「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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あらしのよるに狼になりたい
 あらしのよるに、真っ暗な小屋であなたは擬人化された狼になって、それとは知らずに擬人化された山羊と出会い意気投合する、目が覚めて初めて相手が山羊だったことを知る。あなたならどうする?僕なら迷わずいただきます。骨までおいしくいただきます。
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 ちょうどそんな映画が巷ではどうやら話題になっているらしい。でもその狼は山羊を食べたりはしない(もったいない)。その代わりに彼はその山羊と友情を結び、仲間との諍いやさまざまな困難の道を選択する。「ともだちなのにおいしそう」なんて複雑な葛藤を抱えながら。

 これはきっと、男女の友情を取り扱った大人の映画ではないのかと思ってみたり。恋愛感情が芽生える前に友情が芽生え、「男女の友情なんて無理」なんとかいろんな周囲の反対を押しのけ、友情を育んでゆく「ともだちなのにおいしそう」なんてぼやきながらね。男は自分の性欲と戦い、女は自分の美味しそうな体の罪に気付かず。

 そうじゃないと僕はこの映画が好きになれそうにない。なんだかいやらしい勧善懲悪を感じますのよ。狼は山羊を食べるものだし、山羊は群れから離れては生きていけない。彼らはあえて不自然の道を選ぶ。それでも、それが正しい道と信じて。で、メリットは?ねえ、それで、この映画は子供に何が言いたいの?

 大人は子供に擬人化された動物の幻想を与える。「ほら、いい子にしてないとクマさんが遊んでくれないよ」。でもね、本当にクマさんと遊んだらケガしちゃうんだよ。というのは教えない。サンタクロースなんていないのにサンタがいると信じ込ませ、自分ではその嘘の真意を告げない。いつかは気がつくでしょうと他人任せ。「あなたまだ、サンタなんか信じてたの!?」なんじゃいそりゃ。

 奪う夢ならはじめから与えなければいいのだ。思うに擬人化された動物の幻想が欲しいのは子供じゃなくて大人じゃないか。擬人化された動物は心理的にいうと、人間の自然の部分、すなわち本能ということになる。大人は動物的な本能を飼いならし、抑えつけることで社会的生活をおくる。つまり、擬人化動物は本能を実体として扱い、理由付けるための象徴として現れる。

 大人にとって幼さや自分の中の子供が「クマ」として現れる。彼らは一見、遊び好きでかわいらしいけれど、それと背中合わせになった凶暴性や、無邪気さゆえの危険を孕んでいる。油断すると、深く傷付けられる。大人は彼らとの和解のイメージを必要とし、当の子供たちにもそれを押し付ける、といえば少し考えすぎなのだろうか。

 無論、「不自然なのが人間なのです」と答えらしいものを出されたらそれまでです。しかし、その人間らしい不自然さが行き過ぎたところで、真の人間悲劇が起こる。そして、徹底的に街から生な自然を排除し、脳化されたシステマティックな社会では、もはや、自分の中の自然と精神が同居できなくなっている。
 
 不思議なことに、深刻な現代的犯罪を犯した者は、自分を他者として扱うという共通点を持っている。「それは擬人化された狼がやったことなのだ」ということになるのだろう。しかし、こんな現代だからこそ、僕はもっと本能を開放してくれるような、はちゃめちゃな祭りのような物語がみたい。自分が狼になっちゃうような。狼になってかわいい山羊を食べまくるようなストーリー。矮小な善なんて微塵もないクリアな本能を謳歌するようなの。

 「あらしのよるに」の原作を読んでいると非常に疲れる。その場ではうなずいても、その後でゆり戻しのように自分の野生がうずいているのを感じる。無理やり野性の虎に芸を教えようとしているようなイメージ。ましてや、本能が強い子供にそんなことをやらせたら、なにか不穏なアクシデントが起こるような気がしてならない。

 大人は子供を侮っている。子供だましというが、その子供をだませない物語が多すぎる。なぜ、わざわざ、大人は子供のところまでおりていこうとするのかしらん。シビアな現実から逃げたいだけのファンタジーと、子供の心を形成するための現実よりもリアルな童話や神話などの物語を混同している気がしてならない。子供にはファンタジーは早すぎる。まず、現実や本能と和解させてあげたい。

 一人の作家が自分の創意で真の童話を書くのは至難の業に違いない。物語は自己主張や、経験、教えで見事に埋め尽くされてしまう。そこには子供の豊かな無意識が入り込む余地がない。語り継がれてきた童話には一人称が作りえない不思議な空洞がある。メッセージを超えたリアリティ。時にはそれは残酷さとして現れ、不条理として現れる。

 「浦島太郎」はなぜ、最後に老人にされてしまうのか?大人はおせっかいにもその謎にさもありなんな説明を加え物語を道徳的チープなものにしてしまう。答えは子供だけが知っている。「おむすびころりん」「花咲じいさん」は決して勧善懲悪の物語なんかではない。それは自然や本能との和解をテーマとしている。

 かわいらしさのオブラートの中に危険なメッセージを孕んでいる物語があることを大人は意識しなければならない。昔から語り継がれた童話と童話の皮をかぶった道徳話の見分けは大人がしないとね。その多くが大人が作った、子供にこうあって欲しいという希望を押し付けた、おせっかいで都合のいいシロモノだ。童話は害がないという人は多い。それはとんでもない間違いだ。童話ほど、子供の心にショックをあたえる劇物もないのだから。
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by radiodays_coma13 | 2005-11-26 21:13 | 言葉について
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