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言葉と文化
by radiodays_coma13
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最後の交響曲 アラン・ペッテション
音楽熱が再発し
昔のCDを引きづり出す毎日。

今からする知ったような話しは
ちょっとした一音楽ファンが
ちょっとここらで通ぶったって
バチは当たらないでしょうという具合の
ちょっと知ったような話しです。

21世紀になってもうねぇ
クラシック音楽は終わっちゃたわねぇ。
ジョン・ケージが「4分33秒」という曲で
沈黙を奏でてからクラシックは終焉しただなんて
言われているらしいけど
もっと以前
あたしにとっては「ショスタコービッチ」を持って
クラシックは終焉したわけ。
というのもあたくしにとって
クラシック=シンフォニー(交響曲)であって
ショスタコービッチは最後の交響曲作曲家なのね。

もちろんそれ以後にも交響曲はありましたよ。
でも、正確な意味でのオーケストレーションではなく
すでに脱構築が始まっており、本来の意味を失っていた。
そういえると思いますのよ。

でもねぇ、いたんですよ。
もっと後、最後の交響曲をかいた人が。
それがね、今日の主役のスウェーデンの作曲家
アラン・ペッテション(1911~1980)
なんですの。
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あまり聴きなれない作曲家の類ではないかと思います。
日本ではまだ、そんなに多くのCDを手に入れられるわけではないようです。

20年ほど前にも熱心にクラシックを聴いていた時期がある。
それは加熱し、古楽に始まり、時系列で超現代な音楽まで食指は及んだ。
手に入らないものは輸入CDで手にいれました。
今では名前も残っていないような作曲家のCDもあった。
その輸入盤の中にペッテションがいた。
あまり印象に残っていなかったのだけど
当時は気に入っていたのか数枚のCDを手に入れていた。

しかし、最近になって何気なく聴いたペッテションに衝撃を受けました。
久しぶりに音楽で雷に打たれたような気持ちがした。
あわてて全集を輸入版で購入。
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こんなにも独自の美しさをもった音楽はないと思う。
1980年代まで生きたので、ほぼ現代にこのような音楽を
描き得たのは奇跡にも値する。

その音楽はひとくちに言うと
「絶望の音楽」である。
絶望と言っても生半可なものではない。
怨念や殺意や絶望が渦巻き
すすり泣きや怒声、叫び、嘆きが音になって
延々と間断なく1時間続くようなシロモノです。

クラシックに慣れていない人には暗い暗い辛い音楽
聴きなれた人、聴こうという意欲を見せる人にとっては
体力を奪われる苦行でしかないような音楽。
そんな風に言われることのある音楽です。

その音楽は灼熱の苦痛と凍りつくような人間の孤独に満たされています。
しかし、その合間にほんのかすかに吹く、すずやかな希望の匂いというか
祈りのような美しい旋律には涙せずにはおれません。
そして、その祈りを頼りに音楽と一緒にその灼熱と絶対零度の中に
ダイブし苦痛を突き抜ける時、全ての音が美へと昇華してゆく
そんな感覚に陥るのです。

では、なぜ、ペッテションはそのような怨念に満ち溢れた苦痛の音楽
特に交響曲を破棄や未完を合わせて17曲も描いたのでしょう。
交響曲を17曲は作曲家として異例の多さです。
交響曲9曲は人間の壁と言われています。
それほど精神や体力を必要としたものなのです。
それを17曲!

彼は北欧の地に生まれ、極度の貧困の中、飲んだくれの父に虐待を受けつづけ
母は暴力に無抵抗を貫き宗教に逃避
しかし、そんな母が時折歌う賛美歌の美しさが
ペッテションの音楽の基盤を作ったといわれています。
彼はなぜか唐突に音楽を志し、父の反対を押し切り
苦学のすえ、ヴィオラ奏者になるのですが
やっと掴んだ、オーケストラ奏者の座も突然の病に襲われ
継続不可能となります。そこからは本格的に作曲家を目指すのですが
絶望的な痛みと精神的苦痛に苛まれ、自らペンを持つことすらできなくなります。
しかし、執念で曲を書き続け、やっと世間から認められ始めた頃には
癌や様々な病が彼を襲い更なる苦痛を強いられる。
とにかく苦痛にまみれた一生だったわけです。

しかし、そんな人でも幸せを志向することができるはずなのですが
彼の凄みは一切の幸せを自ら否定したということです。
彼のメッセージは
「人間は救われてはいけない、人間は常に戦わなくてはならない」であり
彼の人生や、メッセージは音を通じてひしひし、びしびし、ばりばり伝わってきます。

ともかくどんなにすごいかというのを
そのなかのひとつを例にとって形容してみます。

呪詛の言葉で幕開け、七転八倒痛みでのたうちまわり、怒り狂い
息切れし、それでも、永遠に続くのではないかと不安になるような
呪詛の言葉を延々と主題として履き続ける。
声をからし、涙も枯れ果てると、それはすすり泣きに変り
ため息と嘆き、やがて疲れてうとうと眠ろうとする。
が、突然、激しい痛みが再燃する。痛みをおさえつけようと
何者かへの殺意でもって激しくなにかに当たる。
あたり散らかす。とにかくあたり散らかす。
そこに、痛みに屈服する不安、孤独への不安が暗雲のように垂れ込める。
しかし、唐突に、厚い雲間から一条の光りが差す。
照らし出された場に今にも消え入りそうなほのかな希望が宿る。
ああ、このまま終わってくれればいいのに!と
思うのも束の間、全てをオジャンにするような発作的な怒りで
手に入れた希望をビリビリに破りすててしまう。
そして、その暗雲の中、深遠な孤独に震える。とにかく寒い。
風に鞭打ちうたれ皮膚が破れる。
傷む傷口のまま、よせばいいのに今度は凍りつく海にダイブ。
更なる闇の深みへ降りてゆく、闇の正体へ果敢に戦いを挑む。
しかし、あえなくひねりつぶされ、絞りだすような呪詛の主旋律を叫ぶ。
力尽きたような嘆き節が続き、もう何も残っていないと思っていたのに
なぜか、いきなり希望の音楽!やったついに救いがやってきたのか!
と思いきや、彼は不適な笑いを浮かべながら地獄の業火の中に再び飛び込んでいく
「俺はしなんぞー!死んでも死んでやるものかっ!
奏でてやる!戦い続けてやる!みていろよ!」
絶叫し、そして終焉。

とこんな感じです。
どのシンフォニーも同じような構成です。

彼はいつも音楽の中で言っています。
「痛みから目をそらすな!」それも聴衆の両方の頬を掴み
顔を3cmのところに近づけて言うのです。
とにかくマッチョです。

しかし、決してその音楽は不快ではありません。
いわゆる現代音楽と一線を画します。
不協和音ですら、美しいです。

苦痛を突き抜けた先に彼は何があるのかを知っていたのかもしれません。
それは彼の音楽から察するに救いでないことは確かなようですが
生きることの意味なのかもしれません。
その先にあるものは確かに美しく、輝いていることは確かです。
そこで彼は、人間賛歌を歌っていたのかもしれません。
彼の怒りや恨みの先には、なぜか愛を感じてしまうのです。
それは日本の宗教観において、たたりが転じて神になりえるような
境地なのかもしれません。

絶望に耐え抜く強さを求め
それに耐えたものには、何ものにも代えがたい体験を与えてくれるでしょう。
そして、それは確実に生きる力を与えてくれる体験に違いありません。
ただ、時々、その深みに到達する寸前で、焼き尽くされる時があります。
体力と精神力を奪われ、疲弊し、落ち込みます。
ブルーになります。
そんな時は「ああ、やっちゃったぁ」とCDを途中で止めるしかないのです。

でも、比較的、最初から落ち込んでいるときは深みに到達しやすいようです。

とにかく興味の出た人は聴いてみてください。
でも、多くの人が、聴かなきゃよかった音楽と言っているくらいですから
要注意です。
でも、一度、その音楽を聴いてしまえば、聴かなかった自分には
もう戻れなくなります。
僕は20年前に聴いて、そしてまたペッテションに戻ってきました。
まさに20年殺し。
ペッテションの音楽はそんな音楽です。

(ニコニコ動画で「ペッテション」で検索すると比較的多くアップされているようです)
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by radiodays_coma13 | 2009-11-14 22:37 | 音楽について
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