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by radiodays_coma13
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カテゴリ:音楽について( 8 )
最後の交響曲 アラン・ペッテション
音楽熱が再発し
昔のCDを引きづり出す毎日。

今からする知ったような話しは
ちょっとした一音楽ファンが
ちょっとここらで通ぶったって
バチは当たらないでしょうという具合の
ちょっと知ったような話しです。

21世紀になってもうねぇ
クラシック音楽は終わっちゃたわねぇ。
ジョン・ケージが「4分33秒」という曲で
沈黙を奏でてからクラシックは終焉しただなんて
言われているらしいけど
もっと以前
あたしにとっては「ショスタコービッチ」を持って
クラシックは終焉したわけ。
というのもあたくしにとって
クラシック=シンフォニー(交響曲)であって
ショスタコービッチは最後の交響曲作曲家なのね。

もちろんそれ以後にも交響曲はありましたよ。
でも、正確な意味でのオーケストレーションではなく
すでに脱構築が始まっており、本来の意味を失っていた。
そういえると思いますのよ。

でもねぇ、いたんですよ。
もっと後、最後の交響曲をかいた人が。
それがね、今日の主役のスウェーデンの作曲家
アラン・ペッテション(1911~1980)
なんですの。
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あまり聴きなれない作曲家の類ではないかと思います。
日本ではまだ、そんなに多くのCDを手に入れられるわけではないようです。

20年ほど前にも熱心にクラシックを聴いていた時期がある。
それは加熱し、古楽に始まり、時系列で超現代な音楽まで食指は及んだ。
手に入らないものは輸入CDで手にいれました。
今では名前も残っていないような作曲家のCDもあった。
その輸入盤の中にペッテションがいた。
あまり印象に残っていなかったのだけど
当時は気に入っていたのか数枚のCDを手に入れていた。

しかし、最近になって何気なく聴いたペッテションに衝撃を受けました。
久しぶりに音楽で雷に打たれたような気持ちがした。
あわてて全集を輸入版で購入。
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こんなにも独自の美しさをもった音楽はないと思う。
1980年代まで生きたので、ほぼ現代にこのような音楽を
描き得たのは奇跡にも値する。

その音楽はひとくちに言うと
「絶望の音楽」である。
絶望と言っても生半可なものではない。
怨念や殺意や絶望が渦巻き
すすり泣きや怒声、叫び、嘆きが音になって
延々と間断なく1時間続くようなシロモノです。

クラシックに慣れていない人には暗い暗い辛い音楽
聴きなれた人、聴こうという意欲を見せる人にとっては
体力を奪われる苦行でしかないような音楽。
そんな風に言われることのある音楽です。

その音楽は灼熱の苦痛と凍りつくような人間の孤独に満たされています。
しかし、その合間にほんのかすかに吹く、すずやかな希望の匂いというか
祈りのような美しい旋律には涙せずにはおれません。
そして、その祈りを頼りに音楽と一緒にその灼熱と絶対零度の中に
ダイブし苦痛を突き抜ける時、全ての音が美へと昇華してゆく
そんな感覚に陥るのです。

では、なぜ、ペッテションはそのような怨念に満ち溢れた苦痛の音楽
特に交響曲を破棄や未完を合わせて17曲も描いたのでしょう。
交響曲を17曲は作曲家として異例の多さです。
交響曲9曲は人間の壁と言われています。
それほど精神や体力を必要としたものなのです。
それを17曲!

彼は北欧の地に生まれ、極度の貧困の中、飲んだくれの父に虐待を受けつづけ
母は暴力に無抵抗を貫き宗教に逃避
しかし、そんな母が時折歌う賛美歌の美しさが
ペッテションの音楽の基盤を作ったといわれています。
彼はなぜか唐突に音楽を志し、父の反対を押し切り
苦学のすえ、ヴィオラ奏者になるのですが
やっと掴んだ、オーケストラ奏者の座も突然の病に襲われ
継続不可能となります。そこからは本格的に作曲家を目指すのですが
絶望的な痛みと精神的苦痛に苛まれ、自らペンを持つことすらできなくなります。
しかし、執念で曲を書き続け、やっと世間から認められ始めた頃には
癌や様々な病が彼を襲い更なる苦痛を強いられる。
とにかく苦痛にまみれた一生だったわけです。

しかし、そんな人でも幸せを志向することができるはずなのですが
彼の凄みは一切の幸せを自ら否定したということです。
彼のメッセージは
「人間は救われてはいけない、人間は常に戦わなくてはならない」であり
彼の人生や、メッセージは音を通じてひしひし、びしびし、ばりばり伝わってきます。

ともかくどんなにすごいかというのを
そのなかのひとつを例にとって形容してみます。

呪詛の言葉で幕開け、七転八倒痛みでのたうちまわり、怒り狂い
息切れし、それでも、永遠に続くのではないかと不安になるような
呪詛の言葉を延々と主題として履き続ける。
声をからし、涙も枯れ果てると、それはすすり泣きに変り
ため息と嘆き、やがて疲れてうとうと眠ろうとする。
が、突然、激しい痛みが再燃する。痛みをおさえつけようと
何者かへの殺意でもって激しくなにかに当たる。
あたり散らかす。とにかくあたり散らかす。
そこに、痛みに屈服する不安、孤独への不安が暗雲のように垂れ込める。
しかし、唐突に、厚い雲間から一条の光りが差す。
照らし出された場に今にも消え入りそうなほのかな希望が宿る。
ああ、このまま終わってくれればいいのに!と
思うのも束の間、全てをオジャンにするような発作的な怒りで
手に入れた希望をビリビリに破りすててしまう。
そして、その暗雲の中、深遠な孤独に震える。とにかく寒い。
風に鞭打ちうたれ皮膚が破れる。
傷む傷口のまま、よせばいいのに今度は凍りつく海にダイブ。
更なる闇の深みへ降りてゆく、闇の正体へ果敢に戦いを挑む。
しかし、あえなくひねりつぶされ、絞りだすような呪詛の主旋律を叫ぶ。
力尽きたような嘆き節が続き、もう何も残っていないと思っていたのに
なぜか、いきなり希望の音楽!やったついに救いがやってきたのか!
と思いきや、彼は不適な笑いを浮かべながら地獄の業火の中に再び飛び込んでいく
「俺はしなんぞー!死んでも死んでやるものかっ!
奏でてやる!戦い続けてやる!みていろよ!」
絶叫し、そして終焉。

とこんな感じです。
どのシンフォニーも同じような構成です。

彼はいつも音楽の中で言っています。
「痛みから目をそらすな!」それも聴衆の両方の頬を掴み
顔を3cmのところに近づけて言うのです。
とにかくマッチョです。

しかし、決してその音楽は不快ではありません。
いわゆる現代音楽と一線を画します。
不協和音ですら、美しいです。

苦痛を突き抜けた先に彼は何があるのかを知っていたのかもしれません。
それは彼の音楽から察するに救いでないことは確かなようですが
生きることの意味なのかもしれません。
その先にあるものは確かに美しく、輝いていることは確かです。
そこで彼は、人間賛歌を歌っていたのかもしれません。
彼の怒りや恨みの先には、なぜか愛を感じてしまうのです。
それは日本の宗教観において、たたりが転じて神になりえるような
境地なのかもしれません。

絶望に耐え抜く強さを求め
それに耐えたものには、何ものにも代えがたい体験を与えてくれるでしょう。
そして、それは確実に生きる力を与えてくれる体験に違いありません。
ただ、時々、その深みに到達する寸前で、焼き尽くされる時があります。
体力と精神力を奪われ、疲弊し、落ち込みます。
ブルーになります。
そんな時は「ああ、やっちゃったぁ」とCDを途中で止めるしかないのです。

でも、比較的、最初から落ち込んでいるときは深みに到達しやすいようです。

とにかく興味の出た人は聴いてみてください。
でも、多くの人が、聴かなきゃよかった音楽と言っているくらいですから
要注意です。
でも、一度、その音楽を聴いてしまえば、聴かなかった自分には
もう戻れなくなります。
僕は20年前に聴いて、そしてまたペッテションに戻ってきました。
まさに20年殺し。
ペッテションの音楽はそんな音楽です。

(ニコニコ動画で「ペッテション」で検索すると比較的多くアップされているようです)
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by radiodays_coma13 | 2009-11-14 22:37 | 音楽について
オンガク発見!
最近、オンガクが流行っている。

ある日突然、世の中の音楽という音楽がつまらないものに感じ
音楽を聞こうかなという欲求を家の鍵をなくすみたいに失くしてしまった。
自分から音楽を聴くことはなくなった。
どれがどれか見分けの付かない流行音楽のせいなのか
自分自身の忙しさで荒んだ心のせいなのかは
ハッキリしないのだけれど
オンガクのない世界に3年ほど暮していた。

それが3歳になる子供と一緒にオンガクを
聞いていたところ、鍵をなくして入れなくなっていた家の
中から何かが鉄の扉を突き破った。

うちの子は、協調性というものを持たないようで
子供のお遊戯だとかそういうみんなでやることができない。
というか苦痛を感じているらしい。
この間は、幼稚園の体験入学の際、
音楽を使ったお遊戯中、
踊る子供たちを尻目に
デッキのコンセントを抜きに行くという
勇敢さを見せてくれた。

それを阻止されて、部屋の隅っこで耳をふさいでいる
姿はなかなか哀れだった。

どうしたものかと、たまたま手持ちのベートーベンを流してみた。
確か、交響曲7番だったと思う。
すると、いきなり奇声を発して走りだすではないか。
はじめは嫌がっているのかと思ったら、
どうやら、感極まって興奮しているらしい。
楽章が終わると、はあはあと息を切らして
なんだか情緒不安定になっている。
それほど、興奮してしまったのだ。

次の日から毎日、それを聴かせろと
せがむようになった。
曲を流すと決まって興奮して走りだす。
よく音楽に合わせて緩急をつけ
早く走ったり、特定の旋律では
同じ振り付けがあるのが分かった。
それなりに本人にこだわりがあるようだ。

ソファに座る私の足を上に上げろ!と命令し
下に落ちているオモチャを脇によけてから
音楽を流せという用意周到ぶりである。

試しに他のクラシックを聴かせると
モノによっては反応するが
ベートーベン程ではない
ならばとベートーベンの7番以外の交響曲を
聴かせるとなんと同じように興奮状態になる。
どうやら、ベートーベンに反応しているらしい。
不思議なのはベートーベンという宣言をしなくても
反応が明らかに異なる点だ。

そうか!彼はベートーベンの生まれ変わりなのかもしれん!

というカルトな反応は僕にはできない。
どんなところがいいの?とインタビューすると
「これはね、機関車だよ。ぽぽっーってね言うの」
なるほど、どうやら彼はベートーベンを汽車の音楽と勘違いしているらしい。
走りまわっているのは汽車のつもりなんだな。
奇声は汽笛というわけだ。

じゃあ、これはと「田園」を聴かせると
鳥が鳴いているという。
おお!なんという感受性!

そろそろ、わが子の才能にうぬぼれてもいいかもしれない。

そうして一緒にベートーベンを聴いていると
少し、子供のフィルターを通して聴いているせいか
なんだか、とてもベートーベンが感情を刺激するような気がしてならない。
そう、ちょうど歓喜の嗚咽のような盛り上がり方をするのだ。
そうこうしてくると、一緒に聴いている僕までもが
興奮状態になってくるのだから不思議なものだ。

ベートーベン、すごいな。

ベートーベンのおかげか
子供にも少しづつ協調性が出てきたようで
じっとはしていないが
みんなのお遊戯も機関車として参加ができるようになってきた。

子供がベートーベンによって癒されたように
僕の音楽不信の鉄の扉もベートーベン機関車によって
突き破られたのか、今までの音楽不在を埋めるように
音楽に対する飢えが襲ってきた。



最近、ずっとクラシックを聴いている。
子供も一緒に楽しんでくれるのでとてもありがたい。

今ではストラヴィンスキーや
ヤナーチェクなど反応する音楽も増えてきた。
最初は走り回るだけだった子供も
今では何かを見ながらじっとしている。
はじめは聴いていないのかと思って
話しかけたら
「しっー!音楽きいてるから、待って!」と
指を立ててくる。
曲を覚えて指揮をするような仕草も見せるようになった。

なんといっていいかわからない。
音楽はこんなにも楽しいものなんだろうか。
子供のフィルターを通すと音楽がとてもきらめいている。

今まで僕は間違った音楽との付き合いをしていたのかもしれない。
そんなことを思っているこの頃。
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by radiodays_coma13 | 2009-10-11 04:03 | 音楽について
全ての道はスカムに通ず―その1
 なにか作られたものを鑑賞するときに、そのものが発する情念みたいな、その作品が持っている真髄みたいなものを感じたいのに、それを邪魔するものがある。今日はそれについてのお話。それはズバリ、上手さ。テクニックとも言えるのでしょうが。一個人として作品を鑑賞するとき、それはものすごく邪魔なものに感じられる。それは一見、外見を取り繕っているようで、作品が発する声を掻き消している。

 スカム・ミュージックというものがある。僕はとにかくこれが大好きだ。これを定義するのはとても難しい。ヘタクソというのがキーワードではあるのだけれど、単なるヘタクソではない。ぶっこわれたヘタクソさ。それらの音楽は音楽の根っこにある、情念みたいなものを素っ裸でぶつけてくる。これがタマラナイ。

 しかし、スカムが難しいのはいったん、技術的に向上し、上手くなってしまうと、もうスカムではなくなるという点。市場には狙って作られたスカム・ミュージックというものがあるが、これは厳密にはスカムではない。圧倒的な誤解とそれを無視して突き進めるものだけがスカムに到達する事ができる。。(スカム的な音楽をなんとなくあげろといわれたら少年ナイフとか、ゲンズブールチコピドクリンペライ?とかどうなのかな)

舞台の仕事をしていた時、そこではピアノの発表会や下手なバンドやズバぬけて歌唱力がでたらめなカラオケなどが日々催されていたが、僕はそれらをこよなく愛していた。こっそり録音して、自宅でこれを鑑賞していた。そこには音楽の生命力が満ち溢れていた。僕自身もバンドをしていたが、目指すところはスカム・ミュージックであった。基本方針は皆で弾けない楽器を弾く。つまり作られたスカムではあるが…。(視聴

 ここで極論を言うなら、全ての文化は誕生したときにはスカムであったと僕は思っている。出発点はそこなのだ。そこからしか圧倒的に新しいものは生まれない。そう思っている。そして、スカムからプリミティブな輝きを見出したものだけが、それを洗練へと導く事ができるのではないか。

 しかし、洗練、純潔はいずれ、その文化を死に追いやる。そのようにして死に掛けている文化はひどく多い。例えば、狂言や能。現代詩、多くのジャンルの音楽。ポップミュージックも死にかけている。それが現代詩なんかと違うのは、死に掛けていることに多くの人が気付いていないということだけだ。そこにあったはずの生命感みたいなものは消えて久しい。

 本当に愛さなければならないのは、スカムのスカムな部分ではなくて、スカムな人々がスカムにならなければいけなかった状態の方である。新しいジャンルは、はじめ全てがスカムにならざるを得ない状況から始まっていると思う。ロックは白人と黒人がせめぎ会い葛藤し合う中で生まれたと言いうことができるだろう。それからキューバのサルサの足を上げずに踊る所作は強制労働の黒人たちの足に鎖がつけられていたことによる。能、狂言も、田楽や猿楽という田で踊られる豊作の喜びを表現した農民たちのものであった。

 「それでも我々は踊り続ける。」死にかけている文化にはこういう切羽詰ったものを感じない。むしろ滅びを楽しんでいるかのような。まあ、それはそれで美しいのかもしれないけれど…。ある状況に追いやられたものだけが放つ原初の生命力。もし、死に掛けた文化を再生させうることができるとしたら、僕はこのスカム精神をおいて他にないと思う。それがカンフルとなり、文化が再生するというようなことはきっとありえる。それらを混沌の中に投げ入れ、解体することで再生は始まる。日本独自の文化が本来、渡来のものとの融合によって成し遂げられたように。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-07 01:16 | 音楽について
ドアマンの奢り
なんとなく昨日の続き

 舞台の仕事をしていた。僕はその仕事を心からとても愛していた。舞台の近くにいれたらそれだけでいいとさえ思っていた。毎日演目の違う舞台の仕事は飽き性の僕にはぴったりだった。ここだけの話、これは内緒なんだけど、舞台は客席で観るより舞台袖で観たほうが何倍も素敵なんです。今しがた拍手喝さいを浴びて帰ってきた演者は、舞台照明が放つ光の粉を身に纏ったみたいにキラキラ光っていてなんだか嫉妬したものでした。

 それに、なんにも舞台のない日にはこっそり、調律の効いたスタンウェイのピアノも弾けるしね。その当時、僕が教えていた学校で、元は音楽学校に通っていた生徒がいた。いろいろあって今は、美容師を目指しているということだった。でも、彼女は音楽学校を辞めた今でもとてもピアノを愛してた。いつも僕の授業を受けながら机をピアノみたいに弾いていた(僕の授業は美術なんだけどね…)。その彼女を舞台の演目がなんにもないある日、こっそり誘ったことがある。

 「調律のぱりっと効いたスタンウェイのピアノ、舞台の上で弾きに来ない?」口説き文句としては最高でしょ?その女の子は学校を休んででもピアノを弾きに来ました。誰もいない真っ暗な舞台の照明を点灯して、僕は、反響板のドアを開け、彼女をステージに上げました。その時、彼女が弾いたシューマンの曲は今でも忘れがたい思い出です。舞台って不思議で、時に、ピアノコンクールの小ちゃな女の子の弾いた曲がプロのピアニストを凌駕したりするんです。その日、その女の子から、お礼のキスをもらいました。

 もしそんな職業があるとしたら、僕は舞台のドアマンになりたいと思う。もしあるとしたら、僕はわりと有能な方だと思う。ステージに招き入れる舞台のドアマンに有能も無能もあるもんかという人はなにもわかっちゃいないね。むしろ、あるコンサートの成功の鍵を握るのは舞台ドアマンの仕事だって思えるくらい。

 自分のリアルな時間を犠牲にして、今か今かと、自分にとってリアルで贅沢な時間を心待ちにする理解ある観客、そして、熟成した音楽を最高にいい精神状態で、封を切られる前のワインのように静かに舞台袖で佇む演者。ドアマンはまさに、観客に一番言い状態でワインを施すソムリエのようなものです。

 コンサート専用ホールには反響版という、重たい木の壁が舞台を囲み、反響板には、演者を招き入れる重たく分厚い木の扉がある。舞台のドアマンは、観客と演者の気持ちが一点に集中したまさにその瞬間、その重たいドアを厳かに開き、演者を、グラスに注ぐかのように、舞台に招き入れる。その一瞬は遅すぎても早すぎてもいけない。

 これは一流のドアマンの驕りだが(なんてね)、ドアマンには扉を開けた瞬間、すでにそのコンサートが成功するか失敗するか分かっている。成功するコンサートの扉は重たい。観客の期待と、演者の気持ちが、両方からドアを押し、まるで、圧力釜のように、恐ろしい圧力がドアに掛かる。演者の緊張の最高潮で放たれる「よしっ!」という掛け声と観客の水を打ったような静けさの交差した点でドアを開門する時の喜びはなににも変えがたい。重たいドアに体重をかけて開くとき、まるで、舞台そのものがシャンパンになったみたいに「ぼっふぁっ」という不思議な破裂音がする。その音は、成功の祝いの音なのだ。すでに演奏の成功は約束されている。

 これは決して、自己満足ではない。なぜなら、どんな演奏家でも成功した演奏が終わった後、一番先に、ドアマンに握手を求めてくる。「ありがとう」と耳打ちしてくれた人もあった。僕は演奏家になりたかった。僕は演奏家にならなかったが、舞台の裏方になることで演奏家の喜びの一部分を共有することができた。それはとても重要な一部分で、皆と一緒に感動を分かち合いたいということ。それは今の自分の仕事のスタンスにもしっかりとつながっていると感じる。
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by radiodays_coma13 | 2005-10-25 00:43 | 音楽について
ピアノがピアノである理由
「お前の日記は長い」と言われた。あと「理屈っぽい」んだって。そうなんだーと思いつつ、まあ、これは性格だからしょうがないとあきらめムード。

ほら、僕はおしゃべりでしょう?毎日毎日、仕事中でも女子高生のようにおしゃべりしたくてうずうずしてるから。黙ってたら、いろんなアイデアで頭がパンパンになって辛くなってしまうんですもの。

ふと、短い日記でも書いてみようかなと思いつく。頭の中にモヤモヤしているアイデアのガス抜きしなくちゃ。

ピアノって響きが好き。うん、この場合、ピアノの音ってことじゃなく。ぴ・あ・の、という言葉の響き。音色はもちろんですけどね、その音色にぴったり。どんな職業に憧れるかって「ピアニスト」でしょう、やっぱり。

楽器の名前って良くできてる。バイオリン、ヴィオラ、トランペット、チェンバロ、ホルン。まるで、楽器の音をそのまま、名前にしたような感じ。その楽器の音色を想像できますよね。

でも、もし、ピアノを作った人が、ガンゴで自己主張の強いおじさんだったら、その人の名前になっていたかもしれない。そして、そのおじさんの名前がゴンザレスさんだったら、ピアノはもしかしたら「ゴンザレス」と呼ばれていたかもしれない。それから、その楽器を弾く人は「ゴンザレスト」。いやだなあ、ゴンザレストにはなりたくないなぁ。

僕はね、楽器の名前は人が選んでるんじゃなくて、本当は楽器が自分の名前を選んでいるんだと思う。ちゃんと自己主張して、自然にそれにあった名前に定着する。楽器にも「たましい」みたいあなものが存在する。

それと同じで、ピアニストやバイオリニスト、楽器を弾く人も、楽器に選ばれてるんじゃないかって気がする。だいたいにおいて、トランペットを吹いてる人ってスタイリッシュでキザなんですよね。いや、褒めてるんですよ。楽器にはそれを奏でる人間性というか、資格があるんじゃないかしらん

僕はピアノに憧れたけど、ピアノには仲良くしてもらえなかった。舞台のお仕事をしている時に、ひとりぽっちの舞台でアイロンしたてのYシャツみたいにぴしっと調律の効いたスタンウェイのピアノをこっそり弾いてみたりした。そこには本物だけにゆるされる、曰く近寄りがたい雰囲気というものがある。「あら、あなたにわたしが乗りこなせるかしら」だって!そんな女性は僕は好きじゃないな。あ、女性の話じゃなくて、楽器の話ね。自分と仲良しの楽器はピアニカ。チープでフェイクでオモチャ。その音色は、悲しいかなやっぱりいろんな意味で自分らしいなぁと思える。なんかしっくりくるのね。

あなたの楽器は何ですか?僕はよく、この人は「チューバ」だなとか「ティンパニー」な人だなとか想像して遊んでます。因みに、僕の友達は管楽器な人が多い。特に傾向として、「ホルン」な人との相性が良いような気がする。

ところで、僕はまだ「シンバル」な人に友達がいません。この人はシンバルのために生まれてきたんだというような、ここぞ!という一番の盛り上がりのときにジャーン!って言って話に決着をつける人。大阪人で言うところの無口な究極のツッコミ人。いや、別に本当にシンバルを叩いてなくてもいいんだけどさ。

もしくは、シンバルにはまだ見出されていないだけで、どこからどうみてもシンバルな人。きっと、シンバル人と僕はすごくいい関係になれると思うんです。普段は無口だけど、僕が困っている、ここぞ!という大切なときに「ジャーン!」って素敵なことを言ってくれる。誰か紹介してくれません?
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by radiodays_coma13 | 2005-10-23 23:21 | 音楽について
みゅーじっくばとんみゅーたんと
 なんだかたくさんの人からミュージカルバトンというのを渡してもらった。数日間、日記を書けずにいたら、バトンがたまってしまったのだ。ちょっと迷ったけど、変則的な形でお受けすることにする。そもそもミュージカルバトンってなんでしょうね。新手の調査なのかしらん?調べようと思ったけど、ま、いいや。どんなものかは下の質問を見たらお分かりになるだろう。

1.コンピュータに保存してる音楽ファイルの全ボリュームは?
2.今かかってる曲は?
3.最近買ったCDは?
4.よく聴く5曲、または思い入れのある5曲
5.バトンタッチする5人の人たちへリンク

 要はこの質問に答えてくださいとこういう訳です。でも、他の5人にバトンタッチするのでチェーンメールみたいに伝染するのです。もしかしたら、自分の聴いてる曲ってなんとなく誰かに主張したくなるものなのかもしれません。ハイ、そういう私も、そのクチです。しかし、コレ知らずのうちに、誰かの役に立っている仕掛けなのかもしれん。それならそれで、もっと気を利かせてほしい。質問の種類に創造力を感じない。もっとワクワクさせてよね。失礼しちゃうわ。なので、変則的に質問を加えて、ここで突然変異させてやろう。で、「5.バトンタッチする5人の人たちへリンク」は実行しないでおきます。あっかんべー!

1.コンピュータに保存してる音楽ファイルの全ボリュームは?
ありません!コンピュータで音楽はききません!仕事中に音楽はかけません!いつもでっかいヘッドホンかけてるけど、これは防音対策です。これしてると静かに仕事できるんです。悪口も都合の悪いことも、なんにも聞こえない。それに、デザインの仕事しながら、音楽を聴くと、その音楽にデザインが引きずられてしまう。ロックなものを聴くとロックな感じに仕上がったり。これが嫌なので、原則音楽はかけない。デザインの中にも音楽は流れているのです。フォルムと配色に耳を澄ませて仕事してます。(この言葉、カッコいいでしょ。ね、ね)音楽聴くときはボリュームをガンガンに上げて体中に音楽だけを染み込ませます。ながら音楽はしません。仕事場で音楽かける人がいたら迷わず嫌な顔をします。

2.今かかってる曲は?
かかってません!今、「S」の文字を二時間くらいかけて作っています。ホ長調で、そうね、多分、ベートーベンの「英雄」みたいな曲が流れてます。カウンタはどこまで深く入れようか、懐をゆったりともたせつつも、スパインはシッカリと芯の強さを感じさせるものにしようとか。作曲してるような気分です。
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3.最近買ったCDは?
買ってません。最近買ってないですね。CDたくさん持ってるほうだと思うんです。いや、違うかな500枚くらい。少ない?割合は古典クラシック3、民族音楽2、現代クラシック2、邦楽1、洋楽1、その他1ってとこでしょうか。その他の中には落語とか、長唄とか、海外で買った、ただしゃべってる奴とか。あと、幸いにもいろんな人がCDを「これ、聴いてみて」と持ってきてくれます。なので間に合っているという感じでしょうか。

4.よく聴く5曲、または思い入れのある5曲
音楽聴く時、いろんなCDの聴きたい所だけを30秒くらいづつを聴くんです。それを2時間くらい、計50枚近くのCDをつまみ食い。最初に聴きたい曲を頭で鳴らせて、それで、そのCDを探す、あれでもないこれでもないと探しまわって、「あったあった」って30秒くらい聴いたら「ああ、これこれ」って納得しちゃう。かれこれ、こういう音楽の聴き方を10年以上続けている。よく人に鬱陶しがられてます。なので、よく聴く曲というのが思い浮かばない。でも、よく頭に浮かぶ曲というのはある。それを口ずさんでたりする。細部を再現できると非常に気持ちよい。ベースのフレーズとかね。でも、それをよく帰り道でやったりするので、気持ち悪がられている。「デュデュデュデューン、ドドッ、スパーン、シャーン」曲になってないから余計に気持ち悪がられるのではと推測する。

 そもそも音楽ってTPOに合わせて聴くものでしょ?思い入れのある曲って言われても、いついつも頭の中にテーマ曲みたいに同じ曲が流れてたら、それこそ鬱陶しい。質問するんなら「スパゲッティイーを茹でるときに、一番ふさわしい曲は何ですか?」とか「トイレでがんばっている時、いつも頭の中で流れる曲は?」とかそういうのにしてほしい。そしたらがんばって答えちゃう。因みにスパゲッティーを茹でるのにふさわしいのは日曜日の昼はベルディのオペラ「椿姫」から乾杯の歌。平日の夜は「帰れソレント」。トイレでがんばっている時は何故か、ハウンドドックのあの有名な曲のメロディが頭の中に去来する。「♪ああああいがぁぁ~すぅべぇてぃすわぁぁぁあ!」快便快便。

 この間、電車でラベルの「ボレロ」を聴いてたんです。あの曲って同じメロディの繰り返しでしょ。それがだんだんと分厚く、巨大に盛り上がってゆく。15分くらいの曲だったかな。そしたら、その曲に合わせてというか、だんだん、電車に人が乗り込んできて、ぎゅうぎゅうになり、最後の最後のクライマックスで、自分の降りる駅。ぷっしゅうーってドアが開いて、そこにジャーン!ってちょうどシンバルが鳴って、なんだか知らないけど、テンション上がりまくり。もう自分が舞台の主人公みたいな気分で両手を挙げて走りだしたくなった。で、そのままのテンションで会社に到着「おはよーございますー!!」ってはりきって挨拶したら。みんな「はっ?」って顔してた。

 こんなんでどうでしょう?ダメよね。僕にバトンを投げるのが悪い。僕は素直じゃないんですから。さて、あなたの頭の中には今、どんな音楽が鳴っていますか?
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by radiodays_coma13 | 2005-06-30 10:44 | 音楽について
あなたのための音楽はどこかで鳴っている
 音楽を全く聴かないという人はいないんじゃないだろうか。もし、あまり音楽を聴かないとしたら、それはその人のための音楽に出会ってないからだと僕は思う。世の中には本当に様々な音楽が存在し、様々な音楽の好みがある。長い歴史の中で人はその時代その文化の中の音楽を創出し、そして、今も新たしい音楽が人の数だけ創られている。でも、一人の人が出会える音楽はとても限られている。言葉と同じで、もうこの世には存在しない音楽も無数にある。音楽はまさしく時間とともに消えてゆく存在であり、そういうものはもう聴く術がない。それとは違う理由で、音楽的鎖国の中にいて他の音楽に触れる機会がないというのもある。そして、日本はまさしく音楽的鎖国の中にある。

 そんなバカな!という人もいるだろう。しかし、TVをつけて調べてみるといい。そこから聞こえてくる音楽はごく限られている。わたしたちの勘違いは「それが全てだ」思いこんでいることにある。資本主義というマーケットに流通させるのに効率的な音楽だけが商品として扱われている。この環境の中でわたしたちは自分をこれらの音楽に慣らすか、音楽を聴かないという態度をとる選択に迫られる。しかし、もうひとつ、自分のための音楽を追い求めるというラジカルな手段が存在する。その音がきっと自分のためにどこかに存在すると信じて。

c0045997_17391269.jpg そういう僕も、あやうく、音楽を聴かない人の側に回りかけていた。音楽を求める気持ちはあるが、どんな音楽にも「なにかが違う」という物足りなさを感じていた。そんな高校生の時、深夜のラジオでふと、流れてきた音楽に僕の体は凍りついた。その次に、意識したこともない体の奥底の方から、思いもかけないほどの熱いものがこみ上げてきて、それはそのまま涙になってあふれ出た。それはレオシュ・ヤナーチェクの交響曲「グラゴル・ミサ」だった。その曲を聴いている間中、自分が何者でどこにいるのか分からなくなった。自分が味わったこともないような悲しい気持ちや、喪失感、さまざまな感情が走馬灯のように駆け巡った。聴き終わったときにはぐったり疲れていた。

 次の日、さっそくレコード屋に行ってみたが、CDはなく、古いレコードしか存在しなかった。しかたなく、それを一ヶ月分の小遣いで購入した。しかし、僕にはレコードデッキがなかった。その日から、毎日、ただひたすらレコードを眺めた。レコードに刻まれた溝を見つめていると、音が頭の中で鳴り出した。でも、むなしかった。母親にいぶかしがられ、事情を話すと、倉庫の奥にレコードデッキがあるんじゃないかという。僕は勇んで倉庫の中を掘り出した。それは確かにあった。倉庫の一番奥深く、積年の埃と、聴かれなくなったレコードと一緒に。そして、もう一枚のヤナーチェクのレコード。僕の頭は混乱した。

 僕の聴き覚えのないそのレコードは僕が生まれる前に買ったものだった。正確には僕がお腹に宿った直後に購入されたそのレコードは僕への胎教音楽として主に聴かれたそうだ。しかし、僕が産まれると、なぜか、それらのレコードは倉庫の中にしまわれた。とすると、僕はお腹の中でヤナーチェクを聴いていたのだ。こんなことってあるんだろうか。でも、あのこみ上げてきたものは何だったのだろうか。お腹の中の子供にあのような感情があるんだろうか?結局、レコードデッキは壊れていた。しかし、僕はラジオで一度、聴いただけのその音楽の全体を克明に記憶していた。

c0045997_17395664.jpg 僕はようやく自分のための音楽に出会えることができた。ヤナーチェクの音楽と、彼が存命した当時の通俗音楽や民族音楽にひどく、針が震えた。それらは僕にもうひとつの記憶というものを想像させるのに難くなかった。それはヤナーチェクの足跡を追ってチェコに旅をした時にハッキリとした輪郭を現した。旅の間中、原因不明の高熱に襲われ、そのせいもあってか、朦朧とした頭は、プラハの街にいる間中、僕に既視感を与え続けた。不思議な思い出である。いや、奇妙なことに熱のせいか旅でのことをあまり思い出せないのだ。ただ、その音楽をラジオで聴いた時から続いていた喪失感や、それまでの偏った音楽嗜好は旅から帰ってくると、跡形もなく消えていた。一体、なんだったんだろう。

 音楽は本来、時間とともに消え去るものである。データ化して商品化するのがマズイとは思わない。そのおかげで、現代の僕もグレン・グールドの神経質な演奏に神経をすり減らしたりすることができるのだから。ただ、本来、音楽には、それと出会った時、衝撃的に心の有様を変化させる一回性の効果があるように思う。音楽は好きや嫌いではなくて、初めから自分がある音楽に出会うための種子のようなものがあるのではないか。惹かれるというのは共鳴することではないかと感じたりもする。音楽はいつか鳴り止み、時間はすぎる。でも、記憶というもうひとつの時間の中でその音楽はなり続けている。沈黙をかき消し、埋め尽くすだけの音楽を聴くのなら、自分の中で鳴っている、微かな、その自分のために奏でられる音楽に耳を澄ますほうが、豊かな時間のように、僕には思えるのである。
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by radiodays_coma13 | 2005-04-28 17:39 | 音楽について
スローミュージック 音楽のTPO
 人の家に行ったら、まず、本棚とCDを確かめてしまう癖がある。読んでいる本や聞いている音楽で、その人の好き嫌いは決めるつもりはないけれど、聴く音楽や読む本の傾向で、その人がどんな人なのか見えてくる。それだけで判断しようなんて思わないけど、例外もある。これが、結構、侮れないのだ。要注意なのが浜田省吾と尾崎豊。いや、決して、彼らの歌が悪いと言うのではない。でもね、彼らのファンと言うのは、僕が知っている範囲では、いいですか、知っている範囲ですよ。ここ、大切です。いついかなるときも大音量でそれらの音楽をかけたがるのです。いついかなるときも!一度なんか、自宅に招いた友人が「BGMかけていいか?」と言って、おもむろにポッケの中から尾崎豊のMD取り出した時には驚きました。

 大学の頃、となりの研究室の彼がもう、朝から晩までハマショーを掛けまくるんです。その時ばかりは気が狂うかと思いました。どんな音楽でも、一日中同じモノを聴かされたら気が狂うと思いますよ。よくTUTAYAとかの玄関にちょっとしたゲームが置いてあるでしょ、ぴろぴろろ~って鳴らしてるじゃないですか。あれね、僕だったら一日でアウトです。それを理由に即日退社しますね。で、僕は日本画専攻だったんですけど、これはハマショーに合わないんですわ。「まねー、まねーいっつあくれいじぃ~」ですからね。「いい加減にしてくれないかな~」と隣をガラガラっと開けると、そいつがね、サングラスにジージャン着て日本画描いてるわけ。もう、怒る気もなくなっちゃいました。

 音楽にはTPOがあると思う。なんにだってTPOはある。僕は人も食べ物も音楽も滅多に好き嫌いしない良い子なのですが、空気を読まないものというのがとっても苦手です。空気を読むのは人だけじゃありませんよ。植物だって春になったら、空気を読んで、そろそろいいかな?って地面から伸びてくる。そういうやつを自然からちょっと拝借して食べるのが一番おいしい。それは食べる側の心意気も同じです。食べたい時がそれを体が必要としている時と心得て、注意深く食べたい物を考える。誰も朝からステーキを食べたくはならない。もしかしたら、そんなワイルドで意味深な朝だってあるかもしれないけど。とにかく、正坐して日本画を書いている時にハマショーはTPO違反で厳罰です。でも、やっぱり僕にも尾崎豊やハマショーを聴きたくなる時が来るかもしれない。例えば、社会から寄ってたかっていじめられて、酔いつぶれて、路地裏で座り込み、恋してる人のことを思う時とか。(そういうシチュエーションに遭遇するか疑問ですが)「I LOVE YOU♪」とか歌っちゃうのかねぇ。歌わないと思うけどねぇ。でも、正しい状況に正しい場所、正しい状態で音楽を聴けば、どんな音楽だってすばらしいと僕は思います。

 で、ここからが本題。昨日、会社の人からCDを借りたんです。「アルタイのカイ」という民族音楽。以前、このブログでも取り上げたホーミーという音楽です。で、これがスバラシイ。僕はTVをほとんど見ないせいか、流行歌というのはまったく聞かない。ファーストフードみたいで、なんか体に悪そう。音楽にもスローフードとファーストフードが存在する。そのCDを会社で聴き始めたら仕事がまったく手につかなくなっちゃいました。仕事中に聴く音楽じゃありませんね。TPO違反。でも、なんか聴いてると、仕事してるこっちの方が間違っているような気になっちゃいました。勝手に涙がぽろぽろ出てくるんですね。こういう音楽というのは力ずくで、人の心をあるべき所へ引き戻す作用があるように思う。少しだけCDの中から詩を引用させてもらいます。

  長い夜を短くするため、聴け、わたしの歌うカイを。
  重い頭を軽くするため、我が子よ、わたしは語りはじめる。
  この世で一番のあの日の出をもっと長く見るため、
  聴け、わたしのカイを。
  おまえに心の平安を運んでこよう、
  わたしはわたしのウルゲルの言葉を歌いはじめる。

 これらの歌を聴いていると、歌い手がこの世を超越したところから声を通じて私たちをもっと大きな繋がりへと結びつけてくれるような気がします。
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 で、正しいTPOの音楽について話したついでに、作品をひとつ。アルタイのカイに触れた後でなんなのですが、以前、制作したラジオ番組から「シチュエーションミュージック」というのを。これはまさにコンセプトはTPOに適した聴き方を提案するというもの。今日、紹介するのは「トラックの運ちゃんが聴く舟歌」です。オープニングとCMそして曲(途中までです)をお楽しみ下さい。「RADIO」
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by radiodays_coma13 | 2005-03-19 18:50 | 音楽について