ワールドカップ関連のお仕事なのだけれど、「もうすぐワールドカップ」とTVで聴く度にチャンネルを変え「ぐ~ちょこらんたんの時間だよ」と現実逃避をした。でも、なんとかなるものだ。本当になんとかなったのかは置いておいて、わりと満足している。満足の理由は、それがとても新しいサービスだからだ。誰かから、鞭打たれでもしない限り、そんな面倒くさいこと好き好んでしないだろうというお仕事だ。あたまがきゅ~っと伸びてねじくれて、毎晩ほどけなくなる夢を見てうなされた。

 僕はプログラマーではない。でも、人の人生は本当に不思議なもので、気が付いたら、自分では思っても見なかったところにいる。ただ、携帯という活きた技術を使って何かしてみたかった。文字や音声や映像を含めた「言葉」のさきっちょのところで仕事がしたかった。未来の言葉を夢見た僕にとって、誰もが手軽に持ち歩け、通信が出来、声や映像や文字という情報を双方向に自由にやり取りできる携帯電話は宝箱だった。でも、僕が携帯に興味を持った頃は、携帯の世界はメールが中心で、サイトと言っても、文字だけのシンプルなものであった。それは非常に使い勝手が悪く、まだまだやりたいことなんて出来ないだろうなとたかをくくっていた。

 しかし、あっと言う間に携帯は進化してしまった。4年前、携帯で「FLASH」というアプリケーションが使えるようになるときいた時、すぐさま、携帯業界に飛び込んだ。そこからはジェットコースターのような毎日。毎週届く、新しい技術の仕様書を片っ端からめくり、毎日届く無茶な要望との格闘。4年前には携帯の世界にデザインの仕事なんてなかった。いや、あったんだけどその地位は、奴隷並みだった。待ち受け画像、一日5000千枚とか、写真の加工レイアウト一日1000枚、ドット絵一日100個とか、まるで餃子の王将の広告並みな過酷な労働だった。

 しかし、目当てのFlashは使わせてもらえなかった。というかその可能性を理解してもらえなかったのだ。出す企画書出す企画書ボツにされ、「里宗の企画書はセピア色」という社内の流行語まで産み出した。しかし、僕は営業でも企画でもない。ただ、やりたいこと、言葉の世界の最先端にいたいのだー!というスピリッツでRADIODAY時代の企画書やら作品やら論文やらを持ち歩いて、ここまできたのだ。ここで引き下がると男がすたるわよっ!失礼しちゃうわ。と食い下がった。ある時、転機はきた。「阪神タイガース」の動画やFLASHなどコンテンツの企画に関わり、社内からは企画書にダメ出しの嵐の中、阪神側との本会議に自分の作った作品を会社に内緒で持ち込んだ。「みやがれ、これが本場チェコスロバキア仕込みのモーションタイポグラフィだ!」と息巻いた。見事、企画は通過した。

 その時を期に社内にデザインチームを発足し、好き放題させてもらっている。もう、デザインは平面の時代ではない。情報は文字と音声と映像のよりインタラクティブで動的な表現に移行してゆく。ユーザーのアクションにより変化してゆく情報。階層化された立体的な情報に対応したインターフェース。一方的に与えるのではなく、たくさんの入り口をもった対話するデザイン。情報を生成し編集するのは他ならぬユーザーである。それらをよりダイナミックに実現させるには携帯しかない。とかなんとか言いながら、正直、携帯電話は好きではない。でも、携帯電話の可能性にかけたいと思う。携帯電話が嫌いじゃなくなるように。

 結局、僕は企画者としては未だ屁たれ並みだ。しかし、作り手としての生産能力には自信がある。いや、ない。ビジョンだけがある。多分、これで十分なんだと思う。ものつくりの世界はやったもの勝ちの世界だと言われる。けれど、少し違うと思うな。どこまで細かくビジョンを持てるかじゃないかしら。その仕組みや、質感やその周辺、それらを細かく描いているうちに、必ず形になる。でもだいたいの場合は空想で終わる。中途半端な空想だから行動に移せないのだ。幸いまだまだビジョンはある。昔から思い描いていた動くデザインの世界を実現できる道具をやっと時代が手に入れたのだ。プログラムごときで怖気づいてたまりますかってんだ。僕がプログラムをしているときいて信じられないっていう失礼な人が多いけれど、わたし負けない。エースを狙うの!
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 もし、万が一、興味が出た!いっちょう見てやろうかと思った方は、Docomo、AU、Vodaで公式サービスを行っている「欧州サッカー通信」というサイトをご覧になってください。そこの「試合結果Flash」が今回の話に出てくるサービスです。
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by radiodays_coma13 | 2006-06-11 15:40 | 文字について
神保町のオナラ
 連休を返上して連日徹夜の猛烈仕事野郎になる予定だったのだが、思いのほかスムースに事が運び、ちょっと休日らしいひと時を過ごす余裕ができた。というわけで神保町にお出かけ。僕はなにをかくそう特に目立った浪費癖も、車好きでもないので、とても地球に優しい、リーズナブルで安上がりな人間を自負しているのだが、どうやら本にだけは弱いらしい。なので、普段はあまり神保町には近づかないようにしているのだが、短い時間でストレスを解放するには神保町が一番。

 とにかく神保町界隈には魅力的なものがたくさんありすぎる。無数の本に、「さぼうる」「ラドリオ」「ミロンガ」「上島珈琲」等、気の利いたカフェ、「見本帖」という紙屋、おいしいお蕎麦においしい和菓子、スポーツ用品に楽器屋、「ジャニス」というマニアックなCDレンタルショップ。一体、僕にどうしろというのだ。僕にとってはディズニーランドよりももっと狂おしい。僕の好きなものを集めてぎゅっと凝縮すればきっと神保町ができあがる。

 でも、ありすぎるというのも果たしてどうだろうか。いちどに好きなものを好きなだけ渡されたらどうなるか?小さい頃、思いました。「部屋にいっぱいのお菓子を広げてそこで寝転びたい。」その夢が一度だけ叶ったことがあります。答えは「ひどく疲れる」です。どうしていいのかわからず、なぜか体中の力が抜けて、ひどく気だるい。それから、均等に体がゆるくなるので、やたらとオナラがでるのです。それ以来というべきか、僕は好きなものの前にいるとオナラが出ます。

 本屋や和菓子屋で立っているとぺっぺけぺっぺけオナラが湧き出します。なので、神保町に行くと、街中いたるところでオナラがこんこんと沸き出ずるのでございます。困ったものです。街から出るころには体中のガスが出尽くしたのではないかというくらいに体はフワフワして、いやクラクラなのかもしれませんが、とにかく軽い。こういうのを本当のガス抜きというのかもしれません。

 本日も「ランダムウォーク」というデザイン書がかなり充実した書店で高価な本を2冊、衝動的に買い、ジャニスというCDレンタルショップでCDを10枚レンタル、おはぎ2個、桜餅2個、最中一個を買い込み、上島コーヒーで黒糖アイスミルクコーヒーのラージサイズをぽかぽかした西日を浴びながら、「やばい、脳みそが溶ける溶ける」とのたまいつつ2杯痛飲し、いったい自分のどこがリーズナブルで安上がりな人間なんだと反省ひとしきり、ぺっぺけぺっぺけオナラをこきながら帰宅した次第であります。

 神保町は反則です。たとえ一日中いても、いや、一生かかっても、街の隠して持っている財産のほんの一部分すら味わえないという焦り。一体、どこからみればいいのか。本屋に入って一番困るのは、どの本も魅力的に見えること。そして、どんなにがんばっても僕がみれるページはここにある全てのページからしたらほんの触り程度であるという悔しさ。ヘタに文字に目を通すと、もうそこから一歩も動けなくなるので、本を手にとって手触りと重たさを楽しみ、タイトルの文字を撫ぜて、中身を想像し、ペラペラ漫画を見るようにパラパラと本のノンブルだけに目を通す。これでも時折、本に吸い込まれそうになる。そうして、最後には、決まって自分の非力にただ呆然と我を失い、真っ白になって本屋を後にするハメになる。

 僕の夢は、もし、僕がアラブの石油王なら本屋ごと買い占めたい。それが無理ならいつかは古本屋の岩窟王というのも素敵だが、ちと貧乏くさい。なにもかもから引退したら図書館の地下に住む謎の老人というのも悪くないなあ。とにかくそれくらい本が好きというお話。間違っちゃいけないのは本を読むのが好きなのじゃないと言う事。もちろん、大好きだけど。本を読むことは本の魅力の一部分に過ぎない。本という大きな魅力の総体からしたら、ある意味で分かりやすい象徴的な魅力。ショートケーキのイチゴみたいなもの。とにかく本という存在が好き。本というメタファー、本というアプリオリな存在、本という存在の仕方、全てが好き、全面的に好き、無条件降伏的に好き。泣いちゃうくらいに好き。初恋のように。

c0045997_1972478.jpg でね、ついでの話だけど、その本好きも真剣に取り組むといろいろな発展もあるもので、ちょくちょく仕事で本の装丁をさせてもらったりしている。自慢したかっただけなんだけどね。せっかくブログをしているんだから、自分の宣伝に使ってみるのもいいだろうと思うので写真をアップ。ピンときた人はもちろん依頼承ります。仕事はもちろん、楽しくないはずがない。しかし、本好きを自負しているだけに、自分で設けるハードルが高すぎる。なかなか納得のいく本づくりとなると難しいものです。
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 僕の理想の装丁は、ゴテゴテ主張し過ぎず、カッコ良すぎず、上手すぎず、奥ゆかしく、本文の魅力をやさしく包むようなもの。僕が今まで良いと感じた装丁は、静かに主張するものでした。腑に落ちるデザインというのが言葉としてしっくりします。こんなことを書き出すとキリがありません。僕の家には「本の魅力について」というお題でびっしり書き込んだノートが二冊存在するくらいです。その中をパラパラめくってみると、赤線で囲った言葉がありました。これは良き「モノツクリ」について語った僕の一番好きな言葉。吉田兼好「徒然草」の一文。これを書いて締めくくりにしたいと思います。 
「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。
妙観が刀はいたく立たず。」
良い細工は少し切れ味の悪い刃物を使うという意味です。うん、深いです。

とダラダラ好きなこと書いていたら、まだまだ仕事があることに気がついて、今、胸騒ぎと共に、いや~な汗が出てきましたよ。どうしましょうか…。誰か何とかしてください。
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by radiodays_coma13 | 2006-01-09 19:14 | 文字について
一冊の本を読み終えるということは
 一冊の本を読み終えるということは、何度味わっても、慣れることがない。今日もまた一冊、読み終えた。なんだかちょっと照れくさいものである。最後のページを繰る前に、一度、周りを確認してしまう。どんな風に照れくさいかというと、もしかしたら自分がディズニーランド帰りのおバカさんに見えているかもしれんという不安。だいたいにおいて健全なサラリーマンの読書というのは、通勤にあてられる訳で、人前でその行為は行われる。読書に熱中して忘我している人をよく目撃するので気をつけよう。しかし、移動中に本を読むのは悪くない。読書は旅に似ている。一冊の本の虜になっている人は、その本の作り出す世界の中を旅する旅人のようなもんです。つまり、移動中に本を読むということは、移動を体感するという点で、バーチャル読書なんである。一冊あたりの移動距離を考えると、いつも遠くまで来たもんだなぁと、しみじみ思えてくる。その後の仕事なんてのは旅の途中休憩みたいに思えてくる時だってある。

 それから、深呼吸して、ページをめくる。特に念入りに文字をなめてゆく。これで、旅が終わりという時のなんともいえない寂しさと、やっと旅が終わるという安堵。海外から日本に帰るときの空港の気分だ。もう二度と同じような気持ちで、この地を踏むことはないと思うと、なにもかもが愛おしくなる。だいたいの旅において、この段階で、素晴らしく無意味な買い物をしてしまう。油断大敵。お家に帰るまでが読書なんです。ここで、その本に対して変な先入観を植え付けたら、今までの旅が台無しです。旅は思い出すのが一番楽しいといいます。旅をしている間は、本に連れさらわれないように細心の注意をはらうべき。それでも、旅の終わりにはついつい気が緩んでしまう。できるだけまっさらな気持ちで次の本へ移行するために、それは大切な気配りなんです。

 さて、そんなことを言っている間にも最後の瞬間はやってくる。「マル」と何度も声に出してみる。それでも名残惜しいので、奥付なんか読んでみたり。いつもは、歩き疲れてホテルのベッドに飛び込むみたいに、バタンを本を閉じるくせに、できるだけゆっくり閉じてみたり。閉じた本の重みや紙の感触を味わってみたり。この数分間が一番楽しい時間です。今、飛行機のハッチが閉まりました。そして、滑走路に向かって進み始める。もう「ああ~」としか声にできないんですよね。楽しかったし、しんどかった。とにかく旅というのは今までの自分の考えの外にあるから楽しい。それは時に常識を超えていて、楽しいどころではない時もある。いい旅をした時ほど、しばらくぼっ~としてしまう。自分にとってそれが何であったかを飲むこむ時間。本を閉じても、いつでもそこに物語の世界はある。でも、それはもう自分が旅した物語ではない、そう思うと、なんだか辛くなる。ふぅ~と長いため息を垂れる。さよなら~さよなら~

・・・そういうわけで、しばらく新しい本を読めるような気がしない。

satomune
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by radiodays_coma13 | 2005-03-05 00:15 | 文字について
『SIGN』
漢字って面白いね。
読めなくても意味が伝わる時がある。
知らない漢字でもなんとなく、意味の雰囲気みたいなものが伝わってくる。
ちっさい時はよく自分で漢字の部品を組み替えて、
新しい漢字を作って遊んだりした。
まったくデタラメに組み替えても、
なんとなくそこに新しい意味が見えてくるから、
コレガなかなか面白いんです。
で、自分で意味と読み方考えたりしてね。

僕はあまりきちんと勉強するほうではなかったけれど、
本だけは好きだった。
それはよろしいんだけど、勉強していないもんだから読めない文字がある
でも、そういうのは気にせず、「なんとなく読み」をしてすっ飛ばしていく。
すると、読めないままなんとなく意味だけは理解できるんです。
前後の関係の中で意味とか、使い方といか。
読むだけなら問題は起こらないんです。
でも、会話の中で、ついうっかりというか、
ちょっと難しい言葉とか使ってエエカッコしたい訳でしょ。
でも、悲しいかな間違えている。
「俄かに」を「われかに」と読み
「キミ、それはワレカニは承諾しがたいよ。」
そんなふうにして大恥をかくパターンが多い。

僕の場合は、ちゃんと辞書で調べて読んだりしないのが問題。
というか、読むよりも眺めること(文字フェチ)に
重きを置いているので、単語の使い方もおかしい。
そんなのが最近になってもポロポロでてくるからコワイですよ。
最近まで肯定的をハイテイテキと読んでたくらいですから。
ハイトクテキって、肯定的と言っていると思っていました。
本心は「もしかしたら肯定的ってハイトクテキって読むのかな」
とかビクビクしながらね。
それは、もう、まったく別の意味ですからね。
気づかずに使ってたことを思うと背筋がゾッとします。
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本日の作品は「SIGN」です。

satomune
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by radiodays_coma13 | 2005-02-07 00:16 | 文字について
フェチなんです
実はマニアなんです。
いや、マニアというよりもっと変態的に、「フェチ」かな。
あたくし、重度の文字フェチなんです。
もう、文字を見てるだけで膝がガクガクして、
指で文字を撫でていると涎が出てくる。
デザイナーって皆、多かれ少なかれ文字フェチっていうけれど、
僕のはどうやら、様子が違う。
デザイナーの文字フェチは後天的で職業的なものだと思うけれど、
こっちは先天的。

初めの記憶が三歳の時のブリタニカの百貨辞書。
どの本よりも文字がたくさん詰まったその存在にシビレました。
薄くて文字が大きい本よりも、分厚くて文字の小さな本がBestです。
漢字辞書や国語辞書、イイネ。
読むんじゃなくてね、本の重さを楽しむんです。
パラパラってめくってはニヤニヤっとしてね。
喩えとしては宝の地図を持っているような気分。
青年になる頃には文字フェチも堂にいったものでしたよ。
女性の裸というよりも、むしろ文字のほうに欲情しましたから。
「淫」とか「妻」って漢字にドキドキしてました。
だから、所謂ビニ本よりも文章系エロ本にいきました。
体験告白の本とかって、表紙が文字で一杯でしょ。
もう、ドキドキしてね。「娘地獄」とか、その字だけでクラクラです。
「娘だよ~、まいったよ~」とかね。

むしろ、自分の文字フェチのありかを追及しているうちに
今、ココにたどり着いたという感じです。
幼い頃は文字を模写したり、自分で文字を作って遊びました。
小学校は書道教室。高校では新聞部、大学では日本画
始めての仕事は染織。演劇に接近し、詩人を目指し、今はデザイン
WEBから書籍へ。
一見、文字フェチと関係ないけれど、
あとで考えると、動機は同じところにあって、
自分がその時、望むような形で文字世界と戯れられる場所探しです。
今、文字世界のことについて語り始めたらキリがない。
というか、そのコトバのことについて取り組むために、制作活動を始めたし、
結果、このブログを始める原動力にもなっています。

satomune
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by radiodays_coma13 | 2005-02-06 02:40 | 文字について