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言葉と文化
by radiodays_coma13
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だんしがしんだ
談志が死んだ
だんしがしんだ

おかしな回文。
冗談みたいな本当の話。
ついに僕は立川談志師匠の高座を見るチャンスを失ってしまった。
もう少し早く落語に熱くなっていればよかったと悔やむばかりだ。

昔から、お笑いがたまらなく好きだった。
関西人だからというのではない
むしろ、関西人であったからこそ
天邪鬼ゆえにお笑いから距離を置いてしまったくらいだ。
小学生の頃はなんとなくお笑いを目指していた。
初めてコンビを組んだのが小学校4年生の頃。
同級生の山本くんと「日露戦争」というコンビ名で
ネタカセットを作り売りさばいた。
しかし、関西人という枠から超えることができず
目指すお笑いを関西であることが邪魔をし、スランプに陥る。
ついにはその実力を公にみせるチャンスもなく
失意の中で惜しまれながら解散してしまった。
奇しくも20年後、違う山本くんと
再度「RADIODAYS」という
お笑いまがいのパフォーマンスコンビを組んだが
夢いっぱいの上京直前
相方に逃げられてしまった。
まったくついてない。

こつこつと落語は見ていた。
特に桂枝雀師匠の落語が大好きだった。
落語の喜びを共有できる同世代の友人など存在しなかった。
その頃丁度、漫才ブーム。
「落語が好き」なんてあまり公言したくなかったのだ。
それに落語なんて伝統芸能みたいなもんだし、
いつでもみれるや、じいさんになってからでも遅くないと思ったのが
運の尽きだった。

気がつくと、小さん、志ん朝、枝雀が亡くなり、
米朝さん高座にあがらなくなり、名人といわれる人がいなくなっていた。
この歳になって、ようやく落語を共有できる友人と出会い
落語に改めてのめり込んだ。
が、しばし遅かった…。

もう観るチャンスの残されている名人は
柳家小三治師匠と立川談志師匠しかいなかった。

ここ最近、過去の名人から、存命の噺家さんの
録音を片っ端から聴いていった。寄席にも通った。
今はなき名人の人たちの録音はさすがに素晴らしかった。
三笑亭可楽、三遊亭円生、桂文楽はヘビーローテーション。
が、存命で枝雀師匠を生の高座で観たときと同様の衝撃を受けたのは
たった一人、高座で観た、柳家小三治師匠だけだった。

そして、立川談志師匠。
僕は、嫌いだった。TVに出る彼の傲慢で高慢ちきな
話し方がすこぶる嫌いだった。
チャンネルを変えるほど嫌いだった。
高座の録音も知ってはいたが避けていた。
見た感じが嫌なんだから、高座も嫌に違いないって。
それさえなかったなら…。今は悔やんでも悔やみきれない。
YOUTUBEで彼の高座の動画を発見したので、
怖いもの観たさ半分、いやなら、すぐ消せばいいやと思って観てみた
「芝浜」にただただ、度肝を抜かれた。
紛れもない名人だった。
型破りなのか自由なのか、今まで見たことがない落語だった。
神がかっていると感じた。
その瞬間「しまった!」と思った。激しい後悔。
とっさに彼の高座を探した。しかし、遅かった。

しかし、チャンスを待とうと思った。
もしかしたら、そんなチャンスがあるかもしれない…。
一度、根津のお祭り、確か昨年の10月だったと思う。
そこで、談志師匠を見かけた。
どこかの店先で色紙を描いていた。
釘付けになった。
僕が談志さんを生で見たのはついにこれが最後になってしまった。

僕が落語に感じていた息吹、なんというか落語が主題とする
日本人の原風景となった江戸や昭和初期の人々の生命感
それが僕にとって他のお笑いには変えがたい魅力であった。
そして日本人の土着的な笑いの本質。粋や息や色気を
プンプンを匂いたつくらいに感じられた。
落語を聴くと干物が食べたくなった。
落語を聴くとむしょうに酒が旨かった。
(子供の頃は酒は飲まなかったけど、お風呂で洗面器にお湯を入れ
落語家の真似をして、んぐんぐお湯を飲むフリをして
お燗はいいねぇ、喉のこの辺をキューと酒が通るのがわかるよ
五臓六腑に染み渡るとはこのことだね、とか一人悦にいっていた)

そんな息吹を感じられる噺家さんはもういなくなった。
なにかが終わった。失われたと言っても言い過ぎではないと感じる。
自分がある時代に取り残されてしまったという寂寞感。
もうあの息吹がないのなら、落語じゃなくてもいい、
新しいお笑いでも探そうかしらと自暴自棄になりそうになる。
しかし、まだ、たった一人、柳家小三冶師匠が生きていてくれる。
もう、拝むような気持ちだ。
あと、何回、師匠の高座を観れるだろう。
落語の最後のともし火を僕は自分に許される限り観ておこうと思う。
そして、自分の子供にも一度、みせてあげたい。
いつか、大人になって、
「僕はあの柳屋小三冶を生で観たことがある」というのを
きっと自慢できる日が来るはずだから。
それは日本人にとっての誇りになりえるはずだから…。

追伸
落語は死んだというような書き方になってしまいましたが
まだまだ、上手な人はいると思います。
談志師匠はみれませんでしたが、談志師匠のお弟子さんには
志の輔、志らく、談笑、本当にたくさん、素晴らしい落語家の方がおられます。
これはせめてもの置き土産というのか、僕はそこに談志師匠の息吹を
感じることができます。

本当の落語の息吹を感じさせてくれる落語家を、
金馬、柳橋、志ん生、円生、文楽とすると
志ん朝、談志、小三冶はその次の世代、そして、今の落語家はその孫の孫
コピーのコピーなのかもしれません。
先日、アニメ作家の押井守さんが、現在のアニメを
「コピーのコピーのコピー」と批判していました。
「表現といえない」とそういう言い方で言えば、我々の時代は
全てがコピーの時代と言えるだろう。
コピーのコピーのコピー、もうコピーでありすぎて、
元がなんだかわからなくなっている。
型だけが残る。それは落語しかり、歌舞伎しかり、
すべての文化がたどる道でもある。
今の時代に「その道をまっつぐ帰るってんで」なんて言っても白々しい。
リアルじゃない。
そして、デジタルが登場し、
もうリアルの意味もコピーの意味も変わってしまった。
でも、それでも、我々はそこに生きて、時には表現しないといけないのである。
息吹が感じられないと通ぶって、これからのものを門前で批判するのは
いただけない。第一、粋じゃないね。

押井守さんは現代のモノツクリ、例えばアニメ業界のあり方の難しさに対して
嘆いただけかもしれないが
残された僕らは憂慮するヒマなんてないのだと思う。
憂慮したら、もうそれはご隠居になってしまったということを
宣言しているようなものです。
落語界にもアニメ界にも、きっと次の世代が現れるに違いない。
それが今から、待ち遠しい。

立川談志さんのご冥福をお祈りします。
たくさん、楽しませていただいてありがとうございます。
あなたの「黄金餅」を聴いて、醜い人間の可笑しさ
それでも人間は美しいと思えることができました。
あなたの屍の中に黄金を見つけ出した心持です。
献杯!
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by radiodays_coma13 | 2011-11-25 01:28 | ニュース
アップルとマイクロソフト
スティーブ・ジョブスが亡くなっていた。
直接関わったことなんかないのだけれど
身近な親類がなくなったくらいの衝撃を感じた。
ITに関わる者であれば、多かれ少なかれの影響を受け
多かれ少なかれ振り回されたことがあるだろうジョブスという存在。
そして、30年も前、小学校の頃にパソコン少年だった自分にとっては
appleというアイコンはそれ以上に大きな意味を持っていた。

ニコニコ生放送で話題になっていた
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1668825.html
について

脳科学者の茂木さんがおそらく
appleの商品を賞賛する為の対比として
windowsPCの使い勝手の悪さを殊更に
強調してしまったのだろうが
「使っている時間に比例して嫌になっちゃう」
と発言してしまった。
その場に折り悪く、元マイクロソフト副社長の
西さんがおられた。起こるべくして起こったとしか
いいようがない。

一個人の意見として否定するつもりはないが
僕はapple社製品に関して全く逆の感想を持っている。
apple社の製品を使うのが好きではない。
使う時間に比例して嫌になってしまう。

スティーブ・ジョブスは人間的に面白いし、
彼に関する書物は、示唆に富み、色々な意味で
学ぶべきものが多く、尊敬に値する。

そして、彼が作り出した商品は
本当にすばらしいの一言だ。
彼がAPPLE社に復帰して以降の
商品を使ってみて初めて
ユーザーインターフェースの奥深さと
そのなんたるかの意味を知ったように思う。

全てがそろっているが、その使い方がわからない便利な部屋と
欲しいと口にするだけで、全てが前に現れる部屋との違い
くらいの違いがある。

そして、なによりもその洗練されたデザイン。それは
今までのパソコンからは考えられないシンプルさと
美しさを持っていた。それは他のプロダクトデザインにも
強い衝撃と影響を与えた。
今までのIT機器では考えられなかった偉業だ。

apple社の製品はクリエイティブな人々が多く使っているし
windouws派とmac派で言えば
俄然、クリエイティブといえば、mac派といっても
間違いではないだろう。

だがしかし、なのだ
それはわかっているのだが、単なる天邪鬼ではなくて
僕はそれが不思議で仕方ない。

あのPCを使っていると、自分が道具を使っている感じがしない。
何かを作っている感じもしない。
最終的には自分をもインターフェースにしまおうとするその発想から
くるのか、PCと対話しているあの感じがない。
それはいいことなのかもしれないが、ゴツゴツした手触りがないのだ。

そして、こともあろうにクリエイティブを邪魔してくる。
というか、目の前に、すばらしい完成品があり、それを使っていると
なにか悲しくなるというか、答えを見せ付けられているような気がしてくる。
「ほら、俺みたいなものを作れよ」と気がつかないうちに
その思想性やエッセンスを叩き込まれているような、
デザインが引きずられているような心地がしてくる。
他の人に聞いたけれども、それを感じるという人にはまだ会っていない。
だから、これは個人的な感想に過ぎない。
それとも、もう、皆、apple教に洗脳済みだったのかもしれない。

そう、それは宗教に近いのかもしれない。
macで作るということは、ジョブスを教祖とする
彼らの宗教の上で制作をするように思えてならない。
それはすなわち、その価値観の上の道を歩くか
その山のさらに高みを目指すのかという選択ししかない。
macを使って何かを作る心地は
教会で仏を祈るような居心地の悪さに近い。
いつも、背後にジョブスが立っていて
せせら笑われているような被害妄想に陥る。
そこに、猛烈な窮屈さを感じてしまうのだ。使えば使うほどに!
それはmac恐怖症といっても大げさではない。

そして、一方のwindowsは無宗教を感じる。
使い方は自分で考えてくださいと道具を与えてもらう。
初めて工作するときのワクワクがそこにはある。
不親切だが、そこには自由がある。
押し付けがましさもない。単なる箱だ。
僕はのびのびと自分の身の丈で制作に打ち込める。

僕は正直なところ、パソコンには
ジョブスが言うような個性や美しさはいらないと思う。
便利であるべきだとは思うが
作るということの最終目標は
自分でその仕組み自体を作るオーサリングであると思う。
その時、完成された言語や、閉じられたシステムは
それを阻むことになる。
誰もがオーサリングの高みに到達しないとはいえ
閉じられた環境はそこで作られたものにも影響を与えるだろう。
macは常に完成品としての結果を出してきた。
それらの商品はひとつひとつ閉じられた輪を連想させる。
そして、彼が作り出したものや、その態度は
現実に排他的であったといわざるを得ない。
ジョブス無き今、appleは今後、あまりにも個性的な、感情的な
あまりにもジョブス的な商品を引き続き
世の中に出していくのだろうか。
出して行けるのだろうか。

どんな世の中でも
かじりさしのリンゴは猛烈な勢いで
腐敗していくものです。
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by radiodays_coma13 | 2011-10-24 05:49 | ニュース
クリスマスの三角帽子
子供が二人とも風邪をひいてしまった。
下の子は初めての病ということもあり
それはそれは大変だった。
子供が二人いて、一人が風邪をひくというのは
そういうことなんだろうな。
誰か一人で食い止めることは至難の業。
というわけで、僕も伝染し、一週間がつぶれた。

子供が苦しそうに寝ているのをみていると
痛みを肩代わりしてあげることはできないと分かっていても
心は痛むわけで、不規則な呼吸に合わせていると
こちらまで眠れなくなり、寝不足からダウンしてしまった。

ようやく家族装置も復旧し
先の日曜日には家族らしくクリスマスツリーがお目見えした。
こんなにもクリスマスツリーが心温まるものだとは思いませんでした。
あれは自分が喜ぶものではなく、喜ぶ誰かの顔があって初めて
心躍るものなのですね。

クリスマスを経験したことのなかった私にとって
ツリーは陰惨な冬の夜の事件を連想させるだけのものでした。
おそらく、できないのなら、それを嫌おうという心理が働いていたのかもしれません。
「商売人にはサンタはこない!」と叱りつけられて師走の商売の手伝いをしている
子供にとって、クリスマスで賑わう商店街が忌まわしい景色でしかありませんでした。

ツリーにぶらさがる、サンタの虚構の笑い顔が憎たらしくて
友達の家のツリーのサンタの口に赤いマジックで血を描いたことがある。

母曰く、商売人のサンタは2ヶ月遅れでやってくる。
商売が忙しいので気を利かしているのだそうだ。
サンタの正体は「えべっさん」であるという衝撃の事実。
・・・確かに、少し似ている。
子供心に納得した。
ツリーは笹に化けた。

しかし、その僕が今、サンタを待ちわびている。
子供に何をプレゼントしようかと考えるだけで心が浮き立つ。
サンタなんかいるわけないと豪語していた僕の心に
純粋に子供を喜ばせたいというサンタが住んでいる。

上の子はサンタクロースを「三角さん」と言う。
三角の帽子を被っているからだろう。
確かに「さんたくろーす」と「さんかくぼーし」は似ている。

クリスマスツリーに「いらっしゃい」と書いた
三角帽子を被ったえべっさんの絵を貼ってあげたら大喜びした。

小躍りしながらハッピーバースデーのメロディにのせて
「いってまーせー、じーじー」と勝手な歌詞で歌を歌ってくれた。

それから何枚も欲しい物の絵を描いて吊るしていたが
それは七夕だろう。

なんだか色々まざって良い感じになっている。

プレゼントは何にしようか。
あれもこれもと考えて
あまり甘やかすのもよくないのかと思い直したりしたが
やっぱり子供の喜ぶ顔がみたい。
甘やかすのと喜ばせるのとは似ているようで違う。
「甘やかす」のは、いろいろ考えるのが面倒くさいので
とりあえず、子供の要求を呑むこと。
「喜ばす」というのは能動的で、
自らも子供の感情に参加して喜びを教え
ひいては一緒に喜ぶことではないかと思う。
そして喜ばせることはどれだけしても
いいのではないかというのが
子供と関わりたくてしょうがない僕の出した答え。
というわけで、子供と一緒に楽しめるものばかりにした。
ばかりということは、まさにプレゼントがひとつではないということ。
自転車と、組み立てて飛ばせる飛行機と、手作りの絵本
ぶつぶつと自分で言い訳をしながら、思うさまプレゼントを用意した。

ちょっとした風邪で、気をつけさえすれば
子供を失うことなんてないのは分かっているが
子供が健康で笑っている姿をみると
もう、それだけで、うれしくてしかたなくなる。
それ以上はなにも望まないという気持ちになる。
そして失うわけではないのに、
今のうちにやってあげられることは
全部してあげたいと思うこの頃である。

今年の三角さんは12月にやってくる。
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by radiodays_coma13 | 2009-12-23 03:20 | ニュース
ハードをタフでマッチョに生きる
唐突に。

また、ブログをはじめることにした。
1年以上ぶりかと思う。

仕事と子育てに明け暮れた過酷な日々であった。
でも、どちらも狂おしいほど充実していた。

「書く」ということをやめていたわけではない。
書いてはいた。
書くには書くがそれをwebにアップするというのは精神的な労力を使うことになる。
書いたことにそれなりの責任もあるし
書いたことに対して、自分なりに考え直す時間も必要になる。

そんな時間があるのなら、
仕事と子育て以外に使える時間が1秒でもあるのなら
子供の顔を見ていたかった。
それだけのことでした。

それでもまた書くことにしたのは
「人生はハードだ」ということでしょう。
ハードな人生をやりくりするには
タフでマッチョでなければ生きてはいけません。

最近、好きな言葉なんです。
「ハードをタフでマッチョに生きる」

最近の価値観の基準です。
タフかマッチョか。
豆大福はマッチョで○
ずんだもちは響きがマッチョ
イチゴ大福はペケ
存在が軟派。

大きな台風が近づいてきていますね。
伊勢湾台風級だとか。
台風から逃げる足があれば台風なんて
まったく怖くありません。
多分。
でも、そこにとどまってやり過ごす必要がある。
守るべきものがあるというのは
なかなかハードです。

猛烈な風の中を飛ばされないように立つということ。

足が4本でも5本でも欲しいところ。

でも、今の僕には足が二本しかありません。
子供と仕事。
ハードな風の中をタフに立っているには
マッチョな足があと何本か欲しいところ。

というわけでまた書くことにしました。

追伸
7月に二人目の子供ができました。
今度は娘でした。
「ツムギ」と名付けました。
皆、健やかに暮らしています。
アマ君はもう3歳になりました。
ムシとオンガクが大好きな3歳になりました。
「パパ、今日は早いの?」と電話口で言われると
今でも涙が出ます。
パパは今日も遅いです。
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by radiodays_coma13 | 2009-10-08 00:35 | ニュース
何が大人なんだろうね
成人の年齢を20歳から18歳に
引き下げることを国が検討しているらしい。
(ニュース元[成人:18歳から? 法務省が法制審に諮問へ])

そのことで お酒タバコに始まり婚姻免許、果ては犯罪で裁かれる年齢の是非に影響してくることになるといわれている。


   「さて、大人ってなんでしょうね。」


この質問に子供たちが答えていた

「ガマンする人」
「わがままを言わない人」
「責任をとれる人」



ガマンをする人か・・・。なんか、つらい。
んん、ここは、ガマン、ガマン


僕は今、大人になるために多分、がんばっている。
「ガマンをする人」という発言はもっとガマンしなさいという言葉にもきこえた。
自分はまだまだ大人じゃない。
少しは大人になったかなと最近ちょっと思っていたけど、やっぱりムズカシイ。

人との関係において「もっと大人になろうよ」と自分で自分を叱ることがある。
時々、周りのせいにする自分に絶望する。

世間や最近の子供に対して愚痴るようにだけはなりたくない。
そうなったら、最後だ。
それは理解をあきらめたことになる。
「わからない」を切り捨てるようになったら
もう進歩することはありえない。



今日、妻が2ちゃんねるによる犯罪のニュースをみて
「2ちゃんつぶれろ!」
と激怒していた。
それが子供にたいする無差別の犯罪予告であったから
彼女の怒りはいきなり沸点に達していた。

僕が大人げないのが
「それは2ちゃんのせいではないだろ」
と即答した所だ。
本当はまずその犯罪に同じように怒りを表明しなければならなかったはずだ。
これを「空気を読む」と言ってもいいだろう。
それができなかったので妻の怒りの矛先は僕に向けられてしまった。


しかも
「車で事故があるからと言って車を責めるべきではないし、
本当に犯罪をなくしたいなら2ちゃんねるをなくしたところで何も始まらない」

とコレが火に油を注いだ。

人の感情は正論ではなにも解決しない のですね。
大人になるということは正しいことだけではうまくいかなくなるという
難しさもまたあるのね。はぁ

でもね。
それでも、僕は諦めない。
分からないと言って、その悪しきモノが潜む場所を
根こそぎに切ったところで
なにも解決しないよねぇ。

「最近の子供は」「最近の社会は」
30も後半になるとその子供に影響を与える社会を作っている自分、その社会を形成している自分がいるわけです。そいつのせいにするということは、つまり自分のせいなんです。もうなーんにも切り捨てることなんかできない。

この社会と無理心中するつもりででも、
その社会の病を共に闘病しなくちゃいけない。


今までなら
「そうだね2ちゃんつぶれちゃえ」
くらいに言っていたかもしれない。
でも、切り捨てられないからシツコく食い下がるんですよ。

****

「もし世界が100人の村」だったらというのがあった。データとしては面白い話しだった。でも、僕はあれが嫌い。その話しの流れのに、「でも豊かな国に生まれたあたなは幸せだね」という言葉が隠されているように思うから。

僕ならあの話をこう書き換える

「もし世界が一人の村だったら」

黒い自分、白い自分
貧しい自分、めっちゃ裕福な自分
幸せな自分、めっちゃ不幸な自分
頭のいい自分、頭の悪い自分
搾取する自分、搾取される自分
殺される自分、殺す自分


前にそんな詩(「許してあげる」)を書いた
世界で起こる全てのできことに自分は責任を持たなければいけない。
そうしないとみえてこないものがあるはず。
で、で、僕は搾取される自分を救うか?
ノー、救わない。そんなことするべきではない。
それが今の僕の答え。前とちょっと違ってる。


できることは許すことだけ・・・



んで、許してください奥さん
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by radiodays_coma13 | 2008-02-15 00:05 | ニュース
欲しいデータが欲しい
yahoo!のサイエンスニュース
を見ていると
よく「ほんとかなぁ」というニュースを見かける
「コーヒーが癌に効く」
「太っていると癌になりにくい」
どこどこ大学だれだれチームがアンケート結果とかね。

またそういうのをアホなTVが真に受けて番組で取り上げたりしよるんですわ。
一時期ありましたねTBSの「あるある大辞典」
「納豆がダイエットに効果的!」
きっとね、どんな食べ物でもそればっかり食べ続けたら痩せられますよ。
りんごしかり、メロンパンしかり、こんにゃくしかり
偏食してやせるくらいなら、水だけ飲んで痩せた方がまだ健康的でしょ。

で、僕は怒っているわけなんです。
なにってそういうデータに対しての怒りというわけではありません。
まあ、yahoo!にのるくらいの科学データなんか
信じるに値しないことくらい常識で考えれば分かりますがな。

どうせ、楽しませようとするくらいなら
「阿波踊りで癌が治った。同じ癌なら踊らなソンソン」とか
「鼻くそダイエット、1時間ほじって3時間分の運動量」とか
もっと気を利かせて欲しい。


「ゲームによる快感 男性強め」
スタンフォード大学薬学部の研究チームが報告
コレだけは許さないもんね。
だって、僕はゲーム作りをする人。
んなこと言われたら営業妨害もはなはだしい。


まず、データなんてもの、欲しいデータありきなのだ。
つまり「こんな結果が欲しい」 「こうであったらいいな」
を考えてデータを探す。

そうすれば大概のデータは集まるんだな。
数字だから信憑性があるということこそが錯覚だ。
人は「数字は動かない」と言う
でも、これこそがレトリックなのだ。
良いか悪いかというより、それは仕事においては常套手段なのだ。
僕だっていつも企画書の中のデータを欲しいデータで塗り固めて
怪しい結末に持っていってる。
「だからこの企画をやすべきなんです!」ってね。

企画なんてバカ正直にデータによって
「風が吹けば桶屋が儲かる」と訴えるものでしかない。

例えば「パチンコすると癌が治る」
100人のがん患者に毎日3時間、パチンコをしてもらい30日後
再び調べると癌の進行が止まった人が10人もいた。
こんなデータに「ほほぉもしかしたら一理あるかもね」と言いそうになる。
まず裏のデータもなければ比較データもない
その裏で15人は悪化したかもしれない。パチンコよりカバディの方が
癌に効くかもしれない。


でも、そもそも
どこに癌とパチンコの因果関係があるのか。

それでまかりとおるなら
ウルグアイのことについて考えた人は次の日、歯を磨かずに寝る傾向がある

という推測だって成り立つことになる。

「欲しいデータを作り出す」行為の悪質なのはこれを企業が利用するからだ。
悪名高い「コーヒーが健康にいい」という一連の研究は
コーヒーメーカーが資金を出している。
ラーメン屋はラーメンに癒し効果があれば嬉しいし、
アイスクリーム屋はアイスクリームが恋に効く
とあれば、お金を出してもそんなデータが欲しいわけだ。

そこでだ、「ゲームによる快感は男性が強め」というデータは誰のためか?
誰が得をするんだ?
PTAか?
それとも「男性を殺さないで!ゲームにはハマリやすいけど男性は頭のいい生物なんです」という過激派男性保護団体か?

まあ、それはいいとして困るんだよねぇ、こんな嘘言われたら。
他のどんなニュースも笑ってるけど、これは営業妨害だからね。
だから反論させてもらいます。

***

①テレビゲームのほとんどは男性向けに作られているのだ。
②ゲームセンターに一人で通うのは男性と決まっている。
③ゲーム会社だってそれを知っていて男性をターゲットにしてゲームを制作している
④ゲームクリエイターにしろそのほとんどがむさくるしい男どもだ。
⑤第一にシューティングとか、格闘とか、完膚なきまでに敵を打ちのめすという
オスの狩猟本能が剥きだしになっている。

まず、そういうゲームをもってして、ゲームによる快感は男性が強めであるということを忘れてはならないわけですよ!


ゲームというのを広げて「遊び」というところまで広げると、女性はママゴトを男性よりも楽しむし、無駄話というシュミレーションを男性よりも楽しむ、そして衝動買い という買い物も女性の方が中毒になる。

現に、クロスワードパズルお絵かきパズルは男性よりも女性の方がハマりやすいようです。

本当はこんなデータを同業者には知られたくないが、最近はゲームのサイトの女性ユーザーが増えてきており、現在ではケイタイに限り、半数以上を女性が締めるサイトも珍しくない。

せっかく増加傾向にあり、市場的価値の上がってきている女性のゲームユーザー層の動向に変なニュースで冷や水をあびせるな!ということですわ。

最後に私の屁理論を言わせてもらえれば
無駄話や無駄な買い物、無駄なテレビ観賞
女性ほど無駄を楽しむことは男性にはできない

と思っている。もちろんいい意味でね。

だから
本来、女性の方がゲームにはまりやすい
はずなのだ。
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by radiodays_coma13 | 2008-02-12 23:46 | ニュース