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言葉と文化
by radiodays_coma13
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『SCAR』
携帯電話クロニクルで感覚の進化と、痛みの発達について書いた。ちょうど、その頃、「声の祭典」というイベントに参加した。そのイベントで痛みと言語についてのレクチャーとパフォーマンスを行った。そのイベントにおいて、多くの参加者にインタビューを行い今日、紹介する作品を制作した。以下の文章はその時、用意されたパンフレットに掲載した文章である。


[SCAR]

今までにケガをしたことのない人なんているだろうか。
誰もが体のどこかに有形無形の傷を持っている。
私たちはその傷をみるだけで、その傷が生まれた時の風景、
状況を克明に思い出すことが出きる。
しかし、多くの人は今そこで血を流している傷に対し、つい目をそらしてしまう。
その代わり、私たちは塞がった傷に対してはオープンになる。
誰もが一度は、望むと望まざると人の傷の自慢話を聞いたことがおありだろう。
その時、あなたはもしかしたら、顔をしかめながらも、
ついその話に釘付けになってしまったのではないだろうか。
話者の痛みを共感してしまった経験があるのではないだろうか。

アフリカでは、ライオンの餌食になり、食べられ
今まさに死んでゆく獲物を囲んで
多くの動物たちがそれを一部始終眺めている光景が
しばしば目撃されるという。
ライオンは食べる以外の獲物を襲わない。
ライオンの食卓を見つめる動物たちはまるでそれがひとつの
魅惑的なショーであるようかのように、安心して舞台にかじりつく。
死んでゆく獲物は目にうっすら涙を浮かべている。
動物も死を悔やむのだろうか。いや、違う。
ご存知だろうか、その涙が快感の涙であるということを。
食べられながら死にゆく動物の体内には、
エンドルフィンという体内麻薬の一種が流れている。
覗きこむ多くの動物たちは、食べられる仲間と自分を置き換え
快感を追体験しているわけなのだ。
そして、我々、人間も動物同様、
ケガをするとその痛みを押さえるため一次的に血管の中を体内麻薬が流れる。
つまり、傷の話を聞き、痛みを共感しようとすることで、
微量の体内麻薬を生成出来るという仕掛けなのだ。

しかし、人はなぜ、傷に対して饒舌になるのか?単に快感を得るためなのか?
考えてみると、真に人の痛みを痛むことなど不可能である。
Aさんの「ピリピリ痛い」とBさんの「ピリピリ痛い」が
同じであるという証明はできない。
どれだけ痛みを伝えようとしてもそれは無駄な行為であり、
語れば語るほど、徒労に終わるだろう。
それにも関わらず人は夥しい痛みについての記述を行ってきた。
もしかしたら言葉の技法の発達を影で支えてきたのは
「痛み」を伝えようとする生き物の本能だったのではないか、とさえ感じられる。
痛みを伝えることで人は、自己が孤独ではないことを探ろうとする。
他者の傷に耳を澄ますことは、社会行動の原点と言えるのではないか。
傷こそは肉体というカプセルの唯一外界に通じる、抜け穴なのかもしれない。
私たちは傷によって自己表現するのではなく、
傷に刻まれた外界からのメッセージを読み解こうとする。
傷は肉体という書物に記されたテキストであり、
それは読まれるのを待っている物語なのではないだろうか。

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「SCAR」です。
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by radiodays_coma13 | 2005-02-12 02:03 | 感覚について
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