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言葉と文化
by radiodays_coma13
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ネット依存2-情報に酔う
前回の記事を書いたあとに
ネットは麻薬と同等の中毒性を持ちうるというニュースをみつけた。

やはりネットで人は多くのものを失っているというのは間違いないみたい。
では、「ネットで人はなにを失うのか?」

あまり見慣れない質問のような気がする。
依存を起こしえるということは
そこにはもちろん、何か得るものがあるということだろう。
それは「情報」なんていう安易な答えではないだろう。
ここで得るものは失うものと表裏一体のものであるに違いない。
実は得るものも失うものもあまり意識できていない
そして、あまり語られることのないもののような気がする。

今までもTV中毒というものが存在した。
TV中毒については性質上、メディアによって、隠され庇護された。
(TV文化の蔓延によって何が起こるか、このことは
バリー・サンダース著「本が死ぬとき暴力が生まれる」に詳しい)
しかし、おそらく現在、それはネット中毒に駆逐されつつあると感じている。
それはネットの方が得る快感が多いからだ。
それは、つまり失うものも多いということも意味する。
中毒の快感には「失ってゆくことの快感」もある。
そしてその結果もたらされる最も本質的で強烈な
「麻痺」という快感が訪れる。
「麻痺」こそが人を中毒に貶める。

ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」の中に
遊びにある5つの分類について説明されている。
その分類のひとつに眩暈を意味する「インクリス」がある。
分りやすい例はジェットコースターなどの遊びがこれに分類される。
そしてカイヨワは示唆していないが
パチンコやネットという遊びの先にある快感も
これに該当すると思われる。

単に情報を得る為のネットになぜ中毒になりえるのか
一見、遊びとは思えないようなネット閲覧も
麻痺という点からそこに自己破壊欲求的な
「眩暈」という種類の遊びの要素を強く含む。
その意味でネットは単に欲しい情報を得るためのものではなく
酒やドラッグのように「麻痺」を起こさせる「装置」でもあるという
認識も必要になってくるように思う。

ではネットで眩暈を起こさせる麻痺とは
何によってもたらされるのか。
強い中毒性を持つ、掲示板やソーシャルメディア
それらの発言をまとめたサイトなどにハマる理由。
自分の例でいうと
掲示板やまとめサイトなどでは
「こんな人もいるのか」であったり「自分に似ているな」だったり
ソーシャルメディアの場合は「なんとなくつながっている」という感覚。
つながっている安心感。
そして、誰かの発言をみて自分だけではないと思う安心感。
この「安心感」こそがドラッグなのだと思う。

掲示板の例で言えば
そこではどんな崇高な言葉も茶化され、
どんな感情や思想も正当化される。
例えば自分の最悪な状態を上回る最悪な状態があり
それを見ることで、ちょっとした安心を得られる。
そこで抱くネガティブな感情は肯定され
本来、その状況に対する反発として起こりえる気力も削がれてしまう。
削がれるというよりも飲み込まれてしまう。
そこでは死をもカジュアルに取り扱われ、深みをなくす。
気がつくと、全ての感情が飲み込まれ、平面化され
ただ、その中に漂っている自分に気がつく。
例えば、引きこもっている自分がそれでもいいような錯覚に陥るのだ。
これを麻痺と呼ばずになんと呼ぶだろう。

自分自身、一年間自分のアパートに閉じこもったことがあるが
当時はネットもなかったので、その中でいろいろなことを考え
行動し、ついにはその殻を破って出てきた。
TVもなかったのでなにしろ退屈だったからだ。
殻を破ったというより、爆発したのだ。
もし、そこにネットがあれば、殻から出て来れたか疑問に思う。
少なくとも一年ではすまなかっただろう。

TVは情報を垂れ流し、閲覧者はそれをただ、受動的に受け取るほか無い。
TVの脅威は身体性を奪うことにあるが
ネットは一見、自分で情報を取捨選択しているようだが
その実、人はそこを漂っているだけなのだ。
一見、能動的であるという点がTVよりも恐ろしい。
自分の意思で、ズルズルと麻痺を選択し続けている。
行動力はそこで費やされてしまう。
本当に求めている情報を得ているわけではないのだ。
その点に意識的にならなければいずれは情報に酩酊してしまうだろう。

本来そこに、自分の思考やら、
アイデアが醸成し発現する精神の空洞の部分に
自分の意識ではなく、ネットの情報が雪崩れ込んでくる。
その状態では、自分の考えが本当に、自分のものなのか
自分の欲求が本当に自分のものなのかが疑わしくなってくる。
現代人はいちいちそのことを自問しなければならなくなった。

創造することにおいて豊かな「退屈」という白紙の土壌が
情報によって汚染されている。
いつしか人は余白を恐れるようになる。
常に、自分の時間をなにかとつながっている状態にしたがる。
短い余暇でさえ、「スキマ時間」の名の下にコンテンツを流し込む。
時間の余白をなくすことで、人は自分と対峙しなくてよくなる。
麻痺することができるのだ。
「自失」そして、人がシラフであることはなくなった。

都合のいいことに、自己啓発や安易な脳科学が
自分自身もデザインできますというようなことを声高に宣言している。
自分という無限の闇にも強烈な光を当てようとする。
「皆さん、怖くないですよ」といわんばかりだ。

世間ではなんとなくネットワーク的な生活が推奨されている。
センシティブな都会人はブログをたしなみ、
日々ツイッターにいそしむものです。
それが教養というものですというように思い込んでいる。
そして、自分もその一人であろうとする。
そのことで、なんとなく社会とつながった気になっている。
社会という全体の一部になれたような充実感。
どこからやってくるのか、不思議な安心感を得られる。
しかし、それは本質の安心ではない。
そこではただ、価値の平面化が行われ
全ての聖域が白日のもとに曝され、損なわれてしまう。

しかし、あえて、言いたい。
そこは暗くて怖い。なにがでるかわからない。
安い安心なんか買いたくはない。
自分自身の中の空洞を死守せよ。
…と。
一体、どのようにしてネットと向き合っていけばよいのか。
人が、自分が、この新しい感覚としての外部デバイスを
一日も早く、自分のものにするために
それを利用することになる子供たちのためにも
考えておくべきことはまだまだ多いと思う。
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by radiodays_coma13 | 2011-08-25 07:34 | 子供向けコンテンツを作ろう
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