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言葉と文化
by radiodays_coma13
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脳内オペラ
 早々、「オペラ座の怪人」を観に行った。ここで、映画の感想を言うつもりはない。面白いかどうかはそれぞれの問題なので。ただ、オペラ(ミュージカル含む)マニアの私としては、十分に楽しめた。オペラ好きの人はあまり知り合いにいないけど、オペラが我慢ならないほど嫌いという人はたくさん知っている。あの、甲高い声と、わざとらしい世界が嫌なんだと。でも、こちらとしては、そのわざとらしいところが大好きなのよ。もう、芋焼酎みたいなものである。好きな人は酒臭さが好きで、嫌いな人はそれがイヤ。相容れることはない。ズバリ、オペラの魅力は「嘘」にある。どれだけ嘘をつけたか。普通「そんなことないやろ~」と大木こだま風ボケ突っ込みしたくなるところを、どっぷり浸ってハンカチ噛んでメソメソ泣くところが気持ちよい。自ら、その嘘にダイビングして、能動的に楽しまなければ楽しめない。そこでは、自分が主人公なのよ。ヒロイズムね。TVのように受動的でいては、嘘っぽいだけ。しかし、オペラの嘘は「嘘っぽい」じゃなくて、明らかな嘘である。オペラを嘘っぽいという人は端から批判の仕方を間違えている。

 ただ、現代において、オペラが成立するかと言われたらちょっと疑問が残る。そもそも、都会というもの自体が、人間の作り上げた純粋にイメージから作り上げられた幻想の世界そのものなのだから。そこに一切の自然は存在しない。そもそも、妖怪もお化けも人間が暗闇と自然に対する畏怖をイメージ化したものだ。電気の明かりがない時代には、日常に妖怪やお化けがあふれていた。「源氏物語」などでは人間世界と超現実的な世界の区切りをつけることすら難しい。妖怪の存在がフィクションでない。過去の人たちは、そういった超現実の世界を祭りという形で外在化させ取り込んできたと言える。ハレとケという感覚である。そのことで、彼らは生活のバランスを保ってきた。しかし、我々には本当の闇は存在しない。24時間、街には明かりが灯り、コンビニで買い物ができる。街に妖怪はいなくなった。そのかわり、我々は自らの心の中に闇を持つようになったのではないか?しかも、我々は祭りによってその闇を浄化することもできない。そして、ハレとケの境がなくなった。ということはその闇に住む、妖怪と神的なものとの区別もつかなくなったということでもある。

 私は5年間、舞台の仕事をしてきた。演目のない日は誰もいない巨大な劇場を一人で留守番した。そこは、「オペラ座の怪人」とまではいかないけれど、謎めいた迷宮空間である。しかも、昼というのに、一切、日の光が差し込まない闇の世界。そこを一人で点検するというのは、気持ちのよい作業じゃない。どこの舞台でもひとつやふたつ幽霊話を持っている。チャンスのある人は舞台で働いている人に尋ねてみるといい。絶対にひとつくらい体験談をしてくれるから。例えば、スノコ(舞台天井部)の電気ケーブルが本番中に外れたようなので上がってみると、そこに子供が立っていたとか、ね。次に上がってみると今度は、家族でコタツに入っていたという。…コタツって。因みに僕は、舞台に設置されたモニターに、いるはずの人影をみたりしました。怖いので本番のない時はいつも消していました。そこで、私はこう思うのです。都会から闇は消えたが、舞台には人間の手で作られた人工的な闇が存在する。つまり、都会で生活することができない妖怪たちは舞台で生きのびているのではないかしら。

 そこで「オペラ座の怪人」を考えると非常に興味深い。現在、上演されている90%以上のオペラは前世紀の前半に創られたものであるということ。現在制作されたオペラは上演される機会に恵まれても、一度か二度。ロングランになることはあまりない。その中で数少ない成功例が「オペラ座の怪人」である。現代のオペラやミュージカルでヒットしている作品の不思議な傾向は舞台を扱ったものが多いという事。「シガコ」「ムーランルージュ」「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」もそう。こう思うんです。ファンタジーは舞台の外から出ることができなくなった。「オペラ座の怪人」でも舞台以外のシーンはほとんどなかった。シーンとして成立していたのは唯一、墓地のみ。(それもある意味、面白い。)

 我々は現実の世界にファンタジーを持つことができなくなったのかもしれない。わざわざ自分たちで闇の装置を作らなければならない。我々は日々、都会という不自然と対峙し、超過密な日常という非日常の中で生きている。現代において、リアルなんて言葉に意味はない。リアルを嗜好することのほうが似非リアルですらある。むしろ、TVに登場するブルジョアが自分たちの家の内装を19世紀貴族風にしていることの方が不思議なリアルを感じる。舞台の中でしか生きることができず、善悪の区別も曖昧な怪人ファントムに現代に生きる妖怪の脆い美しさを感じた。そして、それは完全な妖怪ではなく、半人半獣、仮面で顔を隠した、合わせ鏡に映る自らの姿であることは示唆的だね。しかもファントムは鏡の中から現れ鏡の中に帰ってゆく。

 今の時代、神も妖怪も外の世界にいないことが自明のことになってきた。月に立ったアメリカの宇宙飛行士バズ・オルドリンはそこに神の不在をみたという。そして、精神の異常をきたした。神や妖怪を外に求めてももう見つからない。それは自らの内部にしか存在しない。もしかしたら我々はもうオペラやファンタジーという豊かな「嘘」を外在化させることができなくなっているのかもしれない。そして、ハレとケの境目をなくした、その分だけ、我々の生活そのもののリアルが希薄なものになってきているような気がしてならない。

satomune
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by radiodays_coma13 | 2005-02-27 01:10 | 考える
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