「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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カテゴリ:子供向けコンテンツを作ろう( 5 )
毎日を普通に生きるための物語
最近、仕事の忙しさに、ボーッとして考えることを止めていたように思う。
とにかくやらなければいけないことをやる時は自我を消すのが一番。
でも、子供と遊んでいる時に居眠りをしていたら
奥さんに、今まではそんなことなかったと言われショックを受けた。
さあ、そろそろ子供向けコンテンツの実制作を開始します。

上の子が幼稚園の年中さんなんだけど、年長さんともなると
もうお受験の準備が始まっている。いや、正確には、年中の今頃から
公立に行かせようとしている親たちは、習い事を始めたり
準備は始まっているようです。
今の子供たちはこんな時から、想像もできない自分の未来に向けて
走り出すことを余儀なくされているのか。
まだ、自分が何者かもわからないのに・・・
一体、何処に行けと言っているのだろうか。
闇雲に、親が指差す方向へ鞭打たれる。
これでは大人になる前に疲弊してしまうんじゃないだろうか。

彼らにとっての幸せはなんなのだろうか?
子供たちの幸せのためにと良く言われる。
しかし、そんなの彼らにしかわからない。
それを、親の世代であるわたしたちが、あれこれ想像して
鞭打つのは、身勝手といわざるを得ない。
えてして、こうあるべきという幸せは紋切り型でしかない。
しかし、どの親もそうせざるを得ない、それは皆がそうしているから。
たったそれだけのことなのだ!
「みんながそうだから」
そんなの怠慢以外のなんでもない。想像力の欠如だ。
子供の幸せのためというのは、体のいい、言い訳に過ぎない。

就職率の低下なんてことが言われているが
それは求人率だけの問題ではないように思う。
就職に魅力を感じられない人が増えているという一面もある。
それは今後、もっと深刻な問題になってくると思う。
何故か?だって、仕事の面白さや、多様な未来について
誰も教えなかったのですもの。もっと増えるんだろう。


そりゃ、絶望したってしょうがない。
TVやメディアが言うのは「金持ちになるために」「夢を持て!」「成功しろ!」
それから、夢を持ち、成功するという薄っぺらなサクセスストーリー。
そんな紋切り型の理想や物語で幸せになれるのはほんの一握りの人でしかない。
じゃあ、そうじゃない人は、どうやって幸せになればいいの?
ハレとケでいう1割にも満たないハレの生活にしかスポットを当てていない。
教育は、我々が当たり前に生きる為の9割以上を占めるケの生活について
より豊かに生きるための知恵を教えない。
しかし、我々の圧倒的多数が凡庸な日常に追われる毎日を過ごすことになるのである。
にも関わらず、その凡庸だが平和な毎日はむしろ悪であるかのように言われ
そこから脱出して、上を目指せだの、当たり前の生活を捨てて
仕事に明け暮れ、成功を掴めだの、本当にうるさい。
そして、金を掴んだ老人になって、世の中金だけじゃないとのたまうのだ。
そんな茶番を見せ付けられて、未来に希望を持ち、日常が楽しいと思えるはずがない。

いや、むしろ金持ちだって、特別な人々だって、
凡庸な毎日を過ごしていることは間違いない。
しかし、「いや!そうではない」と思わせようとしているのが問題なのだ。
そうではないと思い込まされている。退屈な夢を描かせられているのだ。
きらびやかに装飾された理想の生活。それを見せることは消費を促す手段でしかない。
誰もが理想の生活を手に入れられると信じ込ませる。みんなが?理想の生活?
そんなわけないだろう。そんなことしたら、地球が何個あっても足りない。
常に未来に投資し続ける資本主義的なやり方はいつか破綻する。
永遠に右肩上がりの経済なんて、普通に考えてないはずなのに。
現に、世界的な不況がすぐそこまで来ているではないか。もう、大人たちも
強制的な夢に息切れして疲弊してしまっている。

本当に今、必要なのは凡庸な毎日を楽しむ知恵ではないか。
我慢して稼いで、ゴージャスなバカンスではなく
毎日、延々と続く仕事や日常そのものを奥ゆかしく楽しむ知恵。
そして、成功だけが人生ではないと教えてくれる物語。
それらが今、圧倒的に不足している。

「モノを買わずに幸せになる本」
なんてあったとしても企業はそれをオススメしない。
「夢をみない地味な生き方」
なんてハウツー本も書店は売りたくないだろう。
我々は誰から勝手に、買わされ、夢を見させられ、物語られているのだ。

教育は、若者の読解力の低下を警告しているが、
それは教育により奪われたと言ってもいい。
教育は紋切り型の理想を教えることで、人が、自由に物語る力を奪っている。
いや、教育に任せた方が悪いのかもしれない。
教育機関は工場でしかない。学校でいう自由など、与えられた範囲のものでしかない。
つまりそういうところなのだ。そこを出たからと言って
幸せが待っているわけではない。
それが答えであるということは、現状が物語っている。
教育は何故、こんなにも多くの、ニートを生み出してしまうのか。
そして、なぜ、こんなにも多くの、仮想空間の物語に没入する
ネトゲ廃人が存在するのか。

では、自らを物語る力はどこで養われるのか。
それは「遊び」でしかないと思う。
そして、遊びは子供の間でしかできない。
子供の頃にちゃんと遊べなかった子供は
大人になっても、正しい遊びをできない。
子供の頃に遊んでいないと、もう本気で遊べる時期はこない。
大人は習い事や、教育によって、子供からこのような大切な遊びの時間を
奪っているということを自覚すべきだと思う。

そして、子供がよりよく遊べるために、ただ、子供を放置するのではなく
子供が自由に遊べる環境を整えてあげる役目が大人にはある。
それは与えることではなく、無為を過ごせる時間をつくること。
習い事以外でスキマを埋めることでは決してないだろう。
テレビも、ゲームもなにも与えず場所と時間だけを与える。
最初は退屈するだろう。その退屈こそが一番の肝なのではないかと思う。
でも、いつか自分で遊び始める。大人が参加するのはここからだ。
子供の考えた遊びに参加するだけだ。

遊びの中で子供は、自分がどのような形をしているのか
自分自身で気づくチャンスを得る
必ず、子供は遊びの中に自分が熱中することができる何かを見つける。
そして、遊びの中で大人と接し、世界の手触りや、範疇を知る。
それを通して、必ず、それらに付随した知識、それを得るための環境づくりを
自分でやるようになる。自分から学ぼうとするのだ。
何かを学ばせるのはそれからでも遅くないのではないか。

子供の遊びの段階は進化していく。
ただ、何かを見るだけのブラウジングの段階から、モノを使って遊びに参加する段階。
次にルールを持って遊び始めるゲーミング。
ゲームのルールを変容させるオーサリング。
それから、その仕組み自体を変容させる、スクリプティング。
遊びは次第に高次のものになる。そして、物語れるようになるのである。
遊べなかった子供はその頓挫した途中の段階で進化を止めてしまう。
それはどんなことを意味するのか、例えば、オーサリングに達していない子供は
現実を自分で変えることができないという感覚の中に住んでいる。

現代の教育は、子供と大人、特に両親が遊ぶチャンスを奪っている傾向にあると思う。
わたしが作りたいのは、このチャンスを少しでも増やすもの
教育的ではなく、原始的な遊びの中にそれを見出したい
それを現代のテクニカルに置き換えて
より、現代という状況にマッチした形で、進化した玩具を作れたらと思う。
本当に少しでも、子供の環境を改善できれば・・・
そのためにできることをしたい。
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by radiodays_coma13 | 2011-10-11 06:26 | 子供向けコンテンツを作ろう
ネット依存2-情報に酔う
前回の記事を書いたあとに
ネットは麻薬と同等の中毒性を持ちうるというニュースをみつけた。

やはりネットで人は多くのものを失っているというのは間違いないみたい。
では、「ネットで人はなにを失うのか?」

あまり見慣れない質問のような気がする。
依存を起こしえるということは
そこにはもちろん、何か得るものがあるということだろう。
それは「情報」なんていう安易な答えではないだろう。
ここで得るものは失うものと表裏一体のものであるに違いない。
実は得るものも失うものもあまり意識できていない
そして、あまり語られることのないもののような気がする。

今までもTV中毒というものが存在した。
TV中毒については性質上、メディアによって、隠され庇護された。
(TV文化の蔓延によって何が起こるか、このことは
バリー・サンダース著「本が死ぬとき暴力が生まれる」に詳しい)
しかし、おそらく現在、それはネット中毒に駆逐されつつあると感じている。
それはネットの方が得る快感が多いからだ。
それは、つまり失うものも多いということも意味する。
中毒の快感には「失ってゆくことの快感」もある。
そしてその結果もたらされる最も本質的で強烈な
「麻痺」という快感が訪れる。
「麻痺」こそが人を中毒に貶める。

ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」の中に
遊びにある5つの分類について説明されている。
その分類のひとつに眩暈を意味する「インクリス」がある。
分りやすい例はジェットコースターなどの遊びがこれに分類される。
そしてカイヨワは示唆していないが
パチンコやネットという遊びの先にある快感も
これに該当すると思われる。

単に情報を得る為のネットになぜ中毒になりえるのか
一見、遊びとは思えないようなネット閲覧も
麻痺という点からそこに自己破壊欲求的な
「眩暈」という種類の遊びの要素を強く含む。
その意味でネットは単に欲しい情報を得るためのものではなく
酒やドラッグのように「麻痺」を起こさせる「装置」でもあるという
認識も必要になってくるように思う。

ではネットで眩暈を起こさせる麻痺とは
何によってもたらされるのか。
強い中毒性を持つ、掲示板やソーシャルメディア
それらの発言をまとめたサイトなどにハマる理由。
自分の例でいうと
掲示板やまとめサイトなどでは
「こんな人もいるのか」であったり「自分に似ているな」だったり
ソーシャルメディアの場合は「なんとなくつながっている」という感覚。
つながっている安心感。
そして、誰かの発言をみて自分だけではないと思う安心感。
この「安心感」こそがドラッグなのだと思う。

掲示板の例で言えば
そこではどんな崇高な言葉も茶化され、
どんな感情や思想も正当化される。
例えば自分の最悪な状態を上回る最悪な状態があり
それを見ることで、ちょっとした安心を得られる。
そこで抱くネガティブな感情は肯定され
本来、その状況に対する反発として起こりえる気力も削がれてしまう。
削がれるというよりも飲み込まれてしまう。
そこでは死をもカジュアルに取り扱われ、深みをなくす。
気がつくと、全ての感情が飲み込まれ、平面化され
ただ、その中に漂っている自分に気がつく。
例えば、引きこもっている自分がそれでもいいような錯覚に陥るのだ。
これを麻痺と呼ばずになんと呼ぶだろう。

自分自身、一年間自分のアパートに閉じこもったことがあるが
当時はネットもなかったので、その中でいろいろなことを考え
行動し、ついにはその殻を破って出てきた。
TVもなかったのでなにしろ退屈だったからだ。
殻を破ったというより、爆発したのだ。
もし、そこにネットがあれば、殻から出て来れたか疑問に思う。
少なくとも一年ではすまなかっただろう。

TVは情報を垂れ流し、閲覧者はそれをただ、受動的に受け取るほか無い。
TVの脅威は身体性を奪うことにあるが
ネットは一見、自分で情報を取捨選択しているようだが
その実、人はそこを漂っているだけなのだ。
一見、能動的であるという点がTVよりも恐ろしい。
自分の意思で、ズルズルと麻痺を選択し続けている。
行動力はそこで費やされてしまう。
本当に求めている情報を得ているわけではないのだ。
その点に意識的にならなければいずれは情報に酩酊してしまうだろう。

本来そこに、自分の思考やら、
アイデアが醸成し発現する精神の空洞の部分に
自分の意識ではなく、ネットの情報が雪崩れ込んでくる。
その状態では、自分の考えが本当に、自分のものなのか
自分の欲求が本当に自分のものなのかが疑わしくなってくる。
現代人はいちいちそのことを自問しなければならなくなった。

創造することにおいて豊かな「退屈」という白紙の土壌が
情報によって汚染されている。
いつしか人は余白を恐れるようになる。
常に、自分の時間をなにかとつながっている状態にしたがる。
短い余暇でさえ、「スキマ時間」の名の下にコンテンツを流し込む。
時間の余白をなくすことで、人は自分と対峙しなくてよくなる。
麻痺することができるのだ。
「自失」そして、人がシラフであることはなくなった。

都合のいいことに、自己啓発や安易な脳科学が
自分自身もデザインできますというようなことを声高に宣言している。
自分という無限の闇にも強烈な光を当てようとする。
「皆さん、怖くないですよ」といわんばかりだ。

世間ではなんとなくネットワーク的な生活が推奨されている。
センシティブな都会人はブログをたしなみ、
日々ツイッターにいそしむものです。
それが教養というものですというように思い込んでいる。
そして、自分もその一人であろうとする。
そのことで、なんとなく社会とつながった気になっている。
社会という全体の一部になれたような充実感。
どこからやってくるのか、不思議な安心感を得られる。
しかし、それは本質の安心ではない。
そこではただ、価値の平面化が行われ
全ての聖域が白日のもとに曝され、損なわれてしまう。

しかし、あえて、言いたい。
そこは暗くて怖い。なにがでるかわからない。
安い安心なんか買いたくはない。
自分自身の中の空洞を死守せよ。
…と。
一体、どのようにしてネットと向き合っていけばよいのか。
人が、自分が、この新しい感覚としての外部デバイスを
一日も早く、自分のものにするために
それを利用することになる子供たちのためにも
考えておくべきことはまだまだ多いと思う。
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by radiodays_coma13 | 2011-08-25 07:34 | 子供向けコンテンツを作ろう
ネット依存「ボクは何を失っているのか?」
インターネットには酒やタバコ、麻薬並みの常習性があるという。
だとしたら、僕もインターネットに依存している者の一人
ということになるだろうな。
僕はタバコも麻薬もたしなまないが、酒のような常習性を強く感じる。
最近、それが怖い。

一時期、お酒を一日と欠かさず飲み続けた日々がある。
その成果もあって脂肪肝と診断されたりもした。
しかし、子供が出来たことをキッカケに
過酷な減酒政策を敷き、血のにじむような
努力の結果、週3回の休肝日にも耐えられるようになった。
最初は、「ヤバイよ、コレ」といいたくなるくらい辛かった。
まさか、アル中ではあるまいかと思ったくらいだ。

で、現在、減ネット政策を発令中なのだが
あの時の苦しさがフラッシュバックしている。
いや、むしろ、ズルズルさで言えば、お酒よりもひどいかもしれない。
お酒の場合、さすがに職場で宴をはじめるわけにはいかないけれど
ネットは業務中にも宴が始まってしまう。
仕事がら、調べものに多用しているのであるが
ひとつのキーワードから、気になるキーワードを見つけ
気がついたら、宴もたけなわで、ネットサーフィンをしている自分
最初の調べものがなんだったかも分らなくなっている始末。

お酒なら断酒というのもありえるが
断ネットというのは難しい。
どうしても、触れることになってしまう。
一度、今日は無駄なネットはしないぞ!と心に決めたが
夕方に手が震えた…。
まったくの依存状態である。

果たしてあの「ネットにつながっている安心感」はなんなのだろう。
どうすれば、このズルズルから足を洗えるのだろう。
きっとその先には、あんまり直視したくない、自分の抱える問題が
ぶらさがっていたりするのだろうな。
でも、これは僕だけの問題ではないような気がする。
多かれ少なかれ、得るものもあるが
そこで、失っているものもあるはずだ。
問題は失っていることに自覚的になれずに
失い続けることである。そして、「失うもの」の大きさ。

「ネットで何を失うかなんて誰も教えてくれなかった。」

ネットワークは人間にとって新しい器官のようなものだと思う。
今、世界でなにが起こっているのかを同時的に知ることができ
さまざまな考え方や、いろいろな角度の視点をもつことができる
そして、自分の記憶媒体にもなる。
別々の場所にいながら、誰かとコミュニケーションができる
人の第六感のような存在。携帯電話なんて、
昔の人からしてみればテレパシーそのものだ。
人は突然、それを手に入れてしまった。
触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚、そして、次の情報処理手段としての
感覚を手に入れたといっても言い過ぎではない。

新しい感覚を手に入れることで生き物は次のフェーズに移行してゆくのだが
果たして、人間はそれについていけるのか?
何十年も目がみえなかった人が、
外科的な処置によりもう一度目が見えるように
なっても、入ってくる情報が一体何を意味するのがわからないということが
おきるらしい。そして、それを拒否してしまう例もある。

感覚を手にするということは
それほどの情報インフラを起こしてしまうしまうものなのに
本当に、何千年と身体的には進化していない人間が
この情報インフラに精神的に耐えれているのだろうか。
しかも、この情報処理手段は生来のものではなくて後天的に
与えられる能力なのだ。
通常、生物が数億年単位の長い時間の中で手に入れる感覚を
人間は一世代で手に入れてしまった。
なにも起こっていないというのがおかしな話だ。
きっとそこには、目にみえないにしても
計り知れない変容が発生しているはずである。

(続ける・・・)
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by radiodays_coma13 | 2011-08-09 00:49 | 子供向けコンテンツを作ろう
子供向けコンテンツの進捗とお詫び
現在、「子供向けコンテンツを作ります」と宣言して
いろんな人の助言や協力をもらいながら
その可能性やコンセプトに関して、詰めていっております。
ちょうど、その考察等を日記形式でアップしているということもあり
いろいろな方からどうなったの?というような言葉をいただいています。
そこで、この場で進捗の報告をさせていただくことにしました。
当初は夏過ぎくらいに、なにかしらの形
つまりα版となるものを作り上げる予定でおりました。
しかし、実はほとーんど進んでおりませんのでございます。
もちろん、寝ても覚めても子供向けコンテンツのことを考えております。
ええ、それは嘘ではありません。

しかしながら、わたしの悪い癖であんまり風呂敷を広げすぎて、
いろんな人に協力してもらったもんですから
逆に、それは面白いねとか
それなら、こうした方が良いというアドバイスを沢山もらい
企画は膨らんで膨らんで、
もう、一人の力ではなんともならなくなってしまいました。
今のままの企画を実行するとなると、会社も辞めて、
それなりの投資をしなきゃならないレベルまできてしまいました。

その中には助力するよとか、投資するよとか、
惜しげもなく貴重なアイデアを提案していただいた方もいます。
本当にありがとうございます。この場を借りて感謝いたします。
しかし、それはそれで、契約とかなんとか色々と手続きが必要で
それで動き出すとなると、もう、それは自分のプロジェクトではなく
或る程度の責任の伴う案件となってしまうのは目に見えております。

もちろん、人を巻き込んで動くとなると、それなりの責任が発生するのは
百も承知です。そして覚悟もしています。
しかし、まだ、この自分自身の軸がブレている段階で
動き出しても、おそらく納得のいくものはできないと考えました。
今までそれを生業にしてきているので
なんらかの形にはすることはできると思います。
ただ、このプロジェクトにおいて、それだけはしたくなかったのです。

現在世の中にあるようなコンテンツを自分のライフワークとして
貴重な自分の時間を使ってわざわざ作る必要はないかなと思っています。
しかし、残念ながら、今の段階では
それくらいのものしかできそうにありません。
単なる奇抜さではなく、必然性をもって、そのコンテンツを生み出すには
それ相当の問題意識と、情報量が必要になると考えています。
というわけで、今、協力していただいている方
これから協力していただく方には
引き続き、わがままなご相談をさせていただく事になると思います。
本当に、身勝手なお願いになってしまい申し訳ありません。

とはいえ、そんなアイデアが形を成すまで
ただ待っているかというとそうではなくて
まず、草むらの中にあぜ道くらいは作りたいと思います。
多数で動くとそれなりの労力がかかるため、私個人で動ける範囲で
まずiphoneやAndroidマーケットに簡単なアプリを出す予定です。
それから、ふくらんでしまったアイデアに関しても、
もし動けばどうなるかのシュミレーションは引き続きデータ収集していきます。
秋までに形を作るというのを断念したのもシュミレーションの結果で
それが不可能とわかったからです。
そして、それを急ぐのが得策ではないと考えたからです。

今は、落ち着いて、子供向けコンテンツに関して
その可能性、問題意識を明確にして
できるだけ多くの方に情報を発信し、情報交換をしたいと考えています。
もし、このプロジェクトのために、何かを待っていただいていたり
他でも使えるアイデアを差し止めていただいているのであれば、
わざわざ、わたしが言うまでもありませんが、自由に使ってください。
ディスカッションの中で出たアイデアの場合も同様、
そのアイデアの権利を主張したりしません。

アイデアは出せば出すほど、人目にさらせばさらすほど、
次に良いものが出るものだと思っています。
なによりも、アイデアは天啓のようなもので
個人のものではないという信念があります。
それを形にした者がはじめて
その創作物に対して著作を名乗れるのだと思います。
とはいえ、わたしの方から無断で、
多くの方からいただいたアイデアを形にすることはありませんので
ご安心ください。

いつか協力していただいた方が
「協力してよかった」と思えるように
尽力して参りますので、
今後とも何卒ご協力、宜しくお願いします。

それから、こうやって、内情を明らかにするのも
なにかしらの反応が欲しいからに他なりません。
なにか、ちょっと教えてやろう、とか
こう思うという意見、貴重な情報があれば
教えてください。そっと耳打ちでもいいです。
面倒くさがらずに、おせっかいしてください。
反論でも、文句でもいいです。
受けて立つほどの体力も知力もありませんが
打たれ弱くはありません。
どうか、宜しくお願いします。

里宗
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by radiodays_coma13 | 2011-07-29 01:58 | 子供向けコンテンツを作ろう
歌舞伎を観て考えた子供向けコンテンツの現在
新橋演舞場で上演されている6月歌舞伎に
会社の社長と二人で観に行った。

帰りの電車で、いろいろと舞台について話した。
「果たしてこれが現代人にとって本当に面白いのか?」
例えば、歌舞伎と映画を比べて、どちらを面白いと感じるか?
社長がそう言った。

そう言われると確かに、答えは明確だ。
歌舞伎の客層は若くは無かった。
それが答えなのかもしれない。
60歳の誕生日の朝に目が覚めると突然、歌舞伎がむしょうに面白くなるなんてことは
ちょっと考えられない。
つまり、だんだんと理解できなくなってきているのじゃないか。

舞台の仕事をしていたので
やはり舞台を色眼鏡でみているのかもしれない。
歌舞伎をそれなりに面白いと感じている。
しかし、それはあくまでも当時の文化に思いを馳せて
感覚に下駄を履かせていることは否めない。

いや!ただ、面白いだけではない、なにかがある!
それを芸術というのだ!
そしてその400年もの歴史の深みを理解できるなかなかにカッコイイ自分!
なんて、自分に酔いしれているところもあるんだろうね。

今まで多くのつまんない舞台を我慢してきた。
なにか得られるものがあるんではないか、
面白いだけではダメだとか、
これは心のお薬なのだとかね。

でも、今は作り手としてこれは思っちゃイケナイんだなぁと
考えるようになった。
命題「ひたすら面白いものをつくること」

本当に歌舞伎が観られていた時代において
舞台の物語はもっと親近感のあるものだっただろうし
言葉も、当時の人からは難解ではなかっただろう。
もっと俗っぽい存在だったに違いない。

今回観た舞台も5時間近くの長さがあったが
当時はもっと長かったらしい
しかし、それは当時の時間性の中での1日だったのだ。
現代人の一日とは時間の流れ方が異なる。

そういう物語の話題や当時の文化の違いを説明なしで
理解し味わうのは不可能だ。

舞台が回転したり、雪が降ったりというのは
当時の観客にとってはスペクタクルであったに違いない。
舞台で斬った張ったが行われ、血まみれの人がのたうつ。
観客はきっとド肝を抜かれたに違いない。

これは映画も変わりない。技術が進歩して、それが
CGや3Dに置き換わったに過ぎない。

大きな疑問。果たして歌舞伎を当時とできるだけそのままの
姿で現代に持ってくるのに意味があるのだろうか?

それはきっとあるだろう。
しかし、もっとできることはないだろうか。
社長が呈した疑問はすごくわかりやすかった。
「それでは映画となにが違うのか?」
劇場の様子は普通の映画館とそう大きく変わりなかった。
そして、舞台は花道こそあるものの
スクリーンのあるはずの場所で行われる。
お芝居はすっぽりと舞台の中に鎮座している。
生身の人間がそこで演じるという絶対的な価値を
より引き出すための仕掛けは花道だけではないはずだ。

「大江戸温泉物語」に行った事がある。
あとで考えるとなんてことないのだが、
その時は、夢見心地で楽しんだ記憶がある。
他の大規模温泉となにが違うのかと言われると
ひとつひとつ取ると大差はないのだが全体として
ひとつの世界を作り上げている。
客は全員、まず浴衣に着替えて、その仮想の街を満喫する。
そこで興じる金魚すくいは
普通の金魚すくいとはまったく異質なものだった。
舞台でけん玉ショーをしていたが、それに異様にワクワクした。
ここで歌舞伎をやればさぞ面白かろうと思った。

現代で成功しているエンターテイメントの傾向として
テーマパーク化がある。
ディズニーしかり、多くの施設、そして社会そのものが
テーマパーク化してきているようにも感じられる。

ならば、歌舞伎も、本来の通俗芝居として
それらを取り入れるもの間違ってはいないはずだ。
演舞場に入る前に当時の町民の服に着替え
ゴザが敷かれてある舞台に座る。
ディズニーやUSJのように炎や水の演出を取り入れ、
画面から飛び出すスペクタクルを演出する。
舞台の外では団子や蕎麦の屋台がある。

猿之助のスーパー歌舞伎や、
勘三郎のコクーン歌舞伎はそういう試みのひとつだと思う。
そしてそれなりに楽しめるものだったし、その試みは
本当の泥を使う等、演舞場での歌舞伎にも取り入れられてはいる。
しかし、やはり歌舞伎は歌舞伎であることはやめられない。
それを失った時点で自らのレーゾンディティールを失うのかもしれない。
歌舞伎と旅芝居はなにが違うのか、歌舞伎と吉本新喜劇とはなにが違うのか。
それを他と区別するものは一点、それが「歌舞伎」であることに他ならない。

純粋な観客なら、そんなことは考えないで済むのかもしれない。
しかし、作り手として、それを職業としてやっていくには
やはり、今、自分の周りのいる同時代の人々に金をもらわなければならない。
それが本当に、純粋に楽しく、課金に耐えうるのか考えないでいることはできない。
「文化」だ「心の薬」だというのは批評家や後の時代の人が考えることだ。

「子供向けのコンテンツが作りたい」
という目標もやはり同じことが言えるのだろう。
配信するからには、子供が他のコンテンツよりも
面白いと思ってもらえるものでない限りはありえない。
ただ、ためになるから親が子にやらせようというコンテンツで成功したものはない。
子供が自発的にやりたがならない限り、成立しない。
それは現代のテクノロジー、現代のリアルからでないと立ち上がってこない。
テレビとスマートフォンではできるコンテンツは違う。
そこで使われる言葉のベクトルも時間性も異なる。

「おそらくスマホを使ったコンテンツを試験的に作ると思う」
子供向けコンテンツの製作について助言を求めたある児童教育の専門家に
「なぜ、よりによって電子機器を使わねばならないのか?」批判をもらった。
せめて子供の時くらいは、シンプルな自然の玩具で遊ばせたい。
ごもっともだ!わたしもそう思う。それが幸せかもしれない。
そういう社会の中だけで生きれたらという注釈付きだけれど。
どちらにせよいつかは情報の海に放り込まれるのだ。
その後のギャップに苦しむよりも
情報の海の波打ち際で、安全なトレーニングをしなければいけないと考える。
玩具が大人への模倣やトレーニングという面があるように
情報を玩具化したものが現代の子供には、必要ではないかと考えている。
子供は敏感である。大人よりもそれを楽しむ才がある。
今の子供に情報の海を見ないようにしろというのは不可能だ。
ギリギリまで目を塞いでおぼれてしまうよりも
ならば誰かが、責任をもって、安全な玩具にしてあげなければならないだろう。
木の玩具は他の誰かが作ってくれる。
僕にはただ、それができないだけの話だ。

課題だらけである。
今の子供たちは何をもっとも楽しむのか。
本当は何をして遊びたいのか。
もっと子供たちと一緒に遊んで考えようと思う。
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by radiodays_coma13 | 2011-06-27 02:28 | 子供向けコンテンツを作ろう