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言葉と文化
by radiodays_coma13
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そうして王様はいなくなった
 ひとつ大きな仕事の区切りがついた。今まで体験したことのないような忙しい毎日だった。今まで体験したことのないような重たい責任だった。自分をよくやったなと褒めてあげることがとしたらこれがそうだ。でも、本当によくクリアできたと思う。なぜなら、僕にはそのプロジェクトをクリアできるスキルなんてなかったからだ。それは単純にデザイン力だけでなく、企画力と経験値、知識とプログラム技術が必要だった。気持ちでクリアできないことはハッキリしていた。にも関わらず「ハイハイ、チョロイもんすよ」と安請け合いしてしまった。実は内心、「ハイって言っちゃったよ」と思っていた。断らなかったのは、ただ、昔からそれがしたかったからだ。

 やっと、ビジネスとプライベートの目的が結びついた。ついに穴が貫通した。一人ではできると思っていなかった。でも、そのためのスキルを分割し、ひとつづつ実習してきた。人から、やりたいことをしょっちゅう変えていると思われ、時々、自分でも、わからなくなることもあった。が、仕事とプライベートの両方から掘り続けた穴は、約20年目にしてやっと繋がった。繋がるものなのだ。スプーン一杯の土くれも毎日続けると相当な穴を掘れる。だけどこれは、入り口なのだ。ここから、資材を運び、その向こうに本当の建築をしなければ。まだまだ足りないスキルが多すぎる。

 しかし、毎日、ピンチの連続だった。なにせ、知らないことばかりなのだから。それでも、指揮をとらなきゃいけない。おそらく、そのことを先に告げていたとしたら仕事から降ろされたことだろう。ハハハ。でも、案外、いや、むしろピンチを自分に与えなければ、この最後の大きな壁は破ることができなかったのではないかと思う。できる範囲の仕事をやっている分には常に限界が見えている。例えば、日本にいながらにして英語を独学で学べたらいいなぁと思うのと同じだ。そんなの無理なのだ。今まで20回ほど挫折しているぞ。一番早いのは、無一文でニューヨークに放り出されれる事じゃないかと思う。きっと一ヶ月ほどで基本的な英語は身につくと踏んでいる。今まで何が足りなかったといえばピンチが足りなかった。

 最初のピンチは大阪から東京に来たことだった。「今月ピンチなんだ~」なんて気軽なピンチはピンチと言わない。そんなのウンチだ。僕はピンチの時、人生で初めて寡黙になった。それくらいピンチだった。いろんな面接に落ち、自分の創作もはかどらず、見つかった仕事が体に合わず、軍資金も尽き、半年。食うに困ってデパートで日雇いの肉体労働をしていた。トイレで仕事をサボって、こんなことなら、東京にくるんじゃなかったと嘆いた。このまま、便器に顔を突っ込んで溺れ死んでやろうかと考えた。そんな折、ある出版社の社長さんが僕の口から安いウイスキーの匂いがするのを悲しんでくれた。(どんなに貧乏でも僕はお酒にはうるさいのだ。)それから、上等なウイスキーをご馳走してくれた。帰り際に一編の詩が書かれた紙を渡してくれた。そこにはこの土地を売ってくれと言った白人に対したインディオの言葉で
どうしたらあなたに
この空を売ることができるのだろう
草や水のきらめきを
あなたはどうやって買えるというのか
私も草の一部なのです
とあった。公園のベンチで泣いた。人は詩に救われることもあるのだと思った。僕は僕の全体性を失ってはいけないと確信した。その直後からいろいろなことがうまく動き出した。

 一番、おそろしいのは、人が自分の全体性を失うことだと思う。ある一部分だけで自分の価値を判断してしまうこと。そして、その一部分に自信をなくし、気力を失ってゆく、それだけで自分が誰からも必要とされない役立たずだと思い込んでしまう。しかし、おそらく、社会と言うのは人を部分でしか判断しないものらしい。僕はやっぱりそれはいびつな社会だと思う。そのような個々が高度に専門化された社会の中で、偽装建築やJRの責任逃れのような問題を生み出すと思っている。自分はあくまでも歯車の一部で、責任は他にあると、誰もが感じている。じゃあ歯車の先には誰がいるのか。その先はまた最初の歯車に繋がっている。

 戦場に立たされた僕が、又は誰かがもし誰かを殺めたらそれは誰の責任なのか。僕はまず国の責任を問うだろう、国は相手の国を問い詰める。しかし、それは間違っている。国には実体なんてない。ましてや、僕の罪を背負ってはくれないだろう。では、それは政治家の責任だろうか?もちろん責任の一部分は彼らに背負わされるだろう。しかし、実はそれは国民一人一人の責任なのだ。国に、政治家にその判断を許させた、一人一人の責任なのだ。しかし、誰かが言う。「知らなかった」。それは怠惰でしかない。全体性を取り戻すにはひどく体力がいる。人は一部分であることに甘んじることになる。そこには怠惰と偏ったナルシズムが生まれる。怠惰と偏ったナルシズムは邪悪に繋がっている。僕の言っている邪悪はなによりも責任を転嫁することだ。誰かのせいにすること。

 全体性を失った自己は集団の中で心理学でいうところの自然発生的退行依存を発動させる。もちろん、現在のような専門化社会がなければ、文化はこんなにも進歩しなかった。しかし、専門化された社会の中で我々は小さな一個人を演じることを押し付けられる。自分の中の王や戦士や道化や僧侶を分断し、誰かにその役を演じさせる。それが高度に専門化されると我々が演じる役はさらに小さく区切られていく。その中で人は自己の欠落感を感じ、いわゆる「自分探し」なんて愚劣な行為に走るのではないか。

 一人の個人の中には本来、すべての役割が内包されていると思う。自分の中のアーティスト、自分の中の王様。ただ、我々がどこかの段階でそれをあきらめているだけではないか。社会は個人が全体性を取り戻さないよう、それを阻む。上手く服従のシステムを作り上げている。誰かが何かの一役を演じていないと彼を異物として扱う。哲学者ミシェル・フーコーはそれを監獄のシステムと比較した。いつか人は自己の中に自己監視システムを作り上げるというわけだ。そうして、王様はいなくなった…。

 怠惰とナルシズムを打ち破るのは、自分に範疇を超えた試練を与えることではないかと思う。それから「背水の陣」を敷くこと。中国の天才戦術家の韓信もそう言っているのだ。でも、僕にはたまたまあとがなかった。運がよかった。これに味を占めて、最近、また自分のスキルを超えた、大きな仕事を引き受けてしまった。ヤバイ。ほんとうにヤバイ。また、あとがない。どうしましょ。今度こそ大失敗をやらかすのではないか。でも、怠惰ナルちゃんになって過去の自慢話をするようになるよりかはマシだ。失敗ならいつもしてるしさ。大丈夫大丈夫。…いや大丈夫じゃないかも…。
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 今日の作品はちょうどそのデパートでバイトしていた頃に書かれたもの。アクトは最近したものですがね。『ゆるしてあげる』です。ついでに、以前アップしていた「月光」を再アップ。「RADIO」と 「オットーと其処へ」をまとめて音による作品で綴るRADIOコーナーを作りました。どうぞご利用ください。
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by radiodays_coma13 | 2006-01-22 03:33 | 考える
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