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言葉と文化
by radiodays_coma13
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「オープンマイクはもうおしまい。」
 オープンマイク形式という詩の朗読イベントの一形式がある。そこではマイクが開放されていて、自分の詩を読みたい人が手を挙げて好きなように参加することができる。詩のイベントといえばオープンマイクというくらい日本全国津々浦々、ある時期、雨後の竹の子のように増殖したことがある。

 90年代後半、僕が神戸にいた頃、まだ関西にはオープンマイクイベントはなかった。そこで、東京へ赴いた。「梅島ユコトピア」というイベントだったと思う。僕は始めて自分と同じく舞台に立つ詩人たちに出会った。筏丸けいこさん、ヤリタミサコさん、さいとういんこさん、ブルーマヨネーズ、今では一部で有名なジュテーム北村さん。すごいインパクトだった。大阪に帰ると程なく、平居謙さんが主宰する、「ポエトリーリーディングの夕べ」が始まった。そこで初舞台を踏んだ「しげかねとおる」とも出会った。驚いた。僕は珍しいパンダを観に行くような気持ちで、日本津々浦々のオープンマイクに出かけた。

 岡山「Happy? Hippie!」東京「ウエノポエトリカンジャム」「ベンズカフェ」京都「声帯エステ」名古屋、福島、エトセトラ。それはそれは楽しい一時期だった。詩を書いていたけれど詩人に出会ったことがなかった僕は20年の恨みを晴らすようにたくさんの詩人に出会った。おかげで、僕は何かを追い求めて東京に引っ越し、東京初舞台思い出の地「梅島ユコトピア」から自転車で10分の所で暮らし始めた。オープンマイクは僕の人生を変えた。と、長々と持ち上げたけれど、実は僕は朗読を一度も心から肯定したことはない。自分で進んで舞台に立っているにも関わらず、人の「朗読」を聴くほど苦痛なものはないと思っている。

 むしろ、詩の朗読がいかに終わっているかを確かめるために舞台に立ち続け、人の朗読をきき続けた。(もちろん聴くにたえるものもあるにはあったけれど…)理由は?僕がただ天邪鬼だから。説明すると長くなる。普通ならここで、割愛するんだろうけれど、でも長くする。天邪鬼だから。それを「今」しておく必要があると感じた。だって、もう今更オープンマイクなんかしても本当にどうしようもないんだから。誰かが「詩の今後のためにするんだ」って言ってた。だったら尚更、本当に本当になんの意味もないんだから!さて、答えは言いました。結果が知りたかった人はここまでで結構です。ここから先は屁理屈と暴言が続きます。

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 初めて詩人の団体さんの前で詩を読んだのは「詩マーケット」というイベントの第一回目の時だった。それまで、僕は自分ひとりで詩のライブとかディナーショーとかわけのわからんことをしていました。まあ、僕があんまり美男子だったので舞台に立てば、それだけで女子(おばさま)たちがキャーキャー言ってくれました。でも、詩マーケットでパフォーマンスをやった時、ある詩人がツマラン!と言った後「もっと自分を表現しなさい!君はどんな思想を伝えたいのかね?」と言った。以後、この言葉はいたるところ、いろんな詩人の口を借りて僕に襲い掛かった。しかし、詩は自己表現の道具なのか?言葉は自分の思想を伝えるだけのちっぽけなものなの?ねえ?そんな問いが始まった。

「オープンマイクはもうおしまい。」_c0045997_0462499.jpg 詩マーケットのその経験と時を同じくして、僕はそのような現状のアンチテーゼとして「RADIO DAYS」を結成し活動を始めた。趣旨は単純。自己表現しない。思想をもたない。意味から逃れ続ける。というものだった。よって、個人というものから逃れるべく複数名のユニットである必要があった。当初は顔を帽子と自家製のゴーグルで隠していた。任意のラジオチャンネルから流れてくる言葉と会話するパフォーマンスや、同時に複数の人の声を各所で流して口をパクパクさせるものや、「梅島ユコトピア」で行ったパフォーマンスは、体の各部位に書かれたたくさん人のモノローグを読んでゆくというものだった。つまり「声」というあり方での詩の否定からスタートしたと言えると思う。

 当時だったか、その前だったか、詩人の荒川洋治さんが詩の朗読の否定をしていた。深い理由は不勉強ゆえ知らない。でも、確かにつまらない。根源的につまらない。世の中に色々な娯楽や映画やダンスなど、刺激的なメディアがあるというのに、朗読だけもう歴史の定めであるかのようにつまらなかった。必然的宿命的にといってもいい。つまらないという体験から出発してRADIODAYSの強い支えになったのは「 哲学者デリダ」の思想だった。
ロゴス中心主義とは表音文字言語の形而上学である。それは根源的にはこのうえなく独自的かつ強力な民族中心主義であって、今日では地上全体に自己をおしつけつつある
  なんだかややこしいが、声はおしつけがましいということだ。声のうらには真実があるという信念のもとに、人はそれを声に託す。また、声にはそれが可能だと信じているようだということだ。人が人前に立って詩を読むとき、読む人はそこに自分を託し、自分の思想や価値や世界をおしつける。しかも不特定多数に。それを発するべき他者の設定からしておかしかったりして。彼らは誰になにを言おうとしているのか?もう、それがうっとうしいのなんの。デリダや、ドゥルーズ=ガタリ、当時のポストモダニズムの思想家たちはそれを「脱構築」や「ズラす」という言葉で批判し、解体しようとした。僕はただ、息苦しかった。言葉はもっと自由なのに…。

 ある種の言葉は状況を限定し不自由にする。「おれは男だ」とか「きれいな夕日だね」とかね。その言葉によって切り捨てられてしまうものがある。しかし、言葉は使い方によってはさらに人を自由にすることもできる。そんな使い方もある。しかし、詩を自己表現の道具に堕することで、詩は人をちっぽけで不自由な存在にしてしまう惧れがある。戦後詩とはそのような自己憐憫の観念的な独り言のようなものだった。政治運動に疲れ、社会は変えられないという諦めに立ったある種の人々には、それが機能した時期もあるのだろうけれど、詩のそういったイメージは定着しちゃった。詩とはそんなものだと誰もが思った。そのイメージ効きすぎた。詩は一部のくら~い反社会的な人々のものだと。ま、どこかでは外れてないような気もするけどね。詩の業界は瀕死状態となった。

 20年も詩を書いていたのに、それまで一度も詩人に会ったことがなかった。中国の山奥にでも行かないと会えないのかと思ってた。しかし、90年代後半、突如、くら~いこわ~いこの人々たちは立ち上がった。ちょうど、インターネットがさかんになり始めた頃で、ネットで詩を書いている人と、紙媒体で詩を書いていた人が、リアルでぶつかりあったことでうねりが起こった、と僕は認識している。各所で「オープンマイク」や「マーケット」など多くの詩のイベントが行われた。世の中にはこんなに隠れ詩人たちがいたのかと思い驚きました。僕の携帯電話のアドレスは詩人の名前で埋め尽くされた。これってちょっと異常なことだと思う。

 でも、そもそも、それは「詩人」の集まりだったんです。100人集まろうが200人集まろうが。彼らがよってたかってイベントをして、自分達のコロニーを作ってるだけだった。ようはオープンマイクなんて言葉だけ。実のところそれはクローズマイクなんですわ。開いているようで閉じている。はじめは、全国にいる詩人のあぶり出しに効果もあったかもしれない。でも回数を重ねることで、運動はひろがるどころか、純度を増し濃縮されていく結果となった。例えば、コンピレーションイベント。数名の詩人がゲストという名で羅列されるイベント。オープンマイクとなんら変わりない。どれも押しなべて閉鎖的でつまらない。疑うなら、街で歩いている人をその中にほおりこんでみるといい。顔をしかめ、ついには耳を塞いで逃げ出すに違いないから。彼らはいっこうにそんなことは気にしない。「自分だけがたのしくその場に立てればいいのだから」

 「オープン」という言葉になぜか後ろめたい閉鎖感を塗りこめているだけなのだ。誰かがその場にいるからオープンなのではない。態度の問題ではないか?閉じているか、開いているか。いくら、マイクを不特定多数の人々に向けても同じことだと思う。それはある意味で暴力でしかない。だって、こんな時代に自己表現するべき自己なんてどこにもないし、表現すべき内容なんてないんだから。自己表現しろ?無理!「自己」なんて、現代が作り出した幻想でしかない。それを訴えるべき他者もない。そのことを若い人々は気付き始めている。いや、体現しつつある。

 哲学の歴史がその時代の問題から派生するものであれば、表現も色濃くその時代を反映しているはずだ。日本では「荒地」が戦後を象徴した。80年代。浅田彰さんがポストモダンという言葉を掲げて華やかに登場した。彼が言うようなポストモダンなあらかじめ価値観の崩れた社会もやってきた。さて?さて、僕達はそこで何をすればいい?ポストモダンな社会がやってくると浅田さんは言ったけれど、その後のことはあの人なんにも言わなかった。

 トリッキーな答えしかないけれど、「クローズマイク」という名の開かれたイベントじゃないかしら。そこでは言葉から逃れるための遊びが行われる。言葉というシステムの呪縛から逃れるためのレッスン。「夢」や「自分」という人々の自由な意識を妨げる、くだらない社会的な意味づけから開放するような言葉の解体。とてもシンプルな言葉との戯れ。そんなものが僕は観たい。言葉は自分の考えを語るだけのものではなく、時に自分をあざむき、自分を超える。テクストは誤読するためにあるとデリダは言った。なにか真実を言っているように気になって悦に入っている人にとって、マイクや舞台は力の象徴なのかもしれない。しかしそんな暴力的なマイクを押し付け合うオープンマイクなら、もう本当に「お開き」にしてはどうだろうか?そうだ、リリース、開放してしまえばいいのに。まずはそこから始めよう。
by radiodays_coma13 | 2006-05-06 00:55 | 声について
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