「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp

言葉と文化
by radiodays_coma13
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歌舞伎を観て考えた子供向けコンテンツの現在
新橋演舞場で上演されている6月歌舞伎に
会社の社長と二人で観に行った。

帰りの電車で、いろいろと舞台について話した。
「果たしてこれが現代人にとって本当に面白いのか?」
例えば、歌舞伎と映画を比べて、どちらを面白いと感じるか?
社長がそう言った。

そう言われると確かに、答えは明確だ。
歌舞伎の客層は若くは無かった。
それが答えなのかもしれない。
60歳の誕生日の朝に目が覚めると突然、歌舞伎がむしょうに面白くなるなんてことは
ちょっと考えられない。
つまり、だんだんと理解できなくなってきているのじゃないか。

舞台の仕事をしていたので
やはり舞台を色眼鏡でみているのかもしれない。
歌舞伎をそれなりに面白いと感じている。
しかし、それはあくまでも当時の文化に思いを馳せて
感覚に下駄を履かせていることは否めない。

いや!ただ、面白いだけではない、なにかがある!
それを芸術というのだ!
そしてその400年もの歴史の深みを理解できるなかなかにカッコイイ自分!
なんて、自分に酔いしれているところもあるんだろうね。

今まで多くのつまんない舞台を我慢してきた。
なにか得られるものがあるんではないか、
面白いだけではダメだとか、
これは心のお薬なのだとかね。

でも、今は作り手としてこれは思っちゃイケナイんだなぁと
考えるようになった。
命題「ひたすら面白いものをつくること」

本当に歌舞伎が観られていた時代において
舞台の物語はもっと親近感のあるものだっただろうし
言葉も、当時の人からは難解ではなかっただろう。
もっと俗っぽい存在だったに違いない。

今回観た舞台も5時間近くの長さがあったが
当時はもっと長かったらしい
しかし、それは当時の時間性の中での1日だったのだ。
現代人の一日とは時間の流れ方が異なる。

そういう物語の話題や当時の文化の違いを説明なしで
理解し味わうのは不可能だ。

舞台が回転したり、雪が降ったりというのは
当時の観客にとってはスペクタクルであったに違いない。
舞台で斬った張ったが行われ、血まみれの人がのたうつ。
観客はきっとド肝を抜かれたに違いない。

これは映画も変わりない。技術が進歩して、それが
CGや3Dに置き換わったに過ぎない。

大きな疑問。果たして歌舞伎を当時とできるだけそのままの
姿で現代に持ってくるのに意味があるのだろうか?

それはきっとあるだろう。
しかし、もっとできることはないだろうか。
社長が呈した疑問はすごくわかりやすかった。
「それでは映画となにが違うのか?」
劇場の様子は普通の映画館とそう大きく変わりなかった。
そして、舞台は花道こそあるものの
スクリーンのあるはずの場所で行われる。
お芝居はすっぽりと舞台の中に鎮座している。
生身の人間がそこで演じるという絶対的な価値を
より引き出すための仕掛けは花道だけではないはずだ。

「大江戸温泉物語」に行った事がある。
あとで考えるとなんてことないのだが、
その時は、夢見心地で楽しんだ記憶がある。
他の大規模温泉となにが違うのかと言われると
ひとつひとつ取ると大差はないのだが全体として
ひとつの世界を作り上げている。
客は全員、まず浴衣に着替えて、その仮想の街を満喫する。
そこで興じる金魚すくいは
普通の金魚すくいとはまったく異質なものだった。
舞台でけん玉ショーをしていたが、それに異様にワクワクした。
ここで歌舞伎をやればさぞ面白かろうと思った。

現代で成功しているエンターテイメントの傾向として
テーマパーク化がある。
ディズニーしかり、多くの施設、そして社会そのものが
テーマパーク化してきているようにも感じられる。

ならば、歌舞伎も、本来の通俗芝居として
それらを取り入れるもの間違ってはいないはずだ。
演舞場に入る前に当時の町民の服に着替え
ゴザが敷かれてある舞台に座る。
ディズニーやUSJのように炎や水の演出を取り入れ、
画面から飛び出すスペクタクルを演出する。
舞台の外では団子や蕎麦の屋台がある。

猿之助のスーパー歌舞伎や、
勘三郎のコクーン歌舞伎はそういう試みのひとつだと思う。
そしてそれなりに楽しめるものだったし、その試みは
本当の泥を使う等、演舞場での歌舞伎にも取り入れられてはいる。
しかし、やはり歌舞伎は歌舞伎であることはやめられない。
それを失った時点で自らのレーゾンディティールを失うのかもしれない。
歌舞伎と旅芝居はなにが違うのか、歌舞伎と吉本新喜劇とはなにが違うのか。
それを他と区別するものは一点、それが「歌舞伎」であることに他ならない。

純粋な観客なら、そんなことは考えないで済むのかもしれない。
しかし、作り手として、それを職業としてやっていくには
やはり、今、自分の周りのいる同時代の人々に金をもらわなければならない。
それが本当に、純粋に楽しく、課金に耐えうるのか考えないでいることはできない。
「文化」だ「心の薬」だというのは批評家や後の時代の人が考えることだ。

「子供向けのコンテンツが作りたい」
という目標もやはり同じことが言えるのだろう。
配信するからには、子供が他のコンテンツよりも
面白いと思ってもらえるものでない限りはありえない。
ただ、ためになるから親が子にやらせようというコンテンツで成功したものはない。
子供が自発的にやりたがならない限り、成立しない。
それは現代のテクノロジー、現代のリアルからでないと立ち上がってこない。
テレビとスマートフォンではできるコンテンツは違う。
そこで使われる言葉のベクトルも時間性も異なる。

「おそらくスマホを使ったコンテンツを試験的に作ると思う」
子供向けコンテンツの製作について助言を求めたある児童教育の専門家に
「なぜ、よりによって電子機器を使わねばならないのか?」批判をもらった。
せめて子供の時くらいは、シンプルな自然の玩具で遊ばせたい。
ごもっともだ!わたしもそう思う。それが幸せかもしれない。
そういう社会の中だけで生きれたらという注釈付きだけれど。
どちらにせよいつかは情報の海に放り込まれるのだ。
その後のギャップに苦しむよりも
情報の海の波打ち際で、安全なトレーニングをしなければいけないと考える。
玩具が大人への模倣やトレーニングという面があるように
情報を玩具化したものが現代の子供には、必要ではないかと考えている。
子供は敏感である。大人よりもそれを楽しむ才がある。
今の子供に情報の海を見ないようにしろというのは不可能だ。
ギリギリまで目を塞いでおぼれてしまうよりも
ならば誰かが、責任をもって、安全な玩具にしてあげなければならないだろう。
木の玩具は他の誰かが作ってくれる。
僕にはただ、それができないだけの話だ。

課題だらけである。
今の子供たちは何をもっとも楽しむのか。
本当は何をして遊びたいのか。
もっと子供たちと一緒に遊んで考えようと思う。
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by radiodays_coma13 | 2011-06-27 02:28 | 子供向けコンテンツを作ろう
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