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言葉と文化
by radiodays_coma13
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ホワイトバンドをほっとけますか?
 ホワイトバンドを買った。(「ほっとけない世界の貧しさ」をキャッチコピーに世界の貧困をなくそうというプロジェクトです。詳細はHPで。http://www.pia.co.jp/whiteband/)2ヶ月ほど前、それに関連するビデオをネットでひらい、単に映像として面白かったので、数人の友人に配布した。いつもは人が転んだり、動物がしゃべったりするようなクダラナイのをバラまいているのだけれど、ま、たまにはこんなものもいいかと思い、気まぐれでバラまいた。先日、その内の一人がホワイトバンドを手に巻いていた。行きがかり上、言いだしっぺの僕がしていないのも変だなということで、ホワイトバンドを購入。収入は寄付にまわされるということだ。これはイイコトなんだからと自分をまんざらでもない気持ちに追い込む。自宅に帰ってそうそう妻にも勧めてみる。いぶかる妻。普段、慈善事業的なイベントに参加などしない僕が、アクセサリーなどしない僕が、なにかおかしいということで、不信がる妻。まあ、仕方ない。悪いのは僕なの。日頃の行いが悪いせいなのね。慣れないことはするものではないのです。

 機嫌が悪くなった妻の横で、僕はこういった慈善について考えてみた。貧困は人災なのだ。では、その貧困は具体的にはどこで作られているのかというと、豊かな国が作り出している。そして、日本もそのひとつなのだ。自らの豊かさを他の国から安くで買っている。その国がもっと貧しい国から、モノを奪ってゆく、そして、ひどく貧困な国ができあがる。その中でも無力な子供が犠牲になる。この連鎖を断ち切るのは、本当にこういったプロジェクトなのだろうか?一番手っ取り早いのは、豊かな国々が、しがみついている豊かさからいっせいに降りればいいだけなのだ。例えば、全地球がニューヨークの人々の豊かさを手に入れるためには地球が20個あっても足りないといわれている。所詮、ありえない豊かさなのだ。日本人はその幻想の豊かさの中にいて、ホワイトバンドのことをいう。これは大きな矛盾である。もし、ホワイトバンドの訴えることが実現したとしたら、我々の前から今の豊かさは消えてなくなる。これは自分の足元をすくうような言動なのである。では、なぜ、ホワイトバンドなのか?少し、怖い考え方をすればホワイトバンドをすることで、自分が犯している現実の罪悪感をぬぐおうとしているのではないか。俺は貧困に加担していないと。

 よく使われる批判がある。原子力を批判する人が、自分はクーラーの効いた部屋でくつろいでいる。これと同じ事が常にこのような慈善事業に諸刃の剣として付きまとう。もし、本当に世界の貧困と戦うのなら、僕は全てを投げ打って、この貧困と戦わなければならないだろう。政治家になるか、世界の大富豪になるか。たかだか300円を世界の豊かな国々の人が購入したとしても、貧困の根源はなくならない。貧困は一時、潤いはするだろう。しかし、それは今だけの話しで、焼け石に水でしかない。なにが、無尽蔵に湧き出すこの貧困を作り出すのか、それは貧困な国々に原因があるのではなく、まさに豊かな我々に原因があるのだとしか言いようがない。だとしたらホワイトバンドは貧困な国々のためではなく、我々に見せ付けるためにあると言えるだろう。現在のままの資本主義社会がある限り、ギラギラした豊かさの幻想はなくならない、その下で色濃い影が出来るのは当然なのだ。痛みを伴わない慈善は偽善でしかないと誰かが言いました。我々は「ほっとけない世界の貧しさ」の前で何が出来るのでしょう?今、世界の富を平均的に分散させ、貧困のない世界が来たとしたら、我々の食卓はちょうど、戦後日本のつつましき食卓に戻ると言います。僕は我慢できると思う。しかし、もし自分の子供が「もっと欲しいよお」と言ったら、もしかしたら、僕はその生活を否定するような気がします…。

c0045997_23562923.jpg しかし、最終的な僕の結論は、自分が社会の現状を知り、そのことで、一人でも多くの人が現状を認識する事につながればそれでいいという事です。こういった運動の意味としては、解決させるというよりも「知らせる」という側面に大きな意味があるのだと思う。そして、じゃあ、「知った」後、我々はどうすればいいの?と言う答えは知ったこちゃあない。ホワイトバンドはその後のビジョンについて何も語っていない。貧困がなくなると何が起こるのか、その前に、貧困をなくす過程で何が起こるのか。それは、それぞれ勝手に想像してくれというのだ。ならば、そこからは、夢想家であるモノツクリの仕事ではないですか。

 で、現実の話、今、僕はホワイトバンドをしているのかと言うと迷っているのです。なんというか、複雑なおじさん心なんである。いい人にみられたくない、でも親切はしたい。だったら、バンドを買って、そのまま家に置いておこうか、でも、それしちゃうと、多くの人に知ってもらうという意味がなくなってしまう。でもでも、多くの人が巻きはじめたら、それはそれでちょっと嫌だな。その時は、僕はもっと前からしてましたよと耳打ちして回ろうか。とりあえず、みんながするまで辛抱してみよう。ああ、でも誰かに「あの人はホワイトバンドなんてしちゃって、イイ人ぶっちゃってさ」なんて思われるだけは許せない。僕は辛抱して付けてるんだよと言ってやりたい。ジロジロみられたら、さも俺は悪い奴だといわんばかりに睨み返してやろうか。ダメだ、そんなことをしたら危ない人だって思われる。こんな時は開き直って偽善者風にしてればいいんだ。ところで、偽善者風ってどんなんだろう、誰彼構わず立っている人に席を譲って回ろうか。それとも、隣のおばあさんの荷物を持って立っていようか。それは開き直りすぎだな。そうだ、一本だから中途半端なんだな。いっそのこと両腕に合計20本くらいホワイトバンドをしてみようか。そしたら「スゴイいい奴」と思ってもらえるかもしれない。いや、たかだか6000円じゃないか、そんなんでスゴイいい奴ぶるなんて、俺はスゴイ悪い奴なのかもしれない。こういうのは痛みを伴わないとダメなんだな。全財産、ホワイトバンドに費やすくらいしないと、スゴイいい奴とは言ってもらえない。そんなことをしたら俺が貧しさで餓死してしまうよ。でも、ホワイトバンドで餓死したら、ニュースになるかもしれない、そしたら「世界に貧困を知らしめた男」として歴史に名を残すかもしれない。うん、いいぞ「ホワイトバンド」が「サトムネバンド」って名前になるかもしれないな。「そこのお嬢さん、これはねサトムネバンドと言いましてね、どうですか一本?」

 どうも、さりげなくホワイトバンドを付ける事ができないので困る。黒く塗りつぶそうかな。そしたら目立たないけど、分かる人はわかるかもしれない。でも、分かる人からしたら黒く塗りつぶしてる俺はものスゴク悪い奴じゃないか、ああああぁぁ。うだうだ言うとりますが、こういうのは、カッコイイからつけるとか、誰か好きな有名人がつけてるからとか、もっと軽い気持ちで、いいんだと思います。いや、むしろ軽い気持ちの方が好ましい。だからこそ、賛同者も多くなる。じゃあ、僕の場合はどうしよう。どうしようかな、ええと、そうだ、Mr.ビーンがしてるからと言うことにしておこう。なんかミラクルじゃないですか。

 とにかく、こんなおっちゃんでも、世界の貧しさのために、ささやかに戦ってるんだなと(戦う場所を間違っているような気もしますが)。決していい人と思われたくてバンドをしてるんじゃないんだと、僕を道すがら見かけたら、心の中でそう思ってください。いや、思いなさい。僕は30代半ば、中肉中背、アロハを着ているどこにでも偏在しているおっちゃんですから。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-26 23:57 | 考える
日々之好日とテロルの匂い
 また、同時多発テロだ。世界中がテロルの匂いで満たされている。きな臭い。今度は日本か?そう思うのは心配性だろうか?

 まず、この度、テロで亡くなられた方々に深い哀悼の意を、そして、今もまたなくなり続けている中東の方々にも同じように哀悼の意を!
 
 誤解を承知で言います。自業自得なのだ。これは戦争なんだから。ブレアさんは、テロは許せないと言い放つ。では、殺しますと宣言して殺すのは善なのか?殺し、殺されただけだ。なぜ、テロだけが悪なのか?こういうと僕も危険思想だろうか。中東でも同じように一般の人々、差別なく女性や子供も多くの犠牲者を出している。その数は今回のテロ、そして、前回の同時多発テロの犠牲者を足してもはるかに凌ぐ。それでも、一方的にテロを断罪すべきなのか。

 今世紀はテロの世紀だと誰かが言った。そりゃそうだろう。肥大化した軍事的経済的大国と対等に渡り合う手段としてテロリズムしかないからだ。彼らは彼らなりに有効な手段として彼らのジハードを戦っている。誰が始めに仕掛けたのか?ああ、石油の利権の匂いがするね。本当にきな臭い。火を近づけたらえらい事になりそうだわ。

 戦争はいつも強者が善で弱者は悪になってしまう。ここで、政治的発言は控える。言えば言うほど虚しくなる。右も左も危険視される。お叱りは甘んじて受けます。僕には確固たる思想などありません。でも、思想には右か左しかないのかしら?戦争反対なら左?戦争反対な右はなし?○×街角アンケートじゃないんだから。しかし、現実に起こっているのは理屈の戦争じゃないのだ。

 僕には到底エルサレムの平和を想像することができない。なぜ、僕はここでこんなことを口に出すのだろう?考えなんかまとまってはいない。面白おかしくも分析できない。ただ、世界を満たしている暴力の深さに、めまいがする。「平和」なんて言葉、口に出したくもない!胸糞わるい!大統領じゃあるまいし。

 でも、僕は黙ってられない。自分がなにもできないとわかっていても、あきらめられない。なにもできないとは信じたくない。しかし、こんなんじゃダメだ。怒りや憎しみじゃ。フォースが乱れる。暗黒面にひきづられる。ハハハ…。

 2年前、イタリアからスペインに向かう夜行列車の中でイラク戦争が始まった。列車の中は騒然としていた。イタリアの国歌をわめきちらす女子高生たち、頭を抱える人々。議論しあう酔っ払い。その時、昨夜のローマ国防省前の異様な厳戒体制の理由が明らかになった。そういうことだったのだ。機動隊が道路を封鎖し、私たちに銃を向けたその理由。街にはイラク系の住民たちが目をギラギラさせて興奮状態にあった。我々は車を乗り継いでイラクにたどり着くことが出来る。こことそこは地続きなのだ。戦争がすぐそこで始まっている!

 翌日、それでも、日本人の僕は、バルセロナの街を平和に闊歩していた。しかし、移動中の地下鉄でその出来事が起こる。電車のアナウンスがなにやら声高に乗客に訴えかけている。それを聞いた乗客たちが、一斉に次の駅で降車してしまう。それを追って地上に上がった僕は信じられない光景を目にする。津波のようにメインストリートを行進するデモ隊であった。地下鉄から降りた乗客はその流れに合流してゆく。その数、数万。数キロにもわたる広い通りが、人で、怒りで埋め尽くされている。とにかく怖かった。足がすくんで、僕はその戦争反対のデモ隊に合流するどころではなかった。

 ホテルでは「日本人は帰れ」と忠告された。「今、日本もそれどころではない」と。そうだ、それどころじゃないんだ、日本はこの戦争に参加しているんだ。それどころじゃなくなった僕が急ぎ帰った日本は、それどころだった。「お昼やーすみはウキウキウオッチング」だった。デモもあるにはあった。「戦争はやめてあげましょー」なテンション。屋根の上に登って降りれなくなった猫を助けてくださいと言ってるんじゃないんだよ!叫びたくなった。

 しかし、二~三日も経つと僕にもウキウキウォッチングなお昼が戻ってきた。本当に日本は平和なのか?不安をあおるつもりはない。しかし、「平和」という名の下で、我々はブロイラーの鶏がベルトコンベアの上でクリーンに解体されるため、ふっと足元をすくわれるように死に直行している。生き死にという絶対的な暴力をマスコミは華奢な幻想にしてしまう。これも立派な暴力じゃないか。それならば、不快なほどにわめき散らして、暴力の影に対して警鐘をならすほうがよっぽどいい。

 今、日本が対峙している暴力は、本当は対外的な暴力ではないような気がする。暴力を組織化し美化し、正当化する超合理主義社会のホワイトの深部で、相対してハレーションを起こしている、真っ黒い個人の闇が持つ暴力の存在ではないか。まさに21世紀はゲリラ的暴力の時代。個人vsマスとの暗い戦いの時代。我々はつねにテロルにさらされている。それは対岸の火事じゃない!僕らは明日死んだっておかしくないんだ。コケコッコ!
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by radiodays_coma13 | 2005-07-09 16:02 | 考える
物語の終わりはいつかやってくる
 もうすぐ、セックスアンドザシティを全て観終わる。これで、ながい寝不足の日々ともお別れだ。だが、しかし、最後のエピソードが怖くて見れない、何が怖いって、物語が終わるのが怖い。これで、もう彼女たちとお別れということが辛いのだ。いっその事、最後の話だけ、見ないで済ませようかとも思う。そうすることで、彼女たちとのストーリーは僕の中で生き続けたままになる。そう、彼女たち・と・の・ストーリー。これは、単なる物語ではなく、僕と、彼女たちとのお話なのだ。僕は5人目の親友となって彼女たちのバカ話に長い間、付き合ってきた。(なぜか僕も女友達なのだが…)

 短い期間で物語世界を突き進んできたが、ドラマの中では数年が過ぎた。(シーズン1では、まだ、ワールドトレードセンタービルが立っていた。)みんな歳をとった。そして、僕も歳をとった。いささかくたびれた。しかし、いや、だからこそ、彼女たちとお別れするのが辛い。正直、男性として彼女たちと付き合いたいとは思わない。僕は彼女たちの悪い部分も知りすぎた。いつも彼女たちにイライラさせられた。なにやってんだよ!と説教を食らわせたかった。しかし、それだけにリアルであった。そこには勧善懲悪が存在しなかった。あるのはニューヨークという厳しい現実。つまりニューヨークという大自然に住むメスライオンたちのたくましくもリアルな生活だけがあった。

 小さい頃、ドラマの最終回が嫌いで仕方なかった。映画の終わりも同様。いつも両手で顔を隠し、別れを回避した。お別れが上手く受け入れられなかった。「バイバイ」が苦手だった。バイバイが言えない子供は、おはようも、こんにちはも言えなかった。それは幼い頃に経験した別れの恐怖から来ているのだと思う。しかし、後で決まって夢の中で、回避した別れを再現させられる。夢の中で回避したはずの物語の登場人物たちが僕に手を振って、遠くに行ってしまう夢をよく見た。目が覚めると決まって、泣きはらしていた。

 物語には、根源的な部分で人を癒す効果があるのだと思う。「もし、その物語が生きているのなら」という場合の話だけれど。卑近な例として、僕は見なかった物語の最後を夢の中で補完して、自分にとって重要な物語に変えてしまった。それは「別れの物語」である。僕はそれを何度も繰り返し見ることで、「別れの意味」を体験することが出来た。人には誰も物語を紡ぎ出す能力と言うのが備わっていると僕は思っている。無数にある物語の中でも、ストーリーの型というのは大まかには数通りしかなく、それが世界各地で、変奏され奏でられているだけではないか。

 世界中には、ひとつの話が派生したのではないかと思われる酷似した物語が多く存在する。ギリシャ神話のオルフェウスの黄泉行きの話と、古事記のイザナギ、イザナミの黄泉比良坂の話の酷似。それの変奏と思われる「禁忌行為」の物語たち「鶴の恩返し」や「パンドラ」も同じような性質を持っている。なぜ、それらの物語が人類の歴史と共に語られ続けたのか。ここでその事を真剣に考えると長くなるが。はしょって答えると、物語が根源的で、人の生活に有用だという事ができる。

 その代表的な例としてアフリカ、マサイ族の語り部の語る物語を挙げることができる。それは老女の口によって語られる。老女の周りを少年少女たちが車座で取り囲む。話しは老女の口から語られる言葉の一説一説に合唱のように相槌を入れてながら進んでいく。神話の中ではサバンナの動物たちが登場人物となりいきいきと語られるのであるが、そこでは実に巧みに動物たちの性質が織り込まれている。その物語により少年少女たちはサバンナで動物と共に生きていく事、そして動物の掟をいつのまにか覚えている。彼らは神話を学ぶのではなく、神話を体験する。実にリズミカルに打ち込まれる合いの手が参加意識を助長している。マサイ族は実に見事に自然と共存することができる。彼らは物語を通じて、本能の中に自然を取り込むのだ。
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 意図的に紡がれた物語よりも、より土着的な物語の方が、我々に深い影響を与えることができる。そう考えると、新しい物語など存在しないのではないかと思う。それはただ、時代時代に変奏されているだけである。物語に著名があるというのは現代人だけの特別なエゴのように思う。物語はオリジナルな事に意味があるのではなく、繰り返される事に意義があると思われる。話を戻すが、喩えるなら、「セックスアンドザシティ」は、「サバンナ日記」みたいなものである。ある都市での女性たちの生態なのだ。ニューヨークで生きていくということはどういうことなのかのHOW TO。ひいては、現代の都市で生活していくということ。ドラマが終わっても彼女たちは生き続ける。ニューヨークというある意味グロテスクな街でそれは日々繰り返される。しかし、それはドラマを越えて、現実である。

 良い物語は必ず、現実と地続きになっている。そして、よいファンタジーはなによりもリアルである。さて、現実に目を向けてみると、どうも物語が不足しているように思えてならない。少年の暴力事件を聞く度に、これはTVやゲームの暴力描写が問題なのではなく、物語の不足が原因ではないかと思える。彼らは自分たちが現実で生きるべき物語というか規範をもっていない。つまり、どう生きてよいのかわからないのではないか。悲しいかな現代は社会全体で機能するようなダイナミックなドラマを失っている。物語は個人的なものに成り下がった。そして、そのことは彼らに物語を自分で作る事を強要する。しかし、社会は彼らに夢見ることは教えても物語ることは教えない。そして、体裁だけの安易な物語を手に取り、型どおりの夢をみる。「有名になりたい」「お金持ちになりたい」。彼らは将来を具体的に想像できないのではないか。ありきたりの現実を魅力的に感じる事ができるような日常をささえる物語をもっていないのではないか。

 もし、僕が幸運にも子供を持ち親になるときが来るとしたら、僕は彼らにどんな物語を用意してあげられるだろうか。それは大人たちの責任だ。もし、その時、どんなに悲惨な現実が待っていたとしても、僕は彼らに、物語る力だけは与えてあげたいと思う。悲惨な現実を生き抜くには物語の力が絶対に不可欠だと感じる。それはどんな夢見る力よりも、意味のある能力のように思える。ゲームやTVが一口に悪いとは言わない。しかし、子供から豊かな「なにもない時間」を取り上げる事が子供たちからどんな重要なものを奪っているか、われわれ大人たちは考えるべきじゃないかと思う。おせっかいなTVやゲームは彼らが自分たちで創造することをさせない。遊び道具のない時代。僕は自分でゲームを作った。いろんな遊びを考え出した。紙と鉛筆さえあれば、無限とも思える時間を楽しく過ごすことが出来た。でたらめに走らせた鉛筆の線に地図を見て、そこに物語を創造した。おかげでいつも退屈な少年は退屈をしない少年になった。物語はいつか終わる。しかし、創造力さえあれば、次の物語を語り継ぐことができるのだ。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-07 17:03 | 考える
日本のドラマはどこへいった?
 「セックス・アンド・ザ・シティ」というドラマにハマっている。最近、映画やビデオをゆっくり観る時間もなく、その手の話には耳を塞いでいたはずなのだけれど、映画マニアの同僚の魅惑的な映画話にほだされ、お墨付きのあった「セックス・アンド・ザ・シティ」を一度、ためしに観てみることに。それが運の尽きだった。しかも、一本の映画ならまだしも、相手はシーズン6まである連続ドラマ。しばらくは寝不足の日々が続きそうだぁ…。

 ドラマに飢えていたのだと思う。日本のドラマにはロクなのがない。何度も言う。声を大にして言ってもいい。なんならTBSの玄関の前で大声を出してもいい。「日本のドラマはつまらない!」。キムタクとやらのロクでもない日本語を聴いていると神経が逆なでされる。極めつけは、幸い終了はしているが「Mの悲劇」はサ・イ・ア・クだった。

 あれはドラマじゃないね。遊園地の出来の悪いアトラクションみたいなもんです。走りだす前はドキドキする。そういう仕掛けだけは手間をかけてる。けど走り出して間もなくクエスチョンマークと嫌な予感が、チビクロサンボがトラと椰子の木を回るみたいに、頭の周りを回り始める。一体、いつになったら盛り上がるんだろうか。そろそろ、そろそろと何かを信じて耐え続けるが、唐突に終わりはやってくる。「ハイ、ここで終了です」「まさかね。」ニコリと微笑んで気を取り直そうとするが、そのまさかである。強制的にゴール地点に立たされている。

 うちの奥さんなんかは、「Mの悲劇」最終回、さあ、今まで期待させるだけさせておいて、きっと準備されているはずのカタストロフィーを期待して行儀よく観ておりました。しかし、あれよあれよと意味のない、符合やら、新事実のガラクタが積み重なり、いきなりジ・エンド。観客をおいてきぼりにしてドラマの方が勝手にカタストロフィーしてしまった。これじゃ、ドリフのコントである。「だみだこりゃ」と言いたくもなる。妻いわく「なんのために今までみてきたのかしら」。ごもっともです。チラ見していた僕だって憤慨しましたから。

 悲しいけれど、アメリカのドラマの方が本物のエンターテイナーです。さすがショービジネスの国。何が「ビバリーヒルズ高校生白書」やら「アリー・マイラブ」「フレンズ」なんていう長い長いドラマの屋台骨を支えているかと言うと、その時々の社会をきっちり反映して、その問題を取り込んでいると言うこと。僕は「アリー・マイラブ」にもかなりハマったのだが、アリーの場合は主人公が弁護士ということもあり、裁判が主軸となって、代理母や精神病の問題やらがフレーズとして、変奏され随所に登場する。

 「セックス・アンド・ザ・シティ」の場合、主題はズバリ、SEX。しかし、これが普通のシモネタではない。女性達が友人同士でお喋りするような類のシモネタなのである。男性のシモネタはジメジメしているのに対し、女性のシモネタってカラっとしている。その中には女性たちだけが持ちうる、性への真摯さが垣間見える。ドラマはドキュメンタリーをパロディしながら、ひたすら軽快に、しかし、今どきのニューヨーク、そして、現実問題をするどく映し出してゆく。見事である。僕なんかは、自分も女性の仲間に入り、まるで、自分も一端のニューヨーカーセレブになったつもり。見終わったらオネエ言葉になってたり…。

 アメリカの場合は事情が深刻なのかもしれない。社会の複雑な問題をドラマという形で共有し、癒してゆくという本来のドラマが機能しているように思われる。そして、そうしなければならない現状がアメリカにはあるのだろう。アメリカは歴史のない国と言われる。しかし、それが本当の意味で深刻なのは、国民が共有するべき、神話や民話、昔話がないということだ。しかし、彼らは映画を自らの文化にした。ドラマを神話のレベルにまで引き上げる不思議な能力を彼らはもっている。「スターウォーズ」もある意味、神話のない国の神話なのではないか。

 「深刻な社会問題は視聴率がとれないからね」日本のTVプロデューサーが言う。このピーマン頭!これこそ、想像力の欠如と言うべきではないか。それを上質のエンターテナーにするのがモノツクリではないの?面白おかしい仕掛けと人気者を使えば誰だってそれなりのものは作れる。でも、それがどれだけ優れているかは、そのこととはまったく関係がない。それじゃあ、いつまでたってもアメリカドラマに追いつけないよ。どこに行ったニッポンのモノツクリ!?

 近頃、韓国製の過去の日本ドラマを模倣したようなドラマがもてはやされているけど、あれは幼児回帰?それとも、懐古趣味?その幻想の向こうににあるのはバブル以前の日本の姿であるようにしか思えない。我々が失った何かがそこにある。しかし、今は21世紀、バブル以後の世界。いつか現実逃避していられないほどの現実が襲ってくる。そんな時、私たちは日本のドラマで本当にカタルシスを得ることが出来るでしょうか?答え、
「ノー!!!!」

追伸:倉本聰さんの「やさしい時間」は素晴らしかったです。エレガントです。そこには本物の時間がありました。
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by radiodays_coma13 | 2005-06-17 12:52 | 考える
やりたい仕事ってなんやろか?
 前回に続き。お仕事のお話。僕は現在、携帯電話のコンテンツプロバイダーで、コンテンツの開発を行っている。結構、自由にさせてもらっている。携帯をいじくって遊んで、WEBでゲームをして遊んで、シコシコと「こんな商品どうでっか?」と未知なる商品を提出するというお仕事。正直、携帯電話が得意ではない。TVゲームも、小学校の時から「ファミコン嫌い」の筋金入りである。だからこそ、ここにいると思っている。ま、今日はそんな話ではない。

 僕が今までした仕事で、一番、肌にあっていた仕事は「染色」であった。沖縄の紅型を基礎とした草木染めの工房を学生のときに自分で立ち上げた。沖縄の紅型には大きく三つの流れがある。王朝時代、城間家、知念家、沢岻家という紅型御三家が存在し、それが三つの流派となった。しかし、現在に残るのは城間、知念のみで、沢岻は幻の紅型と言われた。薩摩藩が琉球王国の富を吸い上げようとするなかで、沢岻家はそれに抵抗し、型を土の中に産め、技術が外に漏れないように滅びを選択した。しかし、僕はその沢岻の紅型に心酔していた。

 紅型というのは「糊10年染め20年」と言われるほど厳しい伝統の世界。しかも部外者への門戸は狭い。ならばというので、自分で工房を立ち上げた。その状況下で沢岻家の発掘というのは都合が良かった。城間や知念に見習いをする必要が無かったのである。毎日、野山で草木染めの原料を調達し、博物館へいって、現存する沢岻の染色や古文書とにらめっこしていればよかった。

 沢岻の紅型は宝の山であった。当時でも沢岻家は紛れもない王朝紅型の花形であった。現在の紅型では考えられない技法や独創的なデザインセンスがある。そういった、技法の復活に取り組む試行錯誤の毎日は、今考えても、うらやましいくらい充実していた。

 折りしも時代はバブル。商品は飛ぶように売れ、工房のギャラリーに商品が全くないという状況も多々あった。あげくには未完成の作品を奪取してゆく客まで現れた。いやぁ、バブリーな話です。しかし、いつも話しを聞いてくれていた大学の教授の一言が僕のチャンネルを変えた。「本当に現代に生きる人にとって草木染めの紅型がリアルと言えるだろうか?」答えはノーだ。いや、型の復古もとても意味があるものだとは思う。しかし、その時の僕のチャンネルは切り替わったのだ。

 お金持ちの肥やしにしかなっていない現状。なぜ、当時の沢岻家は滅びを選んだのか。それは沢岻の紅型は王朝のプライドだったのだ。日本が、薩摩が奪うことのできない富であった。そして、僕も、染色を封印する決意をした。今思うと何かが沢岻の紅型とシンクロしたのかもしれない。

 滅びの美。今そこにしかあることが出来ないもの。ただ、それに触れたかったんだと思う。現代ではなく、王朝時代のリアルを追っかけたに過ぎない。ちょうど染色から足をひいた直後にバブルという時代は終わり、工房もつぶれた。商品が全く売れなくなったということだ。装飾品なんかではなく、現代に生きる人の本当の価値を作り出したい。残ることを目的としたものではなく、今ここでしか意味の無いもの。きっとそういうものが本当の輝きを持ちうると思っている。後世に残したいなんて不遜な考えだと思う。それは結果にすぎない。それが、僕が沢岻から本当にもらったメッセージだった。

 僕が言いたかったのは、思い出話ではない。話が長くなってしまった。現在、染色とは全く異なる世界にいる。そして、コンテンツ制作とデザインと詩という全く異なる三つの仕事。しかし、不思議にひとつのことをしている感覚というのが僕の中にはある。仏教においては、どんな雑務も修行として行われるという。仕事の様相は異なれど目的は一緒だというのだ。

今まで様々な仕事をしてきたけれど、その時々の自分に必要なものであったように思う。それらの全体像を遠目にみると、ある意味のあるまとまりが見えてくる。「少林寺」というカンフー映画で主人公が様々な修行を行う房をひとつひとつクリアしてゆくのだが、そういうイメージだ。しかし、結果として、主人公は強さというひとつの真実を得てゆく。
 
 どういう仕事につくかというのを悩む人が多いようです。挙句にニートとか言われちゃう始末。本当にそれは重要なことだろうか。「やりたい仕事」というのをイメージで選んでいるようにしか思えないことが多い。「僕は絵描きになる!」って以前教えていた生徒が最近、電話をかけてきた。「そんな職業ないよ」と言っておいた。それから、「デザイナーって面白そうですよね」なんて言うので、「デザイナーだってサラリーマンです」と回答。最後に「夢なんか信じるな。現実を楽しくする工夫をしたら?」と冷たいことを言って切った。与えられた情況をクリアしていく中で、本当に自分の「やるべき仕事」が見えてくるように僕は思うのだが・・・。
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by radiodays_coma13 | 2005-06-07 18:15 | 考える
脳内オペラ
 早々、「オペラ座の怪人」を観に行った。ここで、映画の感想を言うつもりはない。面白いかどうかはそれぞれの問題なので。ただ、オペラ(ミュージカル含む)マニアの私としては、十分に楽しめた。オペラ好きの人はあまり知り合いにいないけど、オペラが我慢ならないほど嫌いという人はたくさん知っている。あの、甲高い声と、わざとらしい世界が嫌なんだと。でも、こちらとしては、そのわざとらしいところが大好きなのよ。もう、芋焼酎みたいなものである。好きな人は酒臭さが好きで、嫌いな人はそれがイヤ。相容れることはない。ズバリ、オペラの魅力は「嘘」にある。どれだけ嘘をつけたか。普通「そんなことないやろ~」と大木こだま風ボケ突っ込みしたくなるところを、どっぷり浸ってハンカチ噛んでメソメソ泣くところが気持ちよい。自ら、その嘘にダイビングして、能動的に楽しまなければ楽しめない。そこでは、自分が主人公なのよ。ヒロイズムね。TVのように受動的でいては、嘘っぽいだけ。しかし、オペラの嘘は「嘘っぽい」じゃなくて、明らかな嘘である。オペラを嘘っぽいという人は端から批判の仕方を間違えている。

 ただ、現代において、オペラが成立するかと言われたらちょっと疑問が残る。そもそも、都会というもの自体が、人間の作り上げた純粋にイメージから作り上げられた幻想の世界そのものなのだから。そこに一切の自然は存在しない。そもそも、妖怪もお化けも人間が暗闇と自然に対する畏怖をイメージ化したものだ。電気の明かりがない時代には、日常に妖怪やお化けがあふれていた。「源氏物語」などでは人間世界と超現実的な世界の区切りをつけることすら難しい。妖怪の存在がフィクションでない。過去の人たちは、そういった超現実の世界を祭りという形で外在化させ取り込んできたと言える。ハレとケという感覚である。そのことで、彼らは生活のバランスを保ってきた。しかし、我々には本当の闇は存在しない。24時間、街には明かりが灯り、コンビニで買い物ができる。街に妖怪はいなくなった。そのかわり、我々は自らの心の中に闇を持つようになったのではないか?しかも、我々は祭りによってその闇を浄化することもできない。そして、ハレとケの境がなくなった。ということはその闇に住む、妖怪と神的なものとの区別もつかなくなったということでもある。

 私は5年間、舞台の仕事をしてきた。演目のない日は誰もいない巨大な劇場を一人で留守番した。そこは、「オペラ座の怪人」とまではいかないけれど、謎めいた迷宮空間である。しかも、昼というのに、一切、日の光が差し込まない闇の世界。そこを一人で点検するというのは、気持ちのよい作業じゃない。どこの舞台でもひとつやふたつ幽霊話を持っている。チャンスのある人は舞台で働いている人に尋ねてみるといい。絶対にひとつくらい体験談をしてくれるから。例えば、スノコ(舞台天井部)の電気ケーブルが本番中に外れたようなので上がってみると、そこに子供が立っていたとか、ね。次に上がってみると今度は、家族でコタツに入っていたという。…コタツって。因みに僕は、舞台に設置されたモニターに、いるはずの人影をみたりしました。怖いので本番のない時はいつも消していました。そこで、私はこう思うのです。都会から闇は消えたが、舞台には人間の手で作られた人工的な闇が存在する。つまり、都会で生活することができない妖怪たちは舞台で生きのびているのではないかしら。

 そこで「オペラ座の怪人」を考えると非常に興味深い。現在、上演されている90%以上のオペラは前世紀の前半に創られたものであるということ。現在制作されたオペラは上演される機会に恵まれても、一度か二度。ロングランになることはあまりない。その中で数少ない成功例が「オペラ座の怪人」である。現代のオペラやミュージカルでヒットしている作品の不思議な傾向は舞台を扱ったものが多いという事。「シガコ」「ムーランルージュ」「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」もそう。こう思うんです。ファンタジーは舞台の外から出ることができなくなった。「オペラ座の怪人」でも舞台以外のシーンはほとんどなかった。シーンとして成立していたのは唯一、墓地のみ。(それもある意味、面白い。)

 我々は現実の世界にファンタジーを持つことができなくなったのかもしれない。わざわざ自分たちで闇の装置を作らなければならない。我々は日々、都会という不自然と対峙し、超過密な日常という非日常の中で生きている。現代において、リアルなんて言葉に意味はない。リアルを嗜好することのほうが似非リアルですらある。むしろ、TVに登場するブルジョアが自分たちの家の内装を19世紀貴族風にしていることの方が不思議なリアルを感じる。舞台の中でしか生きることができず、善悪の区別も曖昧な怪人ファントムに現代に生きる妖怪の脆い美しさを感じた。そして、それは完全な妖怪ではなく、半人半獣、仮面で顔を隠した、合わせ鏡に映る自らの姿であることは示唆的だね。しかもファントムは鏡の中から現れ鏡の中に帰ってゆく。

 今の時代、神も妖怪も外の世界にいないことが自明のことになってきた。月に立ったアメリカの宇宙飛行士バズ・オルドリンはそこに神の不在をみたという。そして、精神の異常をきたした。神や妖怪を外に求めてももう見つからない。それは自らの内部にしか存在しない。もしかしたら我々はもうオペラやファンタジーという豊かな「嘘」を外在化させることができなくなっているのかもしれない。そして、ハレとケの境目をなくした、その分だけ、我々の生活そのもののリアルが希薄なものになってきているような気がしてならない。

satomune
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by radiodays_coma13 | 2005-02-27 01:10 | 考える
『PUPPET』
この間の休み、お台場の「日本科学未来館」に行ってきました。
ここはね、もう、一日いても飽きません。
子供が出来たら、一日中、実験室で一緒に遊びたいなと、
子供もいないのに、思います。それぐらい楽しい。
これは子供が欲しい、とか、勉強になる、という話じゃなく
もう、心から子供に戻って楽しい。
本当の子供だったらどんなに楽しいだろうと思う。

そこのあるブースで、アイボ君が5匹(5機?)、放牧されてました。
で、子供たちや若いアベックがキャーキャー言って喜んでいる。
そういや、先日、TVでロボットが会津磐梯山踊りを踊っていましたね。
あと10年もしないうちに、ロボットのいる日常生活もやってくるのかもしれない。
そこで、僕はふと、立ち止まって考え込んでしまった。
アイボは子供たちが手を振ると、そっちにふらふら寄っていくんですね。
それを「かわいいっ!」って。でも、本当にそうなんだろうか?
なんか胸の中にムラムラ怒りの炎が湧きあがって来るのがわかる。
アイボって可愛いですか?僕は正直、思います。ちょっと可愛いかな、、、
でもね、だまされちゃあイケナイ。
我々はアイボと何も交換できていないんですよ。
人間同士の会話はキャッチボールみたいなもんで、
そこでなんらかの交換が行われている。
でも、アイボとの交流は所詮、壁当てすよ。壁当て。
最近では老人ホームでその種のロボットが
さびしい老人の話し相手にも用いられているようです。
でも、考えてもみてください。
そんなの人形相手にぶつぶつ言ってる変な人ですよ。
なんか、みてて悲しくなっちゃう。

人間って人形が好きなんですよね。
それはモノ以上のなにかであることは間違いない。
ファンタジーでも人形が主人公って多いですよね。
人間では表現しきれないものをそこに現出させることができる。
映画「A.I」でも、「ブレードランナー」でも、彼ら、不幸でしょ。
なんか、救いが無いというか、ある種、人間以上の悲しさを背負っている
それはもしかしたら、人間が、自らの手で神を殺し
その神の座についてしまった深遠な悲しさなのかもしれない。
絶対的な救いを無くした人類の悲しさを人形に映し出している。

チェコスロバキアは世界一の人形先進国だった。
プラハには多くの人形劇場が存在し、
TVでは、人形たちが主役のバラエティ番組をやっていた。
人形たちがコメンテーターに代わり政治的発言をし、評論を行う。
観客たちは、それを真剣な顔で頷きながら聞いていた。
あれは日本の政治家さんたちよりはよほど説得力があるね。

もしかしたら、人は人形の口を借りて語る事で
より真実味を持たせる事ができるのかもしれない。
そういえば、ロボットの踊る会津磐梯山踊りは、
驚きと共に、文化とはなにか考えずにはおれなかった
本当は、人はロボットを作ったり、接したりすることで、
人間と言う存在を見つめているのかもしれないと思う。
c0045997_0144852.gif

というわけで、この話題に関連したFALSH作品「PAPPET」です。
数年前に作ったものを若干リテイクしています。
今後、このように、話題に関連した、
FLASHを制作、紹介していこうと思っています。
どうぞ、ご覧あれ。

satomune
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by radiodays_coma13 | 2005-02-02 23:23 | 考える