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言葉と文化
by radiodays_coma13
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全ての道はスカムに通ず-その2
スカムから遠く離れて…

圧倒的に、かつ原始的に、そしてエレガントに僕は詩を愛している。へへん。でも、今までうんざりするほど、こんな言葉をきいてきた。「現代において詩は可能か?」?!可能じゃなかったのか?では、僕が愛してきたものはなんだったのだ?詩を愛する(?)者の多くがまるで遺言のようにこの言葉を口にする。「詩は可能か?」「詩は売れない」「詩は死に掛けている」僕は彼らに言いたい。「あなたが愛しているのは少なくとも詩ではない。もし、それが詩のようなものだとしても、嘆くまでもなく、あなたの詩はすでに死んでいる」と。

言葉のあり方というのは変化し続けている。日々メディアは変化し、新しいメディアの登場は言葉のあり方のチャンネルを大きく変えてゆく。そのことに意識的であることは非常に困難な作業だ。詩はその時々の言葉のあり方をもっともディープに反映するものだと思っている。もしくは反映しきれないものはディープな詩であることができない。ある種の詩が死に掛けているというのは、ある種の詩がディープに反映していた世界が終焉を迎えたからに過ぎない。現代詩にとって、それはおそらく「戦後」と言われるチャンネルだ。

「戦後なんてとっくに終わってるよ」という人は少なくないだろう。でも、正確に言えばそれはまだ終わっていない。それは一部の心ない人によってまだ、終わらせてもらっていない。「誰か」が戦後にしがみついている。極端に言えば、日本は情報過多を意図的に作り出し、情報の壁によって、非常に鎖国的な状態なある。ある種の情報で煙幕を作り出し、本当に重要な情報を見えにくくしてしまっているのだ。言葉のチャンネルを変えてしまう新しいメディアは次々に登場しているのに、我々の言葉がまだそれについていっていない。そして、その言葉で語るべき物語を見つけることも出来ず、一体何を言うべきかを見失っているように見える。

あらいざらい思っていることを言ってしまおう。こんなにも垂れ流されるポップスの歌詞。すべてスカスカだ。なにも言っていない。そして、垂れ流される多くの詩。これらはまだ、戦後50年以上も経っているのに、未だドロドロした極私的な感傷をぼやきつづけている。「もう、終わったんだよ。頭を上げてごらんよ、もう誰もそこにはいないよ。」これは終わらせないといけないのだ。詩が終わったのではなく、我々が言葉に置いて行かれているだけなのに気がつかないといけない。

c0045997_054837.jpg誰かが言う。「日本語は死に掛けている。」確かにそうだろう。ある芥川賞作家が受賞の言葉でこう言った「日本語を守りたい」え?もう一回、え?ある作家って辻仁成なんだけどね。もう、これにはあいた口がふさがらなかった。貴様に言われたくないと。GOOだかZOOだかわからんけどさ、そういう行為をしている人が日本語を守る?僕は彼は自己否定をしているのかと思いましたよ。死に掛けてるものは死なせたらいいんです。それは今までの日本を支えてきた古い体系の死でしかない。そのかわり、新しい言葉を獲得したじゃないか。ピジンだかクレオール語に成り下がったとして、それが素晴らしいかどうかも置いておいて。それでも、もう、そこでしか表現できないんだから。余計なことしないでくれと言いたい。
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なんなら殺しましょうか?そうだ、死に掛けているという人のために、いっそすべての詩集を焚書してしまえばいい。誰かが詩を殺そうとして立ち上がり、政治的な弾圧をすればいい。例えば、そういう場合に詩はもう一度輝くと思う。今現在、詩だと思われているものが全てなくなれば、確実にそこから、新しい詩は生まれる。そんなものから遠く逃げおおせたものがきっと新しい詩をつくる。

パンダを死なせないで!誰かが言う。同じように「詩は弱者の声なの!」と。その通り、だからこそ批判すべきだと思う。批評性を失ったときにはその表現はダメになる。阪神大震災の時にも同じことが起こった。震災のことを表現すると皆、両手離しで拍手を送った。「よくぞ描いてくれた!」でも、それだけだった。震災にまつわる作品を批評すること自体がなにかしら人を後ろめたい気持ちにさせた。しかし、そこからは佳作と言えるものは何一つ生まれていない。

c0045997_0553351.jpgそれでいいのだ、死ぬ行く生き物は死ねばいい。弱きものは逃げればいい。進化とは弱者のものだから。前回、スカムについて書いたが、それら、未熟で圧倒的に悲しい存在が発する音楽の原初的な強い輝き。悲しい環境を強いられて発せられる表現。しかし、どんな悲劇的な状況であれ、表現者にとってそれこそチャンス。逃げて逃げて逃げ切ったものだけが新しい表現にたどり着く。環境を変えようなんて無理。自分が変わるしかない。そもそも、彼らは制度の外に追いやられた人々なのだから。表現者は強者ではなく、とてもマージナルな存在のはずだ。弱き表現者の命がけの逃走だけが世界の輪郭をすこしづつ広げてきたのだから。
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by radiodays_coma13 | 2006-04-13 00:59 | 言葉について
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