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言葉と文化
by radiodays_coma13
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物語の終わりはいつかやってくる
 もうすぐ、セックスアンドザシティを全て観終わる。これで、ながい寝不足の日々ともお別れだ。だが、しかし、最後のエピソードが怖くて見れない、何が怖いって、物語が終わるのが怖い。これで、もう彼女たちとお別れということが辛いのだ。いっその事、最後の話だけ、見ないで済ませようかとも思う。そうすることで、彼女たちとのストーリーは僕の中で生き続けたままになる。そう、彼女たち・と・の・ストーリー。これは、単なる物語ではなく、僕と、彼女たちとのお話なのだ。僕は5人目の親友となって彼女たちのバカ話に長い間、付き合ってきた。(なぜか僕も女友達なのだが…)

 短い期間で物語世界を突き進んできたが、ドラマの中では数年が過ぎた。(シーズン1では、まだ、ワールドトレードセンタービルが立っていた。)みんな歳をとった。そして、僕も歳をとった。いささかくたびれた。しかし、いや、だからこそ、彼女たちとお別れするのが辛い。正直、男性として彼女たちと付き合いたいとは思わない。僕は彼女たちの悪い部分も知りすぎた。いつも彼女たちにイライラさせられた。なにやってんだよ!と説教を食らわせたかった。しかし、それだけにリアルであった。そこには勧善懲悪が存在しなかった。あるのはニューヨークという厳しい現実。つまりニューヨークという大自然に住むメスライオンたちのたくましくもリアルな生活だけがあった。

 小さい頃、ドラマの最終回が嫌いで仕方なかった。映画の終わりも同様。いつも両手で顔を隠し、別れを回避した。お別れが上手く受け入れられなかった。「バイバイ」が苦手だった。バイバイが言えない子供は、おはようも、こんにちはも言えなかった。それは幼い頃に経験した別れの恐怖から来ているのだと思う。しかし、後で決まって夢の中で、回避した別れを再現させられる。夢の中で回避したはずの物語の登場人物たちが僕に手を振って、遠くに行ってしまう夢をよく見た。目が覚めると決まって、泣きはらしていた。

 物語には、根源的な部分で人を癒す効果があるのだと思う。「もし、その物語が生きているのなら」という場合の話だけれど。卑近な例として、僕は見なかった物語の最後を夢の中で補完して、自分にとって重要な物語に変えてしまった。それは「別れの物語」である。僕はそれを何度も繰り返し見ることで、「別れの意味」を体験することが出来た。人には誰も物語を紡ぎ出す能力と言うのが備わっていると僕は思っている。無数にある物語の中でも、ストーリーの型というのは大まかには数通りしかなく、それが世界各地で、変奏され奏でられているだけではないか。

 世界中には、ひとつの話が派生したのではないかと思われる酷似した物語が多く存在する。ギリシャ神話のオルフェウスの黄泉行きの話と、古事記のイザナギ、イザナミの黄泉比良坂の話の酷似。それの変奏と思われる「禁忌行為」の物語たち「鶴の恩返し」や「パンドラ」も同じような性質を持っている。なぜ、それらの物語が人類の歴史と共に語られ続けたのか。ここでその事を真剣に考えると長くなるが。はしょって答えると、物語が根源的で、人の生活に有用だという事ができる。

 その代表的な例としてアフリカ、マサイ族の語り部の語る物語を挙げることができる。それは老女の口によって語られる。老女の周りを少年少女たちが車座で取り囲む。話しは老女の口から語られる言葉の一説一説に合唱のように相槌を入れてながら進んでいく。神話の中ではサバンナの動物たちが登場人物となりいきいきと語られるのであるが、そこでは実に巧みに動物たちの性質が織り込まれている。その物語により少年少女たちはサバンナで動物と共に生きていく事、そして動物の掟をいつのまにか覚えている。彼らは神話を学ぶのではなく、神話を体験する。実にリズミカルに打ち込まれる合いの手が参加意識を助長している。マサイ族は実に見事に自然と共存することができる。彼らは物語を通じて、本能の中に自然を取り込むのだ。
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 意図的に紡がれた物語よりも、より土着的な物語の方が、我々に深い影響を与えることができる。そう考えると、新しい物語など存在しないのではないかと思う。それはただ、時代時代に変奏されているだけである。物語に著名があるというのは現代人だけの特別なエゴのように思う。物語はオリジナルな事に意味があるのではなく、繰り返される事に意義があると思われる。話を戻すが、喩えるなら、「セックスアンドザシティ」は、「サバンナ日記」みたいなものである。ある都市での女性たちの生態なのだ。ニューヨークで生きていくということはどういうことなのかのHOW TO。ひいては、現代の都市で生活していくということ。ドラマが終わっても彼女たちは生き続ける。ニューヨークというある意味グロテスクな街でそれは日々繰り返される。しかし、それはドラマを越えて、現実である。

 良い物語は必ず、現実と地続きになっている。そして、よいファンタジーはなによりもリアルである。さて、現実に目を向けてみると、どうも物語が不足しているように思えてならない。少年の暴力事件を聞く度に、これはTVやゲームの暴力描写が問題なのではなく、物語の不足が原因ではないかと思える。彼らは自分たちが現実で生きるべき物語というか規範をもっていない。つまり、どう生きてよいのかわからないのではないか。悲しいかな現代は社会全体で機能するようなダイナミックなドラマを失っている。物語は個人的なものに成り下がった。そして、そのことは彼らに物語を自分で作る事を強要する。しかし、社会は彼らに夢見ることは教えても物語ることは教えない。そして、体裁だけの安易な物語を手に取り、型どおりの夢をみる。「有名になりたい」「お金持ちになりたい」。彼らは将来を具体的に想像できないのではないか。ありきたりの現実を魅力的に感じる事ができるような日常をささえる物語をもっていないのではないか。

 もし、僕が幸運にも子供を持ち親になるときが来るとしたら、僕は彼らにどんな物語を用意してあげられるだろうか。それは大人たちの責任だ。もし、その時、どんなに悲惨な現実が待っていたとしても、僕は彼らに、物語る力だけは与えてあげたいと思う。悲惨な現実を生き抜くには物語の力が絶対に不可欠だと感じる。それはどんな夢見る力よりも、意味のある能力のように思える。ゲームやTVが一口に悪いとは言わない。しかし、子供から豊かな「なにもない時間」を取り上げる事が子供たちからどんな重要なものを奪っているか、われわれ大人たちは考えるべきじゃないかと思う。おせっかいなTVやゲームは彼らが自分たちで創造することをさせない。遊び道具のない時代。僕は自分でゲームを作った。いろんな遊びを考え出した。紙と鉛筆さえあれば、無限とも思える時間を楽しく過ごすことが出来た。でたらめに走らせた鉛筆の線に地図を見て、そこに物語を創造した。おかげでいつも退屈な少年は退屈をしない少年になった。物語はいつか終わる。しかし、創造力さえあれば、次の物語を語り継ぐことができるのだ。
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by radiodays_coma13 | 2005-07-07 17:03 | 考える
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