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言葉と文化
by radiodays_coma13
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パフォーマンスの現在―2
やわで感傷的な蓄音機の針

 詩の朗読がつまらないのは至極当然なことである。しかし、「それは詩が悪いから」というつもりはない。朗読という性質の問題である。まず、そのテキストが声に出して読まれるために書かれたのかということである。どのタイプの言語を使用しているのか?これは、実は、朗読にとって、いや、詩にとって、そして、これから書こうとしている一連の文章にとって最も重要な問題である。それが、書き言葉なのか、しゃべり言葉なのか。もっと細分化して、書き言葉であればそれが紙媒体での活字なのか、電気的なインターネットの活字なのか。インターネットの活字ひとつとっても、日記なのか、BBSなのかで大きく言葉の性質は異なってくる。我々は普段何気なく、それらの言葉を交通しているが、実は言葉を使っているのではなく、使用する言語タイプによって、我々が変えられていることになかなか意識的になることができない。

まず、書き言葉で書いた詩を朗読する例について考えてみる。詩人が詩を書くと言うこと。それは内から湧き上がってくる想念を文字に変換すること。つまり、意識の中にある言葉以前の状態を言葉に翻訳している。そして、次に、それを活字化して線の連なりとして紙の上に定着させる。形への翻訳作業。ここで、何度か、これまでの工程を往復して文章は推敲されてゆく。このあたりは、彫刻家が、粘土で塑像を製作し、石膏で型をとり、再び彫刻され、再度型を取り、ブロンズに鋳造される工程と似ている。定着された活字は次に複成される。時にはデータ化され、又はコピー、印刷されて多量にばら撒かれ配信される。言葉はその時にも変質を余儀なくされる。

そして、最後に読まれるという行為。観客の前で詩を声にするために文字は音声に翻訳され読まれる。だが、その時点で詩はすでに書かれた時の感情とは別物である。まったく別次元の言葉と言い換えてもいい。なぜなら、そこには発想から発話までの多重の翻訳作業と変質が介在している。それは大勢による厄介な内容の伝言ゲームと同じだ。その時、言葉は紙に定着された感情の残像に過ぎない。詩人は紙に書かれた言葉の記憶を蓄音機のようには上手く奏でることはできないのだ。

ここで、朗読が不可能であるということではないことを確かめておきたい。可能性として、読まれる場において、もう一度、再演されることが可能である。それは声に変換する「よむ」という行為とは異なる。再演するとは詩のテキストを音楽における楽譜のような存在と認識し、もう一度、再解釈を施すということでもある。まず、この時点において、多くの朗読者が脱落する。彼らは、テキストを持って舞台に立つということにあまりにも無自覚なのである。舞台と国語の授業とを履き違えている。ただ、自らが書いたはずの文字の痕跡を、まるで、道端に落ちている石でも拾うようにテキストを音声化するだけなのだ。観客にとってそこに意味を読み取ることは至難の業である。それはエキサイト翻訳での変換作業を何度か繰り返したような状況を呈している。

しかし、そこで、大きな問題に行き当たる。では、作者が朗読することと、一読者が声を出さずに読むこととどう違うのか?意味を理解し味わうという点においては本質的に変わらない。むしろ、観客の理解速度を無視して読まれるので、理解度が落ちるという点で劣っている。ここで、演者が変に感情を込めて絶叫したり、悲しげにしてみたところで、それはノイズにしかならない。観客は活字としての「詩」を見ているわけではなく、声と身体をみているのだ。つまり、朗読は「声・身体」という言語を扱うということである。「想念→声・言語」という流れになるのだが、ここでどれだけ、翻訳作業を介さずダイレクトに想念をカタチにするかがポイントとなる。人前で演奏する時に初見で舞台に立つ音楽家がいるだろうか?演奏家であれば、ほとんど楽譜を意識しないところまで訓練を重ねるだろう。しかし、恥ずかしながら、詩人たちのほぼ9割がテキストを手にもって行為を行う。テキストを手に持つのであれば、それに対してどれだけ意識的であれるか。これは技術的な問題なのだ。そして、二つ目のハードルにすぎない。

自らが使用している言葉に意識的になって、まず、「声・身体」を立ち上げること。当然のことなのだが、どこかで、活字的な「意味」にしがみついてしまう。人前に立つことにおいて、意味を伝える事は重要でない。むしろ、あきらめなければならない。ミュージシャンなら言うだろう。大切なのは「関係」を築くこと。言葉は関係において意味を成す。状況によって言語タイプは様々に変化し、それぞれは大きく性質を異にする。活字化したからといって、自律し自由に解釈されているわけではない。書籍と人との関係性がきっちりと存在する。まず適切な言語タイプを選択し、「関係」を築けなければ、観客は「意味」というテーブルにつくことすらできないのだ。「作品が良ければきっと伝わる」こんな神話を信じられる状況はどこにもない。しかし、詩の朗読、然り、前衛演劇や実験的パフォーマンス、舞踏において、その前提に立たないものがあまりにも多い。これは批評家の目で言っているのではない。その結果におていの感想を言っているだけだ。つまり、つまらない。ただ、それだけなのだ。面白くあるべきかという問題については次にする。

satomune
by radiodays_coma13 | 2005-02-23 11:14 | パフォーマンスの現在
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