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言葉と文化
by radiodays_coma13
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言霊、ソシュールの憂鬱
 以前の日記で、「水からの伝言」という本をとりあげた。(水は人の言葉に敏感に反応し、氷の結晶を作り出すという本です)その日記にいただいた書き込みに『日本人が「死ね」という場合と例えばですがアフリカのどこかの部族語で「シネ」とう言葉があってそれは幸福という意味している場合、アフリカの部族の方が「シネ」といっても多分、美しい結晶が出来るのでしょうね。』というのがあった。興味深い問題だと思った。しばらくそれについて考えた。この場合、水は何をもって美しい結晶をつくるのだろうか。水は言葉そのものの意味を理解するからこそ、言葉に対応した結晶を作り出していると言える。では、水はバイリンガルなのか?しかし、その考え方はちっともサイエンスじゃない。例えば、音の振動が水に影響を与えていると考えるのはどうだろう。しかし、水は言葉が書かれた「紙」に対しても反応してしまう。じゃ、感情に反応するということにしようと思っても、辻褄が合わない。「キミってサイコー!」と言いながらバカにすることだってできるのだ。それを書いた人の気分というのはまちまちなはず。この辺り、がこの本のマユツバなところ。なにをもって水が変化するのかきちんと触れられていない。「愛」なんて漢字じゃんか!なんで、水に漢字がわかるんだよぉ。つまり、彼らの言い分はこうだろう「水は生きている」ああ、そうですかい。水は生きていてもいいけど、じゃあ、どこで漢字習ったんですか?

 その話は無理やり置いといて。その「水からの伝言」をとりあげた日記で、ある種の響きには人を癒す効果があると書いた。個人的に私は言葉の響きが水を変化させるのはないかと仮説を立てている。とすると「死ね」と「シネ(幸福)」の矛盾が起こる。う~む、考え込んでしまう。そもそも、何が言葉と響きを結び付けているのだろうか。つまり「死ね」という攻撃的な意味と[shine]という音。両者はどんな必然性で結びつけられているのだろう。言語学者的に言うと「そこに必然性はない」のだそうだ。たまたま任意に選ばれた音でしかないと。それは「シ」という音素と「ネ」という音素の無意味な寄り集まりであると。じゃあ「シネ」が「アイ」でも「ニラ」でも良かったわけだ。でも、本当にそうなの?

 ソシュールという言語学者がいる。言語学と言えばソシュール、ソシュールと言えば言語学というような人。彼こそがモノと意味、言葉と音を学問的に分離した張本人。しかし、そのソシュールさん、一時期「詩」の研究に没頭したんです。彼は「詩」において選ばれる「音」と意味の必然性を詩のアナグラムという手法において明らかにしようとした。しかし、彼のその研究は学会で黙殺されてしまいました。(この時期のソシュールさんは霊媒師の話す火星語の研究とかもしちゃってます)彼は他の論文において後世に名を残すのですが、彼を信仰する研究者もその一連の研究をまともに取り上げることはしません。しかし、ソシュールさん、安心してください。私は実は、このソシュールのアナグラムの研究を支持します。といっても言語学会は揺らぎません。しかし、私にはどうも、音と意味の必然性があると思えてならない。

 ここで、そのことを書くときりがないので。例えばわかりやすいところで、楽器の名前と音の関連性について取り上げます。楽器の名前とその楽器の弾き出す音との間に何らかの関連性があるのではないか。まず、「ピアノ」これは「弱い」という意味をもつ言葉で、その楽器のために創られた言葉ではない。しかし、「ピアノ」の鉄の弦を弾くピンという音と「ピアノ」という言葉の響きはどこか似ている。これだけじゃ、「どうかな~」なんて思われるかもしれませんが、「ホルン」とホルンの音、「トロンボーン」とその伸びる音の性質、「チューバ」「ピッコロ」「フルート」「トランペット」あるいは「らっぱ」「バイオリン」「ヴィオラ」「チェンバロ」枚挙に暇がありません。音と似ていると思いません?もし「ピアノ」が「ピアノ」じゃなく「ゴンタック」だったら?どうでしょう。あるいは「ゴンタック」も候補にあがったかもしれない、けれど進化論のような取捨選択があったのではないか。その時、やはり人の意識の中に音とモノとの関係についての潜在的な結びつきがあったとは考えられないか。

 抽象的な言葉の場合、どうなるだろう?例えば、実体を持たない「愛」や「憎しみ」、「死ね」もそうですね。私は言葉には「ア」や「イ」という音素レベルである種の意味が存在するのではないかと思っています。それは単に勝手な思いです。ある語が選ばれるとき潜在的にその音素のもつ意味への意識が人のなかで働いている。ある音素はある状況を示す言葉に多く使われているという例を挙げることは簡単だ。例えば大きく区切って「K」の音。「ころす」「切る」「決定的」「きらい」「蹴る」「kill」これらKの音素が頭に使われている言葉はどれも「切り離す」というようなきつい意味を持っている。それからハ行はどれも笑いになりますね。「ははは、ひひひ、ふふふ、へへへ、ほほほ」これがKのカ行だと「カカカ、キキキ、ククク」ちょっとドライでクールな笑いになる。「殺すぞ」という言葉を「ハヒヘヒヘするぞ!」といってもあまり怖くない。

 日本には「言霊」という言葉がある。これは言葉の中に、霊的なものが宿っていると言う考え方。モノとそれを示す言葉の間には切り離すことができない必然性が存在する。いや、名前はモノそのものであるという思想。例えば、人々には本当の名前というのがあって、その名前を呼んで命令すると、人を自由に操ることができると考えられていました。これは日本に限った思想ではなく、過去の世界に共通する考え方です。呪術における呪文がそれにあたります。それは、しかし、至極当然の考え方なのです。世界において、文字を持つ言語は3000以上存在する言語のうち78言語。その内、世界で通用するのはたったの5~6に過ぎない。文字ができる前、言葉は肉体から切り離すことができなかった。つまり、言葉は肉体の一部であったと言い換えられる。そして、この感覚は、過去だけではなく、現在でもまだ、多くの人々の中に根源的に宿っているいるのではないだろうか。言葉と肉体が切り離され、言葉と意味が切り離されたのは、人類にとって、たかだか100年ほどの出来事なのである。

 言葉はレゴブロックのように外部に存在し、任意に組み替えられるものではなくて、実は人々の身体の内部に細胞のように宿っていて、肉体の感情に連動して、噴出してくるものではないだろうか。そう考えると、詩というもの、ひいては言葉そのものの役割に対して興味を失いつつある現代人は、言葉ではなく、身体の感覚を失いつつあると言い換えることができるような気がする。もし、言葉が水を変質させる働きを持つのなら、人体に対しても同じことだろう。ここで重要なのは言葉の意味ではない。身体をバイブレーションさせる言葉の欠落が、人に、人の精神に深刻な影響を与えるのではないかということである。水の本の真偽に関しては学者じゃないのでこの辺りあいまいに、うっちゃります。
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今日の作品は「ATOM」です。
by radiodays_coma13 | 2005-03-02 10:48 | 声について
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