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言葉と文化
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人工知能vs人間
10年後自分は一体何をしてるだろう?


私の場合、自分が10年後、今と同じ仕事をしているイメージはまったく持てない。例えば、それはIT業界の定めみたいなものでもある。2年単位で次々に業界は様変わりしていく。たとえ、ひとつの会社に10年いれたとして、プログラマーだったのがもしかしたら和菓子を練っているなんてこともあるかもしれない。それくらいにめまぐるしく、業態や職種も変化する。だって1年前にはグロースハッカーやら、エバンジェリストなんて職種聞いた事なかった。

そして、10年後を大きく変えるであろう大きなインパクト
人工知能
人工知能の研究をしている知人から、真顔で
「人工知能はあと10年で、
 今ある仕事の在り方をごっそり変えるから
 気をつけた方がいい」
と言われた。

「どう気をつければいいのさ?」

車にひかれないよう気をつけるみたいに通り過ぎるものならいいんだけど、それがやってきたら、ごっそり世界は変わる。もう戻らない。
「人工知能で置き換えられない
 職業につきなさい」

今から?

それは僕、個人の能力の問題ではなく、みんなに等しくそのインパクトがやってくるだろう。今、ある仕事のほとんどが人工知能ロボットにとって変わられる。何もしなければ、社会からの途中退場を余儀なくされる。定年になれば、個人タクシーの運転手にでもなろうかな、なんて。リタイヤの定番のコースも、ロボットに取って代わられる職業の筆頭である。居眠りをないし、うっかりミスもしないロボットドライバーで事故率はかなり減るんだろうね。

そんなに人間の仕事をロボットが肩代わりしてくれればいずれば働かなくていい未来がくる!?

なんてことはきっとないんだろう。働かなくていいのは経営者だけ。休まず働くし文句も言わないロボット社員は経営者には理想に違いない。雇わない手は無い。
「ロボットを管理する職業は残るかもね」
と知人は言っていたが、それもいずれロボットがやってくれるだろう。経営判断もロボット化する。現時点で株のトレーダーに関してはバイアスに左右されない分、すでに、人間よりも人工知能の方が優秀だと言われている。

じゃあ、人間は何をすればいいの?

アート表現や、エンターテインメントに関してはさすがに無理でしょう?

果たしてそうか?

それは人間の希望的観測に過ぎないのではないか。生命の基準や人工知能のチューリングテストのように、人間がそれと気づかなければ、もう、それを生命や知能と呼んでも差し支えないのではないか。人工知能に感情の再現が難しいと言われているが、感情のシュミレーションはできるだろう。人間が何を喜ぶかという統計的な判断こそロボットが得意な分野であるはず。 表情から感情を分析し、一緒に悲しんだふりをしてくれたり、喜んでくれる振りをしたりする、友達ロボに癒される未来はすぐそこにある。

私が自分の知りたいことのテーマにしている、「美しいや楽しいなど、人間の感情について」。例えば美はかなりの部分、理論化が可能である。鳥や虫が特定の形状を好む性選択こそが美である。大きな羊が「美」という文字の起源であるように。文化や個人の差こそあれ、用の美を計測していくと、美の技法化は可能であるだろう。現状でも、デザインには90%の正解があると言われる。

そして、きっと、近いうちに、アプリケーションがそのデザインの正解の判断を行ってくれるようになる。デザイナーはその機能が搭載されたIllustratorに注意されるようになるだろう。

「カーニングにミスがあります。」
「配色違反があります。」
「あなたのデザインは42点です。」

可愛い女の子ロボットに叱られるならちょっとうれしいかも?気がついたらロボット上司にドライに役立たず宣告される日がやってくる。これから大人になる世代はその現実をすんなり受け入れるかもしれない。しかし、辛いのは人工知能普及の過渡期にある我々の世代だろう。仕事を奪われ、自分より優れたロボットに管理される状況に精神が耐えられなく人も多く出てくるんじゃないか。

現状、開発中の人工知能にみんな夢いっぱいで、その負の側面というのはあまり語られないが、まさに、開発しているその当事者たちは、それがもたらすインパクトにはとっくに気づいているはずだ。10年後、現在ある90%の職業はなくなっているという試算がでている。ヘブライ大学の教授、ユヴァル・ノア・ハラリの刺激的な書籍の中では、人工知能の発達が人口の大半を占める「役に立たない人」という新しい階級を生むと言っている。

Alphagoという囲碁の人工知能は世界トップクラスの棋士李世ドル氏に勝利した。予想よりもかなり早い発達と勝利だった。そして、ついに将棋の人工知能対決、電王戦に羽生善治さんが挑戦するというということを発表した。それらのことのインパクトは大きい。人VS人の対戦を楽しむゲームは人VS人口知能との対決を楽しむようになる。しかし、それも過渡期のお話で、いずれ、人工知能は人間を超越し、かなわなくなる。その時、プロ棋士はプロであり続けることができるだろうか。

きっとそれに反発する人たちもでてくるだろう。理論に当てはまらない美や、文化に魅力を見出すことになるのかもしれない。ロボット排斥運動が起こり、もう一度、手作業で車を作ろう!とかね、非合理を追求する人々。非合理性だけは人工知能には理解できないと脳科学者の中野信子さんも言っている。しかし、ロボットにしてみたら、感情や、非合理性、そんなものノイズでしかない。やがて、政治家も汚職がないので、みんなロボットに取って代わられスーパークリーンな政治が行われるかもしれない。晴れて我々はロボットに支配される。

我々に残されている仕事は非合理と感情で作り上げるエンターテイメント産業くらいかもしれない。ロボットにとってはそれはノイズかもしれないが、人間に残された唯一の聖地。我々は娯楽に没入していくだろう。オーバーヘッドディスプレイをつけて架空の世界の中で休日を過ごす人々の姿はなにかモノ悲しい。

人工知能は本当に我々を阿呆にするだろうか?

ニコラス・G・カー著の「オートメーション・バカ」という本では先端技術が我々を無能にしていくという事が書かれている。我々はオートメーション化によって多くの技術をロストしている。身近な例で言えば、もう、服の作り方をしらない。火の起こし方を知らない。もし、真冬にテクノロジーが使えなくなると、我々は凍え死ぬ。しかし、これには反論がある。数千年前、ソクラテスは本を批判したことがある。本のせいで記憶力が失われると。これはPCの発達でも同じことが言われた。
「人はもう記憶する必要はない」
と。しかし、それは杞憂であった。むしろ道具は我々を利口にする。意識を外在化させることで人間は知能を発達させた。道具は我々の新しい器官である。携帯電話というテレパシー器官。車という素晴らしい足。道具の発達はむしろ人間を次のステージに上げてくれる。人工知能に負けて久しいチェスの世界でも、現在ではまた人間が勝利するようになってきている。

だが、やはり、それについていけない人もいるだろう…。進化できる人間が支配階級になり、あとは予言通り、無能階級となるのではないか。

あと数十年後、残っている職業は?僕はいつまで働ける?

MITの経済学者エリック・ブリンジョルフソン博士の書籍「機械との競争」では統計的に技術が進化し機械化が進んだとしても労働者は仕事を奪われることはないとしています。今のままの世界ではないとしても、次の時代には次の時代の新しい仕事が産まれるだろう。ただ、同じ場所に座り続けることはできない。考えれば、それは、いつの時代でも同じことなのかもしれない。前を向いて歩くしかないということか。

チェスの人工知能で最も強いのは最も優れたロジックではなく、優れた人間とロボットのチームワークによるものだそうです。つまり、人間が人間たる強みであるコミュニケーションこそが、優れた人工知能を凌駕しているという意味は大きい。猿にもコミュニケーションがあるが不特定多数のコミュニケーションが可能なのは人だけだ。それによって人はまったく知らない人とも連携が可能になる。知らない人の運転している人の電車に乗り、あまり知らない人と一緒に働く。そして数万人単位のコロニーを形作る。人間のその偶有性を備え複雑なシステムを形成する能力こそ、人工知能を凌駕できるのではないだろうか。

そもそも、人は一対一では猿にも勝てない。

可能性はそこにあるように思う。我々は一人ではない。どんなに孤独であろうが、人は無数の人とつながり助けられている。人がアンドロイドを愛するようになる未来はくるかもしれない。しかし、ギリシャ神話のピグマリオンは既に、創作物に溺愛するというオタクのはしりのようなことをしている。それは何も目新しいことではない。アンドロイドだって人が作ったのである。間接的であれ、人の心を愛していることに違いはない。ロボットが現れ、人の意味は大きく問い直される。素晴らしい時代ではないか。人が人を超える知能を作り上げる歴史的な時代に生まれ、それに立ち会えるなんて。たとえ、それが悲劇でも楽しむ余裕は持ちたい。楽しむということを楽しむことができるのは人間にしかできない。美しいことを喜ぶことはロボットにはできない。

誰かを喜ばせたい。誰かの役に立ちたい。そう思える限り人は無能階級ではない。ロボットは我々を喜ばせてくれるが、人はロボットを喜ばせることはできない。その悲劇は幻想である。喜ばせる意味はないのだ。ロボットは道具に過ぎないからだ。フェティシズムとして愛することはできても、それは人への愛の変奏には違いない。コミュニケーションがそこにある限り、人は人であり続け、生きる意味は失われることはない。

人はかつて、人と愛し合った。
そして、これからも。

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by radiodays_coma13 | 2016-06-07 19:10 | 考える
有識者の罠
「一体なにを学んできたの!?」


企画会議などでありがちな光景。仕事で相手をいちいち見下し、批判し、ディスる人っていますよね。この発言がもたらす影響について考察したいと考えていました。

これはモチベーションが下がるだけの問題ではありません。それらの発言によって会社にどれだけの不利益があるのか。コミュニケーション、クオリティ、士気の問題、業務への影響は計り知れない。

ある人は言うかもしれない。

「彼らは、叱り批判することで、
その人を育てているんだよ」


ではそのことを前提に考えてみよう。叱った方が効果があるのか、褒めた方が効果があるのか、社会心理学社のダニエル・カーネマンがそのことに関してイスラエル空軍においてデータをとりました。その結果、そこにあったのは「平均回帰」という統計的な現象であった。つまり良い結果の後は得てして、悪くなる。悪い結果の後にはだいたいは良くなる。叱ることで良くなるというのはただの錯覚に過ぎなったわけです。

一方で、フロイト、ユングに並ぶ、心理学の巨匠である、アルフレッド・アドラーも、褒めたり、叱ることは間違いであるとハッキリと言っています。褒めることで気を良くした人は褒められるために仕事をするようになるからだと言う。叱られた人は叱られないように仕事をする。自発的に考え行動したいという自律心を阻害してしまうのだという。やがて、彼らは、その報酬なしでは行動ができなくなる。

ある単調な仕事に対して、報酬を与えるグループと与えないグループで、仕事にやりがいや楽しさを感じるのはどちらのグループか?これは有名な実験である。答えは報酬をもらわなかった側がやりがいを感じる。報酬をもらえなかった人々は、その仕事に対して、これは自分が楽しいからやっているのだという自発的な意味を作り出したのだ。

アドラーは人を育てるのは報酬ではなく、感謝であるという。人は誰かから感謝された時にもっとも勇気づけら意義を感じたのである。アドラーがアメとムチ教育を徹底的に否定した理由がここにある。

***

「いや!彼らは少しでも企画の成功率をあげるために
意見しているんだ」


企画の成功率に関して、起業成功率の統計的なデータから考えると、起業内容と成功との間には確率的な因果関係はなく、純粋に継続とチャレンジの回数に相関するということが分かっている。結局は企画云々ではなく、最後までそれを「やりきる」かどうかが成功を左右するというわけだ。「やりきる」には経済力と気力、体力、そして、それを支える信念や愛情こそがもっとも重要な要素だと言える。

企画の内容に大きな意味がない以上、本当は彼らがすべきなのはその企画に愛情を持てるようにするための支援ではないだろうか。これをやるなら、もっとこうすれば面白い。こうすれば、ウィークポイントを補える。等々。しかし、実際に彼らがしているのはダメ出しという名の破壊である。

***

「だが、語気はどうであれ、彼らが正しいことを言っていたら?
それは有用ではないのか?」


正しいかどうかにどういう意味があるのだろうか?

有識者は後知恵で語ることを常としている。しかし、彼らが正しいことを言っているように見えるのは「後知恵バイアス」による。起こった事の結果の中から都合のよいデータを集めて、ストーリーを作るのは知識さえあれば誰にでもできることである。それは正しいのではなく、間違えていないだけなのだ。何かが論議される時、過去のデータによる「後知恵バイアス」で、意味ある意見がゆがめさせられることこそ注意しなければならない。

企画会議においてもっとも意味がないのはその企画の荒らをさがすことである。企画の内容の云々と企画書の出来不出来に相関はない。それを指摘するのは彼らのトリックに他ならない。企画書に眠る有意義なアイデアが、それにまつわる内容の不備によって潰されてしまう。彼らは金の種を探しているのではない、企画書を批判することで、自分を他よりも優位に見せているに過ぎない。つまり、単なる権力闘争なのである。

彼らは「後知恵」で語るので、今までに存在しないものについては語ることはできない。気付きもしないだろうし、それを推薦されたとしても、今までにないというだけで全力で否定してくることだろう。有識者には金の種を見つけることができないということを早めに理解すべきである。もし、問題が発生したとき、彼らはしたり顔でこう言うだろう。

「だから言ったでしょう」

これこそが後知恵バイアスによる発言そのものなのだ。

***

新しい発見とはまだ誰も見た事がないものである。ならば、それを誰が判断できるというのか。それを行動にうつすのは正しさではなく、信じること意外にない。大航海時代、初めてブラジルを発見したペドロ・アルヴァレス・カブラルはそこを島だと思った。正確には島ではなかった。では、その発見に間違いがあったからと言って、発見そのものに意味がなくなるのだろうか。新しい発見は誰もが目をつけなかったからこそ、新しいのだ。キラキラ輝いて、地上に鎮座しているものではない。どんな石も磨けば光る。地上で輝く石は得てして、もうすでに誰かによって磨かれ、所有されている。


本当に生産性を高め、互いの能力を引き出し、やりぬける組織とはどんな組織なのか?グーグルが同社にある数百のチームに対して、行った社内の統計の専門家や組織心理学者による分析がある。(プロジェクト・アリストテレス)。その結果、従来言われている

・「カリスマリーダーがいる。」
・「優秀なメンバーが集まっている」
etc

などの要素はほとんど生産性に影響を及ぼしていなかいことが分かった。そこで重要だったのは、思いやりや心遣いなどの相手への共感や理解力だった。それこそがチームの生産性を高めたのだ。

社内に有識者や批評家は必要ない。4番打者とエースを集めたからと言って、毎年優勝する球団が作れるわけではない。誰がいると言うよりも、誰かの小さな発見に驚き、自分の発見を誰かに話したくなるようなチームの方が創造性を育む。成功するために多くのチャンスをつくり最後まで走りきることが肝心だとして、そのような転んでもすぐに立ち上がれる強いチームを作るには、お互いに励まし磨き合えるムードの方が求められているのではないのだろうか。

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by radiodays_coma13 | 2016-05-31 01:18 | 考える
「日本のゲームはクソだ」-ゲーム開発者の想い
GDCで海外ゲーム開発者が「最近の日本のゲームはクソだ」と話す

そのニュースをみてからずっとその言葉が頭の中をリフレインしている。
ゲーム作りを生業をしている自分にとってはとてもショッキングなニュースだった。ただ、ショッキングというのではなく、それは明らかに画面の向こうから、自分自身にむかって投げつけられている言葉だった。質問を発した、ゲーム制作者は自分に置き換わりその会場での冷ややかな反応は突き刺さった。
そして、彼同様、嫌な汗が流れた。

本来は、こんなことを、当の日本のゲームを作っている自分が言うべきではないのかもしれないが、私はその言葉に「そう、そのとおりなのさ、日本のゲームはクソだよ」と自省からだけではなく、何度も心で返答している。
そして「いつのころからかね」と付け加える。

どうしてクソになったのか
いつのころからか・・・。それは、ちょうど、自分がゲームを生業にし始めた頃からだと思う。
ちょうど、モバイルでFLASHによる無料のゲームが遊べるようになり始めた頃ではなだろうか。FLASHによるミニゲームは今までのゲーム開発費とは比べ物にならないほど、安価で制作することができた。制作日数も、通常、個人ならば数ヶ月要するような作業が1からコーディングしても一週間程度で完成させることができた。そして、無料ゲームをうたったモバゲーやグリーの成功で既存の大手ゲーム会社も携帯のゲームに参入してくる。そうなると今まで莫大な費用をかけて制作してきたゲーム会社の仕事はなくなる。また、そのように手がけたアーケードゲームやパッケージゲームは廃れてゆく。作るとしても、安全策を狙い、今まで流行ったゲームの焼き直しをつくることになる。

結果的に、ゲームはクソになっていく。

ただ、それだけが理由ではないと思うが、それは複合的な理由のうちの大きなひとつではあると思う。そして、その自分自身が日本のゲームをクソ化させるその流れを加速させてきたことを確信している。モバイルでFLASHゲームができ始めた頃、当時最大となる500本のFLASHによるミニゲームの開発責任者となり、スタートしたばかりのモバゲーにゲームを提供し、その後も会社を変えながらも月辺り平均50本、多いときで100本程度のFLASHゲームの制作にかかわって来た。そして、一本のゲーム単価を3万円まで引き下げた。

当時、いくつかの大手や小さなゲーム制作会社の人たちに「勘弁してくださいよ」と言われた。直接、言われていないだけで、ほぼ、すべてのゲーム会社に働く人がゲームのそのような流れに対して、一度くらいは「勘弁してくれよ」と思ったに違いない。僕たちはイナゴのように日本のゲーム業界を荒らした。後にはぺんぺん草も生えない。そんなことも言われた。確実に日本のゲーム業界を弱体化させてしまった。私は確実にそのA級戦犯になるだろう。クソと言われた会場でひややかな観客の反応は、私自身に向けられるべきものだった。



ファミコン黄金時代
自分でもなぜゲーム業界にいるのか不思議でならない。私はまったくもって熱心なゲームプレイヤーではない。どちらかというと、ゲームをまったくやらない部類の人種になると思う。しかし、それはやらないだけで、ゲームを愛していた。小学校に入った頃から、画用紙にパズルを作り、友達に売りつけていた。パソコンが出始めた、5年生の頃から、自分でゲームをプログラムしてこれも友達に売りつけた。しかし、あまりにも早くゲームを作る喜びを知ってしまったためにゲームを遊ぶ喜びを知る前にそれが凌駕してしまった。私にとってゲームは遊ぶものではなく、作るものだった。

しかし、ちょうどファミコンが出始めた頃にはワクワクさせるようなゲームがたくさん出てきた。見ているだけで楽しかった。それで十分だった。それはとても刺激になった。それを越えるようなゲームを夢想するのが楽しかった。学校から帰ると、すぐにゲームセンターに走り、新しいゲームが出ていないか確認した。友達が新しいファミコンソフトを手に入れたと聞くと、駆けつけた。

しかし、いつしか、ゲームは大掛かりなものとなり、自分ひとりでは作れない、手の届かないものになっていった。ゲームシステム自体も似通ったようなものが増え始め、それとともにワクワクすることもなくなり、心がゲームから離れてしまった。

これは個人の考えでしかないが、思えばゲームのクソ化はここから始まっていたのかもしれない。



ミニゲームの逆襲
FLASHという開発ツールでゲームが簡単に作れることを知ったとき、私は飛びついた。まだ、試験的にFLASHを採用した携帯電話の情報を聞くと今までの仕事をキレイさっぱり辞め、その世界に飛び込んだ。携帯のスペック上、容量やロジックの制限もあり、できることはまだほんの簡単なことに過ぎなかった。いわゆるファミコン初期のゲームに近かった。そのことが私にはなにより魅力的だった。
「ミニゲームの逆襲」という言葉が常に頭の中にあった。
それがゲーム業界を席捲すると夢想した。
そして、それがその通りになった・・・。

荒らそうなんて思ってもみなかった。
今までの思いをぶちまけた。自分の中に秘めていたゲームアイデアを次々に再現した。その中のものは海外のゲーム会社に買ってもらったものもあったし、それなりに評価も得た。得たと思う。ミニゲームなりに、新しいゲームアイデアをこめた。でも、悲しいかな、ユーザーはそんなものを願っていなかった。売れるのは既存の売れ線ゲームだけだった。ユーザーやクライアントは実にあっさりと「FF」みたいなのがしたいと言ってのけた。誰もが知っているゲームがしたいんだと要求された。そこで考えたのがマシなゲームをひとつ取り上げ
ひとつのゲームシステムの見た目だけを変える「スキン替え」という手法だった。単なるワンボタンのタイミングゲームなら、半日あれば、まったく別のゲームを作ることができた。躊躇している間はなかった。他もどんどん値下げしてくる。何も考えずに量産を始めた。業界全体がそういう流れを作り出した。どこからも注文が殺到した・・・。

そして、唐突に「お前はクソだ」という言葉を浴びせられかけ、はっと我に返った。



クソゲームの山
気がつくと、クソゲームに囲まれ、その上に立っている自分がいた。ここから、ざっと辺りを見回して、決して豊かとは言いがたい現状の日本のゲーム文化の全体が見えている。制作者が言うべき言葉ではないが、すべてのユーザー、すべてのゲーム制作者にあやまりたい。

申し訳ありませんでしたと。

決して私だけの問題ではのは承知している。みんなクソゲームを作ろうとしているわけではない。がむしゃらなのだ。走り続けるしかなかった。しかし、思いは少しずつズレていき気がつくととんでもないところにいる。誰も日本のゲーム業界全体を見る余裕なんてなかったのかもしれない。しかし、「日本のゲームはクソだ」と言われたとき、はっと周りを見渡して、確かにそうだと感じてしまった。薄々は感じていた。でも、それを直視することで、仕事を続けることは難しい。見て見ぬフリをしていた。しかし、そう感じてしまったら、もう山を降りるしかないだろう・・・。そう感じながらもクソを作り続けるのなら、それは欺瞞でしかない。

すべてを否定するわけではない。しかし、多くの制作者、たとえばなんならかのライセンスを使ってどこかのゲームシステムをそのまま踏襲したようなゲームを制作している制作者はそのことを嘆いているはずだ。一体、全体のうちどれだけの人が、ゲームの文化全体のことに思いを馳せているだろう。



パンドラの箱、そして下山へ
ちょうど、グリーが釣りゲームの著作権についてモバゲーに訴えを起こした判決が出た。
グリーの勝利。
つまりゲームのシステムに著作権が認められた。これはゲーム制作者にとっては衝撃のニュースだったに違いない。今まで暗黙のルールだった、ゲームルールに著作権はないという点が覆ったのだ。それはほぼすべてのゲーム、すべてのシューティングがすべてのゴルフゲームが著作権違反になるというのに等しい判決なのだ。しかし、その暗黙の了解のおかげでゲームは発展してきた。グリーはパンドラの箱を開けてしまった。

僕は晴れて犯罪者になってしまった。
今まで無数のゲームシステムを盗用したかどで投獄されたりするだろうか。数で言えば、おそらく、日本一かもしれない。もし、そのことで、投獄されるのならば、おそらく日本にいるすべてのゲーム制作者が娑婆から消え去るだろう。それもいいかもしれない。

ここらで、みんなで山を降りませんか?
本当に実在しないデジタルのカードに何十万も使うゲームが
長い目で人を幸せにしてくれるでしょうか?

もう一度、ゲームの未来について立ち止まって考えるいい機会が来ているのだと思う。
ゲームが大好きでゲーム制作者になった人たちの中で何人の人がワクワクするような思いでゲームが作れているか問いたい。お金が儲かる側の人はワクワクしているかもしれないですね。でも、ユーザーを幸せにしているかもしれないという思いでワクワクできているでしょうか。

私は山を降ります。
もう一度、自分の山を登ります。
誰かをワクワクさせ、ちょっとだけ幸せにしてくれるゲームを作るために
自分の時間を使います。
すぐにこの山から下りるのは時間がかかるでしょう。
なにせ、結構登ってしまいましたから。
もう妥協はしません。私にはそんな時間も残されていません。

自分の子供にやらせたいと思うゲームをつくりたい。

今は強くそう思うだけです。
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by radiodays_coma13 | 2012-03-11 06:48 | 考える
女性は本当にわからない
会話が流れ流れて、AVにおいて30歳以上は熟女モノのコーナーにあるんだよ、熟女といえばマニアックに該当するよね、というような話を妻に披露したら、突然、妻がキレた。

女性は本当にわからない。

それは社会一般の雑学みたいなもので、そこに個人的見地は一切、もう本当にビタ一文含まれていないにも関わらずだ。もう、ババアと言っただの、変態呼ばわりしただの大変な騒ぎ。正確にはババアとは言ってないし、むしろ変態なのは、その可能性が含まれるのは、その雑学を披露した私の方かもしれぬのに。

しかし、そこには正確さは求められていないようだった。言った言わないの水掛け論はここでは意味を成さない。それ以前にかけているのは水ではないからだ。そんな早朝に花に水をかけたかかけていないなんという、新婚夫婦の会話みたいに生易しいものではない。


野坂昭如先生が、能吉利人名義で作詞した「黒の舟歌」の歌詞にある
♪男と女の間には
深くて暗い川がある

の心境です。心の中で熱唱するくらいの気持ちです。
ブルースで歌ってしまいます。
心で泣いてました。
いつもいつも難破してばかりです。
そして、いつもいつも心に誓う。
「もう二度と船出すまい」と。

でも、それでも、また船出してしまうのです。
♪誰も渡れる川なれど
エンヤコラ今夜も船を出す

大熱唱です。
これには遺伝子の不思議を呪わないわけにはいかない。
たった1%以下の差がこんなに悲劇的な絶壁を作り出すとは。
一体そこにどんな膨大な情報が含まれているんでしょう。
男女の溝が何万年経っても埋められていない現在、
人の世の中がよくなっていくなんて迷信だと確信できる。

理屈ではないのです。理屈では…。理論的にはなにも通じないのです。
女性には理屈などどうでもいいのです。共感が大事。
そうだったそうだった、私がバカだった。
そこですかさず、30歳を熟女コーナーに置くなんて、世の中どうかしてるよ!
それを考えた責任者はド変態だったに違いないよ。
熟女が大好きで大好きで、少しでも自分の熟女時間を増やすために
熟女のハードルを大幅にダンピングしたに違いないよね
人格を疑うよね、
くらいのことが言えれば平和にコトは納まったのかもしれない。
後悔しています。
本当に後悔しています。

男に生まれたことを…。

男なら、不思議なことに誰しも若い女性が好みってなもんですよ。
それは浪漫なんです。登山家がチョモランマを目指すようなものです。
それは何故なんでしょうね、不思議を超えて不可思議です。
それは遺伝子的にうんたらかんたら言われれば理解はできます。
でも、もう人類も長いんだし、行き詰まりを感じているんだし
そろそろ進化してもいいのではないかと思うんです。

女性に、自らの変態っぷりを指摘され
もう本当に男ってワケがわからないという目で蔑まれる時の
悠久の寂しさよ。

遺伝子一個の変化がそんなにも大きなものなら
いっそ、遺伝子の解析を進めて、遺伝子をデザインしてはどうだろうと
危険なことを考えてしまいます。
道徳なんて、遺伝子の前では風前の灯と同じ。
人間というこのエッジの効いた存在を地球に適すように
リデザインすることもあながち間違えではないのではないかと思えてきます。
まずはその魁として、男女が嫌悪感なく愛し合えるようにすれば
もっと世界が平和になるのではないかと。
それはもう道徳云々では不可能なはずだ。

ああ、進化したい。
川から這い上がった魚もおんなじ気持ちだったかなぁ。
魚も辛かったんだねぇ。
住みづらい世の中だよねぇ。

う~ん、この湧き上がる怒りはなんだろう。
しからば、許すということが愛かもしれない。
この状況を受け入れるには宗教的な逃避しかないようにも思える。
謝罪するしかないのだろうか。
左の頬をぶたれて、右の頬を差し出すキリストの心情です。
あやまればいいんでしょ、あやまれば!
ダメだ、そんな気持ちならすぐに見破られる。
黙って俺についてこい!
ダメだ、殺される。
土下座…無理。
僕、本当は熟女マニアなんだ。
火に油だな…。

久しぶりに奥さんに手紙と花でも贈りますか。
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by radiodays_coma13 | 2012-01-05 07:31 | 考える
落語の笑いと遊びの可能性
落語にハマっている。

会社の近所に新宿「末広亭」がある縁で
前から気になっていた、柳家小三冶を観に行ったのをキッカケに
堰を切ったように、どっぷりと落語にハマっている。
古典から現代まで
音楽の変わりに一通り聴いてみた。

前からそんなに落語を好きだったわけではないのに
自分の人生にとって欠落していた部分を埋めるように
落語を欲している自分がいるのに驚いている。

落語には現代のお笑いにはない種類の笑いがある。
本来、笑いにはいろいろ種類があるはずなんだけど
現代のお笑いは特に発作的な笑い
神経症的でシュールな笑いばかりが目立ち
ゆっくりと心をほぐしてくれるような笑い
ハートウォーミングな笑いというはあまりない。

笑いはきっとマッサージのようなもので
笑うことで凝り固まった精神や緊張をほぐしてくれるのだと思う。
そして、そこには、マッサージの結果、得られる快感もある。

時代によって、緊張も異なる。
そこで、求められる笑いも異なるということになる。
現代は不条理で病的な社会に起因する笑いには事欠かないが
落語の長屋噺に感じられる隣人を愛したくなるような笑いはない。
現代にとって隣人は昔の長屋の隣人とは性質が異なり
不条理で脅威な存在である。
或いは、昔の笑いでは間に合わなくなってきているのかもしれない
しかし、笑わずに置いた心のどこかは
コチコチに凝り固まってしまっているように思う。
そういうポイントは増えていき、
心のどこかしこに、わだかまりを抱えているような気がする。
そこを有効にほぐす笑いはないものだろうか。

お亡くなりになった2代目桂枝雀さんは、
笑いを「緊張からの緩和」と定義し分類を行なっていた。
それに加えて、笑いには深さがあり、突発的な笑い、幸せを感じた時の笑い。
それらは、緊張のタイプとその開放のされ方によって変化する。
最終的にもっとも深い笑いは人生の緊張から解き放たれた時に訪れるだと言う。
それは悟りに近い感覚に違いない。

落語の笑いは発作的に激しい笑いよりもむしろ、
ステージの深いところを目指していると思われる。
アリストテレスが笑いについて触れたものに、
「笑いは人間の上下関係によって生じる」というのがあり
一種の優越感が笑いを生むとされる。例えばそれは蔑みによって生まれたりする。
漫才などのひとりがボケて、ひとりがツッコむというスタイルは、この種の笑いを
生じやすくしているのではないかと思う。
しかし、これは緊張の緩和理論でいうところの上下関係の緊張を緩和した笑いに過ぎない。
落語の場合にもこの種の笑いはいくつかあるが、
そこには、ある種の愛情が根ざしているように思う。
それは似ているようで非なる笑いをもたらし、
観客をより深い笑いへと誘う。

美味しいものを食べても人は笑うし
いい意味で期待を裏切られても人は笑う
微笑みという対人の緊張からくる笑いもあり
表面に出ない笑いもある
人はおそらく、動物的な感覚として、
課せられた緊張を緩和させる方向に向かうものだと思う。
そこには笑い的ななにかが存在しているはずだと思う。
そして、動物含め、或る時には擬似的な緊張を自らに課すこともある。
それが「遊び」というものの発端であると考えられる。

「笑い」、「緊張の緩和」という面から考えると
もう少しコンテンツとしての「遊び」の可能性を広げられるのではないだろうか。
多くの「デジタルゲーム」が、「与えられた課題」というタイプか
「恐怖」、或いは「物語」による緊張を主に扱っている。
しかし、そこには潜在的に遊びに含まれているが、
まだゲームというまな板の上には乗っていない、
もしくは、あまり取り上げられない、緊張がある。
そこにまったく新しい遊びというのではないが
新しい、遊びの局面、異なる見方、扱い方があるはずだと思う。
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by radiodays_coma13 | 2011-07-25 07:22 | 考える
震災後の世界で…
子供向けのコンテンツを制作するべく準備をしているけれど
毎日のお勤めもあり、なかなか進めないので
動きを止めないためにも
少しづつ、作ろうとしているものの方向性を日記として確認していくことにする。

****

まさか自分の時代に放射能におびえて暮らす日々が
やってくるとは思っていなかった。
それはどうも世紀末SF的などこかの世界の話だと思っていた。
そのまさかが現実になった。

地震以後、どうもそれらの現実を目の当たりにして
それが自分の世界で起こっていることが
どこか現実離れしているような気がしてくる。
壊滅的な地震の被害や放射能だけではなく、
今、日本が直面している様々の社会的問題にしても
素っ頓狂なもののように思えてくる。

ちょうど、阪神大震災の時に実家が全壊した時にも同じようなことを感じた。
それは、もしかしたら、もう一方では地震の起こらなかった世界があって
自分は地震の起こったほうの世界に迷い込んだんではないかという違和感。
現実逃避なのかもしれないが
「どうも、この世界は正しくないのではないか」という感覚がある。

そして、今回の震災。僕はなにかを間違え続けて
震災を二回も迎えることになった。
どこかに、震災を迎えずに平和に暮らしている日本があるのではないか。
そして、僕は震災が起こったほうの世界に迷い込んでしまった。

果たして僕が住んでいた世界は
なにかがいろいろなところでちぐはぐになってしまった。
しかしだ、そこには僕だけではなく、僕の子供たちや
周りの大切な人たちも入り込んでいる。

もしかしたら、ちぐはぐの無い世界で平和に暮らす
僕の子供たちもいるかもしれないが
ちぐはぐな世界に取り残された人々もいる。
僕はこの世界を子供たちのためにどうにかしなければならない。

とても不思議な感覚なのだけども
この「ちぐはぐ」が全て自分の責任のように思えてならないのだ。
まともな自分はまともな世界に行き
ちぐはぐな自分はちぐはぐな世界へ。
その数多の選択の結果、いまここにいる。

こういうのを平行宇宙論とか多次元宇宙論というようなのですが
つまり、ここは僕の選択の結果の宇宙ということになる。

しかし、そんな理論に絡め取られるまでもなく
なぜか、もっと本能的に、この世界で起こっていることは
この世界で住んできた自分にも責任があると感じてしまっている。

子供たちに、「こんな世界にしてごめんなさい」と
謝らなければならないと感じている。
しかし、だからこそ、謝る前に行動しなければと胸に秘めているのです。
秘めていてもなんなので、こんな風に誰かに話して、
行動しなければならないようにしようと
ムシのいいことを考えている。

きっと誰かが、どこかの大人が解決してくれるに違いない。
そんなふうに思っていた。今でもそんなふうに思いたい。
でも、そんな誰かの無責任で世界のちぐはぐは大きくなってきた。

そして、自分が大人になった。もう十分、歳もくった。
次は自分の番なのだ。
子供たちに、あなたたち大人たちが作った世界と言われてしまう
そんな世代になってしまった。

どんな形であれ、僕はその世界を形成しているものの一部だ。
そして、これは僕が選択した結果の世界だ。
やはり、次の大人たちにツケを回して責任回避するのか。
いや、もう逃げられない。

いつまでも責任を回避してたどり着いたら、目の前に
避けては通れない抜き差しならない問題が壁になっている。

誰かがやってくれるかもしれない。
でも、その誰かがやってくれた世界はまた自分とは別の分岐へと行き
ここにいる自分は常に問題の前に放りだされるようになっている気がする。
誰も逃げることはできないのだ。

だから何ができるのだ?
確かに…。

アンドレイ・タルコフスキー監督の映画で
「サクリファイス」というのがある。
核戦争が始まったニュースをラジオで聴き
主人公は自分は全てを失っていいので、この事態を回避させてくださいと祈る。
すると、そのニュースは嘘になり、
なにごともなかったかのような日常が訪れる。
自分が犠牲になったことで救われた世界。その代償を払うべく主人公は
自分の家を焼き、全てを失うことを受け入れる。
そして、そのことを誰もしならい。ただ、家族は彼の気が触れたのだと思う。
だいたい、そんな映画。とってもいい加減。

祈る?
祈る前に行動しようと思う。

どんな?
それを子供たちと一緒に考えよう。

大人はいろいろと事情という言い訳があるので、
子供たちのためと言いつつ、
自分たちの都合のよいものを作ろうとしてしまうんだろうね。

まずは…
まずは、どんな世界を望んでいるのか、子供たちに聞くのが一番だろう。

君たちはなにが見たい?

君たちはなにを望んでる?

その為にできることをやろう。
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by radiodays_coma13 | 2011-06-11 07:17 | 考える
震災がくれたチャンス
天邪鬼なので今回の震災での
応援メッセージを見るのがなんだかイヤだ。
応援したい気持ちがないわけではない
けれど、なんだか、言葉にされると、とてもそらぞらしくてなんだか…。
それを否定も批判もしないけれど、自分ではしたくない程度の話なんだけど。

でも、それでも、歌手が僕たちのできることはこれだけですと言って
歌っている姿はとてもシラケてしまった。

自分自身が阪神震災で被災して
一番言われたくなかった言葉は「がんばれ」だった。
がんばれと言われると「がんばりません!」と即答したい気持ちだった。
その言葉は意味以上に恐ろしいと感じた。

阪神震災の時にふと耳にした歌に涙が出たことがあった。
それはアンパンマンのマーチだった。
それは「助けてもらう」ではなくて「助ける」歌だ。
たとえ胸の傷がいたんでも、誰かを助けることで
生きる喜びを感じるという内容なんだけど
なぜか、助けられる側の自分が聞いて一番響いた。

助けることで助けられることがある。
父は理髪店を営んでいるが、震災で店舗ごと全壊してしまった。
むき出しの水道から水だけがでていたので、ポリタンクに貯め
簡易式の湯沸しでお湯を沸かし、青空の下で、洗髪だけの
無料床屋を震災から数日後にオープンした。
それにおどろくほどの行列ができた。
再スタートをあきらめかけていた父は、それでもう一度
お店を復活させる決心をしたと話していた。

僕は阪神の震災で完全に呆けてしまっていた。
避難先の小学校で、自失してぼんやりしていた。
同じ部屋に近所の子供が5人ほど
小学校ゆえにたくさんの小学生が行き交う。
時間をもてあましていたので、毎日、子供たちの相手をしていた。
相手というのは少し語弊がある。「遊んでもらっていた。」
パズルや、迷路、ボードゲーム、でたらめな遊具を作って
子供たちと遊んだ。
遊ぶのだけは得意だったので、いつの間にか
たくさんの子供たちに囲まれるようになった。
多分、避難所には決定的に娯楽が欠如していたのだと思う。

その時、初めて、遊びを作り出すことができる自分の能力に気がついた。
そして、これを自分の仕事にしようと思いついた。
そして奇跡的にこれを生業とすることができた。
でも、ひとつ忘れていたことがあった。
僕は子供のために、遊びを作ろうと思い立ったのだ。
でも、まだ、これは成し遂げていない。
今回の震災で、避難所にいる子供たちを見て
強くそれを思い出した。

救援物資には娯楽用品は含まれていない。それは一番後回しなのだ。
もちろん仕方ない。しかし、子供にとって遊びは
水や食べ物と同じくらいの価値を持つ。
子供にとっての遊びは不安をも吹き飛ばす心のよりどころでもある。

初心に帰ろうと思った。
僕は子供のための遊びを作ろう。
忘れてはいなかったけれど
立ち上がることができなかった。
多分、今、立ち上がらないと、二度とはじめられないような気がする。

また、震災にチャンスをもらった気がする。
助けるという気持ちじゃない。
自分が助けられよう。

「助ける」というのはなんだかひどくよそよそしい。
多分、応援メッセージへの違和感はそれだったんだろう。
「わたしたちにできるのはこれだけ」
それを言ってしまっていいんだろうか?
カッコいいようで、とてもカッコ悪い気がする。
やっぱりどこかよそよそしい。

今日、アンパンマンの歌の歌詞について同じような感想を持つ人のコラムを読んだ。
今、感じていることがアンパンマンのマーチの歌詞で一本につながった気がした。
アンパンマンは誰かを助けるために自分の頭を食べさせる。(なんだかスゴイ。)
でも、それがアンパンマンの「よろこび」なのだ。
楽しいから助けるって言ってところが潔い。
助けるってそういうことじゃないかしら。


寄付とか、救援とか、ボランティアとか、なにかと自己犠牲めいている。
暗いのはキライだ
でも、それが嬉しいからそうするはずなのだ。
単なる自己犠牲なはずがない。
ココマデ自己犠牲シマシタ自慢的なキャンペーンは見るに耐えない。
もらった方も、「なんだか悪いね」となってしまう。
自己満足なら、そういってくれればいいのにね。
その方がもらう方も遠慮要らないもの。
本当に広告的な意味がないのなら
主張しちゃダメなんじゃないかしらん?


話がそれちゃったけど
やりかけていた子供のためのコンテンツ作りを再開します。
自分のために。
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by radiodays_coma13 | 2011-05-04 01:14 | 考える
ファミリーツリーの物語
「ワッツママ」「ワッツパパ」という
指輪物語のようなケルト神話を題材とした
一大スペクタクル2部作映画がこの春、封切られるそうだ。

テーマは第一部は「母とはなにか?」
そして二部は「父とはなにか?」
なんじゃそりゃ。

後光を放つ女神のように美しい女性が険しい自然の中に立つポスター
鋼のような肉体を持つウォーリアーのような男性が魔物たちと対峙するポスター
リアリズムで細部がコントラストでギラギラと輝くようなその絵の中に
違和感のある丸ゴシック系のタイトル。
センス悪っ!。
でも、これは気になるぞ。
いや、これは観に行かなければ!


というところで初夢から目覚めた。


目を開けると曽祖父、曾祖母の写真が僕を見つめていた。
実家の仏壇の部屋は冷暖房が不十分で、
隙間風で凍えそうになり、何度も目が覚めるため、夢は細切れになる。
子供たちの毛布をかけなおすと、そのまま目が冴える。
隣の部屋からは老いた父、母の寝息が聞こえてくる。
ふと哲学が鎌首を持ち上げる。
家族とは何だろうか?


親戚の多い家系ゆえに、正月ともなると
毎年、多くの親戚がやってきて実ににぎやかだった。
祖母を中心として毎年100人近くもの人々がやってきた。
毎年毎年、いとこの誰それ、はとこの何ちゃんが
どうしたの、こうしたの、離婚しただの、再婚しただの
武勇伝やバカ話などが飽くことなく語られる。
しかし、僕はそれがわりと好きで
ちょこちょこと書き留めては採集していた。
そういう無駄話でも書き残すと色々と気が付くことがある。

話しにはいくつかの分類と型があり
縦糸と横糸に分けられる。
全く同じ話しでも、語り部や家系が変ると変奏され
親等が離れると主人公そのものがすり返られたり
代が変ると、話は大げさになり、伝説に近くなる。
3代もさかのぼると、それは神秘性を帯び
現実から遊離し、お伽話に繋がってゆく。
知り合いの曽祖父の祖父は鬼から逃げて別の村に住むようになったそうだ。
まさに昔話がつむがれる現場がそこにある。
そして昔話はやがて神話へと時間をかけて蒸留されるのかもしれない。

母を中心としたひとつの家族というユニット
それを大きくまとめる祖母という一族としての大きなユニット
それぞれのユニットの中にトリックスター(道化師)を演じる者がいて
王(権力者)がいて、僧侶(法律家)がいて、戦士(労働者)がいて
農民(被支配者)がいる。それぞれ、自分の役割を演じている。

僕の叔父は定まった仕事には就かず、飲んだくれ、小鳥のメジロを愛し
誰よりも素潜りが上手く、意地汚く、ユーモアがあり
いつもネズミ男のように問題を起し、とにかく嫌われ者だ。
しかし、子供たちからは誰よりも愛されている。
滑稽なのだが、トリックスターはトリックスターらしく
まるで、演じているようにしか思えないのだ。

ふと、思う。
彼がいなければ、この大きなユニットは支えを失い
自壊するのではないだろうか。
しかし、実際にはユニットは新たなトリックスターを生み出すだろう。
そして、逸話は場所を変え、家族を変え語り継がれる。
実際に僕は曽祖父の人格に置き換えられ類似点が挙げられる。
僕の幼少の頃のできごとは一人歩きをし、繰り返し語られ変奏され
いつもの間にか親戚中の誰もが知るところである。

しかし、その家族の物語を通じて、
僕は自分が大きな樹の一部であることの実感を持つことができる。
その枝を手繰っていくと、いつか、枝は大きな幹にたどり着き
そこでは、お伽の物語が息づき、この現実と地続きになっている。
神話に自らをプラグインすることができるのだ。

まさに戦士の姿をした自分が
物語の魔物たちと戦っている姿が見えてくるのだ。
それは大げさにしても、
物語は家族の中にありどう生きるべきかを示唆してくれる。
果たしてそれが現代にとって有効かいなか、それはさておき。
実は神話やお伽話とはそういう類のものであったはずだと思う。
誰かが創作により、ぽこっと取り出して語るものではなく
家族、一族に語り継がれ
もっと大きなユニットの中の生活と神話は深く関わっていた。
生活の必需品としての物語があった。
その中に暮らす者にとっては物語が示す知恵は
絶対であったに違いない。
絶対というよりもむしろ、物語はファミリーツリーを
脈々と流れる水のようなもの。つまり血そのものなのだ。

物語の中には家族の系譜がある。
そして、その血は血族として
自分達の子供に受け継がれる。
人はひとりひとり自由であるが
実は、この家族のストーリーは
多かれ少なかれ、聖火のように
リレーされ、意思として受け継がれるものではないかと思っている。
最近、そんな風に思うのだ。
反抗することに心血を注いだ父との関係であったが
歳を経て確実に父の意思を継いでいると感じられることがある。

僕は特定の宗教を信じないが
ゆるやかにどの宗教も受け入れている。
なににでも見境なく祈る。
ファミリーツリーの前では宗教のビビットさは色あせる。
世界の多くの宗教は
実はこのファミリーツリーの派生ではないかと思うことがある。

人は「人には規範は必要だ」と考えている。
だから寄る辺としての宗教のようなものが必要になる。
そして、僕にももちろん規範が必要だ。
宗教が生きるための多くの滋養を含んでいることは確かだ。
まるまま否定するにはもったいない。
しかし、特定の宗教にはその宗教を生んだ文化の
因習が深く染み付いている。
それをまるのまま飲み込み受け入れるのはとても難しい。
牛肉を食べないで生きるなんてのはできない相談だ。

ファミリーツリーをさかのぼり、神話のさらに先
そこを進むと枝分かれし、研ぎ澄まされもうひとつの極に行き当たる。
それこそが宗教ではないだろうか。
それは枝分かれし根のように入り組んでいる。
さながら、逆さまの樹のような姿となる。

僕はこのファミリーツリーの幹を通じて
根の養分を吸うことができると信じている。
そこには文化の因習に縛られない、
自然な祈りがあるように思えてならない。

ただ、現代はこの家族の樹が危機にある。
見渡すと多くの葉が落ちていくのが見える。
都会では誰もが大きな家族樹と分断され孤立し枯れてゆく。
物語によって与えられていた使命や乗り越えるべき試練はなくなり
目的を失って無闇に色づいていく。誰もが老成してゆく。

都会の生活は確かにクリアで気楽のように思える。
しかし、一方で各家族化は進み、隣人はなくなり
共同体は失われている。
その中で他人を思いやるということも希薄になっているのも確かだ。
そのことが派遣切りやワーキングプアへとも繋がっているようにも思う。

切り離された社会の中で
死や老いや貧困はさらに陰惨にギラついて見える。
一方で昔話にでてくる老いや死は陰惨ではない。
老い死にゆくまでのサイクルを物語はおだやかにみせてくれる
死の間際、荘厳な死の物語
畳の上で皆に見守られて往生することの美しさ。
しかし、そんなものはとっくに失われた。

昔々、子供と老人は共に暮らし
死に行くものから若きものへと受け継がれるものがあり
老人は緩やかにそして確かに死ぬことができた。
子供はジジババと接することでどんどん大人になる。
田舎帰りをした後の子供の成長はいつも見違える程で、
不思議に思っていた。
きっと親が与えられないものを与えているのだろう。
犬も孫犬を見て、突然老い、死の準備を始めると聞いたことがある。
例えばユズリハのようなものかもしれない。

確かに都会の中に住んで家族の実現は難しい。
同じ家の中にいてさえ、現代の家族は孤立する傾向にある。
エコエコ騒いでいるが、我々が失うものは環境ではなく
先に「物語」なのだ。そのことはあまり騒がれない。
環境の破壊は物語の破壊の結果ではないかと思う。
孤立する我々が地球のことを思おうにも
プラグインできるわけがない。
「地球にやさしい」という言葉は単なるコピーとなる。
地球を破壊している我々、地球という家族ユニットを
我々は感じることができないのだ。
まず、家族とつながり、
この地球と言う家族樹の幹にたどり着かなければならない。
そこで、初めて地球にプラグインすることができるのではないか。

都会が我々に求めているのは自然からの孤立、家族からの孤立である。
それは結果として蜂の巣のようなゲージに囲われた生活になる。
そこから全体を見ることはできない。
ネットカフェ難民やニート、異性関係を放棄する人々
都会はあのようなスタイルを人に求めているのだ。
オフィスもそうなっていくだろう。
果たしてどちらが人間にとって優しいのか。



我々は模索しなければならないだろう。
現代に耐えうるファミリーツリーの物語を。
そして、それを探し、子供たちに語り継いで行けたらと
ただただ願う。

自分に残された時間をそのことに費やせたらと
今、考えている。
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by radiodays_coma13 | 2010-01-08 07:03 | 考える
コピーとオリジナル
TVで歌番組を久しぶりに見てみた。
半分以上が過去の楽曲で驚いた。
最近、TVがひどいことになっているときいてたけど、なるほどね。
とてもこのままの状況で来年のTV業界があるとは思えない。

一方
わざわざ携帯のキャリアを
ドコモに変えてまで「BeeTV」をみているのだけれど
確かに面白い番組が多い。
ちゃんと作っているなと感じた。
でも、なんだかみているとしんどくなる。
なぜだか重たい感じがする。

あのTVの「なんとなくみている感じ」
というのができない。

同じお金を払ってみているのでもNHKとは大きく違う。

会員数が増えてやっと成り立つ
BEETVのビジネスモデルは果たして
続けていけるのだろうか。
これもこれで来年が心配。

ネットができてから、人のTVの見方
娯楽の楽しみ方が変ったのかもしれないけれど
一方で膨大に蓄積された過去のコンテンツという問題がある。
クリエイティブな世界は
今後ますます過去のコンテンツとの
戦いにさらされる。

例えば、ゲーム業界も
いろいろなゲームがやりつくされた感がある。

僕は職業ゲームクリエイターのくせに
ゲーム嫌いなので、ゲームのことをろくに知らない。
そのせいでゲーム企画をするたびに
「ああ、もう、それあります」と
冷たく言われてしまう。

しかし、ゲームなんて、大きく分類してしまえば
そんなに種類はない。
確かにやりつくされたかもしれないが
それはカテゴライズして考える、
またはカテゴライズされた頭がそう思わせるだけで
本当はまだまだやるべきことがあるはずだと思われる。

初めて聴いた音楽に「ああ、それロックですね」と言ってしまうようなものだ。
「それ、あのバンドに似ていますよ」
それって悲しい考え方だけど
むしろ、社会が、我々をそんなふうにさせていると思う。
そのことで我々は多くのことを見落としてしまう。
しかし、作り手も自分自身をカテゴライズするために
型どおりのものしか作れない。

「シューティングゲームを作ろう」とか
「スーパマリオ」みたいなゲームを作ろうだとか
枠の中でしか創造することができなくなっている。

そんなことを昨日の歌番組に流れる、今年のヒット曲を聴いて思った。
これはないだろう!
それではまったくの焼き直しではないか。
過去コンテンツとの対決をあきらめ、
再提示にしかなっていない。

歌詞も悲惨なものだった。
ある形式化されたターゲットに
形式化された言葉を選んでいた。
そこで零れ落ちるものの大きさを考えるとせつない。
せめて、せめてリアルをみせてほしい。

しかし、ユーザーはそれらの楽曲に
「オリジナリティがないこと」を批判してしまう。
それはお門違いではないかしらん。
一体、オリジナリティーにどれほどの価値があるのだろう。
新しい絶望や新種の愛があるというのだろうか。

なにかが流行ったらみんなそこに乗っかる。
乗っかっているだけ。
自ら反省するところが多いが
それは理解する前に、消費してしまうような所業。
実る前に刈り取るようなことをしている。
みんなで芽を枯らしてしまうのだ。
本当は大切なつぼみが踏みにじられてしまう。

やりつくした感。
どこかでみた感じ。
みんなたいくつしている。
でも、欠落しているのはオリジナリティーではなく
リアリティーではないのかしら?

新しいものを作ろうとして
本当に革新的な新しいものができるようには思わない。
それはリアリティーの中からひょっこり産まれるように思う。
オリジナリティーを強要する現代は一方で創造力を締め付ける。
ほとんどのイメージは過去の蓄積というデータベースの中に存在する。
写真家は本当に全てのものを撮りつくしたのか?
歌手は全ての歌を歌いつくしたのか?

凡庸でいいじゃないか。
刺激を求めすぎる感性は
いつか刺激の中で麻痺してゆく
凡庸の中から面白さを引き出す
個人の力にこそ創造力が潜んでいるように
思えてならない。

加熱水蒸気式の電子レンジでは
作られる料理が限られてしまうが
火があればなんでもできる。
余計なことはしなくていいのだ。
包丁は変な形をしている必要はないし
ゲームは親切過ぎないでいい。
道具はシンプルな方が自由度が高い。
本当におせっかいなものが多い。
コンテンツも同様だと感じる。

新しいことをしなければ!
今までになかったものを産み出さなければ!
そんな焦りのせいで
電子レンジがしゃべり始め、おばあさんの
肩をもみはじめるかもしれない。
とにかく電子レンジは暖めればいいのだ。
どうか食べ物以外のものを暖めないでほしい。
ネコも荒んだ心も。
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by radiodays_coma13 | 2009-12-08 23:43 | 考える
批判について 傾向と対策
最近、youtubeやニコニコ動画などで
自称クリエイターの人々の作品が並んでいる。
その完成度やオリジナリティーには感服する。

そこには色々なユーザーの書き込みがされていて
賞賛や批判が渦巻いている。
その中で気になる種類の書き込みが
最近、増えてきたような気がする。

それは
「批評する人が上から目線でウザイ」とか
「自分で作れないのにクダナライとか言うな」とか
「技術的に未完成とはお前は何様だ」とか

何様ってお客様じゃないだろうか。
その種の書き込みを作り手側の人が
発していないことをただ願います。

なぜ、批判してはいけないのだろうか。
少なくとも大切な時間をそこに割いてくれたのだから
立派なお客様だ。
「絶対観るな!」と書いてあれば話しは別かもしれないけどね。

批判したことで作り手が育たないなんてことはありえない。
作り手を保護してはならない。
むしろ、作り手は時代の矢面に立っていただきたい。
いくら命を狙われようと、作り手は作る。
その時代に本当に必要なものは誰かが作る。

ワイキキのビーチで美女に囲まれて遊び呆ける
成金の息子の交響曲を多くの人が望むだろうか?

もし作曲家ショスタコービッチが国家から認められたら
戦争で命の危険にさらされなかったら
あの素晴らしい交響曲はかけただろうか。

「もし」はない。
けれど、結果的に戦争を超え
閉鎖された冷戦下のソビエトで
国家の批判にさらされたショスタコービッチは
現代人に共感しえる同時代的な作品を書いた。

「自分が作れないくせに」批判するなという意見がある。
「なにも知らないくせに」とでも言いたいのだろうか。
じゃあ、誰がその作品を買ってくれるのか。
企業がそれに対価を支払ったとしても
最終的にそれを選ぶのは
「なにも知らない」はずのエンドユーザーなのだ。

全員がいっぱしの批評家気取りでもいいじゃないか、と思う。
それはとても幸せな環境だ。
昔はものつくりになるためにはパトロンの存在が不可欠だった。
僕だって口八丁で企業を説得し、ものつくりになった。
しかし、今は全てのユーザーに門は開かれ。
ユーザーの直接的な力で「ものつくり」が生まれるような仕組みもできている。
なんて、幸せなんだろう。

「なんて幸せなんだろう。」
しかし、その幸せはこれからモノツクリをはじめる人々にとっての幸せ。
現在、ものつくりの権威にある人々は戦々恐々としているはずです。
そこでは本当の実力が問われるからです。

売れるものつくりと売れないものつくりの違いには
流れという運が大きく左右することはハッキリしている。
ある程度の実力があれば、あとは流れに乗れるか乗れないか。
同じ程度の実力をもった人間はたくさんいる。
芸能人も同じことだと思う。
すさまじい実力を持ち
自らプロと名乗ることもなくニコニコ動画などで
発表している猛者の人々。
「かなわないなぁ」と正直思う。

たいして実力のない自分が、なりたかった、ものつくりの職業についている
これは幸運でしかない。
もし、立場が逆転していたら、多くの人がもっと良いものをつくるだろう
そう思う。

経験値なんて誰にでも身に付くものくらいしか盾にはなってくれない。

「表現者」という職業。
それを引き受けたのだから。
それでお金をもらっているのだから
クソだといわれたら
それを真摯に受け止めなければならない。
その人にとってはクソだったという事実がある。

それでも我々は食べていかなければならない。
その批評を超えていかなければならない。
そういう職業なのだから。
むしろまともな批判さえされないもののほうが悲しい。
批判されないよりかはクソの方がマシだ。

もし、飲食店を営んでいるのであれば
もっと話しはシンプルだ。
マズイなんていわれなくても
次から来てもらえない。
それだけのことだ。
そこには批評もなにもない。
そして、店は潰れる。
何かしらの価値がなければ見放されるだけだ。
父がサービス業だったのでよくわかる。

それに比べたら芸術家は幸せだ。
「これは芸術です!」といえば半分くらいの人は
「そういうものかぁ」と納得してくれる。
サービス業だとそうは行かない。

例えばボランティアなら
対価として「感謝の言葉」でも欲しいところかもしれない。
しかし、少なくともそれで対価を得ているのであれば
もしくは、プロを目指しているのであれば
感謝の言葉など必要ない。
「同情するなら金をくれ」なのだ。
ものつくりはボランティアではない。


表現者という意味では芸能人も同じことだろう。
芸能人が自分のネットの悪口を批判したりする。
最低だと言いたい。
お前は芸能人だろう?と言いたい。
それが引き受けられないならやめちまえ。
誰とは言わないがそんなプライドもないのだろうか。
噂が彼らをつぶすこともあるだろうが
一方で、今、彼らが生活できているのは
良い噂のおかげでもある。
悪い噂を否定して、良い噂だけを受け入れるなんてムシが良すぎる。


「やっぱり良いものは世に出る」なんて夢物語は信用できない。
すべてはタイミング。
良いものが必ず世にでるなら、孔子は世界の王になっていたに違いない。
ゴッホの時代にはゴッホになれなかったたくさんの不遇のゴッホたちがいる。
不遇の表現者たちを救うのは
多くの人の温かい、そして辛辣な批判でしかない。

そして、僕は自分の関わったコンテンツの
たったひとつの賞賛を探しにネットを放浪します。
そして、どぎつい批判の嵐の中にある
「おもしろい」という言葉少ない感想に涙することもあります。
その人に会って、もしできることなら抱きしめたい。
そして批判をしてくれたユーザーには
大切な時間を割いてくれたことへの感謝と謝罪の気持ちでいっぱいになります。

「こんどはきっとたのしませるからね」
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by radiodays_coma13 | 2009-11-19 01:55 | 考える