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言葉と文化
by radiodays_coma13
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イサムさんと真っ白なキャンバス
 先日、東京現代美術館で行われていた、イサム・ノグチの作品展に終了一日前滑り込んだ。情けないことに一番好きなアーティストと言ってはばからなかった、イサムさんの大規模な作品展が東京で行われていることを知らなかった。20代の頃は、イサムさんの作品で多くを語ったものです。梅干さえあればご飯に困らないように「空間における在り方」だの「自然との調和」だの、イサムさんさえあれば、小一時間は語ることだってできましたよ。あの頃はね…。

 まあ、そんなに人も来てないだろうと鷹をくくって、いざ、行ってみると、押せ押せの長蛇の列。チケット20分待ちの立て看板に入場制限。グッズは売り切れ必至で、飛ぶように売れている。いつから、イサムさんはそんなに人気者になったのかしらん。まるでディズニーランドじゃないですか。やっとのこさで、中に通されたのですが、上野に初めて来たパンダでも見るような騒ぎ。どこで、どんな宣伝をしたらこんなものに人が押し寄せるんだろう。

 不思議な気分だった。10年前の僕はイサムさんに何を観たのだろうか。今の僕にはまったくあの時の特別な気持ちを感じることができなかった。それはまさしくただ、そこにあるだけだった。なにももったいぶらず、なにも殊更に語らず。それを素晴らしいということもできるのだろう。こういうのを一言で言い表せるような気がする。なんだ、この感じ。ええと、そうだ、「鰯の頭も信心」だ。違うか。

 その日から、もう一ヶ月近く経っている。なにを今更な話題なのですが。ひとつ、その日からずっと、信心の鰯の小骨がずっと喉に引っかかっている。すぐにでも文章にしようと思ったのだけど、なんだか座りが悪い。イサムさんを崇拝していた自分と現在の自分とのギャップ?うーん、なんだか違う。それは、おそらく、僕がその日、体験した不思議な感覚に起因していると思われる。その出来事が、この文章を書くまでに起こったいくつかのシンクロニシティ(符号)を引き寄せることになる。

イサムさんと真っ白なキャンバス_c0045997_38364.jpg まず、不思議なことに、あれほどまでに好きだったイサムさんが、僕に何も語ろうとしなかった。それらの彫刻はすこし不機嫌なようにも見えた。それは長い付き合いの恋人との馴れ合いな関係に油断して起こる無言による不和に似ていた。始めは予感から、次第に膨らみ、違和感は確信に変わる。そして、今回の展覧会でもっとも大きなモニュメント「エナジー・ヴォイド」の前で、その感覚はハッキリとした体感になって現れた。

 僕は突然、空腹に襲われた。いや、それは「飢え」だった。精神的飢えなんていう抽象的なものではなくて、実質的な飢え。しかし、僕は今しがた、大量のトム・ヤム麺と豆大福と、バナナ一本とカスピヨーグルト少々を平らげてきている。だが、それはハッキリとした飢えだった。本質的な深い飢えは深さゆえに、それが肉体で起こっているのか精神で起こっているのか区別が難しくなる。その根深い混乱はやがて恐怖になる。僕は立っていられなくなり、この場で崩れて美術館の視線を独り占めにするかもしれないと真剣に悩んだ。そして、一刻もはやくこのメビウスの輪のような彫刻から離れるべきだと考えた。僕の空腹はまるで、この外に向かう空洞のように肥大化し、ついには自分すらを飲み込んでしまうように思えた。

 たったそれだけのこと。ただイサムさんの作品の前で僕はあまり体験したことのないような空腹を感じました。それだけ。美術館の帰り、古びた商店で普段買わないようなクリームたっぷりのロールケーキとパックの牛乳を購入し、道すがらそれをほおばった。しかし、僕には、それが単なる空腹ではなく、精神の深いところ、たとえば、肉体と精神の区別もつかなくなるような地点で起こったことのように思えた。ゆえに、肉体に影響を与えたのではないか。僕の中で起こったこと、それはもしかしたら「混乱」かもしれん。(不思議なもので、この文章を書いている今、深夜にもかかわらず、再び強烈な空腹が…)

 答えはふいにやって来た。日曜日、僕は友人の家に招かれて、忘年会に勤しんでいた。そこに、ここんところずっと気になっていた、僕の尊敬する詩人「田中庸介」さんが現れた。ここんところずっと気になっていた?その時点で僕は初めて、自分の中にある問題意識に気がついた。僕は確かに、イサムさんの出来事から今まで、ひとつの問題を追っていた。その中にキーワードとして田中さんが登場していたことに「気がついた」。まさに答えは向こうからやって来た。きっかけは3週間前…。

 …僕はここ半年ほど詩作をしていなかった。しかし、突然、詩を書くチャンスが向こうからやって来た。デザイン等、立ち上げから関わってきたワークショップの「Relese room」というイベントに投稿者として参加してみませんかというお誘い。そこで、取り急ぎ、新しい作品をつくることに。しかし、詩らしいものはなにも浮かばなかった。手元にあるのは、いつものようにカセットに録りためた言葉の断片。そこで、テープからイサム事件から以来の断片を拾い上げてみる。自分の自宅から職場まで、或いは山の手線の地名に関するコメントが多くを占めていた。それを繋ぐと、山手線を軸にした不思議な空洞が見えてきた。「エナジー・ヴォイド」第一の符合。

 そのテープには執拗なほど、僕の贔屓にしている和菓子屋へのコメントが繰り返されていた。「群林堂、豆大福、豆蒸す香り」や「紀の膳、あんずあんみつ、蜜の色」など。そこを空腹が支配していた。第二の符合。しかし、「詩」になりそうな言葉はなにもない。そこで、自宅から職場までの道順に、コメントをつないでみる。僕はそのやり方をするにあたって、ハッキリと意識的に「田中さん」の詩のスタイルを念頭に置いていた。第三の符合。

 そこで、詩の中に同伴者が現れる。謎の人物「オットー」。僕はオットーと一篇の詩を追って、自分のしごと場まで自転車で旅をする、というストーリー。オットーが誰なのか、正直、僕もわからない。一度、職場までの道すがら声をかけたオランダ人が「オットー」と名乗ったような名乗っていないような、という程度。詩は、異界について考察を始める。僕らは二人してそこへ行こうとしているのか、それとも二人の間に越えがたい異界があるのか。ただ、二人は平行線に、直接交わることなく歩を進める。ただ、地名だけが二人を結んでいる。そこで、思いは、他者イサム・ノグチへと繋がる。日本人とアメリカ人という異なる血の間にゆれ、葛藤し続けた作家イサム。第四の符合。

 そこで、詩は唐突に終わる。ついに詩は結ばれることなく。オットーと僕は二人別々の場所に向かう。それは確かに詩ではなかった。詩を書くための習作みたいなもの。またはその過程。でも、僕にはむしろそれで十分だった。確かに「なにか」に触れた。でも「なにか」とはなにか?僕はそれを知ると思われる人に質問してみたいと思った。チャンスはすぐにやってきた。

 先日、田中さんと話したことはこんなこと。「田中さんはまるで、詩を書こうとしていないみたいですね」「詩を書こうとすることで毒される言葉があると感じます」「詩を書こうと思って書かれた詩は僕も嫌いです」「詩の場所が分かっているなら、わざわざ、詩を書こうとする必要はない」と、会話を録音していたわけではないので、僕個人の主観で歪められているかもしれない。しかし、この短い会話は僕にはとても意味のあるものだった。すこし、出口に光が指し始めた。

イサムさんと真っ白なキャンバス_c0045997_38483.jpg田中さんの詩をここに引用するわけにはいかないが。(興味のある人は「山が見える日に、」が思潮社から出版されています。沢野ひとしさんの素敵なイラストが表紙に書いてあります。)その詩は少なくとも僕が知っている詩とは大きく異なっている。個人的な感想からいうと、そこには何かが意図的に大きく書かれていない。その書かれていないものの大きさゆえに、書かれていないものが空洞の形としてあぶりだされるように思われる。言葉は言葉のまま、歪められることなく生きたままそこに放りだされている。その言葉たちはなにも説明せず、自由に動き回る。すると意識は自然に言葉が自由に動いているその空間に移る。むしろ、作者の書こうとしたのは、書かれたものではなくて、書かれなかったその空間ではないか。再び空洞。第五の符合。

 イサム・ノグチの作品には通常のアーティストが作りえない空洞がある。彼は作らないないことで作ったのではないか。作らない作家というのはいない。しかし、作らないことを作ることでみせることができるとしたら…。それがイサムではないだろうか。彼は「地球が作品だ」と言った。それはつまりそういうことなのだ。作家は作らないことで地球も自分の作品の一部にしてしまった、といえば大げさだろうか。彼はからっぽを彫刻することができた。その作品は「在る」ことで、「ない」部分を意識させるような仕掛けになっているように思える。

 ここ数年、自分は作るのがいやになったのではないかと思うことがしばしばあった。でも、それを意識するのが怖かったので、考えないようにしてきた。今回の事件は実はそれが表立って身体感覚として現れたのだと思う。いくつかのシンクロで明らかになったのは、作るのがいやになったのではなくて、「作られたもの」がいやになった。作りたくなかったのではなくて、作る行為をおとしめたくなかったと言えば、少し響きがいい。どうやら、チャンネルが変わったみたい。最近、デザインにしろ、音楽にしろ、作られたもののその作られ加減が妙に鼻について興味がもてない。過剰なのだ。それは中身を伴った創作ではなく、記号的な意匠のようなものに過ぎないように思える。皆、器用に「~っぽさ」を身に纏っていると感じる。この一件以来、どうやら僕は一歩だけモノツクリというものの渦の中心に向かって進んだように感じる。そこはおそろしいくらい静かで何もない鏡のような空間だった。僕はここに来て良かったのか、いけないことなのかまだ分からないままでいる。

「オットーと其処へ」
イサムさんと真っ白なキャンバス_c0045997_385827.jpg

by radiodays_coma13 | 2005-12-24 03:13 | 感覚について
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