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言葉と文化
by radiodays_coma13
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カテゴリ:考える( 37 )
幸せの技法
仕事柄、「人間の感覚」に興味がある。
人が何を面白いと感じ、欲しがるのか

僕は自分に「センス」や「運」がないせいか
センスや運に頼るという考えがない。
そんな神頼みのようなもので
人にお金を払わせられる気がしない。

人の心は科学的に分析可能で
そんなに複雑なものではないと
ドライに考えている。


そこで、人が最も強く願い
それを求めるゆえに神頼みするもの
「幸せ」について考えたい。

どうして人類の多くが幸せになれないのか
不思議で仕方がない。

それは「幸せって不思議だね」という意味ではない。
どうして、人は幸せについて考えないのだろうという意味。
なにか天啓のようなものによって幸せがもたらされていると
考えている節がある。
自分自身では幸せをどうこうできないような気風が不思議なのだ。
つまり、どうして幸せを「科学」しないのだろう。

これは決して宗教ではない。
断固として宗教と幸せを分離したい。


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「ザ・シークレット」という本が話題なので買ってみた。
幸せについて書かれた本と言ってもいいと思う。
なんだか変な宗教みたく、とても気持ち悪い存在なので読むことにした。
引き寄せの法則といって、良いイメージをすることで
そのことを引き寄せることが可能なのだという。

なるほど
幸せなイメージをたくさん持てばいいのか。
でも、どうして人は悪いイメージばかり抱いてしまうものなのだろう。
そのことについてこの本はきちんと教えてくれていない。
良いイメージを持て!といったところで
ここのところを教えてくれないと
本当に幸せになれる本とはいい難い。

「ザ・シークレット」が正しいかどうかは置いておいて
人は不幸について考える動物なのだと思う。
人だけではなく動物は、色々な不安におびえて行動する。
そうしないと、いろいろなアクシデントで危険に陥る可能性が高くなる。
それは生き残りのためでもあったはず。
幸せのことばかり考えている動物は、近くにライオンが来ている可能性について
考えず、ぼやっとしてすぐに餌食になったはず。

なにか少し良くないことがあると、いろいろな最悪なケースを考えて
頭がいっぱいになる。気持ちはどんどん落ち込む。
よいイメージを持とうと努力しても、
「病気が治って元気いっぱい!」みたいなメモ一枚分のイメージしかでてこない。
最悪なイメージは細部まで湧き出てくる。
腰が痛いことをオカズに本一冊分は書ける。

c0045997_7203764.jpg
昔からどの文化でも天国の絵より、地獄の絵の方がイメージ豊かである。
人はそのようにできているとしか言いようがない。
色々な天国の絵と地獄の絵を見比べて
どちらに遊びに行きたいですか?と聞かれると
僕は地獄の方が面白そうだと思う。
だって、遊園地みたいなんですもん。


天国の絵になると人の創造力は
どうしてこう退屈なんでしょうか。

つまり、人は幸せを想像することに向いていない。
きっとそんなふうにはできていないのである。
そのくせ、想像できていないなにかを到達点にすようとする。

それが不幸を呼んでいる。

人は幸せを到達点にしてしまう。
そこにいけばゴールみたいななにか。
そんな回答を用意してしまうので
そこに行くまでの状況が常に満たされていない
それを「不幸」と感じるのではないだろうか。
「お金持ちになりたい」→「なれない」→「不幸」

そしてチープなイメージだとして
たとえ運良くゴールインしても
幸せは一瞬。
ゴールするときのテープカットの瞬間だけ。
で、あと、どこにいけばいいのだろう?
よく、大きい幸運や目的を達成した人が
その後、鬱になるという。
まさにそれ。

幸せは一瞬
不幸は状態


男性のオナニーのようなものだ。
これは名言でもなんでもなく
今のままでの幸せの考え方では
そうならざるを得ない。

「有名人になる!」
チープな幸せのイメージ一個もっていたところで
当選確率は低い。
それは単純に確率の問題なのだ。
でも、人は不幸に対してはものすごくイマジネーション豊か。
当然、当選確率は高くなる。


本当は幸せは「単純」なものだと思う。
でも、「単純」と思いたくないなにかが人にはある。
人には自分を単純な存在だと思いたくないなにかが機能している。
このことは確かだと思う。

幸せになるのは至極簡単。
食べればいい。
遊べばいい。
愛し合えばいい。

で?
で、それ以上あるのか?
問いたい。
それ以上あります?
んー
それ以上あると思いたい。
それ
それが不幸の始まり。

でも、それすらも満足に得られないという状況がある。
じゃあ、それは不幸か。
それこそ、想像力の出番ではないか。

程度の差こそあれ、
「ない」ことから想像すると
少しでもあることに喜びを感じることもできる。
腰は痛いけど、生きてるだけ幸せとかね。
素食だけど、それが素敵とかね。
小さな幸せはたくさんある。

それからネガティブなものにも幸せなイメージを持てばいい。
さびしさのおかしみ
わびしさのおかしみ
があるようにいろいろなものに「おかしみ」がある。

痛みにもおかしみがある。
腰痛を患っている自分を楽しむということがある。
先日、どこかの駅で腰痛で身動きできなくなっている自分を
もうひとつの自分がみてなんだか楽しくなってしまった。

よく貧しい経験をした人があの頃の方が楽しかったという。
それは豊かなになった人だから言えるのだというかもしれないが
それを楽しむ余裕があった人だから、くさらず精神的に耐えられたのだとも言える。


大きな不幸があるようにもちろん大きな幸せもあると思う。
でも、幸せはシンプルで簡単だと思う。
小さなことに幸せを感じないと
頭がカタクなりどこにも幸せを感じられなくなる。
幸せはきっと筋力のようなもの。
小さな幸せでマッサージしておかないと
大きな幸せを持ちきれず、ギックリ腰になるんです。
小さな幸せを感じるトレーニングをすると
いろんなことに幸せを感じられるようになる。

「心を鍛える幸せストレッチ」
なんて本、出てないかしら。
でてたら、売れそう。
僕、買わないけど。

つまり、幸せという瞬間ではなく
幸せという状態を作るわけです。
それだけです。

僕はむかしからいつもいつも幸せです。
時々、つらくて泣いちゃうけど

追伸
日々成長する子供を抱えてギックリ腰になりました。
これも大きな幸せを持ちきれなかった例です。
ストレッチは重要ですよ。

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by radiodays_coma13 | 2009-10-17 07:21 | 考える
ポジティブシンキングは素晴らしい?
「ポジティブシンキング」が素晴らしい
「ポジティブシンキング」で収入10倍
「ポジティブシンキング」で彼女にモテた
「ポジティブシンキング」で毛が生えた

というもっぱらな世の中ですが

わたしはあえて
「ネガティブシンキング」をおすすめします。
それをしたところで特に失敗したことはないし、
むしろ、いいことのほうが多いのでそう言っているのであります。
でも、これで収入が増えたり、彼女にモテたりすることはない。
だから安心してください。

「ネガティブ」といって暗いわけではない。
「ポジティブ」をただ明るいと思うのもまちがいな気がするが
「ポジティブシンキング」ってなんだか、明るいことだけと言っているように思う。
つまり、雨がまったく降らないというのと同義。それじゃいつかは干上がってしまう。

  「ネガティブシンキング」=暗いではなく、雨が時々降るということ。

なんだかね、世の中の一面がすごく暗くて、
「ネガティブ」という言葉がすごく嫌なイメージを背負わされていますね。

自殺とか殺人とか。。。


それはネガティブじゃない。
そういうの嫌い。
おそらくね、彼らにしたってポジティブに生きる努力をしたかもしれない。
でも、ガマンしてガマンして、ポキンといってしまう。
もしかしたら、彼らは物事の一面しかみれていないんじゃないかと思えて仕方ならない。
ポキンといってしまわないために時々、いい具合にネガティブな気分に浸るのは健康にいいと思う。

「雨に濡れながらブランコに乗る」とかね。
十分、絶望的な感じですけど。。。
でも、やってみるんです。
すると、すーっと自分の中にやさしい暗黒が入り込んでくる。
目や耳を塞いで拒否していた世の中の事象に対し、暗闇に目が慣れるように見えてくる。
「恐怖」が消えてゆくんですね。
するといろんなことがまんざらでもないように思えてくる。

黒澤明のね「生きる」にでてくるワンシーン。
雪が降る公園でブランコにのって
癌宣告され余命わずかの初老の男が
「♪命短し~恋せよ乙女~」って歌うシーンがあるんですが。

あれ、いいですよね。
あれです。
・・・違うかな

これはポジティブシンキングの人には味わえない感覚です。

***

昔ね、遠足なんかに行ってクタクタになるまで歩いてまだ歩かなきゃならないって時に
後ろ向きに歩いたりしませんでした?
そしたらなんか疲れないんですね。不思議に。
「うしろむきにまえにあるく」
というのが時々人には必要なんじゃないかと思ったりします。

日本にはネガティブな感情を美学までに高めたものがある。
「わび」「さび」「かれ」である。
鬱な感情に対してそこはかとない情感を感じるというセンス
素晴らしいですね。
そうするとことで感情のパレットに色数が増えてくるんですね。

本来、ポジティブ、ネガティブと分ける感覚も
西洋的な二極の考え方ですね。
キリスト教的というか、始まりがあって終わりがある。
正解があってまちがいがある。
光と影みたいなね、考えだと
強烈な躁は強烈な鬱を生み出す。

ポジティブシンキングな世の中が一方でうつ病の人々を大量生産している気がしてならない。
(一応警鐘のつもりです。)

でも、日本はね、「曇りの文化」なんです。
中間色というか、パステルトーン、そういう色味が非常に多い
ここまで微細な灰色の色名をたくさんもつ国は珍しいです。
利休鼠、納戸鼠、藍鼠、鳩羽鼠、根岸、滅紫、エトセトラ
ほんとうに美しい、色の表現があるんです。

日本の文化では善も悪もハッキリ分けないんですね。
その中間を尊ぶというか。

今は亡き偉大な心理学者河合隼雄さんが「中空構造日本の深層」という本を書いています。
日本は中間に大きな空洞を作り出す。その周りを善とか悪とかがあると、そんな構造です。そうだから、善と悪が時に入れ替わる。入れ替わりうる。こんなことは西洋ではありえない。
でも、日本は空洞があるためにそれが可能なのだと。


その例は枚挙に暇がないくらいある。
卑近な例から
・ゴジラ
・ドラゴンボールのピッコロ
・筋肉マンのバッファローマン
昔話なら
・鼠小僧
・石川五右衛門

この大元は
アマテラスオオミカミとスサノオの関係かもしれない。
でも、実はほとんど無名なのだけどこの二人の兄弟にはもう一人の兄弟が存在する。
「ツクヨミ」
三人兄弟のうちの一人、その他の二人については、もう様々な伝説があるのに
ツクヨミについてはほとんど語られない。
それは意図的に語られていないのだと、河合さんは言っている。
つまり、このツクヨミこそが中空の存在なのだと。
この中空を心の中に持つことで、柔軟な心をもつことができる。


そういうわけだ。

日本人ほど鬱気質な民族もない。

でも、日本人はそれを中空の精神を持つことで、心にゆとりを持ち、文化にまで仕上げた。

「最近の自殺増加傾向は無理な精神的西洋化の弊害ではないだろうか」と推理してみる。

「善は善だ!悪は悪だ!」という中で、割り切れない自分の心がある。無理に切り捨てた悪はやがて巨大になり、突然、心を突き破って飛び出してくる。そんなことだってある。

自分の心の中にある悪もやさしく包み込むことができれば、それは結果的に良く働くこともある。

悪い神のシンボル「スサノオ」が「アマテラス」の嫌がらせに、天空を舞いとび、「うんこ」を世界中にまきちらしたことがあるが、それが実りとなり、世界に五穀豊穣がもたらされたというエピソードがある。


ビビットな悪いニュースの多いこの頃であるが、
ビビットになるまえに多少の悪事を許す社会もまた必要な気がしてならない。

すねるとか、いじけるとか、かんしゃくをおこすとか、いじわるをするとか
おとなげないとか言っちゃダメです。
それに付き合ってくれる人が必要なんです。

例えば、僕は昨日、和菓子を食べにいったついでに護国寺におまいりしてきたのですが
他人の脱いだ靴を左右いれかえてきました。

そういう悪はゆるされるべきなのです!多分。

その人は、無理に間違えたまま靴を履こうとして、何度も首を傾げていました。
なかなか気付かないもんなんですねぇ。やっと左右逆と気付いたときにひらめいた!みたいな顔で嬉しそうに微笑んでいました。

なんだかいいことをしてしまいました・・・。

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by radiodays_coma13 | 2008-07-16 08:41 | 考える
アートは可能か?
「アートは可能か?」

同じような問いかけが、戦後、現代詩といわれるものが難解化し退廃してゆく過程で吉本隆明氏らを中心としてなされたことがある。
なんて意味のない問いかけなんだろうと思ったことがあるが、この状況で今思うと「結果として不可能だったんだな」というオチを感じる。
ハハハ。。。笑えない。

しかし、それはYES/NO如何ではなく、解体するところからはじめて現状の危機という部分に触れるには意味があると言わざるをえない。だいたい、こんな問いが出たこと自体、詩の、もとい「現代詩」の危機だったんだなと思う。

つまり「我が社の存在は可能か?」という問いが出たのと同義なのよね。

で、今「アートは可能か?」と問わざるを得ない状況が目の前にある。
これに関して、きちんと自分で考える時間を作らねばと思ってきた。

ミュージシャンをアーティスト、イラストレーターもアーティスト、パティシエもアーティスト。なんでもかんでもアートと表現することが多いというのは誰も認識していることだと思うが
最近こんな問いかけを耳にする
「ゲームはアートだ」

これは末期症状だな



***


では、
「アート」とは何か?

アートとはもともとラテン語の「アルス(ars)」という「技術」という意味を持った言葉である。しかし、ここで言われているアートはその意味とは違うものを背負わされていることがハッキリと見てとれる。

例えば、なにか人知を超えた可能性というか、神秘主義的な響きが多分に感じられる。
人はわからないものをして「アートっぽい」ということがある。
わからなくても「アート」であることでなんでも許されちゃう一面まで持っている。

つまりアートという言葉は「免罪符」なのだ。

アートであることである批判を免れることができる。アウトサイダーもイリーガルな存在もアートと名乗れば誰もそれを簡単に断罪したりできない。

社会から批判や疑問符を投げかけられると、決まってアーティストと呼ばれる人たちは声を揃えてこう言う。
「アートですから」

しかし、個人の考えですと断っておきますが
すべての音楽がアートだとは思わない。
すべての絵画がアートだとは思えない。
そして、すべての詩や映画がアートである必要性がどこにあるのか?
ましてやゲームがアートだなんてなんのメリットが?





ひとつある。




ゲームはアートであることで、批判を免れるのだ。
ゲームは今までも批判の的だった。「ゲーム脳」しかり「暴力の温床」しかり。
しかし、あえて、「ゲームはアートですから」ということで音楽同様、社会からの批判を免れえる。

本来、おそらくアートの難解さは「現状の認識に問いかけを投げる」という至上命題から始まっている。現状の認識から異なるゆえに、「今、知っていること」や、「今もっているものの見方」では捉えることができない。しかし、決して、わからないことがアートではない。わからないで済ましてしまってはアートの存在意義はない。

アートとはそのわからないものに接して変化する人の精神状態のことを言うわけで、モノではなく現象と言い換えた方がいいだろう。それを喚起しない作品は「アート」と呼ぶにはふさわしくない。

そもそも「アート」たらんとする鼻持ちならないアートがなんと多いことか。その時点で、すでにその作品はアートであることをやめていると言えないだろうか。「わからないもの」というラベルが貼られた時点で、それは人に問いかけたりしない。

それはアートっぽいという雰囲気であって、香水みたいなものだ。いつも度を越して臭い。
アート臭い。

アート体験って、ちょうど映画「SAW」の極限の状態で密室に閉じ込められた二人に近い。目が覚めると、相手と自分。食うか食われるか。生死に関わる出来事。極限といっても予定調和のジェットコースターとはワケが違う。その衝撃こそアートに最も近い。


***


ゲームに話を戻す。
ゲームはそれが取り巻く環境を含め「カルチャー」ということはできるだろう。
しかし、アートといった時点で、ゲームが失う大きなモノがある。

それは「娯楽」という使命である。

「わからなくていい」は「わかってもらえない」という気持ちの裏返しでしかない。アートということで一般の評価から逃れることができるのだ。しかし、我々、プロの製作者はわかってもらえなくては通用しないのだ。

絶対に楽しませなきゃいけない。

「ピアニストを撃て」という映画があったが、ピアニストも戦いの弾の当たる場所にいなければ存在意義がないようにゲーム製作者も娯楽という立ち位置から離れたらその存在意義を失う。そのお立ち台に立てたものだけがパブリックな発言を許される。まずプロであること、人々からお金をもらってはばからないものをつくり、批判もうけいれること。その上なされた発言が意味をもつのではなのだろうか


じゃあ、人が個人で作る作品はどうなんですか?と批判されるかもしれない。
「それは娯楽でいいじゃないか」

なぜアートである必要性があるのか。
癒されるのもOK、そのことでいろいろ考えられるのもOK。だとしたら立派な娯楽じゃないかと思う。結果として、そこに人々を感動させうる作品が生まれることもあるだろう。それは結果アートだっただけだと思う。

「アートをしよう」「アートであろう」という発想から実は真に意味のあるものは何も生まれない。アートである前にまず「娯楽」であること。娯楽でないということはその力量がないということ。それしか作れないものに、どんなパンチが繰り出せるというのか。全てのつまらないアーティストを差別し糾弾すればいい。そして、それに対して彼らは戦う必要がある。それに対抗するだけの力が彼らには必要なはずだ。

彼らにアートという免罪符を渡してはならない。それがいやなら、思い存分、自分ひとりの世界にひとりで浸ればいい。

「アートが可能か?」という問いに対して、「アートは可能だ」というテーブルに立ってはならない。アートは人に突きつけられた疑問符と言い換えることができる。それは最も暴力に近い。だとしたら許された暴力は国家の暴力と等しい。国家の暴力は歴史の中で常に悲しい結果を招いてきた。そんな暴力を許してはならない。
つまり
アートは可能であってはならない。
そして、可能であってはならないところで可能になるべく起こる運動である。


そして、卑近な例でまとめれば、ゲームはつねに時代の矢面に立たされなければならない。どんな批判にも甘んじて耐えなければならない。「ゲーム脳」しかり「暴力の温床」という批判にも。そして、それに対して、「ではどうすればゲーム脳にならないか」その答えをゲームで表現すればいいだけのこと。

アートと言った時点で、やるべきことはなにもかも失われてしまう。
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by radiodays_coma13 | 2008-03-10 01:21 | 考える
著作権という武器
ものをつくるというのは
自由なようでいて自由ではない。
むしろ一番、自由じゃない職業じゃないかと思う。

好き勝手につくるということはおそらく誰にでもできるだろう。
でも、それで食べてゆくというのは尋常じゃない。

社会のルール文化人の嗜好
誰にみてもらいたいのか何を伝えたいのか
そしてセオリースキル会社の都合

こういうものに縛られて、本当に考えて良いものをつくろうとすると
その中にあって自由であるということがいかに難しいか。

「作りたいものをつくって、それで売れればいい」


「アーティスト」や「クリエイター」と言われる人によく会う機会があるが
よくそういう話をきく。
しかし、それができる人は本当に一握りのラッキーな人だ。
それに成功している人に会うと、その意思の強さは普通じゃない。
ああ、この人ならそれができるんだなと納得させられる。

僕のようなのは、日々、会社の都合や、社会のルールにおびえてものつくりをしている。

いざ、それで飯を食おうとすると、社会のルールや会社の都合は、憑依霊のようにかぶさってきて、自分が何を作りたいのかさえ忘れさせてしまう。


***


今日の話題はその中でもやっかいな社会のルールである
「著作件」の話。
ものつくるというこはこの著作権との戦いと言っても過言ではない。
まともに向き合うとなかなかやっかいな敵だ。
僕は今までたくさんの著作物を世に送り出してきた
しかし、自分が作り出したものがなぜか自分の自由にはならない。


僕は前に自分のいた会社に
訴えられました。

こんなに悲しいことってあんまりないですね。

1.僕のデザインのテイストが、
2.僕のイラストのテイストが、
3.僕のゲームのロジックが
4.僕の企画が、
5.僕のアイデアが
僕のものではなくなるのです。

明日から、他人なのです。それを使ったら訴えられるんです。
まあ、そういう契約なので言われても仕方ないのですが、
極端な言い方をすると、明日から僕は仕事できなくなるのです。
自分の真似をしただけでも、違法なのです。


まあ、結論を言うと、強力なバリアーと地雷を仕掛け
先方が手出しをできなくしましたが。
こんなこともあろうかと、事前に弁護士弁理士に相談していたのです。

(しかし、むしろ前の会社に著作意識を植え付けたのは僕自身なんです。
つまり、猿に持たせた武器にやられた愚かな人類のようになっています。)

もし、これからものつくりになろうという人がいたら是非、
しんどいですけど、著作権周りだけでよいので、勉強してみてください。
わたし達は自衛をするべきなんです。
じゃないと、法人にむりしとられます。
本来、著作権は個人を守るための法律で、それがビジネスの名の下
歪められるのは非常に理不尽なことです。


著作権のせいで今まで作ったものが配信できなくなったり
著作権のせいで、自由にものつくりができなくなったり
先につくったのに登録がおくれて、誰かに権利を盗られてしまったり
こんな著作権は本当に必要なのでしょうか?

著作権に関しては以前にも書いたことがあるのですが
それでも僕は著作権否定派ではありません。
著作権がわたし達を決して不自由にすることがあってはならないと考えています。

盲点は一創作者が著作権まで勉強しないということです。
その裏をかかれて会社単位にむしられるのです。
自衛することで我々は予想以上に大きな見返りを受けることが出来ます。
法人を逆に利用することもできます。

本当に価値のあるものは作られたものそのものだからです。
それこそが価値なのです。
ビジネスはそれを利用するだけです。
なにもないところから作れるということは本当に素晴らしいことです。
これさえあれば、わたし達はつくらない人に比べると
強烈な武器を手にしていることになります。
その価値に気付いて、それを利用すれば
ものつくりはもっと豊かになるはずです。

著作権こそは我々をそこから守る手段なのだと思います。
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by radiodays_coma13 | 2008-02-23 23:59 | 考える
ピンチはチャンス
なんの思し召しか会社を立ち上げて
前の会社にいるときよりも20倍ほど忙しくなった。
ただ、時間的に忙しいというのではない。
仕事量的に20倍なのだ。

前の会社にいた時は4人のチームで一週間に2本の新作ゲームを製作していた。
これだけでも、他の会社に比べたら平均以上の業務内容なんだけど
現在、4人のチームで一ヶ月に200本のゲームの依頼が入っている。

ん?20倍じゃなかった・・・。
40倍だわ。

胸を張ってもいい。おそらく日本一の生産効率だと思う。
これは嘘ではない。
もちろん、どうやって作っているかは、企業秘密
知りたい人はうちの会社に入ってください。※求人募集中!

質を落としているわけではありません
大手のゲーム会社からもアイデアクオリティを評価してもらったもーん。

最初はまず無理だと思った。
価格を下げれば売れますなんて誰でも思いつくことだ。
そんなこと簡単に言われてもと思ったのだけど
自分を追い込んでみようと思った。
そしたら何か産まれるかも。
ギリギリのところに自分を追いやれば、
スーパーサイヤ人みたいに変身できるかも

前の会社にいた時も半年かけて一人でゲームサイトを立ち上げた。
その時もきっかけはピンチだった。

つまり
ピンチはチャンスなのだ。

カッコイイ!

それをしなきゃ、なにもかもダメになってしまうというところに自分を追い込む。
逃げない。
すると普段使っていない部分の頭が動き出す。
これはもう僕の力ではないと思う。
僕はそのアイデアと技術がでてくるのを見守るだけ。
たまに「ほほぉ」なんて自分で感心しながら。


ピンチは楽しい。



僕はスポーツを見るのはそんなに好きじゃないが、
ピンチに立たされている人の顔をみるのが大好き。
九階裏二死満塁とかそんな時のピッチャーの顔。
「彼は今、どんな気持ちなんだろう。」

そんなことを思うと自分の心臓も高鳴ってくる。

***

僕の中でのピンチを連想する時の定番のイメージがある。
僕はよくそれを人になぞなぞで出してみる。
その答えが面白い人はたいてい仕事ができる人だ。

広い砂漠の中でオオカミにばったり出会う、あなたはヒツジ。
出会い頭、あなたはオオカミとじゃんけんをする
「じゃんけんぽん!」
あなたはパー、オオカミはチョキ
・・・沈黙


さて、あなたはどうする?

僕はこれを最初は夢でみて、うなされて
毎度毎度みるようになった。
最初はあたまからガツガツ食べられた。

僕もこんな夢を何度もみてはたまらないので、
よく考えて次はこうしようと思い夢に挑んだ

①走って逃げた、すぐに追いつかれた

②次の時には
「すいません命だけは・・・」
容赦なく食べられた

③その次
戦ってみた
・・・戦うまでもなかった

④その次
「ちょっとまって話し合おう」
驚いたことにオオカミははなし合いに応じる構えだった
「友達になろう」
「無理」と言って食べられた

⑤その次
「やったー俺の勝ち!」と言ってだました
オオカミはたじろいだ。
「なんで?」
「なんでも」
黙って食べられた。

⑥その次、そしてこれがこの夢をみた最後
「次は何して遊ぶ?」
オオカミは僕を食べなかった。

そう、別にこれは戦いではなかったのだ。
そもそもジャンケン。相手も同じルールの上に立っている。
これはゲームなんだから。ルールは変えたり作ることができる。


僕の尊敬する仕事の先輩にそのなぞなぞをだしたら

「ああ、残念、じゃあ、僕がオニ、君が逃げて、捕まえたら食べるよ」

と答えた。

さすが!
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by radiodays_coma13 | 2008-02-20 22:45 | 考える
著作権の所在
yahoo!ニュース「しんちゃん中国で販売できず」というのを見た。


中国でも大人気の日本アニメ「クレヨンしんちゃん」 。なんでも、先に中国の業者が「クレヨンしんちゃん」のグッズ販売の商標を登録しており、本家、双葉社が中国でクレヨンしんちゃんのグッズを販売できない事態に陥っているらしい。


同じようなことが、韓国でもあった。機動戦士ガンダムを名乗る玩具が不法に販売されていたのを差し押さえるためにバンダイが韓国で裁判を起こしたところまさかの敗訴。


「ガンダムとはロボットの総称である」 (笑)


それから、すごい海賊DVDを見たことがある。非常に悪い画質。色がぬけている。風呂の中のような音質。よくみると、画面下に人の頭、頭、頭!なんとそれは映画館のスクリーンをそのままホームビデオで撮影しているのだ。

すげぇワイルド!


これ以外にもアジアでの、偽ブランド、海賊版DVD植物の遺伝子コピーなど著作や商標侵害をいちいち列挙していると21世紀が終わってしまう。


◆   ◆   ◆


それらの国を批判するつもりはない。もともとそういう文化なのだ。そういう行為に対して悪びれる様子は特にない。野球とボクシングの違いくらいに文化のルールが違う。自分達のルールでは公平なジャッジなど到底できない。


しかーし!自分もデザイナーの構成要素として、著作を生み出すものつくりの端くれとして、著作権にはいろいろと思うところがある。


古臭いじじぃみたいなことを言えば
  「最近の若いものつくりは
   著作権を知らなさ過ぎるんでぇ!」
と遠慮がちに思っている次第。


ものつくりとして社会的に公平で適正なものを提出するのは義務であると思っている。しかし、これって実はなかなか難しい。


ふとしたことで、著作権や商標を侵害していることがあり、不適正な表現であったりする。いくら気をつけても、気が付いたら白線を越えていることがあるのだ。


長い間ものつくりをしていると、その白線をたくさん越えてしまうことになる。時には、痛い目にあったりして…。というわけで気が付くと、僕は会社一著作権にうるさい男になってしまった。


中には僕を著作権協会の回し者のようにおそれる者もいる。
「あの人にこの商品の広告の話をしたら、潰されてしまう」
とまで…。


◆   ◆   ◆


ある雑誌で一年間、表紙を飾らせてもらった時のこと。

全国の書店に置いてあるもののかなりアングラな雑誌で、なにか、話題になることをしたかったというのもあった。僕は「著作権」をテーマにぎりぎりの綱渡りをすることにした。しかし、そこで、僕は著作権侵害を犯してしまった。


下がその時の、一連の表紙の一部。

さて、問題です。

Q:この中で著作権を侵害しているものがあります。
どれでしょう?
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まっこうから著作権と向き合ったつもりでしたが、盲点がありました。写真に対して発生する二次著作権の問題でした。被写体に関しては完全無欠のつもりでいたのですが、その写真をとった人に二次著作があるとは知りませんでした。


危ないので答えは言いませんが、この中で、一枚だけ、僕が撮っていない写真があります。幸いにも、全ての写真が一部分であることで、誰が撮った写真であるかを判別することは困難です。


(ただ、もし、この写真は私が撮りました。という人がありましたら、僕まで連絡ください。それ相応の適正な謝礼はさせていただきます。)

・著作物はそれを使用してもただちに著作権侵害で罰せられるわけではありません。その侵害された当事者が訴えを起こす必要があります。

・その上で交渉し、侵害した側がそれに応じなければ、そこで始めて、法的な行使が出来るわけです。



◆   ◆   ◆


ものつくりは日々、著作物を世に送り出すのが仕事なので、その人が著作権に対してどう思うかは別として、きちんと知っておくべきだと僕は思うのです。


それを踏まえた上で発言させていただきます。
中国や韓国の例のように悪意ある著作権侵害に対しては、断固として意義を唱えますが、僕自身は実は、著作に対して
「非常に懐疑的」
であるということです。


最初の例を考えても分かるように、著作権は非常に曖昧で、各国で異なる法律をもち、法律があったとしても、日々変化し、それはデジタル時代の今日、輪郭がハッキリしません。著作をきちんとしたければ、膨大な資料から似た判例がないか、探すハメになります。それはまさにイタチごっこ。


それゆえに、企業は著作権に対して過剰になります。具体的な事例を出せば企業を敵に回すことになりそうなので避けますが、それらの著作のせいで、ものつくりにとって破滅的に不自由な環境が生まれるのも確かな話しです。


そこでは法律で謳われている「創作した人の知的財産を守る」ことではなく「企業の利益追求」が優先されている現実があります。

どこにでもある意匠やゲームのルールに著作権を与えるくせに、新しいパズルゲームのルールやある種のフォント、プログラムにはきちんとした著作権が付与できない。


  それはとうに個人の力の
  及ぶところではないのねん。


デジタル時代。
きっと近い未来、著作ということをもう一度、根底から考え直さなければならない時がやってくるはずです。そうしないと、全てのストーリーや全ての形、全てのメロディ、なにもかも著作権でがんじがらめになり、ものつくりはなにもできなくなるでしょう。


しかも、デジタルは完全なコピーを可能にしてしまった。


僕個人の意見。
「もし、真似たいのならマネればいい。」
それよりももっといいものを作ってくれるのなら、どうぞどうぞと言いたい。ゲームのプログラム等を作っていると、それが誰かに盗まれると気が気ではないが、よく考えれば、そんなものスキルのある人からしてみれば簡単にそれを凌駕できる作品ができるのだから。


ユーザーが欲しいのはより価値あるサービスなのだ
「著作権云々、そんなの知ったこちゃあない、そんなことより、さらにいいものを作れ!」
というのが本音だよね。


そして、これが僕の希望的観測。
モノそのものに価値があった時代には著作も有効だったが、そんな時代は終わった。これからはコミュニケーションにこそ価値がでる時代。その商品を取り巻く全ての条件が本当の価値なのだと誰もが理解できるようになると信じている。その時、コピーにはなんの意味もなくなる。


そして、一歩進んで、企業が作り出す価値というものもうそ臭くなるだろう。最終的には人と人との愛あるコミュニケーションだけが残る。


昔話に作家も著作権も存在しない、それは人と人との関係の中で再構築されるものだ。僕は僕の子供に僕と彼だけの「浦島太郎」を語ると思う。



一体、誰なんだ、みんなものもに自分の名前をつけるバカ者は。そして、それを奪い合うそれ以上のバカ者
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by radiodays_coma13 | 2006-10-02 02:37 | 考える
「炎上」にみるネット的発言
ネットには「炎上」という言葉がある。僕は2ちゃんねらーでもないし、ネッター?でもないので、詳しくはないのだが、ある発言に対して、批判や反感が殺到する状態をいうのだと認識している。


「炎上」ときくと駆けつけないではおれない。昔から火事ときくと自転車漕いで駆けつける祭りと火事が好きな江戸っ子的野次馬である。(江戸っ子じゃないけどね)


アフリカのサバンナでライオンにやられているシマウマを他のシマウマが輪になって見物するそうだ。それはいつ自分も食べられる側になるかもしれない環境での、精神的な予行演習ともいえる。



「メメント・モリ」死を思え。




炎上するのは有名人とは限らない。
先日も(mixiだったとおもう。)ある疾患をもった人への誹謗を書いた一大学生の日記が炎上し、その関係機関を巻き込んだ大惨事に発展した。


僕は気弱だし、とくに政治的な主張も持ち得ないので、そういった炎上発言に対してどうこういうつもりはまったくない。ただ、その現象を生み出す、世間の目や常識というものに対してものすごく恐怖を感じている。


いつ、自分が餌食になるのだろう。。。


もしかしたら、一般常識を持ちえている人にとっては、そのルールはたやすいハードルなのかもしれぬ。しかし、僕にはよくわからない。まったくもって…。


阪神大震災の時のこと、僕は駅でパニックになる人々を目撃したことがある。動かない電車に向かって暴走する人と、駅の外に出ようとする人、そのエネルギーが狭い構内で激突して、パニックは起こった。僕は死を予感した。


ネットだけは異文化、多言語の多種多様な発言が許される場であると思っていた。また、それが、インターネットの有意義な面であると。しかし、実はインターネットは、人知を超えた、ひとつの大きな意思を作り出す環境でもあるのだ。


何百、何千の鳥や魚、蟻の群れがひとつの生命体のように見え、そのように振舞うことがある。しかし、人間は、各自に意識や思想を持ち、そんなことは起こりえないというイメージがある。しかし、それは単なるイメージだ。


様々な思想や文化があるようでも、人間が3名以上あつまると、そこには共鳴現象がおこる。簡単な例でいうと、1000人を超すようなイベントでも、ひとつの拍手は簡単に共鳴する。
問題なのは、共鳴しないでいることが難しいという点だ。


インターネットでも一見、自由な発言をしていると思っていても、自ら、多数の意見に共鳴してしまうということが起こる。そして、その巨大なエネルギーが誰かに向けられたとき、そこに暴力の起こりうる可能性がある。


僕はそれが自分に向けられることを恐怖する。おそらくおとなしく生きていれば、向けられることはないかもしれない。しかし、それは恐怖症なのだ。高所恐怖症や、先端恐怖症のような群集恐怖症。


悲しいことに、僕は人前に立つことがある。一対一では、元気に明るく、ハイテンションで接していても、5人を越えたあたりで、僕には彼らが個人ではなく、ひとつの生命体のように見えることがある。


もし、万が一、自分が誤った発言をするのではないかと思うと、もう、怖くて頭が真っ白になる。個々は親しい人々であっても、群れると、猛獣のように見えてくる。


皆は本当に怖くないのだろうか?
自分が間違った発言をしない自信があるのだろうか。僕にはちっともない。良識をもった人のように振舞う努力を日夜している。でも、きっと間違えている。間違えて舞台の上でギロチンにかけられる夢をみる。


だから、僕は道徳の勉強をおこたらない。それが僕がとても勤勉なことの理由。ギロチンにかけられちゃかなわない。


でも、ひとつだけ、わからないことがある。なぜ、どうして、僕はわざわざ舞台に立つのだろう…。僕は舞台に立った次の日、確実に熱を出す。二~三日は夢でうなされる。舞台に立った瞬間、恐怖にすくむ。僕はきっと、絶対に確実にマゾだ。



バカだろ、お前。



でも、そんな自分が愛おしい。高所恐怖症で、閉所恐怖症で、暗所恐怖症で、広場恐怖症で、先端恐怖症で、群集恐怖症な自分が。「よくぞ、自分!」といいたくなる。高いとこも狭いとこも、暗いとこも広いとこも尖ったものも、みんなのも前もものすごく怖いのにものすごく大好き。大好きなのに、怖い。



バカだろ、お前。


「間違えてみる」


僕の最も好きな行動です。間違えて落ちる。間違えて閉じ込められる。間違えて刺さる。間違えて炎上する。正しいことは確かにあるのかもしれない。でも、間違えてみる勇気と、心の余裕は失いたくないね。


僕が最も恐怖し、嫌うのは「正しさ」という暴力です。その力の前で人は全くの無力です。ただ、ひとつの正しさというのはひとつの群れに過ぎないのでしょう。それが一国単位にもなると簡単に戦争に発展したりする。


それが怖いのです。群れには間違えるバカも必要なんです。きっときっと。それが生命の多様性の意味だと一人納得しております。


「平気でうそをつく人たち」を著したM.Scott Peckは、群集の中に潜む本当の悪を解剖し、悪を科学しようとする勇気ある精神科医です。そして、最後に彼のメッセージです。


「自らの中にある正義の目は監獄に似ている。その暗闇の中でもっと邪悪なものが芽生える」

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by radiodays_coma13 | 2006-09-11 02:34 | 考える
Tシャツ文化の可能性
染色を生業にしていた頃がある。自然の植物から繊維を取り出し、糸を紡ぎ、ハタを織る。そうやって気が遠くなる手間をかけてできた生地を自然の植物から取り出した染料で染める。


繊維から、染料、触媒まで、全ての素材を野山に行って自分達で調達する。そうやって時間をかけてこしらえた布はある意味で、現代という時代からは逆行しているように思える。


こんなスピードの時代、値段は高いし、どこにでも売っていないし、洗濯機で洗えないような草木染。でも、なぜか商品は結構飛ぶように売れた。


一方で、安価で一人一人にカスタマイズされたデザイン、丈夫で長持ちのTシャツはどこにいっても簡単に手に入る。Tシャツだけを売るインディーズショップを最近街中でよくみかける。


この二つはまるで違っているように見える。しかし、これらのものを人が欲する理由にはかなり共通したところがある。それはなにか。


モノがなかった時代、人々は衣食住の必需品を手に入れることで精一杯だった。でも、それらが満たされた我々は「どんなものを手に入れるか」ということに頭を痛めるようになった。


流通も不確かな時代、農民は農民の身なりをしていた。坊さんは坊さんの格好をし、与太は与太、商人は商人のユニフォームを着ていた。それしか手段はなかった。スタイルはそのまま、その人の人とナリを伝えていた。


しかし、今、そんなに無理をしなくてもどんなものでも手に入る時代。モノはあらかじめ行き渡り、価値観もなにもかもお金で買える時代になった。昔のように一見しただけで、その人の経済状況や職業を判断するのは難しくなった。


価値観があらかじめ壊れて、平たくなったこの現代を、ある美術評論家は「スーパーフラット」と表現する。しかし、だからこそ、今、自分の価値観を表現することが意味を持つ時代である。


人はブランドに身を固め、好みの音楽に合わせてスタイルを変え、しゃべり方や性格までカスタマイズする。自分自身を着替える時代がやって来たのだ。


モノはただ良いだけでは売れなくなった。「それがなにと繋がっているか」をハッキリしないと誰も買わなくなってしまったのだ。誰のために?このメッセージを忘れると、買ってもらえない。


「人はもう商品を買わなくなった」と言われる。では、何を買っているのか?わたし達は「関係」を買っているのだ。


現代における染色とTシャツが同じ意味を持つのはココです。つまり、何に繋がろうとしたのか、ということ。


草木染はナチュラルやエコロジー、地球に優しい自分に繋がりたくて、購入する。Tシャツはいわば自由ノート。セックスピストルズが好きだったら、破れた服を着なくても、ピストルズと書いてあれば、それでいい。Tシャツに森の絵を書けば、メッセージとしては草木染と同じになるわけです。


もちろん、草木染めはまったく別物です。風合や肌触り、機能性もTシャツとは全く異なります。これは喩えです。でも誰もが草木染を買えるわけではありません。


今の日本人にとっては、自分が何と繋がっているのかというメッセージの方がより大きな意味を持つということです。そういう意味でTシャツはものすごく現代的です。もうメッセージボードそのものです。衣服以上の意味を持っている。いや、衣服の意味の部分だけを抽出したような存在とも言えます。


きっと、今後、Tシャツはもっと大きな文化をつくっていくと思う。もっとメッセージを自由にカスタマイズできるようになり、個人のメッセージだけでなく、団体のメッセージやピクトグラムのような意味を持つサインとして。自分のメッセージを発信するだけではなく、メッセージを交換したり、自分自身へのメッセージとしても発信する。衣服という存在を超えて新たな意味を持つかもしれません。


それは新しいメディアとなって、情報を発信していく場になっていくでしょう。例えば、自分の絵や詩をTシャツにして、街で出会ったらサッカーの試合終了後みたいに、お互いにTシャツを交換したりできたら、本当に素敵だなぁ。



素敵と思った人は
「詩人類T-shouts!」
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by radiodays_coma13 | 2006-09-05 23:57 | 考える
妊婦の裸はエロか?
「ハーパース・バザー」10月号の表紙にブリトニースピアーズさんのヌードが使われている。ヌードと言ってもただのヌードではない。妊婦ヌードなのだ。そして、このヌードをめぐってちょっとした論争が起こっている。


表参道の駅の構内に、雑誌の表紙を引き伸ばしたパネルを張ろうとしたが、それをメトロ側が「待った!」をかけた。雑誌サイドはこれに抗議。話合ったが、取り合ってもらえず、ヌードのお腹の部分に黒いシールを貼り、この顛末を謝罪する形に。しかし、それがTVなどで取り上げられ一転、メトロはそのままの展示を許可したという次第。


うちにもちょうど妊婦が一人いる。


二人いられても困るが、一人いるのもそれはそれでなかなか戸惑う。妊婦がいる空間と言うのはちょっと不思議なものです。家には二人しか姿は見えないのだけれど、そこには確実に、もうひとつの生命が存在していて、時々、その存在を主張してくる。


ぷくぷくに膨れたお腹が内側から、ぐんにゅりとつきあげるのをみると、ひとつの膜を隔てて、あちらの世界とこちらの世界と交信しているような気がする。「もしもーし」と言うと、それに反応するように、とっつとっつと向こうから返事が返ってくる。


  彼はいったいどこからやって来たのか?


僕もいつかあちらの世界にいた。そして、ある日、母親という門をくぐってこちらの世界にやって来た。そう思うと、母親という存在が、自分の恋人という存在を超えてもっと神秘的ななにかに思える。しかも、おっぱいは子供のために日に日に大きくなり、スペシャルフードの生産ラインを整えている。


おっぱいが出始めるタイミングは、子供と一緒に、胎盤が出てきて、それが体から離れると、それをスイッチのようにして、放出を始めるらしい。ますます母親は不思議です。もう、奥さんが自分のための奥さんではなく、子供のための存在に思えてくる。


さて、妊婦はエロかという問い。これは奥さんの手前「ハイ、とってもエロいです」と言わなきゃな気もするのですが、申し訳ないですが無理です。それはすっかりエロを超えてしまっています。


「やはり、妊婦を性の対象にする男性も存在し、刺激が強く、立ち止まって事故でもおきたら大変だ。それに、ヌードをみたくない自由もあるはず」



そんなコメントをコメンテーターがしているのをみました。確かに妊婦マニアは存在するでしょう。しかし、です。そんなことをいちいち言っていたら、マッチョマニアの人はどうするのでしょう。筋肉ヌードなんて、普通に街中で見かけます。それこそ立ち止まって事故でもおきたらどうするのでしょう。


世の中にはいろいろなフェチやマニアが存在します。中にはモノにその視線が向けられます。そして、僕がその哀れな「文字フェチ」です。優れたタイプグラフィに性的興奮を覚えます。僕のおちんちんは故障しているのでしょうか?立ち止まって人に迷惑がられることもしばしです。そんな僕のためにメトロは全てのポスターを撤去してくれるのでしょうか?


キリがないのよ!


世の中はカスタマイズの時代。それぞれの嗜好にそれぞれの性。今までのような多数決のビジネスは通用しなくなってきている。そんなことで、一人一人の「みたくない自由」を採用し、尊厳していたら、なにも公表できなくなっちゃうよね。


そして、メトロもメトロなら、ハーパーズ・バザー側の対応がもっとひどい。お腹に黒い紙を貼り付けて、「メトロのせいで、美しい未来の母の姿を一部隠していることをお詫びいたします。」みたいな謝罪文を書きつけた。


でもね、あなたたちは隠してまで、公表することで、美しいはずの妊婦の姿を誰よりも穢しているのだ、と言いたい。


美談めかして、結局、買え買え広告じゃないか。今回の件で一番、しめしめと思っているのは出版社だろうね。この問題を武器に、雑誌を世間に取り上げさせた根性が気にくわねぇ。妊婦の体を隠してまで公表した醜いパネルこそ「みたくない自由」に該当させて欲しかった。


  「もう、隠した時点で、妊婦をエロと認めてしまった社会があるのだから
  どちらにしても彼らの敗北だ。」


隠すことはエロスなのだ。ブラジャーやパンティー、あのフリフリ。なぜ、隠すための道具に飾りつけがしてあるのか?それは隠すのではなく強調するためだから。


例えば、ある裸族の話。彼らはほとんど裸で、女性は陰毛も臀部をあらわにしているが、腰に紐をつけている。しかし、なにかの拍子でその紐が落ちれば、彼女は顔を真っ赤にして恥ずかしがる。そういうことがある。つまり、「強調している付近がエロスな場所ですよ」とわけなのだ。


これは世界中に共通で、その時代、その文化ごとのエロスを感じる場所を強調する。近代のヨーロッパは猫足家具と呼ばれる机や椅子にレースの靴下を履かせた。映画「ピアノレッスン」でも、女性の靴下の穴から見える足に男性が興奮するシーンがある。つまり、足に強く性的な意味がこめられていた時代があった。


隠すことで触発されるエロスもある。隠されると余計にみたくなるというのがそれだ。逆に隠すことで強調したエロスの文化は実は隠されるとみたくなるという本能に裏打ちされて、発生したのではないかと推察できる。だから、エロスの場所を隠すという文化が世界共通のものとなりえる。


ということは、隠したことにより見えてしまう意味は「ここがエロスの場所ですよ~」というメッセージなのだ。図らずもそのメッセージを発生させた「ハーパース・バザー」の罪は重い。そのパネルは「皆さん、ごらんなさい、妊婦はえろいですよ!」と公言しているようなものなのだ。むしろ立ち止まって事故になる確率は上がったかもしれない。


彼らに、その駅での広告を諦める強さと正しさがほしかった。自分達の雑誌が売れればそれでよいという醜いエゴに付き合わされたこちらはたまらない。そのことを主張することで、妊婦はエロではないという主張は逆効果だった。


妊婦はエロいなんて思わなかった人が、今後、意識してしまうハメになる。女子高生がメディアによって湾曲させられ、マニアが増殖させられたように、どこかの街中の「妊婦大好きっ子倶楽部」の経営者は今頃、ウハウハな気持ちになっているに違いない。


悲しいかな、この報道後、「妊婦の裸はエロ」と社会の風潮は傾くかもしれない。通りすがりの妊婦にいやらしい目を注ぐ男性が増え、女子高生の援助交際が流行り病のように蔓延したように、「妊婦キャバクラ」が殖え「妊婦コスプレ」が流行り「萌え~」の代わりに「産まれる~」が流行ったりするのだ、きっと。


もう一度。妊婦はいやらしいか?本当の答えはね。妊娠をさせたやつが一番いやらしいんです、まる。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-27 17:26 | 考える
ある部屋とのお別れ
 大阪でのライブのついでに、久しぶりに実家に立ち寄った。久しぶりの街、久しぶりの隣人、久しぶりの行きつけの店。出会うたびに、初恋みたいに胸がきゅーんとなる。僕がいない間もそれらはそこにあるはずなのだけれど、そのことがとても奇妙な感じがする。もしかしたら、僕がいない間、それらは時間を失ってじっと凍り付いていたのではないかと思えてくる。それはまさに手付かずづにされていた僕の部屋に入ったときに最も強烈に感じた。フリーズした時間が雪解けのように流れ出し、あの日のあの時と同じように僕に語りかけてくる。「これだから、いつも片付けに失敗するんだよなぁ。」

 実家に帰る度に荷物の置きっぱなしになった部屋の整頓を親に懇願されているのだけれど、その部屋に入るのさえ億劫なのだ。もう6年もそういわれて、それを成し遂げることができなかった。今度こそと作戦を練って挑むのだが、ぴらっと引き出しから出てくる日記やら、ふとしたものに貼り付けられている昔の彼女のプリクラやらの攻撃にあえなく玉砕を続けてきた。いつも半ば、鬱状態になって「また今度ね」と実家から逃げるように退散する。

 そこには、紛れもない昔の自分が存在していた。幼く稚拙で、身勝手な青年。それでも、やっぱり自分。そこにあるさまざまな、本や作品や画材やデータ、それら点を結んでゆくと、そこに、もう一人の自分のシルエットがくっきりと浮かび上がる。それらのものを捨て去るということが昔の自分を否定し切り捨てるような感覚にさせるのだ。ぴらっとめくったスケッチブックに下手くそだけれど、一生懸命なデッサンがでてくる、ぼわっとその時の気持ちやら匂いやら、部屋の光の具合までがよみがえる。その中からこちらに親しげに声をかけてくる青年「やあ」。ダメだ、捨てられそうにない。

 そこで、こういう作戦をねった。「もう何年もそれなしで過ごしてきたのだから今日からそれがなくたって本当は困らないよね作戦」長い。でもそう思うことにする。えいっとスケッチブックの一ページを破り捨てる。青年が悲しげに悲鳴を上げたような気がする。心が痛む。一気に気持ちが萎える。すべてを捨て去るにはどんな労力が必要なのか、それを考えると気が遠くなる。そうだ、ひらめいた。作戦名は「奥の院壊滅作戦」今度は作戦名らしい感じ。つまり、一番大切にしていたものからごっそり捨て去ればいいのだ。それは、あのうずたかく積まれた荷物の奥の机の引き出しの中にあるもの。よい子の夜のお友達、エログッズたちだ。

 そういうのって、なかなか捨てられないんですよね。「いつかまたお世話になったりなったりしちゃったりなんかするかも」なんて思ってたら、それが積もり積もって、意外な質量になっていたりする。つまり、それこそが、両親にその部屋を手をつけないでくれと言っていた理由でもあったりするわけで。でも、それがもったいないからといって、今の家に、ダンボール何箱もそんなものを送り付けるわけにもいかない。そんなことをしたら、奥さんに逆さ吊りにされる。

 おそらく、こいつこそが敵の正体なのだ。僕はイベントが終わって、深夜3時に帰宅すると、そのまま寝ずに、奴らをダンボールに詰め始めた。奴らの「まぁまぁ、そないに焦らんでもええがな、次のページにはもっとゴツイのがありまっせ」という誘惑に途中何度か手が止まったが、i-podのボリュームをガンガンに上げて、意識をそらした。結果、ダンボール4箱分のグッズたちを詰め終わり、まだ、寝静まる幼馴染の街をエロダンボール抱えて奔走し、ついに彼らを手放した。「達者でな、いい人にもらわれるんだよ」まるで、子猫を捨ててしまうくらい後ろめたい気分に振り返りつつも、やっとその場を離れることが出来た。明け始めた街がとてもすがすがしく感じた。そこはあの昔の暗い思い出に彩られたいつもの感傷的な街ではなく、ほんわか懐かしいあの場所に変わっていた。

 そういうわけで、無事、部屋の一斉清掃は完了した。作戦は大成功だった。なにか大きなことをやり遂げたような気分だった。なんだか、自分自身も軽くなったような気がした。過去の清算。そんなありきたりな言葉が適切かもしれない。ぽわっと昔の自分がそこに現れ、軽く微笑んでいるような気までした。「ちゃんと捨てなきゃ、ちゃんした思い出にもしてあげられないんだよね」。実家からの帰り際、母から「エロ本は全部処分したの?」とさりげなく訊かれ「ハイ…」と頬を赤らめながら実家をそそくさと後にした。
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by radiodays_coma13 | 2006-03-23 23:24 | 考える