「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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カテゴリ:言葉について( 14 )
「ガマの油」の謎
子供には本当にいろいろの可能性があり
その可能性を活かすも殺すも親次第でありますね。
その子の可能性をのばしてあげるいうのもお仕事ですが
まずは、その子の可能性に気付いてあげられるかが
一番難しいように思います。

もし、子供にお笑い芸人のセンスがあるとしても、
親としては是非ともスルーしたいわけでして
「ちんこビ~ム!只今、便器が困っております」
と子供がおしっこ垂らしながら渾身のギャクを繰り出しても
行く末を案じ、なかったことにしたくもなるわけです。

どんな才能もえり好みせずのばしてあげたいなと
おおらかな気持ちで子供が好むものを見つめているのですが
最近、うちの子供が「落語」にハマっている。
キッカケは絵本でみせた「寿限無」
痛く気に入ったようで、何度も読めとせがむので
他にもいろんな落語の絵本を見せたところ
意味がわかっているのかいないのか大笑いして
何度でも繰り返し読め読めとうるさいのです。

気が付いたら一人遊びの折になにやらぶつぶつ一人ごとを
言っているようなので耳をすますと
「まんじゅうこわいこわい、唐まんじゅうが一番こわ~い」とか
「そこにべちょたれ雑炊が炊いてありますんで、おあがりください」とか
どうやら落語の一節を暗唱している。
しかも、よく聞くと頭からしまいまで演じている。

普段から人を笑わせるのが好きな息子ゆえに
落語で関西人の血が目覚めたのだろうか。
先日、図書館でどっさり落語の絵本やらCDを借りこんでまいりました。

落語では笑えないという人が多いのですが
落語は笑えます。
「七度狐」や「金明竹」などヘタなコントより面白いです。
落語で笑った経験がないと友人に言われることが多いのですが
そういう人はよい落語と出会っていないか
面白くないという先入観
それから笑いの種類を限定しているからではないかと思います。

今、TVでの笑いはシュールだったり不条理だったり
発作的で病的な笑いが多いように思います。
それも現代の精神の反映かと思いますが
笑いにもいろいろあります。
TVの笑いがみぞおちにくる笑いなら、
ヘソや胃袋、上腕二等筋にくる笑いや
じわじわ来る笑いもあるのです。
落語には実に様々な笑いの要素があります。
それは例えばマッサージのようなものだと思います。

笑えないという状態はなにかが滞っていると言っても差し支えないと思っています。

そのことはさておいて
ウチの子は上方落語、こと米朝や枝雀が好みのようです。
(僕は圓生の完全な落語が好きだったのですが、
最近は志ん生や上方では松鶴などの
破天荒なゆるさが好きになってきました。歳でしょうか)
子供と松鶴か米朝かと言い合いになるのですが
結局は「べいちょうにしよ、ね?」と言い負かされてしまう。

で、本当に三歳の子供に意味が分かっているかというと疑問ですが
やはり面白さの大きな部分としてはリズムが重要だということです。
落語でも奥さんが読むと子供は嫌がるようです。(ざまあみろ)
上方になると、関西弁の素養がないと到底無理ですわな。
子供はどうやら、その関西弁も気に入っているようで
最近「なにさらしてけつかんじゃ」とか「なんだんねん?」とか
えげつない関西弁を使うことがある。(それも考え物である)
それでも、意外に理解しているということは言える。
その証拠に笑いのツボできちんと笑えるし
分からない言葉はちゃんと訊いてくるのである。

で、最近困っているのが「ガマの油」
「ガマの油」という落語がこれまた、サイコーに面白い。
「さあさあ、お立会い!」という口上は誰でも知るところですが
それを酔っ払いのおっさんが始めてしっちゃかめっちゃかになるというお話し。
その中の言葉で子供に質問されて非常に困っている一文がある
「てれめんてえかにまんていか」という意味不明の言葉。
ガマの油の作り方を言及するシーンで登場する

「たらーり、たらりんと油汗をながす。これを下の金網にてすきとり
柳の小枝をもって、三七二十一日のあいだ、
とろーり、とろりと煮つめたるがこのがまの油だ。
赤いは辰砂椰子の油、てれめんてえかにまんてえか」


とうたわれるのですが
「てれめんてえかにまんていか」
これってなんでしょう?
情報求ム。
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by radiodays_coma13 | 2009-11-26 01:52 | 言葉について
絵本をよむこと
人前で「表現」をしなくなった。

回想
昔は表現したかったなぁ
もうなにかあったら、表現表現って
だめ、こんなところで・・・
いいじゃん、ここで表現しよ
ってもう付き合いたてのカップルみたいにね。

そして恋が終わったように
人前で表現をするのが恥ずかしくなった。

「表現しているようでは表現者とはいえないね」

弓矢を使うようでは本当の弓矢の名人ではないという
故事「名人伝」にあるような気持ち・・・
・・・ちょっと良く言い過ぎた。

多分、表現しようとしていたときは表現することを探していたんだと思う。
でも、よく考えてみると表現するようなことは何もなかった・・・。

表現することを生業にして
それは衝動から日々の睡眠のように
安らかで当然なものになった。
それはあえてするものではないのですね。

で、絵本の話し。
唐突。
なぜ、「表現」をしなくなったかという経緯についての二~三の事柄。

「沐浴」に続いて、「絵本を読むこと」は父親の仕事ではないかと思うこの頃。
言葉は多分に社会的なもの。
母親が子供にとって個人的な存在であるなら
父親は子供にとって社会への入り口を担う存在であると思える。
つまり、初めての外部なのである。
母は子供の内部にある。他者ではない。
でも父は他人。
そう、「父は永遠に悲愴」(by 朔太郎)である。

言葉は他者と交信するための窓になる。
その窓を個の世界にぶち抜いて、風通しをよくしてあげるのは
父親の役目ではないかという理屈。

母親の乳が母親にしか与えられない子供にとってのマナならば
父親の言葉は父親が子供に与えられる唯一の乳のようなもの。
それをたっぷり授乳したかどうかで子供の発育は大きく左右される。
母の乳は肉体、父の乳は精神。

その言葉の乳を絶対にTVに代用させてはいけない。
それだけはいけない。
危険、そう、危険です。これだけは言える。
僕は教育の専門家ではないけれど
「言葉と文化」については一応、講義もしていたのでなんとなく詳しい(ハズ)。
言葉を覚えさせる為に、TVを利用する人がいるようなのですが
TVの言葉は一方通行でしかなく、子供にとっての言葉とは言えない。
幼児期にTVを長時間観せた子供が暴力的になるという研究結果もあります。
つまり、それほど、子供にとっての言葉は重要なんです。

たくさん、大人の言葉で話しかけるというのもよいと思うのですが
絵本は子供と言葉でコミュニケーションするための格好のメニューですね。
僕の夢は(夢じゃないけど)子供のためのデジタル絵本をつくることです。
ここは重要なのでもう一度いいます。
「子供のためのデジタル絵本をつくる」
TV批判をしておきながら、何故デジタルかというと
まさにデジタルが怖い存在だからです。
事故もたくさん起こる。
でもいずれ子供はデジタルと遭遇することになる。
ならば、それを豊かなものとしてワクチン接種してあげたい。
社会の窓、父親として考えるわけです。

これはとても個人的な思いでもあるのですが
絵本は文字を読んじゃダメだと思っているんです。
読み手が読み手の言葉で話さなければダメ。
あえて、ダメという言葉を使わせていただきますが
絵本の醍醐味はいかに絵本から逸脱するかにあるんです。

どうするかという言うと
まず子供に読む前に一度、自分で読んで
それから、文字を見ずに自分の言葉で語ってゆく。
一度、やってみてもらえたら本望なんですが
子供の反応が俄然、変ってきます。
そして、自分の言葉なので、子供が質問してくる余地が生まれます。
そこが重要なんですね。
そしたら、子供を巻き込んで物語を発展させます。
子供に質問し返したり、物語の選択肢をあげるんです。
子供の想像力は原作を凌駕します。
これは驚きです。

桃太郎に恐竜が同行したり、
ライバルのリンゴ次郎がヘリコプターに乗って登場したりします。
最後には鬼と仲良く踊ります。

こうなったらもう絵本は閉じます。

そして、この絵本の読み方の醍醐味のもうひとつは
毎回、両者のコンディションで内容が変ることです。
何度読んでも飽きないし
毎回違う発見があります。
「桃太郎」はもう、何百回も読んだ気がします。
一大巨編になっています。

(でね、いつか、その、絵本から逸脱するための逸脱しやすい道具としての
デジタル絵本をつくります)

ここで話しを大きく引き戻します。
だから表現をしなくなったんです。

唐突

つまり表現をわざわざする必要がなくなった。
子供と一緒に本を読んでいるとそう感じる。

そして、表現することを職業にしてできた悪い癖。
・まずクライアントありき。
・売れるエッセンス(味の素)をふり掛ける。

あと、どうしても拭い去れない自己表現への欲求という問題。
どこかで自我や欲が出てしまう。

こんなものを子供に食べさせるわけにはいかない。
絵本を読んでいるとついつい表現しようとする自分がいる。
これは舞台に立っていた自分の本当に悪い癖だ。
これが一番の表現をしなくなった理由。

ただただ、物語にプラグインすればいい。
あとは、誰かが語ってくれる。
誰かとは伝説の神々ではなく、社会。
物語は昔から、とても社会的なものでした。
集団が車座になり、台本を持たずに語る。
物語はその場で立ち上がり、過去に生きた人々と交信される。
そして物語は人々がなにを感じどう生きるかを教えてくれる。
それは日々、変奏され、繰り返される。

物語を語るということは文字を持たない人々にとって
とても重要な生活の糧であり習慣でした。
でも、現代人にはこれと同義の習慣が欠落しているように思います。
私にはどうしても「自己表現」という行為がこれの貶められた形式のように思われます。
しかし、これ以上のものを私たち現代人が持たないのも確かです。
物語の世界は個人で冒険するにはあまりにも危険すぎるもののように思います。
本来、物語に著名はなく、共有され意味を見出すはずのものが
個人のエゴで満たされ、精神を傷つけるものになりかねない現状。

物語には日々の繰り返しを豊かにしてくれる力があるように思います。
この豊かな社会への窓を子供に与えるのは大人の義務のように思えてなりません。



でね、うちの子、言葉の発達が早いと幼稚園で驚かれました。
周囲でも評判です。
これもひとえに、絵本のおかげかもしれません。
なんだ、まわりまわって結局は自慢かよ!
というお話しでした。
おしまい。
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by radiodays_coma13 | 2009-11-11 11:25 | 言葉について
ゴールイン
3年がかりで手がけてきた企画がついに明日、ゴールインする。


ケータイのFLASHゲームサイトである。ゴールインとはすなわち、全てのキャリアでの公式サービスを開始するということ。難攻不落のDocomo公式サービスインをついに明日と控えた。



  思えば、何で僕がゲームを作っているのか?



それはソフトバンクの通話料が0円になるより
はるかに予想外だ。


小学生の頃
一日、50円のお小遣いで、1プレイ50円のインベーダーゲームをするか、よっちゃんイカを買うかで、ソクラテスのように頭を抱えて真実を追い求めていた。



えいやっ!とゲームに取り組んでも、下手くそな僕は一瞬で撃沈されるのであった。もっぱら、ゲームは見る方だった。それでも、毎日、新しいゲームが出ているかもしれないと思うと小学校の6時限目、胸が高鳴った。


日本の日常にTVや冷蔵庫が登場したころ、人が虹色の未来を夢見たように、TVゲームは僕を虹色の未来を見せてくれた。まだ、登場していないゲームのことを想像するだけで、眠られないくらいに興奮した。


「本当に新しいテクノロジーは人に夢を与えてくれる。」


おおっ、僕っていいこと言うねぇ。


僕はファミコンもどんなゲームソフトも買わなかった。正確には買ってもらえなかったんだけど。


  そのかわり僕はプレイヤーではなく
  クリエイターになった。


街に始めてマイコンショップがやって来た。

その頃PCは出始めだった。PC98富士通FM7、夢の機械。僕は毎日、黒人の少年がトランペットを欲しがるみたいに、マイコンショップのウインドウの前でへばりついていた。

 「その機械があれば、自分の作りたいゲームができる!」

胸がパンクしそうだった。



これを初恋というのかもしれない。
…いや間違ってるかもしれん。


結果的に親は根負けして、PCだけは僕に買い与えてくれた。僕は作りたいという強い願いだけを頼りにプログラムをいじくり、自作ゲームを作るようになった。今思うと、よく書けたなと感心する。


  …しかし、ある日を境にぱたりとゲーム制作を辞めた。


ゲームセンターに行って愕然としたのだ。ゲームが面白く感じられない。ワクワクしない。複雑で単調でどれも同じ。ある日、恋から醒めるようにパチンと何かがはじけた。



僕は情報処理の高校を受けようとしていたが、急遽、美術系の高校に進路を変えた。


その後、ゲームに全く興味を持つことなく、
20年。。。



なぜだか、今、ゲームを作っている。しかも、美術系の大学を出て、デザインの仕事をしていたのに。純粋にアートを目指していたのに。



何年もためてきたアイデアノートを見返してみると、その中に、少なくないゲームのアイデアが書いてある。僕にとって人を楽しませようとする原点にはいつもゲームがあった。



  今思う、あれは恋から醒めたんじゃなくて
  ゲームの方が本当につまらなくなっていたんだと。
  僕は間違っていなかった。



ひとつの場所から金脈が出ると、人はそこばかり掘り続ける。ゲームというのがひとつの世界だとすると、まだまだ世界は広い。なにもリアルでリッチなゲームだけがゲームではない。複雑になってゆくゲーム界の中に突如として「テトリス」が現れたように。世の中にはまだまだ楽しい遊びがあるんだと、そんなワクワクできるゲームがしたい。



複雑で、コアなユーザーしかできないゲームじゃなく、誰もが簡単にできて、ゲームの世界だけで完結しているのではなく、創造力が膨らみ、現実とリンクしているような作品。攻略するだけがゲームじゃない。10分だけ楽しめる「一粒のフリスク」みないなコンセプトだってあっていいはず。


ゲームプロデューサーとしての僕の評価は最低だった。ちょうどその頃、任天堂DSが満を持して登場。僕には女神が現れたような出来事だった。やろうとしていたことが時代とリンクしたのだ。手のひらを返したようにボツになっていたゲームが全て採用。自由にゲームを作ってよい権限が与えられた。


わがままほうだい(ウソ)。でも、ほぼ放し飼い。
僕は詩を愛しているので、自分の詩をゲームにもした。僕の作るゲームのほぼ5割以上が言葉に関するゲームである。

それくらい偏っている。
偏りまくっている。
こんなに偏っていいのかというくらいに偏っている。
でも、ゲームとはそんなものだ。価値観の交換対話なのだ。人の血が通ったプログラムなのである。ただ、閲覧するものではなく、ユーザーが参加してはじめて、成立する。僕にとってのゲームの魅力は
そこに始まりそこに尽きる。



ゲーム脳の恐怖とか、デジタル時代の病理とか、そんなことが言われ問題視されるが、僕はそのゲームこそが、デジタル時代の言葉のあり方とコミュニケーションという問題を打開する糸口になりえると信じている。


人は道具に魂を宿すといわれるように、デジタルにも人の温かみを持たせることができるはず。



  機械が人の心を荒ませるのではない。
  機械に人を感じようとしない心が荒んでいるのだ。



もしそこに人の心が足りなくなってきているのなら、それは恐ろしい。僕はゲームでコミュニケーションを求め、少しでも、そこに血を通わせることができればと思う。



さて、問題のサイトは「サクサクFLASH」です。
携帯でFLASHができる人で興味が出た人は探してみてください。
詳細はまた書きます。

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by radiodays_coma13 | 2006-11-19 23:54 | 言葉について
詩人類 T-shouts!
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あたらしいイベントに関わることになった。こんなクソ忙しい時によりによって、自分をクソ追い詰めるようなことを…、と思うのだが、クソ仕方ない。それが僕のクソやりたいことだったからだ。クソっ!


仕事面では今の会社に入って以来、僕の役割の中でもっとも責任の重たい企画が動き出している。そして、初の出産。これは人生の一大事だ。僕が産むわけじゃないので妊婦体操はしなくていいんだけれど、なにかと大変だ。いや、きっとものすごく大変なんだろう。


でも、息子よ、パパを許せ。パパは正直に生きると決めたのだ。欲しいものは欲しいとお前と一緒にじたばたしながらグズるのだ。わっはっは。


でね、その企画というのが「詩人類T-shouts!」というのです。


言葉を生業とする人々が作るファッションブランド。なんだかわからないでしょ?簡単に言うと…簡単には言えません。言葉を使う人々がイベントを通じ、ただ、言葉を提供するのではなく、ファッションを通じて、新たな言葉との関係性、言葉の文化を発信しようというもの。


これね、実は僕がずっとしたかったこと。僕は東京に来る前は大学やファッション関係の専門学校で文化論の講師をしていた。テーマは「身体―言語」。いつも身体と言葉の関わりを軸に作品を考えていた。5年前に一度、言葉を使ったTシャツのブランドを立ち上げようとしたが、色々な理由で頓挫してしまった。


出会いというものは面白いね。


どこでどうつながるかわからないものです。まさに、鴨ネギなき企画を古くから付き合いのある桑原滝弥という詩人が持ちかけてきてくれた。彼は僕が「RADIO DAYS」を結成し、地方に巡業し始めた頃に知り合った。スタイルは全く違うものの、活動的な彼をみていると、なんだか、嬉しくなった。一緒に戦っている心強い仲間のような気がしたからだ。


「言の葉を着こなせ。」


これは桑原氏が考えた「詩人類T-shouts!」のとっても素敵なキャッチ。僕はこれをきいてすごく驚き嬉しくなりました。僕が5年前にしようとした言葉のTシャツのキャッチが「Dress ths word」だったからです。「言の葉を着こなせ。」のまったく直訳です。これには運命みたいなものを感じました。


ファッションというのは言葉を着ることだと思います。それは衣服だけではなく、文化とは言葉を纏うことなのです。本来、衣服は暖をとるためなどの利便性でいうと、それ以上の価値がそこに生まれるはずはないのです。しかし、人はそこに、それ以上の意味を持たせる。


日本語、英語、中国語、言語に色々とあるように、ファッションにも色々とある。言葉は方言や年齢層、文化層によって話す言葉が違う。ファッションにも流行があり、職業や年齢で違いがある。


服を見るとその人がどのような人かだいたい分かる。


誰にでも服で人を判断した経験があるはずだ。でも、不思議なことに、誰も、その服を着ろと言われて着ているわけではないのに、服に無頓着を装っているはずなのに、気が付くと、オタク系の人はオタク系のファッションで身を固めているし、赤坂OLは赤坂OLなスタイルになってゆく。


でも、言葉を装うことに意識的になれる人がどれだけいるだろうか?


本当に多くの人が、服の身だしなみについては考えるのに、言葉の身だしなみについては無頓着なんじゃないでしょうか?


言葉に着られているということが案外あると思う。でも、言葉をオシャレに着こなすなんてことも考えてもいいんじゃないかしら。こんなに情報が溢れている社会だからこそ。


情報化社会では、一人の人はひとつの情報に過ぎないと言われる。パソコンを解体すると出てくる電子基盤。あれをひとつの街と仮定してみよう。すると一人の人はそこを行き来する電気信号なのだ。つまり我々自身が、ひとつの信号なのだ。


Tシャツは極めて現代的で特殊な衣服だと思う。衣服の中にメッセージとして言葉を使い始めたのはいつからだろうか。おそらく、その歴史はかなり浅い。その歴史はまさしく、Tシャツとともに発展してきた。プリントの技術が向上し、それを制御するパソコンも進歩する。まさに情報技術の進化とともに、Tシャツが進化したのではないかというのが僕の仮説。


Tシャツを着ることで、我々は情報になりきることができる。まさにメッセージそのものになれるのだ。それは衣服の究極の形。ファッションは言葉。そして、身体が直接言葉を着る時代になった。本はもう古い。PCももう古い。これからは自分自身がアトムという情報になりきる時代だ。


「脱ニート宣言。わたしに素敵な仕事をください!」みたいにね。求人を主張してみたり。


これからは自分のメッセージをTシャツに込めることにもきっと抵抗がなくなってくるだろう。繊維に編みこむことができる特殊な液晶モニターに自分のお気に入りの写真やメッセージを表示させる時代もいずれやってくるに違いない。


Tシャツはこれからの時代の高度なコミュニケーションツールなのね。
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by radiodays_coma13 | 2006-08-10 00:43 | 言葉について
誰にでも爆発するときはある
 サッカー負けちゃったね。自分のことじゃないのに、なんだかね、どんよりしちゃうね。スポーツなどを応援して、そのチームが勝利したとき、人を長生きさせるとても体にとても良いものが分泌されるらしいのですが、じゃあ、最初から弱いチームをひいきにしている人はどうなるんだ!と思ってしまう。関西人のわたくしとしては宿命的に阪神ファンなわけで、一昔前の阪神の脆弱さといったらそれはもう…、そんなことを考えると、それはとても体に悪かったのかしら。じゃあ、僕の寿命は10年ほど縮まってるはず。うぉー俺の10年を返せー!

 でもまあ、だからこそ勝った時のストレス発散といったらないわけで。阪神が優勝したときは、わが町一帯がお祭り騒ぎでした。その頃、僕のある友人はカーネルサンダースと道頓堀にダイブし、もう一人の友人は車をひっくり返して、留置所の中にいました。でも、まあ、それはそれでひどく考え物ですなぁ。ストレス発散もほどほどにしないと、爆発したときには、取り返しのつかない行為だったりしてね。普段ストレスのないみたいに言われている僕でも、時々、正体を失って、知らない公園でしゃがみこんでアリさんを眺めてたりしますからね。

 時々、なんでそんなにピリピリしてるのっていう人いるよね。ああいう人に遭遇するとなんだか気の毒になってくる。電車の中で足を踏んだだの踏まないだの、通勤ラッシュで踏んだ方も特に悪気はないだろうに、「踏んだら謝れないのか!君!」って、そんなにイヤならはなからラッシュに電車乗らなきゃいいのにね。そういう僕もこの前、「おいっ、お前、押すな!おいっ、お前だ、お前」って言われて「キャーこわいおじさん。奥さんと上手く行ってないんでしょ?でも、この場合、一体、どちらが押しているんでしょうかね、おじさん、相対性理論はご存知?」などと、饒舌に切り返したかったものの、本当にご立腹しちゃうと人って、うまく言葉が出ない。こんなとき、関西人の血とは恐ろしいもので、「じゃかましいわ、こらぁ!」とついつい口走り、おかげで、僕だけ、ファーストクラスみたいにゆったりと次の駅まで電車の旅を楽しめました。

 子供の時、口げんかで、強い子はヒーローだった。子供のケンカというのは子供的原始社会における儀式的な役割があるんだと思う。チームになって、その代表者が一人づつ出てきて口げんかを始める。ああ、きっと縄文時代の日本もこんな戦をしていたんだろうなと容易に想像がつく。縄文時代の戦では「さきがけ」と呼ばれる存在が、一人、群れの中より出てきて、自分の性器をあらわしにし、敵を罵ったという。まさにそんな感じだ。今のラップのフリーバトルなんかもそうだね。「やーやー、お前のかあちゃんデベソ」みたいなね。僕もそういう饒舌さにあこがれるな。口で負かして、相手を泣かしたらスッキリするだろうなって。でも、僕は興奮すると、逆に口ごもってしまうタイプ。

 しかし、僕は表現における饒舌はあまり好きな方じゃない。僕の中での詩のテーマというか、自分なりに取り組んでいるのは、沈黙や、言葉にならない齟齬や、放たれなかった言葉や、嘘、矛盾、間違った、またはズレた表現。僕はこれを不完全言語、またはプレ言語と言っているのだけど、そういうのが僕にとっての一番魅力あるテーマ。上手いこといってる完全な表現って、もうそれでいいじゃんみたいなところがある。でも、少し間違ってるって誰もがわかる表現の方が「ん?」ってなる。その「ん?」の中に、色々な意味や対話が発生すると僕は考えている。

 饒舌な怒りよりも、言い淀み、言い切れなかった、すごく圧力のかかった沈黙の方がものすごく、ポエジーなんだな。そういうのってどうやって表現すればいいんだろうね。そういう爆発寸前の沈黙を、ハイ、これがそうですよって人の前に提示できたら、いいなーと、いつも目論んでいるんですけどね。それができなくて、いつも僕の表現はどもり、言い間違い、言いよどみ、齟齬だらけなんですよ。ま、それはそれで僕好みというわけですが。
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 本日、お久しぶりのFLASH作品。結構過去の作品なんですけれど、リニューアルです。その時には技術的に出来なかったことが出来るようになったので。「BOMB」という小品です。音をおっきくして、覚悟して閲覧してください。
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by radiodays_coma13 | 2006-06-13 03:50 | 言葉について
ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ(その三)
 古事記の語り部であった稗田阿礼は、古事記編纂の後、どのような生涯を送ったのであろうか。文字にする事で、語る必要のなくなった彼は職にあぶれ上野駅でビッグイシューを持って立つことになったかもしれない。しかし、当時は文字に編纂したからと言って、文字を読める人は圧倒的に少なく、その事自体が特権的なものであった。あれいちゃんは、その後も多くの場所でひっぱりだこの大活躍だっただろう。しかし、これを現代に置き換えると、事情は酷いことになるだろう。ケロヨン洗面器の登場で、銭湯から桶が消え、職人が消えたように。あっというまに代替技術はそれまでの文化を根絶やしにする。

 「TVも携帯もPCもなくていいんです」という人が多い。なくて済むならそれが幸せだと。だが、40年前の人たちはTVを、夢をもって迎えた。きっと虹色の素晴らしい未来が来ると…。そんな素晴らしい未来は来なかったけれど、じゃあ、いりませんというのはどうか?その人たちは不安なのだ。「テクノロジーは人を幸せにするものではない。むしろ、我々の仕事を奪い、生活の本当の豊かさを奪うものだ」と。アーティストに限ってそんなことを言う。悲しい事です。不安を抱いている暇があるなら、より良い物を作ればいいのだ。より人にやさしいTVや携帯やPCを作ること。それがどんなものかを提示してくれるのがアーティストの仕事だと思っていた。ぶつぶつ言うアーティストはテクノロジーにより自分の仕事を奪われるという不安を抱いているだけなんだろう。そんな恐竜アーティストは絶滅すればいい。アーティストや詩人と自称する人こそ、最先端のテクノロジーを作る会社に就職すべきだ。そこで、時代遅れの人々がどのように生きてゆけるかを模索して欲しい。

 口承から識字、識字から次の言語文化へ、この流れは不可逆だ。同じように我々は文明を後ろに歩く事はできない。確かに、こんな現代に詩人として生きる道というのはなかなかあると思いにくい。詩人だけではなくファインアートだって難しい。しかし、だからこそ、この過酷な現代のサバンナで生きられる詩やアートの存在は美しい。そして、人間の意識が次のステージに移行する段階にあり、表現は根本的な変異にさらされるだろう。絵画は口承から識字への変更に伴い、無名性の壁画から、有名性の絵画へと移行した。そして、「映像言語」の登場。今、まさに、識字から「映像言語」への変化への真っ只中。一体、表現は、人の意識はどのような変化の渦中にあるのだろうか?

 なんだ、識字の次は「映像言語」?そんなのありきたりじゃん、とっくに世に映像は溢れありふれていて、そんな圧倒的な変化なんて、どこにあるんだよ、と思うかもしれない。しかし、それほどに、我々は無自覚のうちに映像に慣らされ、日々、確実な意識の変革の中に放り込まれている。だからこそ恐ろしいのだ。動いている電車の中は静かであるように、その揺らぎはおだやかである。自分が猛スピードで違う世界に連れて行かれていることに誰もそんなには自覚的になれない。自分を時代から相対的にみるというのはおそろしく困難な作業である。気が付いたときには、国境を越えて見たこともない風景が外に広がっている。

c0045997_2214519.jpg 緩やかで劇的な映像言語に向けた変化、それはまず数世紀前に訪れた。グーテンベルクの印刷技術である。言葉は声から文字に変換される事で肉体から切り離された。その文字は印刷技術により、今度は文字の持つオリジナルな肉体から解き放たれた。文字は文字自ら意味することの出来る記号となり同時偏在的に世界中に存在する事が可能になった。印刷技術の発達は文字だけではなく映像のオリジナリル概念を変えてしまう。絵画は写真に撮られ、美術館から開放され世界中で見ることができるようになった。雑誌のフォトグラフィはオリジナルよりも強い価値と意味合いを発する。

 そしてTVの登場。TVの発達は世界のニュースを同時に受信する事が可能にした。しかし、初期の識字がそうであったように映像情報を配信できるのは依然、特権的であることに代わりがなかった。我々はTVの情報を鵜呑みにするしかなかったのである。「そこで起こっていることは真実である」と。しかし、現実には映像は編集され、時間は切り刻まれ、意味は再構築される。文字よりも巨大な情報をより巧妙に。権力のコントローラーは彼らの手の中にある。口承文化では語り部が、村をおさめたように。識字文化では文字を読めるエリートたちに文字を読めない人々を支配したように。我々はいち早く、映像言語を学ばなければならない。今、現実では何が起こっているかを知るために。

 印刷技術以前、中世のヨーロッパにおいて、文字が読めると言うのはある種の人々の特権であった。彼らは教会に属していて、聖書の研究と聖書の知識の普及に努めた。彼らは一般市民に対し、聖書を声に翻訳する事が唯一許される存在であった。それゆえに、カソリック教会は絶対的な権力を誇示することができた。そして、文字を読める人々の中においても「黙読」の技術を持つものは高度の技能保持者として、周囲から尊敬を集めた。文字を声に翻訳するためのものではなく、純粋に意味として理解、解釈することは、文字を読めることとは全く別の意味を持っていた。それはつまり、自分だけの解釈がありえるということなのだ。それは教会にとっては脅威だった。各々がひとつの真実である聖書を勝手に解釈しては困るのだ。ちょうど、聖書の手書きによる複製本が出回る頃と同じくして、カソリック総本山による異端審問が盛んになってゆく。

 しかし、キリスト教に衝撃が走る出来事が起こる。15世紀、グーテンベルグによる印刷技術の誕生である。それにより最初に出版されたのが他でもない「聖書」であった。これにより、聖書は聖職者のものではなく一般に普及してゆく。このことが教会に隷属していた中世に終わりを告げ、人間の時代、つまりルネサンスの到来を招くこととなった。グーテンベルグ以降、カソリック教会はもう、絶対中心的な位置を保持することができなくなった。各地で、様々なキリスト教宗派が産まれ、独自の解釈を展開してゆくこととなる。この頃から、個の価値を謳歌するするように、様々な聖書以外の書物が出版されはじめる。価値は宗教の外にこぼれ出したのだ。このように映像言語のさきがけの技術である印刷は人々の価値観に大きなインパクトを与えた。これ以降、権力は教会ではなく、本そのもの識字そのもの中に書き写されてゆくことになる。

c0045997_22142034.jpg 口承文化における悪の存在はトリックスターという牧歌的な存在でしかない。それは善と悪という二極対立ではない。もっと曖昧で、動物的だ。欲求のままに行動し、時に欲さえも超える存在。物語の進行を破壊し、そこから新しい物語を産む存在として書かれる。それは例えば、不条理で豊かな自然の象徴であった。そして、識字が産んだ悪は「デビル」として登場し、小脇に契約書を持っている。つまり、価値が識字によって規定されていたことをそれは意味する。識字社会にとっての悪とは常に他者である。我々は自分達を苦しめるのは常に他者、例えば、社会、政治、資本であると信じてきた。自分の外にある悪を克服する戦い。そのために多くの政治的な戦いや革命が実行された。例えば戦後日本、学生たちは大学を悪として立ち上がった。思えば、それは大学という識字の象徴のような場で起こった最後の識字的な対立ではなかったか。

 しかし、今、その対立は形を変え、深刻な状況を見せ始めている。つまり映像文化な対立。よくTVアニメで、みかける描写がある。ある悩みに対して葛藤する主人公。すると、彼の両肩に主人公と同じ顔をした天使と悪魔が現れ、彼を説得する。実はこれが映像文化的な対立の型ではないかとわたしは思う。悪が他者ではなくなったのだ。トリックスターからデビル、そして、映像言語、そのミラージュの中に立っていたのは、自分自身の似姿であったというわけだ。我々はそれら悪と対峙する時、他者ではなく、自分の内に向かう。今までは社会に対して向けられていた不満が自分に向かう。そして、彼らは引きこもる。最近、多くの犯罪者がこういう言葉を言う「悪いとは思っていない」。これは道徳の破壊なんかではない。新しい悪の誕生なのだ。

 問題は、新しい悪の誕生ではない。それは識字から映像へと移行する段階で起こる必然なのだから。ニュースでは連日起こる道徳的に不可解な犯罪に対して紋切り型のコメントがなされる。「一体、悪いのは誰なんでしょうか?」そこで、教育や彼を育てた家庭に非難の目が向けられる。その事件を産んだ悪がどこか外にあると思いたいのだ。しかし、事態は単純ではない、昨日までは被害者だった善良であるはずの一般市民が次の日には不可解な事件の加害者に変身する。映像文化的犯罪を、識字的に語ろうとしても無駄である。その言葉はいつまで経っても事件の深層に触れることなどできない。表現者の急務はこの社会を語ることのできる新しい表現形式の獲得ではないか。そして、映像文化の中で耐えうる新しい道徳のモデルを示すことが何よりも待たれている。
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by radiodays_coma13 | 2006-05-27 22:14 | 言葉について
全ての道はスカムに通ず-その2
スカムから遠く離れて…

圧倒的に、かつ原始的に、そしてエレガントに僕は詩を愛している。へへん。でも、今までうんざりするほど、こんな言葉をきいてきた。「現代において詩は可能か?」?!可能じゃなかったのか?では、僕が愛してきたものはなんだったのだ?詩を愛する(?)者の多くがまるで遺言のようにこの言葉を口にする。「詩は可能か?」「詩は売れない」「詩は死に掛けている」僕は彼らに言いたい。「あなたが愛しているのは少なくとも詩ではない。もし、それが詩のようなものだとしても、嘆くまでもなく、あなたの詩はすでに死んでいる」と。

言葉のあり方というのは変化し続けている。日々メディアは変化し、新しいメディアの登場は言葉のあり方のチャンネルを大きく変えてゆく。そのことに意識的であることは非常に困難な作業だ。詩はその時々の言葉のあり方をもっともディープに反映するものだと思っている。もしくは反映しきれないものはディープな詩であることができない。ある種の詩が死に掛けているというのは、ある種の詩がディープに反映していた世界が終焉を迎えたからに過ぎない。現代詩にとって、それはおそらく「戦後」と言われるチャンネルだ。

「戦後なんてとっくに終わってるよ」という人は少なくないだろう。でも、正確に言えばそれはまだ終わっていない。それは一部の心ない人によってまだ、終わらせてもらっていない。「誰か」が戦後にしがみついている。極端に言えば、日本は情報過多を意図的に作り出し、情報の壁によって、非常に鎖国的な状態なある。ある種の情報で煙幕を作り出し、本当に重要な情報を見えにくくしてしまっているのだ。言葉のチャンネルを変えてしまう新しいメディアは次々に登場しているのに、我々の言葉がまだそれについていっていない。そして、その言葉で語るべき物語を見つけることも出来ず、一体何を言うべきかを見失っているように見える。

あらいざらい思っていることを言ってしまおう。こんなにも垂れ流されるポップスの歌詞。すべてスカスカだ。なにも言っていない。そして、垂れ流される多くの詩。これらはまだ、戦後50年以上も経っているのに、未だドロドロした極私的な感傷をぼやきつづけている。「もう、終わったんだよ。頭を上げてごらんよ、もう誰もそこにはいないよ。」これは終わらせないといけないのだ。詩が終わったのではなく、我々が言葉に置いて行かれているだけなのに気がつかないといけない。

c0045997_054837.jpg誰かが言う。「日本語は死に掛けている。」確かにそうだろう。ある芥川賞作家が受賞の言葉でこう言った「日本語を守りたい」え?もう一回、え?ある作家って辻仁成なんだけどね。もう、これにはあいた口がふさがらなかった。貴様に言われたくないと。GOOだかZOOだかわからんけどさ、そういう行為をしている人が日本語を守る?僕は彼は自己否定をしているのかと思いましたよ。死に掛けてるものは死なせたらいいんです。それは今までの日本を支えてきた古い体系の死でしかない。そのかわり、新しい言葉を獲得したじゃないか。ピジンだかクレオール語に成り下がったとして、それが素晴らしいかどうかも置いておいて。それでも、もう、そこでしか表現できないんだから。余計なことしないでくれと言いたい。
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なんなら殺しましょうか?そうだ、死に掛けているという人のために、いっそすべての詩集を焚書してしまえばいい。誰かが詩を殺そうとして立ち上がり、政治的な弾圧をすればいい。例えば、そういう場合に詩はもう一度輝くと思う。今現在、詩だと思われているものが全てなくなれば、確実にそこから、新しい詩は生まれる。そんなものから遠く逃げおおせたものがきっと新しい詩をつくる。

パンダを死なせないで!誰かが言う。同じように「詩は弱者の声なの!」と。その通り、だからこそ批判すべきだと思う。批評性を失ったときにはその表現はダメになる。阪神大震災の時にも同じことが起こった。震災のことを表現すると皆、両手離しで拍手を送った。「よくぞ描いてくれた!」でも、それだけだった。震災にまつわる作品を批評すること自体がなにかしら人を後ろめたい気持ちにさせた。しかし、そこからは佳作と言えるものは何一つ生まれていない。

c0045997_0553351.jpgそれでいいのだ、死ぬ行く生き物は死ねばいい。弱きものは逃げればいい。進化とは弱者のものだから。前回、スカムについて書いたが、それら、未熟で圧倒的に悲しい存在が発する音楽の原初的な強い輝き。悲しい環境を強いられて発せられる表現。しかし、どんな悲劇的な状況であれ、表現者にとってそれこそチャンス。逃げて逃げて逃げ切ったものだけが新しい表現にたどり着く。環境を変えようなんて無理。自分が変わるしかない。そもそも、彼らは制度の外に追いやられた人々なのだから。表現者は強者ではなく、とてもマージナルな存在のはずだ。弱き表現者の命がけの逃走だけが世界の輪郭をすこしづつ広げてきたのだから。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-13 00:59 | 言葉について
超自我ジェットコースター
 数日前、実は最新の日記を削除しています。まあ、誰にも何も言われないだろうと思って、鼻をほじって油断していたら、意外にたくさんの人から、その真意を問われた。僕のブログをちゃんと見てくれている人っているんだなあと嬉しくなりましたが、同時に、こうやって公開しているからには、勝手なことは書けないし、責任は重いと感じた。さて、その理由はまったく個人的なものです。仕事について書いたのですが、これは書くべきではないと反省したまでのことです。最近自分の創作ができていないので、ストレスが溜まってたんですね。ついつい、弱音を…。でも、前回のブログで新作を発表したので、その点に関しては気が晴れました。

 難儀な性格です。創作していないと、ものすごく精神不安定になって、相撲取りに追いかけられる幻覚をみたり、ホモセクシャルのヒットラーに言い寄られる夢をみたりする。とかなんとか、創作していなかったことのせいにしていますが、削除に対するメールで頂いたお叱りにもあったように、「公開しているブログで仕事のことを書くべきではない」確かにそうですね。もし、僕の一過性の気弱な発言をみて、会社の人がモチベーションを下げてしまったら、これは僕の責任ですからね。ほんと、軽はずみなことをしでかしたものです。

 4年以上も前の話、「Love Letters」(刺激が強いので心臓の弱い人は遠慮願います。笑)というサイトをコトウユウキさんという方と共同で執筆していた。内容は、二人の往復書簡の形式で、毎回、ラブレターを出し合うというものだった。かなりあからさまな内容だったと思う。互いのリアルかフィクションかわからない瀬戸際の事実を物語としてキャッチボールし、それに新しい事実を混ぜるために、物語を追体験したりもした。それは僕の物書きとしてのスキルを向上させるための実験でもあったのですが。

 当時、僕にはちゃんと彼女がいた。しかし、実は、そのサイトが原因で別れた。人にはかなりの好評ではあったのだが、それと同じくらいの揶揄や批判も浴びた。それをまったくの事実と勘違いする人も多かった。でも、それはそれで嬉しかった。どのように文章にリアリティを出すのか、そのことに腐心しつづけたからだ。リアリティはなによりもの収穫だったのだ。ただ、それゆえに、多くの人を傷付けた…。

 20代の表現者にありがちなアートのためならなんでも犠牲するというタイプだったのだと思う。そういう意気込みだけはあった。ただ、僕はそのことで、本当にとても多くのものを失った。それはまさしく、「僕は表現にすべてを捧げます」という宣言でもあった。自分を切り刻み、作品にしてゆくこと。ちょうど、その頃、柳美里さんという作家の手法が話題になっており、個人としては大江健三郎さんの書き方にも興味を抱いていたという経緯もあるのだけれど。

 だが、ここで、ひとつ疑問が生まれる。現在、多くの人がブログで自分の日常をさらけ出している。そこにはあからさまな事実が書き記され、きっとそのことで傷つく人もいるだろう。これとどう違うのだろうか。表現と記述の違いということはできる。しかし、基本的に主観が多くを占めるので、大きくは違わないはずだ。一体、このことに自覚的であれている人の割合はどれくらいだろう。おそらく、かなりの人が、ブログやSNSというあたらしいメディアに麻痺しているのではないだろうか。

 前にも書いたのだが、表現と日記の違いは、僕は責任の所在ではないかと思う。書いたものの責任を請け負えば、それは表現といっても間違いではないと思っている。けれど、責任を負うということは、「それは表現ですから」という逃げ場もなくなるということだ。不思議なことにそういう覚悟で書いた文章は心のリアルになる。いや、逆か、リアルしか書けなくなってくるのだ。それは時に奇妙なシンクロニシティを産んだりもする。まさに書いたことを生きなければいけなくなってしまうということが何度もあった。

 結果的に僕は「Love Letters」をしたことを後悔していない。とにかく僕は戦後文学のドロドロとした私小説とか、感傷的な自分詩が苦手だった。それまで、個人の感情を徹底的に否定した作品を作り続けてきたが、そこに自分を客体化し、偶像化する技術を手に入れたように思う。それは現在の自分の表現の軸にもなっている。

 で、ブログやSNSのことに話題を戻す。僕は日記を公開することが悪いとは思わない。しかし、見逃してはならないのは、これは異常事態であるということ。本来言うところの日記帳、あれって人に見せたいと思う?もし、僕の中学の時の日記がデータで出回るようなことがあったら、僕なら舌を噛んで自害するね。でも、今、多くの人がそれをしている。しかも不特定多数に。これは単に流行で済まされるものではない。大規模な意識の変革が起こっていると僕は確信している。

 例えば電話。最初、日本に電話が登場した頃、電話は通常、玄関に置かれるものだった。つまり他者であり客人であったのだ。だから、玄関先で話をする。しかし、電話が一般的に広がると、電話は居間の外、廊下に置かれるようになる。電話の普及と共に、奴らはついに居間に上がりこみ、それから各家族の部屋や寝室に入り込むようになった。ま、やらしい。さらに、携帯が登場し、この他者との通信手段である電話はやがて、個人の胸の内にしまわれるようになった。これを異常事態と言わずしてなんとしよう。

 日本人は他者と自己との境を非常に大切にする民族である。正月のしめ縄はまさにそのことのシンボルである。聖と俗、内と外、ハレとケの境、そして、コミュニティの境。我々はことあるごとに、儀式として境を作り、敷居を高くし、あるものは包み、あるものは結び、自分のコミュニティを明らかにしてきた。しかしだ、今の現実はその逆方向に向かっている。現社会の中で個や境が溶解しようとしているのではないか。あるアーティストはそれを「スーパーフラット」と言い表した。

 もしかしたら、その変化は長い眼で見れば、文化としてワンランク上の地球文明にいたるための通過点なのかもしれない。しかし、その前に、我々の前には病巣としての、個の溶解という問題は残っている。そのことが引き起こしていると思われる現象を探すに暇はいらない。ストーカーを代表に、そしてマナー違反としての軽犯罪。分かりやすいマイナス要素だけではなく、現代人の精神構造に根深くことのことは影を落としている。ただ、全体の変化の前で、我々が麻痺しているだけである。それは大群の中の鰯が世界が鰯で出来ていると思うのと同じことだ。

 「2ちゃんねる的思考」と言う言葉を誰かが使っていた。まったくまとまりのない好き勝手な発言が許される場でいながら、そこにひとつの確かな意識が存在するというのだ。それはとても興味深い現象だ。いわば、社会の共意識というものがそこに成立していると。それはもしかしたらある種「2ちゃんねる」という実体のない生命体みたいなものではないか。個々は自由に泳いでいるつもりでも、離れてみると、巨大なひとつの生き物に見える鰯の大群のようなものである。

 ただ、人間がそのような洗練された群れ社会を形成するには、無駄な精神構造が多すぎるような気がする。一人一人がきちんとした自覚と知性を持ち合わせていても、彼らが集団になると、集団としての性質はいきなり幼稚なナルシズムで暴走をはじめ、惰性に支配されブレーキを失う。しかし、あえて、さめた目でブログやSNS、携帯電話を見てみると、誰もがこれらを疑うことなく受け入れていることに恐怖を禁じえない。幼稚な集団が起こす事件が絶え間ない中、自分だけは大丈夫と、もう安心していられる時代ではないのである。誰もが超自我ジェットコースターに乗って暴走を始めているかもしれないのだから。
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by radiodays_coma13 | 2006-03-28 00:18 | 言葉について
あらしのよるに狼になりたい
 あらしのよるに、真っ暗な小屋であなたは擬人化された狼になって、それとは知らずに擬人化された山羊と出会い意気投合する、目が覚めて初めて相手が山羊だったことを知る。あなたならどうする?僕なら迷わずいただきます。骨までおいしくいただきます。
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 ちょうどそんな映画が巷ではどうやら話題になっているらしい。でもその狼は山羊を食べたりはしない(もったいない)。その代わりに彼はその山羊と友情を結び、仲間との諍いやさまざまな困難の道を選択する。「ともだちなのにおいしそう」なんて複雑な葛藤を抱えながら。

 これはきっと、男女の友情を取り扱った大人の映画ではないのかと思ってみたり。恋愛感情が芽生える前に友情が芽生え、「男女の友情なんて無理」なんとかいろんな周囲の反対を押しのけ、友情を育んでゆく「ともだちなのにおいしそう」なんてぼやきながらね。男は自分の性欲と戦い、女は自分の美味しそうな体の罪に気付かず。

 そうじゃないと僕はこの映画が好きになれそうにない。なんだかいやらしい勧善懲悪を感じますのよ。狼は山羊を食べるものだし、山羊は群れから離れては生きていけない。彼らはあえて不自然の道を選ぶ。それでも、それが正しい道と信じて。で、メリットは?ねえ、それで、この映画は子供に何が言いたいの?

 大人は子供に擬人化された動物の幻想を与える。「ほら、いい子にしてないとクマさんが遊んでくれないよ」。でもね、本当にクマさんと遊んだらケガしちゃうんだよ。というのは教えない。サンタクロースなんていないのにサンタがいると信じ込ませ、自分ではその嘘の真意を告げない。いつかは気がつくでしょうと他人任せ。「あなたまだ、サンタなんか信じてたの!?」なんじゃいそりゃ。

 奪う夢ならはじめから与えなければいいのだ。思うに擬人化された動物の幻想が欲しいのは子供じゃなくて大人じゃないか。擬人化された動物は心理的にいうと、人間の自然の部分、すなわち本能ということになる。大人は動物的な本能を飼いならし、抑えつけることで社会的生活をおくる。つまり、擬人化動物は本能を実体として扱い、理由付けるための象徴として現れる。

 大人にとって幼さや自分の中の子供が「クマ」として現れる。彼らは一見、遊び好きでかわいらしいけれど、それと背中合わせになった凶暴性や、無邪気さゆえの危険を孕んでいる。油断すると、深く傷付けられる。大人は彼らとの和解のイメージを必要とし、当の子供たちにもそれを押し付ける、といえば少し考えすぎなのだろうか。

 無論、「不自然なのが人間なのです」と答えらしいものを出されたらそれまでです。しかし、その人間らしい不自然さが行き過ぎたところで、真の人間悲劇が起こる。そして、徹底的に街から生な自然を排除し、脳化されたシステマティックな社会では、もはや、自分の中の自然と精神が同居できなくなっている。
 
 不思議なことに、深刻な現代的犯罪を犯した者は、自分を他者として扱うという共通点を持っている。「それは擬人化された狼がやったことなのだ」ということになるのだろう。しかし、こんな現代だからこそ、僕はもっと本能を開放してくれるような、はちゃめちゃな祭りのような物語がみたい。自分が狼になっちゃうような。狼になってかわいい山羊を食べまくるようなストーリー。矮小な善なんて微塵もないクリアな本能を謳歌するようなの。

 「あらしのよるに」の原作を読んでいると非常に疲れる。その場ではうなずいても、その後でゆり戻しのように自分の野生がうずいているのを感じる。無理やり野性の虎に芸を教えようとしているようなイメージ。ましてや、本能が強い子供にそんなことをやらせたら、なにか不穏なアクシデントが起こるような気がしてならない。

 大人は子供を侮っている。子供だましというが、その子供をだませない物語が多すぎる。なぜ、わざわざ、大人は子供のところまでおりていこうとするのかしらん。シビアな現実から逃げたいだけのファンタジーと、子供の心を形成するための現実よりもリアルな童話や神話などの物語を混同している気がしてならない。子供にはファンタジーは早すぎる。まず、現実や本能と和解させてあげたい。

 一人の作家が自分の創意で真の童話を書くのは至難の業に違いない。物語は自己主張や、経験、教えで見事に埋め尽くされてしまう。そこには子供の豊かな無意識が入り込む余地がない。語り継がれてきた童話には一人称が作りえない不思議な空洞がある。メッセージを超えたリアリティ。時にはそれは残酷さとして現れ、不条理として現れる。

 「浦島太郎」はなぜ、最後に老人にされてしまうのか?大人はおせっかいにもその謎にさもありなんな説明を加え物語を道徳的チープなものにしてしまう。答えは子供だけが知っている。「おむすびころりん」「花咲じいさん」は決して勧善懲悪の物語なんかではない。それは自然や本能との和解をテーマとしている。

 かわいらしさのオブラートの中に危険なメッセージを孕んでいる物語があることを大人は意識しなければならない。昔から語り継がれた童話と童話の皮をかぶった道徳話の見分けは大人がしないとね。その多くが大人が作った、子供にこうあって欲しいという希望を押し付けた、おせっかいで都合のいいシロモノだ。童話は害がないという人は多い。それはとんでもない間違いだ。童話ほど、子供の心にショックをあたえる劇物もないのだから。
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by radiodays_coma13 | 2005-11-26 21:13 | 言葉について
言葉の大事 心の大事
 言葉というのは本当に大事なものだ。何を今更な話であるが、言葉と向き合えば向き合うほどにそう思う。なんだか型通りな始まり方であるが、今日はその言葉の型についてのお話。

 これまで、それなりに言葉に対して向かい合ってきたと自分では思う。でも、日常において、自分は口が上手くなったなとか、その技術が仕事で活かされたと思うことはあまりない。今まで、言葉で人を傷つけてきた経験の方が多い。そんな時、決まって彼、彼女から言われる殺し文句は「言葉を使う人のクセに」。これを言われたら、もう僕は何も言えなくなる。一体、なんのために言葉と向きあっているのだ?と深く落ち込んでしまう。

 このことを書こうと思ったのはJR西日本の社長が国会答弁をしているのをきいたからである。先に断っておくが、僕はJRをここで感情的に非難するつもりはない。というよりもこんな重たい内容は避けて通りたい。でも、今回は言葉の事に関してだけ、言わせてもらいたいことがある。いや、感じたことを言いたい。

 JRの社長さんは高揚した議員の「家族に対してどう思うんですか?」という質問に対し、下にあるテキストに目を落として、理路整然と「遺憾であり痛恨の極みです」と語った。痛恨の極み?考えてみて欲しい、誰かに対して面とう向かって誤る時に落ち着き払って「痛恨の極みです」とか「遺憾です」なんて言葉使うだろうか。「すいません部長、大切なデータをどこかに置き忘れ、どうやらネットに流出してしまったようです。誠に遺憾であり、痛恨の極みです」僕ならぶっとばすね。例えば、「松坂、痛恨の一打を浴びました」と、野球用語として使われるほうがまだしも実体を感じられる。怒りというのではない、どうも不適切な気がしてならない。

 おそらく、あの場合、我々、ここであえて我々という視点を取らせてもらうと、我々がききたかったのは会社全体としての謝罪を超えた、個人の謝罪ではなかったか。「遺憾です」「痛恨です」は会社を代表するものとしての謝罪であり、なんら自分自身も家族を抱える者としての言葉ではなかったはずだ。彼自身の言葉ではないのだ。議員の「家族をなくされたご家族」という問いかけに対しては答えていないのである。

 もし、あの場で彼が自分の家族に思いを馳せて、出来事を自分の中に落とし込んでから答えたのであれば、「痛恨の極み」なんて言葉が出てくるだろうか?いや、いいでしょう、百歩譲って、千歩譲っていいとしましょう、でも、あの手元のテキストの意味がわからん。もし、あの場にいることを許されたのなら、乱入してテキストをビリビリに破いてやりたかった。「せめて一度、自分の言葉で答えろ」と。

 例え彼が自分の言葉で謝罪したとしても、なにも解決しないが、痛みを共感することは怒りの糸口をつかむ第一歩のように思える。しかし、彼は回避するのである。すべてをテキストに任せてしまった。そこに彼がいなくてもなんら変りはない。文書での解答と何が違ったのか。

 こういう話を聞いた。あの電車の一両目に乗っていた人が、その後、窓口であの電車で乗っていた運賃を請求されたというのだ。あの、死の列車の運賃を…。「そういう規則になっていますから」。出た!またテキスト言葉だ。その職員はその人の状況を察することは出来なかったのだろうか。なぜ、「そうですか、それは本当に、申し訳ありませんでした」くらい言えなかったんだろう。

 それは彼の所属する会社の体質のようなものなんだろう。心中お察しします。なにも彼らの会社だけに限ったことではない。うちの会社だって電車は脱線させなくても、企画はしょっちゅう脱線させている。人を危めないだけだ。いや、どこかで危めているかもしれない。50歩100歩なのかもしれない。

 話を一番最初に戻す。なぜ、僕自身、言葉と向き合おうとするのか。それは、本当にリアルな言葉がみたいからだ。あまりにも、リアルな言葉が減ってきていると思うから。仕事で、企画書をおためごかしな言葉でうめ尽しいると本当に自分が荒んでくる。こんなことのために、自分は言葉を覚えたんじゃないと。もしかしたら、詩を書くことは、そう云うものに対するバランスをとる為なのかもしれない。(だから!と云うイイ訳をしちゃうが、僕は企画書が下手糞だ。企画書のために言葉のレトリックを使いたくなんかない。それをしてしまうと、自分の詩が枯れるという恐怖に襲われる。ハイ、イイ訳おしまい。)

 今こそー、詩が必要だー!なんて熱いことは言わない。詩や音楽、絵やダンスだって、型で作ろうと思えば、できちゃうのだ。詩=心がこもっているなんて嘘。器用に型を使えば、美しい旋律や詩を作るのは誰にも難しくない。なぜ、あのJRの社長の謝罪がグッとこないか、それは紋切り型だから。でも、どんな芸術にだって、紋切り型はある。型との付き合い方なんて言い出したらまたキリがなくなる。でも、もし、人の心を動かしうるものがあるとしたら、型の向こうにあると思う。…リアル。…難しいね。こねくりまわしたらいいってもんでもない。社長さんに、一晩かけて原稿用紙10枚分にオリジナルな謝罪文を作られてもうそ臭い。案外「悲しいです」という一言の中に何かを込められたかもしれないじゃないか。
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by radiodays_coma13 | 2005-05-13 23:20 | 言葉について