自転車通勤をしている。最初はダイエットのためにと思っていたのだけれど、今は楽しくて仕方ない。会社についてからも朝いちの仕事がはかどる。大変じゃないですかと言われますが、思ってるより大変です。でも、なにより素敵なのは電車通勤よりも早いこと。池袋から溜池山王まで電車を使った場合のドアtoドアの時間は55分。自転車通勤だと40分。さて、ここで不思議に思われるでしょう?思わない?じゃあ、思ってください。これを不思議がらないと話が始まりません。なんで自転車の方が早いのか?それは東京が小さいからです。5キロを自転車通勤可能範囲と設定した場合、例えば、新宿を中心点として半径5キロの円を描くと、なんとすっぽり山の手線が囲めてしまいます。東京は本当に小さいんです。ただ、車の渋滞や網の目のような地下鉄の乗り換えが私たちの頭の中に巨大都市東京の仮想地図を作り上げているだけなんです。すっかり騙されていました。
でね、もっと不思議なことがあるんです。自転車通勤の40分間、僕にはどうしても40分だとは思えないのです。少なく見積もっても1時間30分。多いときは2時間くらいに感じられるんです。なぜでしょう。これには当初、かなり首を傾げました。時計を見て、1時間の違いを感じると、まるで、タイムスリップしてしまったような気持ちになります。これをちょっと調べてみました。いいですか、つまり時間は相対的だってこと。びっくりしました?知ってた?じゃあ、知らなかった事にして聴いてください。大人になって一日が早く過ぎるというような感覚になったことありません?子供の頃はもっと一日が長かったって。それと同じ事らしいんです。子供の毎日には初めての事や未知の体験というイベントが多く、大人の毎日はわかりきっていて平坦、すると指標点の多い一日の方が長く感じられる。自転車通勤は発見も多く、知らない道を通る時などまるで大冒険です。会社についた頃には「いや~遊んだ遊んだ」という気分になっています。もし、それが可能だという人は是非とも自転車通勤をオススメします。
東京は小道や坂が多く、旧と新が混在していて、毎日、通勤していても飽きません。大冒険のことについてははもっときっちり書きたいのですが、それは今度ということにして、今日は「時間」の話。子供の頃、「永遠」という言葉を覚えたての時、その言葉がお気に入りで永遠について毎日考えました。死んだら「永遠」になるという話をきいて、それがどんなものか死んだフリをしたままじっとしてみた。時計の音がゆっくりになってゆくような感覚になり、もしかしたら、これが永遠の入り口なのかもしれないと思いました。「このまま死んだふりをしていたら、永遠に入ってゆくのかもしれん」。それから、休みの日に遊んでいて一日が永遠と思われることがありました。このまま、永遠に夜にならないんじゃないか。遊んでも遊んでも、日が暮れなくて、怖くなったりした。永遠というのは時間が止まることなんだろうと幼い僕は悟ったように思う。
永遠はとても恐ろしい。それは昔も今も変わらない思い。永遠に夕方のままだと晩御飯が食べられなくなる。永遠に10月のままだと、正月にいとこのよっちゃんに会えなくなる。そんな時は泣きたくなり、どうやったら時間を早く進められるか、止めてある自転車のペダルをグルグル回してみたり。でも、ふと思い当たる。時計ってなに?時間が相対的で個人的なものなら、時計はなにを刻んでいるの?そう、時計はかなりアテにならない。誰の時間なんよ?多分、仮にみんなの時間を決めてみたんだろうね。暦だって世界中にいろいろあるからね。でも、この時計、侮れない。時計のせいで僕は好きなときに食事できない。時計のせいで僕はゆっくり眠れない。みんなみんな時計のせいだ。時計があるから時間がお金になるし、時計があるからみんな急いでいる。世界中の時計を少しづつ狂わせたい欲求に駆られる。
時には、分も秒も刻まれた点なんてないのに、あのカチカチという音に追い立てられているような気がしてしまう。本当に可哀想なのは、人によって体内に流れている時間は違うのに、同じルールの時間上で働いているということ。これはかなりムゴイ。社会適応能力を疑われている人の中には、きっとこういう時間の違いに苦しんでいる人もおおいに違いない。まあ、僕はどちらかというとセッカチなので、いろんな事が人よりも早いのだけれど、それはそれで、困る事もある。とにかく一日が早い。そんな時、全てが自分時間で自由に動けば、いいのになぁと思う。嫌な仕事2秒、睡眠3秒、お散歩4時間、食事6時間、モノツクリ13時間59分と55秒。そんな風に感じれたらいいのになぁ。いいのになぁ。なんないかなぁ。
さて、今日の日記に関連してFLASH作品をお贈りします。
「INFINITY」です。永遠の1000分の1のサンプルです。コンセプトは時間を切り出して、活きのいいところを醤油に漬けて食べたら美味しいだろうな、とそういう作品ではありません。でも、時間を切り出してそれを目に見えるようにできないかなぁとちょっと思いました。最近、時間に関する、ある最新の本を読んだ。それによると時間に実体はないんだそうだ。それは純粋に人間の作り出した観念だと。頭の中で、世界を構成するためにつくりだした便利なページ分けみたいなもんなんだって。もしかしたら一生というのは一瞬に起こったことを、それが起こった後で、時間というページの上に配置したもんじゃないかって。ふーん、なんとなく嫌な話だけど、気付かなければいいや。