音楽と朗読どちらが好きか?と言われたら、朗読を選ぶというのはやっぱり珍しいのだろうか。
決して音楽は嫌いではない。表現的な青年の王道、バンド活動だってしていたし、僕は
デタラメ鼻歌の名人だ。
でも、心が疲れたとき、音楽よりも朗読を選ぶ。
朗読というのも語弊がある。
人の声。自分に向けて語られている言葉ではなくて、なんとはなしになにかの文章を読んでいる声。それくらいがちょうどいい。
その人がその人自身の気持ちを書いた文章ではダメ。
へんに表現されているのは聴いていてしんどい。
音楽も邪魔。
ちょうどそういうのが欲しくなる精神状態があるというのが正しいかもしれない。
例えば、色々な仕事で頭が煩雑になって、もう収拾が付かなくなっている時とか。些細な辛いことでなんとなく全てのことがわずらわしくなっている時がちょうどいい。
そんな時、音楽でジャジャーン
「元気出せや!」と肩を思いっきり叩かれたら、なんかすごく厭。
なにげない朗読の意味を追うのではなくて、遠くで声が響いている感じがいい。ただ、言葉の抑揚が、
心をやさしくマッサージしてくれるということがある。
しかし、そんな都合のいい朗読というのは滅多にない。どれもこれも表現衝動に溢れている。それではこちらが疲れる。
昔、言葉の収集をしていた。こっそり、ボイスレコーダーを忍ばせ、人の会話を録音する。その音質をお風呂の中のようにモコモコにして、寝るときなどに聴いていた。
スヤスヤとてもよく眠れる。
最近はとても素敵なCDを見つけた。
「にほんごであそぼ」の全4巻セットのCD。これが僕の宝物。自転車通勤の行きと帰りの往復2時間弱、ずっとそれを聴いている。
子供たちの朗読は本当に素晴らしい。そこに意味は込められていない。言葉の音やリズム、抑揚への喜びだけがある。そして、熟練の者の声とのコラボ。そのメリハリ。とてもバランスがいい。
30分も聴いていると、すっかり頭は空っぽになる。僕もいつかこんな朗読ができたらなとそればかり思う。
本日、ふと、その中にある
「雨ニモマケズ」の鹿児島弁バージョンを聴いているとき、本当に自然にポロポロと涙がこぼれた。自分は悲しくないのに、まるで、いっぱいに水が注がれたコップを傾けるように自然に。
雨いも負けぢ
風いも負けぢ
雪せーも、なっの暑っさにも負けん
じょっな体をもっ
よっなこちゃせじ
いけなこがってんはらかかぢ
いってんしずかにわるちゃい
ひしてん玄米四合と
味噌とちっとばっかいのやせをたも
ないごっもわがおばさんにょんいれぢ
ゆーみききをしわか、ほしてけわすれぢ
のっぱらん、松林んかげん
こまんかかやぶのこやよっせ
・・・
僕は意味に涙しているようではなかった。だって、さっぱり意味が分からない。どうやら、その響きに直接コミットしているらしい。それはとても素敵な体験だった。
朗読は心がちぢこまって暗いところでうずくまっている時、どんな音楽よりもやさしく、深いところに、月の光のようにやわらかく光を届けてくれる。
少し、朗読というものの良さが分かったような気がした。
でもしかし
「ちんたかなちゃおろいおろいさる」って雨ニモマケズのどのあたりなんだろう…。チンタカした、茶色いおもろい猿がどうかしたのか?
んで、コテコテの神戸(長田)弁にしたらこんなかんじ。
雨にもまけへん
風にもまけへん
雪にも夏暑いのんにもまけへん
めっさつっよい体をもっとー
よくばれへんしー
ほんで、ぜんっぜん、おこれへんねん
いーっつもしずかにわらっとー
一日玄米四合となあ
味噌となー、ちょっとのなあ、野菜食ってなー
どんなんでもわいのんをかずにいれへんで
よーみたりきいたりしてわかってる
ほんで、わすれへんねん
野っぱらのやー松のやー林のやー蔭のなあ
ちーちゃいかやぶき屋根におってな
・・・
で、最後が
「そんなんにわいはなりたいねんや!」
コレイイネ!
「そんなんにわいはなりたいねんや!」
なりたいんか!そーかそーか