なにか作られたものを鑑賞するときに、そのものが発する情念みたいな、その作品が持っている真髄みたいなものを感じたいのに、それを邪魔するものがある。今日はそれについてのお話。それはズバリ、上手さ。テクニックとも言えるのでしょうが。一個人として作品を鑑賞するとき、それはものすごく邪魔なものに感じられる。それは一見、外見を取り繕っているようで、作品が発する声を掻き消している。
スカム・ミュージックというものがある。僕はとにかくこれが大好きだ。これを定義するのはとても難しい。ヘタクソというのがキーワードではあるのだけれど、単なるヘタクソではない。ぶっこわれたヘタクソさ。それらの音楽は音楽の根っこにある、情念みたいなものを素っ裸でぶつけてくる。これがタマラナイ。
しかし、スカムが難しいのはいったん、技術的に向上し、上手くなってしまうと、もうスカムではなくなるという点。市場には狙って作られたスカム・ミュージックというものがあるが、これは厳密にはスカムではない。圧倒的な誤解とそれを無視して突き進めるものだけがスカムに到達する事ができる。。(スカム的な音楽をなんとなくあげろといわれたら
少年ナイフとか、
ゲンズブール、
チコピド、
クリンペライ?とかどうなのかな)
舞台の仕事をしていた時、そこではピアノの発表会や下手なバンドやズバぬけて歌唱力がでたらめなカラオケなどが日々催されていたが、僕はそれらをこよなく愛していた。こっそり録音して、自宅でこれを鑑賞していた。そこには音楽の生命力が満ち溢れていた。僕自身もバンドをしていたが、目指すところはスカム・ミュージックであった。基本方針は皆で弾けない楽器を弾く。つまり作られたスカムではあるが…。(
視聴)
ここで極論を言うなら、全ての文化は誕生したときにはスカムであったと僕は思っている。出発点はそこなのだ。そこからしか圧倒的に新しいものは生まれない。そう思っている。そして、スカムからプリミティブな輝きを見出したものだけが、それを洗練へと導く事ができるのではないか。
しかし、洗練、純潔はいずれ、その文化を死に追いやる。そのようにして死に掛けている文化はひどく多い。例えば、狂言や能。現代詩、多くのジャンルの音楽。ポップミュージックも死にかけている。それが現代詩なんかと違うのは、死に掛けていることに多くの人が気付いていないということだけだ。そこにあったはずの生命感みたいなものは消えて久しい。
本当に愛さなければならないのは、スカムのスカムな部分ではなくて、スカムな人々がスカムにならなければいけなかった状態の方である。新しいジャンルは、はじめ全てがスカムにならざるを得ない状況から始まっていると思う。ロックは白人と黒人がせめぎ会い葛藤し合う中で生まれたと言いうことができるだろう。それからキューバのサルサの足を上げずに踊る所作は強制労働の黒人たちの足に鎖がつけられていたことによる。能、狂言も、田楽や猿楽という田で踊られる豊作の喜びを表現した農民たちのものであった。
「それでも我々は踊り続ける。」死にかけている文化にはこういう切羽詰ったものを感じない。むしろ滅びを楽しんでいるかのような。まあ、それはそれで美しいのかもしれないけれど…。ある状況に追いやられたものだけが放つ原初の生命力。もし、死に掛けた文化を再生させうることができるとしたら、僕はこのスカム精神をおいて他にないと思う。それがカンフルとなり、文化が再生するというようなことはきっとありえる。それらを混沌の中に投げ入れ、解体することで再生は始まる。日本独自の文化が本来、渡来のものとの融合によって成し遂げられたように。