「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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カテゴリ:考える( 37 )
夢を語らないことについて語る
 僕は「夢」という言葉が大嫌いです。こういう場で改めて言わなければ気が済まないほど嫌いです。TVで「夢はきっと叶うよ」と言っている芸能人をみるとちょっとした殺意を覚えます。TVに向かって「ぶぁ~かやろうがぁ~」と口走ってしまうくらいにその言葉が厭です。いや、多分、「夢」という言葉じゃなくて、「夢」という言葉に付きまとうそのポジティブシンキングが嫌いなんだと思う。なんだか薄っぺらい。そういう人に限って、口はいつも半開きで、目が上向いちゃって、頭から花が咲いていて、口から涎をたらしている人が多い。

 そもそも、本当に叶えたいのなら、夢なんて言わないはずだ。夢だったら困るんだから。夢なんて語る人に限って、自分の現実に不満がある人に違いない。「こうだったらいいな~」と言った後で「でも、夢だからね」とわざわざ言い訳をくっつけてくる。理想とか、希望とか、できないことは言わなくて良いのにさ。だから僕は約束事も嫌い。だって約束守れないんだもん。ふん。

 単純ポジティブな人々は人生のスパイスのうち、砂糖しか持っていない人なんじゃないか。あとで、幸せ肥満になって幸せ成人病にかかるね。それで、「うおぁ~、誰か幸せをくれぇ~」って幸せゾンビになるの。僕は心配することも不安になることも、悲しいことも、うらやんだり、ねたんだりすることも大好きだ。世界のみんなから、無視されているように感じながら街をトボトボ歩くのも楽しいし、突然、ヒゲ面の宇宙人にさらわれるんじゃないか、夜道をドキドキしながら歩くのもとても楽しい。いろんな味がする。様々な感情は、人生を美味しく食べるためのスパイスじゃないのか。じゃないとしたら、なんのために様々な感情が人々のために用意されたのかというお話だ。ロシアのなんたらという詩にこんなのがあった。
ひっそりと夏は去った
暖かいというだけでは淋しい
楽しい夢が叶えられるとしても
ただそれだけでは淋しい
善も悪も明るく燃え上がる
ただそれだけでは淋しい
生は私をやさしく包んでくれる
幸せというだけでは淋しい
葉は焼かれず枝も折られないで
さわやかというだけでは淋しい
 で、僕は将来「宇宙飛行詩人」になります。目的は大きい方がいいでしょ?何?矛盾してる?それは夢みたいなもんじゃないかって?してないですよ。ちゃんと努力してますから。いつか、世界初の宇宙飛行詩人とか言われて、宇宙でどんな詩が書けるのかの壮大な実験を遂行するのです。ガガーリンの「地球は青かった」を超える言葉を言いに行くのです。その為に日々、「テクノロジー詩人」の名を欲しいままにできるように、詩と科学の融合に取り組んでいます。いるはずです。

 宇宙詩人になるためにできることを考えるだけで、僕は眠れないくらい楽しい。たくさんやらなければいけないこともある。旅立ちの挨拶や、格好イイ手の振り方とか。鏡の前で練習したりね。もう夢なんかいらないわけですよ。現実だけで十分なわけですよ。現実が一番スリリングで楽しい。どんなゲームよりも。まず、行動あるのみ。道は繋がっているのだから、そこに一歩づつでも歩いていけばいいのだ。繋がってなければ、作ればいい。月に行きたいならロケットを作ろう。お腹が空いたらご飯を作ろう。それから、内緒の話し、失敗がなにより一番たのしい。

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この日記は大阪で行われるイベント「A day」のブログとの連動企画です。
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by radiodays_coma13 | 2006-03-09 01:35 | 考える
ニュースは今そこで起こっている
 日々、実に様々なニュースが行きかっている。昔、大人はなぜ、自分に関係のない、見ず知らずの場所の見ず知らずの人々のニュースに一喜一憂するのか不思議で仕方なかった。父はよくTVに向かって怒鳴り散らしていた。金属バッドで両親を殴り殺した青年のニュースに「根性が歪んどる!親の顔がみてみたい!」とわめいた。しかし、父さん、両親の顔はきっと見られないくらいにグチャグチャだろうね。そう言いたいのをこらえた。高校になってからは、ニュースというよりも、父のまるで感情的で破綻した論理に刃向かうのが面白く「それは違うね、ダディ」と反論し、マヨネーズのかけ合いをしたものだ。

 ニュースは常に遠くで起こり、遠くで決着が付いた。近くで起こった銀行強盗をTVで観てやっと実感したりした。世界は僕の外にあった。しかし、それはある日を境に反転する。僕はアーティストなんかになろうとして、日々、外部と遮断された場所で、モノツクリに没頭していた。向かい合うのは自分の精神世界だけだったように思う。そして、そういう者の誰もがそうであるように、精神を病んでいた。しかし、幸か不幸か、なんとかかんとか、それだけで生活できていた。しかし、そのある日はやって来た。まるで、僕の作った殻をぶち壊すように。1995年1月15日、阪神大震災。僕は実家と、僕の持っているものの多くを失った。ニュースは遠くで起こってくれなかった。僕は丸裸で燃え盛る世界のど真ん中に放り出された気分だった。ラジオのニュースにかじりついて、家族の名前がないことに深く安堵した。

 先日、ついに僕も誰かの父親になる日がくることを知った。はははは、パパである。無理に笑ってみる。心のどこにも届かない。今度は厳しい顔をしてみる。だめだ、口元がニヤけている。できちゃったのである。いや、できちゃってない。できるのを待ち望まれできるべくしてできたので、「できたじゃないか」というべきだろう。僕にもやればできるじゃないかという感じ。僕にも!なんだろう、こういう時の男性のふがいなさは。むしろ両親の方が上手に喜んでいた。ただ、これから僕に起こるであろう劇的な変化の予感だけが一番実感のあるものとして感じられた。観るもの触るものの心地が少しづつ違っているような気がした。大きく何かのチャンネルが変わったことだけが理解できた。

「もしも僕の子供が産まれたら」
 そんなことをよく想像して遊んだ。なにして遊ぶ?なにをお話する?ここで、ハッキリさせておきたいが、僕は子供と遊ぶのが天才的に上手い。子供の気持ちが手に取るように分かる。子供は楽しいだけでは楽しめないことも知っている。怖い、さびしい、悲しい、わからない、しりたい、痛い、くすぐったい、いろんな感情をまぜこぜにしてあげないと、心から楽しめないのだ。僕も子供もね。でも、本当にできちゃったので、とても戸惑っている。今から照れくさい。どんな顔してその子の前に行けばいいのだ?「あの、えー、エホン、非常に申し上げにくいのですが、僕が、いや、私があなたの父になることになりましたサトムネと申します。ああ、おたく様もサトムネですね、あー、始めまして」でも、大丈夫。きっとすぐにフリチンダンスで意気投合できると思う。そんなことを思うと、やっと胸に熱いものがこみ上げてきた。二人でフリチン合唱隊を結成するんだ。あ、女の子だったらどうするんだ?

 最近、ふと気が付いた。僕がTVに向かって文句を言っているのである。そう、あの父のように。なぜ、父がどんなニュースにも口を挟んでいたのかが今は良く分かる。世界は無関係ではないのだ。ニュースは僕の世界の中で、僕が責任を持たなきゃいけない場所で起こっている。僕はもうなにひとつ世界のせいにはできないのだと感じている。僕は生まれてくるだろう子供のために少しでも心地の良い寝床を用意しなければいけない。時には耳を塞ぎ、目を塞いであげなければならないこともあるだろうな。その子が傷つかないためなら世界の真実をすこしだけ歪めてもいいと思う。だって世界はあんまり危険すぎる。いつか自然に子供は僕に刃向かうようになる。それまでは、たくさんフリチンダンスを踊るんだ。僕の父がそうしてくれたように。

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この日記は大阪で行われるイベント「A day」のブログとの連動企画です。
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by radiodays_coma13 | 2006-02-28 01:57 | 考える
あなたはなにをする人ぞ
 そろそろ春ですね。そろりそろりと春ですね。隣のビルの屋上庭園では春の鳥が鳴いていました。ああ、ポカポカして気持ちいいなぁと思っていたのですが、あまりに良くできすぎた春だったもので、もしや、この鳥のさえずりはスピーカーから流れてくる音じゃないかと疑ってみたり。演出された春に踊らされているだけじゃないかと思うと悔しい。

 ところで、あなたは何をする人ですか?と、唐突に質問を変えてみたり。僕は春を疑う人です。いや、そうじゃなくて、日々、何をしている人?春って気持ちも緩む分、いろんなことが思い出されるように不安になってきたりもするんですよね。僕って、このままでいいのかしらん?ってね。こういうのって春の流行でしょ。ホーホケキョ。
春浅し あなたはなにをする人ぞ
c0045997_1514016.jpg 呆然とした不安がふわふわと重なって気がつくと、巨大な塊の不安になっていたり。春ってそんな季節。でも、とらえどころがない。春って精神病の一番多い季節らしいですね。ええ、「らしい」ということしか知りませんが。最近、知らない人に仕事で会う機会が多く、こんな質問をされます。「あなたはなにをしている人ですか?」まあ、あなた不躾な人ですね。それはあなた、「あなたは怪しい人じゃないですか?」と聞いているようなもの。答える代わりに、三つ指立てて「オイラ、ベロってんだ、怪しいもんじゃねえよ」って言ってやろうか。でも、訊いちゃうんだよね、これが。

 なにをしているのか?と問われてどこまでを答えればいいんだろうか。その人にとって会社の仕事が本当の自分なのか?もしかしたら、万が一、趣味の世界では、折り紙界の神と言われる存在かもしれないしね。僕の場合、会社の仕事ひとつとっても非常に複雑で、人に説明するのがひどく面倒。「まあ、クリエイター系?」と言えばもしかしたら、「ああ、あれね」とか納得してもらえそうな気がするが、僕はこのクリエイターという言葉が大嫌い。

 なんで、そんなカッコイイ言い方するかなあ。「デザイン的事務作業をしています」とか正直に言えないかねぇ。だいたい、ウェブを作ったり、DTPで雑誌の頁つくったり、HPの運用をする仕事のどこがクリエイティブなんだ?じゃあ、なにか歌手は全部クリエイターか?料理人も服のパタンナーも?そんなこと言ったら、世界中の人はみんなクリエイターだよ。ニートなんか、時間浪費クリエイターとか言えちゃう。農家のおじさんの方がよほどクリエイティブだわ。ぶつぶつぶつぶつ。どうも春のせいで情緒不安定みたい。

c0045997_1515990.jpg そもそも、この「あなたはなにをしている?」という概念こそが罠じゃないのか。人はそれでしか、自分や他人の存在を測れなくなっているんじゃないか。僕はキュートなものが大好きで、意外に小心者な、ボタンマニアの30過ぎのオッサンという一面もあるわけで。「まあ、クリエイター系ってやつですか?」という言葉により、それらの一面が欠落して、まあクリエイター系な奴に公約数されてしまう。

 だったらだ!もし、僕になにをしているのですか?という質問する勇気があるなら僕のライフスタイルから、僕がどの映画のどのシーンで泣くのかとか、どんなセックスをするのかとか、棺桶の色の希望まで教えてやるから最後まで聞けよと言いたくなる。そういうことじゃねえのかよ!

 なにをお怒りなのですか。つまり春なんですよ。真綿のような不安と鉛のような怒りが僕の眠たい頭の天秤の上で釣り合っているのです。その代わり、僕の中のいろんな僕がまるで乱視みたいにみんなバラバラに見えてきて、自分でも自分がなにをする人かわからなくなってくる。これこそ「なにをしている人ですか?」の罠です。

 そんな折、(例によって、今までの文章は前置きです)、あるところで、ある人の名前をきき、「あ、それ、僕の友達だよ」と言うと、非常に驚かれた。その人にとってはすごく有名人だったようで、なんだか、そこにいる自分が別人のように感じられた。そういうことなのだ、ある人が何をしているかどうかよりも、その人がどういうネットワークの中で生きているかということの方がその人をより正確に知る手立てのように思う。

 或いは、僕は僕の大好きな詩人と一緒にお酒を飲んで熱く語り合ったことがある。僕はいかにそのことがスゴイ事で、そのことがどんなにうれしいのかいろんな人に自慢した。でも、そのうちの8割の人が「その人、誰?」と言い、そのうち2割の人が「その人、まだ生きてるの?」と言った。以後、誰にも言わないようにした。時に自分がどのネットワークに存在しているのかを主張することはすごく孤独な行為であるという例。

 ともあれ、自分が何者であるかなんて、自分にも他人にも問うべきではないという、自分探しなんてゆめゆめするもんじゃありませんよという、ありがたいありがたいお話。でした?
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by radiodays_coma13 | 2006-02-17 01:53 | 考える
あなたは良い人?悪い人?
 最近、人を「良いひと」と「悪いひと」で分類するのが自分の中で流行している。もちろん、人には良い部分もあり悪い部分もあり、一口に「良いひと」と「悪いひと」で分けられないのは合点承知ノ介である。しかしだ、「あなた悪い人」「あなたは良い人」。人を二種類に分けるときの、なんとも言えないあの一刀両断なバッサリ感がたまらないのだ。

 そもそものキッカケは一ヶ月ほど前に僕のチームに入ってきた女子の質問からだった。「あの人は良い人ですか?」その質問に思わず笑った。そんな質問ってあるだろうか?まだ、名前も覚えていない特定の人に対してあの人は良い人ですか?ある日は、少し部下に小言を言っている部長を横目で捕らえた彼女は「あの人は悪い人ですか?」と、まるで、初めてパンダに出会ったマサイの戦士が「あれは食べられますか?」という質問かのように繰り出すのである。

 まだ、業務経験の浅いという彼女は、おそらく今まで、彼女にとって良い人ばかりのコミュニティで暮らしてきたのだろう。それは彼女が前社会の段階で彼女を擁護するために機能してきた。しかし、彼女はその後、社会に出て一気に社会的悪意にさらされるようになった。そこで、彼女は社会には「良いひと」と「悪いひと」が存在することを学んだ、と、こうなるのではないか。彼女がこのような基準を獲得するまでの過程を考えると涙ぐましいものがある。誰だってそんな人生のある季節には浜田省吾の「マネー」を雨にうたれて熱唱したくなるものなのだ。

 が!しかし、古狸のようなオッサンになると、世の中の悪いものも良いものも、みんないっしょたくにして「まあまあまあ」とやり過ごすようになる。「まあまあまあ、そこんところなんとかなんないかな」「いや、まあまあまあ、ここはひとつ内密に」とか、なにかとその方が楽チンだからね。実は、ものごとを良いと悪いに分けるには結構、体力がいるものなのだ。人はそのうち、誰かの判断基準に従うようになってしまっている。そうこうしているうちに自分ではなにが本当に良いものか悪いものか分からなくなってくる。で、気がついたら、ふと、とんでもなく悪いことをしでかしてるなんてことが起こったりしてね。

 そういう寝ぼけた価値基準のお風呂みたいな日常の中で彼女の「良い」or「悪い」の基準はメントス一気食いのように目覚しい。というわけで、近頃、いろんなものを「良い」「悪い」で分類している。仕事をどっさり持ってやって来る同僚には「あなたは悪い人だ」。素敵な作品ができたら「良い指がこれを作りました」と自慢する。同姓の同僚は「良い○○くん」と「悪い○○くん」に分ける。分けた二人を「良い方の○○くんに頼んでおいて」と第三者に説明する。とても分かりやすい。物事をきっちりと区別するのはとても気持ちが良い。これは良いことだ。

c0045997_113478.gif まるで王様になった気分である。その日の気分でいろんな人を「悪い人」にして、信じやすい純粋な例の彼女に「あの人は悪い人だから気を付けたほうがいいよ」と忠告してあげる。それから「良い人」を承認した権限で誰かを称えたりすることもできる。でも、時々、「悪い人」が「良い一面」をみせることもある。そうなるとこれは新たな驚きである。どうやら人は時によい人になったり悪い人になったりしながら生きていっているようなのである。

 でも、考えたら、誰も「良い」や「悪い」についてよく考えた人ってなかなかいないんじゃないか。もしかしたら「良い」さんは、本当は「悪い人」なのかもしれないし、「悪い」さんが実は「良い人」だったりするかもしれない。「悪い」さんはみんあの誤解にさらされながら夜の枕を一人濡らしているかもしれない。でも、そんなこと考え出したら夜も眠れないよね。みんな、「良い」を「良い」と思っているから、とても生きやすいのにね。そんなこと考える人は「悪い人」ですよ。そういう時はこういうのです。「まあまあまあ」

追記:
c0045997_16451.jpgこの日記を書いた後、面白いサイトをみつけた。「The Gematriculator」。調べたいサイトのURLを書き込むだけでそのサイトが善か悪かを判断してくれるんだそうだ。なんと便利なシステムなんだろう!どういう仕掛けかは知らないが、人様の体力を浪費せず、この難しい問題に取り組み答えをはじき出してくれるなんて。で、さっそく測定。。。回答は55%悪、45%善。予想通りどちらかといえば悪なのだが、なんとも中途半端だ。サトムネ同様、まあまあまあなサイトだこと。
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by radiodays_coma13 | 2006-02-01 01:14 | 考える
そうして王様はいなくなった
 ひとつ大きな仕事の区切りがついた。今まで体験したことのないような忙しい毎日だった。今まで体験したことのないような重たい責任だった。自分をよくやったなと褒めてあげることがとしたらこれがそうだ。でも、本当によくクリアできたと思う。なぜなら、僕にはそのプロジェクトをクリアできるスキルなんてなかったからだ。それは単純にデザイン力だけでなく、企画力と経験値、知識とプログラム技術が必要だった。気持ちでクリアできないことはハッキリしていた。にも関わらず「ハイハイ、チョロイもんすよ」と安請け合いしてしまった。実は内心、「ハイって言っちゃったよ」と思っていた。断らなかったのは、ただ、昔からそれがしたかったからだ。

 やっと、ビジネスとプライベートの目的が結びついた。ついに穴が貫通した。一人ではできると思っていなかった。でも、そのためのスキルを分割し、ひとつづつ実習してきた。人から、やりたいことをしょっちゅう変えていると思われ、時々、自分でも、わからなくなることもあった。が、仕事とプライベートの両方から掘り続けた穴は、約20年目にしてやっと繋がった。繋がるものなのだ。スプーン一杯の土くれも毎日続けると相当な穴を掘れる。だけどこれは、入り口なのだ。ここから、資材を運び、その向こうに本当の建築をしなければ。まだまだ足りないスキルが多すぎる。

 しかし、毎日、ピンチの連続だった。なにせ、知らないことばかりなのだから。それでも、指揮をとらなきゃいけない。おそらく、そのことを先に告げていたとしたら仕事から降ろされたことだろう。ハハハ。でも、案外、いや、むしろピンチを自分に与えなければ、この最後の大きな壁は破ることができなかったのではないかと思う。できる範囲の仕事をやっている分には常に限界が見えている。例えば、日本にいながらにして英語を独学で学べたらいいなぁと思うのと同じだ。そんなの無理なのだ。今まで20回ほど挫折しているぞ。一番早いのは、無一文でニューヨークに放り出されれる事じゃないかと思う。きっと一ヶ月ほどで基本的な英語は身につくと踏んでいる。今まで何が足りなかったといえばピンチが足りなかった。

 最初のピンチは大阪から東京に来たことだった。「今月ピンチなんだ~」なんて気軽なピンチはピンチと言わない。そんなのウンチだ。僕はピンチの時、人生で初めて寡黙になった。それくらいピンチだった。いろんな面接に落ち、自分の創作もはかどらず、見つかった仕事が体に合わず、軍資金も尽き、半年。食うに困ってデパートで日雇いの肉体労働をしていた。トイレで仕事をサボって、こんなことなら、東京にくるんじゃなかったと嘆いた。このまま、便器に顔を突っ込んで溺れ死んでやろうかと考えた。そんな折、ある出版社の社長さんが僕の口から安いウイスキーの匂いがするのを悲しんでくれた。(どんなに貧乏でも僕はお酒にはうるさいのだ。)それから、上等なウイスキーをご馳走してくれた。帰り際に一編の詩が書かれた紙を渡してくれた。そこにはこの土地を売ってくれと言った白人に対したインディオの言葉で
どうしたらあなたに
この空を売ることができるのだろう
草や水のきらめきを
あなたはどうやって買えるというのか
私も草の一部なのです
とあった。公園のベンチで泣いた。人は詩に救われることもあるのだと思った。僕は僕の全体性を失ってはいけないと確信した。その直後からいろいろなことがうまく動き出した。

 一番、おそろしいのは、人が自分の全体性を失うことだと思う。ある一部分だけで自分の価値を判断してしまうこと。そして、その一部分に自信をなくし、気力を失ってゆく、それだけで自分が誰からも必要とされない役立たずだと思い込んでしまう。しかし、おそらく、社会と言うのは人を部分でしか判断しないものらしい。僕はやっぱりそれはいびつな社会だと思う。そのような個々が高度に専門化された社会の中で、偽装建築やJRの責任逃れのような問題を生み出すと思っている。自分はあくまでも歯車の一部で、責任は他にあると、誰もが感じている。じゃあ歯車の先には誰がいるのか。その先はまた最初の歯車に繋がっている。

 戦場に立たされた僕が、又は誰かがもし誰かを殺めたらそれは誰の責任なのか。僕はまず国の責任を問うだろう、国は相手の国を問い詰める。しかし、それは間違っている。国には実体なんてない。ましてや、僕の罪を背負ってはくれないだろう。では、それは政治家の責任だろうか?もちろん責任の一部分は彼らに背負わされるだろう。しかし、実はそれは国民一人一人の責任なのだ。国に、政治家にその判断を許させた、一人一人の責任なのだ。しかし、誰かが言う。「知らなかった」。それは怠惰でしかない。全体性を取り戻すにはひどく体力がいる。人は一部分であることに甘んじることになる。そこには怠惰と偏ったナルシズムが生まれる。怠惰と偏ったナルシズムは邪悪に繋がっている。僕の言っている邪悪はなによりも責任を転嫁することだ。誰かのせいにすること。

 全体性を失った自己は集団の中で心理学でいうところの自然発生的退行依存を発動させる。もちろん、現在のような専門化社会がなければ、文化はこんなにも進歩しなかった。しかし、専門化された社会の中で我々は小さな一個人を演じることを押し付けられる。自分の中の王や戦士や道化や僧侶を分断し、誰かにその役を演じさせる。それが高度に専門化されると我々が演じる役はさらに小さく区切られていく。その中で人は自己の欠落感を感じ、いわゆる「自分探し」なんて愚劣な行為に走るのではないか。

 一人の個人の中には本来、すべての役割が内包されていると思う。自分の中のアーティスト、自分の中の王様。ただ、我々がどこかの段階でそれをあきらめているだけではないか。社会は個人が全体性を取り戻さないよう、それを阻む。上手く服従のシステムを作り上げている。誰かが何かの一役を演じていないと彼を異物として扱う。哲学者ミシェル・フーコーはそれを監獄のシステムと比較した。いつか人は自己の中に自己監視システムを作り上げるというわけだ。そうして、王様はいなくなった…。

 怠惰とナルシズムを打ち破るのは、自分に範疇を超えた試練を与えることではないかと思う。それから「背水の陣」を敷くこと。中国の天才戦術家の韓信もそう言っているのだ。でも、僕にはたまたまあとがなかった。運がよかった。これに味を占めて、最近、また自分のスキルを超えた、大きな仕事を引き受けてしまった。ヤバイ。ほんとうにヤバイ。また、あとがない。どうしましょ。今度こそ大失敗をやらかすのではないか。でも、怠惰ナルちゃんになって過去の自慢話をするようになるよりかはマシだ。失敗ならいつもしてるしさ。大丈夫大丈夫。…いや大丈夫じゃないかも…。
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 今日の作品はちょうどそのデパートでバイトしていた頃に書かれたもの。アクトは最近したものですがね。『ゆるしてあげる』です。ついでに、以前アップしていた「月光」を再アップ。「RADIO」と 「オットーと其処へ」をまとめて音による作品で綴るRADIOコーナーを作りました。どうぞご利用ください。
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by radiodays_coma13 | 2006-01-22 03:33 | 考える
なくて七癖
 なくて七癖と言われているが、自分ではその癖になかなか気がつかないものだ。人から指摘されて「ふーん、そうなんだ」というものや、「ふーんそうなんだ」では済まされない嫌な癖もある。ざっと、友人に僕の癖を挙げてもらった。

①緊張すると、首が鶏のようにかきゅかきゅ痙攣する。
②考え事をすると眉間に皺を寄せる。
③美味しいものを食べると舌鼓をうつ。(ほんとにポンポンいう)
④イライラすると独り言を言いながら頭を掻き毟る
⑤ひらめくと指パッチンをならす(下手くそだけれど)
⑥いつも手遊びしている
⑦皮を食べる(爪を噛む、指の甘皮を食べる、唇の皮を剥く)

 なんなく七癖がでてきた。自分で気がついているものから気がつかなかったものまで。実際にはもっとたくさん出てきたけれど僕が耳をふさいだ。「ほら、また!都合が悪くなると人の話をきかない!」みんなが指をさす。これで一癖増えた。

 これらの癖のほとんどは僕が考え事をしている時に出現するようだ。考え事をしている時の僕は手遊びをしながら、爪を噛み首をかきゅかきゅ動かし、眉間に皺を寄せ、独り言を言いながら頭を掻き毟り、時々、鳴らない指パッチンをする。なにかと騒々しい。

 だから、根をつめて複雑な仕事に取り掛かると、僕の唇は皮の剥きすぎで流血し、頭はボサボサで、爪はボロボロになり、そのささくれた爪でいろんなところを掻き毟るので、顔中傷だらけになる。これはなかなか哀れだ。そんな姿で家に帰ると、どこに行ってきたのか?と妻に問われることがある。でもね、SMクラブでは唇の皮をめくるプレイなんてないのだ、妻よ。そんなことを疑わないでほしい。「またー!でもでも言って、話をはぐらかす!」妻が怒る。また一癖増えた。

 でもね、癖の中には近くでいるととても不快な癖もある。人の癖をみて、ああっ!どうにも辛抱ならないこともある。しかし、自分だってロクな癖がない。仕事中にことあるごとに指パッチン、しかも下手くそなのをされたら気になって気になって、僕でもイライラする。でもロクでもある癖なんてあるのかしら?ほっておくと隣の人の肩を揉みだすとか、独り言がすごくありがたい話とか、鼻歌がすごい上手とか?これは言葉の問題だ。不快じゃなかったら、それは癖ですらないはずなのだ。癖は限度を越すと非常に周りの人を不愉快にさせてしまうのは確かなの。

 先日、僕の職場に新しい人が入った。ちょっと気難しい人で、無口なのだけど、僕はちゃんと下準備して、彼の好きな映画をリサーチして、気さくに喋りかけた。しかし彼との楽しいはずの会話は「いいえ、もう最近は観ていません」ときっぱり否定形からスタートした。でも、いくら彼が気難しくたって、いつも同じビタミンジュースを飲んでいたってそんなことは全然、構わないのです。ただ、僕は彼の貧乏ゆすりだけはガマンならなかった。

 彼ときたら、人の話を聞いている時も、仕事をしている時も、昼食後、眠そうにゆらゆらしている時も、休憩中にリラックスしている時も地響きするほどの貧乏ゆすり。そして、足の前にスチールのボックスがある時もガガガガガと足をボックスに打ちつけながら貧乏ゆするのです。これはたまらない。僕はこれほどしっかりとした貧乏ゆすりをみたことがなかった。でも、癖ばっかりはなかなか治らないのでなんとか良い方に解釈しようともした。もしかしたら彼の趣味はドラムなのかもしれない。彼は天性のドラマーに違いない。それとも、これはなんらかの明確な意思表示なのかもしれない。「うおっー!俺はここにいるぞっー!!」。

 あんまり激しいので彼に二~三、簡単な質問をしてみた。「あなたは急いでますか?」「あなたはトイレに行きたいですか?」「それはあなたの性分ですか?」彼にはどうやら質問の趣旨自体が伝わらなかった。彼は自分のそれほど明らかな貧乏ゆすりに気がついてはいないようだった。彼にとって貧乏ゆすりとは心臓のビートみたいなものなのだ、きっと。言っても無駄なのだ。「あなたの心臓は鳴り止みますか?」と言う質問に僕たちはどう答えられるというのだ…。

 その日、アプリケーションの操作方法について僕が彼に説明している時、運悪く大事なデータ処理途中でPCがフリーズしてしまった。本当に運が悪かった。彼の両足は震度7の揺れに見舞われた生まれたての子ヤギのような二重苦に震え続け、PCデスクを打ち鳴らした。それは、どこか精神の深いところで起こっている混乱を予感させた。僕は思わず、彼の両膝をハッシと押さえつけてしまった。…次の日、彼は会社に来なくなった。「なんだか冷たい会社です」と言い残し…。

 これは事故なのだ。きっと防ぐことのできない、悲しい事故。広い草原の真ん中で子羊が飢えた狼に出くわして食べられちゃうくらいに仕方のない事故。僕のせいじゃないの。しかし、人は自分のどうしようもない癖を指摘されてしまうと時にパニックになってしまうことだってある。でも、それを人はとても不快に感じている。ジレンマ。その癖にその人自身が気付いてなければ、尚更、それを指摘されればショックは大きい。

c0045997_23481910.jpg もしかしたら僕だって気付かずに人をとても嫌な気分にさせているかもしれない。ある日「サトムネさん、その癖なんとかなりません?」なんて言われたら、僕はショックで唇がなくなるまで、皮を剥いてしまうに違いない。そんなことがないように僕は自分の癖を軽減させるアイデアを思いついた。手遊びだ。僕はいつも眠る前に玉遊びをして眠る。そうしないと落ち着いて眠れない。「健身球」というんだそうです。手のひらで玉をまわすとケロンケロンと鳴ります。会社でそれを鳴らすととても迷惑なので、今日、東急ハンズでガラスの玉を買ってきました。これで、僕の唇もつやつやの艶っぽい唇になること必至でしょう。メデタシメデタシ。
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by radiodays_coma13 | 2005-11-23 23:49 | 考える
時間は歪んでる
 自転車通勤をしている。最初はダイエットのためにと思っていたのだけれど、今は楽しくて仕方ない。会社についてからも朝いちの仕事がはかどる。大変じゃないですかと言われますが、思ってるより大変です。でも、なにより素敵なのは電車通勤よりも早いこと。池袋から溜池山王まで電車を使った場合のドアtoドアの時間は55分。自転車通勤だと40分。さて、ここで不思議に思われるでしょう?思わない?じゃあ、思ってください。これを不思議がらないと話が始まりません。なんで自転車の方が早いのか?それは東京が小さいからです。5キロを自転車通勤可能範囲と設定した場合、例えば、新宿を中心点として半径5キロの円を描くと、なんとすっぽり山の手線が囲めてしまいます。東京は本当に小さいんです。ただ、車の渋滞や網の目のような地下鉄の乗り換えが私たちの頭の中に巨大都市東京の仮想地図を作り上げているだけなんです。すっかり騙されていました。
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 でね、もっと不思議なことがあるんです。自転車通勤の40分間、僕にはどうしても40分だとは思えないのです。少なく見積もっても1時間30分。多いときは2時間くらいに感じられるんです。なぜでしょう。これには当初、かなり首を傾げました。時計を見て、1時間の違いを感じると、まるで、タイムスリップしてしまったような気持ちになります。これをちょっと調べてみました。いいですか、つまり時間は相対的だってこと。びっくりしました?知ってた?じゃあ、知らなかった事にして聴いてください。大人になって一日が早く過ぎるというような感覚になったことありません?子供の頃はもっと一日が長かったって。それと同じ事らしいんです。子供の毎日には初めての事や未知の体験というイベントが多く、大人の毎日はわかりきっていて平坦、すると指標点の多い一日の方が長く感じられる。自転車通勤は発見も多く、知らない道を通る時などまるで大冒険です。会社についた頃には「いや~遊んだ遊んだ」という気分になっています。もし、それが可能だという人は是非とも自転車通勤をオススメします。

 東京は小道や坂が多く、旧と新が混在していて、毎日、通勤していても飽きません。大冒険のことについてははもっときっちり書きたいのですが、それは今度ということにして、今日は「時間」の話。子供の頃、「永遠」という言葉を覚えたての時、その言葉がお気に入りで永遠について毎日考えました。死んだら「永遠」になるという話をきいて、それがどんなものか死んだフリをしたままじっとしてみた。時計の音がゆっくりになってゆくような感覚になり、もしかしたら、これが永遠の入り口なのかもしれないと思いました。「このまま死んだふりをしていたら、永遠に入ってゆくのかもしれん」。それから、休みの日に遊んでいて一日が永遠と思われることがありました。このまま、永遠に夜にならないんじゃないか。遊んでも遊んでも、日が暮れなくて、怖くなったりした。永遠というのは時間が止まることなんだろうと幼い僕は悟ったように思う。

 永遠はとても恐ろしい。それは昔も今も変わらない思い。永遠に夕方のままだと晩御飯が食べられなくなる。永遠に10月のままだと、正月にいとこのよっちゃんに会えなくなる。そんな時は泣きたくなり、どうやったら時間を早く進められるか、止めてある自転車のペダルをグルグル回してみたり。でも、ふと思い当たる。時計ってなに?時間が相対的で個人的なものなら、時計はなにを刻んでいるの?そう、時計はかなりアテにならない。誰の時間なんよ?多分、仮にみんなの時間を決めてみたんだろうね。暦だって世界中にいろいろあるからね。でも、この時計、侮れない。時計のせいで僕は好きなときに食事できない。時計のせいで僕はゆっくり眠れない。みんなみんな時計のせいだ。時計があるから時間がお金になるし、時計があるからみんな急いでいる。世界中の時計を少しづつ狂わせたい欲求に駆られる。

 時には、分も秒も刻まれた点なんてないのに、あのカチカチという音に追い立てられているような気がしてしまう。本当に可哀想なのは、人によって体内に流れている時間は違うのに、同じルールの時間上で働いているということ。これはかなりムゴイ。社会適応能力を疑われている人の中には、きっとこういう時間の違いに苦しんでいる人もおおいに違いない。まあ、僕はどちらかというとセッカチなので、いろんな事が人よりも早いのだけれど、それはそれで、困る事もある。とにかく一日が早い。そんな時、全てが自分時間で自由に動けば、いいのになぁと思う。嫌な仕事2秒、睡眠3秒、お散歩4時間、食事6時間、モノツクリ13時間59分と55秒。そんな風に感じれたらいいのになぁ。いいのになぁ。なんないかなぁ。
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 さて、今日の日記に関連してFLASH作品をお贈りします。「INFINITY」です。永遠の1000分の1のサンプルです。コンセプトは時間を切り出して、活きのいいところを醤油に漬けて食べたら美味しいだろうな、とそういう作品ではありません。でも、時間を切り出してそれを目に見えるようにできないかなぁとちょっと思いました。最近、時間に関する、ある最新の本を読んだ。それによると時間に実体はないんだそうだ。それは純粋に人間の作り出した観念だと。頭の中で、世界を構成するためにつくりだした便利なページ分けみたいなもんなんだって。もしかしたら一生というのは一瞬に起こったことを、それが起こった後で、時間というページの上に配置したもんじゃないかって。ふーん、なんとなく嫌な話だけど、気付かなければいいや。
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by radiodays_coma13 | 2005-10-11 16:07 | 考える
運が悪い奴ほど運がいい
 運というものをまったく信じていない。それはカッコいい人生の指標なんかではなく、なんというか、なりゆきの問題であります。今まで運が悪く、暗い人生だったわけではないんだけど、すばらしくクジ運が悪いのだけは確かだ。なんとなくクジ運が悪いんじゃなくて、ある意味では確率的に素晴らしい悪さであると思う。これは意図的なものを感じずにはおれない。ギャンブルを始め、抽選やクジの類、単なる遊びではなく商品や賞金という利害が絡むと、目覚しく結果が最悪になる。ここまでくると、これは一種の思し召しなんじゃないだろうかと思っている。

 そのおかげで、どちらかというと性格的にはギャンブル好きなのだが、結果が火をみるよりも明らかなので、挑戦する気が起こらない。他にも、例えば何かの真実を賭けて「じゃあ、賭けるか?」なんてよくやるあれ、あるでしょ?でも、あれも僕がやると不思議なことに真実のほうが捻じ曲がっちゃう。

 あと、最近はこんなことがあった。会社の半期に一度のアトラクション。全員でクジを引いて商品を贈与するというもの。社員全員分の商品が用意され、一人一人発表してゆく、どんどんとスカみたいな商品がばらまかれる。どうせ、すぐに当たっちゃうんだろうと鷹をくくっていたら、不思議なことに当たらない。そうこうしているうちに商品のレベルがどんどん吊り上ってゆく。ブランドものの香水やベルトなど。
「まだ、当たってない人、手を挙げて」
もう5人ほどしか残っていない。高鳴る心臓。
「ついに、僕にも運が目覚める時がやってきたか!今までさんざんだったからな、宝くじの一回や二回当たってもおかしくないだろう。社内の小さなクジで運を使うのもなんだけど、悪い気はしない。一番ビックな商品を当てて、みんなの前でなんて挨拶しよう。さあ、来い!」と思っていたら、番号が呼ばれ、てっきり僕だけが残っているのだと思っていたら、後ろから「ハイっ!」って声がした。
「今日、一番、ビックな商品をあてたIさん」とか言われてて
「あれ?あれれ?」なんてやっていると
「全員に商品がいきわたったところでクジ引き終わります」なんて言っている。
「ちょっと、待った。僕はまだ、なんにももらっちゃいませんが」と言うのも恥ずかしいので、挙げかけた手を降ろすもおせっかいなお隣さんが
「ハーイ!まだ里宗くんがなんにももらってませーん!」なんてクラスの学級委員みたいなことを抜かし、いきなり可愛そうないじめられっ子のように立たされ、みんなから笑われるやら哀れまれる始末。
あげくには不憫に思った上司がそこらじゅうのダンボールをあさり「じゃあ、これ」といってカレンダーをくれた。しかし、そのカレンダー、3月の日付に27日が3回も登場するワイルドな誤植付カレンダーでした。

 そんなわけで、僕はまったく運を信じていない。というか宛てにしていない。サイコロは単なる確率に過ぎず、リンゴが気から落ちるのは運じゃなく万有引力。そんなところに大切な創造力は使わないようにしている。競馬である馬が勝つのは確率ではなく努力と状態だと思っている。ちゃんと馬と騎手に綿密な聞き込みをすれば、きっとなにがしの答えは出てくるだろうと思っている。そんなわけで、運を疑う僕は、すべてのものには原因と結末があり、それさえわかれば、どんなものも予測可能だと思っている節がある。株の動向なんて初歩的なもので、僕がアロハで自転車に乗っていて警察に呼び止められるタイミング(ほぼ確実)とか、わからないことはないんです。

 前置きが長くなったが(いつもの話だけど)最近の僕は神がかっている。予測したことがほぼ百発百中ズバリ的中してしまう。僕の人間観察もくるところまできたなという感を隠せない。さて、なにが的中するのかというと、通勤電車で次の駅で降りる人を予測することだ。どうです、スゴイでしょう。これには僕も自分で驚いている。なかなか軟弱なので、普段からいつもどこか空いている席がないかとキョロキョロしいる方だったのだけど、それが功を奏したのか、ムードで次に降りる人がわかるようになった。なにってそれだけなんですけどね。で、ただ、これだけのことが言いたくて、長々と書きました。おしまい。

 でも、最近、電車通勤から自転車通勤に変えたのであまりこの能力も役に立たなくなってしまいました。ちょっと残念な今日この頃。次の日記では自転車通勤について書きたいななんて漠然と思っています。
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by radiodays_coma13 | 2005-10-06 00:30 | 考える
『ROOM』
おひさしぶりです。ええ元気でしたよ。やっと日記が書ける時間が戻ってきました。うずいてました。でも、なぜ書けなかったかというと…。

 10mの崖っぷちからダイブでもするように浴槽に飛び込む。頭までどっぷり湯につかり、ゆっくりと首を出す。放心。あわただしい半年間だった。今日、トドメのイベントが終了し、なんだかやっと息継ぎができたという気持ち。この半年間、呼吸をせずに走り続け、気が付いたら湯船の中。半年間どこに行ってたんだろ、そんな感じ。体の芯から、震えのように疲れが湯の中に解けてゆく。いくら湯船に漬かっても漬かっても、どろどろといろんな色の疲れが噴出してくる。なんだか湯が濁ってゆくような心地がして蛇口から湯を出し続ける。一時間。風呂から上がった頃には体の中がまったくの空っぽに感じられた。明日のためのこまごまとしたしなくちゃならないことをガラガラと脇に押しやり裸のままベッドに倒れこむ。もうなんだっていい。例え、いまゴジラがヤスキ節を踊っても今の僕には興味ない。眠らせろ。

 とても変な夢をみた。猛烈なブリザードが東京を襲う。風速200メートル。その風に直撃したらみんな凍る。東京の丘から眼下を見下ろすと風速200メートルのブリザードがカチコチに凍った人々を吹き上げている。なんだか、楽しそうだ。あれに巻き込まれに行こう。びゅーん。わー楽しいけど寒い。寒いけど楽しい。しかし、寒い。寒い。

 目が覚めると見慣れない高い天井。クーラーが効きすぎている。裸で眠ったんだった。手をのばすといつもはぶつかるはずの壁がない。広いベッド。気持ちのいい朝の日差しが差し込んでいる。ガバっと飛び起きて辺りを見回す。大丈夫、夢じゃない。いや、夢なんだ。引っ越したんだった。夢のマイホーム!参った。ついにやっちゃった。夢のマイホーム、衝動買い35年ローン。でも、そう思った途端、得も言われぬ不安のフリ戻しが震えようによみがえる。風速200メートルのブリザードみたいだ。でも楽しそう…。ほんとうに家なんか買ってよかったんだろか・・・。しーらないっと。僕の友人が言ってくれた。「年相応の生活というのがあるのよ」。そうだよな。年相応。僕はもう若くない。年相応か…。そうやって、少しづつでもハードルを設定しないとなにもしないまま、時間だけが過ぎてゆく。よく知っている。だって、これまで、なにもしなかったから。

 大学生のころ、初めて東京に遊びに来た。遅い東京デビュー。山の手線をぐるーっと一周。その頃は汐留も六本木ヒルズも恵比寿ガーデンもなく、街といえば渋谷、新宿、池袋。その中でも、詩を嗜む、純真なアート青年の心を射抜いたのは池袋であった。NHK芸術劇場でおなじみの池袋芸術劇場。日本で唯一の詩の専門書店「ポエムパロール」、新宿みたいにビビットじゃなく、渋谷みたいに気取っていない。なんかいいな。でも、あこがれるだけの遠くの街でしかなかった。しかし、僕は今、その街をパジャマで自転車に乗ってブイブイ言わせている。

 僕は多分、とてもミーハーだと思う。都会が大好きだ。でも、そんなミーハーな自分も大好きだ。僕は都会の汚いところが嫌いだ。うるさいところが嫌いだ。人が多いところが嫌いだ。夜眠らないところが嫌いだ。人がイライラしてるところが嫌いだ。欲望が渦巻いてるところが嫌いだ。夜明るいところが嫌いだ。でも、そこにいる自分が好きなのだ。なぜだろう。都会にいないと落ち着かない。自分が世界から関係のないところにいる気分がする。僕の友達のアーティストが「アーティストは自然豊かな場所に住むべきだ」と言っていた。でも、僕には無理だ。多分、アーティストじゃないんだろう。田舎に行くと空気が綺麗すぎて窒息死しそうになる。バーガーを嫌悪するドナルドのような存在なのかもしれん。「それでも、僕にはマックしか居場所がないんだよ…」

 この6年間で6度引越しした。その度に都会に近づいている。確かにちょっと疲れるけれど、想像力は刺激される。環境は人を大きく変化させる。いや、もしかしたら、人は自分の力で自分を変えることはできないのかもしれない。自分の思い通りに行動しているというのは思い込みなんだろう。大都会のジャングルでチーターは生きてゆけない。人食い虎だったらなんとかなりそうだけど…。そんな話じゃなくて。そこに住んでいる人や文化はそこの土と水で育っている。笹の葉が獰猛な熊をパンダに変えてしまうのだ。

 部屋だってそう。自分でさまざまなものを配置しているようだが、引越ししてわかった。ちょっと違う。部屋に自分が配置されているという感覚。自分の部屋の枠を超えて、僕はその部屋に存在することができない。部屋は自分の鋳型みたいなもんなんだろう。僕がいなくても、そこには僕の形の空洞がすっぽりと用意されている。しばらく、同じ部屋にいると自分にジャストフィットする部屋が出来上がる。いや、自分も部屋によって形を変えられる。部屋と自分が同化してくる。

 部屋は、その人の頭の中をのままミニチュアで再現したようなものではないかと思う。他人様の家にあがると、不思議な感覚になることがある。それは「文法の違い」という言葉で表現できると思う。ルールが違うと言うか、なんだろう、語られ方が違う。ちょっとした雑貨や、部屋の配色、モノの配置。それらが構成して作り出す、その人の世界、そして世界観。その有り様が自分の認識している世界観と大きく異なる事に混乱してしまう。しばらく、そこにいると、その部屋の存在に自分が取り込まれてゆくような気がする。いつもの自分と考え方が変わり、話す内容が変わってくる。自分の感じ方や表現が、その人にとって適切でないような不安が湧き上がってくる。その人の部屋の中では、自分はその部屋を構成するモノの一部に過ぎないのだ。

 久しぶりに実家に帰ったりすると、昔の自分の部屋が手をつけられずにそのままで置いてあり、そこに入ると、とても妙な感覚に襲われる。そこが自分の部屋であったことが不思議でならないのだ。まずは知らない匂い。置かれているモノや、その配置のされ方に「他人」を感じる。そこで、初めて自分が徐々に変化を重ね、気がつくとまったく異なる存在になっていることを悟る。そこには当時のままの自分の形の空洞がポッカリあいている。そして、現在の自分はその中にジャストフィットしなくなっている。よそ者なのだ。数学的な負の自分は饒舌に何かを語りかけてくるように感じられる。その時の自分は何を考えていたのか、今の僕になにを言わんとしているのか。昔の自分の部屋でゆっくり時間を過ごすのも楽しいものであります。しかし、それ以上に、新しい環境で自分の居場所を作っていく作業はもっと刺激的で自分が生まれ変わるような気持ちがするものですなあ。

さて、今回、日記に関連して、お久しぶりのFLASH作品をお届けします。
「ROOM」です。
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by radiodays_coma13 | 2005-09-23 23:50 | 考える
ノストラダムスの彼方で
 今日、また、ひとつ歳をとりました。ハッピバースデートゥーミー。ハッピー?まあハッピー。不思議なことに。ありがたいことに。めぐりめぐってハッピー。もう34歳なの。でも、30歳になった年はひどくアンハッピーな気分だった。周りから「そういえばもう、今年で30じゃない?」なんて事を言われると俄かに不機嫌になったものだ。妻曰く「あの時のあなたはこの世の終わりのような顔をしていた」らしい。

 古い教育を受けてきたので男の30歳と言えば、それなにりに立身出世して、なにかひとつ事にうちこんでいるべきだと思ってきた。20歳はふ~らふらしていたが、少なくとも少年の僕は自分の30歳をはるか遠い真っ白な未来に自由な絵を書いていた。おりしも最も多感な小学生の頃、地元の神戸でポートピアというエキスポが開催された。港神戸の山の手のおぼっちゃま産まれの僕様(嘘、ホントはド下町育ち)は毎週のようにポートピアに遊びに行った。そこには眩暈するくらい、めくるめく未来の幻想があった。少年の頭の中には嫌がおにも輝かしい自身の未来像が形成された。それから、20年、現在とのギャップ。「あの未来イメージはなんだったんだ?」自分の境遇だけに落胆するのではない。僕らが夢見た未来はこれなのか?

 「どうやら誰かに騙されたらしい」そう気が付いた1994年。僕は当時、本気でノストラダムスの終末を信じていた。そんなバカげた!と今では思う。けど、誰もが一時、そういう終末的な気分に染まった頃がある。自分たちの向かっている未来が、どうやら理想の未来ではない。高度成長期も終り、バブルがはじけ、その時、おそらく、日本人の中の意識が大きく変化した。象徴的にオウムをはじめとする多くの新興宗教が登場し、「なんだか世の中へんね」と誰もが感じた。きっとなにかとんでもない事が起こってもおかしくないような、そんな感じ。その予感は震災やオウムのテロ、その後の神戸の少年事件となって具現化される。しかーし、世界は滅びなんかしなかったね。僕もちゃんと生き残ってしまった。「なんだか世の中へんね」という感触も払拭されないまま、ただ、その変な感じに人々はただ慣れていった。

 そして、29歳。そこにはグロテスクな現実と、なにものでもない自分だけが残った。おかしい、話が違う。そんなはずじゃない。焼けつくような不安感。それはもしかしたら、誰もが味わう20代的気分だっただけのかもしれない。なんだってできるはずだって思えた20代。光り輝く栄光へと開かれた巨大な鉄の扉が音をたててゆっくりと、しかし確かに閉じられてゆく。「まってくれー!」と転びながら必死になって走りつづける。なんてね、そんなものないのにね、そんなものが見えるんですよ20代って。社会全体が自分の敵だと思えたり、空は悲しい時に雨を降らしたり、軋むベッドの上で優しさを持ち寄ったり、愉快だね。とにかく、なんだかわからないけど、焦りまくった。そして、8月21日。30歳になったとたんに、急にあたりは嘘のように静かになった。へ?なんだったんだ?今までの騒ぎは?

 まるで大気圏を抜けて宇宙に飛び出したようにあたりは静かになり、頭も軽くなった。ある意味では諦めの境地なのかもしれない。虎の衣でしかなかった役立たずの万能感も雲散してしまった。今は堂々と「できないものはできません」と言い張れます。でも、なぜか、出来ることは増えた。反対に「出来ることは出来る」と言えるからだ。なーんだ、こんなことならもっと早く30歳になっとけばよかった。とにかく楽しくなければ自分で楽しくすればいいんだわ。そう、自分の環境に自分で責任がもてるのが30代。もう、社会が悪いのを時代のせいだとは思わなくなった。それはある意味では自分がつくる時代なのだから。政治が悪いのは政治家のせいじゃない。給料が悪いのは社長のせいじゃない。奥さんが怖いのは奥さんのせいじゃない。気に食わなければ気に食うようにすれば言いだけの話。

 やろうと思えば、人っていろいろとやれるものなのね。夢なんて思っている時はなんにもできなかったのにさ。いざ、30歳になって、夢と言うより前に手をつけちゃうと、それは現実になった。「ぶんぶく茶釜」みたいな話し。奇蹟を待つより、バスが来るのを待つより、歩いて行っちゃう。チャンスなんかいりません。運なんか信じません。バスなんか踏み潰してやる。そんなふうに開き直ってこの4年間。気が付いたら、驚くほど遠くに来ていた。本当に気が付いたらというのにふさわしい。30歳になったのが三ヶ月程前のことに思えるくらい。ちょっと怖いくらいに時間も体もものすごいスピードで過ぎて行った。早く動くと時間が歪むとアインシュタインさんは言ったらしいけれど、それはあながち間違いじゃないかもしれない。今度、誰かに教えてやろう。このままいけば、明日くらい60歳になっているような気がする。そんなわけないけどね。

 先日、仕事場の赤坂から徹夜空けの仕事帰り、タクシーに乗って高速道路から見える明け方の東京は都会的を絵に描いたようにとても美しかった。案外、僕の夢見た未来ってこんなのかもしれないと夢心地の中で思った。視線は高速道路を離陸し、ミニチュアルの街を見下ろす僕の巨大な顔。「ようは視点なのね」寝言のように呟いてみた。
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by radiodays_coma13 | 2005-08-22 01:43 | 考える